柳一家はいつも幸福に満たされていた、光一の心はいつも平安であった、かれの一番好きなのは朝である。かれは朝に目をさますと
「お兄さんは寝坊ね」
妹の
茶の間にはさわやかな朝日が一ぱいに射しこむ。飯びつやなべからあがる湯気はむつまじげに日光と遊んでいる、父はにこにこしてふたりの子を見くらべる、母は三人のお給仕にいそがしく自分で食べるひまもなかった。かの女は光一と文子の食力を計算する事を決してわすれなかった、今日はいつもより多く食べたといっては喜び少なく食べたといっては病気ではないかと心配する。
「おまえ後からおいで」
「兄さんは男だから後になさいよ」
この争いは絶ゆることがない、二、三年前までは一緒に肩を並べていったものだが、このごろではふたり揃うてゆくのはきまりが悪い。特に光一に取っては
「きみの妹は綺麗だね」
こう友達にいわれてからかれはたとえ
だがかれは妹が好きであった、妹はすらりと姿勢がよく、おさげの
そのくせふたりはおりおり
「おい、おまえの
「いいわ」
「後ろから見るとほっぺたが耳のわきにつきでてるぞ」
「いいわ」
「ぼくが八百屋の前を通ったらおまえの
「いいわ、兄さんだって鼻の先にニキビがあるじゃないの?」
「これはじきなおるよ」
「口のはたに
「食うに困らない
喧嘩のおわりはいつも光一が母に
ある日文子は雑誌を買おうと思ってがま口を懐にして外へでた、雑誌屋の店頭に男女の学生が群れていた。この店は二年前までは
学生の中には毎日決まって雑誌を読みにくるのがある、それが一冊でも買うのかと思うと一冊も買わない、二時間も立って一とおり読みおわると翌日また別なのを読みにくる、こういうのはただ読んでゆくだけだから罪が軽いが、ひどいのになると五、六人団結してあれやこれやとひっくりかえしてその混雑にまぎれてふところへかきこむ。
「おまえがぼやぼやしてるからだよ」ぴしゃりッ。
小僧だって朝から晩までどろぼうのはり番をするということはなかなかつらい、かれは十七になるが、十三か十四ぐらいにしきゃ見えない、毎日毎日頭をなぐられるから上の方へ伸びないのだとかれ自ら信じている。
「これだけでいくらですか」
おかみさんはこれが
「五円六十銭です」とかの女はいった。
「そう?」
文子はがま口をあけて銀貨を
「あら、たりないわ」
文子は顔をまっかにしていった、かの女は周囲に立っている男女学生がみな自分の方を見てるような気がした。おかみさんは
家へ帰ってお母さんにお
「いくらお持ちなの?」とおかみさんがいった。
「四十銭足りないのよ」
「へえ」
おかみさんはくるりと横を向いた。とこのときひとりの女学生が文子に声をかけた。
「文子さん、私だしてあげますわ」
文子はその人を見た、それはかの女が小学校時代の上級生で染物屋の新ちゃんというのである、新ちゃんは桃色の洋服を着て同じ色の帽子をかぶり、きらきらした
「ありがとう……でもいいわ」と文子はいった。
「いいのよ、四十銭ぽちなんでもないわ」
「そう? それじゃ私すぐお返しするわ」
「あらいいわ」
文子は新ちゃんに四十銭を借りて本と雑誌を紙に包んでもらった。
「ではねえ新ちゃん、私の家へちょっとよってくださらない? お金をお返しするから」と文子はもう一度いった。
「いやねえ、あなたは
文子は水臭いという意味がわからなかった。
「でもお借りしたんだから」
「一緒に散歩しましょう」と新ちゃんがいった、ふたりは大通りからはすの横町に出た、そこの材木屋の材木の上に大勢の子供が戦争ごっこをしていた、それから少しはなれて
「いやだ」とひとりがいう。
「おれもいやだ」と他のひとりがいう。
「おれにまかせろ」と背の高いひとりがいう、それはろばというあだ名のある青年であった。かれらは新ちゃんと文子を見るやいなやだまった。
「なにをしてるの?」と新ちゃんがいった。
「ちょっとおいで」とひとりがいった。新ちゃんは三人のまどいにはいった。四人は顔をつきあわしてなにか語った。文子はろばをはじめとして他のふたりの少年とはあまり親しくなかったのでなんとなき不安を感じながら立っていた。
「いきましょう」と新ちゃんは文子に近づいていった。
「私の家へいってくださる?」
「ああおよりするわ、でもなにか食べてからにしましょうよ」
「なにを食べるの?」
「私ね、おしるこを食べたいわ、それともチャンにしましょうか」
「チャンてなあに」
「支那料理よ」
「私食べたことはないわ」
「おいしいわ」
文子は学校で友達から支那料理のおいしいことを聞いていた。どんなものか食べてみたいと母にいったとき、母はそんなものはいけませんと
「だが食べてみたい」
好奇心が動いた。
「でも私お金が……」
「私持ってるからいいわ」
「いけない」と文子は
「私
「叱られる?」
新ちゃんはにやにやとわらったがやがてまたいった。
「じゃよしましょうね」
ふたりは活動写真館の前へ出た、日曜のこととて館前は楽隊の音にぎやかに五色の旗がひるがえっている。新ちゃんは立ちどまった。
「はいってみましょうか、私
「ああちょっとだけね」
新ちゃんと文子は暗がりを
「面白い?」と新ちゃんはいくどもきいた。
「面白いわ」
ぱっと場内が明るくなるといつのまにかさっきの三人が後ろにきていた。
「出ようよ」とひとりがいう。
「うむ」
新ちゃんと文子も二階を降りた。
「こっちが近い」
ひとりがいった、一同は路地口からどぶいたをわたった、そうして、とある
「私帰るわ」と文子はおどろいていった。
「いいじゃないの? ワンタンを一つ食べていきましょう」と新ちゃんがいった。
「でも……私」
「お金のことを気にしてるんでしょう、かまわないわ、この人達はねいま材木屋の前でお金を拾ったんですとさ、いくらおごらしてもかまやしない、ねえろば」
「ろばろばというなよ」とろばがいった。
新ちゃんはだまってがま口をろばになげつけた。銀貨がざらざらとこぼれた。
「いくら使ったえ」と他のひとりがいった。
「二人前の
「拾ったお金で活動を見たの?」と文子は
「帰らして頂戴」と文子はなき声になった。
「帰ってもいいよ、どうせおれ達の仲間になったんだから、帰りたければ帰ってもいい」
「私が仲間?」
「おまえ達はだまっておいで」と新ちゃんは男共を制した、そうして文子にこうささやいた。
「こわいことはないのよ、あの人等はばかなんだから……でも文子さん、あなたも同じがま口の金を使ったんだからお友達におなりなさいね、そうしないとあの人等はお
文子は呼吸もできなかった、実際すでに不正な銭のご
「やあ」
文子は顔をあげた、それは兄の友の手塚であった。かれはロシアの百姓が着るというルパシカに大きな縁のあるビロードの帽子をかぶっていた。
「どうしたの? 文子さん」とかれはいった。文子は手塚の腕にすがりついてなきだした。
「お前達はどうかしたんじゃないか」と手塚はなじるように一同に向かっていった。
「なにもしないよ」とろばがいった。
「悪いことを教えると承知せんぞ」
手塚の語気はますます
「いやにいばるのね」と新ちゃんがいった。
「だまってろ」と手塚はどなりつけて文子の涙をハンケチで
「心配しなくてもいいよ、さあ僕と
手塚につれられて文子は外へ出た、文子は歩きながら
「わかってるよ」と手塚はいかにも侠客のような顔をしていった。
「あいつらはね、あなたをわなにかけて銭をゆすろうて計略なんだ、ぼくが引きうけていいようにするから安心していらっしゃい」
「でも私新ちゃんに四十銭と活動のお
「いいよ、それも僕が引きうけたから」
手塚は文子の家近くまで送ってきた。かれはわかれぎわにこういった。
「兄さんに秘密だよ」
「ええ」
読者諸君! 世に不良少年少女というものがある、かれらとても決して生来の悪人ではないのだ、だがそれらの多くは意志が薄弱で忍耐力がなく、健全な道徳観念がないところからわがままになり野卑になり学校が嫌いになり、そのかわりに娯楽を求める念が盛んになる、上品な娯楽は人間の
読者諸君! 諸君は決してゆだんをしてはならぬ、諸君の前にいろいろな
災難や過失は
読者諸君! 少年時代に一番つつしまねばならぬのは娯楽である。娯楽にはいろいろある、目の娯楽、耳の娯楽、口の娯楽、それらよりももっとも有益なのは心の娯楽である。
活動写真、飲食店、諸君がいつも
読者諸君! 孝子は
さて文子はどうなったか、文子の兄光一はそのころ野球にいそがしかった、かれの学業はますます進み同時に野球の技術がすばらしいものになった。かれの身の
「私より首一つだけ大きくなった、この子はしようがないね、去年の着物がみんな間にあわなくなった」
こうこぼしながらも心中の喜びは
「おまえどうかしたのかえ」と母がきく。
「なんでもないわ」と文子はわらった。だが文子は決してなんでもなくはなかったのである。かの女は例の一件があってからその秘密を手塚ににぎられてしまった。もしかの女が家へ帰って母に打ちあけたなら、こんな苦しみはせずにすんだのである。
手塚は
「坊っちゃまはお
「男ぶりがいいから役者におなんなさるといい」
この声々を聞くと手塚はすこぶる得意であった、それと同時に母は鼻の下を長くして喜んだ、かれの母はすべて芸事が好きで
父は患者をことわっておおかみのような声で
それやこれやで家の中ばかりの芝居は面白くなくなった、そこで手塚は同志を
手塚は毎日そこへ出張して芝居の稽古をした、かれは監督であり座長であった、ろばは
「いやよ、私いやよ」と文子は顔をまっかにして
「いやならいいよ、ぼくはあなたのお母さんにたのんでくる、これこれのわけで文子さんはぼくらの仲間になったのだからってね」
文子は
「じゃ私やるわ」
毎日集まるたびに一同は何か食べることにきまっていた、うなぎやてんぷら、支那料理、文子はいろいろなものをご馳走になった、それらの費用は
「文子さん、どうにかならないか」
毎日人のご馳走になってすましているわけにゆかない、文子は母に貰った
文子の母はいままでとうってかわった文子の態度に気がついた。かの女は文子をきびしくいましめようと思った、だがその原因をきわめずにいたずらにさわぎを大きくしてはなんの役にも立たぬ、これにはなにか力強い
こう思うものの悲しいかなかの女はそれを探偵すべき手がかりがないのであった、父にいえばどんなに
わが子を叱りたくはないが、叱らねば救うことはできない、母は思案に暮れた。かの女はとうとう光一の
「光一、おまえに相談があるんだが……」
「なんですか、なにかうまいものでもぼくにくれるの?」と光一は微笑していった。
「それどころじゃないよ、文子のようすがこのごろなんだか変だとおまえは思わない?」
「変ですな」
「そうだろう」
「ほっぺたがますますふくれる」
「そんなことじゃない、学校の帰りが大変におそい」
「居残りの稽古があるんです」
「でもね、お金使いがあらいよ」
「本を買うんです、いまが一番本を買いたい年なんです、ぼくにも少しください」
「おまえのことをいってるんじゃないよ、本当に文子が本を買うためにお金がいるんだろうか」
「そうです」
「でも毎晩なんだか手紙のようなものを書いてるよ」
「作文の稽古ですよ、あいつなかなか文章がうまいんです」
「このあいだ男の子と歩いているのをお松が見たそうだよ」
「男の子とだって歩きますよ、ぼくも女の子と道づれになることがある、隣の
「おまえはなんとも思わないかね」
「だいじょうぶですよお母さん、文子は決してばかなことはしませんよ、ぼくの妹です、あなたの娘です」
「そうかね、それならいいが」
母は安心して
だが文子ははたして悪魔の手に落ちたであろうか。
光一は、じっとそれを考えつづけるうちに
「ただいま!」
光一は立ちあがった、二階を降りると文子は靴をはくところであった。
「文さん」と光一は呼びとめた。
「なあに?」
「どこへいくの?」
「お友達が待ってるのよ、テニスよ、今日は
「ちょっと待ってくれ」
「だって、もうおそいんですもの、ああ暑い、私汗がびっしょりよ」
かの女は風呂敷包みをほうりだしてさっさとでていった。光一は風呂敷包みを持ったまましばらく妹の後ろ姿を見送ったが、急に二階の書斎へかけあがった。かれは風呂敷包みを解いた、中から歴史や地理や図画や筆箱などがでた、かれはそれらを一つ一つしらべると雑記帳の間から一封の手紙が落ちた。封筒にはただ「文子様」と書いてある。
かれは中をひらいた。
「
「あっ」とばかりに光一は思わず声をあげた。
「千三! 千三! 青木か、ああ青木が……あのチビ公が、
光一はそのまま二階を降りるやいなや、ぞうりをつっかけたまま家を出た、かれはまっすぐに千三の家へ走った。
「まあ坊ちゃん、せっかくおいでくだすったのに、千三は
「商売から帰らないのですか」
「今日はね、お昼前だけでお昼すぎから休みです、ボールへいったのじゃありますまいか」
「さようなら」
光一はすぐ引きかえして
「やあ柳君、ちょっとはいれ」
「ぼくは急ぎますから失礼します」
「なに? 急ぐ? 男子たるものが事を急ぐという法があるか、急ぐという文字は天下国家の大事な場合にのみ用うべしだ」
「ですが先生、ぼくは……」
「敵に声をかけられておめおめ逃げるという
「じゃ簡単にご用向きをうかがいましょう」と光一は
「よしッ、じゃきみにきくがきみは水を飲むか」
「飲みます」
「一日
「そんなに飲みません」
「いかん、人間は毎日二升の水を飲むべしだ、
「さようなら」
光一はたまらなくなって逃げだした。
「ばかにしてやがる、
光一は

