へその秘伝をおぼえてから千三はめきめきと腕が上達した。浦中と黙々は
「チビ公のやつ、どうしておれの球をあんなに打つんだろう」
光一はふしぎでたまらなかった、実際千三はいかなる球をも打ちこなした、対師範校との試合にはオールヒットの成績をあげた。それは光一に取ってもっとも苦しい敵であったが、しかし光一はそのためにおどろくべき進歩を示した、かれはどうかしてチビ公に打たれまい、チビ公を三振させようと研究した。昔
戦場においては敵となりしのぎをけずって戦うものの光一と千三は家へ帰ると兄弟のごとく親しかった。
「
「このつぎにはかならず打つぞ」
二人はわらって話し合う。どんなに親しい間柄でも
あるとき光一はまじめな顔をしてこういった。
「青木君、ぼくの学校へ入学したまえよ」
「いまさらそんなことはできないから、一高で一緒になろう、もう二、三年経てばぼくの家も楽になるから」
「
「ああ、そうとも」
「じゃ一高で一緒になろう、きみがショートでぼくが投手で小原さんが捕手だったら愉快だな」
ふたりは顔を見るたびにそれを語りあった。ふたりははたして一高で一緒になり
そのころ学校内で奇怪な風説が伝わった、生徒の中で女学生と交際し、ピアノやバイオリンの合奏をしたり、手紙を交換したり、飲食店に出入りしたりするものがある、いまのうちに探しだして制裁を加えなければ浦和中学の体面に関する。
憤慨の声々が起こった。
「だれだろう」
「だれだろう」
最初のうちはこの風評をとりあげるものはなかった。
「師範のやつらがいいふらしたんだ」
実際それは師範生徒からでたうわさである、師範生徒は中学生にくらべると学資も少ないし、また富める父兄をもたぬところからなにかにつけて不自由勝ちである、それに反して中学生は多くは相当の資産ある家の子である、かれらは自由にぜいたくなシャツを買い、ハイカラな文房具を用い、活動や芝居などを見物し、洋食屋へも出入りする、そうさせることを不純だと思わない父兄が多いのである。
寄宿舎に閉じこめられてかごの鳥のごとく小さくなっている師範生の目から見ると、中学生の生活はまったく不潔であり
久保井校長のつぎにきた熊田校長というのはおそろしく厳格な人であった、久保井先生は温厚で謙遜で中和の人であったが、熊田先生は
久保井先生が去ってからつぎにきたるべき校長に対して生徒も町の人も一種の反感をもっていた、だが日を
「
町の人々はこううわさした。それだけ厳格な熊田先生が今中学校内に不良少年があると聞いたのだからたまらない。
「
校長の命令に職員は目を皿のごとく大きくしてさがしたてた。
と、まただれがいうとなくそれは手塚だといううわさが立った。このことを申し立てたのは中村という同級生であった、中村は善良な青年だが、思慮にとぼしく言葉が多いのが欠点である、かれは学校中のすべてのことを知っているのでみながかれを探偵と呼んでいた、だがこの探偵は決して人に危害を加えない、口からでまかせにすきなことをしゃべりちらして喜んでいるだけである。中村は手塚が
級の重なるものが五人集まって相談会を開いた、もし手塚であるなら同級の恥辱だからなんとかいまのうちに相当の手段を講じなければなるまい。これが会議の主眼であった。
「きゃつは一体生意気だからぶんなぐるがいいよ」
と浜本という剣道の選手がいった。浜本はすべてハイカラなものはきらいであった、かれは洋服の上にはかまをはいて学校へ来たことがあるので、人々はかれを
「なぐる前に一応忠告するがいいよ」と渋谷がいった、渋谷は手塚と親しかった、かれは日曜ごとに手塚の家へいってご
「ばかッ、きさまは医者の子からわいろをもらってるからそんなことをいうんだろう、だれがなんといってもおれはなぐる、あいつは一体小利口で陰険だぞ」
「そうだそうだ」とみなが賛成した。
「いつか
こういうものもあった。
「待ってくれ」と光一はいった。「一体手塚のなにが悪いんだ、問題の要点がぼくにわからないから説明してくれたまえ」
「飲食店へ出入りするが悪いよ」と
「それはね、学生としていいことではないが、ぼくらだってそばが食いたかったり、しるこ屋へはいることもあるから手塚ばかりは責められないよ」と光一はいった。
「活動を見にゆくのはけしからん」
「しかし、諸君の中に活動を見ない人があるかね、どうだ」
光一は四人を見まわした、一同はだまった。
「女と合奏したり、手紙をやりとりするのはどうだ」
「それはぼくもよくないと思う、しかしそんなことは忠告ですむことだ、一度忠告してきかなかったらそのときに第二の方法を考えようじゃないか、ぼくは
光一の真剣な態度は一同の心を動かした。
「そういえばそうだ」と彰義隊は快然といった。
「それじゃだれが手塚に忠告するか」
「ぼくでよければぼくがいおう」と光一はいった。
「よし、それできまった、だがもしそれでも反省しなかったらそのときにはだれがなんといってもぼくはあいつをなぐり殺すぞ」
「よしッ、ぼくはかならず反省さしてみせる」
会議はおわった、光一はみなとわかれてひとり町を歩いた。悲しい
だがいわねばならぬ、いわねば手塚はなぐられる、なぐられるのはかまわないとしたところで、手塚は自分の悪事を悪事と思わずにますます
こうかれは決心した。かれはすぐ手塚の家をたずねた。ちょうど勝手口に手塚の母が立っていた、光一は手塚の母がおりおり
「手塚君は?」
「まだ学校から帰りません」と母がいった。
「いいえお帰りになりました」と女中が横合いから声をだした。
「そうかえ」
「お着かえになってすぐおでましになりました」
「どこへいったんですか」と光一がきく。
「さあどこですか、なんだか大変にお急ぎでいらっしゃいました」
「活動じゃないかえ」と母がいった。
「そうかも知れません」
光一は一礼して外へ出た。
「活動だ、それにちがいない」
光一は手塚の母が平気で、「活動じゃないかえ」
といった言葉をおもいだした。
あの家では活動を見ることを公然ゆるしていると見える、お母さんが承知の上なのだ、それに対して学校がいくら活動を禁じてもなんの役にもたたない話だ。
一体あの家では手塚が学校から帰ったかどうかもよく知らずにいる、それでは手塚が外でなにをしてるかを知らないのも無理がない。
「手塚は不幸な男だ」
光一はふとこう考えると目が熱くなった、家庭に楽しみがないから、外に楽しみを求めるのだ、活動、飲食店、不良少女、遊びの友達! かくてかれはなぐられねばならなくなる。
いろいろな感慨が胸に
光一とても絶対に活動写真を見ないではなかった、かれは新聞や雑誌や世間のうわさに高いものを五つ六つは見にいった、だがかれはいつもたえきれないような
活動館の前に五色の旗が立って春風にふかれている、そこからいかにも無知な子守りや女工などが喜びそうな楽隊の音がもれて聞こえる、小屋の前の
暗い幕をくぐって中にはいると正面のスクリーンに西洋人の女の顔が現われた、うす明かりに見物人の頭が見える、土曜日のこととてお客は一ぱいである。光一はようやく中ほどへ進んでようやくこしかけの
場内にはたばこの煙がもうもうと立ちこもって不潔な悪臭が脳を甘くするほどに襲うてくる、こしかけといってもそれはきわめて
実際興行師ばかりが悪いのでない、お客そのものも、そんなことは平気である、そのかわりにかれらはたばこものめば、物も食う、みかん、塩せんべい、
かくのごとく無知で不行儀な客を相手にするのだから興行師もそれ相当に不親切をつくすことになる。
「こんなきたないはきだめによくがまんができるものだ」と光一は思った。
写真は西洋のもので、いやにきらきら針のような
「ばかやろう!」
見物人の拍手の音の中でわれがねのようにどなったものがある。
「
声は
「おい」と光一は肩をたたいた。
「おう」
彰義隊はふりかえった。
「きてるのか」
「うむ、きみが忠告するはずだったが、おれはどうしてもあいつをぶんなぐらなきゃ腹の虫がおさまらないからやってきた」
「待ってくれよ、ね、決議にそむいちゃいかんよ」
「いや、おれはなぐる、忠告なんて手ぬるいことではだめだ、あれを見い、
あたりの人はみなわらいだした。
「なにをわらうかばかやろう、おまえ達は趣味が劣等だから劣等なものを見て喜んでるんだ、うじ虫がくそを
「もういいよ、どなるのはよせよ」と光一はなだめた。
「おれだってどなりたくはないさ、だが……ああ女がでた、あれはなんとかいう女なんだね、どうだ、
写真はおわった、場内が明るくなった。
「いないね」と彰義隊がいった。
「いないよ」
「
こういったときふたたび電灯が消えた。
「この間に手塚が逃げてくれればいい」と光一は思った。とこのとき彰義隊は拍手喝采した。
「やあやあ、
かれは「幕末烈士近藤勇」という標題を見て拍手したのであった。とすぐちょんまげの顔が現われた。
「あれは近藤勇か」と光一がきいた。
「ちがう、近藤勇はあんな
「きみは近藤勇を知ってるのか」
「知らんよ、だがあんな下等ないものような
「元来ちょんまげの頭は下等なものだよ、ぼくはあれを見るとたまらなくいやになる」
「それでも近藤勇ならいいよ、
だが
「だめだだめだ」と彰義隊はまたもや憤慨した。
「そら敵がきた、足をくばって、足、足! 足を……右足を軽くせんと横から斬りこまれたときに体が固くなるぞ、ああああだめだ、あの役者はすきだらけだ、あんな近藤勇があるもんか、ああばかッ、上段にふりかぶるやつがあるか、手元につけこんで胴を斬られるぞ、ばかッ切っ先がさがってる、切っ先が、そんな剣客が、ああああばかばかばか」
彰義隊があまりに憤慨するので周囲の人々はこそこそと逃げてしまった。実際彰義隊の目から見ると……光一の目から見てもこの役者の剣闘はめちゃめちゃなものであった、それでも見物人は喝采していた。
「おれは帰る」と彰義隊は立ちあがった、「ばかばかしくて見ておられん」
彰義隊はかんかんにおこって帰った、光一はほっと
「いよう、大統領!」
その隣にいた小さい女の子が皮もむかずにりんごをかじっている、その隣で手塚より首一つだけ背の高いろばとあだ名されてる青年が奇妙な声で叫んだ。
「いよう、せいちゃん!」
「
「手塚君」と光一は声をかけた。手塚はふりむいたがすぐ横を向いた。
「手塚君」と光一はそばへ歩みよったときろばのひざに足をあてた。
「痛えな、気をつけやがれ」とろばはいった。
「失敬」
光一はあやまった、ろばは中学を二度ほど落第して退学してから、ぶらぶら家に遊んでは手塚とともにどこへでもいく男である。
「手塚君、ぼくはちょっときみに話したいことがあるんだが外へでてくれんか」と光一はいった。
「いやだ」と手塚はいった。
「ちょっとでいいんだよ」
「いやだというものを無理にひっぱりださなくたっていいだろう」とろばがいった。
「大事なことだからさ、でないときみの
「いやにおどかしやがるね、どうしようてんだ、手塚をなぐろうてのか、面白いなぐってもらおう」
ろばはほえた。
「おまえはだまってろ」と光一はきっといった。「おまえに用があるんじゃない、手塚に用があるんだ」
「なにを?」
「喧嘩か、喧嘩するなら外へでてやろう、ぼくが手塚と話をすますまで待て」
光一はこういってじっとろばの顔をのぞいた、ろばはだまった、そうして隣席の女の子がかじりかけたりんごを取ってがぶりとかじった。
手塚は光一の
「手塚隠れろ、荷車の横を歩いていこう」
ふたりは彰義隊に見つからぬように群衆にまぎれて材木屋の前へ出た。
「なんの用だ」と手塚は不平そうにいった。
「きみは制裁を受けなきゃならなくなったんだ、その前にぼくは一応きみに忠告する、ぼくの忠告をきいてくれたらぼくは
「ゆるされなくてもいいよ、ぼくはなんにも悪いことをしない」
「それがいけないよ、なあ手塚、人はだれでも過失があるんだ、それを改めればそれでいい」
「ぼくに改めるべき点があるのか」
「あるよ、手塚、学校ではね、このごろ不良少年があるといってしきりにさがしてるんだ、その候補者としてきみが数えられている」
「ぼくが不良?」
「きみはよく考えて見たまえ」
「ぼくは考える必要がない」
「じゃ君、活動へいくのは?」
「活動へいくのが不良なら、天下の人はみな不良だ」
「そうじゃない、きみはなんのために活動へいくのだ」
「面白いからさ」
「面白いかね、あんな不純なもの、あんな醜悪なものが面白いかね」
「人はすきずきだよ、他人の趣味に
「いやそうじゃない、ぼくはきみと小学校からの友であり同じく野球部員である以上は、きみの
「活動は決して下劣じゃない」と手塚はいった、かれは光一のいったことが
「じゃきみは活動のどういう点がすきか」
「
「そこだ、きみは近藤勇を十分に知りたければ維新の史料を読みたまえ、愚劣な作を愚劣な役者が
「ぼくは劣等だとは思わない」と手塚はくりかえした、光一はどうしても高尚な意義を理解することができない手塚の低級にあきれてじっと顔を見つめた。歴史を読み聖賢や英雄の伝記を読み、山に野に遊び、野球を練習する。それだけでも活動よりはるかに面白かるべきはずなのに、どうして見る見るはきだめの中におちていくんだろう。
「気の毒だ、かわいそうだ」
光一は胸一ぱいになった。
「じゃ活動のことはそれでよしにしよう、第二にきみは飲食店へ出入りするそうだね」
「ああ、それがいけないのか、だれだって飲んだり食ったりするだろう」
「手塚君、ぼくだって人が洋食を食えば食いたくなる、そば屋へはいることもある、だがね、学生はどこまでも純潔でなければならないのだ、飲食店は
「いやだ、ぼくはぼくの銭でぼくの好きなところへゆくのに学校がなにも
「手塚君、きみはどうしてもぼくの忠告をきいてくれないのか」
「いやだ、ぼくに悪いことがないんだ」
「それではきみ」と光一は憤然として目をみはった。「ぼくはきみを侮辱したくないからこれだけいって後はきみの反省にゆずるつもりでいたのだ。が、きみがあくまでもがんばるならぼくはいわなきゃならん」
「なんでもいうがいい」
「きみの心は潔白か」
「無論だ」
「良心に対してやましくないか」
「やましくない」
「きみは不良少女と遊んでるね、いまきみの隣にいてりんごをかじっていた女の子はなんだ」
「あれは……」と手塚はどもった。
「あれはどろぼうして二、三度警察へあげられた子じゃないか」
「あれは……ろばの友達だよ」
「ろばはきみの親友だろう」
手塚はだまった。春の日は暮れかけて
「手塚! いま聞こえるらっぱはだれだか知ってるだろう、青木だ、青木は学校へ行きたくても銭がない、小学校にいたときはかれはいつも一番か二番であった、きみやぼくよりも頭がいいのだ、学問をしたらぼく等よりはるかにりっぱになる人間だ、それでも家が貧乏で父親がないために、毎日毎日らっぱをふいて豆腐を売り歩いている、きみやぼくは両親のおかげで何不自由なくぜいたくに学問しているが、青木は一銭二銭の銭をもうけるにもなかなか容易でない、きみが活動を見にいく銭だけで青木は本を買ったり月謝を払ったり、着物も買うのだ、きみの一日の
光一の言葉は一語ごとに熱気をおびてきた、かれは手塚の自尊心を傷つけまいとつとめながらも、次第にこみあげてくる感情にかられて果ては涙をはらはらと流した。
「柳!」
手塚はぐったりと首をたれていった。
「堪忍してくれ、ぼくは改心する」
「そうか」
光一は嬉しさのあまり手塚をだきしめたが急に声をだしてないた。手塚もないた。日は暮れてなにも見えなくなった。横合いの
「……清き心のますらおが、

