眠らなければ、
ふと見るとかれはある山路を歩いている。道の両側には
「ああここはどこだろう」
こう思って目をあげると谷をへだてた向こうの山々もことごとく桜である。右も桜左も桜、上も桜下も桜、天地は桜の花にうずもれて
「ああきれいなところだなあ」
こう思うとたんにしずかに
「ぱかぱかぱかぱか」
煙のごとくかすむ花の
行列は花の木の間を
「下に座って下に座って」
声が聞こえるのでわきを見るとひとりの白髪の
「おじいさんこれはなんの行列ですか」
こうたずねるとおじいさんは千三の顔をじっと眺めた、それは紙幣で見たことのある
「あれはな、
「ああそれじゃここは?」
「
「どうしてここへいらっしったのです」
じいさんは千三をじろりと見やったがその目から涙がぼろぼろこぼれた。一円
「
「それでは……これが……本当の……」
千三は仰天して思わず大地にひざまずいた。このとき行列が静々とお通りになる。
「まっ先にきた
とおじいさんがいった。
「ああそうですか、それと並んで
「あれは
「へえ」
「そら
おじいさんは頭を大地につけてないている、千三は涙が目にたまって
「
「えっ?」
千三は顔をあげた。
赤地にしきの
千三は
「いずれも皆忠臣の
こうおじいさんがいったかと思うととっとと走っていく、その早いこと百メートル五秒間ぐらいである。
「待ってくださいおじいさん、お
こういったが聞こえない。おじいさんは
にわかにとどろく軍馬の音!
向こうの
すわとばかりに
「やれやれッ
「これ千三、これ」
母の声におどろいて目がさめればこれなん
「どうしたんだい」
「どうもこうもねえや、
「喧嘩の夢でも見たのか、
「なんだって畜生ッ、高慢な
「千三どうしたのさ、千三」
「お
千三はこういってはじめてわれにかえった。母はじっと千三を見つめた、千三の顔は次第次第にいきいきと輝いた。
「お母さん、ぼくは勉強します」
母はだまっている。
「ぼくは
「だけれどもね、このとおり貧乏ではおまえを学校へやることもできずね」
母はほろりとした。
「貧乏でもかまいません。お母さん、
「いい夢を見たね」
母は病みほおけた
千三は生まれかわった。翌日からなにを見ても嬉しい。かれは外を歩きながらそればかりを考えている。
「やあ向こうから八百屋の半公がきたな、あれも忠臣にしてやるんだ。おれの旗持ちぐらいだ、ああぶりき屋の浅公、あれは母親の
ある日かれはひとりの学生を先生に
「先生ただいま」
「うむ帰ったか」
先生は注意深くかれの一挙一動を見る。
「学校はどうだ」
まず学校のようすをきき、それから友達のことをきく。
「どんな友達ができたか」
「あんこうというやつがあります。口がおそろしく大きいんでりんごを皮ごと二口で食ってしまいます。それからフンプンというやつがあります。これは一年に一ぺんもさるまたを洗濯しませんから、いつでもフンプンとしています。それからまむしというやつ、これは生きたへびを頭からかじります」
「ふん、勇敢だな」
先生はにこにこする。
「この三人はみんなできるやつです。頭がおそろしくいいやつです、三人とも政治をやるといってます」
「たのもしいな、きみとどうだ」
「ぼくよりえらいやつです」
「そうか」
先生が一番注意をはらうのは友達のことである。かれはそのまむしやフンプンやあんこうがどんな話をしてどんな遊びをしてどんな本を読んでるかまでくわしくきいた。
「活動を見るか」
「さかんに見ましたが、あれは非常に下卑たものだとわかったからこのごろは見ません」
「それがいい」
先生は安場がいつも友達の自慢をするのをすこぶる嬉しそうに聞いていた。人の悪口をいったり、自慢をいったりするのは先生のもっともこのまざるところであった。
安場は実際先生思いであった。かれは帰省中には毎朝かならず先生をたずねて水をくみ飯をたき夜の掃除をした。先生は外へ出ると安場の自慢ばかりいう。
「あいつはいまに大きなものになる」
先生はわずかばかりの汽車賃があればそっと東京へ出て一高を視察にでかける、そうして安場がどんな生活をしているかを人知れず監視するのであった。そのくせかれは安場に向かっては一度もほめたことはない。
「きみは英雄をなんと思うか」
「英雄は歴史の花です」と安場は即座に答える。
「カアライルをまねてはいかん。英雄は花じゃない、実である。もし花であるならそれは
すべてこういう風である、どんなにばかといわれても安場はそれを喜んでいた。
「先生はありがたいな」
かれはいつもこういった。かれとチビ公はすぐに親友になった。おりおりふたりは郊外へでて長い長い堤の上を散歩した。寒い寒い風がひゅうひゅう
ああ玉杯 に花うけて、緑酒 に月の影 やどし、
治安の夢 にふけりたる、栄華 の巷 低く見て、
向ヶ岡 にそそり立つ、
五寮 の健児 意気高し。……
バリトンの声であるが、量は豊かに力がみちている。それは遠くの森に反響し、近くの治安の
「もっとやってくれ」とかれはいう。
「うむ、よしッ」
安場は
ふようの雪の精をとり、芳野 の花の華 をうばい、
清き心のますらおが、剣 と筆とをとり持ちて、
一たび起 たば何事か、
人生の偉業 成らざらん。
うたっていくうちにかれの顔はますます黒く赤らみ、その目は輝き、わが校を愛する熱情と永遠の理想と現在力学の勇気と、すべての清き心のますらおが、
一たび
人生の
「きみはな、貧乏を気にしちゃいかんぞ」と安場はいった。「貧乏ほど愉快なことはないんだ」
かれはチビ公のかたわらに座っていいつづけた。
おれは貧乏だから書物が買えなかった。おれは雑誌すら読んだことはなかった。すると先生はおれに本を貸してくれた。先生の本は二十年も三十年も前の本だ、先生がおれに貸してくれた本はスミスの
「こんな
「だいじょうぶだいけ」と先生がいった、おれはいった、そうしてうまく入学した。
「なあチビ公」
安場はなにを思ったか目に一ぱい涙をたたえた。
「試験の前日、先生はおれにこういった」
「安場、腕ずもうをやろう」
「ぼくですか」
「うむ」
先生はがちょうのように首が長く、ひょろひょろやせて、年が老いている。おれはこのとおり力が自慢だ、負かすのは失礼だと思ったが、さりとて
「やりましょう」
先生は長いひざを開いて
「さあこい」
「よしッ」
おれもひじを畳についた、がっきと手と手を組んだ、おれはいい
「弱虫! なき虫! いも虫! へっぴり虫!」と先生はいった。
「先生こそ弱虫です」
「なにを!」
「どっこい」
おれは少しずつ力をだして不動直立の態度をとるつもりであった。だが先生の押す力がずっとひじにこたえる。
「弱いやつだ、青年がそれでどうする、米の飯を食わせておくのはおしいものだ、やい、いも虫、なき虫、わらじ虫!」
あまりしつこく虫づくしをいうのでおれもちょっと
「いいですか、本気をだしますぞ」
「よしッ、虫けらの本気はどんなものか、へっぴり虫!」
「よしッ」
おれは満身の力をこめて一気に先生を押したおそうとした、先生の腕が少しかたむいた。
「いいかな」
先生はこういって、「うん」と一つうなった、たよたよとした細い腕はがきっと組んだまま
「おやッ」
おれは頭を
「虫があばれるあばれる」と先生はげらげらわらった。おれはどうもふしぎでたまらない。負けるはずがないのだ。
「いいかな」
先生はこういっておれのこぶしをひた押しに倒してしまった。
おれは汗をびっしょりかいて、ふうふう息をはずませた。
「どうだ」
首を
「ふしぎですな」
「おまえはばかだ」
「なんといわれてもしようがありません」
「いよいよジャクチュウかな」
「ジャクチュウとはなんですか」
「弱虫だ、はッはッはッ」
「先生はどうして強いんですか」
「わしが強いんでない、おまえがジャクチュウなんだ」
「ぼくはそんなに弱いはずがないのです」
「おまえはどこに力を入れてるか」
「ひじです」
「腕をだしてみい」
先生のひょろひょろした青ざめた腕とおれのハチ切れそうに肥った円い赤い腕が並んだ。
「ひじとひじの力なら私の方がとてもかなわないはずじゃないか」と先生がいった。
「じゃ先生は?」
先生はにっこり笑って、胸の下を指さした。
「腹ですか」
「うむ、力はすべて腹から出るものだ、西洋人の力は小手先からでる、東洋人の力は腹からでる、
「うむ」
「学問も腹だ、人生に処する道も腹だ、気が
「よけいなものだと思います」
「それだからいかん、人間の
「しかしなんの役にも立ちません」
「そうじゃない、いまのやつらはへそを
おれは試験場でへそをなでなかったが、
「へそだ、へそだ、へそだ」と口の中でいった、と急におかしくなってふしぎに気がしずまる、かっと頭にのぼせた熱がずんとさがって下腹に力がみちてくる。
旧式の本、それを読んだことはいわゆる試験準備のために印刷された本よりもはるかに有効であった。
どんな本でも、くわしくくわしくいくどもいくども読んで研究すればすべての学問に応用することができる、数多くの本を、いろいろざっと見流すよりたった一冊の本を精読する方がいい。
おれが受験から帰ってくると先生はぼくを待ちかねている、おれは試験の問題とおれの書いた答案を語る、先生はそれについていちいち批評してくれた、そうしておれににわとりのすき焼きをご
「うんと
こう先生がいう、七日のあいだに先生が大切に
「おれは先生の恩はわすれない、もし先生のような人がこの世に十人もあったら、すべての青年はどんなに幸福だろう、町のやつは……師範学校や中学校のやつらは先生の教授法を旧式だという、旧式かも知らんが先生はおれのようなつまらない人間でもはげましたり打ったりして一人前にしたててくれるからね」
安場はこういって口をつぐんだ、かれはたえきれなくなってなき出した。
「なあ青木、おまえも責任があるぞ、先生がおまえをかわいがってくれる、先生に対してもおまえは奮発しろよ」
「やるとも」千三も無量の感慨に打たれていった。
「さあ帰ろう」
花さき花はうつろいて、露おき露のひるがごと、
星霜 移り人は去り、舵 とる舵手 はかわるとも、
わが乗る船はとこしえに、理想の自治に進むなり。
日はとっぷりと暮れた、安場ははたと歌をやめてふりかえった。わが乗る船はとこしえに、理想の自治に進むなり。
「なあおい青木、
「うむ」
たがいの顔が見えなかった。
「おれも早くその歌をうたいたいな」とチビ公はいった、安場は答えなかった、ざわざわと枯れ草が風に鳴った。
「おれの歌よりもなあ青木」と安場はいった。「おまえのらっぱの方が尊いぞ」
「そうかなあ」
「進軍のらっぱだ」
「うむ」
「いさましいらっぱだ、ふけッ大いにふけ、ふいてふいてふきまくれ」
ひゅうひゅう風がふくので声が散ってしまった。
幸福の神はいつまでも青木一家にしぶい顔を見せなかった、伯父さんとチビ公の勉強によって一家は次第に回復した。チビ公の母は病気がなおってから店のすみにわずかばかりの
安場は日曜ごとに浦和へきた、そうして千三にキャッチボールを教えたりした、元来
チビ公は日曜ごとには朝から晩まで遊ぶことができるようになった、塾の生徒は師範学校や中学の生徒のように費用に
「あるよ、いくらでもあるよ」
光一は古いグローブ二つと新しいグローブ一つとをだしてくれた。
「こんなにもらってもいいんですか」と千三はいった。
「ぼくは買ってもらうからいいよ」と光一はいった。
「これは新しいんですね」
「心配するなよ」
グローブ三つにボール二つ、それをもらって千三が
あるとき千三が豆腐を売りまわってると道で光一にあった。
「おいボールがうまくなったそうだね」
光一は例のごとく上品な目に
「少しうまくなりました」
光一は妙にしずんだ顔をして千三の目を見つめた。
「きみ、たのむからね、ぼくに向かってていねいな言葉を使ってくれるなよ、ね、きみは豆腐屋の子、ぼくは雑貨屋の子、同じ
「ああ」
いまにはじめぬ光一のりっぱな態度に、千三はひどく感激した。
「それからね、きみ、きみの
「ああ、だけれども弱いから」
「弱くてもいいよ、おたがいに練習だからね」
「相談してみよう」
「きみはなにをやってるか」
「ぼくはショートだ」
「それがいい、きみは頭がよくて
「きみは」
「ぼくは今度からピッチャーをやってるんだよ」
「すてきだね」
「なかなかまずいんだよ、手塚はショートだ、あいつはなかなかうまいよ」
その夜千三は
「やろうやろう」というものがある。
「とてもかなわない」というものもある。議論はいろいろにわかれたが結局安場にきてもらってきめることになった。
安場は翌日やってきた。
「やれやれ、大いにやれ、親から金をもらって洋服を着て学問するやつに強いやつがあるものか、わが校の威風を示すのはこのときだ」
一同はすぐ決心した、毎夜課業がすむとこそこそそのことばかりを語りあった、だが悲しいことには貧乏人の子である、マークのついた帽子や、ユニフォームを買うことはできない、いわんやスパイクのついた靴、プロテクター、すねあてにおいてをや[#「をや」は底本では「おや」]である。
「銭がほしいなあ」と一同はいった、この話がいつしか
「遊戯は精神修養をもって主とするもので形式を主とするものでない、みんなはだかでやるならゆるす、おれはバットを作ってやる、はだかが寒いならシャツにさるまた、それでいい、それが
「先生のいうとおりにします」と一同はいった。
翌日先生は庭先にでて大きなまさかりでかしの丸太を割っていた。
「先生なにをなさるんですか」と、チビ公がきいた。
「バットを作ってやるんだ」
放課後も先生はのこぎりやらかんなやらでバット製作にとりかかった。と仕立屋の小僧で
投手は
捕手は「クラモウ」というあだ名で左官の子である、なぜクラモウというかというに、いつもだまってものをいわないのは暗がりの牛のようだからである、
三塁手にはどんな球でもかならず止める橋本というのがある、かれはおそろしい勢いで一直線にとんできた球を鼻で止めたので後ろにひっくりかえった。それからかれを橋本とよばずに
外野にもなかなか勇敢な少年があった、ショートはチビ公であった、チビ公は
一生懸命に汗を流してけずり上げた先生のバットはあまり感心したものでなかった。それはあらけずりのいぼだらけで途中にふしがあるものであった。
「なんだこれは」
「すりこぎのようだ」
「犬殺しの棒だ」
「いやだな、おまえが使えよ」
「おれもいやだ」
少年共はてんでにしりごみをした。さりとてこれを使わねば先生の機嫌が悪い。一同は
「ぼくのにする」とチビ公はいった。「このバットには先生がぼくらを愛する

