お宮のいちょうが黄色になればあぜにはすすき、水引き、たでの花、
役場の火事については町の人はなにもいわなくなった、阪井猛太は助役をやめてせがれの巌と共に
チビ公はやはり一日も休まずに豆腐を売りまわった、それでも一家のまずしさは以前とかわりがなかった、かれは毎日らっぱをふいて町々を歩いているうちにいくどとなく昔の小学校友達にあうのである、中には光一のようにやさしい言葉をかけてくれるものもあるが、多くは顔をそむけて通るのである。チビ公としても先方の体面をはばかってそしらぬ顔をせねばならぬこともあった、とくにかれの心を悲しませるものは小学校時代にいつも先生にしかられていた不成績の子が、りっぱな中学生の服装で
「金持ちの家に生まれれば出来ない子でも大学までいける、貧乏人の子は学校へもいけない、かれらが学士になり博士になるときにもおれはやはり豆腐屋でいるだろう」
こう思うとなさけないような気が胸一ぱいになる。
「学校へいきたいな」
かれの帰り道は県庁の横手の小川の堤である、かれは堤の露草をふみふみぐったりと顔をたれて同じことをくりかえしくりかえし考えるのであった。
ときとしてかれは師範学校の裏手を通る、寄宿舎には
「官費でいいから学校へゆきたい」
こうも考える、だがかれはすぐそれをうちけす。かれの目の前に伯父覚平の老顔がありありと見えるのである。
「おれが働かなきゃ、みなが食べていけない」
そこでかれは夕闇に残る西雲の微明に向かってらっぱをふく。らっぱの音は遠くの森にひびき、近くのわらやねに反響してわが胸に悲しい思いをうちかえす。
ある日伯父の覚平は突然かれにこういった。
「千三、おまえ学校へゆきたいだろうな」
「いいえ」とチビ公は答えた。
「おれだっておめえを豆腐屋にしたくないんだ、なあ千三、そのうちになんとかするから
「夜学にいってもいいんですか」
千三の目は喜びに輝いた。
「夜学だけならかまわないよ、お宮の近くに夜学の先生があるだろう」
「
「うむ、かわり者だがなかなかえらい人だって評判だよ」
「こわいな」と千三は思わずいった。黙々先生といえば本名の
先生の履歴について町の人はくわしく知らなかった、ある人はかつて文部省の参事官であったといい、ある人は地方の長官であったといい、ある人はまた馬賊の頭目であったともいう、真偽はわからぬがかれは
かれが浦和に帰ったのは十年前である、そのときは独身であったが人のすすめによって後妻を迎えた、だがかれは朝から晩まで家にあるときには読書ばかりしている、妻がなにをいっても「うんうん」とうなずくばかりでなにもいわない。で妻はかれに
「あなたなにかいってください」
「うん」
「うんだけではいけません」
「うん」
「あなたはなにもおっしゃることがないんですか」
「うん」
「なにか用事があるでしょう」
「うん」
「ご飯はどうなさるの?」
「うん」
「めしあがらないんですか」
「うん」
妻はあきれて三日目に離縁した。かれはその小さな軒に英漢数教授という看板をだした。妻にものをいわない人だから生徒に対しても、ものをいわないだろうと人々はあやぶんだが、一旦講義にとりかかるとまったくそれと反対であった。
最初の一、二年は生徒が少なかったが、年を経るにしたがって次第に増加した。かれには月謝の制定がない、五円もあれば五十銭もある、米や豆やいもなどを持ってくるものもある、独身の先生だからだというので魚を贈る人がいたって少ない、そこで先生はおりおり一
「先生! つれましたか?」と人が問えば先生は軽く答える。
「うん」
「はりにひっかかってるのはかまぼこじゃありませんか」
「かまぼこは魚なり」
千三は子どものときからなんとなく
翌日千三は夕飯をすまして黙々先生をたずねた、そこにはもう五、六の学生がいた、それは中学の二年生もあれば五年生もあり、またひげの
「いかんいかん」と先生はどなった。「もっと声を大きくして漢文は
教師はまっかな顔をして大きな声で読んだ、先生はだまって聞いていた。
「よしっ、きみは子弟を教育するんだ、とかくに今日の学校は朗読法をないがしろにするきらいがある、大切なことだぜ」
先生はひょろ長いやせた首を伸ばして末座にちぢまっている千三を見おろした。
「きみ、ここへきたまえ」
「はあ」
「きみの名は?」
「青木千三です」
「うむ、なにをやるか」
「英漢数です」
「よしッ、これを読んでみい」
先生は一冊の本を千三の前へ投げだした。それは黒茶色の表紙の着いた日本とじであった。
「これをですか」
千三は中学校一、二年生の国語漢文読本をおそわるつもりであった、いま大学という書を見て急におどろいた。大学という本の名を知ったのもはじめてである。
「うむ」
「どこを読むのですか」
「どこでもいい」
千三は中をひらいた。むずかしい漢字が並んだばかりでどう読んでいいのかわからない。
「読めません」とかれはいった。
「読める字だけ読め」
「
千三は読める字だけを読んだ、汗がひたいににじんで胸が波のごとくおどる。
「よし、よく読んだ」と先生は微笑して、「その意味はなんだ」
「わかりません」
「考えてみい」
千三は考えこんだ。
「これは毎日毎日お湯へはいって新しくなれというのでしょう」
「えらい!」
先生は思わず叫んだ、そうして千三の顔をじっと見つめながら読みくだした。
「
「はあ」
「湯はお
こういって先生はつぎの少年に向かった。
「日本の歴史中に悪い人物はたれか」
いろいろな声が一度にでた。
「
「
「
「
「頼朝はどうして悪いか」と先生が口をいれた。
「武力をもって皇室の大権をおかしました」
「うん、それから」
「信玄はどうして」
「親を
「うん」
「
「どうして?」
「皇室に無礼を働きました」
「うん、それで、きみらはなにをもって悪い人物、よい人物を区別するか」
「君には不忠、親に不孝なるものは、他にどんなよいことをしても悪い人物です、忠孝の士は他に欠点があってもよい人物です」
「よしッ、それでよい」
先生は、いかにも
千三はその日から毎夜先生のもとへ通うた、先生はまた地理と歴史の関係をもっとも精密に教えてくれた、それは普通の中学校ではきわめてゆるがせにしていることであった、中学校では地理の先生と歴史の先生とべつな人であるのが多い、そのために密接な二つの関係が分離されてしまうが、
先生はいかなる場合にも虚偽と臆病をきらった。臆病は虚偽の基である、かれは講義をなしつつあるあいだに突然こういうときがある。
「眠い人があるか」
「あります」と千三が手をあげた。
「庭に出て水をあびてこい」
先生は千三の正直が気にいった。
冬がきた、正月も間近になる、せめて母に新しく
と、
「ただいま」
千三は勢いよく声をかけた。
「お帰り、寒かったろう」と母は火鉢の火をかきたてた、
「寒いなあ」と
「お待ちよ。いま消し炭を持ってくるから」
母は麻糸をかたよせてたとうとした。
「おや」
母は立てなかった。
「おや」
母はふたたびいって立とうとしたが顔がさっと青くなって後ろに倒れた。
「お
千三はだき起こそうとした。母の目は上の方へつった。
「お母さん」
声におどろいて伯父夫婦が起きてきた。千三は早速手塚医師のもとへかけつけた。元来かれは手塚のもとへいくのを好まなかった、しかし火急の場合、他へ走ることもできなかった。
粉雪まじりの
「今晩は……今晩は……」
千三は手塚の門をたたいた。
音がない。
「今晩は!」
かれは声をかぎりに
「どうしたんだろう」
千三は手塚なる医者が金持ちには
やっとのことで書生の声がした。
「どなた?」
「豆腐屋の青木ですが、母が急病ですからどうかちょっとおいでを願いたいんです」
「はああ――」とみょうに気のぬけた返事が聞こえた。「豆腐屋の……青木?」
「はい」
「先生は
「どうぞお願いします、急病ですから」
千三は暗い門前でしずかに耳をそばだてた、奥で
「なんだ、碁を打ってるのにおやすみだなんて」
こう千三は思った。とふたたび小さな窓が開いた。
「ただいま
「ありがとうございます」と千三は思わず大きな声でいった。
「どうぞ、よろしく、ありがとうございます」
千三は一足先に家へ帰った、母はまだ
「冷えたんだから足をあたためるがいい」
こう伯父がいった。伯母はただうろうろして仏壇に
「どうもごくろうさまで……どうぞ」
くぐりの戸をはいってきたのは手塚医師でなくて
「先生が
森はこういってずんずん奥へあがりこんだ、かれはその外套と帽子を車夫にわたした、それから眼鏡をちょっと鼻の上へせりあげて病人を見やった。
「どんなに悪いんですか、ああん?」
かれはお美代の
「はあん……これは
かれはこういって先生から借りて来た
「おい、幸吉!」
幸吉とは車夫の名である、かれはいつも朝と晩に尻はしょりをして幸吉とふたりで門前に水をまいているのである。書生と車夫は同じくこれ奉公人仲間、いわば同階級である。それがいま
「おい幸吉! なにをしとるかッ、ああん」
「早くゆきましょうよ森さん」と幸吉は
「こらッ外套と帽子をおくれ、ああん」
森は外へ出た、車の走る音が聞こえた、寒さは寒し不平は不平なり、おそらく幸吉、車もくつがえれとばかり走ったことであろう。
車におくれじと千三も走った、かれが医者の玄関に着いたとき、
母の病状はそれ以上に進まなかった。が、さりとて
「
こう母はいった、だが翌日も起きられなかった。病弱な彼女が寒さをおかして毎日毎夜内職を働いたその疲れがつもりつもって
「じきになおるから、一日分ずつでいい、二日分もらっても無駄になるから」
これはいかにも道理ある言葉であった、どういうわけか医者は二日分ずつの薬をくれる、それも一つはかならず
ある日千三は帰って母にこういった。
「お
「あれを見たかえ」と母は病いにおとろえた目を向けてさびしくいった。「あれは応接室だったんです、お
「そう?」
「あの隣の
母の声はハタとやんだ、彼女は目をうっとりさせて昔その
「あのときには女中が五人、書生が三人……」
「お母さん! つまらないことをいうのはよしてください、ぼくはいまにあれ以上の家を建ててあげます」
「そうそう、そうだね」
母はさびしくわらった、千三はたまらなく苦しくなった、いままで胸の底におさえつけておいた
「ああここがおれの生まれたところなんだ、おれが生まれたときに手塚の親父がぺこぺこ頭をさげて見舞いにきたんだ、それがいまそいつに占領されてあべこべにおれの方が頭をさげて薬をもらいにきてる」
ある日かれはこんなことを考えながら門をはいろうとするとそこで
「そらこんどはドロップだぞ」
手塚は得意になって球をにぎりかえてモーションをつけた。
「よしきた」
森君はへっぴり腰になって片足を浮かしてかまえた、もし足にあたりそうな球がきたら片足をあげて逃がそうという腹なのである。
「さあこい」
「よしッ」
球は大地をたたいて横の
「おい豆腐屋! 早く球をとれよ」手塚がさけんだ。
「はッ」
千三はおけをかついだまま球をおっかけた、おけの水はだぶだぶと波をおどらして
「やあやあ勇敢勇敢」と森君は喝采した、千三は球が石のどぶ端を伝って泥の中へ落ちこもうとするやつをやっとおさえようとした、てんびん棒が土塀にがたんとつきあたったと思うとかれははねかえされて豆腐おけもろとも
「ばかだね、おけを置いて走ればいいんだ、ばかッ」
手塚はこういって自分でどぶどろの中から球をつまみあげ、いきなり千三のおけの中で球を洗った。
「それは困ります」と千三は
「豆腐代を払ったら文句がないだろう」
手塚はわらって
「待てッ」と千三は
「いま手塚と喧嘩をすれば母の薬をもらうことができなくなる」
かれの目から熱い涙がわきでた。人間の貴重な食料品! そのおけの中にどぶどろにまみれた球をつっこんで洗うなんてあまりの乱暴である。だが貧乏の悲しさ、かれと争うことはできない。
どれだけないたかしれない。かれはもうらっぱをふく力もなくなった。
「おれはだめだ」
かれはこう考えた、どんなに勉強してもやはり金持ちにはかなわない。
「おれと伯父さんは夜の目も寝ずに豆腐を作る、だがそれを食うものは金持ちだ、作ったおれ達の口にはいるのはそのあまりかすのおからだけだ、学問はやめよう」
かれはがっかりして家へ帰った、かれは
「あいつらは悪いことをして金をためていばってるんだ、あいつらはおれ達の血と汗をしぼり取る鬼共だ」
その夜も夜学を休んだ、その翌日も……。
「おれがチビだからみんながおれをばかにしてるんだ、おれが貧乏だからみんながおれをばかにしてるんだ」
かれの母はかれが夜学へもいかなくなったのを見て心配そうにたずねた。
「千三、おまえ今夜も休むの?」
「ああ」
「どうしてだ」
「ゆきたくないからゆきません」
かれの声はつっけんどんであった、母は悲しそうな目でかれを見やったなりなにもいわなかった、千三は夜具の中に首をつっこんでから心の中で母にあやまった。
「お
このすさんだ心持ちが五日も六日もつづいた、とある日かれは夕日に向かってらっぱをふきもてゆくと突然かれの
「おい青木!」
夕方の町は人通りがひんぱんである、あまりに大きな声なので往来の人は立ちどまった。
「おい、青木!」
千三がふりかえるとそれは
「おい、君のおけの上にこれを
千三はだまって一礼した。先生は炭だわらをおけの上に載せ、そのまま自分の肩を入れて歩きだした。
「先生! ぼくがかついでお
と千三がいった。
「いやかまわん、おれについてこい」
ひょろ長い先生のおけをかついだ影法師が夕日にかっきりと地上に
「きみは病気か」
「いいえ」
「どうしてこない?」
「なんだかいやになりました」
「そうか」
先生はそれについてなにもいわなかった。
「はいれ」と先生はてんびんをおろしてからいった。
「はい」
もう日が暮れかけて家の中は薄暗かった、千三はわらじをぬいで
「洗ってまいりましょうか」
「洗わんほうがうまいぞ」
こういってから先生はふたたび立って書棚を探したがやがて二、三枚の紙つづりを千三の前においた。
「おい、これを見い、わしはきみに見せようと思って書いておいたのだ」
「なんですか」
「きみの先祖からの
「はあ」
千三は由緒書きなるものはなんであるかを知らなかった、でかれはそれをひらいた。
「
千三は最初の一段高く記した一行を読んでびっくりした。
「先生なんですか、これは」
「あとを読め」
「右大臣
「へんなものですね」
先生は七輪の火をふいたので火の粉がぱちぱちと散った。
「――
「
「よくは知りません、歴史で少しばかり」
「日本第一の忠臣を知らんか、そのあとを読め」
「
なべのいもは湯気を立ててふたはおどりあがった。先生はじっと千三の顔を見つめた。
「どうだ」
「先生!」
「きみの父祖は
「先生!」
「なにもいうことはない、祖先の名をはずかしめないように
「先生」
「それとも
「先生! 私は……」
「なにもいうな、さあいもを食ってから返事をしろ」
先生はいものなべをおろした、庭はすでに暮れて落ち葉がさらさらと鳴る、七輪の火が風に吹かれてぱっと燃えあがると

