TOP連載小説>佐藤紅緑 - ああ玉杯に花うけて 
過去の掲載

 お宮のいちょうが黄色になればあぜにはすすき、水引き、たでの花、露草つゆくさなどが薄日うすびをたよりにさきみだれて、その下をゆくちょろちょろ水の音に秋が深くなりゆく。
 役場の火事については町の人はなにもいわなくなった、阪井猛太は助役をやめてせがれの巌と共に川越かわごえの方へうつった、中学校には新しい校長がきた。浦和の町は太平である。
 チビ公はやはり一日も休まずに豆腐を売りまわった、それでも一家のまずしさは以前とかわりがなかった、かれは毎日らっぱをふいて町々を歩いているうちにいくどとなく昔の小学校友達にあうのである、中には光一のようにやさしい言葉をかけてくれるものもあるが、多くは顔をそむけて通るのである。チビ公としても先方の体面をはばかってそしらぬ顔をせねばならぬこともあった、とくにかれの心を悲しませるものは小学校時代にいつも先生にしかられていた不成績の子が、りっぱな中学生の服装で雑嚢ざつのうを肩にかけ徽章きしょうのついた帽子を輝かして行くのを見たときである。
「金持ちの家に生まれれば出来ない子でも大学までいける、貧乏人の子は学校へもいけない、かれらが学士になり博士になるときにもおれはやはり豆腐屋でいるだろう」
 こう思うとなさけないような気が胸一ぱいになる。
「学校へいきたいな」
 かれの帰り道は県庁の横手の小川の堤である、かれは堤の露草をふみふみぐったりと顔をたれて同じことをくりかえしくりかえし考えるのであった。
 ときとしてかれは師範学校の裏手を通る、寄宿舎には灯影ほかげが並んでおりおりわかやかな唱歌の声が聞こえる。
「官費でいいから学校へゆきたい」
 こうも考える、だがかれはすぐそれをうちけす。かれの目の前に伯父覚平の老顔がありありと見えるのである。
「おれが働かなきゃ、みなが食べていけない」
 そこでかれは夕闇に残る西雲の微明に向かってらっぱをふく。らっぱの音は遠くの森にひびき、近くのわらやねに反響してわが胸に悲しい思いをうちかえす。
 ある日伯父の覚平は突然かれにこういった。
「千三、おまえ学校へゆきたいだろうな」
「いいえ」とチビ公は答えた。
「おれだっておめえを豆腐屋にしたくないんだ、なあ千三、そのうちになんとかするから辛抱しんぼうしてくれ、そのかわりに夜学へいったらどうか、昼のつかれで眠たかろうが、一心にやればやれないこともなかろう」
「夜学にいってもいいんですか」
 千三の目は喜びに輝いた。
「夜学だけならかまわないよ、お宮の近くに夜学の先生があるだろう」
黙々もくもく先生ですか」
「うむ、かわり者だがなかなかえらい人だって評判だよ」
「こわいな」と千三は思わずいった。黙々先生といえば本名の篠原浩蔵しのはらこうぞうをいわなくとも浦和の人はだれでも知っている。先生はいま五十五、六歳、まだ老人という歳でもないが、頭とひげは雪のように白くそれと共に左の眉に二寸ばかり長い毛が一本つきでている、おこるときにはこの長い毛が上に動き、わらうときには下にたれる、町の人はこの毛をもって先生の機嫌のバロメーターにしている。
 先生の履歴について町の人はくわしく知らなかった、ある人はかつて文部省の参事官であったといい、ある人は地方の長官であったといい、ある人はまた馬賊の頭目であったともいう、真偽はわからぬがかれは熊谷くまがやの豪族の子孫であることだけはあきらかであり、また帝国大学初期の卒業者であることもあきらかである、なんのために官職を辞して浦和に帰臥きがしたのか、それらの点についてはかれは一度も人に語ったことはない。
 かれが浦和に帰ったのは十年前である、そのときは独身であったが人のすすめによって後妻を迎えた、だがかれは朝から晩まで家にあるときには読書ばかりしている、妻がなにをいっても「うんうん」とうなずくばかりでなにもいわない。で妻はかれに詰問きつもんした。
「あなたなにかいってください」
「うん」
「うんだけではいけません」
「うん」
「あなたはなにもおっしゃることがないんですか」
「うん」
「なにか用事があるでしょう」
「うん」
「ご飯はどうなさるの?」
「うん」
「めしあがらないんですか」
「うん」
 妻はあきれて三日目に離縁した。かれはその小さな軒に英漢数教授という看板をだした。妻にものをいわない人だから生徒に対しても、ものをいわないだろうと人々はあやぶんだが、一旦講義にとりかかるとまったくそれと反対であった。
 最初の一、二年は生徒が少なかったが、年を経るにしたがって次第に増加した。かれには月謝の制定がない、五円もあれば五十銭もある、米や豆やいもなどを持ってくるものもある、独身の先生だからだというので魚を贈る人がいたって少ない、そこで先生はおりおり一竿かんを肩にして河へつりにゆく、一尾のふなもつれないときには町で魚を買ってそのあぎとをはりにつらぬき揚々ようようとして肩に荷うて帰る、ときにはあじ、ときにはいわし、時にはたこ、ときには塩ざけの切り身!
「先生! つれましたか?」と人が問えば先生は軽く答える。
「うん」
「はりにひっかかってるのはかまぼこじゃありませんか」
「かまぼこは魚なり」
 千三は子どものときからなんとなく黙々もくもく先生がこわかった。しかしかれとして学問をするにはこの私塾しじゅくより他にはない。
 翌日千三は夕飯をすまして黙々先生をたずねた、そこにはもう五、六の学生がいた、それは中学の二年生もあれば五年生もあり、またひげのえた人もあり、百姓もあれば商家のでっちもある。千三がはいったときちょうど小学校の教師がむずかしい漢文を読んでいた。
「いかんいかん」と先生はどなった。「もっと声を大きくして漢文は朗々ろうろうとしてぎんずべきものだ、語尾をはっきりせんのは心がおくしているからだ、聖賢の書を読むになんのやましいところがある、この家がこわれるような声で読め」
 教師はまっかな顔をして大きな声で読んだ、先生はだまって聞いていた。
「よしっ、きみは子弟を教育するんだ、とかくに今日の学校は朗読法をないがしろにするきらいがある、大切なことだぜ」
 先生はひょろ長いやせた首を伸ばして末座にちぢまっている千三を見おろした。
「きみ、ここへきたまえ」
「はあ」
「きみの名は?」
「青木千三です」
「うむ、なにをやるか」
「英漢数です」
「よしッ、これを読んでみい」
 先生は一冊の本を千三の前へ投げだした。それは黒茶色の表紙の着いた日本とじであった。標箋ひょうせんに大学と書いてある。
「これをですか」
 千三は中学校一、二年生の国語漢文読本をおそわるつもりであった、いま大学という書を見て急におどろいた。大学という本の名を知ったのもはじめてである。
「うむ」
「どこを読むのですか」
「どこでもいい」
 千三は中をひらいた。むずかしい漢字が並んだばかりでどう読んでいいのかわからない。
「読めません」とかれはいった。
「読める字だけ読め」
……いわく…………しん………………しんまたしん
 千三は読める字だけを読んだ、汗がひたいににじんで胸が波のごとくおどる。
「よし、よく読んだ」と先生は微笑して、「その意味はなんだ」
「わかりません」
「考えてみい」
 千三は考えこんだ。
「これは毎日毎日お湯へはいって新しくなれというのでしょう」
「えらい!」
 先生は思わず叫んだ、そうして千三の顔をじっと見つめながら読みくだした。
とうばんめいいわく、まことに日に新たにせば日々に新たにし又日に新たにせん……こう読むのだ」
「はあ」
「湯はおでない、王様の名だ、ばんはたらいだ、たらいに格言をほりつけたのだ、人間は毎日顔を洗い口をすすいでわが身を新たにするごとく、その心をも毎日毎日洗いきよめて新たな気持ちにならなければならん、とこういうのだ、だがきみの解釈は字句において間違いがあるが大体の意義において間違いはない、書を読むに文字を読むものがある、そんなやつは帳面づけや詩人などになるがいい。また文字に拘泥こうでいせずにその大意をにぎる人がある、それが本当の活眼をもって活書を読むものだ、よいか、文字を知らないのは決して恥でない、意味を知らないのが恥辱だぞ」
 こういって先生はつぎの少年に向かった。
「日本の歴史中に悪い人物はたれか」
 いろいろな声が一度にでた。
弓削道鏡ゆげのどうきょうです」
蘇我入鹿そがのいるかです」
足利尊氏あしかがたかうじです」
源頼朝みなもとのよりともです」
「頼朝はどうして悪いか」と先生が口をいれた。
「武力をもって皇室の大権をおかしました」
「うん、それから」
 武田信玄たけだしんげんというものがある。
「信玄はどうして」
「親を幽閉ゆうへいして国をうばいました」
「うん」
徳川家康とくがわいえやす!」
「どうして?」
「皇室に無礼を働きました」
「うん、それで、きみらはなにをもって悪い人物、よい人物を区別するか」
「君には不忠、親に不孝なるものは、他にどんなよいことをしても悪い人物です、忠孝の士は他に欠点があってもよい人物です」
「よしッ、それでよい」
 先生は、いかにも快然かいぜんといった、先生の教えるところはつねにこういう風なのであった、先生はどんな事件に対してもかならずはっきりした判断をさせるのであった、たとえそれが間違いであっても、それを臆面おくめんなく告白すれば先生が喜ぶ。
 千三はその日から毎夜先生のもとへ通うた、先生はまた地理と歴史の関係をもっとも精密に教えてくれた、それは普通の中学校ではきわめてゆるがせにしていることであった、中学校では地理の先生と歴史の先生とべつな人であるのが多い、そのために密接な二つの関係が分離されてしまうが、黙々もくもく先生は歴史の進行とともに地理を展開させた、神武じんむ以来大和やまと発祥はっしょうの地になっている、そこで先生は大和の地理を教える、同時に大和に活躍した人物の伝記や逸話等を教える。学生の頭にはその人とその地とその時代が深くきざまれる。先生は代数だいすう幾何きかを教えるにもすべてその方法で、決してまわりくどい術語を用いたり、強いて頭を混惑させるような問題を提供したりしなかった。その英語のごときもいちいち漢文の文法と対照した、そのために生徒は英漢の文法を一度に知ることができた。
 先生はいかなる場合にも虚偽と臆病をきらった。臆病は虚偽の基である、かれは講義をなしつつあるあいだに突然こういうときがある。
「眠い人があるか」
「あります」と千三が手をあげた。
「庭に出て水をあびてこい」
 先生は千三の正直が気にいった。
 冬がきた、正月も間近になる、せめて母に新しく綿わたのはいったもの一枚でも着せてやりたい、こういう考えから千三は一生懸命に働いた、しかも通学は一晩も休まなかった、かれは先生の家をでるとすぐぐらぐら眠りながら家へ帰る夜が多かった。
 と、災厄さいやくはつぎからつぎへと起こる、ある夜かれが家へ帰ると母が麻糸あさいとつなぎをやっていた、いくらにもならないのだが、彼女はいくらかでも働かねば正月を迎えることができないのであった。
「ただいま」
 千三は勢いよく声をかけた。
「お帰り、寒かったろう」と母は火鉢の火をかきたてた、はいの中にはわずかにほたるのような光が見えた、外はひゅうひゅう風がうなっている。
「寒いなあ」と千三せんぞうは思わずいった。
「お待ちよ。いま消し炭を持ってくるから」
 母は麻糸をかたよせてたとうとした。
「おや」
 母は立てなかった。
「おや」
 母はふたたびいって立とうとしたが顔がさっと青くなって後ろに倒れた。
「おかあさん」
 千三はだき起こそうとした。母の目は上の方へつった。
「お母さん」
 声におどろいて伯父夫婦が起きてきた。千三は早速手塚医師のもとへかけつけた。元来かれは手塚のもとへいくのを好まなかった、しかし火急の場合、他へ走ることもできなかった。
 粉雪まじりの師走しわすの風が電線にうなっていた、町はもう寝しずまって、風呂屋から流れてくる下水の湯気がどぶ板のすきまから、もやもやといてついた地面をはっていた。
「今晩は……今晩は……」
 千三は手塚の門をたたいた。
 音がない。
「今晩は!」
 かれは声をかぎりにび力をかぎりにたたいた。奥にはまだ人の声がする。
「どうしたんだろう」
 千三は手塚なる医者が金持ちには幇間ほうかんのごとくちやほやするが、貧乏人にはきわめて冷淡だという人のうわさを思いだした、それと同時にこの深夜に来診を請うと、ずいぶん少なからぬお礼をださねばなるまいが、それもできずにむやみと門をたたくのはいかにも厚かましいことだと考えたりした。
 やっとのことで書生の声がした。
「どなた?」
「豆腐屋の青木ですが、母が急病ですからどうかちょっとおいでを願いたいんです」
「はああ――」とみょうに気のぬけた返事が聞こえた。「豆腐屋の……青木?」
「はい」
「先生は風邪気かぜけでおやすみですから……どうですかうかがってみましょう」
「どうぞお願いします、急病ですから」
 千三は暗い門前でしずかに耳をそばだてた、奥で碁石ごいしをくずす音がちゃらちゃらと聞こえる。
「なんだ、碁を打ってるのにおやすみだなんて」
 こう千三は思った。とふたたび小さな窓が開いた。
「ただいまうかがいます」
「ありがとうございます」と千三は思わず大きな声でいった。
「どうぞ、よろしく、ありがとうございます」
 千三は一足先に家へ帰った、母はまだ正体しょうたいがない。
「冷えたんだから足をあたためるがいい」
 こう伯父がいった。伯母はただうろうろして仏壇にをともしたりしている、千三はすぐ火をおこしかけた。そこへ車の音がした。
「どうもごくろうさまで……どうぞ」
 くぐりの戸をはいってきたのは手塚医師でなくて代診だいしんの森という男である。この森というのは、ずいぶん古くから手塚の薬局にいるが、代診として患者を往診した事はきわめてまれである、千三はいつも森が白い薬局服を着て往来でキャッチボールをやってるのを見ているのではなはだおぼつかなく思った。
「先生が風邪気かぜけなんで……」
 森はこういってずんずん奥へあがりこんだ、かれはその外套と帽子を車夫にわたした、それから眼鏡をちょっと鼻の上へせりあげて病人を見やった。
「どんなに悪いんですか、ああん?」
 かれはお美代のうでをとって脈をしらべた。それから発病の模様を聞きながら聴診器を胸にあてたり、眼瞼まぶたをひっくりかえしてみたりした、その態度はいかにもおちつきはらっている。これがおりおり玄関で手塚と腕押しをしたりしゃちほこ立ちをしたり、近所の子どもをからかったりする人とは思えない。門口で車夫がしきりにせきばらいをしている、それは「寒くてたまらないからいい加減にして帰ってくれ」というかのごとく見えた。
「はあん……これは脳貧血のうひんけつですな、ああん、たいしたことはありません、頭寒足熱ですかな、足をあたためて頭をひやして安眠させるといいです、ああん、薬は散薬と水薬……ああん、すぐでよろしい」
 かれはこういって先生から借りて来たかばんを取り上げてへやを出た。
「おい、幸吉!」
 幸吉とは車夫の名である、かれはいつも朝と晩に尻はしょりをして幸吉とふたりで門前に水をまいているのである。書生と車夫は同じくこれ奉公人仲間、いわば同階級である。それがいま傲然ごうぜんと呼び捨てにされたので幸吉たるもの胸中いささかおだやかでない、かれはだまって答えなかった。
「おい幸吉! なにをしとるかッ、ああん」
「早くゆきましょうよ森さん」と幸吉は業腹ごうはらまぎれにいった。
「こらッ外套と帽子をおくれ、ああん」
 森は外へ出た、車の走る音が聞こえた、寒さは寒し不平は不平なり、おそらく幸吉、車もくつがえれとばかり走ったことであろう。
 車におくれじと千三も走った、かれが医者の玄関に着いたとき、おくではやはり囲碁いごの音が聞こえていた。
 母の病状はそれ以上に進まなかった。が、さりとてとこをでることはできなかった。
明日あすになったら起きられるだろう」
 こう母はいった、だが翌日も起きられなかった。病弱な彼女が寒さをおかして毎日毎夜内職を働いたその疲れがつもりつもってのうにおよんだのである。千三は豆腐をかついで町まわりの帰りしなに手塚の家へよって薬をもらうのであった、最初薬は二日分ずつであったが、母のお美代はそれをこばんだ。
「じきになおるから、一日分ずつでいい、二日分もらっても無駄になるから」
 これはいかにも道理ある言葉であった、どういうわけか医者は二日分ずつの薬をくれる、それも一つはかならずの薬である、金持ちの家は薬代にも困らぬが、まずしき家では一日分の薬価は一日分の米代に相当する。お美代は毎日薬を飲むたびにもったいないといった。
 ある日千三は帰って母にこういった。
「おかあさん、手塚の家の天井てんじょう格子こうしになって一つ一つに絵をってあります、絹にかいたきれいな絵!」
「あれを見たかえ」と母は病いにおとろえた目を向けてさびしくいった。「あれは応接室だったんです、おとうさんが支那風が好きだったから」
「そう?」
「あの隣のへやのもう一つ隣のへやは茶室風でおまえがそこで生まれたのです、はぎの天井です、とこには……」
 母の声はハタとやんだ、彼女は目をうっとりさせて昔そのおっとが世にありしときの全盛な生活を回想したのであった。
「あのときには女中が五人、書生が三人……」
 睫毛まつげを伝うて玉の露がほろりとこぼれる。
「お母さん! つまらないことをいうのはよしてください、ぼくはいまにあれ以上の家を建ててあげます」
「そうそう、そうだね」
 母はさびしくわらった、千三はたまらなく苦しくなった、いままで胸の底におさえつけておいた憂欝ゆううつがむらむらと雲のごとくわいた。かれは薬をもらいに医者の家へゆく、支那風の天井の下に小さく座っていると例の憂欝がひしひしとせまってくる。
「ああここがおれの生まれたところなんだ、おれが生まれたときに手塚の親父がぺこぺこ頭をさげて見舞いにきたんだ、それがいまそいつに占領されてあべこべにおれの方が頭をさげて薬をもらいにきてる」
 ある日かれはこんなことを考えながら門をはいろうとするとそこで代診だいしん森君が手塚とキャッチボールをしていた。
「そらこんどはドロップだぞ」
 手塚は得意になって球をにぎりかえてモーションをつけた。
「よしきた」
 森君はへっぴり腰になって片足を浮かしてかまえた、もし足にあたりそうな球がきたら片足をあげて逃がそうという腹なのである。
「さあこい」
「よしッ」
 球は大地をたたいて横のへいを打ちさらにおどりあがって千三の豆腐おけを打ち、ころころとどぶの方へころがった。
「おい豆腐屋! 早く球をとれよ」手塚がさけんだ。
「はッ」
 千三はおけをかついだまま球をおっかけた、おけの水はだぶだぶと波をおどらしてふたも包丁も大地に落ちた。
「やあやあ勇敢勇敢」と森君は喝采した、千三は球が石のどぶ端を伝って泥の中へ落ちこもうとするやつをやっとおさえようとした、てんびん棒が土塀にがたんとつきあたったと思うとかれははねかえされて豆腐おけもろとも尻餅しりもちをついた。豆腐は魚の如くはねて地上に散った。
「ばかだね、おけを置いて走ればいいんだ、ばかッ」
 手塚はこういって自分でどぶどろの中から球をつまみあげ、いきなり千三のおけの中で球を洗った。
「それは困ります」と千三はうったえるようにいった。
「豆腐代を払ったら文句がないだろう」
 手塚はわらっておくへひっこんだ。
「待てッ」と千三はびとめようとしたがじっと下くちびるをかんだ。
「いま手塚と喧嘩をすれば母の薬をもらうことができなくなる」
 かれの目から熱い涙がわきでた。人間の貴重な食料品! そのおけの中にどぶどろにまみれた球をつっこんで洗うなんてあまりの乱暴である。だが貧乏の悲しさ、かれと争うことはできない。
 どれだけないたかしれない。かれはもうらっぱをふく力もなくなった。
「おれはだめだ」
 かれはこう考えた、どんなに勉強してもやはり金持ちにはかなわない。
「おれと伯父さんは夜の目も寝ずに豆腐を作る、だがそれを食うものは金持ちだ、作ったおれ達の口にはいるのはそのあまりかすのおからだけだ、学問はやめよう」
 かれはがっかりして家へ帰った、かれは黙々もくもく先生の夜学を休んで早く寝床ねどこにはいった。翌朝起きて町へでた。もうかれの考えは全然いままでとかわってしまった。かれは町々のりっぱな商店、会社、銀行それらを見るとそれがすべてのろわしきものとなった。
「あいつらは悪いことをして金をためていばってるんだ、あいつらはおれ達の血と汗をしぼり取る鬼共だ」
 その夜も夜学を休んだ、その翌日も……。
「おれがチビだからみんながおれをばかにしてるんだ、おれが貧乏だからみんながおれをばかにしてるんだ」
 かれの母はかれが夜学へもいかなくなったのを見て心配そうにたずねた。
「千三、おまえ今夜も休むの?」
「ああ」
「どうしてだ」
「ゆきたくないからゆきません」
 かれの声はつっけんどんであった、母は悲しそうな目でかれを見やったなりなにもいわなかった、千三は夜具の中に首をつっこんでから心の中で母にあやまった。
「おかあさん堪忍かんにんしてください、ぼくは自分で自分をどうすることもできないのです」
 このすさんだ心持ちが五日も六日もつづいた、とある日かれは夕日に向かってらっぱをふきもてゆくと突然かれの背後うしろからよびとめるものがある。
「おい青木!」
 夕方の町は人通りがひんぱんである、あまりに大きな声なので往来の人は立ちどまった。
「おい、青木!」
 千三がふりかえるとそれは黙々もくもく先生であった、先生は肩につりざおを荷ない、片手に炭だわらをかかえている、たわらの底からいものしっぽがこぼれそうにぶらぶらしている。
「おい、君のおけの上にこれをせてくれ」
 千三はだまって一礼した。先生は炭だわらをおけの上に載せ、そのまま自分の肩を入れて歩きだした。
「先生! ぼくがかついでおたくまで持ってゆきます」
 と千三がいった。
「いやかまわん、おれについてこい」
 ひょろ長い先生のおけをかついだ影法師が夕日にかっきりと地上にうつった。
「きみは病気か」
「いいえ」
「どうしてこない?」
「なんだかいやになりました」
「そうか」
 先生はそれについてなにもいわなかった。
 黙々もくもく先生がいもだわらを載せた豆腐をにない、そのそばに豆腐屋のチビ公がついてゆくのを見て町の人々はみんな笑いだした。ふたりは黙々塾もくもくじゅくへ着いた。
「はいれ」と先生はてんびんをおろしてからいった。
「はい」
 もう日が暮れかけて家の中は薄暗かった、千三はわらじをぬいで縁端えんばたに座った。先生はだまって七輪しちりんを取りだし、それに粉炭をくべてなべをかけ、七、八本のいもをそのままほうりこんだ。
「洗ってまいりましょうか」
「洗わんほうがうまいぞ」
 こういってから先生はふたたび立って書棚を探したがやがて二、三枚の紙つづりを千三の前においた。
「おい、これを見い、わしはきみに見せようと思って書いておいたのだ」
「なんですか」
「きみの先祖からの由緒書ゆいしょがきだ」
「はあ」
 千三は由緒書きなるものはなんであるかを知らなかった、でかれはそれをひらいた。
村上天皇むらかみてんのう皇子おうじ中務卿なかつかさきょう具平親王ともひらしんのう
 千三は最初の一段高く記した一行を読んでびっくりした。
「先生なんですか、これは」
「あとを読め」
「右大臣師房卿もろふさきょう――後一条天皇ごいちじょうてんのうのときはじめて源朝臣みなもとあそんせいたまわる」
「へんなものですね」
 先生は七輪の火をふいたので火の粉がぱちぱちと散った。
「――雅家まさいえ北畠きたばたけと号す――北畠親房きたばたけちかふさその子顕家あきいえ顕信あきのぶ顕能あきよしの三子と共に南朝なんちょう無二の忠臣ちゅうしん楠公なんこう父子と比肩ひけんすべきもの、神皇正統記じんのうしょうとうきあらわして皇国こうこくの正統をあきらかにす」
北畠親房きたばたけちかふさを知ってるか」
「よくは知りません、歴史で少しばかり」
「日本第一の忠臣を知らんか、そのあとを読め」
親房ちかふさの第二子顕信あきのぶの子守親もりちか陸奥守むつのかみに任ぜらる……その孫武蔵むさしに住み相模さがみ扇ヶ谷おうぎがやつに転ず、上杉家うえすぎけつかう、上杉家うえすぎけほろぶるにおよびせいおうぎに改め後青木あおきに改む、……青木竜平あおきりゅうへい――長男千三せんぞう……チビ公と称す、懦弱だじゃく取るに足らず……」
 なべのいもは湯気を立ててふたはおどりあがった。先生はじっと千三の顔を見つめた。
「どうだ」
「先生!」
「きみの父祖は南朝なんちょうの忠臣だ、きみの血の中に祖先の血が活きてるはずだ、きみの精神のうちに祖先のたましいが残ってるはずだ、君は選ばれたる国民だ、大切な身体からだだ、日本になくてはならない身体だ、そうは思わんか」
「先生!」
「なにもいうことはない、祖先の名をはずかしめないように奮発ふんぱつするか」
「先生」
「それとも生涯しょうがい豆腐屋でくちはてるか」
「先生! 私は……」
「なにもいうな、さあいもを食ってから返事をしろ」
 先生はいものなべをおろした、庭はすでに暮れて落ち葉がさらさらと鳴る、七輪の火が風に吹かれてぱっと燃えあがると白髪はくはつ白髯はくぜん黙々もくもく先生の顔とはりさけるようにすずしい目をみひらいた少年の赤い顔とが暗の中に浮きだして見える。


底本:「ああ玉杯に花うけて/少年賛歌」講談社大衆文学館文庫、講談社
   1997(平成9)年10月20日第1刷発行
底本の親本:「ああ玉杯に花うけて」少年倶楽部文庫2、講談社
   1975(昭和50)年10月16日発行
初出:「少年倶楽部」
   1927(昭和2)年5月号〜1928(昭和3)年4月号
※底本は、親本の親本と思われる、「少年倶楽部名作選1 長編小説集」講談社、1966(昭和41)年12月17日発行の誤りを残しているため、誤植が疑われる箇所は、「佐藤紅緑全集 上巻」講談社、1967(昭和42)年12月8日発行、を参照してあらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄、kazuishi
校正:花田泰治郎
2006年2月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみんなさんです。

TOP連載小説>佐藤紅緑 - ああ玉杯に花うけて 


Copyright:(C) 2004-2006 Sokai-Club.net. All Rights Reserved