だがこの日はいつもより悲しかった、全校生徒の
大急ぎで朝飯をすましかれはすぐ柳の家をたずねた、柳もまた小原をたずねようと家をでかけたところであった。
「いよいよだめだね」と柳はいった、平素温和なかれに似ずこの日はさっと顔を
「しかたがないよ」と小原はいった。ふたりは朝日の光が縦に流れる町を東に向かって歩いた。
「ところでね君」と小原はしばらくあっていった。
「
「ぼくもそう思ったからきみに相談しようと思ってでかけたんだ」
「そうか、そうか」と小原はおとならしくうなずいて、「一番猛烈なのは三年だからね、ぼくは昨夜もおそくまで歩きまわって説法したよ、二年は君にたのむよ、いいか、どうしてもわかれなきゃならないものならぼくらは静粛に校長を見送ろうじゃないか」
「ぼくもそう思うよ」
「じゃそのつもりでやってくれ、だが三年はどうかな」
小原はしきりに三年のことを心配していた、いずれの中学校でも一番
小原にはかれらの気持ちは十分にわかっていた、かれらがそんなことをせずとも、小原自身がまっさきになって暴動を起こしたいのである、だがかれは校長の熱烈な演説と、そのいわんとしていわざる満腹の不平をしのんで、学生は学生らしくすべしという訓戒をたれた
小原はこういうことを柳に語った。
「ねえきみ、ぼくにはよく先生の気持ちがわかった、それはね、ぼくが
「そうかね」
柳はひどく感慨にうたれていった。そうして口の中で、「みんなのことみんなのこと」とくりかえした。
ふたりは停車場へゆくとはや東から西から南から北から見送りの生徒が三々五々集まりつつあった。
集まるものはことごとく少壮の士、ふきだしそうな血は全身におどっている、その
小原はきわめて
かれは一同を広場の片側に整列させた、
これらの動揺の
このさわぎのうちに人々は
「三年がこない」
口から口に伝わって人々はののしりたてた。
「三年のやつは
だがこのののしりはすぐ一種の
「三年は全部結束してつぎの駅の
「いや
この報知はたしかに人々の胸をうった、とまた飛報がきた。
「カトレット先生が辞表をだしたそうだ、漢文の先生は校長を見送ってから辞職するそうだ」
このうわさはますます一同の神経をいらだたせた。
「学校を焼いてしまえ」
だれいうとなくこの声が非常な力をもって
「しずかにしたまえ、諸君、決して軽々しいことをしてくれるな」
小原は血眼になって
「いってみる」と小原はいった。「柳君、しばらくたのむぜ」
かれはげたをぬぎすててはだしになった、そうしてはかまを高くかかげて走りだした。
この熱烈な小原の誠意に
「おれもゆく」
「おれも……」
後藤という投手と浜井という三塁手はすぐにつづいた。
「学校の体面を思えばこそ小原も浜井も後藤もあのとおりに奔走してるんだ、諸君はどう思うか」
柳がこういったとき一同は沈黙した。
「ああありがたいものは先輩だ」と柳はつくづく感じた。
ものの二十分とたたぬうちに町のあなたにさっと土ほこりがたった。大通りの曲がり角から三年生の一隊があらわれた、かれらはちょうど送葬の人のごとくうちしおれてだまっていた、そのまっさきに木俣ライオンが長い旗ざおをになっていた、旗には「浦和に正義なし」と大書せるものがあったが、小原の
「たのむぞ木俣、なあおい」
小原はライオンの肩をたたいてしきりになだめると、木俣はもうねこのごとく柔順になって、おわりにはひとり群をはなれて人陰でないていた。
純粋
かかるさわぎがあろうとは夢にも思わなかった久保井校長は、五人の子と夫人と、女中とそれから八十にあまるひとりの老母と共にあらわれた。
「やあ、これは……」
かれは両側に整列した生徒を見やって立ちどまった。生徒はひとりとして顔をあげ得なかった、水々とした黒い頭、生気のみなぎる
校長はほっとして立ちどまったまま動かない。かれはなにかいおうとしたが涙がのどにつまっていえなかった。かれは全校生徒がかくまで自分を
生徒はやはりなんにもいわなかった。かれらはこの厳粛な
「ありがとう、どうもありがとう」
校長の口からこういう低い声がもれた。実際校長の心持ちは千万言を費やすよりもありがとうの一語につきているのであった、かれはいま九百の青少年から人間としてもっとも美しい精霊を感受することができたのであった。
かれはこういってから老母の手をとってなにやらささやいた。老母は雪のような
こらえこらえた悲しみは大河の決するごとく場内にあふれだした。ライオンはおどりでて叫んだ。
「やれッ」
一同は校歌をうたいだした。
いつ先生が汽車に乗ったか、乗ったときにどんな風であったか、それをつまびらかに知ってるものはなかった、一同がプラットホームへ流れでたときにはや汽車が動きだした。
「久保井先生万歳」
熱狂の声が
窓から半身をだした校長の顔はわかやかに輝いた。かれは両手を高くあげて声のあらんかぎりに叫んだ。
「浦和中学バンザアイ」
「久保井先生バンザアイ」
もう汽車は見えなくなった、生徒はぞろりぞろりと力なく停車場をでた。
ちょうど汽車が動きだしたとき、ひとりの少年が大急ぎでやってきた、改札口が閉鎖されたのでかれはさくを乗り越えようとした。
「いけません」
駅員はかれをつきとばした。かれはよろよろと倒れそうになって泳ぐように五、六歩しざった、そうしてやっと壁に
かれはだまって便所と倉庫らしい建物のあいだへでた、そこには焼きくいの
万歳万歳の声と共に校長の顔があらわれたときかれはじっと目を校長に
かれは阪井
汽車が見えなくなったときかれはようやくさくをはなれて長い
とだれかの声がした。
「生蕃がいる」
「阪井のやつがきている」
少年達の目は一度に阪井にそそがれた、阪井は棒のごとく立ちすくんだ。
「やい生蕃」
まっさきにつめよったのはライオンであった。
「やい」
阪井はだまっている。
「きさまはなにしにきた」
「久保井先生に用事があってきたよ」と阪井はやはり顔もあげずにいった。
「きさまは久保井先生を学校からおいだしたんじゃないか、どの
「…………」
「おい、犬でも
「…………」
「きさまのようなやつはくたばってしまやがれ、きさまのようなやつがいるのは浦和の恥辱だぞ、どうだ諸君、こいつを打ち殺そうか」
「やっちまえやっちまえ」と声々が叫んだ。かれらはいま五分前に先生と悲しい別れをした、満々たる憤怒と悲痛はもらすこともできずに胸の中でうずまいている、なにかの刺激あれば爆発せずにいられないほど血潮がわき立っている。それらの
「やれやれ」
「制裁制裁」
「なぐってくれ!」
いままで罪人のごとく沈黙していた阪井はなんともいえぬ悲痛な顔をして、押しよせくる学友の前に決然と進みでた、そうしてぴたりと大地に座った。
「おれはあやまりにきたんだ、おれは先生にあやまりにきたんだ、おれはおまえ達に殺されれば本望だ、さあ殺してくれ、おれは……おれは……犬にちがいない、畜生にちがいない……」
繃帯を首からつった片手をそのままに、片手は大地について首をさしのべた、火事場のあとをそのままの
「あやまりにきたとぬかしやがる、弱いやつだ、さあ覚悟しろ」
ライオンはほうばのげたのまま、かれの
「畜生!」
「ばかやろう!」
「恩知らず」声々がわいた。
「なぐるのは手のけがれだ、つばをはきかけてやれ」
とだれかがいった。つばの雨がかれの顔となく首となく背中となく降りそそいだ。
「ばかやろう!」
最後に手塚がつばをはきかけた。
「手塚、おまえまでが」
巌はじっと手塚を見詰めたので手塚は人中へかくれた。
「さあ帰ろう」とライオンがいった。「最後にのぞんで足であいつの頭をなでてやろう、さあみんな
げたの
「待ってくれ」
はらわたをえぐるような声と共に柳は巌の
「待ってくれ、阪井は
つるが病むときには友のつるが
「なぜ阪井をなぐるか、なぐったところで校長がふたたび帰ってきやしない、
柳はまっさおになって歎願するように一同にいった。もうだれも手をくだそうとするものもなかった。かれらは
あとに残った柳は、屈辱と悲憤にむせんでいる阪井の頭や背中のどろやつばをふいてやった。
「さあいこう」
阪井はだまっている。
「どこかいたいか、えっ? 歩けないか」
阪井はやはりだまっている。
「さあいこう、ねえ、みっともないじゃないか、車でも呼ぼうか」
手を取ってたすけ起こそうとする柳の手をぐっとにぎって阪井は目をかっとあいた。
「柳、ゆるしてくれ」
「なにをいうんだ、過去のことはおたがいにわすれよう」
「おれはおまえに悪いことばかりした、それだのにおまえは二度ともおれを救うてくれた」
「そんなことはどうでもいいよ、さあいこう」
柳は阪井を
「おれはなあ柳」
阪井は感慨に
「おれは
「どうしてだ」
「おれが今までよいと思っていたことはすべて悪いことなんだ、それがわかったよ」
「それはどういうことだ」
「どういうことっておまえ、すべてだよ、すべてだ、なにもかもおれは悪いことをして悪いと思わなかったのだ、
「そうだとも」
「だからさ……」
阪井はこういったとき、
「君の家まで送ってゆこう」と柳はいった。
「かまわない、もう少し歩こう」
阪井はふたたびなにかいいつづけようとしたが急に口をつぐんで悲しそうな顔をした。
「車に乗れよ」
「何でもないよ……ねえ柳、ぼくはおまえにききたいことがあるんだが」
「なんだ」
「一年のとき、
「ああ、忠孝両道のところだろう」
「うん、君に忠ならんとすれば親に孝ならず、
「ああ」
「
「ああ」
「
「ああ」
「それで重盛はどうしたろう」
「
「そうだ、死を祈った、なぜ死のうとしたんだろう」
「忠孝両道をまっとうできないからさ」
「困ったから死のうというんだね」
「ああ」
「ではおまえ」
阪井の語気はあらかった。
「困るときに死んでしまえばいいのかえ」
「それが問題だよ」
「なにが?」
「自分だけ楽をすればあとはどうなってもかまわないというのは
「じゃ
「理論からいうと、そうなるよ、しかし重盛だってよくよく考えたろうと思うよ」
「そうかね」
阪井は長大息をした。かれはだまって歩きつづけた。そうしてやがてしずかにいった。
「清盛が改心するまで重盛が生きていなければならなかったね」
「さあぼくにはわからないが」
「ぼくにはわかってるよ、わかってるとも、そうでなかったら無責任だ」
柳は阪井を家まで送ってわが家へ帰ってくると途中で手塚に逢った。
「やあ、いま、きみのところへいこうと思ってきたんだよ」
「そうか」
柳は手塚の行為について少なからぬ悪感をもっていたのできわめて冷淡に答えた。
「生蕃はどうした」
「帰ったよ」
「きゃつ、ぼくのことをおこっていたろう」
「どうだか知らんよ、だがおこっているだろうさ、いままできみと阪井とは一番親しかったんだろう、それをきみがみんなと一緒になってつばをはきかけたんだからね」
「だってあいつは悪徒だからさ」
「きみほど悪徒ではないよ」
柳は思わずこういった。手塚はさっと顔をあからめたがそれは憤慨のためではなかった。かれは柳に
「きみ、活動へゆかないか」
「いやだ」
「クララ・キンポールヤングすてきだぜ」
「それはなんだ、西洋のこじきか」
「ははははきみはクラちゃんを知らないのかえ」
「知らないよ」
「話せねえな、一
「活動というものはね、きみのようなやつが見て喜ぶものだよ」
さすがに手塚は目をぱちくりさせて言葉がでなかった。だがこのくらいのことにひるむような手塚ではない。かれはこびるような目をむけていった。
「きみ、ぼくのカナリアが子をかえしたからあげようね」
「いらないよ」
「じゃね、きみは犬を好きだろう、ぼくのポインターをあげようね」
「ぼくの家にもポインターがいるよ」
「そうだね」
手塚はひどく
「きみは生蕃が好きになったのか」
「もとから好きだよ」
「だってあいつはきみを負傷させたじゃないか」
「喧嘩はおたがいだ、生蕃は男らしいところがあるよ」
「じゃ失敬」
「失敬」二人は冷然とわかれた。
光一に送られた
かれの頭の中には停車場前において学友に打たれなぐられつばをはきかけられた光景が浮かんだ。げたで
父の不正! 校長の転任! 学友の反感! 数えきたればすべての非はわれにある。
「巌、どこへいってたの?」
母は心配そうにかれの
「おなかがすいたろう。ご飯を食べない?」
「ほしくありません」
「
「なんでもありません」
「また喧嘩かえ」
「あちらへいっててください」と巌はかみつくようにいった。
「なにをそんなにおこってるんです」
母はきっと目をすえた。その目には不安の色が浮かび、口元には
「なんでもいいです」
「なにか気にさわることがあるならおいいなさい」
「あちらへいってくださいというに」
母はしおしおとでていった。巌は起きあがって母の後ろ姿を見やった。なんともいいようのない悲しみが一ぱいになる。お
「どうしようか」
実際かれは進退にまようた。いままで神のごとく尊敬していた父は悪人なのだ。この失望はかれの単純な自尊心を谷底へ突き落としてしまった。かれにはまったく光がなくなった。
死んでしまおうか。
いや!
二つの心持ちが惑乱して脳の底が重たくだるくなった。かれはじっと机の上を見た。そこに友達から借りた漢文の本がひらいたまま
「
支那に周処という不良少年があった。喧嘩はする。強奪はする。村の者をいじめる、田畑をあらす、どうもこうもしようのない悪者であった。あるときかれの母が大変ふさぎこんでいるのを見てかれはこうきいた。
「お母さんなにかご心配があるのですか」
「ああ、私はもう心配で死にそうだ」と母がいった。
「なにがそんなにご心配なのですか」
「この村に三害といって三つの害物がある。そのために私も村の人も毎日毎日心配している」
「三害とは何ですか」
「
こういって母は周処の顔を見やった。
「いま一つはなんですか」
「おまえだ、おまえがわるいことをして村の害をなす、とらとりゅうとおまえがこの村の三害だ」
この話を聞いた周処は
「お母さん、ご安心なさい、ぼくは三害をのぞきましょう」
周処は南山へ行って白虎を殺し、長橋へいって赤竜を殺し、自分は品行を正しくして村のために善事をつくした。ここにおいてこの村は太平和楽になった。
巌は読むともなしにそれを読んだ。
「三害を除こう、おれは男だ」かれはこう叫んだ。
「おれに悪いところがあるならおれが改めればいい、お
かれは立って
かれは窓を開いて外を見やった、すずしい風が庭の若葉をふいてすだれがさらさらと動いた、木々の緑はめざめるようにあざやかである。
「
らっぱの音と交代にチビ公の声が聞こえる。
「チビ公だ」かれは伸びあがってへいの外を見やった。
「とうふい――」
暑い日光をものともせず、大きなおけをにのうてゆくチビ公のすげ笠がわずかに見える。
「おれはあいつにあやまらなきゃならない」巌は
「青木! おい、

