チビ公と光一は裏門通りから清水屋横町へでた。そこでチビ公は知り合いの
「家の伯父さんを見ませんか」
「ああ見たよ」と八百屋がいった。
「さっきね
「どこへいったでしょう」
「さあ、停車場の方へいったようだ」
「酔ってましたか」
「ちとばかし酒臭かったようだったが、なあチビ公早くゆかないと、とんだことになるかもしれないよ」
「ありがとう」
チビ公はもう胸が一ぱいになった、ようやく
ふたりは足を早めた。停車場へゆくと伯父さんの姿が見えない、チビ公は巡査にきいた。
「ああきたよ」
「何分ばかり前ですか」
「さあ三十分ばかり前かね」
「どっちの方へゆきましたか」
「さあ」と巡査は首をかしげて、「
ふたりは大通りへ道を取った。
「どうしてこういやなことばかりあるんだろうね」と光一はいった。
「ぼくが思うに、この世の中にひとり悪いやつがあると世の中全体が悪くなるんです」とチビ公はいった。
「だがきみ、社会が正しいものであるなら、ひとりやふたりぐらい悪いやつがあってもそれを撃退する力があるべきはずだ」
「それはそうだが、しかし悪いやつの方が正しい人よりも知恵がありますからね、つまり君の学校の校長さんより阪井の方が知恵があります、どうしても悪いやつにはかないません」
「そんなことはない」と光一は顔をまっかにして叫んだ。「もしこの世に正義がなかったらぼくらは一日だって生きていられないのだ、ぼくは悪いやつと戦わなきゃならない、この世の悪漢をことごとく撃退して正義の国にしようと思えばこそぼくらは学問をするんじゃないか」
「それはそうだが、しかし強いやつにはかないません、正義正義といったところで、ぼくの伯父は
ふたりは警察署の前へきた、いましも七、八人の人々がひとりの男を引き立てて門内へはいるところであった。チビ公は電気に感じたようにおどりあがって人々の後を追うた。とまたすぐもどってきた。
「伯父さんかと思ったらそうでなかった」
かれは安心したもののごとく眼を輝かした、そうしてこういった。
「喧嘩して人をきったんですって、それはいいことではないが、ぼくはああいう人を見ると、なんだか、その人の方が正しいような気がしてなりません、時によるとぼくもね、ぼくがもし
チビ公は涙ぐんで歎息した、光一はなにもいうことができなくなった。かれはいままで正義はかならず邪悪に勝つものと信じていた。それが
ふたりはだまって歩きつづけた。と米屋の横合いから突然声をかけたものがある。
「柳君!」
それは手塚であった。このごろ手塚は裏切り者として
「ぼくはすてきにおもしろい小説を買ったからきみに見せようと思ってね……いまは持っていないけれども晩に届けるよ。『春の悩み』というんだ」
「ぼくは小説はきらいだ」と光一はいった。
「ああそうか」と手塚はべつに恥じもせず、「それじゃ『世界の怪奇』てやつを君に見せよう、胴体が百五十
かれは軽快にこういってからつぎにさげすむような口調でチビ公にいった。
「どうだチビ公、その後は……商売をやってるの?」
「毎日やっています」とチビ公はいった。
「たまにはぼくの家へもよりたまえね、
「チビ公というのは失敬じゃないか、ぼくらの学友だよ」と光一はむっとしていった。
「そうだ、やあ失敬、
手塚は
「きみの伯父さんがいまあそこであばれていたよ」
「どこで?」とチビ公は顔色をかえた。
「税務署で」
「税務署?」
「よっぱらってるから役場と税務署とを間違えて飛びこんだのだよ、阪井を出せ、どろぼうをだせってどなっていたよ」
「ありがとう」
チビ公は
少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって政治の運用は人民の手をもって行なうのである。人民はそのために自分の信ずる人を代議士に選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。
これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義を共にする者は集まって一団となる、それを政党という。
政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに
阪井猛太は自党の多数をたのみにして助役の地位にあるのを幸いに、不正工事を起こして自党の利益にしようとした、これに対する立憲党は町会において
「ばかなやつらだ、あいつらにぼくの親父の
かれは
その日かれは
「さすがの猛太も
「町長だってどうやら
「いや町長はなかなかいい人だ」
ふたりの話を聞きながら巌はまたしてもはらのうちで冷笑した。
「町長なんて、それはおれの
かれはこう思うて家へ帰った、父はすでに帰っていた、だまってにがりきった顔をして座っていたので巌はつぎの
「おい巌」と猛太は
「はい」
「きさま、どこへいってきた」
「
「なにしにいった」
「頭を刈りに」
「ばかッ、頭を刈ったってきさまの頭がよくなるかッ」
「お母さんがゆけといったから」
「お母さんもばかだ、頭はいくらだ」
「二十銭です」
「二十銭で頭を刈りやがって、学校を退校されやがって」
巌はだまった、二十銭の頭と自分の退校といかなる関係があるかと考えてみたがかれにはわからなかった。こういうときに家にいるとろくなことがないと思ったのでかれはそっと外へでた。町を一巡してふたたび帰ると父の
母はどこへいったか姿が見えない、父と土井老人は酒を飲みながら話はよほど佳境に入ったらしい。
「心配するなよ、なんでもないさ、そんな小さな量見では天下が取れないぜ」
父の声は快活豪放であった。
「でも……そのね、町会があんなにさわぎ出すと、どうしてもね……」
「もういいよわかったよ、おれに考えがあるから、なにをばかな、はッはッはッ」
わらいがでるようでは父はよほど
「しかし、いよいよ
「なにをいうか、検事がきたところでなんだ、
「帳簿はその……」
「焼いてしまえ」
老人は「あっ」と声をあげたきりだまってしまった。
「はッはッはッ」と猛太はわらった。が巌の足音を聞いてすぐどなった。
「だれだッ」
「ぼくです」
「巌か、
巌はだまって自分の室にはいり机に向かって本を読みはじめた、かれは本を読むと眠くなるのがくせである、いく時間机にもたれて眠ったかわからないが、がらがらと戸をあける音に眼をさますと、客はすでに去り、母も床についたらしい。
「なんだろう」
こう思ったときかれは父が外へでる姿を見た。
「どこへゆくんだろう」
「父を保護しなきゃならん」
巌は立ちあがった、かれは細身の刀をしこんだ黒塗りのステッキ(父が昔愛用したもの)を小脇にかかえて父のあとをつけた。
「どこへゆくんだろう」
巌はこう思いながら父と二十歩ばかりの間隔を取ってさとられぬように
「役場へゆくんだ」
この深夜に役場へゆくのはなんのためだろう、巌の頭に
「どうしたことだろう」
巌はあっけに取られたがすぐこう思いかえした。
「なにかわすれものをしたのだろう」
だがこのときかれはぱっと
「なぜ電灯をつけないんだろう」
ふたたび火光がぱっとひらめいた。ゆがんだような反射がガラスをきらきらさせた、それはろうそくの光でもなければガスの光でもない、
巌はわれをわすれて窓によじのぼり、
巌はいきなり、そこにある机かけをとって床の上の火炎をたたきだした。
「だれだ」と父は忍び声にどなった。
「ぼくですお父さん」
「おまえか……なにをする」
「消しましょう」
「あぶない、早く逃げろ」
「消しましょう」と巌はなおも火をたたきながらいった。
「
ぱちぱちとけたたましい音がして黒煙はいくつとなく並んだテーブルの下をくぐって噴水のごとく向こうの穴から噴きだした。窓という窓のガラスは昼のごとく反射した。
「もうだめだ、早く早く、下を
「消しましょう」
と巌は三度いった。
「なにをいうか、ぐずぐずしてると死ぬぞ」
「死んでもかまいません、消しましょう、お
「ばかッ、こい」
父はむずと巌の手をつかんだ、巌はその手をにぎりしめながらいった。
「お父さん、あなたは証拠書類を焼くために、この役場を焼くんですか」
「なにを?」
父は手を放してよろよろとしざった。
「消してください、お父さん」
巌は
「消してください」と巌は苦しそうになおも叫びつづけた。
「巌! どこだ、巌!」
父はわが身をわすれて煙の中に巌をさがした。
「消して……消して……お父さん」
ごぶごぶごぶと湯のたぎるような音が、そこここに聞こえた。それはいすの綿や、毛類や、
「巌! 巌!」
父は声をかぎりに叫んだ。答えがない。
「巌! 巌!」
やっぱり答えがない。
猛太は
「巌!」
猛太の胸ははりさけるばかりである、かれはもう
かれは煙に巻かれて
「やあ覚平!」
かれはこう叫んで倒れそうになった、とたんに覚平の腕は早くもかれの胴体をかかえた。
「おい、しっかりしろ」と覚平はいった。
「きさまはおれを殺しにきたのか」
「助けにきたんだ」
覚平は猛太と巌を左右にかかえた、そうして全力をこめて窓の外へおどりでた。
当直の人々や近所の人々によって火は消されたが、室内の
人々は窓の外に倒れている猛太父子を病院に送った。覚平は人々とともに消火につとめた、さわぎのうちに夜がほのぼのと明けた。
町は
「これは同志会すなわち役場派の者が
「役場反対派すなわち立憲党のやつらが役場を疑わせるために故意に放火したのだ」
色眼鏡をもってみるといずれも道理のように思える。だが多数の人はこういった。
「猛太父子が一命を投げだして消火につとめた
こういって人々は猛太が浦和町のためにめざましい働きをしたことを口をきわめて称讃した、それと同時に巌の功労に対する称讃も八方から起こった。
半死半生のまま病院へ運ばれたまでは意識していたがその後のことは巌はなんにも知らなかった。かれが病院の一室に目がさめたとき、全身も顔も
「目がさめて?」
母の声が
「お
「そこにやすんでいらっしゃいます」
巌は向きなおろうとしたが痛くてたまらないのでやっと首だけを向けた、ちょうど
「お父さんはどんなですか」
「大したこともないのです、手だけが少しひどいようですよ」
「それはよかった」
巌はこういってふたたびつくづくと父の寝顔を見やった。
「これがぼくのお父さんなのかなあ」
ふとつぶやくようにこういった。
「なにをいってるの?」と母は微笑した。
「いや、なんでもありません」
巌はだまった、かれの頭にはふしぎな
かれは幼少からわが父を尊敬し崇拝していた、学識があり胆力があり、東京の知名の士と親しく交わって浦和の町にすばらしい勢力のある父、正義を叫び人道を叫び、政治の覚醒を叫んでいる父!
実際かれはわが父をゆいつの
「お父さんは悪い人だ」
かれは大声をだしてなきたくなった。かれにはなにものもなくなった。
「悪い人だ!」
いままで父に教えられたこと、しかられたこと、それらはみんなうそのように思えた。
焼けてちぢれたひげがむにゃむにゃと動いて、口がぽっかりあいて乱ぐいの歯があらわれたかと思うと猛太は目をぱっちりと開いた。父と子の視線が合った。
「おう、目がさめたのか、どうだ、痛むか」
父は起きなおっていった。
「なんでもありません」と巌は冷ややかにいった、父は寝台を降りようとして首につった繃帯を気にしながら巌の寝台へ寄りそうた、そうして心配そうな目を巌の顔に近づけた。
「元気をだせよ、いいか、どこも痛みはしないか、苦しかったら苦しいといえよ」
巌はだまって顔をそむけた、苦しさは首をのこぎりでひかれるより苦しい、しかしそれは
猛太父子の見舞いにとて来客が殺到した、町の人々はいろいろな物品を贈った、猛太は左の腕と左の脚を焼いたので外出はできなかった、かれは寝台の上に座って来客に接した。かれはこう人々にいった。
「せがれが命がけでやってくれたもんだからやっと消しとめましたよ」
それからかれはせがれとふたりで役場の前を通ると火の光が見えたので、窓をたたきこわして中へはいったがその時は重要書類が焼けてしまったあとであったのがなにより残念だといった。人々はますますふたりの勇気に感激した。そうして町会は決議をもってふたりに感謝状を贈ろうという相談があるなどといった。
「うそをつくことはじつにうまい」と巌はおどろいて胸をとどろかした。そうして町の人がなにも知らずに、役場を焼こうとした犯人に感謝状を贈るとはなにごとだろうと思った。
二、三日はすぎた、町のうわさがますます高くなった、だがある日町長が顔色を変えてやってきた。
「みょうなうわさがでてきたよ」とかれはいった。「放火犯人は役場員だというのでな」
「けしからんことだ」と猛太は叫んだ。
「警察の方では、どうもその方にかたむいているらしい。そこでだね、きみになにか心あたりがあるならいってもらいたいんだが」
「なんにもありやしない」と猛太はにがりきっていった。
「きみがいったとき、犯人らしいものの姿を見なかったかね」
「さあ」
猛太は下くちびるをかんでじっと考えこんだ。
「かれらがいうには、阪井が工事の帳簿を焼こうとしたんだとね、こういうもんだから、まさか親子連れで火をつけに歩きまわるやつもなかろうじゃないかと私は
「見た」と猛太は力なき声でいった。
「見た?」
「ああ見た」
「どんな風体の者だ」
「それは覚平によく似たやつだった」
巌は頭の脳天から氷の棒を打ち込まれたような気がして思わず叫んだ。
「ちがいますお父さん」
「だまっておれ」と猛太はどなって巌をハタとにらんだ、目は殺気をおびている。
「覚平か」と町長は身体をぐっとそらしたがすぐ両手をぴしゃりとうった。
「そうだ、それにちがいない。あいつはきみにうらみがあるから、きみに放火犯人の疑いをかけさせようと思って放火したにちがいない、例の工事問題が起こってる最中だから、きみが帳簿を焼くために火をつけたのだろうとは、ちょっとだれでも考えることだからな、いやあいつはじつにうまく考えたものだ」
「そうだ、ことによると立憲党のやつらが覚平を
「いよいよおもしろい」と町長はいすを乗りだして、「これを機会に根底から立憲党を
「ちがいます」と
「ばかッ、だまってろ、おまえはなんにも知らないくせに」と猛太はどなった。
「なんにしてもあいつがその場にいたということがふしぎじゃないか」と町長がいった。
「そうだそうだ」
町長は喜び勇んで室をでていった。あとで猛太はそのまま身動きもせずに考えこんだ。巌は
巌の目からはてしなく涙が流れた、かれはそれをこらえようとしたがこらえきれずにしゃくりあげた。
「お父さん」とかれはとうとういった。父はやはりだまっている。
「お父さん、あなたはぼくのお父さんでなくなりましたね」
「なにをいうか」と父はどなった。
「お父さんはぼくにうそをつくなと教えました。それだのにあなたはうそをついています、あなたはぼくに義侠ということを教えました。それだのにあなたは命を助けてくれた恩人を罪におとしいれようとしています、ぼくのお父さんはそんなお父さんじゃなかった」
「生意気なことをいうな、おまえなぞの知ったことじゃない、おれはなおれひとりの
「むつかしいことはぼくにわかりませんが、お父さん、自分の罪を他人に着せて、それでもって天下国家がおさまるでしょうか」
「ばかばかばか」と父は大喝した。そうして急いで室をでようとした。
「待ってください」
巌は痛さをわすれて寝台の上に
「ちょっとまってください、お父さん、ぼくの一生のおねがいです」
「放せ、放さんか」と父は叫んだ。
「放しません、お父さん、たった一言いわしてください、お父さん、ぼくは不孝者です、学校を退学されました、町の者ににくまれました、それはねえお父さん、ぼくの考えがまちがっていたからです、お父さんはぼくがおさないときからぼくに強くなれ強くなれ、人よりえらくなれと教えました、ぼくはどんなことをしても人よりえらくなろうと思いました、それでぼくはえらくなるためには悪い手段でもかまわないと信じていました、ぼくは小刀やピストルをふりまわして友達をおびやかしました。柔道や剣道で
「きさまはきさまはきさまは」と猛太はまっかになってそれをはらった。
「ばかやろう! 親不孝者!
父はさっさとでていった。
「お父さん!」
巌は寝台の縁に片手をかけ、
「お父さん待って……」
かれは痛みをこらえて起きあがろうとしたが
「待ってください……お父さん!」
ふたたび起きあがるとまた左の方へ倒れる。
「おとう……とう……と、と、と……」
声は次第に弱った、涙は泉のごとくわいた、そうして片息になって寝台に手をかけた、もう
病院の外で子供等がうたう声が聞こえる。
「夕やけこやけ、あした天気になあれ」

