TOP連載小説>佐藤紅緑 - ああ玉杯に花うけて 
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草枕 一

 商売を早くしまってチビ公はやくそくどおり柳光一の誕生日にいくことにした。豆腐屋のはんてんをぬぎすててかすりの着物にはかまをはいたときチビ公はたまらなくうれしかった。一年前まではこうして学校へいったものだと思うとかれは自分ながら懐旧かいきゅうの情がたかまってくるように思われた。母はてぬぐいと紙をだしてくれた。
「柳さんの家は金持ちだからね、ぎょうぎをよくして人にわらわれないようにおしよ」
 こうくりかえしくりかえしいった、それからご飯のときの心得こころえや、挨拶あいさつの仕方までおしえた。そういうことは母は十分にくわしく知っていた。
「かまわねえ、豆腐屋の子だから豆腐屋らしくしろよ、なにも金持ちだからっておせじをいうにゃあたらねえ」と伯父おじ覚平かくへいがいった。覚平は元来金持ちと役人はきらいであった、かれは朝から晩まで働いて、ただ楽しむところは晩酌ばんしゃくの一合であった。だがかれは一合だけですまなかった。二合になり三合になり、相手があると一しょうの酒を飲む。それだけでやまずにおりおり外へでて喧嘩をする、かれはうとかならず喧嘩をするのであった。そのくせ飲まないときにはほとんど別人のごとく温和でやさしくてにこにこしている。
「じゃいってまいります」
「いっておいで」
 チビ公はあたらしいてぬぐいをはかまのひもにぶらさげ、あたらしいげたをはいて家をでた。光一の家へゆくとすでに五、六人の友達がきていた、その中には医者の子の手塚もいた、光一の家は雑貨店であるが光一の書斎しょさいははなれの六じょうであった。となりの六畳室のふすまをはずしてそこに座蒲団ざぶとんがたくさんしいてあった。先客はすでに蓄音器ちくおんきをかけてきいていた。
「よくきてくれたね、青木君」と光一はうれしそうにいった。
今日こんちはおめでとう」とチビ公はていねいにおじぎをした。あまりに礼儀正しいので友達はみなわらった。
「やあ青木君」
「やあ」
 一年前の同級生のこととてかれらは昔のごとくチビ公を仲間に入れた。次第次第に客の数がふえてもはや十二、三人になった、かれらは座蒲団を敷かずに縁側えんがわにすわったり、庭へでたりしたがお菓子やくだものがでたので急に室内に集まった。手塚はこういう会合にはなくてならない男であった。かれは蓄音機係として一枚一枚に説明を加えた。
「ぼくはね、カルメンよりトラビヤタの方がすきだよ」とかれがいった。
「ぼくは鴨緑江節おうりょっこうぶしがいい」とだれかがいった。
「低級趣味しゅみを発揮するなよ」と手塚はいった。そうしてトラビヤタをかけてひとりでなにもかも知っているような顔をして首をふったり感心した表情をしたりした。
 片隅では光一をとりまいた四、五人が幾何学きかがくによって座蒲団二枚を対比して論じていた。
「そら、角度が同じければ辺が同じだろう」とひとりがいう。
「等辺三角形は角度も相等しだ」と光一がいった。
 チビ公に近いところにたむろした一団は物体と影の関係について論じていた、洋画式でいうと物体にはかならず光の反射がある、どんなに影になっている点でもかすかな反射がある、この反射と影とは非常にまぎらわしいので困るとひとりがいった。するとひとりは影そのものにも反射があるといいだした。
 チビ公はびっくりしてものがいえなかった、かれはたった一年のあいだに友達の学問が非常に進歩し、いまではとてもおよびもつかぬほど自分がおくれたことを知った。幾何きかや物理や英語、それだけでもいまでは異国人のように差異ができた、こうして自分が豆腐屋とうふやになりだんだんこの人達とちがった世界へ墜落ついらくしてゆくのだと思った。
「ねえきみ、ぼくらにはなんの話だかわからないね」
 かれは隣席の豊松とよまつという少年にこうささやいた。豊松は八百屋やおやの子で小学校を卒業するまでに二度ほど落第した、チビ公よりは二つも年上だが、そのかわりに身体からだが大きく力が強い、そのわりあいに喧嘩が弱く、よく生蕃になぐられては目のまん中から大粒おおつぶの涙をぽろりと一粒こぼしたものだ、今日きょう集まった人々の中で中学校へもいかずに家業においつかわれているものは豊公とチビ公の二人だけであった、かれは学問やなにかの話よりも昔の友達がみな制服を着てるのに自分だけが和服でいるのがはずかしかった。
「あの人達は学者になるんだよ、おれ達とはちがうんだ」とかれはいった。
「そうだね、おれ達はなんになろうたって出来やしない」とチビ公がいった。
「金持ちはいいなあ」と豊公は嗟嘆さたんした。「いい着物を着ておいしいものを食べて学校へ遊びにゆく、貧乏人びんぼうにんは朝から晩まで働いて息もつけねえ、本を読みかけると昼のつかれで眠ってしまうしな」
「きみ、お父さんがあるの?」とチビ公がきいた。
「ないよ、きみは?」
「ぼくもない」
「親がないのはお金がないよりも悲しいことだね」
「それにぼくは力がない、きみは力があるからいいさ」
「力があってもだめだ」と豊公は急に腹だたしく、「おれは毎朝生蕃になぐられるんだ、そしていもだの豆だのなしだのかきだのぶんどられるんだ、それでもおれはだまってなきゃならない」
「ぼくも毎朝豆腐を食われるよ、きみなぞは力があるからなぐりかえしてやるといいんだ」
「だめだよ」と豊公はあやうくこぼれようとする涙をこらえていった。「あいつのお父さんは役場の役人だろう」
 チビ公はだまっていきをついた。向こうではいま手塚が得意になって活動弁士の口まねをしていた。
「主はだれ、むらさきの覆面ふくめん二十三騎くつわをならべて……タララララタ、タララララタ、プカプカプカララララララ」
「うまいぞうまいぞ」と一同が喝采かっさいした。
「もう一つもう一つ」
 手塚は得意になってうぐいすのなき声、やぎ、ペリカン、ねこ、ねこが屋根から落ちて水たまりにぴしゃりとおちた音などをつづけざまにやった。かれはものまねがじょうずでなにごとについても器用であった。それからかれはハイカラなはやりうたをうたった。
「ぼくらにゃわからない」とチビ公はいった、実際見るもの聞くものごとにかれは旧友達よりはるかにおくれたことに気がついた、朝は学校へゆく、必要な書籍や雑誌はお金をおしまず買ってもらう、学校から帰ると活動写真を見にいっていろいろなことをおぼえてくるのだ、てんびん棒をかついで家をいで、つかれて家へ帰りそのまま寝てしまう自分等とはあまりに身分の差がある。
 お膳が運ばれた、チビ公は小さくなってへやの隅にすわった、かれは今日きょうこの席へこなければよかったと思った。いろいろな空想は失望や憤慨ふんがいにともなって頭の中に往来した。人々はさかんにお膳をあらした、チビ公はだまってお膳を見るとたいの焼きざかなにきんとん、かまぼこ、まぐろの刺身さしみは赤く輝き、ものは暖かに湯気をたてている。かれは伯父おじさんを思いだした、伯父さんはいつも口ぐせにこういった。
「まぐろの刺身で一ぱいやらかしたいもんだなあ」
 これを伯父さんへ持っていったらどんなに喜ぶだろう、かれはこう思いかえした、そうしてたいは伯母おばさんと母が好きだからかまぼこだけは家へかえってからぼくが食べよう。
 食事がおわってからまたもや余興がはじまった、チビ公はいとまをつげてひと足早く光一の家をでた、かれはてぬぐいに包んださかなのばこを後生大事に片手にぶらさげ、昼のごとく明るい月の町をひとりたんぼ道へさしかかった。道のかなたに見える大きな建物は一年前に通いなれた小学校である。月下の小学校はいま、安らかに眠っている。はしご形の屋根のむねからななめにひろがるかわらの波、思いだしたようにぎらぎら反射する窓のガラス、こんもりとしげった校庭の大樹、そこで自分は六年のあいだ平和に育った、そこにはあらい風もふかず冷たい雨も降らず、やさしい先生の慈愛の目に見まもられて、春の草に遊ぶ小ばとのごとくうたいつ走りつおどりつわらった、そこには階級の偏頗へんぱもなく、貧富の差異もなく、勉強するものは一番になりなまけるものは落第した、だが六年のおわり! おおそれは喜ぶべき卒業式か、はたまた悲しむべき卒業式か、告別の歌をうたうとともに同じのはとやすずめは西と東、上と下へ画然かくぜんとわかれた。
 親のある者、金のある者はなお学府の階段をよじ登って高等へ進み師範しはんへ進み商業学校へ進む、しからざるものはこの日をかぎりに学問と永久にわかれてしまった。
 チビ公は月光をあびながら立ちどまって感慨にふけった。
「やいチビ」
 突然とつぜん声が聞こえて路地の垣根から生蕃があらわれた。
折詰おりづめをよこせ」
「いやだよ」とチビ公は折り箱をふところに押しこんだ。
「いやだ? こら豊松はおとなしくおれにみつぎをささげたのにおまえはいやだというのか」
「いやだ、これは伯父おじさんにあげるんだから」
「やい、こらッ、きさまはおれのげんこつがこわくないかよ」
 生蕃は豊公から掠奪したたいの尾をつかんで胴のところをむしゃむしゃ食べながらいった。
「阪井君、ぼくは毎朝きみに豆腐とうふを食われてもなんともいわなかった、これだけは堪忍かんにんしてくれたまえ、きみは豊公のを食べたならそれでいいじゃないか」
「きさまは豊公をぎせいにして自分の義務をのがれようというのか」
「義務だって? ぼくはなにもきみにさかなをやる義務はないよ」
「やい小僧こぞう、こらッ、三年のライオンを退治たいじした生蕃を知らないか、よしッ」
 生蕃の手が早くもチビ公のふところにはいった。
「いやだいやだぼくは死んでもいやだ」
 チビ公は両腕を組んでふところを守った。
「えい、面倒だ」
 生蕃はずるずると折り箱をひきだした、チビ公は必死になって争うた。一は伯父おじを喜ばせようという一心にのぼせつめている、一はわが腹をみたそうという欲望に気狂きぐるわしくなっている。大兵だいひょうとチビ公、無論敵しべくもない、生蕃はチビ公の横面をぴしゃりとなぐった、なぐられながらチビ公はてぬぐいのはしをにぎってはなさない。
「えいッ」
 声とともにけあげた足先! チビ公はばったりたおれた。ふたたび起きあがったときはるかに生蕃の琵琶歌びわうたが聞こえた。
「それ達人は大観す……栄枯は夢かまぼろしか……」
 チビ公の目から熱い涙がとめどなく流れた、金のためにさいなまれたかれは、腕力のためにさいなまれる、この世のありとあらゆる迫害はくがいはただわれにのみ集まってくるのだと思った。
 はかまのどろをはらってとぼとぼと歩きだしたが、いろいろな悲憤ひふんが胸に燃えてどこをどう歩いたかわからなかった、かれはひょろ長いポプラの下に立ったときはじめてわが家へきたことを知った、家の中では暗い電灯の下で伯父おじが豆をひいている音が聞こえる。
「ぎいぎいざらざら」
 うすをもるる豆の音がちょうどあられのようにいかめしい中に、うすのすれる音はいかにも閑寂かんじゃくである、店の奥には母が一生懸命に着物をうている。やせた顔におくれ毛がたれて切れ目の長い目で針を追いながらふと手をやめたのはわが子の足音を聞きつけたためであろう。
「折詰がない」
 こう思ったときチビ公はこらえられなくなってなきだした。
「だれだえ」
 母の声がした。
千三せんぞうか」
 石うすの音がやんだ。そうして戸をあけるとともに伯父おじの首だけが外へ出た。
「なにをしてるんだ千三」
 チビ公はだまっている。
「おい、ないてるのか」
 伯父は手をひいて家へいれた。母は心配そうにこのありさまを見ていた、伯母おばはすでに寝てしまったらしい。
「どうしたんだ」
「伯父さんにあげようと思ってぼくは……」
 チビ公はとぎれとぎれに仔細しさいを語った。
「まあ着物はやぶけて、はかまはどろだらけに……」
 と母も悲憤ひふんの涙にくれていった。
「助役の子だね、阪井の子だね、よしッ」
 伯父の顔はまっかになったかと思うとすぐまっさおになった。かれは水槽みずおけへりにのせたてぬぐいを、ふところに押しこんで家を飛びだした。
「伯父さんをとめて」と母が叫んだ。チビ公はすぐ外へ飛びだした。
「だいじょうぶだ、心配すな、みんな寝てもいいよ」
 伯父さんは走りながらこういった。
「待っておいで」
 母はこういってぞうりをひっかけて伯父のあとを追うた。チビ公は茶の間へあがって時計とけいを見た、それは九時を打ったばかりであった。チビ公はあがりかまちに腰をかけて伯父と母の帰りを待っていた。伯母さんは昼の中は口やかましいにかかわらず夜になるとまったく意気地いくじがなくなって眠ってしまうので起こしたところで起きそうにもない。豆腐屋とうふやは未明に起きねばならぬ商売だ、チビ公は昼の疲れにうとうとと眠くなった。
「眠っちゃいけねえ」とかれは自分をしかりつけた、がいったんおそいきたった睡魔すいまはなかなかしりぞかない、ぐらりぐらりと左右に首を動かしたかと思うと障子に頭をこつんと打った、はっと目をさまして庭へ出て顔を洗った、月はポプラの枝々をもれて青白い光を戸板や石うすやこもや水槽みずおけに落とすと、それらの影がまざまざと生きたようにういてくる。チビ公は口笛をふいた。
 時計は十時を打った。
「伯父さんが喧嘩をしてるんじゃなかろうか、もしそうだとすると」
 チビ公はこう考えたとき少年の血潮ちしおが五体になりひびいた。
「阪井の家へいったにちがいない、だが阪井の親父は助役だ、子分が大勢だ、伯父さんひとりではとてもかなわないだろう、そうすると……」
 かれはもうだまっていることができなくなった、身体からだは小さいがおれの方が正しいんだ、伯父さんを助けてあげなきゃならない。
 かれは雨戸のしんばり棒をはずして手にさげた、それからじょうぶそうなぞうりにはきかえて外へでた、めざすところは阪井の家である、かれは今にも伯父が乱闘乱戦に火花をちらしているかのように思った、胸が高鳴りして身体からだがふるえた。町に松月楼しょうげつろうという料理屋がある、その前にさしかかったときかれはただならぬ物音を聞いた。ひとりの男がはだしのまま、
「医者を医者を」と叫んで走った。すると他の男がまた同じことをいって走った。
「もしや伯父がここで……」とチビ公は直感した、とたんに暗がりから母が飛びだしてチビ公の肩にもたれた。
「大変だよ千三せんぞう、伯父さんが……」
 母はなかばなき声であった。ばらばらと玄関げんかんに五、六人の影があらわれた。
「悪いやつをなぐるのはあたりまえだ、おれの家の小僧こぞうをおどかして毎朝豆腐とうふ強奪ごうだつしやがる、おれは貧乏人びんぼうにんだ、貧乏人のものをぬすんでも助役の息子むすこならかまわないというのか」
 たしかに伯父さんの声である。
「子どもの喧嘩にでしゃばって、相手の親をなぐるという法があるか」
 二、三人がどなった。
「あやまらないからなぐったんだ」
「ぐずぐずいわんと早く歩け」
「おれをどうするんだ」
 五、六人の人々が玄関口で押しあった。その中から伯父さんの半裸体はんらたいの姿があらわれた、伯父さんの顔はまっさおになってくちびるから血がしたたっていた、かれのやせた肩は呼吸の度ごとにはげしく動いた。
「さあでろ」と巡査じゅんさがいった。
「はきものがない」と伯父さんがいった。
「そのままでいい」
「おれはけだものじゃねえ」
 だれかが外からぞうりを投げてやった、伯父さんはそれをはいた。
「伯父さん!」とチビ公は門内にかけこんでいった。
「おお千三か、おまえのかたきは討ってやったぞ、いいか明日あすから商売に出るときにはな、鉄砲となぎなたとわきざしとまさかりと七つ道具をしょってでろ、いいか、助役のせがれが強盗ごうとうにでても警察では豆腐屋を保護してくれないんだからな」
 こういった伯父さんの息は酒くさかった。
「歩け」と巡査がいった。
「待ってくださいおまわりさん」とチビ公は巡査の前にすわった。
「伯父さんはってるんです、伯父さんをゆるしてください、明日あすの朝になって酒がさめたら伯父さんと一緒いっしょに警察へあやまりにまいります、伯父さんがいなければ私一人では豆腐を作ることができません」
 チビ公の声は涙にふるえていた。
「なにをぬかすかばか」と伯父さんがどなった。
「商売ができなかったらやめてしまえ、商売をしたからって助役の息子に食われてしまうばかりだ」
 伯父さんはのそのそと歩きだした、かれは門の外になくなく立っている妹(チビ公の母)を見やって少し躊躇ちゅうちょしたが、
「あとはたのむぜ、おれは強盗ごうとうの親玉を退治たいじたんだから、これから警察へごほうびをもらいにゆくんだ」
 母がなにかいおうとしたが伯父はずんずんいってしまった、ひとりの巡査と、ふたりの町の人がつきそうていった。チビ公と母はどこまでもそのあとについた、伯父さんは警察の門をはいるときちらとふたりの方をふり向いた。
こまったねえ」と母がいった。
「阪井にけがをさしたんでしょうか」
「そうらしいよ、たいしたこともないようだが、それでも相手が助役さんだからね」
「今晩帰ってくるでしょう?」
「さあ」
 ふたりは思い思いの憂欝ゆううつをいだいて家へ帰った、母は戸口に立ちどまって深いいきをついた、かのじょ伯母おばのおせんをおそれているのである、伯父は親切だが伯母はなにかにつけて邪慳じゃけんである、たよるべき親類もない母子おやこは、毎日伯母の顔色をうかがわねばならぬのであった。
 ふたりはようやく家へはいった、そうして伯母を起こして仔細しさいを語った。
「へん」と伯母は冷ややかにわらった。「なんてえばかな人だろう、この子がかわいいからって助役さんをなぐるなんて……明日あすから商売をどうするつもりだろう、どうしてご飯を食べてゆくつもりなの?」
 お仙は眠い目もすっかりさめて口ぎたなく良人おっとをののしった。
「商売はぼくがやります、伯母さん、そんなに伯父さんを悪くいわないでください」
 チビ公は決然とこういった。
「やれるならやってみるがいいや、おら知らないよ」
 お仙はふたたび寝床へもぐりこんだ、チビ公と母のお美代みよは床へはいったがなかなか眠れない。
「なによりもね、さしいれ物をしなくちゃね」とお美代がいった。
「さしいれ物ってなあに?」
「警察へね、毛布だのお弁当だのを持っていくんだよ、警察だけですめばいいけれどもね」
「おかあさんが弁当をこさえてくれればぼくが持っていくよ」
「それがね、お金を弁当屋にはらって、さしいれしてもらうのでなきゃいけないんだよ」
「いくら?」
「一ぺんの弁当は一番安いので二十五銭だろうね」
「三度なら七十五銭ですね」
「ああ」
「七十五銭!」
 七十五銭はチビ公ひとりが一日歩いてもうける分である、それをことごとく弁当代にしてしまえば三人がどうして食べてゆけよう。チビ公は当惑とうわくした。
「豆をひくにしてもるにしても、おまえの腕ではとてもできないし、わたしの考えでは当分休むよりほかにしかたがないが、そうすると」
 お美代はしみじみといった。
「休みません、伯父さんのできることならぼくがやってみせます、ぼくのために助役をなぐった伯父さんに対してもぼくはるす中りっぱにやってみせます」
「でもさしいれ物はね」
「お母さん、ぼくの考えではね、お母さんもぼくと一緒いっしょ豆腐とうふを作って、それから伯父さんの回り場所を売りにでてください、二人ふたりでやればだいじょうぶです」
「そうだ」とお美代はうれしそうにいった。「そうだよ千三、私は女だからなにもできないと思っていたが、今夜から男になればいいのだ、伯父さんと同じ人になればいいのだ、そうしようね」
「お母さんに荷をかつがせて豆腐を売らせたくはないんだけれども……お母さん、ぼくはまだ小さいからしかたがありません、大きくなったらきっとこのうめあわせをします」
 チビ公の興奮こうふんした目はるりのごとくすみわたってひとみ敢為かんいの勇気に燃えた。
 うとうとと眠ったかと思うともう東が白みかけたので母に起こされた、チビ公はいきおいよく起きて仕事にとりかかった、お美代もともに火をたきつけた、このいきおいにおされておせんはぶつぶついいながらもやはり働きだした。
「伯母さんはなにもしなくてもいいからただ指図さしずだけしてください」
 とチビ公はいった。
 至誠はかならず天に通ずる、チビ公の真剣な労働は邪慳じゃけんのお仙のつのをおってしまった、三人は心を一つにして、覚平かくへいが作る豆腐におとらないものを作りあげた。
「さあいこうぜ」とお美代はいせいよくいった。脚絆きゃはんをはいてたびはだしになり、しりばしょりをして頭にほおかむりをなしその上に伯父さんのまんじゅうがさをかぶった母の支度したくを見たときチビ公は胸が一ぱいになった。
「らっぱはふけないからすずにするよ」とお美代はわらっていった。
「じゃお先に」
 チビ公は荷をかついで家をでた、なんとなく戦場へでもでるような緊張した気持ちが五体にあふれた、かれは生まれてはじめて責任を感じた、いままでは寒いにつけ暑いにつけ商売を休みたいと思ったこともあった、また伯父さんにしかられるからしかたなしにでていったこともあった、しかしこの日は全然それとことなった一大革命いちだいかくめいが精神の上に稲妻いなずまのごとく起こった。
「おれがしっかりしなければみんなが困る」
 かれは警察にある伯父さんも伯母も母もやせ腕一本で養わねばならぬ大責任を感ずるとともに奔湍ほんたんのごとき勇気がいかなる困難をもうちくだいてやろうと決心させた。
 らっぱの音はほがらかにひびいた、かれは例のたんぼ道から町へはいろうとしたとき、今日きょうも生蕃が待っているだろうと思った。
 かれは微笑した、それはいかにも自然に腹の中からわきでたおだやかな微笑であった。いつもかれはこのところでいくどか躊躇ちゅうちょした、かれは生蕃をおそれたのであった、がかれはいま、それを考えたとき恐怖きょうふの念が夢のごとく消えてしまった。でかれは堂々とらっぱをふいた。
 町の角に……はたして生蕃が立っていた。
「やい」と生蕃は血走った目でチビ公をにらんだ。
「おまえに食わせる豆腐とうふはないぞ」とチビ公は昂然こうぜんといった。
「なにを?」
 生蕃はびっくりして叫んだがつぎの句がつげなかった、かれはいつもなみだぐんでぺこぺこ頭を下げるチビすけが、しかも昨夜かれの伯父がおれの父をなぐったことを知ってるチビ助が、復讐ふくしゅうのおそれも感ぜずにいつもより勇敢ゆうかんなのを見ると、実際これほどふしぎな現象はないのであった。
「待てッ」
「待っていられないよ、明日あすの朝またあおうね」
 チビ公はずんずん去ろうとした。
「こらッ」
 生蕃の手がてんびん棒にかかった、とこのとき電柱のかげから声が聞こえた。
「阪井、よせよ」
 それは柳光一であった。
「なんでえ」
「きみは悪いよ」と光一は歩みよった。
「なんでえ」と生蕃がほえた。
「きみはぼくと親友になるといったことをわすれたか」
「わすれはしねえ」
「じゃ、一緒に学校へいこう」
「しかし」
「もういいよ」
 光一は生蕃のひじをとった、そうしてチビ公ににっこりしてふりかえった。チビ公は鳥打帽とりうちぼうをぬいで一礼した。
 この日ほど豆腐の売れた日はなかった、町では覚平かくへいが助役をなぐって拘留こうりゅうされたといううわさが一円に拡がった、しかもそれは貧しき豆腐屋の子がになってくる豆腐を強奪したうらみだとわかったので町内の同情は流れの低きにつくがごとくチビ公に集まった。
「買ってやれ買ってやれかわいそうに」
 豆腐のきらいな家までが争うて豆腐を買った、チビ公のふくらっぱは凱歌がいかのごとく鳴りひびいた。
 二時間にして売りつくしたのでチビ公は警察へいった。
「伯父さんをゆるしてください、伯父さんが悪いんでないのです、酒が悪いんですから」
 かれは警部にこう哀願あいがんした。
「警察ではゆるしてやりたいんだ」と警部は同情の目をまたたいていった。「だが阪井の方で示談じだんにしないと警察では困るんだ」
監獄かんごくへいくんでしょうか」
「そうなるかもしれない、きみの方で阪井にかけあってなんとかしてもらうんだね」
 チビ公はがっかりして警察をでた、それからその足でさしいれ屋へゆき、売りだめから七十五銭をだしていった。
「どうかよろしくお願いします」
覚平かくへいさんだったね」とさしいれ屋の亭主ていしゅがいった。
「はあ」
「覚平さんのさしいれはすんでるよ」
「三度分の弁当ですよ」
「ああすんでる」
「だれがしてくれたのです」
「だれだかわからないがすんでる、五十銭の弁当が三本」
「へえ、それじゃちり紙を一つ……」
「ちり紙とてぬぐいと、毛布二枚とまくらと……それもすんでる」
「それも?」とチビ公はあきれて、「どなたがやってくだすったのですか」
「それもいえない、いわずにいてくれというんだから」
「じゃさしいれするものはほかになんでしょう」
「その人がみんなやってくれるからいいだろう」
 チビ公はあっけにとられて言葉がでなかった、親類とてほかにはなし、友達はあるだろうが、しかし匿名とくめいにしてさしいれするのでは、ふだんにさほど懇意こんいにしている人でないかもしれぬ、自分では想像もできぬが、母にきいたら思いあたることもあるだろう、こう思ってかれはそこをでた、家へ帰ると母もすでに帰っていた。生まれてはじめててんびん棒をかついだので母はがっかりつかれて、肩を冷水で冷やしていた。
「どうでしたおかあさん」とチビ公がいった。
「大変によく売れたよ」と母はわらっていた。
「ぼくの方も非常によかったです、二時間のうちに」
 かれはからのおけを見せ、それから売りだめを伯母にわたしてさしいれものの一件を語った。
「だれだろうね」
「さあだれだろう」
 伯母と母はしきりに知り人の名を数えあげたが、それはみんな匿名とくめいの必要のない人であり、毛布二枚を買う資力のない人ばかりであった。
 その日の夕飯はさびしかった、酒を飲んで喧嘩けんかをするのは困るが、さてその人が牢獄ろうごくにあると思えばさびしさが一層いっそうしみじみと身にせまる。
「阪井にかけあって示談にしてもらうようにしましょうかね」と母は伯母にいった。
「まあ、そうするよりほかにしかたがありますまい」と伯母がいった。チビ公をるすにして二人ふたりはそれぞれ知人をたよって示談の運動をした。
「よろしい、なんとかしましょう」
 こう快諾かいだくしてくれた人は四、五人もあったが、翌日よくじつになると悄然しょうぜんとしてこういう。
「どうも阪井のやつはどうしてもききませんよ、このうえは弁護士にたのんで……」
 望みのつなも切れはてて一家三人はたがいにため息をついた。もとより女と子どものことである、心は勇気にみちてもからだの疲労ひろうは三日目の朝にはげしくおそうてきた。母の肩はむらさきれて荷を負うことができない、チビ公は睡眠すいみんの不足と過度の労働のために頭が大盤石だいばんじゃくのごとく重くなり動悸どうきが高まり息苦しくなってきた。
 豆腐を買う人は多くなったが、作る人がなくなり売りにでる者がなくなった。
 示談が不調で覚平かくへい監獄かんごくへまわされた。


底本:「ああ玉杯に花うけて/少年賛歌」講談社大衆文学館文庫、講談社
   1997(平成9)年10月20日第1刷発行
底本の親本:「ああ玉杯に花うけて」少年倶楽部文庫2、講談社
   1975(昭和50)年10月16日発行
初出:「少年倶楽部」
   1927(昭和2)年5月号〜1928(昭和3)年4月号
※底本は、親本の親本と思われる、「少年倶楽部名作選1 長編小説集」講談社、1966(昭和41)年12月17日発行の誤りを残しているため、誤植が疑われる箇所は、「佐藤紅緑全集 上巻」講談社、1967(昭和42)年12月8日発行、を参照してあらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄、kazuishi
校正:花田泰治郎
2006年2月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみんなさんです。

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