商売を早くしまってチビ公はやくそくどおり柳光一の誕生日にいくことにした。豆腐屋のはんてんをぬぎすててかすりの着物にはかまをはいたときチビ公はたまらなくうれしかった。一年前まではこうして学校へいったものだと思うとかれは自分ながら
「柳さんの家は金持ちだからね、ぎょうぎをよくして人にわらわれないようにおしよ」
こうくりかえしくりかえしいった、それからご飯のときの
「かまわねえ、豆腐屋の子だから豆腐屋らしくしろよ、なにも金持ちだからっておせじをいうにゃあたらねえ」と
「じゃいってまいります」
「いっておいで」
チビ公はあたらしいてぬぐいをはかまのひもにぶらさげ、あたらしいげたをはいて家をでた。光一の家へゆくとすでに五、六人の友達がきていた、その中には医者の子の手塚もいた、光一の家は雑貨店であるが光一の
「よくきてくれたね、青木君」と光一はうれしそうにいった。
「
「やあ青木君」
「やあ」
一年前の同級生のこととてかれらは昔のごとくチビ公を仲間に入れた。次第次第に客の数がふえてもはや十二、三人になった、かれらは座蒲団を敷かずに
「ぼくはね、カルメンよりトラビヤタの方がすきだよ」とかれがいった。
「ぼくは
「低級
片隅では光一をとりまいた四、五人が
「そら、角度が同じければ辺が同じだろう」とひとりがいう。
「等辺三角形は角度も相等しだ」と光一がいった。
チビ公に近いところにたむろした一団は物体と影の関係について論じていた、洋画式でいうと物体にはかならず光の反射がある、どんなに影になっている点でもかすかな反射がある、この反射と影とは非常にまぎらわしいので困るとひとりがいった。するとひとりは影そのものにも反射があるといいだした。
チビ公はびっくりしてものがいえなかった、かれはたった一年のあいだに友達の学問が非常に進歩し、いまではとてもおよびもつかぬほど自分がおくれたことを知った。
「ねえきみ、ぼくらにはなんの話だかわからないね」
かれは隣席の
「あの人達は学者になるんだよ、おれ達とはちがうんだ」とかれはいった。
「そうだね、おれ達はなんになろうたって出来やしない」とチビ公がいった。
「金持ちはいいなあ」と豊公は
「きみ、お父さんがあるの?」とチビ公がきいた。
「ないよ、きみは?」
「ぼくもない」
「親がないのはお金がないよりも悲しいことだね」
「それにぼくは力がない、きみは力があるからいいさ」
「力があってもだめだ」と豊公は急に腹だたしく、「おれは毎朝生蕃になぐられるんだ、そしていもだの豆だのなしだのかきだのぶんどられるんだ、それでもおれはだまってなきゃならない」
「ぼくも毎朝豆腐を食われるよ、きみなぞは力があるからなぐりかえしてやるといいんだ」
「だめだよ」と豊公はあやうくこぼれようとする涙をこらえていった。「あいつのお父さんは役場の役人だろう」
チビ公はだまって
「主はだれ、むらさきの
「うまいぞうまいぞ」と一同が
「もう一つもう一つ」
手塚は得意になってうぐいすのなき声、やぎ、ペリカン、ねこ、ねこが屋根から落ちて水たまりにぴしゃりとおちた音などをつづけざまにやった。かれはものまねがじょうずでなにごとについても器用であった。それからかれはハイカラなはやりうたをうたった。
「ぼくらにゃわからない」とチビ公はいった、実際見るもの聞くものごとにかれは旧友達よりはるかにおくれたことに気がついた、朝は学校へゆく、必要な書籍や雑誌はお金をおしまず買ってもらう、学校から帰ると活動写真を見にいっていろいろなことをおぼえてくるのだ、てんびん棒をかついで家をいで、つかれて家へ帰りそのまま寝てしまう自分等とはあまりに身分の差がある。
お膳が運ばれた、チビ公は小さくなって
「まぐろの刺身で一
これを伯父さんへ持っていったらどんなに喜ぶだろう、かれはこう思いかえした、そうしてたいは
食事がおわってからまたもや余興がはじまった、チビ公はいとまをつげてひと足早く光一の家をでた、かれはてぬぐいに包んださかなの
親のある者、金のある者はなお学府の階段をよじ登って高等へ進み
チビ公は月光をあびながら立ちどまって感慨にふけった。
「やいチビ」
「
「いやだよ」とチビ公は折り箱をふところに押しこんだ。
「いやだ? こら豊松はおとなしくおれにみつぎをささげたのにおまえはいやだというのか」
「いやだ、これは
「やい、こらッ、きさまはおれのげんこつがこわくないかよ」
生蕃は豊公から掠奪したたいの尾をつかんで胴のところをむしゃむしゃ食べながらいった。
「阪井君、ぼくは毎朝きみに
「きさまは豊公をぎせいにして自分の義務をのがれようというのか」
「義務だって? ぼくはなにもきみにさかなをやる義務はないよ」
「やい
生蕃の手が早くもチビ公のふところにはいった。
「いやだいやだぼくは死んでもいやだ」
チビ公は両腕を組んでふところを守った。
「えい、面倒だ」
生蕃はずるずると折り箱をひきだした、チビ公は必死になって争うた。一は
「えいッ」
声とともにけあげた足先! チビ公はばったりたおれた。ふたたび起きあがったときはるかに生蕃の
「それ達人は大観す……栄枯は夢か
チビ公の目から熱い涙がとめどなく流れた、金のためにさいなまれたかれは、腕力のためにさいなまれる、この世のありとあらゆる
はかまのどろをはらってとぼとぼと歩きだしたが、いろいろな
「ぎいぎいざらざら」
うすをもるる豆の音がちょうどあられのようにいかめしい中に、うすのすれる音はいかにも
「折詰がない」
こう思ったときチビ公はこらえられなくなってなきだした。
「だれだえ」
母の声がした。
「
石うすの音がやんだ。そうして戸をあけるとともに
「なにをしてるんだ千三」
チビ公はだまっている。
「おい、ないてるのか」
伯父は手をひいて家へいれた。母は心配そうにこのありさまを見ていた、
「どうしたんだ」
「伯父さんにあげようと思ってぼくは……」
チビ公はとぎれとぎれに
「まあ着物はやぶけて、はかまはどろだらけに……」
と母も
「助役の子だね、阪井の子だね、よしッ」
伯父の顔はまっかになったかと思うとすぐまっさおになった。かれは
「伯父さんをとめて」と母が叫んだ。チビ公はすぐ外へ飛びだした。
「だいじょうぶだ、心配すな、みんな寝てもいいよ」
伯父さんは走りながらこういった。
「待っておいで」
母はこういってぞうりをひっかけて伯父のあとを追うた。チビ公は茶の間へあがって
「眠っちゃいけねえ」とかれは自分をしかりつけた、がいったん
時計は十時を打った。
「伯父さんが喧嘩をしてるんじゃなかろうか、もしそうだとすると」
チビ公はこう考えたとき少年の
「阪井の家へいったにちがいない、だが阪井の親父は助役だ、子分が大勢だ、伯父さんひとりではとてもかなわないだろう、そうすると……」
かれはもうだまっていることができなくなった、
かれは雨戸のしんばり棒をはずして手にさげた、それからじょうぶそうなぞうりにはきかえて外へでた、めざすところは阪井の家である、かれは今にも伯父が乱闘乱戦に火花をちらしているかのように思った、胸が高鳴りして
「医者を医者を」と叫んで走った。すると他の男がまた同じことをいって走った。
「もしや伯父がここで……」とチビ公は直感した、とたんに暗がりから母が飛びだしてチビ公の肩にもたれた。
「大変だよ
母はなかばなき声であった。ばらばらと
「悪いやつをなぐるのはあたりまえだ、おれの家の
たしかに伯父さんの声である。
「子どもの喧嘩にでしゃばって、相手の親をなぐるという法があるか」
二、三人がどなった。
「あやまらないからなぐったんだ」
「ぐずぐずいわんと早く歩け」
「おれをどうするんだ」
五、六人の人々が玄関口で押しあった。その中から伯父さんの
「さあでろ」と
「はきものがない」と伯父さんがいった。
「そのままでいい」
「おれはけだものじゃねえ」
だれかが外からぞうりを投げてやった、伯父さんはそれをはいた。
「伯父さん!」とチビ公は門内にかけこんでいった。
「おお千三か、おまえのかたきは討ってやったぞ、いいか
こういった伯父さんの息は酒くさかった。
「歩け」と巡査がいった。
「待ってくださいおまわりさん」とチビ公は巡査の前にすわった。
「伯父さんは
チビ公の声は涙にふるえていた。
「なにをぬかすかばか」と伯父さんがどなった。
「商売ができなかったらやめてしまえ、商売をしたからって助役の息子に食われてしまうばかりだ」
伯父さんはのそのそと歩きだした、かれは門の外になくなく立っている妹(チビ公の母)を見やって少し
「あとはたのむぜ、おれは
母がなにかいおうとしたが伯父はずんずんいってしまった、ひとりの巡査と、ふたりの町の人がつきそうていった。チビ公と母はどこまでもそのあとについた、伯父さんは警察の門をはいるときちらとふたりの方をふり向いた。
「
「阪井にけがをさしたんでしょうか」
「そうらしいよ、たいしたこともないようだが、それでも相手が助役さんだからね」
「今晩帰ってくるでしょう?」
「さあ」
ふたりは思い思いの
ふたりはようやく家へはいった、そうして伯母を起こして
「へん」と伯母は冷ややかにわらった。「なんてえばかな人だろう、この子がかわいいからって助役さんをなぐるなんて……
お仙は眠い目もすっかりさめて口ぎたなく
「商売はぼくがやります、伯母さん、そんなに伯父さんを悪くいわないでください」
チビ公は決然とこういった。
「やれるならやってみるがいいや、おら知らないよ」
お仙はふたたび寝床へもぐりこんだ、チビ公と母のお
「なによりもね、さしいれ物をしなくちゃね」とお美代がいった。
「さしいれ物ってなあに?」
「警察へね、毛布だのお弁当だのを持っていくんだよ、警察だけですめばいいけれどもね」
「お
「それがね、お金を弁当屋にはらって、さしいれしてもらうのでなきゃいけないんだよ」
「いくら?」
「一
「三度なら七十五銭ですね」
「ああ」
「七十五銭!」
七十五銭はチビ公ひとりが一日歩いてもうける分である、それをことごとく弁当代にしてしまえば三人がどうして食べてゆけよう。チビ公は
「豆をひくにしても
お美代はしみじみといった。
「休みません、伯父さんのできることならぼくがやってみせます、ぼくのために助役をなぐった伯父さんに対してもぼくはるす中りっぱにやってみせます」
「でもさしいれ物はね」
「お母さん、ぼくの考えではね、お母さんもぼくと
「そうだ」とお美代はうれしそうにいった。「そうだよ千三、私は女だからなにもできないと思っていたが、今夜から男になればいいのだ、伯父さんと同じ人になればいいのだ、そうしようね」
「お母さんに荷をかつがせて豆腐を売らせたくはないんだけれども……お母さん、ぼくはまだ小さいからしかたがありません、大きくなったらきっとこのうめあわせをします」
チビ公の
うとうとと眠ったかと思うともう東が白みかけたので母に起こされた、チビ公はいきおいよく起きて仕事にとりかかった、お美代もともに火をたきつけた、このいきおいにおされてお
「伯母さんはなにもしなくてもいいからただ
とチビ公はいった。
至誠はかならず天に通ずる、チビ公の真剣な労働は
「さあいこうぜ」とお美代はいせいよくいった。
「らっぱはふけないから
「じゃお先に」
チビ公は荷をかついで家をでた、なんとなく戦場へでもでるような緊張した気持ちが五体にあふれた、かれは生まれてはじめて責任を感じた、いままでは寒いにつけ暑いにつけ商売を休みたいと思ったこともあった、また伯父さんにしかられるからしかたなしにでていったこともあった、しかしこの日は全然それと
「おれがしっかりしなければみんなが困る」
かれは警察にある伯父さんも伯母も母もやせ腕一本で養わねばならぬ大責任を感ずるとともに
らっぱの音はほがらかにひびいた、かれは例のたんぼ道から町へはいろうとしたとき、
かれは微笑した、それはいかにも自然に腹の中からわきでたおだやかな微笑であった。いつもかれはこのところでいくどか
町の角に……はたして生蕃が立っていた。
「やい」と生蕃は血走った目でチビ公をにらんだ。
「おまえに食わせる
「なにを?」
生蕃はびっくりして叫んだがつぎの句がつげなかった、かれはいつも
「待てッ」
「待っていられないよ、
チビ公はずんずん去ろうとした。
「こらッ」
生蕃の手がてんびん棒にかかった、とこのとき電柱の
「阪井、よせよ」
それは柳光一であった。
「なんでえ」
「きみは悪いよ」と光一は歩みよった。
「なんでえ」と生蕃がほえた。
「きみはぼくと親友になるといったことをわすれたか」
「わすれはしねえ」
「じゃ、一緒に学校へいこう」
「しかし」
「もういいよ」
光一は生蕃のひじをとった、そうしてチビ公ににっこりしてふりかえった。チビ公は
この日ほど豆腐の売れた日はなかった、町では
「買ってやれ買ってやれかわいそうに」
豆腐のきらいな家までが争うて豆腐を買った、チビ公のふくらっぱは
二時間にして売りつくしたのでチビ公は警察へいった。
「伯父さんをゆるしてください、伯父さんが悪いんでないのです、酒が悪いんですから」
かれは警部にこう
「警察ではゆるしてやりたいんだ」と警部は同情の目をまたたいていった。「だが阪井の方で
「
「そうなるかもしれない、きみの方で阪井にかけあってなんとかしてもらうんだね」
チビ公はがっかりして警察をでた、それからその足でさしいれ屋へゆき、売りだめから七十五銭をだしていった。
「どうかよろしくお願いします」
「
「はあ」
「覚平さんのさしいれはすんでるよ」
「三度分の弁当ですよ」
「ああすんでる」
「だれがしてくれたのです」
「だれだかわからないがすんでる、五十銭の弁当が三本」
「へえ、それじゃちり紙を一つ……」
「ちり紙とてぬぐいと、毛布二枚とまくらと……それもすんでる」
「それも?」とチビ公はあきれて、「どなたがやってくだすったのですか」
「それもいえない、いわずにいてくれというんだから」
「じゃさしいれするものはほかになんでしょう」
「その人がみんなやってくれるからいいだろう」
チビ公はあっけにとられて言葉がでなかった、親類とてほかにはなし、友達はあるだろうが、しかし
「どうでしたお
「大変によく売れたよ」と母はわらっていた。
「ぼくの方も非常によかったです、二時間のうちに」
かれはからのおけを見せ、それから売りだめを伯母にわたしてさしいれものの一件を語った。
「だれだろうね」
「さあだれだろう」
伯母と母はしきりに知り人の名を数えあげたが、それはみんな
その日の夕飯はさびしかった、酒を飲んで
「阪井にかけあって示談にしてもらうようにしましょうかね」と母は伯母にいった。
「まあ、そうするよりほかにしかたがありますまい」と伯母がいった。チビ公をるすにして
「よろしい、なんとかしましょう」
こう
「どうも阪井のやつはどうしてもききませんよ、このうえは弁護士にたのんで……」
望みの
豆腐を買う人は多くなったが、作る人がなくなり売りにでる者がなくなった。
示談が不調で
