TOP連載小説>佐藤紅緑 - ああ玉杯に花うけて 
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 豆腐屋とうふやのチビ公はいまたんぼのあぜを伝ってつぎの町へ急ぎつつある。さわやかな春の朝日が森をはなれて黄金こがねの光の雨を緑の麦畑に、黄色な菜畑に、げんげさくくれないの田に降らす、あぜの草は夜露からめざめて軽やかに頭を上げる、すみれは薄紫うすむらさきを開き、たんぽぽはオレンジ色のかんむりをささげる。せきの水はちょろちょろ音立てて田へ落ちると、かえるはこれからなきだす準備にとりかかっている。
 チビ公は肩のてんびん棒にぶらさげた両方のおけをくるりとまわした。そうしてしばらく景色に見とれた。堤の上にかっと朝日をうけてうきだしている村の屋根屋根、火の見やぐら、役場の窓、白い土蔵、それらはいまねむりから活動に向かって歓喜の声をあげているかのよう、ところどころに立つ炊煙すいえんはのどかに風にゆれて林をめぐり、お宮の背後うしろへなびき、それからうっとりとかすむ空のエメラルド色にまぎれゆく。
 そこの畠にはえんどうの花、そらまめの花がさきみだれてる中にこつとしてねぎの坊主がつっ立っている。いつもここまでくるとチビ公の背中が暖かくなる。春とはいえどもあかつきは寒い、奥歯をかみしめかみしめチビ公は豆腐とうふをおけに移して家をでなければならないのである。町の人々が朝飯がすんだあとでは一丁の豆腐も売れない、どうしても六時にはひとまわりせねばならぬのだ。
 だが、このねぎ畑のところへくるとかれはいつも足が進まなくなる、ねぎ畑のつぎは広い麦畑で、そのつぎにはがきがあって二つの土蔵があって、がちょうの叫び声がきこえる、それはこの町の医者の家である。
 医者がいつの年からこの家に住んだのかは今年十五歳になるチビ公の知らないところだ、伯父おじの話ではチビ公の父が巨財を投じてこの家を建てたのだが、父は政党にむちゅうになってすべての財産をなくなしてしまった、父が死んでからかれは母とともに一人の伯父の厄介やっかいになった、それはかれの二歳のときである。
「しっかりしろよ、おまえのお父さまはえらい人なんだぞ」
 伯父はチビ公をつれてこのねぎ畑で昔の話をした。それからというものはチビ公はいつもねぎ畑に立ってそのことを考えるのであった。
「この家をとりかえしてお母さんを入れてやりたい」
 今日きょうもかれはこう思った、がかれはゆかねばならない、荷を肩に負うて一足二足よろめいてやっとふみとどまる、かれは十五ではあるがいたってちいさい、村ではかれを千三せんぞうと呼ぶ人はない、チビ公のあだ名でとおっている、かれはチビ公といわれるのが非常にいやであった、が人よりもちびなのだからしかたがない、来年になったら大きくなるだろうと、そればかりを楽しみにしていた、が来年になっても大きくならない、それでもう一つ来年を待っているのであった。
 かれがこのあぜ道に立っているとき、おりおりいうにいわれぬ侮辱ぶじょくを受けることがある。それは役場の助役の子で阪井巌さかいいわおというのがかれを見るとぶんなぐるのである。もちろん巌はだれを見てもなぐる、かれは喧嘩けんかが強くてむこう見ずで、いつでも身体からだなまきずが絶えない、かれは小学校でチビ公と同級であった、小学校時代にはチビ公はいつも首席であったが巌は一度落第してきたにかかわらず末席であった。かれはいつもへびをふところに入れて友達をおどかしたり、女生徒を走らしたり、そうしておわりにはそれをさいて食うのであった。
「やい、おめえはできると思っていばってるんだろう、やい、このへびを食ってみろ」
 かれはすべての者にこういってつっかかった、かれはいま中学校へ通っている、豆腐おけをかついだチビ公は彼を見ると遠くへさけていた、だがどうかするとかれは途中でばったりあうことがある。
「てめえはいつ見てもちいせえな、少し大きくしてやろうか」
 かれはチビ公の両耳をつかんで、ぐっと上へ引きあげ、足が地上から五寸もはなれたところで、どしんと下へおろす。これにはチビ公もまったく閉口した。
 かれが今町の入り口へさしかかると向こうから巌がやってきた、かれは頭に鉢巻はちまきをして柔道のけいこ着を着ていた。チビ公ははっと思って小路こうじにはいろうとすると巌がよびとめた。
「やいチビ、逃げるのかきさま」
「逃げやしません」
豆腐とうふをくれ」
「はい」
 チビ公は不安そうに顔を見あげた。
「いかほど?」
「食えるだけ食うんだよ、おれは朝飯前に柔道のけいこをしてきたから腹がへってたまらない、焼き豆腐があるか」
「はい」
 チビ公がふたをあけると巌はすぐ手をつっこんだ、それから焼き豆腐をつかみあげて皮ばかりぺろぺろと食べて中身を大地にすてた。
「皮はうまいな」
「そうですか」とチビ公はしかたなしにいった。
「もう一つ」
 かれは三つの焼き豆腐の皮を食べおわって、ぬれた手をチビ公の頭でふいた。
「銭はこのつぎだよ」
「はい」
「用がないからゆけよ、おれはここで八百屋やおや豊公とよこうを待っているんだ、あいつおれの犬に石をほうりやがったからここでいもをぶんどってやるんだ」
 チビ公はやっと虎口をのがれて町へはいった、そうして悲しくらっぱをふいた。らっぱをふく口元に涙がはてしなくこぼれた。
 どうしてあんなやつにこうまで侮辱ぶじょくされなきゃならないんだろう、あいつは学校でなんにもできないのだ、おやじが役場の助役だからいばってるんだ、金があるから中学校へゆける、親があるから中学校へゆける。それなのにおれは金もない親もない。なぐられてもだまっていなきゃならない、生涯豆腐とうふをかついでらっぱをふかなきゃならない。
 かれの胸は憤怒ふんぬに燃えた、かれはだまって歩きつづけた。
「おい豆腐屋、売るのか売らないのか、らっぱを落としたのか」
 職人風の男が二人、こういってわらってすぎた。チビ公はらっぱをふいた、その音はいかにも悲しそうにひびいた。町にはちらちら中学生が登校する姿が見えだした、それは大抵たいてい去年まで自分と同級の生徒であった。チビ公は鳥打帽のひさしを深くして通りすぎた。
「おはよう青木君」と明るい声がきこえた。
「お早う」とチビ公はふりかえっていった、声をかけたのは昔の学友柳光一やなぎこういちという少年であった、柳は黒い制服をきちんと着て肩に草色の雑嚢ざつのうをかけ、手に長くまいた画用紙を持っていた。かれはいかなるときでもチビ公にあうとこう声をかける、かれは小学校にあるときにはいつもチビ公と席を争うていた、双方とも勉強家であるが、たがいにその学力をきそうていた、これといって親密にしたわけでもないが、光一の態度は昔もいまもかわらなかった、一方が中学生となり一方は豆腐屋となっても。
「ぼくはね、きみを時計とけいにしてるんだよ」と光一はいった。「きみに逢った時には非常に早いし、きみにあわなかったときにはおそいんだ」
「そうですか」
「重たいだろうね、きみ」
 光一はチビ公の荷を見やっていった。
「なあになれましたから」
「そうかね」と、光一はチビ公の顔をしみじみと見やって、「ひまがあったら遊びにきてくれたまえね、ぼくのところにはいろいろな雑誌があるから、ぼくはきみにあげようと思ってとっておいてあるよ」
「ありがとう」
「じゃ失敬」
 チビ公は光一にわかれた、なんとなくうれしいようななつかしいような思いはむらむらと胸にわいた、でかれはらっぱをふいた、らっぱはほがらかにひびいた、と一旦いったんわかれた光一は大急ぎに走りもどった。
「このつぎの日曜にね、ぼくの誕生日だから、昼からでも……晩からでも遊びにきてくれたまえね」
「そうですか……しかし」とチビ公はもじもじした。
「かまわないだろ、日曜だから……」
「ああ、そうだけれども」
「いいからね、遠慮せずとも、ぼくは昔の友達にみんなきてもらうんだ」
「じゃゆきましょう」
 光一はふたたび走って去った。雑嚢ざつのうを片手にかかえ、片手に画用紙を持ち両ひじをわきにぴったりと着けて姿勢正して走りゆく、それを見送ってチビ公は昔小学校時代のことをまざまざと思いだした。なんとなく光一の前途にはその名のごとく光があふれてるように見える、学問ができて体力が十分で品行がよくて、人望がある、ああいう人はいまにりっぱな学者になるだろう。
 そこでかれはまたらっぱをふいた、嚠喨りゅうりょうたる音は町中にひびいた。チビ公が売りきれるまで町を歩いてるその日の十二時ごろ、中学校の校庭でいわおはものほしそうにみんなが昼飯を食っているのをながめていた、かれは大抵たいてい十時ごろに昼の弁当を食ってしまうので正午ひるになるとまたもや空腹を感ずるのであった。そういうときにはかならずだれかに喧嘩けんかをふきかけてその弁当を掠奪りゃくだつするのである。自分の弁当を食うよりは掠奪のほうがはるかにうまい。
「みんな集まれい」とかれはどなった。だが何人も集まらなかった、いつものこととて生徒等はこそこそと木立ちのかげにかくれた。
「へびの芸当だ」とかれはいった、そうしてポケットから青大将あおだいしょうをだした。
「そもそもこれはかん沛公はいこう函谷関かんこくかんを越ゆるときに二つにった白蛇の子孫でござい」
 調子面白くはやしたてたので人々は少しずつ遠くから見ていた。少年等はまた始まったといわぬばかりに眉をしかめていた。
「おいしゃもじ!」とかれは背後を向いて飯を食ってる一人の少年をよんだ、しゃもじはおわりの一口をぐっとのみこんで走ってきた、かれはやせて敏捷びんしょうそうな少年だが、頭はおうぎのように開いてほおが細いので友達はしゃもじというあだ名をつけた。かれは身体からだも気も弱いので、いつでも強そうな人の子分になって手先に使われている。
「おい口上をいえ」と巌がいった。
「なんの?」
「へびに芸をさせるんだ」
「よしきた……そもそもこれは漢の沛公はいこうが二つにった白蛇の子孫でござい」
 調子おもしろくはやしたてたので人々は少しずつ集まりかけた。
「さあさあ、ごろうじろ、ごろうじろ」
 しゃもじの調子にのって巌はへびをひたいに巻きつけほおをはわし首に巻き、右のそで口から左のそで口から中央のふところから自由自在になわのごとくあやなした。
「うまいぞうまいぞ」と喝采かっさいするものがある。最後にかれはへびを一まとめにして口の中へ入れた。人々は驚いてさかんに喝采した。
「おいどうだ」
 かれはへびを口からはきだしてからみんなにいった。
「うまいうまい」
「みんな見たか」
「うまいぞ」
「見たものは弁当をだせ」
 人々はだまって顔を見合った、そうして後列の方からそろそろと逃げかけた。
「おい、こらッ」
 いまにぎり飯を食いながら逃げようとする一人の少年の口元めがけてへびを投げた。少年はにぎり飯を落とした。
「つぎはだれだ」
 かれは器械体操のたなの下にうずくまってる少年の弁当をのぞいた、弁当の中には玉子焼きとさけとあった。
「うまそうだな」
 かれは手をばしてそれを食った。そして半分をしゃもじにやった。
「つぎは?」
 もうだれもいなかった、投げられたへびはぐんにゃりと弱っていた。かれはそれを拾うと裏の林の方へ急いだ。そこには多くの生徒が群れていた、かれらの大部分は水田に糸をたれてかえるをつっていた。その他の者は木陰こかげ木陰こかげに腰をおろして雑誌を読んだり、宿題を解いたりしていた。巌はずらりとかれらを見まわした、これというやつがあったら喧嘩けんかをしてやろう。
 だがあいにく弱そうなやつばかりで相手とするにたらぬ、そこでかれは木の下に立って一同を見おろしていた、かれの胸はいつも元気がみちみちている、かれは毎朝眼がさめるとうれしさを感ずる、学校へいって多くの学生をなぐったりけとばしたり、自由に使役したりするのがさらにうれしい。かれはいろいろな冒険談を読んだり、英雄の歴史を読んだりした、そうしてロビンソンやクライブやナポレオンや秀吉ひでよしは自分ににていると思った。
「クライブは不良少年で親ももてあました、それでインドへ追いやられて会社の腰弁こしべんになってるうちに自分の手腕をふるってついにインドを英国のものにしてしまった、おれもどこかへ追いだされたら、一つの国を占領して日本の領土を拡張しよう」
 こういう考えは毎日のようにおこった、かれは実際喧嘩けんかに強いところをもって見ると、クライブになりうる資格があると自信している。
「おれは英雄だ」
 かれはナポレオンになろうと思ったときには胸のところに座蒲団ざぶとんを入れて反身そりみになって歩いた。秀吉になろうと思った時にはおそろしく目をむきだしてさるのごとくに歯を出して歩く。かれの子分のしゃもじは国定忠治くにさだちゅうじ清水しみず次郎長じろちょうがすきであった、かれはまき舌でものをいうのがじょうずで、博徒ばくと挨拶あいさつを暗記していた。
「おれはおまえのような下卑げびたやつはきらいだ」と巌がしゃもじにいった。
「何が下卑てる?」
「国定忠治だの次郎長だの、博徒じゃないか、尻をまくって外を歩くような下卑たやつはおれの仲間にゃされない」
「じゃどうすればいいんだ」
「おれは秀吉ひでよしだからお前は加藤か小西になれよ」
 かれはとうとうしゃもじを加藤清正かとうきよまさにしてしまった。だがこの清正はいたって弱虫でいつも同級生になぐられている。大抵たいてい喧嘩けんかは加藤しゃもじのかみから発生する、しゃもじがなぐられて巌に報告すると巌は復讐ふくしゅうしてくれるのである。
 いずれの中学校でも一番生意気で横暴なのは三年生である、四年五年は分別が定まり、自重心も生ずるとともに年少者をあわれむ心もできるが、三年はちょうど新兵が二年兵になったように、年少者に対して傲慢ごうまんであるとともに年長者に対しても傲慢である。
 浦和中学の三年生と二年生はいつも仲が悪かった、年少の悲しさは戦いのあるたびに二年が負けた、巌はいつもそれを憤慨ふんがいしたがやはりかなわなかった。
「二年の名誉にかかわるぞ」
 かれはこういいいいした、かれはいま木の下に立って群童を見おろしているうちに、なにしろ五人分の弁当を食った腹加減はらかげんはばかに重く、背中を春日に照らされてとろとろとねむくなった。でかれは木の根に腰をおろして眠った。
「やあ生蕃せいばんが眠ってらあ」
 学生どもはこういいあった。生蕃とは巌のあだ名である、かれは色黒く目大きく頭の毛がちぢれていた、それからかれはおどろくべき厚みのあるくちびるをもっていた。
 うとうととなったかと思うと巌は犬のほえる声を聞いた。はじめは普通の声で、それは学生等の混雑した話し声や足音とともに夢のような調節ハーモニーをなしていたが、突然犬の声は憤怒ふんぬと変じた。巌ははっと目を開いた。もうすべての学生が犬の周囲に集まっていた。二年生の手塚という医者の子が鹿毛しかげのポインターをしっかりとおさえていた、するとそれと向きあって三年の細井という学生は大きな赤毛のブルドッグの首環くびわをつかんでいた。
「そっちへつれていってくれ」と手塚が当惑とうわくらしくいった。
「おまえの方から先に逃げろ」と三年の細井がいった。
「やらせろ、やらせろ、おもしろいぞ」としゃもじが中間にはいっていった。犬と犬とが顔を見あったときまたほえあった。
「やれやれやれ」と一年[#「一年」はママ]が叫びだした。
「やるならやろう」と三年がいった。
「よせよ」
 人々を押しわけて光一が進みでた、かれは手に代数の筆記帳を持っていた。
「やらせろ」と双方が叫んだ。
「つまらないじゃないか、犬と犬とを喧嘩けんかさせたところでおもしろくもなんともないよ、見たまえ犬がかわいそうじゃないか、犬には喧嘩の意志がないのだよ」
降参こうさんするならゆるしてやろう」と三年がいった。
「降参とかなんとか、そんなことをいうから喧嘩になるんだ」と光一はいった。
「だっておまえの方で、かなわないからやめてくれといったじゃないか」
「かなうのかなわないのという問題じゃないよ、ただね、つまらないことは……」
「なにを?」
 三年の群れからライオンとあだ名された木俣きまたという学生がおどりだした、木俣といえば全校を通じて戦慄せんりつせぬものがない、かれは柔道がすでに三段で小相撲こずもうのように肥って腕力は抜群である、かれは鉄棒に両手をくっつけてぶらさがり、そのまま反動もつけずにひじを立ててぬっくとひざまでせりあげるので有名である。柔道のじまんばかりでなく剣道もじまんで、どうかすると短刀をふところにしのばせたり、小刀をポケットにかくしたりしている。
 木俣がおどりだしたので人々は沈黙ちんもくした。
「おじぎをしたらゆるしてやるよ、なあおい」
 とかれは同級生をふりかえっていった。
「三べんまわっておじぎしろ」
 光一はもうこの人達にかかりあうことの愚を知ったのでひきさがろうとした。
「逃げるかッ」
 木俣は光一の手首をたたいた、筆記帳は地上に落ちて、さっとページをひるがえした。光一はだまってそれを拾いあげしずかに人群れをでた。むろんかれは平素人と争うたことがないのであった。
「弱いやつだ」
 三年生は嘲笑ちょうしょうした。
「いったいこの犬はだれの犬だ」と木俣はいった。人々は手塚の顔を見た。
「ぼくのだ」
「てめえに似て臆病おくびょうだな」
「なにをいってるんだ」と手塚は負けおしみをいった。
「二年生は犬まで弱虫だということよ」
 三年生は声をそろえてわらった。二年生はたがいに顔を見あったがなにもいう者はなかった。
「やっしいやっしい」と木俣はブルドッグのしりをたたいた。赤犬はおそろしい声をだして突進した、鹿毛しかげは少ししりごみしたがこのときしゃもじがその首環くびわを引いて赤犬の鼻に鼻をつきあてた、こうなると鹿毛もだまっていない、疾風しっぷうのごとく赤犬にたちかかった、赤は前足で受け止めて鹿毛の首筋の横にかみついた、かまれじと鹿毛は体をかわして赤の耳をねらった。一離一合いちりいちごう! 殺気があふれた。
 二、三度同じことをくりかえして双方たがいに下手をねらって首を地にすえた。
「やっしいやっしい」
 両軍の応援は次第に熱した。このとき二年生は歓喜の声をあげた。のそりのそり眠そうな目をこすりながら生蕃せいばんがやってきたからである。
「生蕃がきた」
「たのむぞ」
「やってくれ」
 声々が起こった。生蕃は一言もいわずに敵軍をジロリと見やったとき、ライオンがまた同じくジロリとかれを見た。二年の名誉を負うて立つ生蕃! 三年の王たるライオン! まさにこれ山雨きたらんとして風ろうに満つるのがい
 犬の方は一向にはかどらなかった、かれらはたがいにうなり合ったが、その声は急に稀薄きはくになった、そうして双方歩み寄ってかぎ合った。多分かれらはこう申しあわしたであろう。
「この腕白わんぱくどもに扇動せんどうされておたがいにうらみもないものが喧嘩したところで実につまらない、シナを見てもわかることだが、英国やアメリカやロシアにしりを押されて南北たがいに戦争している、こんなりにあわない話はないんだよ」
 赤は鹿毛しかげの耳をなめると鹿毛は赤のしっぽをなめた。
 犬が妥協だきょうしたにかかわらず、人間の方は反対に興奮こうふんが加わった。
「やあ逃げやがった」と三年がわらった。
「赤が逃げた」と二年がわらった。
「もう一ぺんやろうか」と細井がいった。
「ああやるとも」と手塚がいった、元来生蕃は手塚をすかなかった、手塚は医者の子でなかなか勢力があり智恵と弁才がある、が、生蕃はどうしても親しむ気になれなかった。
 ふたたび犬がひきだされた、しゃもじと細井は犬と犬との鼻をつきあてた。「シナの時勢にかんがみておたがいに和睦わぼくしたのにきさまはなんだ」と鹿毛しかげがいった。
和睦わぼくもへちまもあるものか、きさまはおれの貴重な鼻をガンと打ったね」
「きさまが先に打ったじゃないか」
「いやきさまが先だ」
「さあこい」
「こい」
「ワン」
「ワンワン」
 すべて戦争なるものは気をもって勝敗がわかれるのである、兵の多少にあらず武器の利鈍りどんにあらず、士気旺盛おうせいなるものは勝ち、後ろさびしいものは負ける、とくに犬の喧嘩をもってしかりとする、犬のたよるところはただ主人にある、声援が強ければ犬が強くなる、ゆえに犬を戦わさんとすればまず主人同士が戦わねばならぬ。
 三年と二年! 双方の陣に一道の殺気陰々いんいんとしてあいかくあいした。
「おい」と木俣は巌にいった。
「犬に喧嘩をさせるのか、人間がやるのか」
「両方だ」と巌は重い口調でいった。
「うむ、いいことをいった、わすれるなよ」と木俣はいった。このときおそろしい犬の格闘かくとうが始まった。
 犬はもう憤怒ふんぬに熱狂した、いましも赤はその扁平へんぺいな鼻を地上にたれておおかみのごとき両耳をきっと立てた、かれの醜悪しゅうあくなる面はますます獰猛どうもうを加えてその前肢まえあしを低くしりを高く、背中にらんらんたる力こぶを隆起してじりじりとつめよる。
 鹿毛しかげはその広い胸をぐっとひきしめて耳を後方へぴたりとさか立てた。かれは尋常ならぬ敵と見てまず前足をつっぱり、あと足を低くしてあごを前方につき出した。かれは赤が第一に耳をめがけてくることを知っていた、でかれはもし敵がとんできたら前足で一撃を食わしよろめくところをのどにかみつこうと考えた。四つの目は黄金色こがねいろに輝いて歯は雪のごとく白く、赤と鹿毛の毛波はきらきらと輝いた。八つの足はたがいに大地にしっかりとくいこみ双方の尾は棒のごとく屹立きつりつした。尾は犬の聯隊旗である。
「やっしいやっしい」
 人間どもの叫喚きょうかんは刻一刻に熱した、二つの犬はすきを見あって一合二合三合、四合目にがっきと組んで立ちあがった。このとき木俣の身体からだがひらりとおどりでて右足高く鹿毛の横腹に飛ぶよと見るまもあらず、巌のこぶしが早く木俣のえりにかかった。
「えいッ」
 声とともにしし王の足がちゅうにひるがえってばったり地上にたおれた。
「いけッ」
 二年生はこれに気をて突進した。
「くるなッ」
 巌がこうさけんだ、かれは倒れた敵をおさえつけようともせずだまって見ていた、かれは木俣の寝業ねわざをおそれたのである、木俣の十八番は寝業である。
「生意気な」
 木俣は立ちあがってたけりじしのごとく巌をおそうた、捕えられては巌は七分のそんである、かれは十七歳、これは十五歳、柔道においても段がちがう、だが柔道や剣術と実戦とは別個のことである。喧嘩になれた巌は進みくる木俣を右にすかしざまに片手の目つぶしを食わした。木俣のあっとひるんだ拍子ひょうしに巌は左へ回って向こうずねをけとばした。
畜生ちくしょう
 木俣は片ひざをついた、がこのときかれの手は早くもポケットに入った、一挺いっちょう角柄つのえの小刀がその手にきらりと輝いた。
刃物はものをもって……卑劣なやつ」
 巌の憤怒ふんぬは絶頂に達した、およそ学生の喧嘩は双方木剣をもって戦うことを第一とし、格闘を第二とする、刀刃とうじんや銃器をもってすることは下劣げれつであり醜悪しゅうあくであり、学生としてよわいするにたらざることとしている、これ古来学生の武士道すなわち学生道である。
「殺されてもかまわん」と生蕃せいばんは決心した。かれの赤銅色の顔の皮膚ひふ緊張きんちょうしてその厚いくちびるはしゅのごとく赤くなった。
「さあ、こい」
 木俣は再度の失敗にもう気が顛倒てんとうしてきた。かれはいまここで生蕃を殺さなければふたたび世人に顔向けがならないと思った。かれは波濤はとうにたてがみをふるうししのごとくまっしぐらに突進した、小刀は人々の目を射た、敵も味方も恐怖に打たれて何人なんぴともとめようともせずに両人の命がけの勝負を見ていた。
 生蕃は右にかわし左にかわしてたくみに敵の手をくぐりぬけ、敵の足元のみだれるのを待っていた、だが木俣は心にあせりながらもからだにみだれはなかった、かれは縦横に生蕃を追いつめた。そこは学校の垣根である、一歩いっぽに詰められた生蕃は後ろを垣にさえぎられた。
「しまった」とかれは思った、だが、逃げることは絶対にきらいである。敵を垣根におびきよせ自分が開放の地位に立つ方が利益だと思った、しかしかれのこの方策はあやまった、敵をして方向を転換させるべく、そこに大きな障害がある、かれの右に三じゃくばかりの扁平へんぺいな石があるのに気がつかなかった。
「畜生!」
 ライオンは声とともに生蕃の肩先めがけて飛びこんだ。ひらりと身をかわしたが生蕃は石につまずいてばたりとたおれた。
「あっ!」
 二年生は一せいに叫んだ、ライオンは生蕃の上に疾風しっぷうのごとくおどりあがった。とこのとき非常な迅速すばやさをもって垣根の横からライオンの足元に飛びこんだものがある、ライオンはそれにつまずいてたおれた、かれの手には小刀がやはり光っていた。
 飛びこんだ学生はライオンにつまずかした上で起きあがってライオンをだきしめた、ライオンはやたらに小刀をふってかれをつこうとした。
「しめたッ」
 起きあがった生蕃は背後からライオンののどをしめた。ライオンはぐったりとまいってしまった。
「けがしなかったか、やなぎ君」と生蕃はまっさおな顔をしていった。
「なんでもないよ」
 光一は手からしたたる血汐ちしおをハンケチでふいていた。
「早いことをするな」
「柳にあんな勇気があったのか」
 同級生はあっけに取られてささやきあった。双方ともふたたび戦う気もなくなった、犬はいつのまにか戦いをやめて逃げてしまった。
 五分間の後、木俣は回気した。生蕃と光一は水を飲ませて介抱かいほうした。
「今日はやられた」と木俣はいった。
明日あすもやられるよ」と生蕃がいった。
「いずれね」
「堂々とこいよ」
 木俣は去った、三年生が去った、二年生ははじめてときの声をあげた。
「きみのおかげだよ」と生蕃はしみじみと光一にいった。「きみは強いんだね」
「いやぼくは弱いよ」
「そうじゃない、あの場合きみがライオンのまたぐらへ飛びこんでくれなかったら、ぼくはあの小刀で一つきにされるところだったんだ」と生蕃がいった。
「もしぼくがつかれて死んだらきみはどうするつもりだ」と光一は友の顔をのぞくようにしていった。
「君が死んだらか」と生蕃はいった。「おれも死ぬよ」
「そうしてぼくを殺した木俣も生きていられないとすれば……三人だ……三人死ぬことになる、つまらないと思わんか」
「うむ」
 生蕃はしばらく考えたが、やがて大きな声でわらいだした。
「おまえおれに喧嘩をよさせようと思ってるんだろう、それだけはいけない」
 同級生は一度にわっとわらいだした。
「だが柳」と生蕃はまたいった。「ぼくはきみに頭があがらなくなったね」


底本:「ああ玉杯に花うけて/少年賛歌」講談社大衆文学館文庫、講談社
   1997(平成9)年10月20日第1刷発行
底本の親本:「ああ玉杯に花うけて」少年倶楽部文庫2、講談社
   1975(昭和50)年10月16日発行
初出:「少年倶楽部」
   1927(昭和2)年5月号〜1928(昭和3)年4月号
※底本は、親本の親本と思われる、「少年倶楽部名作選1 長編小説集」講談社、1966(昭和41)年12月17日発行の誤りを残しているため、誤植が疑われる箇所は、「佐藤紅緑全集 上巻」講談社、1967(昭和42)年12月8日発行、を参照してあらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄、kazuishi
校正:花田泰治郎
2006年2月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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