チビ公は肩のてんびん棒にぶらさげた両方のおけをくるりとまわした。そうしてしばらく景色に見とれた。堤の上にかっと朝日をうけてうきだしている村の屋根屋根、火の見やぐら、役場の窓、白い土蔵、それらはいまねむりから活動に向かって歓喜の声をあげているかのよう、ところどころに立つ
そこの畠にはえんどうの花、そらまめの花がさきみだれてる中にこつとしてねぎの坊主がつっ立っている。いつもここまでくるとチビ公の背中が暖かくなる。春とはいえども
だが、このねぎ畑のところへくるとかれはいつも足が進まなくなる、ねぎ畑のつぎは広い麦畑で、そのつぎには
医者がいつの年からこの家に住んだのかは今年十五歳になるチビ公の知らないところだ、
「しっかりしろよ、おまえのお父さまはえらい人なんだぞ」
伯父はチビ公をつれてこのねぎ畑で昔の話をした。それからというものはチビ公はいつもねぎ畑に立ってそのことを考えるのであった。
「この家をとりかえしてお母さんを入れてやりたい」
かれがこのあぜ道に立っているとき、おりおりいうにいわれぬ
「やい、おめえはできると思っていばってるんだろう、やい、このへびを食ってみろ」
かれはすべての者にこういってつっかかった、かれはいま中学校へ通っている、豆腐おけをかついだチビ公は彼を見ると遠くへさけていた、だがどうかするとかれは途中でばったりあうことがある。
「てめえはいつ見てもちいせえな、少し大きくしてやろうか」
かれはチビ公の両耳をつかんで、ぐっと上へ引きあげ、足が地上から五寸もはなれたところで、どしんと下へおろす。これにはチビ公もまったく閉口した。
かれが今町の入り口へさしかかると向こうから巌がやってきた、かれは頭に
「やいチビ、逃げるのかきさま」
「逃げやしません」
「
「はい」
チビ公は不安そうに顔を見あげた。
「いかほど?」
「食えるだけ食うんだよ、おれは朝飯前に柔道のけいこをしてきたから腹がへってたまらない、焼き豆腐があるか」
「はい」
チビ公が
「皮はうまいな」
「そうですか」とチビ公はしかたなしにいった。
「もう一つ」
かれは三つの焼き豆腐の皮を食べおわって、ぬれた手をチビ公の頭でふいた。
「銭はこのつぎだよ」
「はい」
「用がないからゆけよ、おれはここで
チビ公はやっと虎口をのがれて町へはいった、そうして悲しくらっぱをふいた。らっぱをふく口元に涙がはてしなくこぼれた。
どうしてあんなやつにこうまで
かれの胸は
「おい豆腐屋、売るのか売らないのか、らっぱを落としたのか」
職人風の男が二人、こういってわらってすぎた。チビ公はらっぱをふいた、その音はいかにも悲しそうにひびいた。町にはちらちら中学生が登校する姿が見えだした、それは
「おはよう青木君」と明るい声がきこえた。
「お早う」とチビ公はふりかえっていった、声をかけたのは昔の学友
「ぼくはね、きみを
「そうですか」
「重たいだろうね、きみ」
光一はチビ公の荷を見やっていった。
「なあになれましたから」
「そうかね」と、光一はチビ公の顔をしみじみと見やって、「ひまがあったら遊びにきてくれたまえね、ぼくのところにはいろいろな雑誌があるから、ぼくはきみにあげようと思ってとっておいてあるよ」
「ありがとう」
「じゃ失敬」
チビ公は光一にわかれた、なんとなくうれしいようななつかしいような思いはむらむらと胸にわいた、でかれはらっぱをふいた、らっぱはほがらかにひびいた、と
「このつぎの日曜にね、ぼくの誕生日だから、昼からでも……晩からでも遊びにきてくれたまえね」
「そうですか……しかし」とチビ公はもじもじした。
「かまわないだろ、日曜だから……」
「ああ、そうだけれども」
「いいからね、遠慮せずとも、ぼくは昔の友達にみんなきてもらうんだ」
「じゃゆきましょう」
光一はふたたび走って去った。
そこでかれはまたらっぱをふいた、
「みんな集まれい」とかれはどなった。だが何人も集まらなかった、いつものこととて生徒等はこそこそと木立ちの
「へびの芸当だ」とかれはいった、そうしてポケットから
「そもそもこれは
調子面白くはやしたてたので人々は少しずつ遠くから見ていた。少年等はまた始まったといわぬばかりに眉をしかめていた。
「おいしゃもじ!」とかれは背後を向いて飯を食ってる一人の少年をよんだ、しゃもじはおわりの一口をぐっとのみこんで走ってきた、かれはやせて
「おい口上をいえ」と巌がいった。
「なんの?」
「へびに芸をさせるんだ」
「よしきた……そもそもこれは漢の
調子おもしろくはやしたてたので人々は少しずつ集まりかけた。
「さあさあ、ごろうじろ、ごろうじろ」
しゃもじの調子にのって巌はへびをひたいに巻きつけほおをはわし首に巻き、右のそで口から左のそで口から中央のふところから自由自在になわのごとくあやなした。
「うまいぞうまいぞ」と
「おいどうだ」
かれはへびを口からはきだしてからみんなにいった。
「うまいうまい」
「みんな見たか」
「うまいぞ」
「見たものは弁当をだせ」
人々はだまって顔を見合った、そうして後列の方からそろそろと逃げかけた。
「おい、こらッ」
いまにぎり飯を食いながら逃げようとする一人の少年の口元めがけてへびを投げた。少年はにぎり飯を落とした。
「つぎはだれだ」
かれは器械体操のたなの下にうずくまってる少年の弁当をのぞいた、弁当の中には玉子焼きとさけとあった。
「うまそうだな」
かれは手を
「つぎは?」
もうだれもいなかった、投げられたへびはぐんにゃりと弱っていた。かれはそれを拾うと裏の林の方へ急いだ。そこには多くの生徒が群れていた、かれらの大部分は水田に糸をたれてかえるをつっていた。その他の者は
だがあいにく弱そうなやつばかりで相手とするにたらぬ、そこでかれは木の下に立って一同を見おろしていた、かれの胸はいつも元気がみちみちている、かれは毎朝眼がさめるとうれしさを感ずる、学校へいって多くの学生をなぐったりけとばしたり、自由に使役したりするのがさらにうれしい。かれはいろいろな冒険談を読んだり、英雄の歴史を読んだりした、そうしてロビンソンやクライブやナポレオンや
「クライブは不良少年で親ももてあました、それでインドへ追いやられて会社の
こういう考えは毎日のようにおこった、かれは実際
「おれは英雄だ」
かれはナポレオンになろうと思ったときには胸のところに
「おれはおまえのような
「何が下卑てる?」
「国定忠治だの次郎長だの、博徒じゃないか、尻をまくって外を歩くような下卑たやつはおれの仲間にゃされない」
「じゃどうすればいいんだ」
「おれは
かれはとうとうしゃもじを
いずれの中学校でも一番生意気で横暴なのは三年生である、四年五年は分別が定まり、自重心も生ずるとともに年少者をあわれむ心もできるが、三年はちょうど新兵が二年兵になったように、年少者に対して
浦和中学の三年生と二年生はいつも仲が悪かった、年少の悲しさは戦いのあるたびに二年が負けた、巌はいつもそれを
「二年の名誉にかかわるぞ」
かれはこういいいいした、かれはいま木の下に立って群童を見おろしているうちに、なにしろ五人分の弁当を食った
「やあ
学生どもはこういいあった。生蕃とは巌のあだ名である、かれは色黒く目大きく頭の毛がちぢれていた、それからかれはおどろくべき厚みのあるくちびるをもっていた。
うとうととなったかと思うと巌は犬のほえる声を聞いた。はじめは普通の声で、それは学生等の混雑した話し声や足音とともに夢のような
「そっちへつれていってくれ」と手塚が
「おまえの方から先に逃げろ」と三年の細井がいった。
「やらせろ、やらせろ、おもしろいぞ」としゃもじが中間にはいっていった。犬と犬とが顔を見あったときまたほえあった。
「やれやれやれ」と一年[#「一年」はママ]が叫びだした。
「やるならやろう」と三年がいった。
「よせよ」
人々を押しわけて光一が進みでた、かれは手に代数の筆記帳を持っていた。
「やらせろ」と双方が叫んだ。
「つまらないじゃないか、犬と犬とを
「
「降参とかなんとか、そんなことをいうから喧嘩になるんだ」と光一はいった。
「だっておまえの方で、かなわないからやめてくれといったじゃないか」
「かなうのかなわないのという問題じゃないよ、ただね、つまらないことは……」
「なにを?」
三年の群れからライオンとあだ名された
木俣がおどりだしたので人々は
「おじぎをしたらゆるしてやるよ、なあおい」
とかれは同級生をふりかえっていった。
「三
光一はもうこの人達にかかりあうことの愚を知ったのでひきさがろうとした。
「逃げるかッ」
木俣は光一の手首をたたいた、筆記帳は地上に落ちて、さっとページをひるがえした。光一はだまってそれを拾いあげしずかに人群れをでた。むろんかれは平素人と争うたことがないのであった。
「弱いやつだ」
三年生は
「いったいこの犬はだれの犬だ」と木俣はいった。人々は手塚の顔を見た。
「ぼくのだ」
「てめえに似て
「なにをいってるんだ」と手塚は負けおしみをいった。
「二年生は犬まで弱虫だということよ」
三年生は声をそろえてわらった。二年生はたがいに顔を見あったがなにもいう者はなかった。
「やっしいやっしい」と木俣はブルドッグのしりをたたいた。赤犬はおそろしい声をだして突進した、
二、三度同じことをくりかえして双方たがいに下手をねらって首を地にすえた。
「やっしいやっしい」
両軍の応援は次第に熱した。このとき二年生は歓喜の声をあげた。のそりのそり眠そうな目をこすりながら
「生蕃がきた」
「たのむぞ」
「やってくれ」
声々が起こった。生蕃は一言もいわずに敵軍をジロリと見やったとき、ライオンがまた同じくジロリとかれを見た。二年の名誉を負うて立つ生蕃! 三年の王たるライオン!
犬の方は一向にはかどらなかった、かれらはたがいにうなり合ったが、その声は急に
「この
赤は
犬が
「やあ逃げやがった」と三年がわらった。
「赤が逃げた」と二年がわらった。
「もう一ぺんやろうか」と細井がいった。
「ああやるとも」と手塚がいった、元来生蕃は手塚をすかなかった、手塚は医者の子でなかなか勢力があり智恵と弁才がある、が、生蕃はどうしても親しむ気になれなかった。
ふたたび犬がひきだされた、しゃもじと細井は犬と犬との鼻をつきあてた。「シナの時勢にかんがみておたがいに
「
「きさまが先に打ったじゃないか」
「いやきさまが先だ」
「さあこい」
「こい」
「ワン」
「ワンワン」
すべて戦争なるものは気をもって勝敗がわかれるのである、兵の多少にあらず武器の
三年と二年! 双方の陣に一道の殺気
「おい」と木俣は巌にいった。
「犬に喧嘩をさせるのか、人間がやるのか」
「両方だ」と巌は重い口調でいった。
「うむ、いいことをいった、わすれるなよ」と木俣はいった。このときおそろしい犬の
犬はもう
「やっしいやっしい」
人間どもの
「えいッ」
声とともにしし王の足が
「いけッ」
二年生はこれに気を
「くるなッ」
巌がこうさけんだ、かれは倒れた敵をおさえつけようともせずだまって見ていた、かれは木俣の
「生意気な」
木俣は立ちあがってたけりじしのごとく巌を
「
木俣は片ひざをついた、がこのときかれの手は早くもポケットに入った、
「
巌の
「殺されてもかまわん」と
「さあ、こい」
木俣は再度の失敗にもう気が
生蕃は右にかわし左にかわしてたくみに敵の手をくぐりぬけ、敵の足元のみだれるのを待っていた、だが木俣は心にあせりながらもからだにみだれはなかった、かれは縦横に生蕃を追いつめた。そこは学校の垣根である、
「しまった」とかれは思った、だが、逃げることは絶対にきらいである。敵を垣根におびきよせ自分が開放の地位に立つ方が利益だと思った、しかしかれのこの方策はあやまった、敵をして方向を転換させるべく、そこに大きな障害がある、かれの右に三
「畜生!」
ライオンは声とともに生蕃の肩先めがけて飛びこんだ。ひらりと身をかわしたが生蕃は石につまずいてばたりとたおれた。
「あっ!」
二年生は一せいに叫んだ、ライオンは生蕃の上に
飛びこんだ学生はライオンにつまずかした上で起きあがってライオンをだきしめた、ライオンはやたらに小刀をふってかれをつこうとした。
「しめたッ」
起きあがった生蕃は背後からライオンののどをしめた。ライオンはぐったりとまいってしまった。
「けがしなかったか、
「なんでもないよ」
光一は手からしたたる
「早いことをするな」
「柳にあんな勇気があったのか」
同級生はあっけに取られてささやきあった。双方ともふたたび戦う気もなくなった、犬はいつのまにか戦いをやめて逃げてしまった。
五分間の後、木俣は回気した。生蕃と光一は水を飲ませて
「今日はやられた」と木俣はいった。
「
「いずれね」
「堂々とこいよ」
木俣は去った、三年生が去った、二年生ははじめてときの声をあげた。
「きみのおかげだよ」と生蕃はしみじみと光一にいった。「きみは強いんだね」
「いやぼくは弱いよ」
「そうじゃない、あの場合きみがライオンのまたぐらへ飛びこんでくれなかったら、ぼくはあの小刀で一つきにされるところだったんだ」と生蕃がいった。
「もしぼくがつかれて死んだらきみはどうするつもりだ」と光一は友の顔をのぞくようにしていった。
「君が死んだらか」と生蕃はいった。「おれも死ぬよ」
「そうしてぼくを殺した木俣も生きていられないとすれば……三人だ……三人死ぬことになる、つまらないと思わんか」
「うむ」
生蕃はしばらく考えたが、やがて大きな声でわらいだした。
「おまえおれに喧嘩をよさせようと思ってるんだろう、それだけはいけない」
同級生は一度にわっとわらいだした。
「だが柳」と生蕃はまたいった。「ぼくはきみに頭があがらなくなったね」

