TOP連載小説>夏目漱石 名作集 
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)誰《だれ》か

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)此|掌《てのひら》に

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(例)六《む》※[#小書き濁点付き平仮名つ、25-10]かしい

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)初々《うい/\》しく
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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それから 九の一
 代助は又《また》父《ちゝ》から呼《よ》ばれた。代助には其用事が大抵|分《わか》つてゐた。代助は不断《ふだん》から成るべく父《ちゝ》を避《さ》けて会《あ》はない様にしてゐた。此頃《このごろ》になつては猶更|奥《おく》へ寄《よ》り付《つ》かなかつた。逢《あ》ふと、叮嚀な言葉を使《つか》つて応対してゐるにも拘はらず、腹《はら》の中《なか》では、父《ちゝ》を侮辱《ぶじよく》してゐる様な気がしてならなかつたからである。
 代助は人類の一人《いちにん》として、互《たがひ》を腹《はら》の中《なか》で侮辱する事なしには、互《たがひ》に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでゐた。さうして、これを、近来急に膨脹した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈してゐた。又これを此等新旧両慾の衝突と見傚してゐた。最後に、此生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯《つなみ》と心得てゐた。
 この二《ふた》つの因数《フアクトー》は、何処《どこ》かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を較《なら》べる日の来《く》る迄は、此平衡は日本に於て得《え》られないものと代助は信じてゐた。さうして、斯《か》ゝる日《ひ》は、到底日本の上を照《て》らさないものと諦《あきら》めてゐた。だからこの窮地に陥つた日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはたゞ頭《あたま》の中《なか》に於て、罪悪を犯さなければならない。さうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつゝあるかを、互に黙知しつゝ、談笑しなければならない。代助は人類の一人《いちにん》として、かゝる侮辱を加ふるにも、又加へらるゝにも堪へなかつた。
 代助の父《ちゝ》の場合は、一般に比《くら》べると、稍《やゝ》特殊的傾向を帯びる丈に複雑であつた。彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。此教育は情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据ゑて、事実の発展によつて証明せらるべき手近《てぢか》な真《まこと》を、眼中《がんちう》に置かない無理なものであつた。にも拘《かゝ》はらず、父《ちゝ》は習慣に囚へられて、未《いま》だに此教育に執着してゐる。さうして、一方には、劇烈な生活慾に冒され易い実業に従事した。父は実際に於て年々此生活慾の為《ため》に腐蝕されつゝ今日に至つた。だから昔の自分と、今の自分の間には、大いな相違のあるべき筈である。それを父《ちゝ》は自認してゐなかつた。昔《むかし》の自分が、昔通《むかしどほ》りの心得で、今の事業を是迄に成し遂《と》げたとばかり公言する。けれども封建時代にのみ通用すべき教育の範囲を狭《せば》める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に充《み》たして行ける訳がないと代助は考へた。もし双方を其儘に存在させ様とすれば、之《これ》を敢てする個人は、矛盾の為《ため》に大苦痛を受《う》けなければならない。もし内心に此苦痛を受けながら、たゞ苦痛の自覚丈|明《あき》らかで、何の為《ため》の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍《にぶ》い劣等な人種である。代助は父に対する毎《ごと》に、父《ちゝ》は自己を隠蔽《いんぺい》する偽君子《ぎくんし》か、もしくは分別の足らない愚物《ぐぶつ》か、何方《どつち》かでなくてはならない様な気がした。さうして、左《さ》う云ふ気がするのが厭《いや》でならなかつた。
 と云つて、父《ちゝ》は代助の手際で、何《ど》うする事も出来ない男であつた。代助には明《あき》らかに、それが分《わか》つてゐた。だから代助は未《いま》だ曾《かつ》て父《ちゝ》を矛盾の極端迄追ひ詰《つ》めた事がなかつた。
 代助は凡ての道徳の出立点《しつたつてん》は社会的事実より外にないと信じてゐた。始めから頭《あたま》の中に硬張《こわば》つた道徳を据ゑ付けて、其道徳から逆に社会的事実を発展させ様とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた。従つて日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考へた。彼等は学校で昔し風の道徳を教授してゐる。それでなければ一般欧洲人に適切な道徳を呑み込ましてゐる。此劇烈なる生活慾に襲はれた不幸な国民から見れば、迂遠の空談に過《す》ぎない。此迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る時《とき》、昔《むかし》の講釈を思ひ出して笑つて仕舞ふ。でなければ馬鹿にされた様な気がする。代助に至つては、学校のみならず、現に自分の父《ちゝ》から、尤も厳格で、尤も通用しない徳義上の教育を受けた。それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、頭《あたま》の中《なか》に起した。代助はそれを恨《うら》めしく思つてゐる位であつた。
 代助は此前《このまへ》梅子に礼を云ひに行つた時、梅子から一寸《ちよつと》奥《おく》へ行つて、挨拶をしてゐらつしやいと注意された。代助は笑ひながら御|父《とう》さんはゐるんですかと空《そら》とぼけた。ゐらつしやるわと云ふ確答を得た時でも、今日《けふ》はちと急《いそ》ぐから廃《よ》さうと帰つて来《き》た。

底本:「漱石全集 第六巻」岩波書店
   1994(平成6)年5月9日発行
底本の親本:漱石の自筆原稿
※ルビは、漱石の原稿にあったルビのみ付け、岩波編集部が付けたルビは省きました。
※ルビ、文字遣い、語句の混在は底本の通りとしました。
入力:Godot、野口英司、oto
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年4月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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