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| 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)誰《だれ》か |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)此|掌《てのひら》に [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)六《む》※[#小書き濁点付き平仮名つ、25-10]かしい /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)初々《うい/\》しく *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 |
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| それから 六の七 | ||
| 平岡は膳の上《うへ》の肴《さかな》を二口三口《ふたくちみくち》、箸《はし》で突つついて、下を向いた儘、むしや/\云はしてゐたが、やがて、どろんとした眼《め》を上げて、云つた。―― 「今日《けふ》は久し振《ぶ》りに好《い》い心持に酔つた。なあ君。――君はあんまり好《い》い心持にならないね。何《ど》うも怪《け》しからん。僕が昔《むかし》の平岡常次郎になつてるのに、君が昔《むかし》の長井代助にならないのは怪《け》しからん。是非なり給《たま》へ。さうして、大いに遣《や》つて呉《く》れ給《たま》へ。僕《ぼく》も是《これ》から遣《や》る。から君《きみ》も遣《や》つて呉れ給《たま》へ」 代助は此言葉のうちに、今の自己を昔《むかし》に返《かへ》さうとする真卒な又無邪気な一種の努力を認《みと》めた。さうして、それに動《うご》かされた。けれども一方では、一昨日《おとゝひ》、食《く》つた麺麭《パン》を今|返《かへ》せと強請《ねだ》られる様な気がした。 「君は酒を呑むと、言葉丈酔払つても、頭《あたま》は大抵|確《たし》かな男だから、僕も云ふがね」 「それだ。それでこそ長井君だ」 代助は急に云ふのが厭《いや》になつた。 「君、頭《あたま》は確《たしか》かい」と聞いた。 「確《たしか》だとも。君さへ確《たしか》なら此方《こつち》は何時《いつ》でも確《たしか》だ」と云つて、ちやんと代助の顔を見た。実際自分の云ふ通りの男である。そこで代助が云つた。―― 「君はさつきから、働《はた》らかない/\と云つて、大分|僕《ぼく》を攻撃したが、僕は黙《だま》つてゐた。攻撃される通り僕は働《はた》らかない積《つもり》だから黙《だま》つてゐた」 「何故《なぜ》働《はたら》かない」 「何故《なぜ》働《はたら》かないつて、そりや僕が悪《わる》いんぢやない。つまり世《よ》の中《なか》が悪《わる》いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働《はたら》かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏|震《ぶる》ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時《いつ》になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許《ばか》りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行《おくゆき》を削《けづ》つて、一等国丈の間口《まぐち》を張《は》つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨《ひさん》なものだ。牛《うし》と競争をする蛙《かへる》と同じ事で、もう君、腹《はら》が裂《さ》けるよ。其影響はみんな我々個人の上《うへ》に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭《あたま》に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日《こんにち》の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊《こんぱい》と、身体の衰弱とは不幸にして伴《とも》なつてゐる。のみならず、道徳の敗退《はいたい》も一所に来《き》てゐる。日本国中|何所《どこ》を見渡したつて、輝《かゞや》いてる断面《だんめん》は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其|間《あひだ》に立つて僕|一人《ひとり》が、何と云つたつて、何を為《し》たつて、仕様がないさ。僕は元来|怠《なま》けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から怠《なま》けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣《や》る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝《か》つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来《く》るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂|有《あり》の儘の世界を、有の儘で受取つて、其|中《うち》僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外《ほか》の人を、此方《こつち》の考へ通りにするなんて、到底|出来《でき》た話ぢやありやしないもの――」 代助は一寸《ちよつと》息《いき》を継《つ》いだ。さうして、一寸《ちよつと》窮屈《きうくつ》さうに控えてゐる三《み》千代の方を見て、御世辞を遣《つか》つた。 「三千代《みちよ》さん。どうです、私《わたし》の考《かんがへ》は。随分|呑気《のんき》で宜《い》いでせう。賛成しませんか」 「何《なん》だか厭世の様な呑気《のんき》の様な妙なのね。私《わたくし》よく分《わか》らないわ。けれども、少し胡麻化《ごまくわ》して入らつしやる様よ」 「へええ。何処《どこ》ん所《ところ》を」 「何処《どこ》ん所《ところ》つて、ねえ貴方《あなた》」と三千代《みちよ》は夫《おつと》を見た。平岡は股《もゝ》の上《うへ》へ肱《ひぢ》を乗《の》せて、肱《ひぢ》の上へ顎《あご》を載《の》せて黙《だま》つてゐたが、何にも云はずに盃《さかづき》を代助の前に出《だ》した。代助も黙つて受けた。三千代は又酌をした。 |
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| 底本:「漱石全集 第六巻」岩波書店 1994(平成6)年5月9日発行 底本の親本:漱石の自筆原稿 ※ルビは、漱石の原稿にあったルビのみ付け、岩波編集部が付けたルビは省きました。 ※ルビ、文字遣い、語句の混在は底本の通りとしました。 入力:Godot、野口英司、oto 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年4月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 |
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