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| 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)誰《だれ》か |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)此|掌《てのひら》に [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)六《む》※[#小書き濁点付き平仮名つ、25-10]かしい /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)初々《うい/\》しく *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 |
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| それから 六の六 | ||
| 平岡は酔《よ》ふに従つて、段々|口《くち》が多くなつて来《き》た。此男《このをとこ》はいくら酔つても、中《なか》/\平生を離れない事がある。かと思ふと、大変に元気づいて、調子に一種の悦楽《えつらく》を帯びて来《く》る。さうなると、普通の酒家以上に、能く弁する上に、時としては比較的|真面目《まじめ》な問題を持ち出して、相手と議論を上下して楽《たの》し気《げ》に見える。代助は其昔し、麦酒《ビール》の壜《びん》を互《たがひ》の間《あひだ》に並《なら》べて、よく平岡と戦《たゝか》つた事を覚えてゐる。代助に取つて不思議とも思はれるのは、平岡が斯《か》う云ふ状態に陥つた時が、一番平岡と議論がしやすいと云ふ自覚であつた。又酒を呑んで本音《ほんね》を吐《は》かうか、と平岡の方からよく云つたものだ。今日《こんにち》の二人《ふたり》の境界は其|時分《じぶん》とは、大分|離《はな》れて来《き》た。さうして、其離れて、近《ちか》づく路《みち》を見出し悪《にく》い事実を、双方共に腹の中《なか》で心得てゐる。東京へ着《つ》いた翌日《あくるひ》、三年振りで邂逅した二人《ふたり》は、其時《そのとき》既《すで》に、二人《ふたり》ともに何時《いつ》か互《たがひ》の傍《そば》を立退《たちの》いてゐたことを発見した。 所が今日《けふ》は妙である。酒《さけ》に親《した》しめば親《した》しむ程、平岡が昔《むかし》の調子を出《だ》して来《き》た。旨《うま》い局所へ酒が回《まは》つて、刻下《こくか》の経済や、目前の生活や、又それに伴ふ苦痛やら、不平やら、心の底の騒《さわ》がしさやらを全然|痳痺《まひ》して仕舞つた様に見える。平岡の談話は一躍《いちやく》して高《たか》い平面に飛び上《あ》がつた。 「僕は失敗したさ。けれども失敗しても働《はた》らいてゐる。又是からも働《はた》らく積《つもり》だ。君は僕の失敗したのを見て笑つてゐる。――笑はないたつて、要するに笑つてると同じ事に帰着するんだから構はない。いゝか、君は笑つてゐる。笑つてゐるが、其君《そのきみ》は何も為《し》ないぢやないか。君は世の中《なか》を、有《あり》の儘《まゝ》で受け取る男だ。言葉を換えて云ふと、意志を発展させる事の出来ない男だらう。意志がないと云ふのは嘘《うそ》だ。人間だもの。其証拠には、始終物足りないに違《ちがひ》ない。僕は僕の意志を現実社会に働《はたら》き掛《か》けて、其現実社会が、僕の意志の為《ため》に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや、生きてゐられないね。そこに僕と云ふものゝ存在の価値《かち》を認めるんだ。君はたゞ考へてゐる。考へてる丈だから、頭《あたま》の中《なか》の世界と、頭《あたま》の外《そと》の世界を別々《べつ/\》に建立《こんりう》して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか。何故《なぜ》と云つて見給へ。僕のは其不調和を外《そと》へ出《だ》した迄で、君のは内に押し込んで置く丈の話だから、外面《ぐわいめん》に押し掛けた丈、僕の方が本当の失敗の度《ど》は少《すく》ないかも知れない。でも僕は君に笑はれてゐる。さうして僕は君を笑ふ事が出来ない。いや笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや不可《いけ》ないんだらう」 「何《なに》笑《わら》つても構はない。君が僕を笑ふ前に、僕は既に自分を笑つてゐるんだから」 「そりや、嘘《うそ》だ。ねえ三千代《みちよ》」 三千代《みちよ》は先刻《さつき》から黙《だま》つて坐《すは》つてゐたが、夫《おつと》から不意に相談を受けた時、にこりと笑つて、代助を見た。 「本当でせう、三千代《みちよ》さん」と云ひながら、代助は盃《さかづき》を出《だ》して、酒を受《う》けた。 「そりや嘘《うそ》だ。おれの細君が、いくら弁護《べんご》したつて、嘘《うそ》だ。尤も君は人《ひと》を笑《わら》つても、自分を笑つても、両方共|頭《あたま》の中《なか》で遣《や》る人だから、嘘《うそ》か本当か其辺はしかと分《わか》らないが……」 「冗談云つちや不可《いけ》ない」 「冗談ぢやない。全く本気の沙汰であります。そりや昔《むかし》の君《きみ》はさうぢや無《な》かつた。昔の君はさうぢや無《な》かつたが、今の君は大分|違《ちが》つてるよ。ねえ三千代《みちよ》。長井《ながゐ》は誰《だれ》が見たつて、大得意ぢやないか」 「何《なん》だか先刻《さつき》から、傍《そば》で伺《うか》がつてると、貴方《あなた》の方が余っ程御得意の様よ」 平岡は大きな声を出してハヽヽと笑つた。三千代《みちよ》は燗《かん》徳利を持つて次《つぎ》の間へ立《た》つた。 |
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| 底本:「漱石全集 第六巻」岩波書店 1994(平成6)年5月9日発行 底本の親本:漱石の自筆原稿 ※ルビは、漱石の原稿にあったルビのみ付け、岩波編集部が付けたルビは省きました。 ※ルビ、文字遣い、語句の混在は底本の通りとしました。 入力:Godot、野口英司、oto 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年4月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 |
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