![]() |
||
|
||
![]() |
||
| 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)誰《だれ》か |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)此|掌《てのひら》に [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)六《む》※[#小書き濁点付き平仮名つ、25-10]かしい /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)初々《うい/\》しく *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 |
||
|
||
| それから 四の五 | ||
| 代助は烟草《たばこ》へ火《ひ》を点《つ》けて、吸口《すひくち》を啣《くわ》へた儘、椅子の脊《せ》に頭《あたま》を持《も》たせて、寛《くつ》ろいだ様に、 「久し振《ぶ》りだから、何か御馳走しませうか」と聞《き》いた。さうして心《こゝろ》のうちで、自分の斯う云ふ態度が、幾分か此女の慰藉になる様に感じた。三千代は、 「今日《けふ》は沢山《たくさん》。さう緩《ゆつく》りしちやゐられないの」と云つて、昔《むかし》の金歯《きんば》を一寸《ちょつと》見せた。 「まあ、可《い》いでせう」 代助は両手を頭《あたま》の後《うしろ》へ持《も》つて行つて、指《ゆび》と指《ゆび》を組み合せて三千代を見た。三千代はこゞんで帯の間《あひだ》から小さな時計を出《だ》した。代助が真珠の指輪を此女に贈《おくり》ものにする時、平岡は此時計を妻に買つて遣《や》つたのである。代助は、一つ店《みせ》で別々《べつ/\》の品物《しなもの》を買つた後《あと》、平岡と連《つ》れ立《だ》つて其所《そこ》の敷居《しきゐ》を跨《また》ぎながら互に顔を見合せて笑つた事を記憶してゐる。 「おや、もう三時過ぎね。まだ二時位かと思つてたら。――少し寄り道《みち》をしてゐたものだから」 と独り言《ごと》の様に説明を加へた。 「そんなに急《いそ》ぐんですか」 「えゝ、成《な》り丈《たけ》早く帰りたいの」 代助は頭《あたま》から手《て》を放《はな》して、烟草《たばこ》の灰をはたき落した。 「三年《さんねん》のうちに大分《だいぶ》世帯染《しよたいじみ》ちまつた。仕方《しかた》がない」 代助は笑つて斯う云つた。けれども其調子には何処《どこ》かに苦《にが》い所があつた。 「あら、だつて、明日《あした》引越《ひつこ》すんぢやありませんか」 三千代《みちよ》の声は、此時《このとき》急に生々《いき/\》と聞《きこ》えた。代助は引越《ひつこし》の事を丸で忘れてゐた。 「ぢや引越《ひつこ》してから緩《ゆつ》くり来《く》れば可《い》いのに」 代助は相手の快《こゝろ》よささうな調子に釣り込まれて、此方《こつち》からも他愛《たあい》なく追窮した。 「でも」と云つた、三千代は少し挨拶に困つた色を、額《ひたひ》の所へあらはして、一寸《ちょつと》下《した》を見たが、やがて頬《ほゝ》を上《あ》げた。それが薄赤く染《そ》まつて居た。 「実《じつ》は私《わたくし》少し御願《おねがひ》があつて上《あ》がつたの」 疳《かん》の鋭どい代助は、三千代の言葉を聞くや否や、すぐ其用事の何であるかを悟つた。実は平岡が東京へ着いた時から、いつか此問題に出逢ふ事だらうと思つて、半意識《はんいしき》の下《した》で覚悟してゐたのである。 「何ですか、遠慮なく仰しやい」 「少し御金《おかね》の工面《くめん》が出来《でき》なくつて?」 三千代の言葉《ことば》は丸で子供の様に無邪気であるけれども、両方の頬《ほゝ》は矢つ張り赤くなつてゐる。代助は、此女に斯んな気恥《きは》づかしい思ひをさせる、平岡の今の境遇を、甚だ気の毒に思つた。 段々聞いて見ると、明日《あした》引越をする費用や、新らしく世帯を持つ為《た》めの金《かね》が入用なのではなかつた。支店の方を引き上《あ》げる時、向ふへ置き去《ざ》りにして来《き》た借金が三口《みくち》とかあるうちで、其|一口《ひとくち》を是非片付けなくてはならないのださうである。東京へ着《つ》いたら一週間うちに、どうでもすると云ふ堅《かた》い約束をして来《き》た上《うへ》に、少し訳があつて、他《ほか》の様に放《ほう》つて置《お》けない性質《たち》のものだから、平岡も着《つ》いた明日《あくるひ》から心配して、所々奔走してゐるけれども、まだ出来さうな様子が見えないので、已を得ず三千代に云ひ付けて代助の所に頼みに寄《よこ》したと云ふ事が分《わか》つた。 「支店長から借りたと云ふ奴《やつ》ですか」 「いゝえ。其方《そのほう》は何時《いつ》迄延ばして置いても構はないんですが、此方《こつち》の方を何《ど》うかしないと困るのよ。東京で運動する方に響《ひゞ》いて来《く》るんだから」 代助は成程そんな事があるのかと思つた。金高《かねだか》を聞くと五百円と少し許である。代助はなんだ其位と腹の中《なか》で考へたが、実際自分は一文もない。代助は、自分が金《かね》に不自由しない様でゐて、其実大いに不自由してゐる男だと気が付いた。 「何《なん》でまた、そんなに借金をしたんですか」 「だから私《わたくし》考へると厭《いや》になるのよ。私《わたくし》も病気をしたのが、悪《わる》いには悪《わる》いけれども」 「病気の時の費用なんですか」 「ぢやないのよ。薬代《くすりだい》なんか知れたもんですわ」 三千代は夫《それ》以上を語《かた》らなかつた。代助も夫《それ》以上を聞く勇気がなかつた。たゞ蒼白《あをしろ》い三千代の顔を眺めて、その中《うち》に、漠然たる未来の不安を感じた。 |
||
|
|
||
| 底本:「漱石全集 第六巻」岩波書店 1994(平成6)年5月9日発行 底本の親本:漱石の自筆原稿 ※ルビは、漱石の原稿にあったルビのみ付け、岩波編集部が付けたルビは省きました。 ※ルビ、文字遣い、語句の混在は底本の通りとしました。 入力:Godot、野口英司、oto 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年4月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 |
||
|
||
Copyright:(C) 2004-2006 Sokai-Club.net. All Rights Reserved |