![]() |
||
|
||
![]() |
||
|
【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)山路《やまみち》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三軒|両隣《りょうどな》り [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#「王へん+樛のつくり」、第3水準1-88-22] |
||
|
||
| 草枕 五 | ||
| 失礼ですが旦那《だんな》は、やっぱり東京ですか」 「東京と見えるかい」 「見えるかいって、一目《ひとめ》見りゃあ、――第一《だいち》言葉でわかりまさあ」 「東京はどこだか知れるかい」 「そうさね。東京は馬鹿に広いからね。――何でも下町《したまち》じゃねえようだ。山《やま》の手《て》だね。山の手は麹町《こうじまち》かね。え? それじゃ、小石川《こいしかわ》? でなければ牛込《うしごめ》か四谷《よつや》でしょう」 「まあそんな見当だろう。よく知ってるな」 「こう見《め》えて、私《わっち》も江戸っ子だからね」 「道理《どうれ》で生粋《いなせ》だと思ったよ」 「えへへへへ。からっきし、どうも、人間もこうなっちゃ、みじめですぜ」 「何でまたこんな田舎《いなか》へ流れ込んで来たのだい」 「ちげえねえ、旦那のおっしゃる通りだ。全く流れ込んだんだからね。すっかり食い詰めっちまって……」 「もとから髪結床《かみゆいどこ》の親方かね」 「親方じゃねえ、職人さ。え? 所かね。所は神田松永町《かんだまつながちょう》でさあ。なあに猫の額《ひたい》見たような小さな汚ねえ町でさあ。旦那なんか知らねえはずさ。あすこに竜閑橋《りゅうかんばし》てえ橋がありましょう。え? そいつも知らねえかね。竜閑橋ゃ、名代《なだい》な橋だがね」 「おい、もう少し、石鹸《しゃぼん》を塗《つ》けてくれないか、痛くって、いけない」 「痛うがすかい。私《わっち》ゃ癇性《かんしょう》でね、どうも、こうやって、逆剃《さかずり》をかけて、一本一本|髭《ひげ》の穴を掘らなくっちゃ、気が済まねえんだから、――なあに今時《いまどき》の職人なあ、剃《す》るんじゃねえ、撫《な》でるんだ。もう少しだ我慢おしなせえ」 「我慢は先《さっき》から、もうだいぶしたよ。御願だから、もう少し湯か石鹸をつけとくれ」 「我慢しきれねえかね。そんなに痛かあねえはずだが。全体《ぜんてい》、髭があんまり、延び過ぎてるんだ」 やけに頬の肉をつまみ上げた手を、残念そうに放した親方は、棚《たな》の上から、薄《うす》っ片《ぺら》な赤い石鹸を取り卸《お》ろして、水のなかにちょっと浸《ひた》したと思ったら、それなり余の顔をまんべんなく一応撫で廻わした。裸石鹸を顔へ塗りつけられた事はあまりない。しかもそれを濡《ぬ》らした水は、幾日前《いくにちまえ》に汲《く》んだ、溜め置きかと考えると、余りぞっとしない。 すでに髪結床《かみゆいどこ》である以上は、御客の権利として、余は鏡に向わなければならん。しかし余はさっきからこの権利を放棄したく考えている。鏡と云う道具は平《たい》らに出来て、なだらかに人の顔を写さなくては義理が立たぬ。もしこの性質が具《そな》わらない鏡を懸《か》けて、これに向えと強《し》いるならば、強いるものは下手《へた》な写真師と同じく、向うものの器量を故意に損害したと云わなければならぬ。虚栄心を挫《くじ》くのは修養上一種の方便かも知れぬが、何も己《おの》れの真価以下の顔を見せて、これがあなたですよと、こちらを侮辱《ぶじょく》するには及ぶまい。今余が辛抱《しんぼう》して向き合うべく余儀なくされている鏡はたしかに最前から余を侮辱している。右を向くと顔中鼻になる。左を出すと口が耳元まで裂ける。仰向《あおむ》くと蟇蛙《ひきがえる》を前から見たように真平《まったいら》に圧《お》し潰《つぶ》され、少しこごむと福禄寿《ふくろくじゅ》の祈誓児《もうしご》のように頭がせり出してくる。いやしくもこの鏡に対する間《あいだ》は一人でいろいろな化物《ばけもの》を兼勤《けんきん》しなくてはならぬ。写るわが顔の美術的ならぬはまず我慢するとしても、鏡の構造やら、色合や、銀紙の剥《は》げ落ちて、光線が通り抜ける模様などを総合して考えると、この道具その物からが醜体を極《きわ》めている。小人《しょうじん》から罵詈《ばり》されるとき、罵詈それ自身は別に痛痒《つうよう》を感ぜぬが、その小人《しょうじん》の面前に起臥《きが》しなければならぬとすれば、誰しも不愉快だろう。 その上この親方がただの親方ではない。そとから覗《のぞ》いたときは、胡坐《あぐら》をかいて、長煙管《ながぎせる》で、おもちゃの日英同盟《にちえいどうめい》国旗の上へ、しきりに煙草《たばこ》を吹きつけて、さも退屈気《たいくつげ》に見えたが、這入《はい》って、わが首の所置を托する段になって驚ろいた。髭《ひげ》を剃《そ》る間は首の所有権は全く親方の手にあるのか、はた幾分かは余の上にも存するのか、一人で疑がい出したくらい、容赦《ようしゃ》なく取り扱われる。余の首が肩の上に釘付《くぎづ》けにされているにしてもこれでは永く持たない。 彼は髪剃《かみそり》を揮《ふる》うに当って、毫《ごう》も文明の法則を解しておらん。頬にあたる時はがりりと音がした。揉《も》み上《あげ》の所ではぞきりと動脈が鳴った。顋《あご》のあたりに利刃《りじん》がひらめく時分にはごりごり、ごりごりと霜柱《しもばしら》を踏みつけるような怪しい声が出た。しかも本人は日本一の手腕を有する親方をもって自任している。 最後に彼は酔っ払っている。旦那えと云うたんびに妙な臭《にお》いがする。時々は異《い》な瓦斯《ガス》を余が鼻柱へ吹き掛ける。これではいつ何時《なんどき》、髪剃がどう間違って、どこへ飛んで行くか解らない。使う当人にさえ判然たる計画がない以上は、顔を貸した余に推察のできようはずがない。得心ずくで任せた顔だから、少しの怪我《けが》なら苦情は云わないつもりだが、急に気が変って咽喉笛《のどぶえ》でも掻《か》き切られては事だ。 「石鹸《しゃぼん》なんぞを、つけて、剃《す》るなあ、腕が生《なま》なんだが、旦那のは、髭が髭だから仕方があるめえ」と云いながら親方は裸石鹸を、裸のまま棚の上へ放《ほう》り出すと、石鹸は親方の命令に背《そむ》いて地面の上へ転《ころ》がり落ちた。 「旦那あ、あんまり見受けねえようだが、何ですかい、近頃来なすったのかい」 「二三日《にさんち》前来たばかりさ」 「へえ、どこにいるんですい」 「志保田《しほだ》に逗《とま》ってるよ」 「うん、あすこの御客さんですか。おおかたそんな事《こっ》たろうと思ってた。実あ、私《わっし》もあの隠居さんを頼《たよっ》て来たんですよ。――なにね、あの隠居が東京にいた時分、わっしが近所にいて、――それで知ってるのさ。いい人でさあ。ものの解ったね。去年|御新造《ごしんぞ》が死んじまって、今じゃ道具ばかり捻《ひね》くってるんだが――何でも素晴らしいものが、有るてえますよ。売ったらよっぽどな金目《かねめ》だろうって話さ」 「奇麗《きれい》な御嬢さんがいるじゃないか」 「あぶねえね」 「何が?」 「何がって。旦那の前《めえ》だが、あれで出返《でもど》りですぜ」 「そうかい」 「そうかいどころの騒《さわぎ》じゃねえんだね。全体なら出て来なくってもいいところをさ。――銀行が潰《つぶ》れて贅沢《ぜいたく》が出来ねえって、出ちまったんだから、義理が悪《わ》るいやね。隠居さんがああしているうちはいいが、もしもの事があった日にゃ、法返《ほうがえ》しがつかねえ訳《わけ》になりまさあ」 「そうかな」 「当《あた》り前《めえ》でさあ。本家の兄《あにき》たあ、仲がわるしさ」 「本家があるのかい」 「本家は岡の上にありまさあ。遊びに行って御覧なさい。景色のいい所ですよ」 「おい、もう一遍|石鹸《しゃぼん》をつけてくれないか。また痛くなって来た」 「よく痛くなる髭《ひげ》だね。髭が硬過《こわす》ぎるからだ。旦那の髭じゃ、三日に一度は是非|剃《そり》を当てなくっちゃ駄目ですぜ。わっしの剃で痛けりゃ、どこへ行ったって、我慢出来っこねえ」 「これから、そうしよう。何なら毎日来てもいい」 「そんなに長く逗留《とうりゅう》する気なんですか。あぶねえ。およしなせえ。益もねえ事《こ》った。碌《ろく》でもねえものに引っかかって、どんな目に逢うか解りませんぜ」 「どうして」 「旦那あの娘は面《めん》はいいようだが、本当はき[#「き」に傍点]印《じる》しですぜ」 「なぜ」 「なぜって、旦那。村のものは、みんな気狂《きちげえ》だって云ってるんでさあ」 「そりゃ何かの間違だろう」 「だって、現《げん》に証拠があるんだから、御よしなせえ。けんのんだ」 「おれは大丈夫だが、どんな証拠があるんだい」 「おかしな話しさね。まあゆっくり、煙草《たばこ》でも呑《の》んで御出《おいで》なせえ話すから。――頭あ洗いましょうか」 「頭はよそう」 「頭垢《ふけ》だけ落して置くかね」 親方は垢《あか》の溜《たま》った十本の爪を、遠慮なく、余が頭蓋骨《ずがいこつ》の上に並べて、断わりもなく、前後に猛烈なる運動を開始した。この爪が、黒髪の根を一本ごとに押し分けて、不毛の境《きょう》を巨人の熊手《くまで》が疾風の速度で通るごとくに往来する。余が頭に何十万本の髪の毛が生《は》えているか知らんが、ありとある毛がことごとく根こぎにされて、残る地面がべた一面に蚯蚓腫《めめずばれ》にふくれ上った上、余勢が地磐《じばん》を通して、骨から脳味噌《のうみそ》まで震盪《しんとう》を感じたくらい烈《はげ》しく、親方は余の頭を掻き廻わした。 「どうです、好い心持でしょう」 「非常な辣腕《らつわん》だ」 「え? こうやると誰でもさっぱりするからね」 「首が抜けそうだよ」 「そんなに倦怠《けったる》うがすかい。全く陽気の加減だね。どうも春てえ奴《やつ》あ、やに身体《からだ》がなまけやがって――まあ一ぷく御上《おあ》がんなさい。一人で志保田にいちゃ、退屈でしょう。ちと話しに御出《おいで》なせえ。どうも江戸っ子は江戸っ子同志でなくっちゃ、話しが合わねえものだから。何ですかい、やっぱりあの御嬢さんが、御愛想に出てきますかい。どうもさっぱし、見境《みさけえ》のねえ女だから困っちまわあ」 「御嬢さんが、どうとか、したところで頭垢が飛んで、首が抜けそうになったっけ」 「違《ちげえ》ねえ、がんがらがんだから、からっきし、話に締りがねえったらねえ。――そこでその坊主が逆《のぼ》せちまって……」 「その坊主たあ、どの坊主だい」 「観海寺《かんかいじ》の納所坊主《なっしょぼうず》がさ……」 「納所《なっしょ》にも住持《じゅうじ》にも、坊主はまだ一人も出て来ないんだ」 「そうか、急勝《せっかち》だから、いけねえ。苦味走《にがんばし》った、色の出来そうな坊主だったが、そいつが御前《おまえ》さん、レコに参っちまって、とうとう文《ふみ》をつけたんだ。――おや待てよ。口説《くどい》たんだっけかな。いんにゃ文だ。文に違《ちげ》えねえ。すると――こうっと――何だか、行《い》きさつが少し変だぜ。うん、そうか、やっぱりそうか。するてえと奴《やっこ》さん、驚ろいちまってからに……」 「誰が驚ろいたんだい」 「女がさ」 「女が文を受け取って驚ろいたんだね」 「ところが驚ろくような女なら、殊勝《しお》らしいんだが、驚ろくどころじゃねえ」 「じゃ誰が驚ろいたんだい」 「口説た方がさ」 「口説ないのじゃないか」 「ええ、じれってえ。間違ってらあ。文《ふみ》をもらってさ」 「それじゃやっぱり女だろう」 「なあに男がさ」 「男なら、その坊主だろう」 「ええ、その坊主がさ」 「坊主がどうして驚ろいたのかい」 「どうしてって、本堂で和尚《おしょう》さんと御経を上げてると、突然《いきなり》あの女が飛び込んで来て――ウフフフフ。どうしても狂印《きじるし》だね」 「どうかしたのかい」 「そんなに可愛《かわい》いなら、仏様の前で、いっしょに寝ようって、出し抜けに、泰安《たいあん》さんの頸《くび》っ玉《たま》へかじりついたんでさあ」 「へええ」 「面喰《めんくら》ったなあ、泰安さ。気狂《きちげえ》に文をつけて、飛んだ恥を掻《か》かせられて、とうとう、その晩こっそり姿を隠して死んじまって……」 「死んだ?」 「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」 「何とも云えない」 「そうさ、相手が気狂じゃ、死んだって冴《さ》えねえから、ことによると生きてるかも知れねえね」 「なかなか面白い話だ」 「面白いの、面白くないのって、村中大笑いでさあ。ところが当人だけは、根《ね》が気が違ってるんだから、洒唖洒唖《しゃあしゃあ》して平気なもんで――なあに旦那のようにしっかりしていりゃ大丈夫ですがね、相手が相手だから、滅多《めった》にからかったり何《なん》かすると、大変な目に逢いますよ」 「ちっと気をつけるかね。ははははは」 生温《なまぬる》い磯《いそ》から、塩気のある春風《はるかぜ》がふわりふわりと来て、親方の暖簾《のれん》を眠《ねむ》たそうに煽《あお》る。身を斜《はす》にしてその下をくぐり抜ける燕《つばめ》の姿が、ひらりと、鏡の裡《うち》に落ちて行く。向うの家《うち》では六十ばかりの爺さんが、軒下に蹲踞《うずく》まりながら、だまって貝をむいている。かちゃりと、小刀があたるたびに、赤い味《み》が笊《ざる》のなかに隠れる。殻《から》はきらりと光りを放って、二尺あまりの陽炎《かげろう》を向《むこう》へ横切る。丘のごとくに堆《うずた》かく、積み上げられた、貝殻は牡蠣《かき》か、馬鹿《ばか》か、馬刀貝《まてがい》か。崩《くず》れた、幾分は砂川《すながわ》の底に落ちて、浮世の表から、暗《く》らい国へ葬られる。葬られるあとから、すぐ新しい貝が、柳の下へたまる。爺さんは貝の行末《ゆくえ》を考うる暇さえなく、ただ空《むな》しき殻を陽炎《かげろう》の上へ放《ほう》り出す。彼《か》れの笊《ざる》には支《ささ》うべき底なくして、彼れの春の日は無尽蔵に長閑《のど》かと見える。 砂川は二間に足らぬ小橋の下を流れて、浜の方へ春の水をそそぐ。春の水が春の海と出合うあたりには、参差《しんし》として幾尋《いくひろ》の干網が、網の目を抜けて村へ吹く軟風に、腥《なまぐさ》き微温《ぬくもり》を与えつつあるかと怪しまれる。その間から、鈍刀《どんとう》を溶《と》かして、気長にのたくらせたように見えるのが海の色だ。 この景色とこの親方とはとうてい調和しない。もしこの親方の人格が強烈で四辺《しへん》の風光と拮抗《きっこう》するほどの影響を余の頭脳に与えたならば、余は両者の間に立ってすこぶる円※[#「木+内」、第3水準1-85-54]方鑿《えんぜいほうさく》の感に打たれただろう。幸《さいわい》にして親方はさほど偉大な豪傑ではなかった。いくら江戸っ子でも、どれほどたんかを切っても、この渾然《こんぜん》として駘蕩《たいとう》たる天地の大気象には叶《かな》わない。満腹の饒舌《にょうぜつ》を弄《ろう》して、あくまでこの調子を破ろうとする親方は、早く一微塵《いちみじん》となって、怡々《いい》たる春光《しゅんこう》の裏《うち》に浮遊している。矛盾とは、力において、量において、もしくは意気|体躯《たいく》において氷炭相容《ひょうたんあいい》るる能《あた》わずして、しかも同程度に位する物もしくは人の間に在《あ》って始めて、見出し得べき現象である。両者の間隔がはなはだしく懸絶するときは、この矛盾はようやく※[#「さんずい+斯」、第3水準1-87-16]※[#「壟」の「土」に代えて「石」、第3水準1-89-17]磨《しじんろうま》して、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかも知れぬ。大人《たいじん》の手足《しゅそく》となって才子が活動し、才子の股肱《ここう》となって昧者《まいしゃ》が活動し、昧者の心腹《しんぷく》となって牛馬が活動し得るのはこれがためである。今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽《こっけい》を演じている。長閑《のどか》な春の感じを壊《こわ》すべきはずの彼は、かえって長閑な春の感じを刻意に添えつつある。余は思わず弥生半《やよいなか》ばに呑気《のんき》な弥次《やじ》と近づきになったような気持ちになった。この極《きわ》めて安価なる気※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1-87-64]家《きえんか》は、太平の象《しょう》を具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。 こう考えると、この親方もなかなか画《え》にも、詩にもなる男だから、とうに帰るべきところを、わざと尻《しり》を据《す》えて四方八方《よもやま》の話をしていた。ところへ暖簾《のれん》を滑《すべ》って小さな坊主頭が 「御免、一つ剃《そ》って貰おうか」 と這入《はい》って来る。白木綿の着物に同じ丸絎《まるぐけ》の帯をしめて、上から蚊帳《かや》のように粗《あら》い法衣《ころも》を羽織って、すこぶる気楽に見える小坊主であった。 「了念《りょうねん》さん。どうだい、こないだあ道草あ、食って、和尚《おしょう》さんに叱《しか》られたろう」 「いんにゃ、褒《ほ》められた」 「使に出て、途中で魚なんか、とっていて、了念は感心だって、褒められたのかい」 「若いに似ず了念は、よく遊んで来て感心じゃ云うて、老師が褒められたのよ」 「道理《どうれ》で頭に瘤《こぶ》が出来てらあ。そんな不作法な頭あ、剃《す》るなあ骨が折れていけねえ。今日は勘弁するから、この次から、捏《こ》ね直して来ねえ」 「捏ね直すくらいなら、ますこし上手な床屋へ行きます」 「はははは頭は凹凸《ぼこでこ》だが、口だけは達者なもんだ」 「腕は鈍いが、酒だけ強いのは御前《おまえ》だろ」 「箆棒《べらぼう》め、腕が鈍いって……」 「わしが云うたのじゃない。老師が云われたのじゃ。そう怒るまい。年甲斐《としがい》もない」 「ヘン、面白くもねえ。――ねえ、旦那」 「ええ?」 「全体《ぜんてえ》坊主なんてえものは、高い石段の上に住んでやがって、屈托《くったく》がねえから、自然に口が達者になる訳ですかね。こんな小坊主までなかなか口幅《くちはば》ってえ事を云いますぜ――おっと、もう少し頭《どたま》を寝かして――寝かすんだてえのに、――言う事を聴《き》かなけりゃ、切るよ、いいか、血が出るぜ」 「痛いがな。そう無茶をしては」 「このくらいな辛抱が出来なくって坊主になれるもんか」 「坊主にはもうなっとるがな」 「まだ一人前《いちにんめえ》じゃねえ。――時にあの泰安さんは、どうして死んだっけな、御小僧さん」 「泰安さんは死にはせんがな」 「死なねえ? はてな。死んだはずだが」 「泰安さんは、その後《のち》発憤して、陸前《りくぜん》の大梅寺《だいばいじ》へ行って、修業三昧《しゅぎょうざんまい》じゃ。今に智識《ちしき》になられよう。結構な事よ」 「何が結構だい。いくら坊主だって、夜逃をして結構な法はあるめえ。御前《おめえ》なんざ、よく気をつけなくっちゃいけねえぜ。とかく、しくじるなあ女だから――女ってえば、あの狂印《きじるし》はやっぱり和尚《おしょう》さんの所へ行くかい」 「狂印《きじるし》と云う女は聞いた事がない」 「通じねえ、味噌擂《みそすり》だ。行くのか、行かねえのか」 「狂印《きじるし》は来んが、志保田の娘さんなら来る」 「いくら、和尚さんの御祈祷《ごきとう》でもあればかりゃ、癒《なお》るめえ。全く先《せん》の旦那が祟《たた》ってるんだ」 「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒《ほ》めておられる」 「石段をあがると、何でも逆様《さかさま》だから叶《かな》わねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂《きちげえ》は気狂《きちげえ》だろう。――さあ剃《す》れたよ。早く行って和尚さんに叱られて来めえ」 「いやもう少し遊んで行って賞《ほ》められよう」 「勝手にしろ、口の減《へ》らねえ餓鬼《がき》だ」 「咄《とっ》この乾尿※[#「木+厥」、第3水準1-86-15]《かんしけつ》」 「何だと?」 青い頭はすでに暖簾《のれん》をくぐって、春風《しゅんぷう》に吹かれている。 |
||
|
|
||
| 底本:「夏目漱石全集3」ちくま文庫、筑摩書房 1987(昭和62)年12月1日第1刷発行 底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房 1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月 入力:柴田卓治 校正:伊藤時也 1999年2月17日公開 2004年2月26日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 |
||
|
||
Copyright:(C) 2004-2006 Sokai-Club.net. All Rights Reserved |