一
同じその
「
それは女軽業の親方のお角でした。
女軽業の親方お角さんは、今では伊太夫第一のお気に入りになっている。お角が伊太夫を御前様と称えてみたところで、あえてへつらうわけではない。伊太夫は伊太夫としての貫禄から言っても、その系統から言っても、大名以上の実力はあるのだから、おかしいことにはならないのだし、お角もまた、この人を御前様以上の御前様として心からの尊敬を以て言うのだから、それもおかしいことにはならない。伊太夫は軽く
「それは、どちらでもいい」
と答えました。そうすると、同じ取巻の町人
「いや、
おたいこを叩いている言葉尻から察すると、この辺に地所の買入れの周旋が相当進んでいるらしい。しかし、今晩は、そういうことの取引を熟談するために、この船をよそおうて湖へ出たのではないらしい。そうかといって、今晩に限って、湖上の月を眺めようとの風流のための一座でないこともわかっている。地所家屋のことが口に上ったのは、当座の口合いだけのもので、この船は別に何か目的あって沖に向って進むものらしい。
宿へは、月も見がてら、夜をこめて竹生島まで行きつき、泊りの参詣をして帰ると言って出たのですが、その竹生島参詣にしてからが、なにも今晩、この船路を選ばなければならない必要も、理由もないようなものですが、それを伊太夫の発意によって、急にこの船よそおいをさせたというものは、一つは湖中へ向って、陸上から避難の意味でありました。
避難といえば、今の伊太夫の身辺に、何か急に迫る危険が予想されたのかというに、急にそうあるべき事情もないことはわかっている。そもそも伊太夫、今日の旅路というものが、極めて
悠揚として迫ることの必要のない伊太夫が、今晩避難の意味を兼ねて湖中に出でたということは、どうも表面見ただけでは、その内情を察するに難い。さては、あのがんりきの百とやらの
持てる人としての伊太夫は、他の何事にも驚かぬことの代りに、持たぬ者共の動静に神経が過敏となる。伊太夫はしかるべき家に生れてしかるべきように今日まで来ているから、あえて力を以て、暴圧と搾取とを、持たぬ者共に加えた覚えはないのだから、モッブの恨みを買うべき事情は少しも備えていないとは言いながら、持たぬ者共が動揺をはじめた時は、その波動が、いつどこにいようとも、誰人にも増して身にこたえるのは、持てる人の身にならなければわからない。
湖岸暴動の風聞を聞くにつけて、伊太夫はいやな気になって、それで急に、船よそおいをさせて、竹生島詣でを口実の水上避難という次第でありました。
二
「おやおや、何か変なものが流れて来ますねえ」
ややあって、お角さんが湖上をながめてこう言いました。
「あれごらんなさい、あれはまだ新しい盃とはんだい――まあ、こちらの方から、女の帯が流れて来ますよう」
盃とはんだいと言っていた間はまだいいが、女の帯と言われて、一座がゾッとしました。
杯盤の流れたということは、いささか風流の響きもあるが、女の帯が流れたということに、何か一座の身の毛をよだてるような暗示があったらしい。そうして湖面を見て、その言う通りの酒器が浮び
そこで、一座は、お角さんの勘を基調として一同に身の毛をよだてたのですが、帯を帯として認め得た者は、お角さんのほかには一人もありませんでした。
だが、そう言われて見ると、一筋の女の帯が
一座は無言で、ゾッとしたままで、その酒器を追う平面毒竜の形を見入ったまま、水を打ったように静寂に返りました。
そうすると、暫くあって、その毒竜の尾について、間隔は二三間を隔てて
「あれはポックリです――女物の、
湖上はと見れば、その時、立てこめた一面の霧です。
行手も霧、返るさも霧、ただその霧が明るいことだけは、霧の上に月がある余徳なのであって、この霧の中を迷わずに進み得るのは、船頭そのものの手練である。ところが、その多年の船頭そのものの手腕が怪しくなったと見えて、
「な、な、なんてだらしのねえ船扱いだ、おいおい、何とかしなければ正面衝突だよ、舟と舟とが、まともにぶっつかるよ、おい、その舟にゃ
こちらの船頭が舟の
今までは静かに漂うものの無気味さに打たれていたのですが、今度は、さし当りこちらにのしかかって来るものがあるらしい。その警戒のためにとて、こちらの船の舟夫が、あわただしいこの警告です。見ればなるほど、一隻の舟がこちらに向って、正面衝突の形で、前面より突き進んで来つつある。こちらの船頭が叫ぶのも無理はない、あのままで来ればまさしく正面衝突です。しかし、正面衝突とすれば、その危険性は我になくして
「あ、あ、いけねえ、何とか
先方は小舟だけに操縦が容易である、こちらは大船だけに運用が自由にならぬ、避けようとすれば先方は、ほんの一挙手の労で済むのだが、それをそうしないために、こちらの船頭は倍級の狼狽をしなければならない。それでも多年の熟練でようやく方向転換ができて、正面衝突だけは避けられたが、その途端に、
「なあんだ、空っ舟だ――」
相手がありさえすればこの場合、舟の衝突は免れても、舟夫同士に相当の口論、腕立てが起るべきところを、相手が人なし舟では喧嘩にならぬ。乗る人がなくて霧の中からさまよい出て来て、突き放さるればまた文句なしに突き放されて行く小舟を、船頭は腕のやり場もなく、しばらく見ていたが、それを見のがしにしなかったのがお角さんです。
「
お角さんだけが、この人なし舟を、人なし舟として突放しにする気にならなかったのは、何かこの女の勘にさわるものがあったればでしょう。勘というのは、弁信法師に限ったわけではない、脳味噌の働きの利鈍によって、何人にも勘の能力の大小がある。弁信法師の如きは超人的で、それは何者にも比較にならないが、お角さんの如きは、女性として最も勘のすぐれた方の女性なのです。目から鼻へ抜ける勘持ちで、いわゆる、こらえぬ気象なのです。ただ、「勘」という字が、お角さんの場合に於ては、「疳」とか「癇」とかいう字を使った方が適切な場合が多かろうというものです。
癇走るお角さんの命令によって、船頭は二言ともなく、いったん突き放した小舟を、また自分たちの大船の船べり近く引き寄せて、生かそうと殺そうと御意のまま、という体で、お角さんの眼の前へ突きつけたものです。
三
いくつもの
ほかの者が見たのでは、何が何やら気ぜわしいばかりです。
そこで、お角さんが、
「ちぇッ」
と舌打ちをして、眉根に八の字を寄せながら、舟底をちょっと蹴立ててみたというのは、その狼藉ぶりが例の癇にさわったからでありましょう。
他の者が見ては特に目立たない場合に、ナゼお角さんだけが、その狼藉ぶりに癇を鳴らしたかと見れば、小舟の中が、あまりに見苦しい取散らかしぶりであったからです。
「なんて、たしなみのないザマなんでしょう」
お角さんは、小舟の中を見て眼をそむけてしまったが、改めて大船の上を見上げる。
「さあ、上りましょう、これだけのものなんです、でも、船頭さん、この舟を
狼藉は狼藉としてのままで、一応、引くところまで引いて行って調べてやろう、というお角さんのはらです。
その声に応じて、提灯片手の取巻連が、一応もとの席に戻りますと、右の小舟は無雑作に曳舟として扱われて、無意味従順にこの親船のあとに引かれて行く。
「何でした、別にあぶないこともなかったですかね」
伊太夫からたずねられて、お角さんが少し息をはずませ、
「ちょきが一ぱい流れついただけのことなんですがね、御前様、どうも、その中が穏かでないんでございますよ」
「どう、穏かでないのですか」
「なんぼなんでも、ああまで取乱さなくってもよかりそうなもの」
「ははあ、そんなに見苦しくなっていましたかな」
「見苦しいにもなんにも、いったい、心中でもしようという人間には、もう少したしなみというものがなくてはいけませんね」
「心中?
「そうでございますよ、さっきのあの盃と、帯と、駒下駄の判じ物でもわかりますよね、あの舟で思いきり楽しんで、それから死出の旅という寸法なんでしょう、行き方は
「どうして、そういうことがわかります、ほんとうに心中者があったとすれば、このままでは済まされますまい、迷惑千万なことだが、一応、手を尽してやらなきゃあなるまいが」
と伊太夫が、そこに思いやりをはじめました。小舟の中が取乱してあるか、取乱してないかはこの際、論外なことで、お角さんの見込みの通り、程遠からぬ時間の間に、そういう変事をやり出した人間がありとすれば、その分別と、無分別の
そこで、船には緊急命令が下されて、さし当りこの小舟のもたらした予感通りに、掃海の作業を試むることになる。
といっても、事は近くで発見されたにしろ、
伊太夫の大船は、
その間、伊太夫は動ぜぬ座を占めている。お角さんは居たり立ったり、
四
「男も男ですが、女も女です、水にでもハマろうとするくらいなら、ハマるだけのたしなみというものがなけりゃなりませんよ。女の締めくくりは帯なんです、その帯を
お角さんが、噛んで捨てるように言ってのけたのは、それは伊太夫の知ったことではないが、お角さん自身に、これと異った趣に於て、充分に体験を持っているわけです。この女は上総房州の海に身を投じて、
その時は、無論、意気の、心中のというような浮いた
女というものは、水に溺れようとする瞬間に、何事よりも締めくくるべきは帯です、帯をしっかり結ぶことです。帯というものは無論、表の胴体を締めているこの無双や、鯨というだけには止まらない、下帯から、下締から、丸帯の一切、女の
水に没入して、息が有っても無くても、いったん人間の住む水際へ浮き出した瞬間に、それを見つけて騒ぎ立てる野郎共の大多数は、女を人間として見ないで、女として見るんですからね、したがって、女は死んだ後までもが、女としての体面を保護して置かなければならない、もし男性として品性の高い、教養の深い人が、それを発見した場合は、真先にその辺を保護して置いてから、改めて人に報告するようにしてやるのが紳士の礼儀である。
それに、どうでしょう、あの舟の女は、最も保護すべきものを真先に投げ出している、帯を取ってしまったお
子供なんですよ、からっきし子供なんだから、その辺のたしなみを知らない、そこらへポカリ浮き上ってでも来ようものなら、見てごらんなさい、見られたザマじゃない――とお角さんが、あざけり足らない。
そうでないとしたら、察するところ、意地で見せつけという寸法なんでしょうよ、思いきってだらしのないところを、誰かに見せつけてやろう――たとえばねえ、生きていては仕返しができないから、せめて、死んだ死骸に、思いきり自分で自分に恥を
そんな、ませた小娘は、よく大物をくわえたがるものです、
ええ、女が働きかけたんですとも。分別盛りの男が、自分から、小娘を相手に心中なんかする気になるものですか、みんな女が知恵をつけるんです、女が誘惑してそうさせるのです。長右衛門だって、長右衛門がお半を
お角は、伊太夫に向って、この心中から身投げの
五
「いや、
こう語り出でたのが、幾分か今までの凄味を消して、なんとなく
「へえ、お前さんも、その心中者を実見したんだね」
「へへ、たしかにこの眼で、まざまざと見せつけられてしまいましたが、ただいま太夫元さんのおっしゃる通り、最初に見つけたのが、たしなみのある人でよかったんです、もう少し事が遅かろうものなら、仲仕の人足たちに見られてしまうところでした。そいつらがドヤドヤと来て、見せろ見せろと言って、死体へ押迫って、いきなり天秤棒で女の
取巻が、別に心中物語をはじめたので、お角さんが
「死にたいものを死ぬなとは言わないが、死ぬんなら死恥をさらさないようにして死なせたい、およそ、心中の死にぞこないぐらい、みじめなものはありませんからね」
「ところが、その時の心中が、あとで聞きますと、その死にぞこないなんだそうでございましてね、変なことになりました」
取巻がつけ加えて物語ることには、
「二人ともに、そうして、まあ立派に心中を遂げたには遂げたのですが、あとで聞きますと、男の方はそれっきり、女だけが助かりましたのやそうでございます」
「おやおや、運が悪いねえ、心中の生残りは浮ばれない」
「それから後、男の方の
見たって仕方がないじゃないか、とお角さんが言うと、伊太夫が、何か野心があるのだろうとからかう。取巻も、それでいったんは口をつぐんでしまったが、これによって見ると、大和の国、岡寺の薬屋源太郎と言ったのはこの取巻の聞誤りで、実は同じ国、三輪の里、大明神の門前のことではなかろうか。
そうして、その心中者の男の方の名を真三郎と言い、女をお豊とは呼ばなかったか。
しばらくして、また取巻の口が開いて、右の心中話に決着を与える――
あの時の若い男女は、心中の方式については全く無知識であったこと、
これを取巻が、この際、新発見でもしたもののように、そやし立てて、つまりあの心中は、
「いやに女の方にばかり肩を持ちたがるじゃないか」
と、またしても伊太夫から冷かされたが、それでも取巻は一向にめげず、
「全く、あの
その当座だけではない、今もなお気が揉めているから、こんなことも口へ出るのだろう。そこでお角さんが、
「心中の片割者なんか、女ひでりの世じゃあるまいし」
お角さんにけし飛ばされても取巻はひるまない。
「ところが、かえって一段と気が揉めましてな、どんなまずい女房も、後家になると色っぽく見えると言いますからなあ、片割となってみますと一層惜しいものでした、あの女子だけはただは置けないと、その当座は正直のところそう思いましたよ。もう、二三人の子供が出来てるんでしょうがねえ、今の御亭主の面が見てやりたいです」
「よけいな心配をしたものです」
お角さんは深く取合わないが、何か一道の魅力がありそうで妙に気が引かれる。
男を殺して、自分だけが生き残った女の尽きせぬ
さればこそ、三輪の里には業風が吹きそめて、
「ござった、ござった、正体が届きましたよ、御推察の通り抱合い心中、それそこに流れついた土左衛門とお土左がそれじゃ」
湖面を見つづけていた船頭の叫びで、
二間ばかり近く、波の間に、ふわりふわりと浮いては沈み、沈みては浮び
六
事態は重くるしかったけれども、手数は極めて簡単でした。船をめがけて漂い来った二つの抱合い死体は完全にこの船の内部に助け上げられました。その報告を綜合してみると……案のごとく男女の抱合い死体であったこと。
ことにお角さんの予言的中して
さりとてお半と長右衛門ほどの相違ではないが、女はお半だとしても、相手がとうてい長右衛門では有り得ない、黒い
帯のない女の衣裳形が、
「これは心中じゃありませんよ」
心中でないとすれば、脅迫か。脅迫とすれば力の問題だから、この小娘がどう間違っても、このおさむらいを脅迫する道理はないから、女の子がこのさむらいに無体な脅迫を受けて、水に逃れようとしたのを、男が追いすがって、我がものにした。
そう解釈してみると、解釈しきれないのは、では、ナゼ男も死んだ、これだけの男ならば、水練がないはずはなし、どう間違っても、この小娘一人を水上に扱い兼ねる
がやがや騒ぐ
「おかしい……二人とも、ちっとも水を呑んでいねえぞ」
と言いました。
水を呑まない溺死人ということは、この際、考うべきことでした。
抱き合って身を投げたものが、浮きつ沈みつ、ここまで漂い
この疑問は、物に慣れた船頭が直ちに解釈してくれました。
「それは、この娘に水を飲ませまいとして、このおさむらいが当てたんですよ、一当て
二人の
夜が明けかかると、今までの霧にこめられた湖面の白さとは性質を異にした、光明を含んだ白さが湖上に流れ出したと見ると、それにつれて、ようよう霧も亡び去って行く。霧の晴れ間を湖水がひたひたと侵略して行って、夜が全く明けた時分に、船がピタリと停った前面を見ると、もう竹生島の全面が行く手にうっすらと、墨絵がにじんだように浮んでおりました。
七
朝まだき、伊太夫の大船が、竹生島の前に船がかりしてまだ動かない先に、一隻の
そんならば、同じように、この竹生島めざして舟がかりをするかと見ればそうではなく、霧が破れようが、夜が明けようが、急ピッチは変らない。名にし負う竹生島もよそにして、漕ぎ行くことは矢の如く、その行手は、ちょうど、夜明け前に平面毒竜が
急ピッチで、竹生島の眼前を乗打ちをしながら、さいぜん船がかりをしたばっかりの、伊太夫の
「あれが
こう言って、相対した一方の人に向って説明をしますと、その相対していた一方の人というのが無言で
「竹生島が朝霧の間に浮いて、あの大丸船が一つ船がかりをしている、湖面がかくの如く模糊として、時間と空間とをぼかしておりまする間は、我々も太古の人となるのです、太古といわないまでも、近江朝時代の空気にまで、我々を誘引するのですが、夜が明けると、近頃の琵琶湖はさっぱりいけません、沿岸には地主と農民の
早手は早くも竹生島の前面をかすめ去って、問題の大船も後ろに見るくらいに、急行をつづけているにかかわらず、舟の中の人は、年代を超越した悠長さで、時代と歴史とに向って感想を発しました。これはたしかに不破の関守氏に相違ありません。
現に胆吹王国の総理であり、参謀総長を兼ねていたはずの不破の関守氏が、急に水上の人となり、早舟の急がせ方はこうも急調なるにかかわらず、語るところのものは
平明に言ってしまえば、この早手の中の対坐の客は、お銀様に対する不破の関守氏であって、それに従者が一人、神妙に後ろの方に控えていると、
早手は急ピッチを変えず、島も大船も見えずなり、それにまたもや一陣の霧が、一むれ襲うて来たものですから、
大船の――
かとりの海に
いかりおろし
いかなる人か
物思 はざらむ――
朗々たる名調子で、一種独得の朗詠が湖上の上に漂いました。かとりの海に
いかりおろし
いかなる人か
八
湖面が再び
「いい歌です、ともかく大湖の
関守氏が自己陶酔的に感歎している。その傍らから、お銀様の傲然たる
「それは、かとりの海――この琵琶湖のことじゃありません、琵琶湖は大きいのなんのと言っても、
「なるほど……そうおっしゃられると、拙者もそこに、かねがねの疑問を持っていたのです、お言葉通り、かとりの海と
ともし火の
明石大門 に
入らむ日や――
吟じてごらんなさい、声は千年の深韻を以て響き、調べは千古の心に微妙に入らむ日や――
お銀様を前にして、こういう歌物語をはじめている。広長舌は必ずしも弁信法師の専売ではない、ということはわかるのですが、いったい今時、船をこんなにまで急がせながら、乗り手ときてはこの通りの悠長さ、それに第一、女性の方は女王であり、男性の方はその総参謀長であるべき身が、二人ともに山を出てしまったのでは、留守のことも思われるではないか。
そもそもこの二人は、何の要あってか、かくも急行船に乗り、いずれの地に向って走り行くものか。沿岸に向って、遠く大津朝廷の故事を
そこで、この行程の底を割ってしまえば、実は不破の関守氏のたっての献策で、お銀様を父親伊太夫に会わせにやるのです。
父といえども、
訪ぬべき当の
九
西国旅行をかこつけに、そこは親心の甘さで、胆吹王国のやんちゃ娘の行動視察を眼目とする伊太夫が大津にいない時に、お銀様と不破の関守氏の一行は大津へ着きました。
当座の行違いになってしまったのですが、その際、当座の在と不在の如きは、さのみ問題ではない。関守氏は、目的地に着いたからといって、
この総参謀長不破の関守氏は、女王様を盛り立てて、これに絶対服従の範を示すと共に、一方には女王様を後見して、これを教育するの心がけを忘れない、ただ、その教育ぶりがあくまで
とにかくに、この早手は翌日の夕方、無事に大津の石浜に着くと同時に、早くも
大津の町といえども、伊太夫でさえ騒々しさを避けるくらいの時代でしたから、空気がなんとなく動揺している間へ、こっそりと上陸したこの一行は、別段、出迎えるものもなく、目ざされる憂いもなく、ほんとうに尋常な気分で着いて、尋常な気分で散じてしまったのは、一つは不破の関守氏の用意のほどもあることでしょう。
かくて不破の関守氏は、お銀様を、本陣へも、脇本陣へも、自分もろともに送り込むことをせずに、いつ、何によって、ドコへついたという形跡もないようにして、その翌日になるとお銀様は、もう長安寺山の牛塚の上、小町の
昨夜、お銀様をここに納めて置いてからの不破の関守氏は、胆吹から率いて来た一僕を召しつれて、
ここにお銀様の当座の庵は、
形勝というよりも、第一、便利なことです。土地柄が町とは離れているが、街道とはさのみ遠くはない。
青嵐居士といえば、あれから早くも、胆吹王国のオブザアバーとなって、今では自分から興味をもって、あの
十
お銀様を小町塚の
出がけに、程遠からぬ小町塚の庵へ立寄った不破の関守氏は、縁に腰をかけて、敷居越しにお銀様に向って話しかける様は、
「あいにくのことで、行違いとなりました、御尊父は船で竹生島詣でにおいでになった、そのあとへ我々は乗込んだという次第です。しかし、ホンの外出の程度ですから、直ぐに戻っておいでになる……といっても、今日明日というわけには参りますまい、単純な竹生島見物だけですと、日帰りにもやってやれないことはないですが、なんにしても避難の意味を兼ねての船出なんですから、存外、日数を要するかも知れません。湖辺湖岸は、御承知の通り物騒で、宿々の
そのことの報告を兼ねて、お銀様に長期応戦の秘策を授け、自分は身軽く立って、その裏山から
小関はすなわち
不破の関守氏は、笠も軽くこの小関越えをなしながら、きこりやまがつに逢うと、おさだまりのように、
「この道を真直ぐに行くと
そういうような発問をして、道を誤らずに山科街道まで出てしまいました。
「
この質問はナンセンスでした。不破の関守氏らしくもない愚問で、二つの異なった方向を同時に質問したのですから、いわば碁を打つにあたって一度に二石を下ろしたようなもので、
「山科の光悦屋敷というのはまだ遠いですか。では大谷の風呂の方は……この地点から、まずどちらへ行くのが順で、どちらへ行くのが近いですか。ああ、そうですか、左様でございましたか、しからば、その大谷風呂の方から先に……何とおっしゃる、そのあいだに有名な
途中での道案内を、そのまま素直に受けて、不破の関守氏は街道を小戻りをして、大谷風呂というのを目ざして進んで行きました。
その
「走井の井戸は、この石垣のうちにあるのでおますが、ごらんの通り、今ではもう人様の御別荘に買われてしもうたから、旅の方も
「はは、公有の名物が、私人の所有に帰してしまったのですか」
関守氏は、
「では、割愛しましょう」
野山の花が名門の
「でも、何なら、御別荘にはお留守がいらっしゃいますによって、たずねてごろうじませ、手軽う見せて下さるのやろうと存じますさかい」
「そうですか、たとえ個人の所有に帰したとはいえ、手軽に見せてもらえるならば、見せてもらった方が、見せてもらわないよりはよろしい、ひとつ門を叩いてみましょうかな」
不破の関守氏も、つい、その気になって、小戻りをして、走井の別荘の門をおとのうてみる。犬が
「お越しやす」
極めて尋常な女中が一人、現われました。
「有名な走井の水というのは、あなたのお家にあるのですか、旅の者ですが、一見させていただきたい」
「おやすいことでおます、どうぞ、こちらへお入りやして」
女中に導かれるまでもなく、門からつい一足の右手は、花崗石の高さ三尺、径四尺ぐらいの
「ははあ、これが走井の水ですか、一杯頂戴――」
関守氏は
「で、走餅というのは、もうこの辺にございませんか」
「ええ、もう、
「そうですか、どうも有難う、お手数をかけました。犬の子が盛んに蕃殖をいたしつつありますな」
「はい」
「いったい、今はどなたの御所有に帰しているのですか、この御別荘と、それからこの井戸は」
「寒雪先生の御別荘になっていやはります」
「寒雪先生とおっしゃるのは、あの
「はい、左様でござります」
「そうでしたか、寒雪先生、東海道名代の名物を自分の垣根に取込んでしまうなどは心憎い。そうして先生は、時々これへおいでになりますかな」
「はい、月に一度ぐらいはお見えなさりやす」
「絵を描きにおいでになるのですか、ただ休養にだけいらっしゃるのですか」
不破の関守氏が、よけいなことまで口に出して聞いてみたのは、樫本寒雪といえば当時、聞えたる有名の画家であって、絵の方に於ても一代の名家だが、貨殖も相当なもので、なかなかに
だらだら坂を少し上って行くと、門があり、植込がある。玄関へかかって、
「頼もう、旅のものでござるが、一風呂浴びさせていただきたい」
しばらくは返答もなかったが、ややあって、
「お越しやす」
ようよう現われたのは、やはり女で、しかも今度のは
「あら――関守の先生でいらっしゃるわ」
「やあ、これはこれはお宮さん、珍しいところでお目にかかりましたな」
不破の関守氏が、熱海海岸の場の貫一さんのような発言をして、さすがの策士も、ちょっと
「どうしてまあ、関守の先生、いつごろ、こんなところへ――何はともあれお上りやして……」
十二分の
それにしても、今日は関守氏、ことのほか艶福の日と見えて、走井の水をたずねた時は花売りの乙女――寒雪画伯の別荘で名所を見せてくれたのが極めて尋常ながら、これも年に於ては不足のない妙齢の処女、こんどこのところへ来て見ると、現われたお宮さんがすごいような丸髷の大年増ときている。しかも、それも双方相当の前知ということであってみると、穏かでない。だがしかしここに現われたお宮さんは、
十一
長安寺の小町塚の
「胆吹の御殿ではお銀様が憤っている。
お銀様は絶えず憤っている人である。その人が、憤りの上にまた一つの憤りを加えた。
何を憤っている。
お雪ちゃんという子が、恩を忘れて裏切りの冒涜 の行動をしている、それを憤っているのか。そうではない。
竜之助という男が、無制限の放縦と、貪婪 と、虚無に盲進する、それを憤っているのか。そうでもない。そんなことはこの暴女王にとっては、憤慨ではなくて、むしろ興味である。
そもそも、この暴女王が今日に及んで、かくも深く憤りを発しているという所以 のものは、己 れの夢想する王国が、土台からグラつき出したから、それを見せつけられるがために憤っているのに相違ない。
人間というやつは度し難いものだ、人間というやつは救うよりは殺した方が慈悲だ、とさえ、ややもすれば観念せしめられることの由を如何 ともし難い。
ナゼならば、彼女は己れの強力を傾注して、有象無象をよく生かしてやらんがために事を企てているが、ここに来る奴、集まる奴にロクな奴はない! いや、ここに来る奴、集まる奴にロクな奴がないのではない、およそ生きんことを欲する人間にロクな奴がない! という断案を得ようとして、それを得させまいがために、自ら苦心、焦慮、憤慨しているのである。
もし、こういう論理を許すとすれば、自分の王国主義を、甘んじて虚無主義に屈服せしむる結果となる、それでは絶滅の使徒、虚無の盲人に笑われるばかりだ。生の哲学から、死の哲学に降服を余儀なくされるばかりだ。
彼女は、ここに働く人間共の表裏を見せつけられる。人間は働きたいが本能でなく、なまけたいのが本能だ。生をぬすまんがために、表面追従するだけで、生の拡大と鞏固 とを欣求 するような英雄は一人も来やしない。彼等の蔭口を聞いていると、この王国を愚弄 し、わが暴女王の甘きにタカるあぶら虫のような奴等ばかりだ。こんな連中に世話を焼いてやるべきものではない。残らず叩き出して出直させるに越したことはない! とさえ、この女王を思い迫らせる。
王国の門を鎖 し、垣を高くして、いま来ている奴等を残らず叩き出して、新たに出直さす――と言ったところで、彼等をどこへ、どう叩き出して、どこから出直させる。所詮、母の胎内へ押戻して、再び産み直させるよりほかに道はない。
お銀様は、この深い憤りを抑 えて、御殿の一間から琵琶の湖前をながめている。
憤っているのは、お銀様ばかりではない。道庵というような出しゃばり者を別にしては、誰も彼もが、みんな憤っている――ように見える。およそ今の時勢に、笑ってなんぞいられる奴はない。
お銀様が、これを深く憤っている時に、城下――御殿下とか、屋敷下とかいうよりは、ここからは城下といった方がふさわしい、胆吹御殿の城下がにわかに物騒がしくなりました。春照、弥高の里で、早鐘が鳴り出しました。
『一揆 が来るぞ!』
『百姓一揆が押して来たアー』
どこからともなく響く号叫」
お銀様は絶えず憤っている人である。その人が、憤りの上にまた一つの憤りを加えた。
何を憤っている。
お雪ちゃんという子が、恩を忘れて裏切りの
竜之助という男が、無制限の放縦と、
そもそも、この暴女王が今日に及んで、かくも深く憤りを発しているという
人間というやつは度し難いものだ、人間というやつは救うよりは殺した方が慈悲だ、とさえ、ややもすれば観念せしめられることの由を
ナゼならば、彼女は己れの強力を傾注して、有象無象をよく生かしてやらんがために事を企てているが、ここに来る奴、集まる奴にロクな奴はない! いや、ここに来る奴、集まる奴にロクな奴がないのではない、およそ生きんことを欲する人間にロクな奴がない! という断案を得ようとして、それを得させまいがために、自ら苦心、焦慮、憤慨しているのである。
もし、こういう論理を許すとすれば、自分の王国主義を、甘んじて虚無主義に屈服せしむる結果となる、それでは絶滅の使徒、虚無の盲人に笑われるばかりだ。生の哲学から、死の哲学に降服を余儀なくされるばかりだ。
彼女は、ここに働く人間共の表裏を見せつけられる。人間は働きたいが本能でなく、なまけたいのが本能だ。生をぬすまんがために、表面追従するだけで、生の拡大と
王国の門を
お銀様は、この深い憤りを
憤っているのは、お銀様ばかりではない。道庵というような出しゃばり者を別にしては、誰も彼もが、みんな憤っている――ように見える。およそ今の時勢に、笑ってなんぞいられる奴はない。
お銀様が、これを深く憤っている時に、城下――御殿下とか、屋敷下とかいうよりは、ここからは城下といった方がふさわしい、胆吹御殿の城下がにわかに物騒がしくなりました。春照、弥高の里で、早鐘が鳴り出しました。
『
『百姓一揆が押して来たアー』
どこからともなく響く号叫」
これが大菩薩峠第十八巻「農奴の巻」の終りの一章でありました。
お銀様はこの一室に納まって見ると、かなり閑雅で、小町の名を
床の間の掛軸の、
花のいろは
うつりにけりな
いたつらに
わか身世にふる
なかめせしまに
ここにあるべくしてある文字で、かえって当然過ぎる嫌いはあるが、さりとて、侮るべき筆蹟ではない。うつりにけりな
いたつらに
わか身世にふる
なかめせしまに
「わたしにも、このくらいに書けるか知ら」
書いた主は
その彫刻は二尺ばかりの木彫の坐像で、一見しょうづかの
しかし、それほどに、小町というものの通俗にうたわれた容姿風采とは趣を異にしているけれども、彫刻そのものが凡作でない証拠には、この年になっても、どこやらに人に迫るものがある。
ただ、気に入らないのは、床の間の一方に、
ようやく、机によって、間近な書架から書を取って検閲をはじめました。読む気ではない、検閲をしてやるつもりなのです。つまり、今までの前住者が、どれほどの教養があった人か、少なくとも、あの木像を守り、あの歌をかけて置くほどのものが、キングや文芸春秋ばかり読んでもおられまい。古えの小町の名を
お銀様は「三世相」の余憤を以て、そこにも若干の軽蔑を施しつつ、でも、これは一概に投げ出すようなことをせずして、不承不承に
「乾 元亨利貞 初九潜竜勿用 九二見竜在田 利見大人」
何のことかさっぱりわからない。お銀様の学力を以てすれば、文字だけを読み砕くには何の不足もないが、こればかりは文字あるところに直ちに意味が附着して来るのではない。お銀様は何かしら憤りをこらえて、なお読み進んで行くと、「九三君子終日乾乾夕
若
无咎 九四或躍在淵无咎九五飛竜在天利見大人」
いよいよ読み進んで、いよいよ何のことかわからなくなる。
若
无咎 九四或躍在淵无咎九五飛竜在天利見大人」お銀様は憤りました。
十二
事実、わかるわからないは別として、現在お銀様には歯が立たないのです。立たないのがあたりまえなのですが、それをそうと素直に受けることのできないことが、この女の持つ重大なる不幸でもあり、生存の根拠でもありましたのです。同時に、この女王はこの書物を征服しなければならないという憤りを発しました。この人は早くから世をすねている、人に
この憤激がお銀様を、無二無三に易伝の中へ突入させましたけれども、いよいよ進んで、いよいよ相手にされない。相手にされないだけならまだしも、相手を征服できないことは、同時に自分が征服されるという意地であってみると、もはや我慢ができない。お銀様は易を読みながら
「ああ、これは読み直さなければならない、今日まで人間の力で読みこなした人がある以上は、わたしにだって読みこなせないはずはない、もしまた本来、何もわからない
そこで、お銀様は「周易経伝」の巻を伏せて、その一部四冊だけを別にこっちの経机の上に取って置いてから、次へと書棚の検討をつづけました。
その次に触れたのが「古今集」――これは歯に立つも立たぬもない、自分の家の中庭の花園へ分け入るようなものである。ただ見返しに
どうも女文字ばかり多いが、ことによるとこの庵の前住者というのが、やっぱり女ではなかったのか、そこへお銀様がふと気を廻してみました。そういうふうに気を廻して見れば見るほど、その気分が全体ににじんで来る。そこへちょうど婆やが別棟からお茶を持って参りました。
「婆や、前にここにいらしった方はどんなお方でした」
「はい、あなた様と同じような
「ああ、そうですか、で、この御本は皆そのお方がごらんになったのですか」
「左様でございます、書物をごらんになり、お歌をお作りになって、よくこの町の娘衆などにも
「そうでしたか、それでは、なかなか学問がお出来になるお方でしたね」
「はい、お身分もすぐれていらしったそうでございますが、学問の方も大したお方で、和歌や
「易というのは、あの身の上判断やなにかのことですか」
「はい、易経と申しまするものは、なかなか身の上判断などに使うべきものではない、貴い書物だとおっしゃりながら、それでも、町の人たちが困ってお頼みにおいでになる時などは、あの
「易を立てて、身の上判断をして、それで暮しを立てていたのですか」
「いいえ、左様ではございません、お
婆やから、こう言って説明されると、お銀様の心がまた穏かならぬものになりました。
自分で見ては歯の立たないものを、ここの前住の女庵主は、立派に消化しきっているように思われたのが、お銀様の心を少なからずいらだたしめたもののようです。
こうして書物の検討をしている間に、夕方から雨が降り出しました。
十三
小町塚の雨の第一夜を、お銀様は、しめやかな気分のうちに眠りに就きましたが、お銀様としては、こと珍しい環境のうちに、珍しい夢を見るの一夜であります。
胆吹御殿の上平館の一室も、静かな一室であることに於ては、ここに譲りません。あるいはここよりも一層、懸絶し、沈静している胆吹御殿の女王の一室ではありましたけれど、女王としての権式を以て寝ね、女王としての支配を以て起きるのですから、放たれたる夢を結ぶということは、まずないことでした。
しかるに、今晩という今晩は、
まず、夢に入り来るところの人は小町でありました。最初の印象の壇の上の、しょうづかの婆さんに紛らわしい
「どうです、一枚お書きなさいな、あなたもあのくらいに書ける手じゃありませんか、書いてごらんなさいましな」
自分の片膝に持添えていた短冊と、右の手に七三に下向きに持っていた筆を取添えて、お銀様の前へ突きつけるのであります。そうして、あなたもあのくらいに書ける手じゃありませんか、とそそのかして、ふいと床の間を振向いたところには、やはり夜前、つくづくと見て、心憎さを感じたところの懐紙風のかけものが、そのまままざまざと浮き出している。
花のいろは
うつりにけりな
いたつらに
わか身世にふる
なかめせしまに
そう言われると、お銀様にも軽快な競争心といったようなものが動きそめたと見えて、関寺小町のつきつけた筆とうつりにけりな
いたつらに
わか身世にふる
なかめせしまに
お銀様は夢のうちにも、その尼さんの姿を、やはり心憎いものだと見ました。どこの何という人か知らないが、その美色はとにかく、気品としては、尼宮様と言っても恥かしからぬ高貴の人のようにも思われるが、短冊を取り上げて、和歌を打吟じ打吟じているかと見ているうちに、その手に持つ筆が、いつしか筮竹と変じ、その膝に当てた短冊が算木となって机の上に置かれてある。
「ああ、前住居の女易者――」
むらむらと、そんなような気分になると同時に、主観と、客観とが、お銀様の夢の中で混合してしまって、夢を見ているのが自分でなくなって、夢に見られているのが自分でもあるように混化してしまいました。
お銀様自身が、算木筮竹を持って思案する身になってみると、眼前に現われて、しきりに我を悩ますものは、やはり前夜、これにぶっつかって悩まされた易経の中の
易者としてのお銀様は、算木筮竹をもって吉凶と未来とを
この難解の文字を打砕かんとして苦闘をつづけているのですが、こればっかりは現実で歯が立たなかったように、夢になっても歯が立ちません。
そうして、現実の時に反抗したと同様の弾力を以て、夢で易経と取組んで、これに悩まされている自分を如何ともすることができません。
その時、庵外の夜に人のおとなうものがあって、ホトホトと
はて、深夜にここまで自分を訪ねて来る人はないはずだ、あるにしても、昨晩からここに宿を求め得たということは、自分も予期してはいなかったし、ここへ着いてはじめて不破の関守氏の
「もしもし、女易者様のお
外でするのは、まだ若々しい男の声に相違ないが、その
「もし、後生一生のお頼みでございます、人の魂二つが、生きようか、死のうか、迷い抜いての上のお訪ねでございます、御庵主様にお願いがあって打ちつれて参りました」
そう言うのは、こんどは、うら若い女の声でしたから、お銀様の胸が安くありません。
前の声は、まだ若い男の声で、こんどのは同じほどの女の声。その世にも哀れに打叩く声音というものは、全く血を吐くような
それでもお銀様は、なおなんらの応対の返事を与えないでおりましたが、お銀様自身よりも、たまり兼ねたものは別室の婆やでありまして、
「どなた様ですか――何の御用でござりましたか知ら」
と言って、起き上った様子です。
婆やが立ってくれれば、何とか取仕切って帰してしまうだろう。こういう頼みの客に対しては、易者の玄関番としての日頃の商売柄、うまく扱ってなだめて帰すことには慣れているはずだ。お銀様はこちらにあって、そのことを
「おや――」
と思っているうちに、隔ての襖がサラリとあいて、次の間に手をつかえているのは案内の婆やと、その後ろの暗がりに白く浮いて見えるのは、たしかに若い男女の者の二人。
おやおや、たのみ
だが、つれて来てしまったものは仕方がない、女だてらに声を荒らげて叱り帰すわけにもゆくまいではないか、お銀様も
「お
「わたくしは豊と申しまする」
許されない先に入り
十四
「こちらへお入りなさい」
名乗りまでしかけて来られてみると、お銀様もぜひなく、こちらへ招じ入れないわけにはゆきません。招ぜられて二人は、辞することなく、するすると座敷へ通って程よく並んだと見ると、もう案内の婆やの姿は
「夜分、こんなにおそく、恐れ入りましてございますが、七ツの鐘が六つ鳴りまして、あとのもう一つがこの世の聞納めの切ない
二人はこう言って、行燈の下に、お銀様の前に向って、さめざめと泣くのでありました。
「まあ、何はともあれ、心を安めなくてはなりません、わたしで御相談に乗れますことか、どうか、そのことはわかりませんが、せっかくのことに、お話を伺うだけは伺って置きましょう」
お銀様はこう、二人の気休めに言います。二人は、なげきのうちにもよろこびました。
「御親切のお言葉、何よりの力でございます、そうして、こんなに夜更けて推参を致しましたのは、二人の狭い胸では、どうしても理解の届かないものがございますので、あらたかな御庵主様の
二人が、また声を合わせてかく言う。そこでお銀様が、ははあ、ではこの男女は、わたしを女易者だと信じてやって来たのだな、若い分別の二人の狭い胸では解釈のしきれない迷路に立って、易者の門を叩くということは有りそうなことだ、だが、戸惑いにも程があるという気位になって、お銀様が夢の中にも笑止の思いを致しました。
「わたしには、易はわかりません、易によって判断などは思いもよらないことで、本来、易というものは、人間の身の上判断をするように出来ている文字ではないのです」
とお銀様の言うことは、理に落ちているんだが、二人はそういう理解を聞きに来たものではないのです。
「お聞き下さいませ、わたくしたち二人の者の身の上と申しまするのは……」
ここで二人の身の上話を話し出されてはたまらない、というような気分にお銀様が促されまして、
「お身の上をお聞き申すには及びませぬ、現在のあなた方の立場と、本心の暗示とを承ればそれでよろしいのです」
お銀様にこう言われて、若い男女はたしなめられでもしたように感じたと見えて、
「恐れ入りました、現在のわたしたち二人は、死ぬよりほかに道のない二人でございます、ねえ、豊さん、そうではありませんか」
「あい、わたしは、お前を生かして上げたいけれども、こうなっては、お前の心にまかせるほかはありませぬ」
と女から言われて、男はかえって勇み立ち、
「嬉しい!」
それを女はまたさしとめて、
「まあ、待って下さい」
「いまさら待てとは」
「ねえ、真さん、死ぬと心がきまったら、心静かに落着いて、もう一ぺん考え直してみようではありませんか」
「ああ、お前は、わたしと一緒に死ぬと誓いを立てながら、その口の下から、もうあんなことを言う」
「いいえ、死ぬのは、いつでも死ねますから、死ぬ前に申し残したいことはないか、それをもう一ぺん、思い返して下さい」
「そういう心の
「それでも、もし、思い残したことが一つでもあっては、その
「もう知らない、もう頼まない、思い直せの、考え直せのと、ゆとりがあるほど、この世に未練があって、死出のあこがれがないのです、そんな水臭い人、もう頼みませぬ」
「聞きわけのない、真さん、たとえ一つでもわたしが姉、目上の言うことは聞かなければなりませぬ」
「いいえ、年がたった一つ上だとて、
「真さん、お前と、わたしと、いつ
「あれ、まだあんなこと、たった今、お前の命をわしにくれると言うたことを、もう忘れて」
「それは違います、真さん、わたしはお前を好きには好きだけれど、わたしの夫と定めた人は別にあることを、お前の方が忘れている、わたしは、定められた
「それほどお前、いたずらがいやなら、その定められたお方の方へ行っておしまい、その了見なら、少しも一緒に死んでもらいたくない、一人で死にます、お前の真実心を思うから、死ぬ前に一度会いたいと、ここまで来たのは、わたしの愚痴でした」
「それでも、お前一人が死ぬというものを、わたしが見殺しにできましょうか、昔のことを考えてみて下さい、ねえ、真さん」
「それは、わしの方で言うことです、昔のことを考えれば、いまさらお前が、定まった夫の、許婚のと言われた義理ではありますまい」
「ああ言えばこう言う、お前の片意地――もう聞いて上げませぬ、おたがいにいさかいをするのはもうやめましょうね、こっちへいらっしゃい、黙って死んで上げますから」
「わしも、もう恨みつらみは言い飽きた、黙って死のう、黙って死なして、ね、豊さん、わたしの大好きなお豊さん」
「よう言うてくれました、わたしの大好きな大好きな真さん、さあ、こっちへいらっしゃい、一緒に死んで上げるから」
「わしがお前を先に死なそうか、お前がわしを一思いに殺してたもるか」
「後先を言うのが水臭い、いっしょに死ぬのではありませんか」
「ああ、嬉しい」
「お前、ホンまに嬉しいか」
「離れまいぞ」
「離れまじ」
「未来までも」
「七生までも」
「さあ、お前、これでも生きたいと言わしゃるか」
「ああ、死にたい」
「あれ、真さん、そこは深い」
「深いところがいいの」
「お前ばかり先に深いところへいって、わたしだけが残されるようで、いや、いや」
「そんなら、お前、先にお進みなさい」
「後先を言うのではないはず、後へ引こうにも、先へ行こうにも、二人の
「こうなっても、いやならいやと言うてごらん」
「もう知らない」
「嬉しい、く、く、苦しい」
「わたしも苦しい、水――」
「水――」
「二人は苦しいねえ、真さん」
「二人は嬉しいねえ、豊さん」
痴態を極めた男女の姿を眼前に見ているお銀様。思案に余って、身の上判断を請うと言って、わざわざ人の寝込みまで襲いながら、人の見る眼の前で、このザマは何だ、相談に来たのではない、心中に来たのだ、しかも、このわたしというものの眼前で、思いきった当てつけぶり、何という愚かな者共。いやいや、わたしが
闇かと見ると、その行燈の消えた隙間から一面に白い水――みるみる漫々とひろがって、その岸には遠山の影を
その湖のまんなかに、いま見た二つの物影が、浮きつ沈みつもがいている。
ははあ、今し生命判断を頼んで来た痴態の限りの二人の者、
そのうちに、二人のもがき合った湖面の水が逆まいて、怖ろしく浪立ったのは
十五
だが、夢はそこで破れたのではありません。夢の中なる夢路かなという、人生そのもののうつしのような暗示が、お銀様の枕の上で続いているのです。
動揺した湖面が平らかになって、三井寺の鐘がゴーンと鳴り響いたことに於て一幕の終りとなったかと言うに、さにあらず、静まり返った湖面の風景は暗転にもならず、引返しにもならないで、そっくりいっぱいの大道具のままに運転をしておりましたのですが、
「誰だえ」
「今の、あのわたしでございます」
「おや、お前は、さきほど身の上判断を頼みに来た真三郎さんとやらではないか、お連れのお豊さんはどうしました」
「そのことでございます、あれほどしっかり結びついたものが、とうとう離れてしまいました」
「これはこれは」
「お豊が離れて生きて返ったのか、わたしよりも一層深い底に沈んでしまったのか、それがわかりませぬ」
「やれやれ」
「お豊の行方をつきとめていただきとうございます、そう致しませんと、わたしは死んでも死にきれませぬ」
「それは、わたしの知ったことじゃありません」
この時、お銀様が厳然として言いました。
「そうおっしゃられると、とりつく島はござりませぬ」
「それも、わたしの知ったことではない、お前さんたちは、あれほど固く結びついていながら、いまさら
「でも、湖の深い底へ二人が沈んで行きますると、お豊が離れたのです、離れたがったのは本人の意志ではなく、誰か上の方で、あの女の後ろ髪をしきりに引くものがあるので、それでお豊がわたしから離れてしまいました」
「誰が、心中者の後ろ髪なんぞ引くもんですか」
「誰彼と申しましょう、あなた様のほかにはその人がございません」
「何を言います、ではお前さんは、お豊さんとやらの後ろ髪を引いて、この世に引戻したのは、わたしの仕業だとおっしゃるのですか」
「あなたでなくして、ほかに誰がおりましょう」
「ようござんす、では、わたしがそのお
「恨みます、七生までも」
「恨んで、どうなさいます」
「あなたの身の上にとりついて、一生のうちに必ず、あなたを亡ぼしてお目にかけます」
「おやおや、たいへんな執念ですね、一生のうちに、わたしを亡ぼすとおっしゃるが、一生の後に亡びない生命がどこにありますか」
「いいえ、亡ぼすにもただは亡ぼしませぬ、こうだと思い知らせて上げるだけの亡ぼし方で、亡ぼします」
「なお大変なことになりましたねえ、長い目で見ておりましょう」
「見ておいでなさい、そうら、竜神の森が焼けました、あそこに斬られているのは、ありゃ誰だと
「そんなことを、わたしが知るものですか」
「金蔵なんです、金蔵の奴、わたしの恨みで死にました」
「ははあ、では、少し見当違いになりましたね、最初のもくろみでは、わたしの身の上にとりついてやるとおっしゃったようですが、いつのまにか金蔵さんとやらの方へ振替わりましたね、お門違いじゃないかね」
「違いはありません。それから、もっと恨みなのは机竜之助という奴なんです、あれがお豊を自由にしてしまいました、お聞きの通りお豊は、わたしのために死ぬんじゃない、わたしを殺して死ぬんだと、あの時にうわごとのようなことを言いましたが、今ぞ思い当るところがお有りでございましょう、真三郎のために死んでくれたというのは嘘でした、あの人は竜之助の奴のために自由にされたのです、あの男のために死にました、あの男のために死んでやりました、恨みです」
「その机竜之助とやらいう男ならば、かまわないから、うんと取りついておやりなさい」
お銀様から冷然として言い放されると、水死人は躍起となって、
「それを言われると、わたしの五体が裂けます、お豊もお豊です、わたしを水の底へ追い込んで置いて、自分は立戻って好きな男と勝手な
「おやおや、たいそう甘いんですね、ですが、その通り、あの人なんぞは本当に哀れむべき人で、憎むべき人ではありませんよ」
「よくおっしゃって下さいました、お豊は憎い女じゃありませんね」
「憎いものですか、あなたのために死んで上げたのも嘘じゃないのです、一人は死に、一人は助かったのも当人の了見じゃありません、運命のいたずらというものです」
「そうかも知れません、人間の力ではどうにもならない――まして、あの気の弱いお豊さんの力などで、この運命の大きな力というものがどうなるものですか、お豊を憎むことは、やめましょう」
「それがよろしいです、あの人は憎める人ではありません、憎むとすれば、憎んでも憎み切れない人が、まだほかにいくらもあるはずです」
「誰を憎んだらいいでしょうね」
「まず運命のいたずらを憎みなさい」
「憎みます」
「その次には、大和の国の三輪の大明神のいたずらを憎みなさい」
「え」
「三輪の大明神の神杉が、お豊さんをあやまりました」
「滅相な、神様を恨むと
「それでは机竜之助を憎んでおやりなさい」
「憎みます、憎んでも憎み足りないと思いますが、残念ながら、今のところは歯が立たないのです」
「植田丹後守を憎んでおやりなさい」
「憎みます」
「薬屋源太郎を憎んでおやりなさい」
「憎みます」
「みそぎの滝の行者を憎んでおやりなさい」
「憎みます」
「竜神八所の人を憎んでおやりなさい」
「憎みます、一人残らず憎みます、まして、あの
「いいえ、あの男も、それほど憎むべき男じゃないのです、かえって哀れむべき男なのです、最も同情すべき好人物なのですよ。幽霊の戸惑いは落語にもなりませんから、恨むにしろ、憎むにしろ、よく気をつけてしないといけません」
「憎い、憎い、誰もが憎い、お豊の
「そう言うお前さんは、真三郎さんという
「そんなはずはございません」
「それでもそうとしか見えません、致されるものが致されてしまいました、人を呪わば穴二つということがそれなんです、あんまり強く人を恨んで人につきたがるものですから、かえって、お前さんが人につかれてしまいました。今のお前さんの狂態痴態というものを見ていると、京の六条でうたわれた大家の
「左様でございましたか、つい、とりのぼせましたために、見苦しいところをごらんに入れて、まことに相済みません、改めて自省を致します」
「殊勝なことです、そういう
「有難うございます」
「昔の真さんにおかえりなさい」
「そう致しましょう」
「真さん」
「はい」
「京の六条の
「はい」
「人を憎むことをやめて、人を愛しましょうよ」
「はい」
「そんなに、しゃちょこばらないで、こっちへいらっしゃいよ」
「はい」
「わたしも
「はい」
「卒都婆小町、関寺小町はあんまり寂しいねえ」
「はい」
「少しは察して頂戴な――お前さんのような優男をお
「はい」
「まあ、可愛らしいこと、身じまいを直しているところが何という頼もしいんでしょう、そうして身なりをきちんとし、髪を取上げたところは、どう見ても水の垂れる色男――お豊さんとやらが
「はい」
「お豊さんのためには死んで上げたけれども、わたしのためにはどうして下さるの」
「…………」
「そんなに、もじもじしないで、こっちへお入りなさい、誰も取って食おうとは言いませんよ」
「…………」
「そんな気の弱い、それは意気地無しというものです、女が許してお伽を命ずるのに、それを聞かない男がありますか」
「…………」
「どうしたのです、その突っころばしは、あんまり骨がないので歯が
お銀様から迫られた色男の真三郎は、もじもじして一方に固まっていたが、急にふるえ上って、
「もし……念のために伺いますが、ここはあの吉田御殿とやらではございませぬかいのう」
「何を言っているのです、吉田がどうしました、御殿がどうしました、近江の国は
それが耳に入らないと見えて、真三郎は立ち上って、
「そうして、あなた様は、その吉田御殿におすまいになる千姫様ではござりますまいか、もしや……」
「まだ何か言っている、千姫がどうしたというのですよ」
お銀様自身が荒っぽく寝返りを打ったのは、
「講釈に承りますると、参州の吉田御殿というお城の上の高い
「そんな話もありましたね、そういう事実も、まるっきり跡形なしのことではありますまいよ」
「わたしも、実はあの時、千姫様のお目にとまった一人なんでございまして」
「おやおや、それはお安くない、千姫様のお目に留まって、さだめて、たんまりと可愛がられたことであろうのう」
「御免下さい」
「逃げるのですか」
「
「意気地なし、幽霊のくせに、人間を怖がって逃げる奴があるものですか」
「でも、怖くなりましたから、これで御免を
「逃げるとは卑怯です、逃がしません」
「お豊に申しわけがない」
「何を言っているの、お豊はお前に
「でも、お豊に済みません」
「済むも済まないもあったことじゃない、お前のようないい男は、女に
「なぶり殺しでございますか、もうたくさんでございます、吉田御殿の裏井戸には、千姫様に弄ばれた男の骸骨でいっぱいでございました、わたしは怖い」
「意気地なし」
「逃がして下さい」
「逃がさない」
「罪です」
「罪なんぞ知らない」
かわいそうに、迷って出るにところを欠き、とりつくに人を欠いて、偶然にも暴女王の前へ出現したばっかりに、
「大分お騒がしいことですね、もう夜が明けますよ」
十六
お銀様も小町にこうして出られてみると、さすがに面はゆいものがある、大いにテレて力が
「あんまり弱い者いじめをしないがいいぜ、ことに女が男を脅迫するなんぞは、見て見いい図ではないぜ」
衝立の後ろから半身を現わして、二度目にこう言ったのは関寺小町ではなくて、顔色の
「あんまりいい図でないところを見せて、お気の毒さま、あなたこそ、いったい何だって、こんなバツの悪いところへ出しゃばるのですか」
「琵琶湖の舟遊びに行った帰り途、つい何だかここが物騒がしいから、のぞいて見る気になったのだよ」
竜之助も人を食った返答なのですが、お銀様はやっぱり逆襲的に、
「人のことを気に病むより、自分の
「そう来るだろうと思っていた、どうもつい遊び過ぎて申しわけがない」
竜之助が人を食った調子で、わびごとのような言葉で頭をかくと、不意にその足許から、
「わあっ」
と泣き伏した者があります。お銀様もちょっとこれには驚かされたが、すぐに冷静を取戻して、
「お雪さんだね、泣かなくてもいいでしょう」
「お嬢様、御免下さいませ、先生を連れ出したのは、わたくしでございます」
「そうさ、小娘と小袋は油断がならないと昔からきまっている、そんなこと、
「あんまり月がよかったものですから、
「お雪さんらしくもない、そらぞらしい申しわけ、目の悪い人に月が見せられますか」
「申しわけがございません」
「でも、よく帰って来てくれましたね」
「面目次第もございません」
「面白かったでしょう、
お銀様が針を含んで突っかかるのを、竜之助がとりなして、
「いや味を言うなよ、本来、お雪ちゃんにちっとも罪はないんだ、この人は一種のロマンチストで、自由行動が罪であっても罪にならない無邪気な少女なんだ、もし誤っているとすれば、誤らせた誰かが悪いので、世人は憎むべきじゃない、かんべんしてやってくれ」
「いいです、わたしは、ちっとも人を責める気なんぞはありゃしませんよ、今も二人の心中者が来ましてね、憎むの、恨むのと
「お嬢様に合わせる
「だって、いつまでも、そうして泣き伏しているわけにはゆきますまい、こっちへお入りなさい、みんなして仲よく秋の夜話をしましょうよ」
「そうおっしゃっていただくと、なおさら面目がございません、わたくしは、このまま消えてなくなります」
「おや、消えてなくなるとは
「御機嫌にさわって重々申しわけがございませんが、消えてなくなると申しましたのは、また死を急いで死にに行くという意味ではございません、わたくしは、このままお許しをいただいて、もうどなたにも面を合わせずに、ひとり大阪の親戚へ帰ってしまうつもりでございます」
「おや、お雪さんには大阪に御親戚がありましたの」
「はい」
「そこで、音なしの先生は、これからどうあそばしますつもり?」
お銀様から反問的に問いかけられて竜之助が、所在なさそうに、
「拙者は、ついこの近いところの大谷風呂というのへ暫く逗留させられることになったから、そこで当分養生をしようと思っているのだ、近いところだから、話しにおいでなさい、いつでも風呂が沸いているし、お
「有難う、では、近いうちにお伺い致しましょう。おや、もうお帰りなの?」
「夜が明けそうだから」
「夜が明けては悪いのか知ら」
「でも、お雪ちゃんがかわいそうで、なるべく人目にかけないように落してやりたいからな」
「なるほど、その心づかいも悪くありません、人目にかけないようにして、行きたいというところへ行かしておやりなさい」
「お嬢様、有難うございます、それでは、わたくしはこれで失礼をさせていただきます」
「大事にしていらっしゃい」
「御免下さいまし、永々、お世話さまになりました」
「お雪さん、なんぼなんでも、それほどに面目ながらなくてもいいじゃありませんか、せめて面だけは一目見せて行って頂戴な」
「いいえ、わたくしは、このままおゆるしを願いたいのでございます」
お雪ちゃんは、しおらしくあやまりながら、一方、
「そんなら、みんなして追分まで送ろうじゃありませんか」
「そうしましょう、それがいいです」
「さあ、皆さん、お雪さんが大阪へ帰るそうですから、みんなして追分まで送るんですよ」
「拙者は御免蒙ろう」
と竜之助が言うと、お銀様が興ざめた面で、
「どうしてですか、あなただけ」
「あの追分はうるさいんだ、薩摩の野郎かなんかが出て来て、喧嘩を売りかけたりなんぞしてうるさいから、刀の手前、今度は遠慮をした方がいいと思っている」
そこで鶏の鳴く音が聞える。
「ああ、夜が明けます、明けないうちに」
「では、行って参ります」
「お大切に……ですが、お雪さん、わたしが注意をして上げて置きたいことはね」
お銀様は、言葉を改めてお雪ちゃんに向い、次のような
「大阪にお帰りなら、一筋に間違いなく大阪へお帰りなさいよ、途中で魔がさすといけませんからね、間違って三輪の里へなんぞ踏み込もうものなら、今度こそ取返しがつきませんよ、それは申して置きます」
「はい、有難うございます」
その時にまたしても鶏の鳴く音――
お銀様の夢が本当に破れました。無論、夢中に現われた人の一人もそこにあるはずはなく、
「お目ざめでございますか。昨晩は、たいそうお疲れのようで、よくお休みになりました。今日は雨もすっかり上りました、お天気は大丈夫でございます。それそれ、昨晩お使がございまして、この上の大谷風呂から、あなた様へこのお手紙でございました」
一封の書状を取って、お銀様の
十七
「お帰りやす、どちらを歩いておいでやした」
お宮さんが迎える。
「行き当りばったりで、古物買いをやって来た」
と言って、不破の関守氏は風呂敷包から、そのいわゆる古物の数々を取り出して、お宮さんに見せました。
古ぼけた木像だの、巻物の片っぱしだの、短い刀だの、
「この紙きれは、これは確かに奈良朝ものですよ、古手屋の
「えろう古いもんでおますな」
「それから、この
「よろしい人相してまんな」
「こっちを見給え、ずっと新しく、これがそれ大津絵の初版物なんだ」
「大津絵どすか」
「大津絵といえば、藤娘、ひょうたん
「そうどすか」
「それから、ズッと近代に砕けて、これが正銘の
「まあ、有難うございます」
といったようなあんばいで、暇つぶしに彼は、山科から京都くんだりを遊んで来たもののようだが、必ずしも、そうばかりではないらしくもある。
その翌日もまた宿を出かけて、同じような時刻に帰って来て、またこっとう物を懐ろから引張り出して、お宮さん相手に説明する。お宮さん、白鳳期がどうの、弘仁がああのと言ってもよくわからないが、そこは商売柄、いいかげんに調子を合わせると、不破の関守氏も、いい気になって、次から次へでくの坊を引っぱり出して悦に入るが、どうかすると、こっとう以外の珍物を引っぱり出して、よろしかったらこれはお
「そないにこっとうばかりあつめて、どないになさいますの、小間物屋さんでもおはじめなさる?」
とお宮さんが
「お宮さん、これはダイヤモンドの指輪です、その当時は三百円もしましたよ、よろしかったら君に上げよう」
「まあ、三百円のダイヤモンドだっか」
「今時は、三百円のダイヤなどは誰も振向いても見ないが、その当時はこれが幾つもの人間の運命を左右するほどの魅力があったものだ、今日にすると十倍以上だろうな」
「では、三千円だっか」
「それ以上はするだろう」
「本物だっか」
「はは、それが、お宮さんの魅力となって、貫一の一生を誤らせたというわけなんです、実は……」
この分だと、貫一の着た高等学校の制服だの、
こっとうが飛び出さない時は、地所家屋のこのごろの相場のことなどが口に出るものですから、風呂の者は、この人はこっとう屋を営み、その掘出しかたがた、地所家屋の売買の周旋もする人だろうぐらいに見ておりました。
なるほど、外出先を推想してみると、この男はこっとうあさりばかりではない、相当の地所家屋を見つけながら歩いて来るものらしい。現に問題となっている山科の光悦屋敷の如きは、一僕を指図して縄張りまで張って、半日をその測量に費したような形跡もあります。
十八
三日目の午後、今日は早帰りをして、風呂につかっていると、三助が一人やって来て、
「お流し致しましょう」
「済まない」
手拭を渡して不破の関守氏が、背中を向けると、その三助の流しぶりが変っているのに気がつきます。この三助は、背中を流すに片手をつかっている、左手だけしか使わない、最初のうちは勝手だろうと考えていたが、変ですから、不破の関守氏が気をつけて見ると、手んぼうなんです。わざと気取って片手あしらいをして見せるのではない、片手しかないから、そのある方の手だけで働いているのだと認めました。
しかし、人の不具を認めたからといって、必要なきに注視するのも心なき業だ。片手であろうとも、両手であろうとも、職務そのことだけがつとまりさえすれば何も言うことはない。ところで、その職務が、片手あしらいで両手の持つ働き以上の働きをする器用さに、不破の関守氏が内心舌を捲きました。
「いや、どうも有難う」
一通りの三助のすることを手際よくやってのけた上に、上り湯を二三ばいたっぷりとかけてくれて、肩をとんとんと三つばかり叩いた気持などというものも、相当にあざやかなもので、なお一杯をなみなみと汲み置きをして、
「ごゆっくり」
と言って、その片手の三助が退却してしまったあと、不破の関守氏は、おあつらえ通り、ゆっくりと湯につかって、さて上りとなって脱衣場へ来て着物を引っかけようとすると胴巻がない。
「やあ――」
と関守氏が、げんなりしたのは、たしかにしてやられたと感じたからです。やられたのは出遊の途中でやられたのか、或いは途中で落してつい知らずここまで来て、いま気がついたのか、その辺に抜かりのある関守氏ではない。たったいま風呂にはいる前に、脱衣ともろともにここへ押し込んで置いた胴巻が今なくなっているのですから、その点に問題はない。しかし、あえて声を高くして盗難を呼ぶ関守氏ではありませんでした。かつまた、かりそめながらこの辺へ、そう貴重品をむやみに持ち込む関守氏でもない。胴巻とは言いながら、小出しの胴巻に過ぎないので、被害は案外軽少であったために
とにかく、的確にこの場で胴巻が紛失したのだが、関守氏は何食わぬ
部屋へ戻っても、あえて人を呼んで帳場へかけ合うでもなく、全く以て、あきらめてしまっているらしい。
そこへ、お宮さんが熱いお酒を一本持って来ました。今日も出歩きの道中を少々物語ってから、お宮さんのお
「お宮さん、ここの風呂場の
「三蔵はんどすか」
「三蔵というのかね、名前はまだ知らないが、なかなか如才なくて、第一腕が器用だ」
「三蔵はん、このごろおいでやはったが、取廻しがよろしいので、なかなか評判ようおます、腕が器用とおっしゃいますが、あんた、あの片一方でな、
「ははあ、器用な男もあったもんだ、ありゃあれで、なかなか苦労人だよ」
「はい、それに、なかなか気前がようおまして……」
「だから、女に相当騒がれるだろう、あぶないものだぜ、お宮さん」
冗談半分に、女中を相手に関守氏が聞き得たところによると、右の手なしの番公は、最近ここへ雇われて来た男ではあるが、早くも女中たちの人気を取っているらしい。相当にこの道で苦労した肌合いが、女中連を騒がせていることをも知りました。
関守氏は、一応お宮さんをからかった末に、こう言いました、
「あの若衆に一ぱいあげたいから、
そう言っている口の下に、外の縁側から声がかかって、
「少々御免下さいまし、先刻お風呂の旦那様のお座敷は、こちら様でございましたか、三助でございますが、お忘れ物を持って参上いたしました」
「え、なに、忘れ物を持って来てくれたのかい」
関守氏がなんだか先手を打たれたような気分で、こちらが少々あわて気味です。
十九
その翌日、ここへ来てから第四日目――
今日は関守氏が、逢坂山の裏手から細道伝いに、大谷風呂の裏口へ下りて来て見ますと、小屋があって、その中で、地がらの米を
「三蔵どん、御精が出るね」
「はい、有難うございます」
野郎は頬かむりをして、しきりに地がらを踏んでいましたが、本来この小屋の一方には、渓流を利用して小さくとも水車が仕掛けてあって、一本ながら
「どうして水車を利用しないんだね、
「それが、旦那、そういかないわけがあるんでござんしてな」
「車がこわれたのかい」
「そうじゃございません」
「当時流行の渇水というやつかな」
「なぁーにごらんの通り
「じゃ、どうして水車をつかわないんだね」
「まあ、聞いておくんなさいまし、水車があっても、水車を使ってはならない、水車
「とは、またどういういきさつで」
「こういうわけなんでございますよ」
三助の米搗が説明するところによると、以前は、やっぱりこの地方で、米搗きが頼まれて越後の方からやって来たものだが、近頃になってこの藤尾村というのへ、善造と五兵衛という二人の者が水車を仕掛けた、なにぶん、水車が出来ると、人間の労力より安くて早いこと
「なるほど、それは機械文明に反抗する人間労力の逆転というものだ」
とひとり合点をしました。
それから二人の会話が少し
「三ちゃん、いる、お茶うけよ」
姿は見えないで、窓の外から、そっと言葉をかけると同時に、お盆へ何かのせたものを突き出したので、米を
「いけねえ、いけねえ、お客様だよ」
そうすると、何かのせたお盆を中へ突込んで置いて、姿を見せず、何とも言わずに、あたふたと行ってしまう。残る足音を聞いて、三蔵がテレきったのを、不破の関守氏が、ちょっと苦笑いをして、
「何か、御馳走が来たようだね」
「へえ、どうも」
と米搗きが、また一方ならずテレている。
「御馳走が来たら、ついでに、いただいて行こうじゃないか」
関守氏は人が悪い、炉辺へ侵入して来て、
「三ちゃん、お茶をいれないか、わしが代って米の方を受持ってやる」
「いや、どうも、恐縮でげす」
「遠慮することはないよ、せっかくお茶うけが来たんだから、お茶をいれな、米はわしが搗いてやるよ」
と関守氏が、
「じゃ、お茶を一ついれますかな」
「そうしなさい、拙者もこれで米搗きは苦労したものだよ、昔取った
と言いながら、三公の踏み捨てた地がらへ乗りかかって踏みかけると、その調子が板についている。
「うまいものですな、旦那」
三公から
「君よりうまいだろう、さっきから見ていると、君のはものになっていないよ、わしなんぞは書生時代からこれで勉強したもんだ」
「へえ、そうですかね」
「君ぁ、流しをさせちゃうまい、剃刀を使わせても一人前だが、米搗きはまずいよ、生れは越後じゃあるまいな」
「恐れ入りますねえ――どうも場違いなものでござんして、米搗きの方はさっぱりいけません」
「そうだろう、君は関東もんだろう、へたをすると江戸っ児だ、頼まれても江戸からは米搗きは来ないはずだ」
「冷かしちゃいけません、旦那」
「どうして、お前、こんなところで米搗きなんぞをやるようになったのだ」
「旦那、まあ、お茶を一つおあがんなさい」
三公が炉の鉄瓶を卸して、番茶をいれてすすめましたから、不破の関守氏も地がらから下りて、ふたり炉辺に物語りをはじめ出しました。
二十
「三ちゃん、このお茶うけはうまいねえ」
「これが海道名代、
「ははあ、これが走餅か。この間、名所の

