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大菩薩峠

恐山の巻

中里介山




         一

 田山白雲は北上川の渡頭わたしばに立って、渡し舟の出るのを待兼ねている。
 舟の出発を待侘まちわびるものは田山白雲一人ではなく、士農工商が一人二人と渡頭へ集まってひっかかる。こちらの岸もそうだから、向うの岸も同様に、土農工商がせき留められて、舟を待つ人の数は増すばかりです。
 田山白雲はじれったがりながら、渡頭に近い高さ三メートルばかりの小丘の上で、遠眼鏡を眼窩がんかの上から離さず、マドロスの逃げ込んだ追波おっぱの本流の方をしきりに注視していましたが、そのうちに、向う岸の渡頭に集まって舟を待侘びる士農工商の群れが、急に動揺をはじめたような模様が見えます。同時にその舟待ちの群れの中から、転がり出したようにおどり出して来た一個の人物があることを認めて、興味の遠眼鏡をその方に転じました。
 その人物は、すでに人混みの背後うしろで身仕度をととのえたと見えて、身体からだは裸で、頭の上へ物を載せ、人を押分けて前へ進んだと見ると、いきなりざんぶと川の中へ飛び込んで泳ぎはじめたものですから、
「奥州にも気の短い奴がいる!」
と、田山白雲が思わずこちらで舌を捲きました。
「奥州にも気の短い奴がいる!」と田山白雲が思わず舌を捲いたのは、奥州人はすべて気の長いものと前提をきめてかかったわけではなく、ここで渡し舟の徹底的スロモぶりにあきれ返った反動から、ツイそう呼んでみたまでのことで、実際、いま川の中へ飛び込んだ眼前その人物の挙動を見ると、その気配だけで、たしかに気の短い男であるべき証跡は歴々たるものであります。かくばかり悠々閑々たる渡し舟の船頭のスロモぶりに堪忍かんにんがなり難く、堪忍がなり難いと共に、その爆発した癇癖かんぺきを、直線的に決行するだけの盲動力を持った男であるということだけは、白雲の眼と頭で、ハッキリと受取ることができました。
 この大菩薩峠作中の人物では、宇治山田の米友という人物が、やはり同様の堪忍なり難い癇癖を持っていて、直接行動をやることに馴れている――それは田山白雲とも一面の識はあるのだが、あの男が今この場へ飛び出して来ようはずはない。
 右の裸男は、最初のうちは、こちらを当面まともに川を横に泳いで来るのですから、よくわかりませんでしたけれど、やや深いところへ来ると、身を斜めにして抜手を切り出したものですから、その時はじめてわかったのは、頭の上に自分の着ていた衣類をまるめて帯であごまで縛りつけたのはいいが、その頭にのせた衣類の真中を貫いて横に一本、長くてそうして黒いものが線を引いている。
「ははあ、差しているな」
と、田山白雲が再び遠眼鏡を取り上げました。
 差しているな! と言ったのは、一本か二本差しているという意味ですが、一本差すことは、旅の百姓町人といえども、道中を限り許されていることであり、それにも長さに限度がある。あの裸者の頭へ載せたのは、普通平民に向っては制限以上に長いから、少なくも士分に属するものだろうと思われるのだが、その一本の刀の長さが長過ぎるのに比例して、他の一本の脇差の所在がわからない。あの頭上の衣類の中に隠されてでもいるのか、そうでなければ、これは一本だけ特に長いのを伊達だてに差す遊侠無頼ゆうきょうぶらいのともがらででもあるのか。

         二

 田山白雲が、まだその辺に疑問を持ちながら、多大の好奇心を以てながめていると、右の男の泳ぎっぷりが痛快で、たしかにこのごろはやる水府流を行っているようだ。深いところはあんなにして抜手を切り、中辺のところは乳あたりまで浸して悠々と横行し、浅瀬はしゃんしゃんと飛沫ひまつを切り、かくて河を三分の一あたりまで突破して来た時に、後ろから、かなりの狼狽ろうばい怒罵どばとを含んだ叫び声が起りました。
「おーい、どこ行くでア、戻って来もせやい、てんことない、渡場わたしを素通りしてはいけねえでば、川破りの罪になるべちゃあ、川破りの罪はお関所破りの罪と同じだべや、戻って来もせやあい」
 右の通りハッキリ聞えるわけではないが、向う岸で声をからしての怒罵号叫は、渡場を守るところの船頭共がこうも言ってさわいでいることに間違いはないのです。
 つまり、この裸男の直接行動は、渡場というもののおきてと、船頭というものの職業とその存在とを、無視してかかった御法破りに類しているから、その反逆者を反省さすべく、船頭殿がその職権の上から、声をからして呼び戻しているに相違ないのですが、川原の中の短気者は、今さらそれに取合うくらいなら、最初から、こういう行動には出なかったでしょう。そこで、一旦は踏み留まって振返って見たけれども、たちまちクルリと背を向けて、北上川の川破りの続演をつづけました。
 そこで当然、警告を無視された向う岸の船頭が、怒号と共に地団駄じだんだを踏み出したのは無理もないが、同時に、こちら側の岸に立っている船頭共も黙ってはいないのが当然であります。
「やれそれと、のぶとい奴じゃ、渡場わたしをかち渡りするは御法度ごはっとなんでア、何たるワザワグこったべえ、只じゃ済まねえべ、お関所破りと同罪なんでア、早うでんぐりけえりな、素直にでんぐりけえって舟へ乗って渡って来てかんせ! 無茶あしねえものだべなア」
 そこで、この川原の中の裸男は、両岸から船頭の怒号の機関銃を浴びせかけられたような立場になりましたが、いっこう立ちすくみもしないで、予定の行動をとっているのです。
 こうなってみると田山白雲も、なるほど、あの短気者の挙動は、一応痛快には似ているけれども、理由としては、船頭の方に充分の根拠が無いではない。
 緩慢は緩慢として、スロモはスロモとして、それは責めてよろしいが、緩慢であるが故に、スロモであるが故に、渡し船の存在しているところを、身を以て直接行動をとってよろしいという理由にはなるまい。
「ここは一応、船頭の言い分を立てて、立戻った方がよかろう、そうして置いて、彼等の怠慢ぶりをとっちめてやる時には、我等も相当の義憤を以て応援する」というような気持にまで田山白雲も緩和されているけれども、当面の裸男は一向ひるむ様子も見えず、大手を振って堂堂と川渡りを決行して来る挙動が、かなり大胆不敵なものであって、見る人に、好奇以上の恐怖と、警戒とを与えずには置きませんでした。
 ああして白昼堂々と川破りを決行するからには、捨身でかかっているのだ、だから何をしでかすかわかったものではない――という恐怖心が、すべての人の頭を襲いました。
 そうしているうちに、あちらの岸の渡頭から、法螺ほらの貝の音が高らかに響き出しましたのです。

         三

 この際、法螺の貝の音には田山白雲も、多少おどかされざるを得ませんでした。
 相当喧噪けんそうな人間の雑音は、こういう際だからやむを得ないにしても、この中へ、非常時用の器楽が一つ加わろうとまでは思い及ばなかったことでした。
 向う岸で法螺ほらの貝を吹き出すと、やがてこちらでも、いつのまにか、田山白雲のつい足許あしもとから同じ貝の音がすさまじく響き出しました。
 法螺の貝の音が聞え出すと共に、あちらの畑や、こちらの木蔭や、川にもやっていた舟の底なんぞから、一人、二人、三人、四人、続々と人間が首を出して来て、いずれもかなり不穏なかおつきをしながら、おのおの両岸の法螺の鳴っている根拠を目指して集まり寄るのは、非常召集の合図を聞いた屯田兵とんでんへいのようです。
「これは存外、事が重大になりそうだわい」
 田山白雲は、自分の身の上に何か相当の危難が降りかかりでもするかのように、川の中の強情者の行動を改めてとくと見据えて見たが、事態がしかく物々しくなりつつあるに拘らず、事実はかえって簡単明瞭なものに過ぎないということを直覚して、かえって安心した気持になります。
 不安の目的物たる存在が、現在、眼の前にいるのですから、問題としては、複雑した事情というものは更に無いのです。万一、これが夜分であるとか、あれがまた川を縦に走り出した日には、川上へ行っても、川下へ下っても際限が無いのですけれども、川を横切って、そうしてこちらを向いて、白昼たった一人でやって来るのですから、その取扱いは極めて簡単明瞭といわなければなりません。言葉を換えて言ってみると、向うから追い落した獲物えものを、こちらに網を張って待っていると、獲物それ自身が、その網にかかりに来るような方向を取って進んで来るのですから、進退のふしは極めて明らかなもので、かえって両岸の狼狽ぶりがおかしいほどのものです。
 かくして右の裸の人物は、無事にこちらの岸に到着してしまいました。法螺の貝のもとに集まった連中は、直ちに川原へ駆けつけて、怖々こわごわとそれを遠巻きにして取詰めて行くあんばいで、とみには取押えようとはしません。
「寒いことざえ、こごえてうっんじあうべ――この寒い水ん中をなあ」
 時は初秋とはいえ、北地は寒い。ああして一途いちずに水へは飛び込んで来たものの、ようやく岸へ辿たどり着いた時分には、ここで一番焚火でもして身を温めてやらぬことにはふるえ上ってものの用には立つまい――と内々藁火わらびの用意まで心がけて待構えていると、岸へ上った右の裸男は、そこで頭上の衣類を取卸すと共に、その中から手拭ようのものを引張り出して、ゴシゴシと身体を拭い出した様子を見ると、別段、慄えても凍えてもいないようです。
 それから衣類を解きにかかって一着に及びました。帯も極めて無雑作むぞうさに引締めて、その次にはかま穿きにかかりました。袴を穿き出した時に、取詰めに行った法螺の貝の手勢が、また少しばかり動揺して、
「あ、かみしもを着ていやがるぞ!」
 裃ではない、袴だけです。その袴とても、彼等が見てこそ裃だが、田山白雲あたりが見たのでは、あんまり感心した袴ではないのです。縞目しまめのところは更にわからない、地質の点も不明なのですが、一見してわかるのは、その桁丈ゆきたけの極めて短いということだけです。
 さて、この短い袴をつけてから、次に長い刀を取り上げて腰に差しました。

         四

 その刀の長いこと――袴が短かかっただけに、特に刀の長いのが目立つのでもあろうが、刀そのものを独立させて見ても、たしかに世の常のものよりは長い。それがこの場合、ことさらに長く見えるのは、短い袴が引立て役をつとめているばかりではない、今まで人品骨柄のことは言わなかったが、本来この男の人の身の丈が、普通人よりはずっと低くして小さかったのです。すなわち短躯矮小たんくわいしょうの人物でありました。
 田山白雲は、かつて何かの時の戯れに、「一寸丹心」と書くべきを、「一寸短身三尺剣」という戯画を描いて、極めて矮躯短身の壮士に、図抜けて長い刀を差させた一枚絵を描いて、平山行蔵に見せたことがある。
 その一枚絵を思い出して、思わず微笑しないわけにはゆきませんでした。本来は、突然こういう微笑だけでは済まされない、まず取敢とりあえず吹き出してしまったかも知れないのですが、今日のは、最初の出が緊張していた上に、鳴物入りの凄味すごみまで加わってここへ来ているのですから、ただ若干の失笑を余儀なくされただけで、なお一心に事のなりゆきを見守っておりました。
 長い刀は差し終ったが、脇差に至っては、その以前に手早く差し込んでしまったのか、或いはまだ差していないのか、その辺がわからないうちに、右の人物は鉄扇様のものを手に持って、太鼻緒の下駄を足に突っかけて、河原の石をガランゴロンと踏み分け、両肩をそびやかして、さっさと、逃げ隠れもわるびれもせずに、こちらへ向って闊歩かっぽして来るのであります。
 白雲は、もはやこの男の人品骨柄から、衣類持ちものまでも見るのに遠眼鏡を要しません。頭こそ元服はしているが、年齢はまだ若い――おそらく十七八歳を出でまいと見られる若者でした。袴を穿き、鉄扇を持っている。長い刀、それは最初遠目に見たところと更に違いはないが、問題の脇差はついに見当らないということに結着しました。
 つまりこの男の腰には、長い刀の一本だけ横たわっていて、そうして他の差添えというものは何もないことを知ってみると、どうも変則な武装だと思わずにはおられません。
 脇差はどうしたのだ。
 差し忘れたのか、本来差して来なかったのか、それとも、只今の乗切りで川の中へ取落しでもしたのか。
 田山白雲がよけいな心配までしてやっている時分に、法螺ほらの貝の手勢が、真黒くなって早くも右の小兵こひょうの長刀の男を取囲んでしまいました。本来、小さい身体なのですから、雑然たる多勢に取囲まれては、たちまち姿を呑まれてしまうのは是非もないことで、多勢の中に呑まれてしまうと、田山白雲としては、もはや遠眼鏡を以てしても、肉眼を以てしても、その男の姿を認めることはできなくなって、ただすさまじい喧々囂々けんけんごうごうだけを耳にするばかりです。
「あぎゃん、こぎゃん、てんこちない、たんぼらめ!」
「渡し場には渡し場の掟ちうもんがあるのを知らねますか?」
「そぎゃん川破りをお達し申せば、お関所破りと同罪ぎゃん!」
さおを出し申すまで待たれん間じゃござんめえ、とっべつもない!」
「けそけそしてござらあ。いってえ、こんたあ、どこからござって、どっちゃ行く!」
「わや、わや、わや」
 思いきって土音雑音を発揮するらしいが、別段、手出しには及ばないようです。

         五

 取巻く土地の人々が、思い切って土音を発揮する上に、取巻かれている当の男が、またその男特有の地方音をもってあしらっているのだから、白雲の耳に、そのまま移すことができないのは道理だが、しかし最初からの事情はとくと見ているし、土音方言がわからないにしても、日本人の言語であって、おたがいの怒罵喧噪どばけんそうの性質も、表現も、呑込んでいるのですから、要領を得ることはさのみ困難ではありません。
 渡場守わたしもりとその加勢の人数の方は、主張するのに渡頭わたしばの規則を以てし、その規則破りを責めるのに相違なく、渡って来た方は、しかするのやむを得ざるに出でた理由を抗弁しているのに相違ないのです。
「わしは道を急ぐから、川あ越して来たまでのこんじゃ、それがどうした。いったい、貴様たち、人を責める前に、なぜ自ら顧みることをせんのだ、かように両岸に人があふれて舟を待ってれおるのに、貴様たち一向舟を出すことなさん、緩怠至極じゃ。おのれらの緩怠を棚にあげて置いて、人を責むるのが不届きじゃ、人を責むるならば責むるように、おのれの怠慢から見てせい」
「わや、わや、わや」
 川破りが抗弁すると、それを取巻いた渡頭守わたしもりの味方が土音方言をもって、わや、わや、わやとまぜ返すのです。
 田山白雲は、ともかくその現場へ行って見るために、その小高いところを下りながら川の手を見ると、矢を射るように――と言いたいが、川の流れを横切るのだからそうもいかないが、かなり勢いこんで彼方かなたの岸から早舟が飛んで来るのを認めました。続いて通常の渡し船が、スロモの腰を上げて、こちらへ向ってやって来るのを認めました。
 そこでまた踏みとどまって、遠眼鏡を取り直して、まず早舟の方を見ますと、中には相当の士分が、同心と、村役人のようなのとに附添われて乗込んでいるのを認めて、何か役向の出張だなと感づきました。
 同時に、役向とすれば、いずれの藩の役人か。自分はすべて仙台領とばかり信じて、ここまで来ているのだが、川一つ向うは、もう南部領にでもなっているのではないか。仙台領と南部領とは、かなり入組んでいると聞いたが、領分が違ってくると、これで自分の旅をする気分も相当に変えねばならないことがあるものだ。
 漂浪を生活としている自分は、習い性となって、これでおのずから、ごうっては郷に従うのコツを覚え込んでいる。仙台領へ来ては、仙台領の人となりきったつもりでいるが、まだ南部領の人となった心構えは出来ていない。今ああやって、早舟でやって来る役人が、仙台領の人であるならば仔細はないが、南部領の人であってみると、そこに相当の気分を転換してかからねばなるまい。よしよし、ここに駒井甚三郎から借りて来た最新式の遠眼鏡というものがある、この地点へ、この視官の飛道具を押据えてからに、あの早舟がいかなる性質の人を乗せて来て、こちらのわやわやをどうさばくか、これを見定めての上で、おもむろに天王山を下るも遅くはあるまい。
 田山白雲は、こんなような考えを起して、いったん下りかけた小丘を、また頂上まで上りつめて、そうして、遠眼鏡を取り直した時分に、早舟は早くも岸へ着きました。

         六

 今まで、船頭共だけであしらい兼ねていた問題の川破りの男が、やがてこの早舟で来た役人たちの取調べに引渡されてしまい、そこで役人たちが川破りを受取って、実地取調べにかかる段取りになってみると、白雲もここに超然とは落着ききれないものがあると見え、どうしても一歩一歩と高きを下らざるを得なくなって、ついに人垣の後ろへ立って、いちぶしじゅうを見届けることになりました。
 臨時予審廷といったようなものが、渡頭の上の茶店の内から外へあふれて行われているのですが、ちょうど今、ようやく訊問がはじまろうとする時でした。役人が家の中の床几しょうぎに腰をかけて、川破りの男がその前の土間に突立っている。
「君はドコから来た」
 役人は、土地の船頭共のようにはなはだしい土音は用いないで、まず通常の標準語で問いかけると、川破りもまたこれに準じた言葉で、
「南部から来申した」
「南部のどこから来た」
恐山おそれざんから」
「恐山? 恐山に住んでいたのか」
八戸はちのへの生れだが、恐山に修行していた」
「何の修行を?」
「何ということなく、あの山で修行をしていた」
「八戸に生家がござるのか」
「ござる」
「身分は――」
「父はお山改めだ」
「そうして君は?」
「その二男だ、上には兄貴があって、下には妹がある」
「ふーむ、それが、この地方へ何しに来たのだ」
「江戸へ行こうと思ってやって来たのだ」
「江戸へ、何の目的で?」
「何の目的ということはないが、江戸は天下の膝元ということだから、そこで修行をしたい」
「君は最初から修行修行と言うが、修行にもいろいろある」
「もちろん、修行にもいろいろあるが、まず一匹一人の修行をして、男になりたいと思っているだけだ」
「一匹一人の修行というのも変なものだが、とにかく、道中の手形は持っているだろうな」
「それは持っている」
「見せてもらいたい」
「この通り」
 川破りは、懐中袋から相当のものを取り出して役人に示しました。それでも感心に、御法通りのものは持っているらしい。
「八戸城下小中野こなかの――柳田平治というのだな、君の名は」
「左様」
 役人はそれを見て、一応は納得したようでしたが、続いてその訊問が、眼前におきてを破った川破りのことには触れないで、ジロジロとその長い刀を見ながら、
「君、君の刀は大へんに長い」
「長いです」
 男は役人のかおを見上げた。長かろうと、短かかろうと、よけいなお世話だと言わぬばかりに、
「三尺五寸あります」
「素敵に長い――抜けるかね」
「抜けない刀は差さん」
「ひとつ、抜いて見せてくれないか」
「見せ物にするために差した刀ではござらぬ」
「とにかく抜いて見せ給え」
「見せるために抜くべきものではござらぬ」
「それを見たいのだ」
 今まではかなり温顔にあしらっていた役人が、はじめて多少の威権を示しての言葉でしたから、見物の者をヒヤリとさせました。

         七

 一方のは刀は見せ物ではないというのです。抜いて見せろと言っても、抜くべき理由と事情が無い限り、抜けないというのが一方の主張で、それをやや高圧的に、是でも非でも抜いて見せろ――とカサにかかり出したのが役人側の態度でした。
 こうなると、一方が威権に屈従しない限り、職権の発動とならなければならない。その雲行きを見て、附添って来た村役人の老巧らしいのが、白髪頭しらがあたまを振り立てて川破りの小男に向って来て、なだめるように次のような理解を試みたのを、白雲は、村役の白髪頭と共に耳にうつしとって、目附の役人が高圧的な要求も必ずしも無理ではないと思いました。
 というのは、南部の盛岡の城下で、つい数日前、人を斬って逃げた者がある。斬ったのは何者かわからないが、斬られたのは家中でもかなり身分の重いものであるらしい。その犯人の行方ゆくえを探し求むるがために、それとなく御出張になったもので――ともかく、目星をつけた人に、一応刀を抜いて見せてもらうことが、これまでの例になっている。人を斬った以上は、血のりを拭い去ろうとも去るまいとも、その当座はあぶらが浮いている、というのが有力なる証拠の一つということです。ですから、嫌疑のあると無いとに拘らず、一応は礼を以て、刀の中身を見せてもらうということが役目の手前ということになっているし、要求された方も、身に後暗いものが無い限り、快くその要求に応じてくれるのが例となっている。それを同様に、ここで繰返して要求するまでだということです。
 右のように説明されてみると、あながち役人が権柄けんぺいのためや、物好きに抜かせてみようというわけではなく、当然のお役目のために要求するのだ。そこで、この一人の川破りのために、物々しく貝を吹き鳴らしたのも、必ずしも川破りをとがめようとするのが目的でなく、ちょうど来合わせていた右の目附の一行が、それ! と見て、怪しいと心得て警戒を命じ、自分たちはあとからおっとり刀で早舟を飛ばせたという段取りになっていることがわかりました。
 立聞きをしていた田山白雲も、これはまず役向の要求として無難なことであるとは思いました。
 その理由を、むずかしいかおをして聴いていた川破りの小男――もうすでに本名が柳田平治とわかっているから、その名を用いることにする――柳田平治が少し気色けしきばんで、
「では、抜いてお目にかけよう」
と言いました。
「どうぞ」
「しかし、抜くには抜くが、一度限りでござるぞよ」
と柳田が念を押しました。
「もちろん、一度限りでよろしい」
 役人もうなずきました。
「身共は恐山の林崎明神のお堂でちっとばかり居合の稽古を致したにより、流儀によって抜いてごらんに入れようと存じ申す」
「それは一段のこと」
「流儀によって、一度だけは抜いてごらんに入れ申すが、二度は相成りませぬぞ」
「念を押すまでもないことじゃ」
「では、抜いてお目にかける」
 柳田平治は、少し前の方へ進んで身構えをしました。
 どうして、あの小男が、あの長剣を抜くか、長井兵助や、松井源水を見つけないこの地方の人々には、少なからぬ驚異でありましたが、田山白雲もまた固唾かたずを呑み、思いがけない見物をすると共に、この小男のかなり強情なのにあきれました。

         八

 刀の中身を見たいと言うので、刀の抜きっぷりを見せてくれと言ったわけではないから、こう物々しく前へ出て身構えをし直さなくともよかりそうなものだと思われないこともない。素直に、「いざ、存分にごらん下さりましょう」とかなんとか言って、さやぐるみ差出した方が神妙でよかりそうな場合ですけれども、柳田平治はそうはしないで、すっくと二三歩あるき出して、そこで長剣をゆり上げて身構えをしました。
 その時、田山白雲が見ると、柳田の目つきが尋常でないと思いました。血走っているというわけでも、殺気がほとばしるというわけでもないが、なんとなく一道の凄味すごみが流れ出しました。つまりこの男は、真剣に刀を抜く気だな、ただ抜いて見せるだけでなく、居合の呼吸で抜いて見せるつもりだな、と考えざるを得ないのです。
 田山白雲も、少々居合の心得が無いではない。「こいつ相当にやるな!」と思ってこの男の人相を見直すと、頭のところの月代さかやきの中に、大小いくつもの禿はげが隠れつ見えつしている。その禿というのは、天性、毛髪が不足しているというわけではなく、相当の期間以前に生傷なまきずであったものが癒着ゆちゃくして、この部分だけ毛髪がなくなっているのだとしか見られないのです。これだけによって推想してみても、子供時代から、手にも足にも負えなかった持余しもので、その負傷の中には、柿の木から転び落ちて打った傷もあろうし、隣村の悪太郎からこば石をぶっつけられた合戦の名残なごりと見られるものもあろうし、時とすると、真剣で浅く一殴りやられたものではないかと思われるほどの三日月形のも見えるのです。
 そこで、改まって茶店の前で身構えをした時には、役人をはじめ、見ている者が、なんとなく穏かでない気分に襲われました。
 やがて、腰のところへ手をあてがって、いわゆる居合腰になったかと見ると、スラリと水の出るように三尺五寸の長い刀を抜き出して、そうして、それを役人の目の前へ持って来て、ピカピカ二三べんひらめかしたと思うと、スラリとまたさやの中へ叩き込んで、多少の鍔音つばおともさせませんでした。
「ごらん下されたか」
「うむ――」
「いかがでござりましたか」
「うむ――」
 役人は、もう一ぺん改めて抜いて見せろとも言わず、こちらへよこせ、自分で抜いて見届けてつかわすとも言いませんでした。柳田の挙動に気を呑まれたというわけではなかろうが、最初の約束に、一度限り見せて進ぜる、いかにも一度限り、苦しくない――という誓言せいごんが物を言って、そこでそれ以上の註文は出せないらしい。
 見物の中には、わき見をしていたために、この男が長い剣を抜いた抜きっぷりを見なかったのみならず、中身はもちろん、それを鞘に納めたのまで見損ったものもありました。まだ抜かないのだな、まだ抜いて見せないのだな、これからが勝負だとばかり思っているうちに、いちが栄えてしまったという次第です。
 それですべてが落着して、さしもやかましかった川破りも、刀調べの結果も、何のお構いも、おとがめもないということになると、柳田平治は肩で風を切って、さっさと前途に向って出立してしまいました。前途というのは、仙台方面へ向けて、つまり江戸へ行くという目的の方向なのであります。

         九

 呆気あっけにとられた多数と共に、その後ろ姿を見送っている田山白雲は、その去り行く柳田平治の恰好かっこうを、おかしいものだと思わずにはおられません。
 長剣短身は変らないが、その歩きっぷりというのが、さいぜん河原の中で見た挙動とは、また打って変った趣きがある。
 それは小男としては大股に歩くのですが、足には太い鼻緒の高下駄で、そうして肩で風を切るというけれども、その風の切りっぷりが鮮か過ぎるので、少々身をうつむきかげんにして、右の肩が先に出る時には、それと共に右の足が著しく進出して、後ろの肩が思い切って後退する。左の肩が出る時は、左の足がそれに準じて大股になると共に、右の肩が思い切って後ろへ開かれる。その早足の調子と相待って、ぎくしゃくとした形、どうしてもおかしからざるを得ないのです。
 けれども、その渡頭わたしば呆然ぼうぜんとして群がっている者が誰ひとり、笑って見送るものはありませんでした。どうもこれだけでは、笑って済まされない何かが残されてあるような気勢がしているからです。
 さて役人の方は、これだけの査問が終ると、少々テレ気味で引揚げ、以前の早舟に飛び乗ると、さっさと舟を向う岸へ戻させてしまいました。その最後に当って、通常の旅客を満載した定期の渡し船が、向うの岸からこちらの岸へ到着しました。
 それと入り代りに、こちらに待兼ねた士農工商が、いま到着した渡し船に、普通ならば我先に乗込むのですが、今日は二の足を踏む者が多いのです。
 それというのは、向うから着いた旅客に向って、この際、向う岸の動静を聞いて置きたいという心持と、あちらから乗込んで来た一行も、何か事の仔細を、新たに向うへ渡ろうとする旅客に話しかけようとする気分が動いていたからで、そういうことに頓着ない老人子供などは、先へ乗込んだけれども、なかには、まだ一舟遅らせても新来の客と話し込んでみたいという者もありました。それがカチ合って、茶店の中での問答に興が乗ってきました。
 今度は、物騒な川破り男もいないし、役人も行ってしまったから、心置きなく乗合衆の世間話に興が湧き上って来る。
 田山白雲としても、この際、ちょっと立てなくなりました。只今さっさと風を切って立去ったところの、あの長剣短身の男の行方もどうやら気になる。そうかといって、この場へもたらされて花が咲こうとしている向う河岸がしから新来の旅客の世間話が、どうしてもこの際、聞きのがせないものの一つとなっているようだ。
「えらいことじゃ、南部の御家老様のお嬢様をそそのかして、連れて逃げた奴がござる、その追手じゃな――それと前後してからに、南部の御城下で、お歴々の首を斬って立退いた奴があるとのことじゃ、それでお目つけがああしてお調べにおいでじゃわい」
と、向う岸から来た乗客のうちの年配なのが、土間の炉端の床几しょうぎへ腰をかける匆々そうそう、こう口走ったのを、他の人数と同様、白雲も、更にその詳しい説明をここで聞いて置きたい気持になりました。
 よし、事のついでだ、ここで一番、川魚でもあぶらせて、腹をこしらえてやろう。こっちもこれから前途相当に多事である。なんにしても腹をこしらえてのことだ。
 白雲は、どっこいしょと腰を据え直し、持参の割籠わりごを開きにかかりました。

         十

 割籠を開いて、川魚をあぶらせ、腹をこしらえながら田山白雲は、向う岸から新来の乗合客のゴシップを聞いていると、最初に齎されたところのもの以上には詳しいことを知ることはできなかったけれども、要するに、南部の家老の非常に美しいので有名なお嬢様を、そそのかして連れ出した悪い若侍がある。悪い奴だけれども美しい男で、それに腕がいているのだということ。もう一つ別に盛岡の城下で、身分の軽からぬものを斬って立退いたものがある、その探索をも兼ねてあの役人が出張したということ。
 右のうち斬捨てられた軽からぬ身分の者というのが、どのくらいの程度のものであるかよくわからないが、どうも前後の話を取合わせると、右の悪い若侍がそそのかして連れ出した娘の父であるという家老ではないか、家老であるところの父を斬って、その子であるところのお嬢様というのをそそのかして連れ出したのではないか、というように想像されてならないが、話の筋道は全く事件と性質を異にしたものになっている。
 事件と性質とを異にしていても、いなくても、前者の事件には、今の長剣短身の男は絶対にかかわりがないと見なければならない。美しいお嬢様なり、姫君なりを連れての道行みちゆきではなかったし、あの男自身も、美男で色悪いろあくな若侍とは言えまい。
 だが――第二の事件、別に盛岡の城下で、身分の軽からぬものを斬って捨て、行方をくらましたというのへ当てはめてみると、あの男に相当ピタリと来るものがないとは言えないのだ。あの男ならば、意趣や遺恨は別として、単に出逢頭であいがしらの話の行違いだけでも、ずいぶん抜く手を見せ兼ねない。嫌疑としても容疑としても、その点は相当のものなのだ。刀の調べられっぷりでも、あれでは結局役人をばかにしたようなものだ。ばかにされたようなものだと知りつつ役人が黙過したのは、二本目を抜かせまいがためだ。二本目を抜かせると、何をやり出すか知れない!
 その危険性は白雲もまた、充分に見て取っているのだ。ああいう際には、暫く不問に附してみることも、役人として卑怯なりとは言えない。だが、あの当座だけ大目に見られた御当人が、これから先、あの調子で、江戸まで往来がされ得ると考えたら大間違い。恐山から来たと言ったが、本当の山出しで、まだ世間を知らない。立ちどころに行詰まって、立腹たちばらでも切らなければ納まらなくなるのが眼に見えるようだと、白雲はそれを思いやり、笑止千万に感じながら、でも、なかなか痛快な若者ではある、自分が帰りがけでもあれば、同行して面倒を見てやってもいいが、今はそうしてもおられない。
 いや、飯も食い終った、乗合も散った、さあ出かけよう、と田山白雲が若干の茶代を置いて、この渡頭の茶店を立ち出でると、出逢頭に、のこのことこの場へやって来たものがありました。
 見ると、それが今の思出し男、恐山から来た柳田平治に相違ありませんから、白雲も思わず、たじたじとしたことです。何をどうしたのか、先刻あれほど肩で風を切って出かけて行った男が、なんとなく浮かぬかおで、すごすごとまたここまで舞い戻って来たということが、白雲をして面食めんくらわせることほど、意外千万な引合せであったからです。

         十一

「どうしたのだね、君」
 あまりのことに、田山白雲が身近く寄って来たところのこの男に向って、かく呼びかけざるを得ませんでした。
「忘れ物をしました」
「忘れ物、何を忘れたのです」
「手形を忘れました、旅行券を」
「なるほど――」
 その手形というのは、さいぜん、現にここで、この男が懐中からさぐり出して役人に提示して見せたのを、現に田山白雲も見届けておりました。
 あの際、紛失したのか、或いはここを出て暫く行く間に取落しでもしたものか、いずれにしても、粗忽千万そこつせんばんとがは免れない。隙のないようでも、若い者の手はどこか漏れるところがある。これから先、山河幾百里の関柵かんさくをあけて通る鍵だ。その唯一の旅行免状を取落して何になる。これではさすがの強情者も、浮かぬ面をして取って返さざるを得ない出来事だと、白雲も思いやりました。
 しかし、事実はここで役人に提示したのだから、これよりあとへ飛んで戻るはずはない。柳田平治はまず店先よりはじめて、その辺をくまなく探し求めましたけれども、ついにそれらしい何物もありません。
 柳田はついにその長剣を背中へ廻して、低い縁の根太ねだの下まで探してみたけれども見出せないのです。白雲も同情して、そこらあたりをあさって見てやったけれども、発見することができません。
 さしもの豪傑も、ここに至っていたく銷沈気味でした。
 茶店の老爺おやじも気の毒がって、炉辺のござまでめくって見せたけれども、附木つけぎと、ごみと、耳白みみじろが三つばかりあるほかは何物もありませんでした。もしやと、少し下りて船頭小屋から渡し場のあたりまで調べてみたけれども、ついにそれらしい何物もありませんでした。
「もうやむを得ん」
と言って柳田平治は、腕組みをしたまま突立って、川原の彼方かなたを無念そうにながめました。
 居合にかかろうとする瞬間である。問題はそこだ。そこでいったん懐中へしまい直したはずの手形が紛失したのだ。
「どうも見えないね、君」
 白雲は慰め顔にこう言うと、腕をこまねいていた柳田平治が、
「是非に及ばんです、いや、僕が悪いのです、こちらに隙があったからです、修行が足りないからなんだ」
あやまちというものは誰にもあるものだ、そう気を落さんで、もう一度、念入りに探し給え、拙者もたしかに、ここで君が役人に見せたのを見届けているのだから」
 再び白雲が言うと、
「いや、過ちではないです、僕のぬかりなのです、あの時、刀を抜く方に気を取られて内懐ろに隙が出来た、それが未熟の致すところなのです。あの時に取落したんじゃない、あの時に抜き取られたのです。しかも抜き取った奴の面までちゃんと僕は覚えているんですが、今となってはどうにも行かんです」
 じっと、向う岸をにらんだ眼の中には、存外、自制もあれば、分別もあることを、田山白雲は認めました。果して落したものでない、抜き取られたものであるとすれば、抜き取った奴は何者か。何のためにしたことだ。居合を見事に抜かれたその仕返しに、こちらは懐中物を抜いてやったというのは、いたずらにしても細工があり過ぎているではないか。

         十二

 向う岸を睨みながら、柳田平治が、なおひとり言のように言いました、
「役人の傍に変な奴が一人いたのです、今となってわかるのです。なぜわかるかと言えば、あの、僕がこれを抜こうとした瞬間に、誰の心もみんな僕に向って集中するのはあたりまえなんで、みんなの心が集中するから、こちらも精神の統一が出来て、わざがやりよいのです。しかるにあの時、役人の傍に一人だけ変な奴がいて、何か僕の周囲まわりで、別な心持を持ってちょこまかしていたのが、いま思い当るのです、そいつが僕の手形を抜き取ったのです」
「人の手形を抜き取って何にするつもりだろう」
「何にするつもりか、それはわからんですが、単なる悪戯いたずらでもないでしょう。しかしです、もうそれと知った以上、詮議しても無駄ですから、僕はあきらめます」
「あきらめると言ったところで君、これから旅行免状なしに、どこへ行こうとするのだ」
「手形は無くても、道路があり、足がある以上は、行って行けないはずはないでしょう」
「そりゃあ理窟というものだ、君はまだ旅というものを知らない」
と、改めて田山白雲は、この青年に教訓してやる心持になりました。
 この青年は旅を知らないが、自分は知り過ぎている。旅というものは、足だけでできるものではない、行路の難というものは、山にあらず、川にあらず、ということを、一席聴かせてやることが、この際、後進に対する重大な教育だと感じないわけにはゆかないのです。
 そこで田山白雲が、この青年をとらえて、旅というものの教訓を始めようとする時に、この茶屋の前がまたにわかに物騒がしくなりました。
 それは、往還の要衝たる渡頭のことですから、相当にぎやかなのは当然のことですが、賑やかと物騒とは調子が違います。只ならぬ人間のひしめきが、今度はこちらの岸から起り始めたかのようです。白雲が、話題の鼻を折られていると、その前へ繰込んで来たのは、たしかに物騒な一行で、抜身の槍、突棒つくぼう刺叉さすまたというようなものを押立てた同勢が、その中へ高手小手にいましめた一人の者を取押えながら、引き立てて来たのであります。
 二人は、押黙って、その光景を見ないわけにはゆきませんでした。
 まず、真中に取りおさえられ、引き立てられている当人を見ると、それは、黒の羽二重はぶたえの紋附を着て、髪は五分月代さかやき程度に生えて、色の白い、中肉中背の二十歳はたちを幾つも出まいと思われる美男でした。それが着物は引裂け、朱鞘しゅざやの大小をだらしなく差したまま、顔面にも、身体にも、多少の負傷をしながら、高手小手にいましめられて、引き立てられて来るのです。
 そうして、この茶屋の前を素通りしてグングンと引き立てられ、渡頭の方へと引かれて行くのは、舟で向う岸へ運ばれて行くものと見える。
 思いがけない兇状持ち、それを無言で見送った途端、田山白雲の頭にひらめいたのは、さいぜんの乗合者の話――南部の家老の娘をそそのかして連れ出したという、美男の、色魔の、若侍の物語でありました。今ああして縛られて行ったのが、どうしてもその当人と思われてならぬ。あれが捕われたのだ、それがもはや疑う余地のないほどピタリと白雲の頭に来ました。

         十三

 上来の事件とほぼ時間を同じうして、距離に於ては向う岸の渡頭から南へ一里余を隔てた、追波川おっぱがわが湾入して、大きな沼池をなしているところの荒れ果てた石小屋の中の、一方へ空俵を重ねて、その上へ毛布を敷きこんで、寝そべっている若い女の子がありました。
 島田に結った髪がほつれてはいるけれども、花模様の着物の着こなしも、朱珍の帯のしめっぷりもきちんとはしている。だがまた、いやに艶めかしいところもあって、寝そべって、細くて白い、そのくせせてはいないで、少し蒼味を持った肉附のいい両腕を、双方から、ぼんのくぼあたりへあてがって、そうして甘えるような、また自暴やけのような声で、
「つまんない」
と言いました。
 そうすると、つい、その戸じまり一重ひとえ次になった臨時お台所で、
「ツマンナイコト無イデス」
と言う、がんまりした、その上、多分の寸伸びを持った応対。
 見ると、そこに、不器用な手つきで、焜炉こんろあおって何物をか煎じつつあるその男は、これはずいぶん変っていました。まず眼の色、毛の色が変っているのみか、その体格が図抜けて大きいのが何より先に眼につきます。これは、月ノ浦に泊っている駒井甚三郎の無名丸から脱走して来たマドロスに相違ありません。してみると、無論、この一方に寝そべって、「つまんない」と投げ出した、妙にじだらくな若い女の子は、右のマドロスにそそのかされて、共に駒井甚三郎の無名丸を脱走して来た兵部の娘に相違ないでしょう。いや、マドロスに誘拐されたのか、マドロスをそそのかしたのか、そのことはよくわからないが、こうして一方が不貞腐ふてくされのていで寝そべっているのに、一方が庖厨ほうちゅうにいて神妙に勝手方をつとめているところを見れば――位取りの差はおのずから明らかであって、つまり、女が天下で、男が従なのです。女が比較的にヒリリとして、男が多分に甘い。
「ああ、つまんない、つまんない」
 女の方がいよいよ自暴やけになって、ほつれた髪の毛を動かすと、大男が、
「アア、ツマンナイコト、チットモナイデス」
「マドロスさん、お前の言ったことはみんな出鱈目でたらめね」
「デタラメデナイデス、本当デス」
「一つとして本当のことは無いじゃないか、この海を一つ乗りきりさえすれば、外にはきに大きな黒船が待っていて、わたしたちが着けば、その大きな黒船の上から梯子はしごを投げかけてくれる、それに捉まって上ってしまいさえすれば、もう占めたもので、あの黒船の中は、またとても外から見たよりも一層大きくて、美しくて、その中にはキャビンというものがあって、室内いっぱいの大きな鏡があって、下には花のような絨氈じゅうたんが敷いてあって、御馳走は、朝から晩まで給仕さんが、世界中の有りとあらゆるおいしいものを、注文さえすればいつでも持って来てくれる、それから夜は、中へ入るとふわりと身体が包まって、どこへ隠れたかわからないベットというやわらかなやわらかな蒲団ふとんの上に寝かせてくれる、そうしてその大船が、千里でも二千里でも畳の上を行くようにすべって行って、そうしてやがて、異国のおかに着いてからがまた大したもので、どこを見ても、御殿のようなお家ばっかり、孔雀くじゃく錦鶏鳥きんけいちょうが、雀や鶏のようにいっぱい遊んでいるのなんの言っていながら、黒船なんぞ、どこにも見えやしないじゃないか――」

         十四

 娘がずけずけと不平を並べるのを、男はハイハイと頭を下げて、
「モ少シノ辛抱デス、オ嬢サン、ココデ仕度ヲシテ、ソレカラ海ヘ出ルデス、海ヘ出ルト黒船ガ待ッテイルデス」
「当てにならないね、マドロスさんの言うことは」
「当テニナルデス、今ココヲ逃ゲ出スト、人ニ見ラレルデス、人ニ見ラレルト、黒船ニ乗込ム前ニ捕マッテシマウデス、モ少シノ辛抱カンジンデス」
「もう、わたし、辛抱がしきれない、誰かに見つけ出してもらいたいわ」
「見ツケラレルトこわイデス、捕マルデス、縛ラレルデス、ソウシテ船ヘ送リ返サレルト、ブタレルデス」
「怖かないわ、駒井の殿様は、そんなにきつく叱りはしませんよ」
船ドサンタチガコワイデス、ワタシ袋叩キニサレマス、間違エバ簀巻すまきニシテ海ノ中ヘ投ゲ込マレテシマウデス」
「そんなこと、ありゃしませんよ。もしかして船頭さんたちが、そんな乱暴をした時は、駒井の殿様が差止めて下さるわよ。それから、金椎キンツイさんは神様を信じているから、わたしたちがこんな間違いをしたって許してくれる。それから茂ちゃん――あの子は何をするものですか。ああ、わたし、無名丸へ帰りたくなってしまった、誰か迎えに来てくれるといい」
「ソンナコト、イマサラ言エタ義理デハナイデス」
「ではマドロスさん、早く黒船へ乗せて頂戴な、黒船をここまで呼んで来て頂戴」
「ソレ無理デス、黒船大キイ、コンナ川ヘ入ラナイ」
「でも、この川もずいぶん大きいじゃないの」
「サ、オ餅、焼ケマシタ、オアガリナサイ」
と言って、一方の火にかけた鉄桿の上から、マドロスが真黒いものを一つ取って、娘の枕元へ差出すと、娘はちょっと横を向いて、ちらとその黒いものを見やり、
「何なのそりゃ、マドロスさん、いやに真黒なもの、何なの」
「焼餅デス、サッキ渡シ場ノ船頭サンカラ、貰ッテ来タデス、色ハ黒イケレド、ナカナカオイシイデス」
「わたしには気味が悪くて食べられない」
「食ベナイト、オナカスクデス、オナカスクト身体弱ッテ、コレカラ黒船マデ行ケナイデス」
「だって、食べたくない」
「オアガリナサイ、無理ニ食ベテ元気ヲオ出シナサイ」
「食べられません」
と言って、娘はこちらを向いてしまいました。この黒い焼餅こそは、先刻、このマドロスが生命いのちがけで渡頭の船頭小屋へ闖入ちんにゅうして、そこから掠奪して来たものです。そうして逃げ出すところを、船頭父子に追いつめられて、命からがら逃げのびて来た、その光景を向う河岸の小高いところに据えつけていた遠眼鏡を取って、いちいち田山白雲に認められてしまった、あれなのです。
 そういう思いをして得て来た生命がけのかてを見ること、この娘さんは土芥どかいにひとしい。
「ああ、もう日が暮れるじゃないの、また今晩もこんなところで――ああ、わたし、いや、いや、誰か迎えに来て下さい、茂ちゃん――七兵衛おやじだといいけれど、あの人はいないし、田山先生だとなおいいけれど、あの先生も旅に出てしまった、誰か探しに来て下さい」

         十五

 自暴やけをまる出しに、娘の調子が少しずつ声高こわだかになって行くのに狼狽したマドロスは、
「オ嬢サン、大キナ声ヲシテハイケナイデス」
「だって――今晩もまたこんなところで夜を明かさなけりゃならないとすれば、わたし、もうたまらない」
「モウ少シノ辛抱デス、日本ノうたニモ、オ前トナラバドコマデモ……トイウ唄アルデス」
「いやよ、マドロスさん、わたしはお前さんと苦労をするために、無名丸から逃げ出したのじゃなくってよ、お前さんが、あの大きな黒船に乗せて、御殿のようなキャビンの中で、王様のように扱われて、そうして異国の土地へ着けば、町々はみんな御殿のようで、金銀は有り余り、珍しい器械道具がそろっていて、人間はみんな親切で、何から何まで結構ずくめの外国へ連れて行ってあげるなんて言うから、ついその気になってしまったの。それなのに、この御殿はどうです、まあ、この空俵の上へ毛布けっと一枚――ずいぶん結構なベットね。一晩は辛抱したけれど、もうできない、わたしは駒井の殿様のお船の方が、黒船に乗るよりよっぽどいい、逃げ出すんじゃなかった、駒井の殿様のお船に、おとなしくしていればよかった」
「オ嬢サン、ソンナ愚痴イケマセン、少シノ辛抱デス。デハ、ワタシ、アナタノタメニ唄ヲウタッテ上ゲル、コノ手風琴デ、世界ノ国々ノ、港々ノ唄ヲウタッテアナタヲ慰メテ上ゲルデス。今晩一晩ダケデス、明日コノ川下ルト海ニ出マス、海ニ出ルトソノ黒船ガ待ッテイルデス。サ、ワタシ、オ嬢様ノタメニ、世界ノ国々ノ、港々ノ唄ヲ何デモウタッテ上ゲルデス、オ望ミナサイ、外国ノ唄オイヤナラ日本ノ唄、ワタシタイテイデキルデス、八重山、越後獅子、コンピラ船々、追分、黒髪、何デモオ望ミナサイ」
と言ってマドロスは、立って一方の隅から手風琴を提げて来ました。これは無名丸備えつけの品を、行きがけの駄賃にかっぱらって来たものでしょう。
「いや、いや、唄なんか聞きたくありません、唄どころじゃないわ」
「船カラオ茶少シ持出シテ来マシタ、オアガリナサイ」
「何も欲しくありません。ああ、いやだ、だんだん外が暗くなる。帰りましょうよ、マドロスさん、ね、おびをして、駒井の殿様のところまで帰りましょうよ、直ぐにね、日の暮れないうちに、さ、いま直ぐに」
「イケマセン、イケマセン、モウ少シ落着クコトヨロシイ」
「いいえ、わたし、もう思い立ったら意地も我慢もないのよ、マドロスさん、お前、戻るのがいやなら、わたしは一人で出かけます」
「イケマセン、私、一生懸命ニ止メルデス」
 だらしなかった娘が、バネのようにはね起きると、ばったが飛びついたように駈け寄って抑えたマドロスの眼つきは、今までのウスノロではなく、燃えるような執着を現わしていました。
「放して頂戴」
「イケマセン」
「馬鹿!」
「イヤ、馬鹿デナイデス、オ嬢サン、アナタ考エ無シデス」
「お前がわたしをだましたんだわ、ああ、いやな奴。誰か迎えに来て下さるといいねえ、こういう時は田山先生に限るのよ、田山先生でなければ、このウスノロをどうにもできやしない!」
と言って、娘は力を極めてマドロスを突き飛ばしました。

         十六

 突き飛ばしたつもりだけれども、相手は飛ばないのです。
「オ嬢サン、アナタ、モウ、ワタシノモノアリマス、逃ゲラレマセン」
「ばかにおしでないよ、お前さんなんて、ウスノロのくせに」
「アナタ、モウ、ワタシニ許シタデス、ワタシモウ、アナタ離サナイデス」
「しつこい奴ね」
「アナタ、ワタシノモノデス」
「あ、畜生!」
 いかに争っても、これは問題にならない、というより、もう問題は過ぎているのです。娘は全くマドロスに抱きすくめられて、身動きすることもできない。そうすると、急に娘の言葉が甘ったるくなって、
「ねえ、マドロスさん」
「エ」
「そんなにいじめなくてもいいことよ」
「ワタシ、チットモ、アナタイジメルコトアリマセン、アナタ可愛クテタマラナイデス」
「可愛がって頂戴。可愛がって下さるのはいいけれど、それほど可愛いものなら、わたしを大切にして頂戴、ね、ね」
「大切ニシテ上ゲルデストモ、ワタシ、命ガケデアナタヲ可愛ガルヨロシイ」
「では、わたしも、もう我儘わがままを言わないから、無理なことしないで頂戴、ね」
「無理ナコトシタリ、言ッタリ、ソリャ、オジョサン、アナタノコトデアルデス」
「仲直りしましょうよ」
「ワタシ、仲直リスルホド、仲悪クアリマセン」
「ですけれど、マドロスさん、今晩はまた寒いのね、この毛布一枚じゃ、どうにもなりゃしない」
「火ヲ焚クデス、夜通シ火ヲ焚イテ暖メテ上ゲルデス」
「では、焚火をして頂戴」
「ヨロシイデス」
 マドロスは、唯々いいとして命令に服従し、今夜の寒気を防ぐべく火を焚く前に、臨時のストーブの築造にかからねばならないことを知りました。しかし、この女を暖めるためには、そのくらいの労力や才覚は何でもない、つとめて保温を完全にして、今夜一晩の、この娘の歓心を買うことにつとめなければならない。それには、どうしても、いま現に利用しつつあるところのこの半壊の囲炉裡いろりを修理して、これに格子か、或いはやぐらを載せて、そうして炬燵こたつの形式にすることが最も簡単で、そうして効果のあることだと思い当ったらしく、無論もうその時はぐんにゃりとなった、抱きすくめた女の身体を放してやり、それから炉べりに向って新しい煖炉の仕かけのために、一心に工夫をらしはじめました。
 逃げるなら、このすきに――といったところで、どうにもなるものではありません。叫べば口を抑えられてしまい、動けば抱きすくめられてしまい、走れば追い越されてしまう。どうにもこうにも仕様はあるべくもないことを、娘は百も合点がてんして、そうしてなお一層、甘ったるく持ちかけるようです。
「ねえ、マドロスさん、お炬燵こたが出来たらば、手風琴を弾いて唄を聴かせて頂戴、何でもいいわ、あなたのお得意はこのものをね。淋しいから陽気なものがいいでしょう、思い切って陽気な、賑やかな唄を聴かせて頂戴な。でも、淋しいのでもかまわない」
 こう言われて、マドロスが全く相好そうごうを崩し切って、六尺の身体がよだれで流れ出しました。

         十七

 相好を崩し、涎で身体をただよわせながら、マドロスが言いました、
「デハオ嬢サン、スペインノ歌ヲ一ツ聞カセテアゲルコトアリマス、スペインハ日本人イスパニヤ言イマス、イスパニヤハ果物タイヘンオイシイデス、唄モナカナカ面白イデス、オ婆サンモ、若イ娘サンモ、ヨク唄ウアリマス」
 手風琴を取り直すと、ブーカブーカをはじめて、何かわけのわからぬ唄をうたい出しました。それを聞いていると、なんだか長く尾を引いた高調子の唄ではあるが、賑やかな音楽と言ったのに、妙に物哀しい音色を包んでいる。そこで、女がこう言ってたずねました――
「マドロスさん、今の唄、何という唄なの、なんだか琵琶を聞くような、悲しいところがあるわね」
「コレハフラメンコイウ唄デス、次ハタランテラ唄イマショ、ナポリイウトコロデ唄イマス」
とマドロスは前置きをして、また一種異様な音楽をはじめ出しました。
 この甘ったるいマドロスが、フラメンコだの、タランテラだの名題を並べては、わけのわからぬものをやり出すのですが、女には、もとより何が何だかわからないし、また得意でやり出している御当人のマドロスにも、その音楽の本質がわかってやるのだかどうだか、それもはなはだ怪しいものなのです。
 怪しいものには相違ないけれども、いいかげんの出鱈目でたらめかなでているものとは思われません。
 本来、このウスノロのマドロスの生国は何国の者だかわかっていないのです。御当人自身にも、自分の国籍は判断し兼ねるのですが、ともかくラテン系のどこかの場末で生れ、そうして物心つくと共に、労働と漂泊に身をゆだねてしまったものですから、国籍は海の上にあって、戸籍は船の中にあるものと心得ているらしい。従って、教育もなければ、教養もない。しかし、官能だけはどうやら人間並みに発達していて、特に音楽は好きでした。
 好きといったところで、高尚な音楽を味わうほどの教養はなし、また特に教養以上に超出する天才でもなし、ただ、横好きというだけで、見よう見まねに音楽をやることが、まずこの男の唯一の趣味でもあり、生活の慰安でもあったでしょう。
 ところが、地球上の津々浦々を家とするマドロスの境涯に、一つの恵まれた役得というのは、その国々に行われるところの異種異様の音楽なり、舞踏なりを、その国ぶり直接にひたることができるという特権でありました。
 ですから、この唄にしても、日頃やる怪しげな舞踏にしても、うまいとかまずいとかいうことは別として、ともかくも、みんな直接本場仕込みであることだけは疑いがないのです。本場仕込みと言ったところで、おのおのその国の一流の芸事に触れて来たというわけではないが、気分にだけは相当にひたって来ているのですから、今、スペインのフラメンコをやり出そうとも、ナポリのタランテラを振廻そうとも、それが物になっていようとも、いなかろうとも、ともかく、自分みずからその境地に身を浸して拾い取って来たのですから、一概にごまかしと軽蔑してしまうわけにゆかないのです。
 そこで、兵部の娘が、このマドロスの人品の下等なことと、その音楽の怪しげなことを忘れて、その怪しげな音楽を通じての、はるかの異郷の人類共通の声というものに、多少とも動かされざるを得なかったのでしょう。

         十八

 このマドロスのような下等な毛唐けとうめに、たとえ何であろうともそそのかされて、共に道行なんということは、日本人としては、聞くだに腹の立つことのようであり、兵部の娘としても、たとえ常識は逸していても、官能はあるだろうから、好きと、嫌いと、けがらわしいのと、けがらわしくないのとは相当鋭敏でなければならないはずだが、それはさいぜん会話の時のように黒船の誘惑と、異国情調の煽動に乗せられた点もあるかも知れないが、他の大きな原因は、お松という同乗の朋輩ほうばいに対する反抗心と、それから駒井甚三郎に面当てをしてやりたいという心とが、そもそもの出発点ではあったけれども、もう一つ御当人の気のつかないのは、この音楽というものの魅力でした。
 この、野卑で、下等で、且つ眼色毛色まで変っている毛唐めの口車に乗ったのは、いつか知らず自分が、この毛唐の持つ音楽的魅力に捉えられてしまっていたのだということを、まだ当人は気がついていないのです。
 マドロスそのものはいやな奴、身ぶるいしたいほど嫌なウスノロではあるけれども、こいつに音楽をやり出されると、どうしても誘惑をこうむらざるを得ないのです。誘惑も深く進めば感激となり、やがては身心ともに陶酔、というところまで持込まれない限りはない。
 名の知れない、わけのわからない、聞いたことも見たこともない国の音楽が、女の心を、それからそれへと捉えて行くのです。そのメロディよりも、ハーモニーよりも、まずそのリズムに。
 兵部の娘は、日本の音楽は好きで、そうしてかなりの教養を持っておりました。それで、身近に茂太郎という絶好の伴奏者がいたものですから、それに仕込んだり、仕込まれたりして、音楽には異様に発達した何物かを備えていたと見てよいのです。
 ところで、その耳をもって、全く聞き慣れない西洋音楽――といっても、怪しい限りのマドロスの演奏ぶりを、いま言ったような下地へ受取っているうちに、それが根を持って来るという段取りでした。
 いま言う通り、唄の文句は全くわからないが、メロディを捉えることに於ては、この女に相当の教養があり、そのリズムに動かされると、心酔しやすいことは、天才と言えなければ、病的なほどの鋭敏さを持っているのです。
 女はもう、しんとして聴きれてしまいました。なにもかも忘れて、野卑で、下等で、醜悪な人間がかなでる、一種異様な異国情調の漂蕩ひょうとうに堪えられなくなってしまったと見えて、
「マドロスさん、何という曲だかわたしは全くわからないが、聞いていると泣けてしまってよ、泣かずにはいられなくなってよ」
と、その一曲が終った時、女は無性むしょうに涙を流しながら言いつづけました。
「何という唄だか知らないが、聞いているうちに、何とも言えない熱い情合いがうつって、たまらない。異国にも、やっぱり恋無情といったようなものがあるのね。日本の国と同じように、苦しい世間の中に、甘い恋路をたずねて、死ぬの生きるのともがいている、血色と肉附のよい若い男女が狂っているような、苦しい――けれども甘い、淋しい、かなしい世界が、まざまざと見え出して、わたし、たまらなくなってしまった」
 仰向けに、だらしなく寝たまま、柄になく涙を無性に流しつづけて、女はこう言いました。

         十九

 そうすると、どう勘違いをしたか、マドロスは急に申しわけのないような狼狽ろうばいの態度を示して、そうして哀願的に、
「オ嬢サン、ドウモ済ミマセンデス――ワタシ、悪イ気デシタノデハナイカラ御免クダサイ、オ嬢サンニ取ッテ置キノ珍シイモノ聞カセテアゲタイト思ッタデス、ソレデ、コンナ陰気ナノヲヤッテ、オ気ニさわッテ済マナイコトアリマス。コンドハ、モット賑ヤカナノ、嬉シイノ、陽気ナノ、ヤリマショウ、オキキナサイ」
 女は、その申しわけに答えて言うよう、
「そういうわけじゃないの、わたしが泣けたというのは」
「泣クノオ止シナサイ、ワタシ、コレカラ陽気ナノ唄イマス、今度ハ支那ノ、唄イマショウ、茂チャン、アノ唄、好キ、ソレ唄イマショウ、支那ノ……」
 この野卑にして下等なる音楽者は、それにしても、ここでもやっぱり国際的でした。前回の失敗の名誉回復をやり出すような意気組みで、今度は支那の音楽にとりかかろうという。
 国境に於てはだいぶ近くなったけれども、その内容のわからないことは、依然として同じこと。わからないながら、これはたしかに以前の異国のとは違って、陽気で、びやかなところが多い。そうして最後へ持っていって、
チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
ツアン
ツアン
チーカ、ロンドン、ツアン
パツカ、ロンドン、ツアン
と附けることは、女も以前からしばしば聞かされたものです。ことに清澄の茂太郎は、この口合いを喜んで、例の出鱈目でたらめを日本語で唄い終っては、その最後へ、これにならって、
チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
をくっつけるのを得意としていたことを、女もよく知っている。これを聞くと、茂太郎もどきに自分も踊り出したくなるので、いつか心持も陽気になってまいりました。それを見るとマドロスは、娘のお気に叶ってその御機嫌を取り直したことを嬉しがって、なお馬力をかけながら、何ともわけのわからない支那唄を声高くうたって、手風琴に合わせながら、その終りに右の、
チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
を折返すと、女もいい気持になって、ここぞと思うあたりで、先を越して、
チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
をやり出すものですから、期せずして合唱の形となって、今の先とは打って変った和気と、陽気とが、飄々ひょうひょうとしてただよい出したというものです。
 時に、日が暮れかかりました。
「オ嬢サン、提灯ちょうちんヘローソク入レマス、オ待チナサイ、ソウシテ、今夜ワタシ、アナタノ淋シイノヲ慰メルタメニ、一晩中、器量一パイウタイマス、ワタシ、知ッテル世界ノ国々ノ唄トイウ唄、ミンナ歌イマス、イチバンシマイニ日本ノ、歌イマス……夜ガ明ケテモカマイマセン」
 マドロスは、すっかり興奮しきっている。女も以前のようにむずかりません。

         二十

 そうしているうちに、北上川の沿岸に夜が来ました。
 夜というものは、ありふれた風景でさえも、少なくとも一世紀は昔に返して見せるものなのですが、この辺の風物そのものが、日中でさえすでに近世紀の代物しろものではないのですから、夜になると、蒙蒼もうそうとして太古の気が襲うのは当然です。
 いいあんばいに、いつのまにか実に明るい月がかがやいていました。夜は風景を遡上そじょうして見せるけれども、月は時と人とをして、時間の上に超然たらしめる。
今の人は古時の月を見ざりしかど
今の月はかついにしへの人を照らしたりき
古人今人、流るる水の如く
共に明月を見て皆かくの如けん
と微吟して、大きな柳の木蔭から、この北上川の沿岸の蒙蒼たる広原の夜気の中へ、のそりと歩き出した黒い人影がある。と、その後ろに引添うようにして、もう一つの黒い小さい人影が現われました。
 一体にこの辺は、柳の大樹が多いのです。そのいわれを聞いてみると、源義経が奥地深く下る時に、おいに差して来た柳をとって植えたとか、植えなかったとかいうことで、今は大小高低、何千株の柳の老大樹が、断々離々として堤から原野へかけて生い連なっている。右の二つの人影は、そのいわれある柳の老大樹の林の中から身を現わして、堤を越え、原を横切り、小径こみちを越えて、柳の中に入り、また柳の中を出でつして来たものらしかったが、ここに至って柳の老大樹の林を全く後ろにして、そうして広い原の真只中へ露出しました。
 右手には翁倉おうくら黒森くろもりの山々が黒く十三浜の方に続いている。その広い原の真只中で、さきほど月に向って唐詩を微吟したところの大きい方の黒い影が後ろを顧みて、
「君、恐山おそれざんという山は、よっぽど高い山かね」
 その声を聞くと、それは日中、渡頭わたしばを徘徊していたところの、下野しもつけの足利の貧乏にして豪傑なる絵師田山白雲に相違ありません。そうすると、振返って呼びかけられた後ろの小さい方の黒法師が直ちに答えました、
「高い山じゃないですね、そう大して高いという山じゃないです」
 直ちにこう答えたのは、これも日中、渡頭で居合抜きの芸術を鮮かにやってのけて見せたが――旅行券では、すっかり悄然返しょげかえったところの恐山出身の柳田平治に相違ないのです。この二つの黒法師は、黒法師っぷりとしてかえって調和がありました。田山白雲はすぐれて容貌魁偉ようぼうかいいであるのに、柳田平治は普通よりは小柄です。白雲の刀も普通よりは長いには長いが、身体には釣合っている。柳田平治のはただ一本、長過ぎることは昼間と変らないのです。こうして二人が相前後して北上川の沿岸の月の平野の夜を、我語り、彼答えつつそぞろ歩いて行くのですが、柳田平治は今の返答に附け加えて、
「南部の恐山といえば、なかなか有名ですから、人はすてきに高い山だと思いますが、山はさほど高くはないのです。山は高くないけれども、形相ぎょうそうの変った山でしてね、恐山には地獄が九十九個所あって、極楽がたった一個所だと言われます、なんにしても恐山は登る山でなくしてむしろ下る山なのです」
と言いました。

         二十一

「山へ下る――」
と言って、田山白雲の黒い影が、ちょっとよどみました。
 どんな山でも山という以上は、人間としては上るべきものである。山へ下るということは、あるまじきことである。柳田平治も当然それを補わなければならないのですが、特に註釈をしませんでした。それを田山白雲もおしてたずねようともせず、閑々として歩みつづけます。
 かくて大小二つの黒法師は、いよいよ広原の中の月光の下に、鮮かに黒法師ぶりを発揮しながら無言の進行をつづけましたが、この二人ともに、遠目では、かく悠々閑々たるそぞろ歩きを続けているように見えるが、事実上は、歩みながら絶えず、往手ゆくてと左右の草原から、沼、橋、森蔭をまで、隈なく見透さんとした身構えで歩んでいるのであります。
 そのかなり細心に働いている首筋の異動と、眼光のつけどころを見ていると、ただ月に乗じて浮かれ出したものでないことは明らかであります。何か目的あって、それを探しもとめるために出動したものと見なければならないのです。
 それが微吟となったり、閑話となったりしてれて来るのは、その目的に達する間の道草に過ぎないと思われる。
「先刻から聞いていると、君はその恐山の林崎明神のお堂で居合を修行したということだが、してみると君の居合の流儀は、林崎流の居合なのだね」
「いや、そうじゃないです、林崎明神というのは、恐山の一部にある名所の名でして、林崎流の居合とはなんらの関係がないです、僕の修行したのは浅山一伝流なんですが、それも純粋の浅山一伝流というには少々恥かしいでしてね、コツは習いましたけれども、やり方は未熟な自己流ですから、本場へ出て練り直さなければならない、と考えとるです」
「なるほど」
と白雲はうなずきました。この青年、いよいよ存外に謙遜と自省とがある。この謙遜と自省とがある限り、まだ修行が伸びる。
 というようにも感心してみたが、いやいや滅多に感心してはならない、青年や、愚者を、うっかり過分にめてみせると、かえって生涯を誤ることがある。
「今、林崎流の居合のそのままの型は、どこに残っているか知らん。林崎を祖として、それから出でた流派は多いが、林崎流そのままの伝統を抜くというのはあまり聞かないね」
「そうです、浅山一伝流も林崎甚助から出たのです。先生、あなたも居合をおやりになりますか」
と、今度は柳田平治がたずね方に廻ると、田山白雲が、
「到底、君のように器用なわけには行かんけれど、一通り稽古するにはしたよ、僕のはちょっと変っている、鶴見流といってね」
「鶴見流ですか……」
「あまり聞き慣れない流名だろう、だが、それを伝えた老教士の口と、腕とには、なかなか敬服すべきものがあったねえ――その流祖の鶴見というのは、年代はよく知らんが、たしか戦国時代の人であって、一つ面白い逸話を聞いている、こういう話だ、まあ聞いて置き給え」
 打解けた物語りをしながら、白雲の眼は絶えず前面の広野の四方にめぐらされている。どうしても月を見ながら散歩のための閑談ではない。

         二十二

「越前家に、なにがしという武功の者があったのだが、これが何か犯せる罪あって出奔しゅっぽんし、三国山へこもったのを、右の鶴見が殿の仰せを受けて召捕りに向ったのだが、その仰せを受けた時に、鶴見が返答して言うことには、それがしはまだ人を召捕りに向った経験がござらぬ、もし召捕りそこねた時には拙者一人の恥ではござらぬ――というようなことを申し出ると、ただ何でもよろしいから行け、もし召捕ることができなかったら斬捨ても苦しうない、とこういう上意なので、しからばもはや辞退いたすべき限りではござりませぬ、と言って鶴見殿が出立したのだね」
 白雲はこのようにして、月の広野原を歩みながら語り出すと、柳田が、
「その時に、鶴見先生のはらはもう決っていましたね」
「そうして、先方へ行くと、どういう知恵を働かせたか、とにかく、その相手の武功者をだね、それを縄にもかけなければ、刀を差させたままで連れ出して来たんだね。そうして、召連れた二十人ばかりの者と一緒に、舟に乗せて城下へ漕ぎつけることになったのだ。その召連れて来た武功者は、聞えたる大力の大男でね、鶴見は反対に君のような――と言っては失敬だが、とにかく小兵こひょうな男であったそうだ。それが右の武功者を縛りもしないし、刀を差させたままで、同じ舟の中へ連れ込んで打解けているものだから、警固の足軽連が心配したのも無理はないね。その時鶴見は艫先ともさきの方に腰をかけていたそうだが、右のおとがめ者も鶴見の傍に船ばたにもたれている、鶴見が茶をすすめるとそれを飲み、何かと無難に物語りをしているうちに、船が城下近くなろうとした時、右の武功者が、乗組の油断を見すましたか、つうと水の中へ飛び込んでしまった。さてこそと警固のものが眼の色を変えて狼狽ろうばいしたのだ」
「なるほど……」
「だから、言わぬことじゃない、あれほどの武功者を縄もかけず、大小も取上げずに召連れて、それに悠々と茶などを振舞って世間体にもてなしていたのが緩怠千万――なんにしても大事のめしうど、取逃がしては一大事と、皆々続いて水中に飛び入ろうとすると、鶴見は少しも狼狽あわてず、以前の通りに艫先に腰かけていて、右の手でひげをひねりながら言うことには、騒ぐな、騒ぐな、どこまで逃げるということがあるものか、この一国のうちならば、海であろうと、川であろうと、ゆっくり探すことができるのだ、だが、そのうちに浮いて出て来るから、ともかくもひとまずこの船をさし止めろ、と言っているうちに、水面の一個所、水の色が紅くなったところがある、あそこへ船を差廻してみよと、鶴見から言われているうちに、そこへぽっかりと屍体が一つ浮いて出た、それを引き上げて見ると、右の武功者が、高股たかももを切り落されて浮び出して来たのだった」
「やりましたね、鶴見先生」
「その男が水へ飛び込むと見て、鶴見が斬って刀をさやに納めたのだが、その抜く手も、鞘に納めるところをも、誰も見たものはなかったそうだ……」
「そうでしょう、林崎甚助先生などにもさような逸話はありますね、私も師匠から承りました」
 柳田平治が、つづいて何か相当の武術の応酬を試みようとしていた時分に、さきほどからむらむらしていた雲が月を隠してしまい、地上がにわかに暗くなりました。

         二十三

 月は隠れたけれども、本来は月の夜なのですから、天地は暗いといっても、闇の夜ではありません。
「月が隠れたね」
「雲が出てまいりました」
 二人の心づかいは、ちょっと天上に向って転向しましたけれども、そうかといって、その雲行きも天候の激変を暗示するほどの危険性はないが、今までのように皎々こうこうたる月光が、雲を破って現われることは、ちょっと覚束おぼつかなくなりました。
「しかし、暗い方がまたかえってよろしい」
と田山白雲は、さのみ月光に執着を持っておりませんでした。それは月光そのものに浸染せんがためにうらぶれ出でたのではなく、かくうらぶれ出でたに就いては、別に何かの目的があってうらぶれ出でたところへ、偶然にもその景物として月が出ていてくれたのだから、月が姿を隠しても必ずしも自分の目的にはずれるということはなく、かえってそこにはまた何かの利便をでも見出したかのように、月もよし、闇も更によし、というような気分で、最初の通り四方あたりの山川草木を通して、平原の視野の限りに油断なき首筋を動かしているのです。
 そうすると、柳田平治も語り出でんとする物語をさし置いて、同じような姿勢を以て四方の視野を監視のていです。二人の会話は途絶えました。
 会話そのものもまた、月の光と同じく偶然の景物であって、二人は会談をさんがためにここにうらぶれて来たのではなく、何物をか求めんがためにうらぶれきたって、そうして偶然のゆかりで会談のいとぐちが切出されたまでのことですから、それが都合上、中断されようとも、継続されようとも、更に差支えはないのです。
 そうしているうちに、田山白雲がまず口を切りました、
「君、あそこの森蔭に、一点の火が見えるではないか」
「ええ、何か、鳴り物の音が聞えますな」
 二人の声は、ほとんど※(「口+卒」、第3水準1-15-7)そったく同時のような調子でありました。
 白雲が、その一点の火というのを認めたのが早かったか、柳田が、風に伝うて来る有るかなきかの鳴り物の音というのを耳にとめたのが早かったか、それはわからないでしょう。一方の眼と、一方の耳との正確さをもって一応たしかめるために、二人は暫く息をこらしました。
「たしかです、先生、たしかに火影ほかげが見えます」
 白雲が最初に認めた火の光がいったん明滅したらしいのを、柳田が再び確認し得たらしく保証すると共に、白雲が、
「なるほど、なるほど、風に流れてかすかに物の音が響いて来るよ」
 自分は眼に於て早く、柳田は耳に於て一歩を先んじていたらしい認識が、ここで両々相保証するの立場となりました。
「では、とりあえず、あれを目的めあてとして少し急いでみようではないか」
と白雲がまず唱えて、柳田がそれに従いました。そこで少し二人は歩行あゆみを早めて、火と音との遥かなる一角に向って歩み出しましたが、何をいうにも、白雲は大男であり、柳田は小男ですから、コンパスの相違が少々ある。
 白雲は柳田に調子を合わせてやるために、多少ともその歩調をおろさざるを得ませんでした。
 かくて行くうちに、ふと前に白い鏡のようなものの大きな展開を見ました。
「やあ、池ですか」
「沼だ――入江かも知れない」
 このまま進めば、必ずその沼に突入する。

         二十四

 白雲がまず眼を以て認め得たところのものも誤りなく、柳田が耳を以てとらえ得たところのものにも間違いがなかったことは、二人が進み行くほどに、ようやく明確に証拠立てられました。
 突当りに沼があって、その向うに小高い岸があって、その一方に森があって、その森蔭から右の一点の火光が射して来るのです。
 それにつれて、同じところから異様なる鳴り物の音が、ようやく鮮かに流れて来るのを、柳田がまた小耳を傾けて、
「何ですか、笛でありますか」
「いや、笛ではない」
「鼓ですか」
「いや、鼓でもない」
「三味ですか」
「そうでもないようだ、胡弓のような響きがする」
暢気のんきな奴ですね、こんな原っぱの一つ家に、鳴り物を鳴らして楽しむなんて」
「おかしいぞ」
 流れて来る音は聞き留めたが、楽器そのものが何であるかは、はっきりと受取れないので、
「狐狸の仕業かな」
と柳田平治が、長剣をちょっと撫でてみました。
「まあ――もう少し行ってみよう」
「御用心なさい、そこはもう沼つづきですから、先生」
「なるほど、水がここまで浸入して来ている、ここを一廻りせんと、あの森へ出られない」
「橋はありませんか」
「ないね」
「廻りましょう、僕が先に立って瀬ぶみをいたします」
「気をつけて行き給えよ」
 二人は沼を隔てて、森と、火影ほかげと、音楽とを、眼の前にあざやかに受取りながら、地の利を失ったために、その水の入江と、沼の半分を廻らなければならなくなりました。
 あしと、ひしとを分けて、水に沿うてめぐりきたってみると、やや暫くして、先に立った柳田平治が突然声を揚げました。
「先生、舟がありましたぜ、舟が」
「なに、舟が」
 柳田平治が立っている入江のある地点に、朦朧もうろうとして小舟が浮き捨てられてある。
「それは、いいあんばいだ、渡りに舟」
 一議に及ばず、二人はその舟を分捕って飛び乗り、この入江と沼とを押切ろうとして、ふたり船べりへ寄って見て、田山白雲が、はじめていぶかしげに、
「おや、この舟はおかしいぞ」
「どうしたのです、先生」
「見給え、世間普通の舟ではない」
「そうですね」
 二人は乗ることを先にして、舟の形を見ることを後にしましたが、白雲が、
「占めた!」
と叫んで、
「君、見給え、この舟は――これは日本の猪牙ちょきではない、形をよく見給え、西洋のバッテイラ型という舟だ、間違いなく、駒井氏の無名丸から外して逃げ出して来たその舟なのだ、いいかね、君に話した毛唐のマドロスというウスノロが、少し精神に異状のある娘を誘拐ゆうかいして連れ出したのがこの舟だ――ここに乗捨てられてある以上は、もう論議無用――あの鳴り物が物を言う。君、が押せるかね、押せるなら、ひとつこれで乗切ってくれ給え、あの鳴り物の音をたよりに――待ち給え、この舟がここに乗捨てられてある以上、ここから沼沿いに路があるだろう、その間道をひとつたずねて見給え」

         二十五

 そもそも、田山白雲のこのたびの北上の目的というものは、一石二鳥をも三鳥をも兼ねたものでありました。
 その一石は、いま現にほぼ証跡をつきとめ得たらしいところのマドロスと、兵部の娘を取押えんがためでありました。目下、松島湾の月ノ浦に碇泊しているところの駒井甚三郎創案建造の蒸気船、無名丸から脱走して来たところの駈落者かけおちものなのであります。マドロスは生国の知れぬ外国からの漂着者であり、兵部の娘は素姓すじょう正しいものですけれども、いささか精神に異常を呈し、肉体に不検束を持っている女であります。この二人が最近、無名丸から脱走したのを取押えんことも、田山白雲の北上の一つの目的でありましたが、他のもう一つは、仙台城内の秘宝をねらって、九分九厘のところで失敗した裏宿の七兵衛という、足のはやい不思議な怪賊の行方をたずねんがためでありました。
 それから、もう一つは、本業たる画師としての画嚢がのうを満たさんがために、いまだ見ざる名山大川に触れてみようというのと、持って生れた漂泊性を飽満せしめようとの本能もありました。
 そうして、ゆくりなく、この渡頭に立って見ると、たずねるところのマドロスが、遠眼鏡の視野の中に完全に落ち来ったものですから、いずれにしても、この向う岸をへだたること程遠からぬ地点に潜在しているのだ。だが、茫漠たる地形であってみると、これは白昼に草の根を分け探すよりも、むしろ夜間を選んだ方がいい、というのは、火食を知って以来、人類の生活には火が附いて廻る。内部に向って食物を送るためにも、外部よりして体温を摂取するためにも、光を起して自ら明らかにし、他の暗黒を救うためにも、火は人生の必須であって、人生すなわち火なりという哲学も成り立つ。そこで、火を認め得れば必ず人があり、人のあるところには必ず火がある。そうして、火というものは、昼間に於てよりは、夜間に於てその存在をいっそう明瞭にする。
 こういう見地からして、田山白雲は特に夜を選んで駈落者の所在を探索に、ここへこうしてやって来たというわけなのであります。
 ただ予期しなかったことは、ここへ、同行ともつかず、従者ともつかず、お弟子ともつかない、長剣短躯たんくの青年を一枚加え得たというだけのもので、いつしかこの漢子かんしは、「先生」と白雲を呼びかけるほどに熟してしまっている。
 白雲が右のバッテイラ型と称した小舟の傍で言いました、
「ねえ、もう袋の鼠だよ、こっちのものだよ、そう思って聞いて見給え、あの問題の楽器はイカモノだな、笛でなし、鼓でなし、尺八でなし、琴でもなし、三味線でもなし、何か毛唐のイカモノの響きだ。本来、あのマドロスという奴が、ウスノロに出来てるんだ、眼色毛色の変った奴に、ドコまで道行ができるものか。先生、一時の安きをたのんで、ああして太平楽にイカモノを鳴らかして楽しんでいる知恵なしを見給え、自分たちはいい気分で人知れず楽しんでいるつもりだろうが、木の音、草の音を忍ぶ駈落者が、楽器いじりとはあきれたものではないか、ウスノロはどこまでもウスノロだよ」
「鳥も鳴かずば撃たれまい――というわけですね」
「そうだ、そうだ」
 白雲は、柳田平治が存外、洒落しゃれた言葉を知っているのに、我が意を得たりとばかりです。

         二十六

 そういうこととは知らず、石小屋の中では、白雲のいわゆるイカモノの音楽が、奏する人をいよいよ有頂天うちょうてんにならせると共に、さしもの聞き手を、ようやく陶酔と恍惚こうこつの境に入れようこと不思議と言わんばかりです。
 それが、イカモノであろうとも、なかろうとも、自己の演出する芸術が、張り切れるほどの相手方の反感をやわらげ得たのみならず、進んでこの程度にまでこっちのものに引き入れた自分の芸術の勝利に、マドロスがいよいよのぼせ上らざるを得ませんでした。
 そこで、ここを先途せんどと、引換え立替え、レコードを取換え、針をさし換えるひまがもどかしいように、西洋から、南洋から、支那朝鮮の音楽にまで、自分の持てる芸術の総ざらいをはじめて終り、やがて息をもつかせず、
「オ嬢サン、コレカラ日本ノモノヤルデス、マズ南ノ方カラヤリマショ、八重山ヲヤリマショ」
「八重山って何です」
「八重山ハ薩摩ノ国ノ南ノ方ニアル島デス、ソノ島ノ娘、タイヘン声ヨイデス、世界デモ一番デス」
と、マドロスが風琴を膝へ置いて答えました。
「え?」
と女が少し聞き耳を立て、
「何ですって、世界で一番? 言うことが大きいわ」
「ウソデナイデス、タナベ先生モホメマシタ、八重山ノ唄ト踊リ、素晴ラシイモノデス、ワタシ、日本デハアンナスバラシイモノ聞イタコトナイデス、ソレヲ一ツ、ココデ真似テ見ルデス」
「まあ、ちょっとお待ちなさい、マドロスさんの言うことは大きいからね、日本の国の薩摩の国の中に世界一番なんて、それは掛値があるんでしょうけれど、かりに割引して聞いても、そんなに素晴らしい唄だの踊りだのが、日本の中にあるんですか、そのことをもう少し説明してから、唄って聞かせて頂戴」
「八重山ノ娘サンタチノ声ハ五町モ六町モトオルデス、ソウシテ声ガヨク練レテイルデス、ワタシ聞イタ、世界ニモ珍シイデス、日本ノ国ニアンナトコロハ二ツトナイデス、ワタシ、一生懸命ニ三日習イマシタ、ユンタ、ジラバヲヤッテオ聞カセスルデス」
「では、ともかくやってみて下さいな」
「八重山ノユンタ、ジラバ……」
 そこで、またマドロスが実演にかかりました。
 果して八重山という日本の国の辺鄙へんぴの島の中に、そんな音楽の天国があるものか、マドロスの受売りだけでは信じられないが、女はその予備宣伝に相当引きつけられているらしい。
 そこで声高こわだかにマドロスが手風琴をあやなしながら唄い出したが、歌句は一向何だかわからない。本来、今までのマドロス芸術について、歌詞そのものは一向にわからないで、そのメロデーについて感心して聴いていたのが、これから日本のものを相はじめますということになってみると、その八重山とか、八重山節とかいうものが、歌詞はむろん相当にわかって、一層の興味があるだろうと予想したが、わからない。本来演奏者自身がわかってやっているのではないから、これは詮索せんさくしても駄目――ただ、盛んに唄い出すマドロスの咽喉のどを見て、八重山の女の世界的だという咽喉を想像するよりほかはないのですが、想像してみたところで、以前わからない異国情調を聞かされたほどの感興は、どうしても起らないらしい。

         二十七

 だが、とにもかくにも、このイカモノ音楽師は、世界的だという八重山節のコッピーを取って見せてしまうと、またもや息をつくいとまもなく、
「今度ハ、ガシャガシャ節ヲオ聞キニ入レルデス」
「まあ、待って頂戴、マドロスさん、今のその八重山節は、素晴らしいものかも知れないが、その土地へ行って、世界一だとか、日本一だとかいう声の練れた島の娘たちの咽喉から直接じかに聴かなけりゃ、本当の味がわからないわね、地唄というものはみんなそうなのでしょう、日本のものを聞くくらいなら、わかるのを聞きたいわ、けれども、安来節や、磯節なんて、わたしあまり好かない、何か日本の唄でわかるのをうたって頂戴」
「デハ、カンカンノウ、キウレンスヲウタイマショウカ」
「あれは日本のじゃありませんよ、わからないことは同じよ」
「デハ、チョンキナ、チョンキナ」
「いけないわ、なんだか下品だわ」
「お前とならば……」
「いや味ったらしい」
「春雨」
「お前さんのがらにないね」
「きんらいらい」
「駄目よ」
「越後獅子――イイデス」
「あんまりおきまりでねえ」
十日戎とおかえびす
「ぞっとしない」
「梅にも春」
「いよいよお前さんのガラにない」
「惚れて通う……」
「いやいや」
「デハ、オジョサン、何ガイイデス、アナタノ方カラ望ムコトヨロシイ」
「生意気をお言いでない、わたしの望むもの、お前にやれますか、やっぱり日本のものでない方がいいわね、日本のものだと、こっちがわかり過ぎてるから、マドちんが一生懸命やればやるほど滑稽になってしまう、だからいっそ、もとへ繰返して本場ものをやって頂戴。本場ものというのは、マドロスさんの本場もののことよ、わたしにはわからないでもいいから。わからない方がかえってアラが知れないで、珍しいところばかり耳に残るからその方がいいわ、威勢のいい異国物を聞かせて頂戴な」
「デハ、マタ西洋ヘ戻ッテ、イッショ懸命ヤルデス」
「いちいち説明はいらないから、立てつづけにやって頂戴、でも、くぎりだけはちょっと何か合図をしてね」
「デハ、ヤタラ無性むしょうニヤルデス、マルセル、ボルカ、ゴルデン、ワルツ、マルチ――何デモ無性ニヤルデス」
 日本物は全くプログラムから敬遠されてしまって、これから改めて異国ものの蒸返しに、マドロスが腕によりをかけ出した途端に、裏の戸締りをトントンと叩くものがありました。
「おや」
 兵部の娘がまず驚くと、かおの色を変えたのはマドロスです。ここまでは人の来るべきはずのところでないことを見定めて置いてかかっているのに――前に沼をめぐらした要害だから舟でなければ渡れない、その舟は隠してある、別に間道はあるにはあるが、夜分の追手にわかりっこはない、と安心しきって思うさま発展しているところへ、不意に背後から戸を叩くもの、それは気配によって見ても、まさしく人間に相違ないから、面の色を変えて手風琴をほうり出したマドロスが、
「誰デス」

         二十八

 その時、戸を押破って猛然と飛び込んで来たのは、田山白雲でありました。
「ウワア、タヤマ先生」
 マドロスが狼狽して、逃げ出そうとするのを、白雲はたちまち取って押えてしまいました。
「ウスノロ!」
 田山白雲が取って押えると、柳田が横の方から手伝いをして、忽ちマドロスを縛り上げてしまいました。
 本来、このマドロスは大兵だいひょうでもあり、力も優れていて、拳闘の手も相当に心得ている奴なのでしたけれども、白雲に対してはどうも苦手なのです。安房あわの国の洲崎すのさきで、駒井の番所へ闖入ちんにゅうし、金椎キンツイの料理を食い散らしてから、衣食がって礼節を戸棚の隅から発見すると、性の本能が横溢し、その狼藉ろうぜきの鼻を田山白雲に取っつかまって腰投げをくらい、完全に抑え込まれてから、銚子の黒灰の素人相撲しろうとずもうでは連戦連勝を、またこの白雲の助言によって土をつけられてしまった。
 他の何者に対しても、かなりの横着と粘液性を発揮するのですが、ひとり白雲に遭うてはすくんでしまう。
 それに今日は、柳田という、超誂向きの助手があってすることだから、マドロスは身動きもできないし、グウの音も出ない目に逢って、たちまちそこへ縛りつけられると共に、みえも、飾りも、全く手放しで号泣をはじめました。そうした時に、意外にも、その間へ押隔たったのは兵部の娘でありました。
「田山先生、あんまり手荒いことはしないで頂戴ね」
「うむ、もゆるさん――君もいったい心がけがよくない」
と白雲は、押隔たる娘のかおを浅ましげにながめて、たしなめると、
「マドロスさん、そんなに悪い人じゃありません、手荒いことしないでね」
「君を掠奪して、こんなところへ連れ込んだ不埒千万ふらちせんばんな奴じゃないか」
「いいえ、マドロスさんばかりが悪いんじゃないのよ」
「無論、君にも責任があるよ、何というだらしないこった、歯痒はがゆくってたまらない」
 その時、号泣していたマドロスが、急に哀願のていで、
「田山先生、ワタクシ、悪イトコロアヤマルデス、縄、解イテ下サイ」
 それを耳にも入れず田山白雲は、柳田平治をさし招いて言いました、
「柳田君――ではこれからを君に引渡すから頼みますよ」
「承知しました」
「マドロス」
と、白雲が改めてマドロスを呼びかけると、
「ハイ」
 神妙な返答です。
「貴様を、これからこの人に託して、月ノ浦の駒井氏の元船まで送り届けるのだ、じたばたしないでおとなしく引かれて行けよ」
「御免、御免」
 マドロスは、また哀号の声を高くして、
「御免、船ヘ戻ルコト、オ許シ下サイ、船ヘ戻レバ殺サレルデス」
「柳田君、かまわず引き立てて行ってくれ給え、もしジタバタした時は、今の鶴見流でやっつけてかまわない」
「御免、御免」
「萌さん――」
 兵部の娘を白雲は呼びかけて、そうして、
「あなたも、この人に――柳田さんという方だ――この方に送られて、一緒に駒井先生のもとへお帰りなさい。途中、逃げようとしても、もういけませんぞ。見給え、柳田君の差しているあの長い刀を、あれは抜ける刀なのだぞ」

         二十九

 それから、田山白雲は、マドロスと兵部の娘を引据えて置いて、また改めて、柳田平治に向って次の如く言いました、
「柳田君、では、このまま囚人めしうどを君に頼みますぞ、これからいったん追波おっぱの本流へ出て、鹿又ししまたから北上の本流を石巻まで舟でやってくれ給え、舟は本流へ出るまでは、今のあれでよろしい、それからは、最前仕立てて置いたあれで石巻までやってくれ給え、この辺はすでに仙台領だから、あの舟で行きさえすれば旅券がなくても大丈夫だ。なお、念のために仙台藩の通券を一枚君に貸して上げる、これを持って舟で下ってくれ給え――絵図面をあげる、この絵図面によって下れば更に間違いなし」
と言いかけた時に、今まで哀号をしていたマドロスが、また急に変な声を出して、
「田山先生、ワタシノ命、助ケテ下サイ、ワタシ、オトナシク月ノ浦マデ、舟漕グデス、ワタクシノ命、アチラデ助ケテ下サイ、コレカラ舟漕イデ上ゲルデス」
と言いました。その心細い声を聞くと、田山白雲がふき出して、
「なるほど、舟のことはこいつが本職だった、本職の手を縛って置いて、柳田君に廻航の心配をさせるのも愚かな話だった、こいつを一番利用して、ここまでやって来た通りをあとへ戻させればいいのだ」
と言って、マドロスの方へ向き直って、物々しく白雲が言って聞かせることには、
「よし、では、ともかく貴様の縄だけは解いてやるから、舟を漕いでかえれ、先方へ着いての上で駒井氏の裁断だ、拙者は許すとも許さんとも言えん――とにかく、舟を漕ぐ間は縄をゆるめてやる――ゆるめてはやるが、こっちを甘く見るときかんぞ。いいか、途中で隙を見て、海へ飛び込んで逃げ出そうなどとしても駄目だぞ。いいか、この柳田君はな、なりかたちこそ小さいが、こわいものを持っているぞ、これ見ろ、この長い刀をよく見ろ、伊達に差しているのではないぞ、抜けるのだぞ、抜けば斬るのだぞ、貴様のようなでぶといえども、芋を切るように真二つにこの刀で人が斬れるのだぞ、この人のなりかたちが小さいからって呑んでかかっちゃいかんぞよ。もし貴様が途中、穏かならぬ気振けぶりでもしようものなら、その瞬間に、そのでぶを二つに斬られてしまうのだ、おどかしではない、事実を言うのだ、よく見て置かっしゃい、あの長いのを――」
 田山白雲は、改めて柳田平治を、裏返し表返してマドロスに紹介して後、
「柳田君、後学のためだ、一つこの男に型を見せてやってくれまいか」
「よろしうござる」
 柳田平治は一方の板の間へしさったかと思うと、そこで電光石火の如く、居合を三本抜いて見せて、四本目に、あたりをちょっと見廻したが、そこに落ち散った黒い焼餅の一つを取ると、縛られたマドロスの頭の上に置き、二三歩踏みしさって、さっと一刀を抜いたと見ると、
「ワアッ!」
 マドロスは目がくらんで絶叫したが、マドロスの膝の前に二つになって落ちたのは、マドロスの自身の首ではなくて、今の焼餅でありました。
 そうすると、いつしか刀をさやに納めていた柳田は、二つになって落ちた焼餅をまた拾い上げてマドロスの頭へ積み重ねたから、マドロスはとてもいいかおをしませんでした。
 次の一本が電光石火、マドロスの頭で焼餅が今度は四つになって落ちたけれども、マドロスの赤い髪の毛は一筋だも傷つかないのです。

         三十

 十二分にマドロスの度胆を抜いてから、この厄介な駈落者を、柳田平治に託して送り出して置いて、田山白雲はひとり、この石小屋を占領しました。
 つまり、ここに炬燵こたつもしつらえてあれば、ロウソクもつけられてある。時にとっての好旅籠こうはたご――と納まったのでしょう。
 傍らを見ると、黒い焼餅が紙に載せて二つ三つ存在している。マドロスが生命がけで船頭小屋から掠奪して来たもの。そうしてせっかくの愛人に捧げたのをすげなくされた名残なごりのもの。その中の一つは柳田平治の長剣によって切って四段とされたが、まだ二三枚はここに完全に残されたもの――腹がすいてきた、これもまた、時にとっての薬石やくせき。田山白雲は、これをとって、むしゃむしゃと食いました。
 こうなってみると、ウスノロめが生命がけで苦心経営した食と住とのすべては、手入らずに白雲のものとなったのです。楚人そじんこれを作って漢人くらう――と白雲がわけもなく納まって……
 やれやれ、世話を焼かせやがったな、しかしまあ今日の一日はなにぶん多事なる一日であったが、必ずしも収納皆無とは言えない。短躯長剣の柳田なにがしという青年を一人拾い、ウスノロと馬鹿娘の駈落者を一対完全に取押えた。
 駈落者といえば、今日はまた駈落の流行はやる日でもあったわい。こっちの奴は、ウスノロとたあいもない馬鹿娘の一対だが、鹿又ししまたの渡頭で見たのはいささか類を異にしていた。
 ことに、あの羽二重紋服のままに縛られて引き立てられたあいつは、美しい男だったな。無論ウスノロとは比較にならない。どうやら昔物語にある平井権八といったような男っぷりだ。当然、あれが南部の家老の娘なるものを誘拐して立退いた奴だとは想像されるが、さて相手の家老の娘というのはどこへどう納まった。その先途を見届けてやりたいような気持もする。
 どうも四辺あたりが静かなものだ。しかし同じ静かさにしても、この時、このところは、少々静かさの調子が違っている。
 奥州へ来て、ところがらだけに、安達あだちの一つ家といったような気分だな。もう鬼婆あも出まいが、こうしていると、まだ何か一幕ありそうな気がしてならぬ。
 こういうあたり運のいい晩には、事のついでに、あの七兵衛というへんな老爺おやじが、またひょっこりとそこいらの戸の透間からやって来ないとも限らん。玉蕉女史の離れの一間、忍びの間は芝居だったな。さすがのおれも、ちょっと身の毛がよだったよ。あの伝で瑞巌寺泊りの駒井氏をも驚かしたそうだが、どうだ、七兵衛老爺、今晩は心得たものだから、出るならひとつここへ出てみないか。ここなら四方あたりはばかる者はない、思う存分貴様のヒュードロドロを見物してやる、出るなら出てみろ。
 というようなそぞろ心に駆られていると、不思議に身の毛がゾッとしてきて、現在誰か一人、背後に廻ったような気分があるが、これは気のせいだ。
 さて、今晩はここに納まり込んで、明日の日程だ――そうそう悠々閑々としてもおられない。三日間を限って、とにかくそれまでには、いったん月ノ浦の無名丸まで立帰らにゃならぬ。限られたる日程だが、実をいうと、おれはまた慾が一つ出て来たのだ。
 それは、恐山へ行って見たいという慾望だ。
 柳田平治を発見してから、なんとなく恐山という名に引かされる。一旦は船へ戻るとしても出直して、北上の竿頭かんとうさらに一歩を進めて、陸奥みちのくくがの果てなる恐山――鬼が出るか、じゃが出るか、そこまで行って見参したいものだな。

         三十一

 変れば変るもので、道庵先生がハイキングをはじめました。
 およそ、ハイキングだの、パッパ、マンマだのということほど、道庵先生に縁の遠いものはないのですが、転向ばやりとでもいうのでしょう、とうとうこの先生がハイキングをやり出したことに於て、容易ならぬ非常時を想いやることができるというものでしょう。
 ところは北上川の沿岸でもなく、恐山の麓でもありません、近江の国の琵琶の湖畔の胆吹山いぶきやまに向って、道庵先生がハイキングを試み出しました。
「コノ日、天気晴朗ニシテ、空ニ一点ノ雲無ク、すなはチ一瓢ヲ携ヘテ柴門さいもんヲ出ヅ……」
 明治のある時代に於て、小学校の課目の中に「記事文」というものがありました。その記事文に、一定の型があって、たとえば「車」という課題の下には、
「車ハ木ト金ニテ作リ、荷ヲ運ブニ用フルモノナリ」
といったような型でしたが、ある時、或る学校で「楠木正成」という課題を出しました。大楠公だいなんこうのことに就いては、修身課に於ても、読本課に於ても、充分の予備知識が与えてあるのだから、先生もその点は安心して、右の課題を出したのですが、一人の生徒の答案にいわく、
「楠木正成ハ人ニテ作リ、忠義ニ用フルモノナリ」
 唖然あぜんとして教員先生が言わんすべを知らなかった。これが軽薄なるデモ倉やプロ亀の口より出でたとすれば、許すべからざる冒涜ぼうとくであるが、無邪気なる小学児童が苦心のあまりに出でた作文の結果とすれば、単に一場の笑柄しょうへいのみです。
 ついでにもう一つ――これは大菩薩峠の著者が、小学校時代、七つか八つ頃親しく隣席で聞いた実話――同様の目的で、受持の先生が、「先生」という題を生徒に課しました。先生というのはつまり教師のことで、師の恩ということは、日ごろ口をすくして教えてあるのですから、もはや小さい頭にも充分の観念は出来ていると見たからでしょう。そうすると著者の隣席の同級の、しかも女の子でした、苦心惨澹して、石盤の上にしたためた名文に曰く、
「先生ハ人ヲ教ヘテ、銭ヲ取ルモノナリ」
 これを一読したその時の先生は、よほど短気の先生であって、これを見るとかっとばかりに怒り、
「いつ先生が銭を取った!」
 その時分には、小学校に於ても相当に体罰が流行はやったものです。いきなりその女の子にビンタを一つポカリと食わせましたが、少し神経痴鈍な女の子でしたから、別段、泣きもしないで、何の故に自分が打たれたのだか理解する由もないようなかおをしていたのと、その時の先生のすさまじいけんまくは、いまだに著者の目に残っている。
「何々ニ遊ブノ記」の記事文の型も、その前後に流行したもので、われわれ小学生も、必ずその書出しには、「コノ日ヤ天気晴朗」と、「空ニ一点ノ雲無ク」と、「一瓢いつぴょうヲ携ヘ」は必ず書かせられたものです。雨が降っても、風が吹いても、天気晴朗と書かなければならないものだと心得ており、携えた一瓢の中は何物だかということは、説明を与えられることもなく、説明を求むるほどの知恵もなかったものです。
 しかし、今日、このところ、道庵先生のハイキングに当って、天気晴朗にはいささか申し分があるけれども、一瓢を携えたことだけは一点の疑う余地はありません。

         三十二

 道庵先生のハイキングコースは、上平館かみひらやかたを出でて、通例だれもがする小高野から鞠場まりばへかけての胆吹の表参道であります。
 それを、一瓢を携えた道庵先生が、ふらりふらりと上り出すそのいでたちは、草鞋脚絆わらじきゃはんの足ごしらえをよくした、平生の旅の通りであります。顔面のある部分に少しずつ貼紙をしていて、ここにいささか異状があるのですが、貼紙というのは、一昨夜上平館の下へ迷い込み、進退きわまって、助けを呼んだあの時の名残なごりであります。
 衣服の方の満身の創痍そういは、もう誰かの心づくしで、すっかり癒されている。そこで道庵先生がいい気持で、胆吹のハイキングコースにとりかかったことは珍しいことです。
 江戸を出でて以来、中仙道をここまで百里にわたる旅路ですけれども、この途中ハイキングと名づくべきほどの経験はありませんでした。最も高い地点といえば、碓氷峠うすいとうげなのですが、あれはハイキングのためのハイキングではなく、国道の幹線が、当然上りになっているところを上り来ったまでであり、その他に於て高いところとしては、尾張の名古屋城の天主へ登った程度ぐらいのものでしょう。それを今日は、胆吹山という、れっきとした山岳に向って正真正銘のハイキングの一筋道を行くのだから、少なくともこの道中唯一の異例であります。
 しかし、この先生のハイキングぶりを見ていると、はなはだ心もとないものがある。第一、道中の際は、あのひょろ高い背で、肩であんまりすさまじくもない風を切り、反身そりみになって、往還の士農工商どもを白眼はくがんに見ながら通って来たものですが、山登りにかけては、あんまり自信が無いと見えて、もうそろそろ、体がかがみ、腰がゆがみ、息ぎれが目に見え出してくる。そこで、先生のハイキングぶりが甚だ怪しいもので、ハイキングというよりは「いキング」とでもいった方がふさわしいかも知れぬ。現に、もう息を切って、杖を立て、足を休めてしまいました。
 そうすると、右手の松柏しょうはくの茂った森の中から、やさしい声が起りました、
「先生」
「何だい」
「ちょっと、こちらへおいでなすって下さい」
「何だね、どうしたんだね」
「ちょっと見て頂戴、まだ、よくわたしにはわかりませんから」
「そうか、では見てあげる」
 路と林との中で、この問答が起りました。
 森の中から先生と呼びかけたのは、しかるべき少女の声で、これに答えたのは、申すまでもなく杖をとどめた道庵先生であります。
 さればこそ、道庵先生のハイキングコースは、ひとり旅ではありませんでした、連れがあったのです。しかもその連れは、若い娘の声で、おたがいに別れ別れに、路と森を隔てて通ってはいるが、その目的は相並び行くものでありました。
「ずいぶん、この辺にたくさんありますのよ、これごらんなさい」
 先生の足を森の中へわずらわすまでもなく、林の中から少女自身が姿を現わして、道庵先生の目の前へ出ました。
 愛らしい少女だが、頭に手拭をねえさんかぶりしている、小脇に目籠めかごを抱えている、そうして道庵先生の方がきちんとした旅姿なのに、少女はちょっと草履ぞうりをつっかけただけの平常着ふだんぎであることが、いささか釣合わないけれど、この少女がお雪ちゃんという娘であることは、ほぼ間違いがありません。

         三十三

 これによって見ると、道庵先生は正式に胆吹山のハイキングコースを通り、お雪ちゃんは、リュックサックを背負ったり、ロイド眼鏡をかけたりしないで、ほんの突っかけ草履の略装であることによって、二人が最後まで同行の覚悟でないことはわかっています。
 手拭を姐さんかぶりにして、小脇に目籠を抱えたままで出て来たお雪ちゃんが、目籠の中へ手を入れて、何か摘草のようなものを取り出して、先生の目の前へ持って来て見せると、道庵先生がいちいちうなずいて、
「そうだ、そうだ、それがセンブリだよ、花の咲いた時分に採って乾かして置くと胃の薬になる。これはマンドウ草といって、やはり葉は花時に採って喘息ぜんそくの薬にする。こちらのは薄荷はっかだ。こいつはそれ、何とかいったな、二年目に出来た茎立葉くきたちはを花時の初期にとって乾燥して置くと、心臓病によくくあれだよ。それは睡菜葉すいさいようといって、にがくて胃の薬になる。すべて苦いやつはみんな胃の薬というわけではないが、胃の薬はたいてい苦いと心得ていなさるがよい、それ、良薬は口に苦し……」
 目籠の中の植物の一つ一つに就いて、道庵が説明をはじめたところを見ると、どうも摘草にしては時候が変だと思われた疑いも解け、お雪ちゃんが、右の略装で、そこらあたりの薬草を採取しているのだということもよくわかります。
 薬草の吟味ならば、道庵がお手のものでなければならないから、お雪ちゃんの提出する一茎一草について、流るるが如く立派に答えつ教えつしてのけることも不思議ではない。道庵も多年この道で飯を食い、天下のお膝元で十八文の道庵先生といえば、飛ぶ鳥を落したり、落さなかったりしているのですから、医学と密接の関係がある本草ほんぞうの学問に於ても、そう出放題や、附焼刃ばかりで通るものではありますまい。お雪ちゃんが提出するほどのものは、いちいち苦もなく取って投げたが、そのうちに、ちょっと一つにひっかかって眼を白黒し、
「うむ、ええと、こいつは……こいつはちょっと難物だぜ、大医博士深根輔仁おおいはかせふかねすけひとの『本草和名ほんぞうわみょう』にもねえ全く変り種だ、だろう、多分なあ、こいつがそれ、キバナノレンリソウとでもいうやつなんだろう、しかとは言えねえがね。なんしろ、お前さん、この胆吹山というやつが、織田信長の時に、薬園相応の土地だとあって、五十町四方を平らげて薬草を植えたんだからな。その種類が、ざっと三千種に及んでいるということだから、道庵がいかに博学だって、お前、そうは覚えきれねえわな。それにお前、大医博士深根輔仁の本草ばかりじゃあ間に合わねえ、キリシタンバテレンの宣教師てやつが、あっちの薬草を持込んで植えてるから、どうもいけねえよ、キリシタンバテレンは昔から道庵のお歯に合わねえのさ」
と言って、道庵先生は、薬草の中のわからないのを一つごまかしてしまいました。
 お雪ちゃんは別に、道庵先生を困らせて手柄とするために難問を提出したわけではないから、そのくらいで打切って、そのまま、道庵先生に引添うて登りにかかりましたけれども、きりっと足ごしらえをしているに拘らず、道庵の足許が甚だあぶないのは、いよいよ以て先生のハイキングが怪しいものであり、お雪ちゃんが、白骨、乗鞍、上高地の本場で鍛えた確実なステップを踏んでいることがわかります。

         三十四

 お雪ちゃんは言いました、
「ねえ、先生、あなたもこの胆吹王国の一人として、わたしたちと一緒にこのやかたへ、末長くお住いになりませんこと」
「ははあ、そりぁなんしろ愚老一生涯の大事だから、そう右から左へ即答はできない。だがお雪ちゃん、お前さんという人は、わしぁ好きだね。お前さんのような娘が、しょっちゅう傍についていてくれるところならば、永住してみてもいいと思うが、いったい、その胆吹王国というのはどういう性質の組合なんだか、そいつを聞かしてもらいてえ」
「王国なんて、ずいぶん僭上せんじょうな呼び方かも知れませんが、不破ふわの関守さんが、冗談におつけになったんですから、お気になさらないでお聞き下さい」
「そりゃ、帝国なんて言おうものなら口が裂けるけれど、王国ぐらいならいいさ、三井王国みついおうこくだの、鴻池王国こうのいけおうこくだの、ずいぶん言い兼ねねえ」
「このことの起りは、あのお銀様の頭脳あたま一つから出たことなんです。あのお銀様って、どうも不思議なお方ね、とても頭がいいんです、それに、どのぐらいお金があるか底の知れないというお家にお生れになったんですから」
「ははあ、道庵なんぞはそれと正反対だね、頭の悪いことは無類だし、お金なんぞは商売物の薬にしたくもねえ――」
と道庵が、げんなりしたが、お雪ちゃんは悄気しょげませんでした。
「そうして、この胆吹山の麓に、見渡す限り広大な地所をお求めになったのです、今はとりあえず身近の人たちだけの館を造っておりますが、これから大きな御殿を建てて、望みを持った人たちにはみんな集まってもらい、今の世間と全く違った世界を、この胆吹の山の麓に新しくこしらえ上げるんですって」
「なるほど――」
「そこで、この胆吹王国では、どうも少しむずかしい言葉なんですけれど、人間が絶対に統制されるか、そうでなければ絶対に解放されるんだと、関守さんも申しておりました」
「うむ、なかなかむずかしい」
「それにはまず、ここに住む人たちがみんな、自給自足と言いまして、生活は直接に土から取って、人に衣食をさせてもらわないこと、人に衣食をさせてもらいさえしなければ、人間が人間に屈従しなくてもよろしい、ですから、ここに集まる人は、自分で自分の食べることだけはしなければならない、それが自由にできるようにして上げるのだそうです」
「それは賛成だね、国中へごくつぶしを一人も置かねえということになると、みんなの励みにならあ。だがねえ、お雪ちゃん、そうしてみんな働いて衣食を生産して食うということになると結構は結構だがね、まあ、愚老はまず商売柄のことから言うがね、病人が出来たらどうするんだ、病人が――病人を取捉まえて衣食を生産しろとは言えめえ」
「そりぁ先生、そんなことは人情で分っているじゃありませんか、誰も好んで病気になる人はありませんから、病人が出来れば、当人にもゆっくり休ませるように、その仕事は、いくらでも代ってして上げるようにできるじゃありませんか」
「そうか、それはそれでいいとしてだ、では、病人に対するお医者の方へ廻るがね、お医者をどうするんだ――なかなかこれで、十年や二十年薬研やげんをころがしたって、誰にも代ってやれるという商売ではねえ――」

         三十五

「ですから、その道の人はその道の人を頼まなければなりません、その道の人を頼むと言いましても、なかなか変った人でなければこういうところへは来てくれません、来てくれるような人は未熟の人か、世間を食い詰めたような人、そこへ行くと先生なんぞは、人間も変っていらっしゃるし、腕の方も大したものですから、先生のようなお方がこの胆吹王国にいらしって下さると、ほんとうに願ったり叶ったりだと思いますわ」
「こいつは見立てられたね――」
 道庵は頭を丁と一つ平手で叩きました。
「ですからね、先生、お江戸の方はお弟子さんに譲って、ぜひこちらへいらっしゃいよ、ここならば京大阪は近いし、江戸へおいでになりたければ一足で海道筋です、わたしがついていますから、お身の廻りのことは御不自由はおさせしませんから、別に億劫おっくうなお気持をなさらずに、胆吹山の別荘へ御隠居をなすったと思って、こちらの人におなりなさいな」
「お雪ちゃんに、そう言って口説くどかれると道庵たまらないね、ついふらふらと、その気になってしまうよ」
「その気におなりなさいまし、わたし一生懸命、先生を誘惑するわ」
「誘惑は驚いたね。だが、この年になって道庵も、お雪ちゃんのような若い娘に誘惑されるなんぞは嬉しい、嬉しい」
「先生がお連れになった、あの米友さんだって、もうこっちのものよ」
「そうして、我々仲間をみんな誘惑して、胆吹王国の一味徒党の連判状にしようなんて罪が深い!」
「ですけれど、むりやりに首に縄をつけてもというわけじゃありませんのよ、相当の理由があればいつでも組合をはずれていいことになっておりますから、そこは安心して、ともかくも先生、少しの間この組合に入ってみて下さらない、わたしも、はじめのうちはあのお銀様というお方が、全く気の置ける、怖い、やんちゃな、我儘わがままなお嬢さんだとばっかり思って、縛られたつもりでいましたが、だんだんわかってきてみると、全く感心させられてしまうところがありますのよ。それは、あのお嬢様には、性格としてはずいぶん欠点もございますけれども、それはあの方の周囲の境遇がさせたものだということがよくわかってみますと、わたしはあのお銀様の本質は、どちらから見ても立派なものだとしか思われません。だんだんにお銀様の怖いところがなくなって、その偉いところに感心させられるようになってしまい、今ではあのお銀様の仕事のためならば、身体からだを粉にしても助けたい、そのお志を成就じょうじゅさせてあげたいと、こんなに考えるようになりました。ですから、わたしは、もうこれから、あのお嬢様のために口説き役をつとめます、それこそ、いま先生のおっしゃる通り、誰でも、これぞと思った人はみんな誘惑してこっちへ引きよせることにはらをきめました」
「そうはらをきめられちゃあ、もう助からねえ」
 道庵が悲鳴に類する声を上げるのを、お雪ちゃんが起しも立てず、
「ねえ、先生、ですから、京大阪を御見物になって後、一旦お江戸へお帰りになるならなるで、それはお留めはいたしませんが、お江戸の方をしかるべく御処分なすって、ぜひ、こちらへいらっしゃいね。ね、約束しましょう、げんまん」
「どうも、そう短兵急にせめ立てられちゃあ、道庵、旗を巻く隙もねえ」

         三十六

 こんな問答をしながら、薬園のあたりから道庵先生を程よいところまで送って、お雪ちゃんは、ひとり上平館へ帰って来ました。
 帰って来るとお雪ちゃんは、目籠を縁側へ置いて、姉さんかぶりを取ると、いつものお雪ちゃん流の洗下げ髪を見せ、やかたの工事場の方へ、とつかわと出て行ったが、そこには工事監督の不破の関守氏が行者のようななりをして立って、早くもお雪ちゃんの来るのを認めている。お雪ちゃんが、
「関守様、あのお医者の先生とお薬草を調べに参りました、お銀様はまだお帰りになりませんか」
「それそれ、心配するほどのことはありませんでしたよ、お銀様は長浜の町へ行っていらっしゃるんで、今の先、使があったんだ。でね、ちょっと思い立って長浜まで出かけたが、ここへ来てみると、どうしても湖水めぐりをしてみたいとおっしゃって、これから長くて六日一日の間に八景を舟で一まわりして来るつもり、あとのところをお雪ちゃんと拙者に万事御依頼するから、よろしくという使の手紙なんだ」
「まあ、お銀様がお一人で湖水めぐりをなさるんですか」
「いや、そういうわけではない、この手紙の内容によって察すると、弁信殿も、米友公も、よそながらお銀様が遠眼をつけていらっしゃるようだから、ことによると、あの連中をみんな一緒にして、舟を一つ借り切って遊覧をなさるつもりかも知れない、そうでなくても、この浜屋という宿は拙者が心づけをしてあるから、お銀様の身のまわり一切、心得て世話をしてくれるはずだ、ともかく、この七日ばかりの間は、お雪ちゃんと拙者が、万事この王国をあずからなければならん」
「湖水めぐりをなさる時には、必ずわたしも連れて行ってやると、お銀様はおっしゃっておりながら、それに弁信さんとも約束をしていたはずなのに、みんな、わたしを置いてけぼりにして行ってしまいなさるのが口惜くやしいわ」
「いや、なに、そういうわけではない、あの連中のやることは、てんでに気の向き次第だから、約束が約束にならないところに妙理があるのさ。というものの、我々に後を託して置けばこそ、気まぐれに他出ができるという信頼が、こっちにあるからなんだ。つまり、お雪ちゃんとこの拙者に王国を任せて置けば、七日や十日留守にしたからとて心配がない、と思えばこそなんだ。そこまで信頼されているとすれば、留守居もまた妙じゃないかね」
「わたしなんぞは何のお役にも立ちませんけれど、そういうわけでしたら、喜んでお留守をつとめましょう、事がわかりさえすれば、どのみち安心でございます」
「お銀様のことだから、きっと、相当の船を一ぱい借切って、自由自在に湖の中を乗り廻し、思う存分に見物をしておいでなさるに違いない、我々は、われわれとして、入り代りにひとつ第二軍を実行させてもらいましょう。どうです、江戸のあのお医者の先生にも少し逗留とうりゅうしていただいて、あの先生をひとつ長浜から、大津まで送りがてら、お雪ちゃん、拙者をはじめ、同志を募集して湖上遊覧の第二軍をこしらえようじゃありませんか」
「それは結構でございますが、あの先生が、それまで待っていらっしゃるかしら。大津に、お連れの方がお待兼ねになっていらっしゃるようでございます」

         三十七

 不破の関守氏とお雪ちゃんがこんなことを話しているところへ、仕立飛脚が一人、息せき切ってやって来ました。
「ちょっと、ものをお尋ね申します、この辺に、甲州の有野村からおいでになった藤原と申すお宅がございますまいか」
「甲州の有野村――藤原ですって」
 不破の関守氏が小首をひねると、お雪ちゃんは早くも合点がてんして、
「お銀様のことですよ、お嬢様の御実家のお名前なんです」
「ははあ――それに違いない、改まってそう聞かれると、ちょっと戸惑いをする。時に飛脚さん、何ですか、御用は」
 不破の関守氏が改めて仕立飛脚の方に向き直ると、
「お手紙でございます、甲州の有野村の御実家から、お嬢様のところまで頼まれてまいりましたが」
「そんなら間違いはありません、ここがその藤原家の御別荘なのです」
「では、そのお嬢様は、ドチラにいらっしゃいますか」
「お嬢様は只今、ちょっと外出をなされたが、拙者共が万事、留守を預かっていますから、お申し聞け下さい」
「さようでございますか、直々じきじきにお手渡しをしたいのですが、いつごろお帰りでございましょうかな」
「さよう、長浜の方へ行かれましてな、湖水めぐりをなさる御予定だから、六日一日くらいはお帰りあるまいかと思うています」
「それは残念でございました、では、あなた様にお手渡しを致します、このお手紙――しるしにちょっとお手判をいただきたいものでございますな。それから、お手紙のほかに、ちょっと口頭で申し上げて置きたいお言伝ことづてがあるんでございますが」
「では、こちらへいらっしゃい」
 関守氏は仕立飛脚を導いて、自分の監督部屋の方へと連れ立ちながら言いました、
「それはそれは、甲州から日限仕立ひぎりじたてで、それは御大儀のことでござったな。幾日かかりました」
「四日かかりましたよ」
「四日間、それはそれは」
「実は、その有野村藤原の御当主――お嬢様には父親のお方でございますな、その方が急に思い立ちになりまして、上方見物に出るとおっしゃってお出かけになりましたんですが、上方見物は口実でございまして、実は、たった一人の、一粒種のお嬢様、お銀様とおっしゃいますそのお方が、上方で何をしていらっしゃるか、それを見届けたいためなんでございます。おっつけ、そのお嬢様のお父上、すなわち伊太夫様とおっしゃるのが、これへお見えになることと存じますが、それに先立ちまして、藤原家のお番頭さまから特に頼まれましてな、こうして日限飛脚でやってまいりました。実は、それで、お手紙はお嬢様へ――それから別に、口頭で申し上げるように頼まれてまいりました文句は別でございますが、あのお嬢様にお附添でまいりました江戸の女の方――さよう、お角さんとかおっしゃいましたな、あのお方もこちらに御厄介になっておいででございましょうな」
「いや――その方は、おられません。とにかくあちらで万事」
 関守氏が飛脚を導いて行くと、お雪ちゃんは、
「では、関守さん、後ほど」
と言って、辞して自分の離れの方へと帰りました。

         三十八

 不破の関守氏は、仕立飛脚を連れて、自分の座敷の縁へ座布団をしいて腰をかけさせ、自分は室内の机の傍に控えてこう言いました――
「いや、それは、こちらでもようくわかっているのですよ、我々はお銀様に対して、いま絶対服従の地位にいるのです、お銀様の計画のもとに、お銀様の出資の下に、お銀様の理想の下に、一から十まで服従して仕事を助けているのです、どうして、我々の力であのお銀様をそそのかして、誘惑したりすることができるものですか。我々の頭よりは幾倍の優れた頭を持ち、我々の計数よりはずっと優れた計数でなさるんですもの、我々がお嬢様をかついだり、おだてたりして、こんな仕事をおさせ申しているのだとお考えになると、大間違いですよ」
と、関守氏から言われると、仕立飛脚も幾度かうなずいて、
「それはもう、仰せの通りでございます、あのお嬢様に逢っては、御両親一同、誰もかないません、父上の伊太夫様でさえ、どうにもこうにもならないのでございますから、あなた様方が、どうのこうのと言うわけではございませんが、今度のことは一番、大事の上の大事でございましてな、あのお銀様が自分の持分の財産を、すっかり新しい事業に注ぎ込んでおしまいになる、口幅ったい申し分でございますが、有野村の藤原家と申しますれば、あの国でも二と下らない分限ぶげんなのでございますから、お嬢様の分として分けてある財産だけでも少々のものではございませんのです、それをやらないと言えば、またあのお銀様が、どういうね方をなさるかわからず、分けて湯水のように使わせてしまった分には、御主人はとにかく、親類や家の宰領をする番頭の役目が立ちませぬ。それに、いよいよそうなりますと、御主人の伊太夫様も世をはかなんで、高野山へ隠れるとかなんとかおっしゃり兼ねないのでございます。でございますから、今度のことは、いわば藤原家の破滅の瀬戸際と申すような場合なんでして、それで、親類や、支配人のお方が相談して、御主人の伊太夫様がこれへお着きになる前に、お銀様の様子を見届けた上で、その傍について仕事を助けている人たちのうちにも、物のおわかりになる方もございましょうから、その方にお目にかかって、こういうわけだということを一通り呑込んで置いていただきたい、そうでないと、伊太夫様が乗込んで、またお銀様と、旅さきではげしい親子争闘でもなさろうものなら、手のつけようがない、こういう心配から、わたしが頼まれて、伊太夫様がお立ちになる前に、抜けがけをして、これまでまいりましたような次第でございます」
 飛脚が長々と物語るのを、関守氏はなるほどと聞きました。
御尤ごもっともです。ですけれど、われわれがお附き申している上は、その辺はまず御安心くださるようお伝え願いたい――拙者は、つい先頃まで、昔の不破の関屋の跡の留守番をつとめておりまして、もとは名もなき中国浪人なのですが、つまらないことから国を出て、もうかなり娑婆しゃばは抜けました、人を焚きつけてうまい汁を吸おうなんぞという骨折りは頼まれてもやれません。しかし、お銀様のなさることは、空想のようで、必ずしも空想ではないのです。どうせ、この浮世のことですもの、永久に牢剛なるものとてはあるはずはない、まず、やるだけやらせてみることです、思ったほどに危険はありませんよ」

         三十九

 飛脚とはいえ、ただ通信機関の役目を果すだけの使ではなく、よく情理をみ分けて話のできる相手だと思いましたものですから、不破の関守氏も洒落しゃらくにことを割って話しかけたようです。
 座敷と縁とで、二人がこうして話し合っている間、上手かみての方では、のみかんなの音が相当にぎわしいのですが、一方のさびしい庭の木戸口から、不意にこちらへはいって来たものがありました。
 それは、女の子ですけれども