一
田山白雲は北上川の
舟の出発を
田山白雲は
その人物は、すでに人混みの
「奥州にも気の短い奴がいる!」
と、田山白雲が思わずこちらで舌を捲きました。
「奥州にも気の短い奴がいる!」と田山白雲が思わず舌を捲いたのは、奥州人はすべて気の長いものと前提をきめてかかったわけではなく、ここで渡し舟の徹底的スロモぶりに
この大菩薩峠作中の人物では、宇治山田の米友という人物が、やはり同様の堪忍なり難い癇癖を持っていて、直接行動をやることに馴れている――それは田山白雲とも一面の識はあるのだが、あの男が今この場へ飛び出して来ようはずはない。
右の裸男は、最初のうちは、こちらを
「ははあ、差しているな」
と、田山白雲が再び遠眼鏡を取り上げました。
差しているな! と言ったのは、一本か二本差しているという意味ですが、一本差すことは、旅の百姓町人といえども、道中を限り許されていることであり、それにも長さに限度がある。あの裸者の頭へ載せたのは、普通平民に向っては制限以上に長いから、少なくも士分に属するものだろうと思われるのだが、その一本の刀の長さが長過ぎるのに比例して、他の一本の脇差の所在がわからない。あの頭上の衣類の中に隠されてでもいるのか、そうでなければ、これは一本だけ特に長いのを
二
田山白雲が、まだその辺に疑問を持ちながら、多大の好奇心を以てながめていると、右の男の泳ぎっぷりが痛快で、たしかにこのごろはやる水府流を行っているようだ。深いところはあんなにして抜手を切り、中辺のところは乳あたりまで浸して悠々と横行し、浅瀬はしゃんしゃんと
「おーい、どこ行くでア、戻って来もせやい、てんことない、
右の通りハッキリ聞えるわけではないが、向う岸で声をからしての怒罵号叫は、渡場を守るところの船頭共がこうも言ってさわいでいることに間違いはないのです。
つまり、この裸男の直接行動は、渡場というものの
そこで当然、警告を無視された向う岸の船頭が、怒号と共に
「やれそれと、のぶとい奴じゃ、
そこで、この川原の中の裸男は、両岸から船頭の怒号の機関銃を浴びせかけられたような立場になりましたが、いっこう立ちすくみもしないで、予定の行動をとっているのです。
こうなってみると田山白雲も、なるほど、あの短気者の挙動は、一応痛快には似ているけれども、理由としては、船頭の方に充分の根拠が無いではない。
緩慢は緩慢として、スロモはスロモとして、それは責めてよろしいが、緩慢であるが故に、スロモであるが故に、渡し船の存在しているところを、身を以て直接行動をとってよろしいという理由にはなるまい。
「ここは一応、船頭の言い分を立てて、立戻った方がよかろう、そうして置いて、彼等の怠慢ぶりをとっちめてやる時には、我等も相当の義憤を以て応援する」というような気持にまで田山白雲も緩和されているけれども、当面の裸男は一向ひるむ様子も見えず、大手を振って堂堂と川渡りを決行して来る挙動が、かなり大胆不敵なものであって、見る人に、好奇以上の恐怖と、警戒とを与えずには置きませんでした。
ああして白昼堂々と川破りを決行するからには、捨身でかかっているのだ、だから何をしでかすかわかったものではない――という恐怖心が、すべての人の頭を襲いました。
そうしているうちに、あちらの岸の渡頭から、
三
この際、法螺の貝の音には田山白雲も、多少おどかされざるを得ませんでした。
相当
向う岸で
法螺の貝の音が聞え出すと共に、あちらの畑や、こちらの木蔭や、川にもやっていた舟の底なんぞから、一人、二人、三人、四人、続々と人間が首を出して来て、いずれもかなり不穏な
「これは存外、事が重大になりそうだわい」
田山白雲は、自分の身の上に何か相当の危難が降りかかりでもするかのように、川の中の強情者の行動を改めて
不安の目的物たる存在が、現在、眼の前にいるのですから、問題としては、複雑した事情というものは更に無いのです。万一、これが夜分であるとか、あれがまた川を縦に走り出した日には、川上へ行っても、川下へ下っても際限が無いのですけれども、川を横切って、そうしてこちらを向いて、白昼たった一人でやって来るのですから、その取扱いは極めて簡単明瞭といわなければなりません。言葉を換えて言ってみると、向うから追い落した
かくして右の裸の人物は、無事にこちらの岸に到着してしまいました。法螺の貝の
「寒いことざえ、
時は初秋とはいえ、北地は寒い。ああして
それから衣類を解きにかかって一着に及びました。帯も極めて
「あ、
裃ではない、袴だけです。その袴とても、彼等が見てこそ裃だが、田山白雲あたりが見たのでは、あんまり感心した袴ではないのです。
さて、この短い袴をつけてから、次に長い刀を取り上げて腰に差しました。
四
その刀の長いこと――袴が短かかっただけに、特に刀の長いのが目立つのでもあろうが、刀そのものを独立させて見ても、たしかに世の常のものよりは長い。それがこの場合、ことさらに長く見えるのは、短い袴が引立て役をつとめているばかりではない、今まで人品骨柄のことは言わなかったが、本来この男の人の身の丈が、普通人よりはずっと低くして小さかったのです。すなわち
田山白雲は、
その一枚絵を思い出して、思わず微笑しないわけにはゆきませんでした。本来は、突然こういう微笑だけでは済まされない、まず
長い刀は差し終ったが、脇差に至っては、その以前に手早く差し込んでしまったのか、或いはまだ差していないのか、その辺がわからないうちに、右の人物は鉄扇様のものを手に持って、太鼻緒の下駄を足に突っかけて、河原の石をガランゴロンと踏み分け、両肩を
白雲は、もはやこの男の人品骨柄から、衣類持ちものまでも見るのに遠眼鏡を要しません。頭こそ元服はしているが、年齢はまだ若い――おそらく十七八歳を出でまいと見られる若者でした。袴を穿き、鉄扇を持っている。長い刀、それは最初遠目に見たところと更に違いはないが、問題の脇差はついに見当らないということに結着しました。
つまりこの男の腰には、長い刀の一本だけ横たわっていて、そうして他の差添えというものは何もないことを知ってみると、どうも変則な武装だと思わずにはおられません。
脇差はどうしたのだ。
差し忘れたのか、本来差して来なかったのか、それとも、只今の乗切りで川の中へ取落しでもしたのか。
田山白雲がよけいな心配までしてやっている時分に、
「あぎゃん、こぎゃん、てんこちない、たんぼらめ!」
「渡し場には渡し場の掟ちうもんがあるのを知らねますか?」
「そぎゃん川破りをお達し申せば、お関所破りと同罪ぎゃん!」
「
「けそけそしてござらあ。いってえ、こんたあ、どこからござって、どっちゃ行く!」
「わや、わや、わや」
思いきって土音雑音を発揮するらしいが、別段、手出しには及ばないようです。
五
取巻く土地の人々が、思い切って土音を発揮する上に、取巻かれている当の男が、またその男特有の地方音をもってあしらっているのだから、白雲の耳に、そのまま移すことができないのは道理だが、しかし最初からの事情は
「わしは道を急ぐから、川あ越して来たまでのこんじゃ、それがどうした。いったい、貴様たち、人を責める前に、なぜ自ら顧みることをせんのだ、かように両岸に人が
「わや、わや、わや」
川破りが抗弁すると、それを取巻いた
田山白雲は、ともかくその現場へ行って見るために、その小高いところを下りながら川の手を見ると、矢を射るように――と言いたいが、川の流れを横切るのだからそうもいかないが、かなり勢いこんで
そこでまた踏みとどまって、遠眼鏡を取り直して、まず早舟の方を見ますと、中には相当の士分が、同心と、村役人のようなのとに附添われて乗込んでいるのを認めて、何か役向の出張だなと感づきました。
同時に、役向とすれば、いずれの藩の役人か。自分はすべて仙台領とばかり信じて、ここまで来ているのだが、川一つ向うは、もう南部領にでもなっているのではないか。仙台領と南部領とは、かなり入組んでいると聞いたが、領分が違ってくると、これで自分の旅をする気分も相当に変えねばならないことがあるものだ。
漂浪を生活としている自分は、習い性となって、これでおのずから、
田山白雲は、こんなような考えを起して、いったん下りかけた小丘を、また頂上まで上りつめて、そうして、遠眼鏡を取り直した時分に、早舟は早くも岸へ着きました。
六
今まで、船頭共だけであしらい兼ねていた問題の川破りの男が、やがてこの早舟で来た役人たちの取調べに引渡されてしまい、そこで役人たちが川破りを受取って、実地取調べにかかる段取りになってみると、白雲もここに超然とは落着ききれないものがあると見え、どうしても一歩一歩と高きを下らざるを得なくなって、ついに人垣の後ろへ立って、いちぶしじゅうを見届けることになりました。
臨時予審廷といったようなものが、渡頭の上の茶店の内から外へ
「君はドコから来た」
役人は、土地の船頭共のように
「南部から来申した」
「南部のどこから来た」
「
「恐山? 恐山に住んでいたのか」
「
「何の修行を?」
「何ということなく、あの山で修行をしていた」
「八戸に生家がござるのか」
「ござる」
「身分は――」
「父はお山改めだ」
「そうして君は?」
「その二男だ、上には兄貴があって、下には妹がある」
「ふーむ、それが、この地方へ何しに来たのだ」
「江戸へ行こうと思ってやって来たのだ」
「江戸へ、何の目的で?」
「何の目的ということはないが、江戸は天下の膝元ということだから、そこで修行をしたい」
「君は最初から修行修行と言うが、修行にもいろいろある」
「もちろん、修行にもいろいろあるが、まず一匹一人の修行をして、男になりたいと思っているだけだ」
「一匹一人の修行というのも変なものだが、とにかく、道中の手形は持っているだろうな」
「それは持っている」
「見せてもらいたい」
「この通り」
川破りは、懐中袋から相当のものを取り出して役人に示しました。それでも感心に、御法通りのものは持っているらしい。
「八戸城下
「左様」
役人はそれを見て、一応は納得したようでしたが、続いてその訊問が、眼前に
「君、君の刀は大へんに長い」
「長いです」
男は役人の
「三尺五寸あります」
「素敵に長い――抜けるかね」
「抜けない刀は差さん」
「ひとつ、抜いて見せてくれないか」
「見せ物にするために差した刀ではござらぬ」
「とにかく抜いて見せ給え」
「見せるために抜くべきものではござらぬ」
「それを見たいのだ」
今まではかなり温顔にあしらっていた役人が、はじめて多少の威権を示しての言葉でしたから、見物の者をヒヤリとさせました。
七
一方のは刀は見せ物ではないというのです。抜いて見せろと言っても、抜くべき理由と事情が無い限り、抜けないというのが一方の主張で、それをやや高圧的に、是でも非でも抜いて見せろ――とカサにかかり出したのが役人側の態度でした。
こうなると、一方が威権に屈従しない限り、職権の発動とならなければならない。その雲行きを見て、附添って来た村役人の老巧らしいのが、
というのは、南部の盛岡の城下で、つい数日前、人を斬って逃げた者がある。斬ったのは何者かわからないが、斬られたのは家中でもかなり身分の重いものであるらしい。その犯人の
右のように説明されてみると、あながち役人が
立聞きをしていた田山白雲も、これはまず役向の要求として無難なことであるとは思いました。
その理由を、むずかしい
「では、抜いてお目にかけよう」
と言いました。
「どうぞ」
「しかし、抜くには抜くが、一度限りでござるぞよ」
と柳田が念を押しました。
「もちろん、一度限りでよろしい」
役人も
「身共は恐山の林崎明神のお堂でちっとばかり居合の稽古を致したにより、流儀によって抜いてごらんに入れようと存じ申す」
「それは一段のこと」
「流儀によって、一度だけは抜いてごらんに入れ申すが、二度は相成りませぬぞ」
「念を押すまでもないことじゃ」
「では、抜いてお目にかける」
柳田平治は、少し前の方へ進んで身構えをしました。
どうして、あの小男が、あの長剣を抜くか、長井兵助や、松井源水を見つけないこの地方の人々には、少なからぬ驚異でありましたが、田山白雲もまた
八
刀の中身を見たいと言うので、刀の抜きっぷりを見せてくれと言ったわけではないから、こう物々しく前へ出て身構えをし直さなくともよかりそうなものだと思われないこともない。素直に、「いざ、存分にごらん下さりましょう」とかなんとか言って、
その時、田山白雲が見ると、柳田の目つきが尋常でないと思いました。血走っているというわけでも、殺気が
田山白雲も、少々居合の心得が無いではない。「こいつ相当にやるな!」と思ってこの男の人相を見直すと、頭のところの
そこで、改まって茶店の前で身構えをした時には、役人をはじめ、見ている者が、なんとなく穏かでない気分に襲われました。
やがて、腰のところへ手をあてがって、いわゆる居合腰になったかと見ると、スラリと水の出るように三尺五寸の長い刀を抜き出して、そうして、それを役人の目の前へ持って来て、ピカピカ二三べん
「ごらん下されたか」
「うむ――」
「いかがでござりましたか」
「うむ――」
役人は、もう一ぺん改めて抜いて見せろとも言わず、こちらへよこせ、自分で抜いて見届けて
見物の中には、わき見をしていたために、この男が長い剣を抜いた抜きっぷりを見なかったのみならず、中身はもちろん、それを鞘に納めたのまで見損ったものもありました。まだ抜かないのだな、まだ抜いて見せないのだな、これからが勝負だとばかり思っているうちに、
それですべてが落着して、さしもやかましかった川破りも、刀調べの結果も、何のお構いも、お
九
長剣短身は変らないが、その歩きっぷりというのが、さいぜん河原の中で見た挙動とは、また打って変った趣きがある。
それは小男としては大股に歩くのですが、足には太い鼻緒の高下駄で、そうして肩で風を切るというけれども、その風の切りっぷりが鮮か過ぎるので、少々身をうつむきかげんにして、右の肩が先に出る時には、それと共に右の足が著しく進出して、後ろの肩が思い切って後退する。左の肩が出る時は、左の足がそれに準じて大股になると共に、右の肩が思い切って後ろへ開かれる。その早足の調子と相待って、ぎくしゃくとした形、どうしてもおかしからざるを得ないのです。
けれども、その
さて役人の方は、これだけの査問が終ると、少々テレ気味で引揚げ、以前の早舟に飛び乗ると、さっさと舟を向う岸へ戻させてしまいました。その最後に当って、通常の旅客を満載した定期の渡し船が、向うの岸からこちらの岸へ到着しました。
それと入り代りに、こちらに待兼ねた士農工商が、いま到着した渡し船に、普通ならば我先に乗込むのですが、今日は二の足を踏む者が多いのです。
それというのは、向うから着いた旅客に向って、この際、向う岸の動静を聞いて置きたいという心持と、あちらから乗込んで来た一行も、何か事の仔細を、新たに向うへ渡ろうとする旅客に話しかけようとする気分が動いていたからで、そういうことに頓着ない老人子供などは、先へ乗込んだけれども、なかには、まだ一舟遅らせても新来の客と話し込んでみたいという者もありました。それがカチ合って、茶店の中での問答に興が乗ってきました。
今度は、物騒な川破り男もいないし、役人も行ってしまったから、心置きなく乗合衆の世間話に興が湧き上って来る。
田山白雲としても、この際、ちょっと立てなくなりました。只今さっさと風を切って立去ったところの、あの長剣短身の男の行方もどうやら気になる。そうかといって、この場へ
「えらいことじゃ、南部の御家老様のお嬢様をそそのかして、連れて逃げた奴がござる、その追手じゃな――それと前後してからに、南部の御城下で、お歴々の首を斬って立退いた奴があるとのことじゃ、それでお目つけがああしてお調べにおいでじゃわい」
と、向う岸から来た乗客のうちの年配なのが、土間の炉端の
よし、事のついでだ、ここで一番、川魚でもあぶらせて、腹をこしらえてやろう。こっちもこれから前途相当に多事である。なんにしても腹をこしらえてのことだ。
白雲は、どっこいしょと腰を据え直し、持参の
十
割籠を開いて、川魚をあぶらせ、腹をこしらえながら田山白雲は、向う岸から新来の乗合客のゴシップを聞いていると、最初に齎されたところのもの以上には詳しいことを知ることはできなかったけれども、要するに、南部の家老の非常に美しいので有名なお嬢様を、そそのかして連れ出した悪い若侍がある。悪い奴だけれども美しい男で、それに腕が
右のうち斬捨てられた軽からぬ身分の者というのが、どのくらいの程度のものであるかよくわからないが、どうも前後の話を取合わせると、右の悪い若侍がそそのかして連れ出した娘の父であるという家老ではないか、家老であるところの父を斬って、その子であるところのお嬢様というのをそそのかして連れ出したのではないか、というように想像されてならないが、話の筋道は全く事件と性質を異にしたものになっている。
事件と性質とを異にしていても、いなくても、前者の事件には、今の長剣短身の男は絶対にかかわりがないと見なければならない。美しいお嬢様なり、姫君なりを連れての
だが――第二の事件、別に盛岡の城下で、身分の軽からぬものを斬って捨て、行方をくらましたというのへ当てはめてみると、あの男に相当ピタリと来るものがないとは言えないのだ。あの男ならば、意趣や遺恨は別として、単に
その危険性は白雲もまた、充分に見て取っているのだ。ああいう際には、暫く不問に附してみることも、役人として卑怯なりとは言えない。だが、あの当座だけ大目に見られた御当人が、これから先、あの調子で、江戸まで往来が
いや、飯も食い終った、乗合も散った、さあ出かけよう、と田山白雲が若干の茶代を置いて、この渡頭の茶店を立ち出でると、出逢頭に、のこのことこの場へやって来たものがありました。
見ると、それが今の思出し男、恐山から来た柳田平治に相違ありませんから、白雲も思わず、たじたじとしたことです。何をどうしたのか、先刻あれほど肩で風を切って出かけて行った男が、なんとなく浮かぬ
十一
「どうしたのだね、君」
あまりのことに、田山白雲が身近く寄って来たところのこの男に向って、かく呼びかけざるを得ませんでした。
「忘れ物をしました」
「忘れ物、何を忘れたのです」
「手形を忘れました、旅行券を」
「なるほど――」
その手形というのは、さいぜん、現にここで、この男が懐中からさぐり出して役人に提示して見せたのを、現に田山白雲も見届けておりました。
あの際、紛失したのか、或いはここを出て暫く行く間に取落しでもしたものか、いずれにしても、
しかし、事実はここで役人に提示したのだから、これよりあとへ飛んで戻るはずはない。柳田平治はまず店先よりはじめて、その辺を
柳田はついにその長剣を背中へ廻して、低い縁の
さしもの豪傑も、ここに至っていたく銷沈気味でした。
茶店の
「もうやむを得ん」
と言って柳田平治は、腕組みをしたまま突立って、川原の
居合にかかろうとする瞬間である。問題はそこだ。そこでいったん懐中へ
「どうも見えないね、君」
白雲は慰め顔にこう言うと、腕を
「是非に及ばんです、いや、僕が悪いのです、こちらに隙があったからです、修行が足りないからなんだ」
「
再び白雲が言うと、
「いや、過ちではないです、僕のぬかりなのです、あの時、刀を抜く方に気を取られて内懐ろに隙が出来た、それが未熟の致すところなのです。あの時に取落したんじゃない、あの時に抜き取られたのです。しかも抜き取った奴の面までちゃんと僕は覚えているんですが、今となってはどうにも行かんです」
じっと、向う岸を
十二
向う岸を睨みながら、柳田平治が、なおひとり言のように言いました、
「役人の傍に変な奴が一人いたのです、今となってわかるのです。なぜわかるかと言えば、あの、僕がこれを抜こうとした瞬間に、誰の心もみんな僕に向って集中するのはあたりまえなんで、みんなの心が集中するから、こちらも精神の統一が出来て、わざがやりよいのです。しかるにあの時、役人の傍に一人だけ変な奴がいて、何か僕の
「人の手形を抜き取って何にするつもりだろう」
「何にするつもりか、それはわからんですが、単なる
「あきらめると言ったところで君、これから旅行免状なしに、どこへ行こうとするのだ」
「手形は無くても、道路があり、足がある以上は、行って行けないはずはないでしょう」
「そりゃあ理窟というものだ、君はまだ旅というものを知らない」
と、改めて田山白雲は、この青年に教訓してやる心持になりました。
この青年は旅を知らないが、自分は知り過ぎている。旅というものは、足だけでできるものではない、行路の難というものは、山にあらず、川にあらず、ということを、一席聴かせてやることが、この際、後進に対する重大な教育だと感じないわけにはゆかないのです。
そこで田山白雲が、この青年をとらえて、旅というものの教訓を始めようとする時に、この茶屋の前がまたにわかに物騒がしくなりました。
それは、往還の要衝たる渡頭のことですから、相当
二人は、押黙って、その光景を見ないわけにはゆきませんでした。
まず、真中に取りおさえられ、引き立てられている当人を見ると、それは、黒の
そうして、この茶屋の前を素通りしてグングンと引き立てられ、渡頭の方へと引かれて行くのは、舟で向う岸へ運ばれて行くものと見える。
思いがけない兇状持ち、それを無言で見送った途端、田山白雲の頭に
十三
上来の事件とほぼ時間を同じうして、距離に於ては向う岸の渡頭から南へ一里余を隔てた、
島田に結った髪がほつれてはいるけれども、花模様の着物の着こなしも、朱珍の帯のしめっぷりもきちんとはしている。だがまた、いやに艶めかしいところもあって、寝そべって、細くて白い、そのくせ
「つまんない」
と言いました。
そうすると、つい、その戸じまり
「ツマンナイコト無イデス」
と言う、がんまりした、その上、多分の寸伸びを持った応対。
見ると、そこに、不器用な手つきで、
「ああ、つまんない、つまんない」
女の方がいよいよ
「アア、ツマンナイコト、チットモナイデス」
「マドロスさん、お前の言ったことはみんな
「デタラメデナイデス、本当デス」
「一つとして本当のことは無いじゃないか、この海を一つ乗りきりさえすれば、外には
十四
娘がずけずけと不平を並べるのを、男はハイハイと頭を下げて、
「モ少シノ辛抱デス、オ嬢サン、ココデ仕度ヲシテ、ソレカラ海ヘ出ルデス、海ヘ出ルト黒船ガ待ッテイルデス」
「当てにならないね、マドロスさんの言うことは」
「当テニナルデス、今ココヲ逃ゲ出スト、人ニ見ラレルデス、人ニ見ラレルト、黒船ニ乗込ム前ニ捕マッテシマウデス、モ少シノ辛抱カンジンデス」
「もう、わたし、辛抱がしきれない、誰かに見つけ出してもらいたいわ」
「見ツケラレルト
「怖かないわ、駒井の殿様は、そんなにきつく叱りはしませんよ」
「船ドサンタチガコワイデス、ワタシ袋叩キニサレマス、間違エバ
「そんなこと、ありゃしませんよ。もしかして船頭さんたちが、そんな乱暴をした時は、駒井の殿様が差止めて下さるわよ。それから、
「ソンナコト、イマサラ言エタ義理デハナイデス」
「ではマドロスさん、早く黒船へ乗せて頂戴な、黒船をここまで呼んで来て頂戴」
「ソレ無理デス、黒船大キイ、コンナ川ヘ入ラナイ」
「でも、この川もずいぶん大きいじゃないの」
「サ、オ餅、焼ケマシタ、オアガリナサイ」
と言って、一方の火にかけた鉄桿の上から、マドロスが真黒いものを一つ取って、娘の枕元へ差出すと、娘はちょっと横を向いて、ちらとその黒いものを見やり、
「何なのそりゃ、マドロスさん、いやに真黒なもの、何なの」
「焼餅デス、サッキ渡シ場ノ船頭サンカラ、貰ッテ来タデス、色ハ黒イケレド、ナカナカオイシイデス」
「わたしには気味が悪くて食べられない」
「食ベナイト、オナカスクデス、オナカスクト身体弱ッテ、コレカラ黒船マデ行ケナイデス」
「だって、食べたくない」
「オアガリナサイ、無理ニ食ベテ元気ヲオ出シナサイ」
「食べられません」
と言って、娘はこちらを向いてしまいました。この黒い焼餅こそは、先刻、このマドロスが
そういう思いをして得て来た生命がけの
「ああ、もう日が暮れるじゃないの、また今晩もこんなところで――ああ、わたし、いや、いや、誰か迎えに来て下さい、茂ちゃん――七兵衛おやじだといいけれど、あの人はいないし、田山先生だとなおいいけれど、あの先生も旅に出てしまった、誰か探しに来て下さい」
十五
「オ嬢サン、大キナ声ヲシテハイケナイデス」
「だって――今晩もまたこんなところで夜を明かさなけりゃならないとすれば、わたし、もうたまらない」
「モウ少シノ辛抱デス、日本ノ
「いやよ、マドロスさん、わたしはお前さんと苦労をするために、無名丸から逃げ出したのじゃなくってよ、お前さんが、あの大きな黒船に乗せて、御殿のようなキャビンの中で、王様のように扱われて、そうして異国の土地へ着けば、町々はみんな御殿のようで、金銀は有り余り、珍しい器械道具が
「オ嬢サン、ソンナ愚痴イケマセン、少シノ辛抱デス。デハ、ワタシ、アナタノタメニ唄ヲウタッテ上ゲル、コノ手風琴デ、世界ノ国々ノ、港々ノ唄ヲウタッテアナタヲ慰メテ上ゲルデス。今晩一晩ダケデス、明日コノ川下ルト海ニ出マス、海ニ出ルトソノ黒船ガ待ッテイルデス。サ、ワタシ、オ嬢様ノタメニ、世界ノ国々ノ、港々ノ唄ヲ何デモウタッテ上ゲルデス、オ望ミナサイ、外国ノ唄オイヤナラ日本ノ唄、ワタシタイテイデキルデス、八重山、越後獅子、コンピラ船々、追分、黒髪、何デモオ望ミナサイ」
と言ってマドロスは、立って一方の隅から手風琴を提げて来ました。これは無名丸備えつけの品を、行きがけの駄賃にかっぱらって来たものでしょう。
「いや、いや、唄なんか聞きたくありません、唄どころじゃないわ」
「船カラオ茶少シ持出シテ来マシタ、オアガリナサイ」
「何も欲しくありません。ああ、いやだ、だんだん外が暗くなる。帰りましょうよ、マドロスさん、ね、お
「イケマセン、イケマセン、モウ少シ落着クコトヨロシイ」
「いいえ、わたし、もう思い立ったら意地も我慢もないのよ、マドロスさん、お前、戻るのがいやなら、わたしは一人で出かけます」
「イケマセン、私、一生懸命ニ止メルデス」
だらしなかった娘が、バネのようにはね起きると、ばったが飛びついたように駈け寄って抑えたマドロスの眼つきは、今までのウスノロではなく、燃えるような執着を現わしていました。
「放して頂戴」
「イケマセン」
「馬鹿!」
「イヤ、馬鹿デナイデス、オ嬢サン、アナタ考エ無シデス」
「お前がわたしを
と言って、娘は力を極めてマドロスを突き飛ばしました。
十六
突き飛ばしたつもりだけれども、相手は飛ばないのです。
「オ嬢サン、アナタ、モウ、ワタシノモノアリマス、逃ゲラレマセン」
「ばかにおしでないよ、お前さんなんて、ウスノロのくせに」
「アナタ、モウ、ワタシニ許シタデス、ワタシモウ、アナタ離サナイデス」
「しつこい奴ね」
「アナタ、ワタシノモノデス」
「あ、畜生!」
いかに争っても、これは問題にならない、というより、もう問題は過ぎているのです。娘は全くマドロスに抱きすくめられて、身動きすることもできない。そうすると、急に娘の言葉が甘ったるくなって、
「ねえ、マドロスさん」
「エ」
「そんなに
「ワタシ、チットモ、アナタイジメルコトアリマセン、アナタ可愛クテタマラナイデス」
「可愛がって頂戴。可愛がって下さるのはいいけれど、それほど可愛いものなら、わたしを大切にして頂戴、ね、ね」
「大切ニシテ上ゲルデストモ、ワタシ、命ガケデアナタヲ可愛ガルヨロシイ」
「では、わたしも、もう
「無理ナコトシタリ、言ッタリ、ソリャ、オジョサン、アナタノコトデアルデス」
「仲直りしましょうよ」
「ワタシ、仲直リスルホド、仲悪クアリマセン」
「ですけれど、マドロスさん、今晩はまた寒いのね、この毛布一枚じゃ、どうにもなりゃしない」
「火ヲ焚クデス、夜通シ火ヲ焚イテ暖メテ上ゲルデス」
「では、焚火をして頂戴」
「ヨロシイデス」
マドロスは、
逃げるなら、この
「ねえ、マドロスさん、お
こう言われて、マドロスが全く
十七
相好を崩し、涎で身体をただよわせながら、マドロスが言いました、
「デハオ嬢サン、スペインノ歌ヲ一ツ聞カセテアゲルコトアリマス、スペインハ日本人イスパニヤ言イマス、イスパニヤハ果物タイヘンオイシイデス、唄モナカナカ面白イデス、オ婆サンモ、若イ娘サンモ、ヨク唄ウアリマス」
手風琴を取り直すと、ブーカブーカをはじめて、何かわけのわからぬ唄をうたい出しました。それを聞いていると、なんだか長く尾を引いた高調子の唄ではあるが、賑やかな音楽と言ったのに、妙に物哀しい音色を包んでいる。そこで、女がこう言ってたずねました――
「マドロスさん、今の唄、何という唄なの、なんだか琵琶を聞くような、悲しいところがあるわね」
「コレハフラメンコイウ唄デス、次ハタランテラ唄イマショ、ナポリイウトコロデ唄イマス」
とマドロスは前置きをして、また一種異様な音楽をはじめ出しました。
この甘ったるいマドロスが、フラメンコだの、タランテラだの名題を並べては、わけのわからぬものをやり出すのですが、女には、もとより何が何だかわからないし、また得意でやり出している御当人のマドロスにも、その音楽の本質がわかってやるのだかどうだか、それも
怪しいものには相違ないけれども、いいかげんの
本来、このウスノロのマドロスの生国は何国の者だかわかっていないのです。御当人自身にも、自分の国籍は判断し兼ねるのですが、ともかくラテン系のどこかの場末で生れ、そうして物心つくと共に、労働と漂泊に身を
好きといったところで、高尚な音楽を味わうほどの教養はなし、また特に教養以上に超出する天才でもなし、ただ、横好きというだけで、見よう見まねに音楽をやることが、まずこの男の唯一の趣味でもあり、生活の慰安でもあったでしょう。
ところが、地球上の津々浦々を家とするマドロスの境涯に、一つの恵まれた役得というのは、その国々に行われるところの異種異様の音楽なり、舞踏なりを、その国ぶり直接にひたることができるという特権でありました。
ですから、この唄にしても、日頃やる怪しげな舞踏にしても、
そこで、兵部の娘が、このマドロスの人品の下等なことと、その音楽の怪しげなことを忘れて、その怪しげな音楽を通じての、
十八
このマドロスのような下等な
この、野卑で、下等で、且つ眼色毛色まで変っている毛唐めの口車に乗ったのは、いつか知らず自分が、この毛唐の持つ音楽的魅力に捉えられてしまっていたのだということを、まだ当人は気がついていないのです。
マドロスそのものはいやな奴、身ぶるいしたいほど嫌なウスノロではあるけれども、こいつに音楽をやり出されると、どうしても誘惑を
名の知れない、わけのわからない、聞いたことも見たこともない国の音楽が、女の心を、それからそれへと捉えて行くのです。そのメロディよりも、ハーモニーよりも、まずそのリズムに。
兵部の娘は、日本の音楽は好きで、そうしてかなりの教養を持っておりました。それで、身近に茂太郎という絶好の伴奏者がいたものですから、それに仕込んだり、仕込まれたりして、音楽には異様に発達した何物かを備えていたと見てよいのです。
ところで、その耳をもって、全く聞き慣れない西洋音楽――といっても、怪しい限りのマドロスの演奏ぶりを、いま言ったような下地へ受取っているうちに、それが根を持って来るという段取りでした。
いま言う通り、唄の文句は全くわからないが、メロディを捉えることに於ては、この女に相当の教養があり、そのリズムに動かされると、心酔し
女はもう、しんとして聴き
「マドロスさん、何という曲だかわたしは全くわからないが、聞いていると泣けてしまってよ、泣かずにはいられなくなってよ」
と、その一曲が終った時、女は
「何という唄だか知らないが、聞いているうちに、何とも言えない熱い情合いがうつって、たまらない。異国にも、やっぱり恋無情といったようなものがあるのね。日本の国と同じように、苦しい世間の中に、甘い恋路をたずねて、死ぬの生きるのともがいている、血色と肉附のよい若い男女が狂っているような、苦しい――けれども甘い、淋しい、
仰向けに、だらしなく寝たまま、柄になく涙を無性に流しつづけて、女はこう言いました。
十九
そうすると、どう勘違いをしたか、マドロスは急に申しわけのないような
「オ嬢サン、ドウモ済ミマセンデス――ワタシ、悪イ気デシタノデハナイカラ御免クダサイ、オ嬢サンニ取ッテ置キノ珍シイモノ聞カセテアゲタイト思ッタデス、ソレデ、コンナ陰気ナノヲヤッテ、オ気ニ
女は、その申しわけに答えて言うよう、
「そういうわけじゃないの、わたしが泣けたというのは」
「泣クノオ止シナサイ、ワタシ、コレカラ陽気ナノ唄イマス、今度ハ支那ノ、唄イマショウ、茂チャン、アノ唄、好キ、ソレ唄イマショウ、支那ノ……」
この野卑にして下等なる音楽者は、それにしても、ここでもやっぱり国際的でした。前回の失敗の名誉回復をやり出すような意気組みで、今度は支那の音楽にとりかかろうという。
国境に於てはだいぶ近くなったけれども、その内容のわからないことは、依然として同じこと。わからないながら、これはたしかに以前の異国のとは違って、陽気で、
チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
ツアン
ツアン
チーカ、ロンドン、ツアン
パツカ、ロンドン、ツアン
と附けることは、女も以前からしばしば聞かされたものです。ことに清澄の茂太郎は、この口合いを喜んで、例のツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
ツアン
ツアン
チーカ、ロンドン、ツアン
パツカ、ロンドン、ツアン
チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
をくっつけるのを得意としていたことを、女もよく知っている。これを聞くと、茂太郎もどきに自分も踊り出したくなるので、いつか心持も陽気になってまいりました。それを見るとマドロスは、娘のお気に叶ってその御機嫌を取り直したことを嬉しがって、なお馬力をかけながら、何ともわけのわからない支那唄を声高くうたって、手風琴に合わせながら、その終りに右の、ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
を折返すと、女もいい気持になって、ここぞと思うあたりで、先を越して、ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
をやり出すものですから、期せずして合唱の形となって、今の先とは打って変った和気と、陽気とが、ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
時に、日が暮れかかりました。
「オ嬢サン、
マドロスは、すっかり興奮しきっている。女も以前のようにむずかりません。
二十
そうしているうちに、北上川の沿岸に夜が来ました。
夜というものは、ありふれた風景でさえも、少なくとも一世紀は昔に返して見せるものなのですが、この辺の風物そのものが、日中でさえすでに近世紀の
いいあんばいに、いつのまにか実に明るい月がかがやいていました。夜は風景を
今の人は古時の月を見ざりしかど
今の月は曾 て古 への人を照らしたりき
古人今人、流るる水の如く
共に明月を見て皆かくの如けん
と微吟して、大きな柳の木蔭から、この北上川の沿岸の蒙蒼たる広原の夜気の中へ、のそりと歩き出した黒い人影がある。と、その後ろに引添うようにして、もう一つの黒い小さい人影が現われました。今の月は
古人今人、流るる水の如く
共に明月を見て皆かくの如けん
一体にこの辺は、柳の大樹が多いのです。その
右手には
「君、
その声を聞くと、それは日中、
「高い山じゃないですね、そう大して高いという山じゃないです」
直ちにこう答えたのは、これも日中、渡頭で居合抜きの芸術を鮮かにやってのけて見せたが――旅行券では、すっかり
「南部の恐山といえば、なかなか有名ですから、人はすてきに高い山だと思いますが、山はさほど高くはないのです。山は高くないけれども、
と言いました。
二十一
「山へ下る――」
と言って、田山白雲の黒い影が、ちょっと
どんな山でも山という以上は、人間としては上るべきものである。山へ下るということは、あるまじきことである。柳田平治も当然それを補わなければならないのですが、特に註釈をしませんでした。それを田山白雲もおしてたずねようともせず、閑々として歩みつづけます。
かくて大小二つの黒法師は、いよいよ広原の中の月光の下に、鮮かに黒法師ぶりを発揮しながら無言の進行をつづけましたが、この二人ともに、遠目では、かく悠々閑々たるそぞろ歩きを続けているように見えるが、事実上は、歩みながら絶えず、
そのかなり細心に働いている首筋の異動と、眼光のつけどころを見ていると、ただ月に乗じて浮かれ出したものでないことは明らかであります。何か目的あって、それを探し
それが微吟となったり、閑話となったりして
「先刻から聞いていると、君はその恐山の林崎明神のお堂で居合を修行したということだが、してみると君の居合の流儀は、林崎流の居合なのだね」
「いや、そうじゃないです、林崎明神というのは、恐山の一部にある名所の名でして、林崎流の居合とはなんらの関係がないです、僕の修行したのは浅山一伝流なんですが、それも純粋の浅山一伝流というには少々恥かしいでしてね、コツは習いましたけれども、やり方は未熟な自己流ですから、本場へ出て練り直さなければならない、と考えとるです」
「なるほど」
と白雲は
というようにも感心してみたが、いやいや滅多に感心してはならない、青年や、愚者を、うっかり過分に
「今、林崎流の居合のそのままの型は、どこに残っているか知らん。林崎を祖として、それから出でた流派は多いが、林崎流そのままの伝統を抜くというのはあまり聞かないね」
「そうです、浅山一伝流も林崎甚助から出たのです。先生、あなたも居合をおやりになりますか」
と、今度は柳田平治がたずね方に廻ると、田山白雲が、
「到底、君のように器用なわけには行かんけれど、一通り稽古するにはしたよ、僕のはちょっと変っている、鶴見流といってね」
「鶴見流ですか……」
「あまり聞き慣れない流名だろう、だが、それを伝えた老教士の口と、腕とには、なかなか敬服すべきものがあったねえ――その流祖の鶴見というのは、年代はよく知らんが、たしか戦国時代の人であって、一つ面白い逸話を聞いている、こういう話だ、まあ聞いて置き給え」
打解けた物語りをしながら、白雲の眼は絶えず前面の広野の四方にめぐらされている。どうしても月を見ながら散歩のための閑談ではない。
二十二
「越前家に、なにがしという武功の者があったのだが、これが何か犯せる罪あって
白雲はこのようにして、月の広野原を歩みながら語り出すと、柳田が、
「その時に、鶴見先生のはらはもう決っていましたね」
「そうして、先方へ行くと、どういう知恵を働かせたか、とにかく、その相手の武功者をだね、それを縄にもかけなければ、刀を差させたままで連れ出して来たんだね。そうして、召連れた二十人ばかりの者と一緒に、舟に乗せて城下へ漕ぎつけることになったのだ。その召連れて来た武功者は、聞えたる大力の大男でね、鶴見は反対に君のような――と言っては失敬だが、とにかく
「なるほど……」
「だから、言わぬことじゃない、あれほどの武功者を縄もかけず、大小も取上げずに召連れて、それに悠々と茶などを振舞って世間体にもてなしていたのが緩怠千万――なんにしても大事のめしうど、取逃がしては一大事と、皆々続いて水中に飛び入ろうとすると、鶴見は少しも
「やりましたね、鶴見先生」
「その男が水へ飛び込むと見て、鶴見が斬って刀を
「そうでしょう、林崎甚助先生などにもさような逸話はありますね、私も師匠から承りました」
柳田平治が、つづいて何か相当の武術の応酬を試みようとしていた時分に、さきほどからむらむらしていた雲が月を隠してしまい、地上がにわかに暗くなりました。
二十三
月は隠れたけれども、本来は月の夜なのですから、天地は暗いといっても、闇の夜ではありません。
「月が隠れたね」
「雲が出てまいりました」
二人の心づかいは、ちょっと天上に向って転向しましたけれども、そうかといって、その雲行きも天候の激変を暗示するほどの危険性はないが、今までのように
「しかし、暗い方がまたかえってよろしい」
と田山白雲は、さのみ月光に執着を持っておりませんでした。それは月光そのものに浸染せんがためにうらぶれ出でたのではなく、かくうらぶれ出でたに就いては、別に何かの目的があってうらぶれ出でたところへ、偶然にもその景物として月が出ていてくれたのだから、月が姿を隠しても必ずしも自分の目的に
そうすると、柳田平治も語り出でんとする物語をさし置いて、同じような姿勢を以て四方の視野を監視の
会話そのものもまた、月の光と同じく偶然の景物であって、二人は会談を
そうしているうちに、田山白雲がまず口を切りました、
「君、あそこの森蔭に、一点の火が見えるではないか」
「ええ、何か、鳴り物の音が聞えますな」
二人の声は、ほとんど
啄白雲が、その一点の火というのを認めたのが早かったか、柳田が、風に伝うて来る有るかなきかの鳴り物の音というのを耳にとめたのが早かったか、それはわからないでしょう。一方の眼と、一方の耳との正確さをもって一応たしかめるために、二人は暫く息を
「たしかです、先生、たしかに
白雲が最初に認めた火の光がいったん明滅したらしいのを、柳田が再び確認し得たらしく保証すると共に、白雲が、
「なるほど、なるほど、風に流れてかすかに物の音が響いて来るよ」
自分は眼に於て早く、柳田は耳に於て一歩を先んじていたらしい認識が、ここで両々相保証するの立場となりました。
「では、とりあえず、あれを
と白雲がまず唱えて、柳田がそれに従いました。そこで少し二人は
白雲は柳田に調子を合わせてやるために、多少ともその歩調をおろさざるを得ませんでした。
かくて行くうちに、ふと前に白い鏡のようなものの大きな展開を見ました。
「やあ、池ですか」
「沼だ――入江かも知れない」
このまま進めば、必ずその沼に突入する。
二十四
白雲がまず眼を以て認め得たところのものも誤りなく、柳田が耳を以て
突当りに沼があって、その向うに小高い岸があって、その一方に森があって、その森蔭から右の一点の火光が射して来るのです。
それにつれて、同じところから異様なる鳴り物の音が、ようやく鮮かに流れて来るのを、柳田がまた小耳を傾けて、
「何ですか、笛でありますか」
「いや、笛ではない」
「鼓ですか」
「いや、鼓でもない」
「三味ですか」
「そうでもないようだ、胡弓のような響きがする」
「
「おかしいぞ」
流れて来る音は聞き留めたが、楽器そのものが何であるかは、はっきりと受取れないので、
「狐狸の仕業かな」
と柳田平治が、長剣をちょっと撫でてみました。
「まあ――もう少し行ってみよう」
「御用心なさい、そこはもう沼つづきですから、先生」
「なるほど、水がここまで浸入して来ている、ここを一廻りせんと、あの森へ出られない」
「橋はありませんか」
「ないね」
「廻りましょう、僕が先に立って瀬ぶみをいたします」
「気をつけて行き給えよ」
二人は沼を隔てて、森と、
「先生、舟がありましたぜ、舟が」
「なに、舟が」
柳田平治が立っている入江のある地点に、
「それは、いいあんばいだ、渡りに舟」
一議に及ばず、二人はその舟を分捕って飛び乗り、この入江と沼とを押切ろうとして、ふたり船べりへ寄って見て、田山白雲が、はじめていぶかしげに、
「おや、この舟はおかしいぞ」
「どうしたのです、先生」
「見給え、世間普通の舟ではない」
「そうですね」
二人は乗ることを先にして、舟の形を見ることを後にしましたが、白雲が、
「占めた!」
と叫んで、
「君、見給え、この舟は――これは日本の
二十五
そもそも、田山白雲のこのたびの北上の目的というものは、一石二鳥をも三鳥をも兼ねたものでありました。
その一石は、いま現にほぼ証跡をつきとめ得たらしいところのマドロスと、兵部の娘を取押えんがためでありました。目下、松島湾の月ノ浦に碇泊しているところの駒井甚三郎創案建造の蒸気船、無名丸から脱走して来たところの
それから、もう一つは、本業たる画師としての
そうして、ゆくりなく、この渡頭に立って見ると、たずねるところのマドロスが、遠眼鏡の視野の中に完全に落ち来ったものですから、いずれにしても、この向う岸を
こういう見地からして、田山白雲は特に夜を選んで駈落者の所在を探索に、ここへこうしてやって来たというわけなのであります。
ただ予期しなかったことは、ここへ、同行ともつかず、従者ともつかず、お弟子ともつかない、長剣
白雲が右のバッテイラ型と称した小舟の傍で言いました、
「ねえ、もう袋の鼠だよ、こっちのものだよ、そう思って聞いて見給え、あの問題の楽器はイカモノだな、笛でなし、鼓でなし、尺八でなし、琴でもなし、三味線でもなし、何か毛唐のイカモノの響きだ。本来、あのマドロスという奴が、ウスノロに出来てるんだ、眼色毛色の変った奴に、ドコまで道行ができるものか。先生、一時の安きをたのんで、ああして太平楽にイカモノを鳴らかして楽しんでいる知恵なしを見給え、自分たちはいい気分で人知れず楽しんでいるつもりだろうが、木の音、草の音を忍ぶ駈落者が、楽器いじりとは
「鳥も鳴かずば撃たれまい――というわけですね」
「そうだ、そうだ」
白雲は、柳田平治が存外、
二十六
そういうこととは知らず、石小屋の中では、白雲のいわゆるイカモノの音楽が、奏する人をいよいよ
それが、イカモノであろうとも、なかろうとも、自己の演出する芸術が、張り切れるほどの相手方の反感を
そこで、ここを
「オ嬢サン、コレカラ日本ノモノヤルデス、マズ南ノ方カラヤリマショ、八重山ヲヤリマショ」
「八重山って何です」
「八重山ハ薩摩ノ国ノ南ノ方ニアル島デス、ソノ島ノ娘、タイヘン声ヨイデス、世界デモ一番デス」
と、マドロスが風琴を膝へ置いて答えました。
「え?」
と女が少し聞き耳を立て、
「何ですって、世界で一番? 言うことが大きいわ」
「ウソデナイデス、タナベ先生モホメマシタ、八重山ノ唄ト踊リ、素晴ラシイモノデス、ワタシ、日本デハアンナスバラシイモノ聞イタコトナイデス、ソレヲ一ツ、ココデ真似テ見ルデス」
「まあ、ちょっとお待ちなさい、マドロスさんの言うことは大きいからね、日本の国の薩摩の国の中に世界一番なんて、それは掛値があるんでしょうけれど、かりに割引して聞いても、そんなに素晴らしい唄だの踊りだのが、日本の中にあるんですか、そのことをもう少し説明してから、唄って聞かせて頂戴」
「八重山ノ娘サンタチノ声ハ五町モ六町モトオルデス、ソウシテ声ガヨク練レテイルデス、ワタシ聞イタ、世界ニモ珍シイデス、日本ノ国ニアンナトコロハ二ツトナイデス、ワタシ、一生懸命ニ三日習イマシタ、ユンタ、ジラバヲヤッテオ聞カセスルデス」
「では、ともかくやってみて下さいな」
「八重山ノユンタ、ジラバ……」
そこで、またマドロスが実演にかかりました。
果して八重山という日本の国の
そこで
二十七
だが、とにもかくにも、このイカモノ音楽師は、世界的だという八重山節のコッピーを取って見せてしまうと、またもや息をつく
「今度ハ、ガシャガシャ節ヲオ聞キニ入レルデス」
「まあ、待って頂戴、マドロスさん、今のその八重山節は、素晴らしいものかも知れないが、その土地へ行って、世界一だとか、日本一だとかいう声の練れた島の娘たちの咽喉から
「デハ、カンカンノウ、キウレンスヲウタイマショウカ」
「あれは日本のじゃありませんよ、わからないことは同じよ」
「デハ、チョンキナ、チョンキナ」
「いけないわ、なんだか下品だわ」
「お前とならば……」
「いや味ったらしい」
「春雨」
「お前さんのがらにないね」
「きんらいらい」
「駄目よ」
「越後獅子――イイデス」
「あんまりおきまりでねえ」
「
「ぞっとしない」
「梅にも春」
「いよいよお前さんのガラにない」
「惚れて通う……」
「いやいや」
「デハ、オジョサン、何ガイイデス、アナタノ方カラ望ムコトヨロシイ」
「生意気をお言いでない、わたしの望むもの、お前にやれますか、やっぱり日本のものでない方がいいわね、日本のものだと、こっちがわかり過ぎてるから、マドちんが一生懸命やればやるほど滑稽になってしまう、だからいっそ、もとへ繰返して本場ものをやって頂戴。本場ものというのは、マドロスさんの本場もののことよ、わたしにはわからないでもいいから。わからない方がかえってアラが知れないで、珍しいところばかり耳に残るからその方がいいわ、威勢のいい異国物を聞かせて頂戴な」
「デハ、マタ西洋ヘ戻ッテ、イッショ懸命ヤルデス」
「いちいち説明はいらないから、立てつづけにやって頂戴、でも、くぎりだけはちょっと何か合図をしてね」
「デハ、ヤタラ
日本物は全くプログラムから敬遠されてしまって、これから改めて異国ものの蒸返しに、マドロスが腕によりをかけ出した途端に、裏の戸締りをトントンと叩くものがありました。
「おや」
兵部の娘がまず驚くと、
「誰デス」
二十八
その時、戸を押破って猛然と飛び込んで来たのは、田山白雲でありました。
「ウワア、タヤマ先生」
マドロスが狼狽して、逃げ出そうとするのを、白雲は
「ウスノロ!」
田山白雲が取って押えると、柳田が横の方から手伝いをして、忽ちマドロスを縛り上げてしまいました。
本来、このマドロスは
他の何者に対しても、かなりの横着と粘液性を発揮するのですが、ひとり白雲に遭うてはすくんでしまう。
それに今日は、柳田という、超誂向きの助手があってすることだから、マドロスは身動きもできないし、グウの音も出ない目に逢って、たちまちそこへ縛りつけられると共に、みえも、飾りも、全く手放しで号泣をはじめました。そうした時に、意外にも、その間へ押隔たったのは兵部の娘でありました。
「田山先生、あんまり手荒いことはしないで頂戴ね」
「うむ、
と白雲は、押隔たる娘の
「マドロスさん、そんなに悪い人じゃありません、手荒いことしないでね」
「君を掠奪して、こんなところへ連れ込んだ
「いいえ、マドロスさんばかりが悪いんじゃないのよ」
「無論、君にも責任があるよ、何というだらしないこった、
その時、号泣していたマドロスが、急に哀願の
「田山先生、ワタクシ、悪イトコロアヤマルデス、縄、解イテ下サイ」
それを耳にも入れず田山白雲は、柳田平治をさし招いて言いました、
「柳田君――ではこれからを君に引渡すから頼みますよ」
「承知しました」
「マドロス」
と、白雲が改めてマドロスを呼びかけると、
「ハイ」
神妙な返答です。
「貴様を、これからこの人に託して、月ノ浦の駒井氏の元船まで送り届けるのだ、じたばたしないでおとなしく引かれて行けよ」
「御免、御免」
マドロスは、また哀号の声を高くして、
「御免、船ヘ戻ルコト、オ許シ下サイ、船ヘ戻レバ殺サレルデス」
「柳田君、かまわず引き立てて行ってくれ給え、もしジタバタした時は、今の鶴見流でやっつけてかまわない」
「御免、御免」
「萌さん――」
兵部の娘を白雲は呼びかけて、そうして、
「あなたも、この人に――柳田さんという方だ――この方に送られて、一緒に駒井先生の
二十九
それから、田山白雲は、マドロスと兵部の娘を引据えて置いて、また改めて、柳田平治に向って次の如く言いました、
「柳田君、では、このまま
と言いかけた時に、今まで哀号をしていたマドロスが、また急に変な声を出して、
「田山先生、ワタシノ命、助ケテ下サイ、ワタシ、オトナシク月ノ浦マデ、舟漕グデス、ワタクシノ命、アチラデ助ケテ下サイ、コレカラ舟漕イデ上ゲルデス」
と言いました。その心細い声を聞くと、田山白雲がふき出して、
「なるほど、舟のことはこいつが本職だった、本職の手を縛って置いて、柳田君に廻航の心配をさせるのも愚かな話だった、こいつを一番利用して、ここまでやって来た通りをあとへ戻させればいいのだ」
と言って、マドロスの方へ向き直って、物々しく白雲が言って聞かせることには、
「よし、では、ともかく貴様の縄だけは解いてやるから、舟を漕いでかえれ、先方へ着いての上で駒井氏の裁断だ、拙者は許すとも許さんとも言えん――とにかく、舟を漕ぐ間は縄をゆるめてやる――ゆるめてはやるが、こっちを甘く見るときかんぞ。いいか、途中で隙を見て、海へ飛び込んで逃げ出そうなどとしても駄目だぞ。いいか、この柳田君はな、なりかたちこそ小さいが、
田山白雲は、改めて柳田平治を、裏返し表返してマドロスに紹介して後、
「柳田君、後学のためだ、一つこの男に型を見せてやってくれまいか」
「よろしうござる」
柳田平治は一方の板の間へしさったかと思うと、そこで電光石火の如く、居合を三本抜いて見せて、四本目に、あたりをちょっと見廻したが、そこに落ち散った黒い焼餅の一つを取ると、縛られたマドロスの頭の上に置き、二三歩踏みしさって、
「ワアッ!」
マドロスは目がくらんで絶叫したが、マドロスの膝の前に二つになって落ちたのは、マドロスの自身の首ではなくて、今の焼餅でありました。
そうすると、いつしか刀を
次の一本が電光石火、マドロスの頭で焼餅が今度は四つになって落ちたけれども、マドロスの赤い髪の毛は一筋だも傷つかないのです。
三十
十二分にマドロスの度胆を抜いてから、この厄介な駈落者を、柳田平治に託して送り出して置いて、田山白雲はひとり、この石小屋を占領しました。
つまり、ここに
傍らを見ると、黒い焼餅が紙に載せて二つ三つ存在している。マドロスが生命がけで船頭小屋から掠奪して来たもの。そうしてせっかくの愛人に捧げたのをすげなくされた
こうなってみると、ウスノロめが生命がけで苦心経営した食と住とのすべては、手入らずに白雲のものとなったのです。
やれやれ、世話を焼かせやがったな、しかしまあ今日の一日はなにぶん多事なる一日であったが、必ずしも収納皆無とは言えない。短躯長剣の柳田なにがしという青年を一人拾い、ウスノロと馬鹿娘の駈落者を一対完全に取押えた。
駈落者といえば、今日はまた駈落の
ことに、あの羽二重紋服のままに縛られて引き立てられたあいつは、美しい男だったな。無論ウスノロとは比較にならない。どうやら昔物語にある平井権八といったような男っぷりだ。当然、あれが南部の家老の娘なるものを誘拐して立退いた奴だとは想像されるが、さて相手の家老の娘というのはどこへどう納まった。その先途を見届けてやりたいような気持もする。
どうも
奥州へ来て、ところがらだけに、
こういうあたり運のいい晩には、事のついでに、あの七兵衛というへんな
というようなそぞろ心に駆られていると、不思議に身の毛がゾッとしてきて、現在誰か一人、背後に廻ったような気分があるが、これは気のせいだ。
さて、今晩はここに納まり込んで、明日の日程だ――そうそう悠々閑々としてもおられない。三日間を限って、とにかくそれまでには、いったん月ノ浦の無名丸まで立帰らにゃならぬ。限られたる日程だが、実をいうと、おれはまた慾が一つ出て来たのだ。
それは、恐山へ行って見たいという慾望だ。
柳田平治を発見してから、なんとなく恐山という名に引かされる。一旦は船へ戻るとしても出直して、北上の
三十一
変れば変るもので、道庵先生がハイキングをはじめました。
およそ、ハイキングだの、パッパ、マンマだのということほど、道庵先生に縁の遠いものはないのですが、転向ばやりとでもいうのでしょう、とうとうこの先生がハイキングをやり出したことに於て、容易ならぬ非常時を想いやることができるというものでしょう。
ところは北上川の沿岸でもなく、恐山の麓でもありません、近江の国の琵琶の湖畔の
「コノ日、天気晴朗ニシテ、空ニ一点ノ雲無ク、乃 チ一瓢ヲ携ヘテ柴門 ヲ出ヅ……」
明治のある時代に於て、小学校の課目の中に「記事文」というものがありました。その記事文に、一定の型があって、たとえば「車」という課題の下には、「車ハ木ト金ニテ作リ、荷ヲ運ブニ用フルモノナリ」
といったような型でしたが、ある時、或る学校で「楠木正成」という課題を出しました。「楠木正成ハ人ニテ作リ、忠義ニ用フルモノナリ」
ついでにもう一つ――これは大菩薩峠の著者が、小学校時代、七つか八つ頃親しく隣席で聞いた実話――同様の目的で、受持の先生が、「先生」という題を生徒に課しました。先生というのはつまり教師のことで、師の恩ということは、日ごろ口をすくして教えてあるのですから、もはや小さい頭にも充分の観念は出来ていると見たからでしょう。そうすると著者の隣席の同級の、しかも女の子でした、苦心惨澹して、石盤の上に
「先生ハ人ヲ教ヘテ、銭ヲ取ルモノナリ」
これを一読したその時の先生は、よほど短気の先生であって、これを見ると「いつ先生が銭を取った!」
その時分には、小学校に於ても相当に体罰が
「何々ニ遊ブノ記」の記事文の型も、その前後に流行したもので、われわれ小学生も、必ずその書出しには、「コノ日ヤ天気晴朗」と、「空ニ一点ノ雲無ク」と、「
しかし、今日、このところ、道庵先生のハイキングに当って、天気晴朗にはいささか申し分があるけれども、一瓢を携えたことだけは一点の疑う余地はありません。
三十二
道庵先生のハイキングコースは、
それを、一瓢を携えた道庵先生が、ふらりふらりと上り出すそのいでたちは、
衣服の方の満身の
江戸を出でて以来、中仙道をここまで百里にわたる旅路ですけれども、この途中ハイキングと名づくべきほどの経験はありませんでした。最も高い地点といえば、
しかし、この先生のハイキングぶりを見ていると、
そうすると、右手の
「先生」
「何だい」
「ちょっと、こちらへおいでなすって下さい」
「何だね、どうしたんだね」
「ちょっと見て頂戴、まだ、よくわたしにはわかりませんから」
「そうか、では見てあげる」
路と林との中で、この問答が起りました。
森の中から先生と呼びかけたのは、しかるべき少女の声で、これに答えたのは、申すまでもなく杖をとどめた道庵先生であります。
さればこそ、道庵先生のハイキングコースは、ひとり旅ではありませんでした、連れがあったのです。しかもその連れは、若い娘の声で、おたがいに別れ別れに、路と森を隔てて通ってはいるが、その目的は相並び行くものでありました。
「ずいぶん、この辺にたくさんありますのよ、これごらんなさい」
先生の足を森の中へ
愛らしい少女だが、頭に手拭を
三十三
これによって見ると、道庵先生は正式に胆吹山のハイキングコースを通り、お雪ちゃんは、リュックサックを背負ったり、ロイド眼鏡をかけたりしないで、ほんの突っかけ草履の略装であることによって、二人が最後まで同行の覚悟でないことはわかっています。
手拭を姐さんかぶりにして、小脇に目籠を抱えたままで出て来たお雪ちゃんが、目籠の中へ手を入れて、何か摘草のようなものを取り出して、先生の目の前へ持って来て見せると、道庵先生がいちいち
「そうだ、そうだ、それがセンブリだよ、花の咲いた時分に採って乾かして置くと胃の薬になる。これはマンドウ草といって、やはり葉は花時に採って
目籠の中の植物の一つ一つに就いて、道庵が説明をはじめたところを見ると、どうも摘草にしては時候が変だと思われた疑いも解け、お雪ちゃんが、右の略装で、そこらあたりの薬草を採取しているのだということもよくわかります。
薬草の吟味ならば、道庵がお手のものでなければならないから、お雪ちゃんの提出する一茎一草について、流るるが如く立派に答えつ教えつしてのけることも不思議ではない。道庵も多年この道で飯を食い、天下のお膝元で十八文の道庵先生といえば、飛ぶ鳥を落したり、落さなかったりしているのですから、医学と密接の関係がある
「うむ、ええと、こいつは……こいつはちょっと難物だぜ、
と言って、道庵先生は、薬草の中のわからないのを一つごまかしてしまいました。
お雪ちゃんは別に、道庵先生を困らせて手柄とするために難問を提出したわけではないから、そのくらいで打切って、そのまま、道庵先生に引添うて登りにかかりましたけれども、きりっと足ごしらえをしているに拘らず、道庵の足許が甚だあぶないのは、いよいよ以て先生のハイキングが怪しいものであり、お雪ちゃんが、白骨、乗鞍、上高地の本場で鍛えた確実なステップを踏んでいることがわかります。
三十四
お雪ちゃんは言いました、
「ねえ、先生、あなたもこの胆吹王国の一人として、わたしたちと一緒にこの
「ははあ、そりぁなんしろ愚老一生涯の大事だから、そう右から左へ即答はできない。だがお雪ちゃん、お前さんという人は、わしぁ好きだね。お前さんのような娘が、しょっちゅう傍についていてくれるところならば、永住してみてもいいと思うが、いったい、その胆吹王国というのはどういう性質の組合なんだか、そいつを聞かしてもらいてえ」
「王国なんて、ずいぶん
「そりゃ、帝国なんて言おうものなら口が裂けるけれど、王国ぐらいならいいさ、
「このことの起りは、あのお銀様の
「ははあ、道庵なんぞはそれと正反対だね、頭の悪いことは無類だし、お金なんぞは商売物の薬にしたくもねえ――」
と道庵が、げんなりしたが、お雪ちゃんは
「そうして、この胆吹山の麓に、見渡す限り広大な地所をお求めになったのです、今はとりあえず身近の人たちだけの館を造っておりますが、これから大きな御殿を建てて、望みを持った人たちにはみんな集まってもらい、今の世間と全く違った世界を、この胆吹の山の麓に新しくこしらえ上げるんですって」
「なるほど――」
「そこで、この胆吹王国では、どうも少しむずかしい言葉なんですけれど、人間が絶対に統制されるか、そうでなければ絶対に解放されるんだと、関守さんも申しておりました」
「うむ、なかなかむずかしい」
「それにはまず、ここに住む人たちがみんな、自給自足と言いまして、生活は直接に土から取って、人に衣食をさせてもらわないこと、人に衣食をさせてもらいさえしなければ、人間が人間に屈従しなくてもよろしい、ですから、ここに集まる人は、自分で自分の食べることだけはしなければならない、それが自由にできるようにして上げるのだそうです」
「それは賛成だね、国中へ
「そりぁ先生、そんなことは人情で分っているじゃありませんか、誰も好んで病気になる人はありませんから、病人が出来れば、当人にもゆっくり休ませるように、その仕事は、いくらでも代ってして上げるようにできるじゃありませんか」
「そうか、それはそれでいいとしてだ、では、病人に対するお医者の方へ廻るがね、お医者をどうするんだ――なかなかこれで、十年や二十年
三十五
「ですから、その道の人はその道の人を頼まなければなりません、その道の人を頼むと言いましても、なかなか変った人でなければこういうところへは来てくれません、来てくれるような人は未熟の人か、世間を食い詰めたような人、そこへ行くと先生なんぞは、人間も変っていらっしゃるし、腕の方も大したものですから、先生のようなお方がこの胆吹王国にいらしって下さると、ほんとうに願ったり叶ったりだと思いますわ」
「こいつは見立てられたね――」
道庵は頭を丁と一つ平手で叩きました。
「ですからね、先生、お江戸の方はお弟子さんに譲って、ぜひこちらへいらっしゃいよ、ここならば京大阪は近いし、江戸へおいでになりたければ一足で海道筋です、わたしがついていますから、お身の廻りのことは御不自由はおさせしませんから、別に
「お雪ちゃんに、そう言って
「その気におなりなさいまし、わたし一生懸命、先生を誘惑するわ」
「誘惑は驚いたね。だが、この年になって道庵も、お雪ちゃんのような若い娘に誘惑されるなんぞは嬉しい、嬉しい」
「先生がお連れになった、あの米友さんだって、もうこっちのものよ」
「そうして、我々仲間をみんな誘惑して、胆吹王国の一味徒党の連判状にしようなんて罪が深い!」
「ですけれど、むりやりに首に縄をつけてもというわけじゃありませんのよ、相当の理由があればいつでも組合を
「そうはらをきめられちゃあ、もう助からねえ」
道庵が悲鳴に類する声を上げるのを、お雪ちゃんが起しも立てず、
「ねえ、先生、ですから、京大阪を御見物になって後、一旦お江戸へお帰りになるならなるで、それはお留めはいたしませんが、お江戸の方をしかるべく御処分なすって、ぜひ、こちらへいらっしゃいね。ね、約束しましょう、げんまん」
「どうも、そう短兵急にせめ立てられちゃあ、道庵、旗を巻く隙もねえ」
三十六
こんな問答をしながら、薬園のあたりから道庵先生を程よいところまで送って、お雪ちゃんは、ひとり上平館へ帰って来ました。
帰って来るとお雪ちゃんは、目籠を縁側へ置いて、姉さんかぶりを取ると、いつものお雪ちゃん流の洗下げ髪を見せ、
「関守様、あのお医者の先生とお薬草を調べに参りました、お銀様はまだお帰りになりませんか」
「それそれ、心配するほどのことはありませんでしたよ、お銀様は長浜の町へ行っていらっしゃるんで、今の先、使があったんだ。でね、ちょっと思い立って長浜まで出かけたが、ここへ来てみると、どうしても湖水めぐりをしてみたいとおっしゃって、これから長くて六日一日の間に八景を舟で一まわりして来るつもり、あとのところをお雪ちゃんと拙者に万事御依頼するから、よろしくという使の手紙なんだ」
「まあ、お銀様がお一人で湖水めぐりをなさるんですか」
「いや、そういうわけではない、この手紙の内容によって察すると、弁信殿も、米友公も、よそながらお銀様が遠眼をつけていらっしゃるようだから、ことによると、あの連中をみんな一緒にして、舟を一つ借り切って遊覧をなさるつもりかも知れない、そうでなくても、この浜屋という宿は拙者が心づけをしてあるから、お銀様の身のまわり一切、心得て世話をしてくれるはずだ、ともかく、この七日ばかりの間は、お雪ちゃんと拙者が、万事この王国をあずからなければならん」
「湖水めぐりをなさる時には、必ずわたしも連れて行ってやると、お銀様はおっしゃっておりながら、それに弁信さんとも約束をしていたはずなのに、みんな、わたしを置いてけぼりにして行ってしまいなさるのが
「いや、なに、そういうわけではない、あの連中のやることは、てんでに気の向き次第だから、約束が約束にならないところに妙理があるのさ。というものの、我々に後を託して置けばこそ、気まぐれに他出ができるという信頼が、こっちにあるからなんだ。つまり、お雪ちゃんとこの拙者に王国を任せて置けば、七日や十日留守にしたからとて心配がない、と思えばこそなんだ。そこまで信頼されているとすれば、留守居もまた妙じゃないかね」
「わたしなんぞは何のお役にも立ちませんけれど、そういうわけでしたら、喜んでお留守をつとめましょう、事がわかりさえすれば、どのみち安心でございます」
「お銀様のことだから、きっと、相当の船を一ぱい借切って、自由自在に湖の中を乗り廻し、思う存分に見物をしておいでなさるに違いない、我々は、われわれとして、入り代りにひとつ第二軍を実行させてもらいましょう。どうです、江戸のあのお医者の先生にも少し
「それは結構でございますが、あの先生が、それまで待っていらっしゃるかしら。大津に、お連れの方がお待兼ねになっていらっしゃるようでございます」
三十七
不破の関守氏とお雪ちゃんがこんなことを話しているところへ、仕立飛脚が一人、息せき切ってやって来ました。
「ちょっと、ものをお尋ね申します、この辺に、甲州の有野村からおいでになった藤原と申すお宅がございますまいか」
「甲州の有野村――藤原ですって」
不破の関守氏が小首をひねると、お雪ちゃんは早くも
「お銀様のことですよ、お嬢様の御実家のお名前なんです」
「ははあ――それに違いない、改まってそう聞かれると、ちょっと戸惑いをする。時に飛脚さん、何ですか、御用は」
不破の関守氏が改めて仕立飛脚の方に向き直ると、
「お手紙でございます、甲州の有野村の御実家から、お嬢様のところまで頼まれてまいりましたが」
「そんなら間違いはありません、ここがその藤原家の御別荘なのです」
「では、そのお嬢様は、ドチラにいらっしゃいますか」
「お嬢様は只今、ちょっと外出をなされたが、拙者共が万事、留守を預かっていますから、お申し聞け下さい」
「さようでございますか、
「さよう、長浜の方へ行かれましてな、湖水めぐりをなさる御予定だから、六日一日くらいはお帰りあるまいかと思うています」
「それは残念でございました、では、あなた様にお手渡しを致します、このお手紙――
「では、こちらへいらっしゃい」
関守氏は仕立飛脚を導いて、自分の監督部屋の方へと連れ立ちながら言いました、
「それはそれは、甲州から
「四日かかりましたよ」
「四日間、それはそれは」
「実は、その有野村藤原の御当主――お嬢様には父親のお方でございますな、その方が急に思い立ちになりまして、上方見物に出るとおっしゃってお出かけになりましたんですが、上方見物は口実でございまして、実は、たった一人の、一粒種のお嬢様、お銀様とおっしゃいますそのお方が、上方で何をしていらっしゃるか、それを見届けたいためなんでございます。おっつけ、そのお嬢様のお父上、すなわち伊太夫様とおっしゃるのが、これへお見えになることと存じますが、それに先立ちまして、藤原家のお番頭さまから特に頼まれましてな、こうして日限飛脚でやってまいりました。実は、それで、お手紙はお嬢様へ――それから別に、口頭で申し上げるように頼まれてまいりました文句は別でございますが、あのお嬢様にお附添でまいりました江戸の女の方――さよう、お角さんとかおっしゃいましたな、あのお方もこちらに御厄介になっておいででございましょうな」
「いや――その方は、おられません。とにかくあちらで万事」
関守氏が飛脚を導いて行くと、お雪ちゃんは、
「では、関守さん、後ほど」
と言って、辞して自分の離れの方へと帰りました。
三十八
不破の関守氏は、仕立飛脚を連れて、自分の座敷の縁へ座布団をしいて腰をかけさせ、自分は室内の机の傍に控えてこう言いました――
「いや、それは、こちらでもようくわかっているのですよ、我々はお銀様に対して、いま絶対服従の地位にいるのです、お銀様の計画の
と、関守氏から言われると、仕立飛脚も幾度か
「それはもう、仰せの通りでございます、あのお嬢様に逢っては、御両親一同、誰もかないません、父上の伊太夫様でさえ、どうにもこうにもならないのでございますから、あなた様方が、どうのこうのと言うわけではございませんが、今度のことは一番、大事の上の大事でございましてな、あのお銀様が自分の持分の財産を、すっかり新しい事業に注ぎ込んでおしまいになる、口幅ったい申し分でございますが、有野村の藤原家と申しますれば、あの国でも二と下らない
飛脚が長々と物語るのを、関守氏はなるほどと聞きました。
「
三十九
飛脚とはいえ、ただ通信機関の役目を果すだけの使ではなく、よく情理を
座敷と縁とで、二人がこうして話し合っている間、
それは、女の子ですけれども

