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大菩薩峠

胆吹の巻

中里介山




         一

 宇治山田の米友は、山形雄偉なる胆吹山いぶきやまを後ろにして、しきりに木の株根かぶねを掘っています。
 その地点を見れば、まさしく胆吹山の南麓であって、その周囲を見れば荒野原、その一部分の雑木がり倒され、榛莽荊棘しんもうけいきょくが刈り去られてある。そのうちのある一部分に向ってくわを打卸しつつ、米友がひとり空々漠々として木の根を掘りつつあるのです。
 打込む鍬の音が、こだまを返すほど森閑たるところで、ひとり精根を株根に打込んで、側目わきめもふらずかせいでいるのは、この木の株根に執着があるわけではなく、こうして幾つもの株根を掘り起すことの目的は、この土地を開墾する、つまりあらくを切るための労力でなくてほかに理由のあるはずはありません。
 米友が胆吹山の下で開墾事業をはじめた。
 これは、これだけの図を見れば驚異にも価することに相違ないが、筋道をたずねてみればはなはだ自然なものがあるのです。それは後にわかるとして、こうして米友が一心不乱にあらくを切っているとき、
「米友さん――」
 そこへ不意に後ろの林から現われたのは、手拭をあねさんかぶりにして、目籠めかごの中へ何か野菜類を入れたのを小脇にして、そうしてニッコリ笑って呼びかけたのはお雪ちゃんでした。
「御精が出ますね」
「うん」
 米友も鍬を休めていると、お雪ちゃんはだんだん近寄って来て、
「少しお休みなさい」
「どーれ」
と言って、米友は鍬を投げ捨てて、まだ掘り起さない掛けごろの一つの木株へどっかと腰をおろしたが、さて、こういう場合に、抜かりなく、あいのくさびにもなり、心身疲労の慰藉ともなるべき――アメリカインデアン伝来の火附草をとってまず一服という手先の芸当が米友にはできません。腰を卸したまま、両手を膝に置いて、猿のような眼をみはって、お雪ちゃんのかおを見つめたままでいますと、
「友さん、一ついかが」
と言って、お雪ちゃんが目籠の中から、珊瑚さんごくれないのような柿の実を一つ取り出して、米友に与えました。
「有難う」
 米友は、腰にさしはさんでいた手拭を引出して、いまお雪ちゃんから与えられた珊瑚のような柿の実を、一ぺん通り見込んでから、ガブリとかぶりついて、歯をあてるとガリガリかじり立てました。
あまいでしょう」
「甘めえ」
「もう一つあげましょう」
「有難う」
 お雪ちゃんは、まだ幾つも目籠の中に忍ばせているらしい。それを一度に幾つかを与えては、当座の口へ持って行く手順に困るだろうと心配して、わざわざ一つずつ目籠から出しては米友に与えるものらしい。
「むいて上げましょうか」
「いいよ、いいよ」
 お雪ちゃんは摘草用つみくさようの切出しを目籠の中からさぐり出して、米友のために柿の実の皮をいてやろうと好意を示すのを、米友はそれには及ばないと言いました。それはそうです、米友として、皮と肉との間のビタミンを惜しんでそうするわけではないが、この珊瑚のような小粒の柿の実を、お上品に皮を剥いたり、四ツ割りにしたりして、しとやかに口中へ運ばせるなんていうことはガラにないのです。米友に柿の実をあてがって置いて、お雪ちゃんが、
「友さん――お前に聞きたいと思っていましたが、あのお嬢様という方は、いったい、あれはどういう方なのですか」
 柿の実で買収して置いて、それから探訪の鎌をかけようというお雪ちゃんの策略でないことはわかっているし、米友とてもまた、昔噺むかしばなしの主人公と違って、柿の実や、握飯の一つや二つで買収される男ではないにきまっているが、つまりお雪ちゃんは、この機会に於て、このあたり静かな、そうして、後ろには山形雄偉なる胆吹山が傲然ごうぜんとして見張りをしている、新開墾地の人無きところで、日頃から尋ねんと欲して尋ね得なかったに落ちない条々を、この人によって解釈してみたいと念じていた希望が、偶然ここへ現われただけのものでしょう。
「うん――あれはね」
 米友の返事は存外素直すなおに出ました。うっかりよけいな質問をかけて、ぴんしゃんハネつけられないのがっけものと、お雪ちゃんとしても、多少危惧きぐしてかかったのでしょうけれども、それが存外物やわらかな手ごたえがあったものでしたから、まず安心していると、
「あれはね、あれは変人だよ」
と米友が、まず断案を頭から、たずねた人の真向まっこうへおろしてしまったには、お雪ちゃんも面喰いました。
「変人!」
 変人だか、常人だか、それを聞くのではない。そんな断案は、人に聞かなくても一見すれば誰でもわかることで、ちょっと附合ってみさえすれば、お嬢様という人が――ここにお嬢様と呼ぶのは、かの有野村のお銀様の代名詞であることは申すまでもありません――常人でないことだけは、わからずには置かないのですから、そんな無意味な断案を改めて米友から聞く必要はないのです。だが、相手を呼んで変人だという、この返答の主、すなわち宇治山田の米友がどれだけ常人に近いのだか、それを考えると多少はおかしくもなるのですが、これはこの返答の結論でも断案でもなくて、帰納きのう演繹えんえきとの論鋒を逆につかったものとして見れば、もう少し希望を残して聞いていないわけにはゆきません。
「うむ――変人だなあ、よっぽど変っているよ、あの娘もあれで、家はなかなか金持なんだという話だがなあ」
 それもわかってる、お銀様の背景に、偉大なる財閥ではない財力の権威があるということは、不破の関以来、お雪ちゃんもとうに心得ていることなのでした。
「え、え、それはわかってるのよ――お家は、甲斐の国で第一等のお金持だということもよくわかっております、わからないのはあの方の――そうですね、わからないと言えば、どこもここもみんな、わたしたちの頭ではわかりきれないところばっかりで、どこをどうとおたずねしていいかさえわからないのですけれど――」
「うむ、ありゃあね、心が傷ついているんだ。あれで、もとはいい娘だったんだってな、姿だってお前、いいだろう、あの通り姿もいいし、心持も鷹揚おうようで、品格があって、女っぷりとしても、さすが大家に生れただけによ、上々の女っぷりだったんだそうだがな、かおを傷つけられてから、それから心が傷ついてしまったんだよ」
「まア……」
 その時に、米友の返答がようやく、お雪ちゃんの壺にはまりそうになったのです。破題を先に、思いきり上げてしまったものですから、つづく調子の途惑いがしていたのを、ようやく糸にのりそうになったので、お雪ちゃんが喜んで、
「まア、おかわいそうにね」
「うむ、かわいそうと言えばかわいそうに違えねえかも知れねえが――かわいそうというよりは、我儘わがままの分子が多いね、あれじゃあかわいそうだと思っても、本当にあわれんでやる気にゃなれめえ」
「そうねえ」
「面が傷ついたからって、心まで傷つけるには及ばねえのさ、人間は面よりは心が大事だからなあ」
 ここに至ってせっかく壺におさまりそうなピントが、平凡至極の俗理に落ちてしまいました。
 人間は面よりな心が大事だからね――そのくらい見え透いたお世辞はないが、また醜婦に対する慰めの言葉として、これより以上、或いは以外の慰め言葉というものはない。米友ともあるべき者が、こんな平凡極まる俗理を言い出したのは、ただ、ほんの間投詞の一種類に過ぎないことは分っていますから、お雪ちゃんを失望せしめることはなく、
「どうして、あんなにお面にお怪我をなさったのでしょうか」
「うん、そりゃあね、火傷やけどをしたんだ、子供の時分に火ですっかり焼き立てたんだね、面を火で焼かれたというより、火の中からあの面を拾い出したんだね、それで五体は満足なんだが、あの面だけが――ところがねえ、お雪ちゃん、お前の前だけれども、女というものは、なんのかんのと言うけれど、つまるところは面だけが身上しんしょうじゃねえのかなあ――」
「どうして、米友さん、そんなことを聞くの」
「どうしてだって、女というやつはね、面が悪ければ、五体を棒に振って一生を台無しにしてしまわなけりゃならねえのか。面のよししのほかに、女というものの身上はねえのかなあ。そうかといってまた面がよければいいで……楽あできねえよ」
「ホ、ホ、ホ」
とお雪ちゃんが、少しおかしくなって、
「それは、面の大事なことは、女だって、男だって――人間でなくったって、みんな大事じゃありませんか、あのお嬢様がお小さい時分に、そんなむごたらしいお怪我をなすったから、それならお前さんの言う通り、心も傷つくのはあたりまえじゃありませんか」
「ところがね、あのお嬢さんのは、ただ傷ついたんじゃねえ、傷ついてから、それからひがんだんだ、僻んでから、それから、そうさなあ、のろいだなあ、呪いになって、憎しみになって、復讐になって……今じゃ、手におえなくなっているというそもそもの起りが、火傷の怪我というのが偶然のあやまちの怪我じゃねえんだ、あの娘の継母ままははという人が、自分の子に家をとらせてえがために、あのお嬢様を焼き殺そうとしたというのが、あの娘の呪いと、憎しみと、復讐のもとなんだ――もう今となっては、誰が何と言ったって、どうにも手がつけられねえ」
「ですけれども、なかなか親切で、大腹中だいふくちゅうで、そうして物わかりがよくて、どこといって……」
「それだそれだ、お気に入りさえすりゃあ、どこまでもよくしてくれるし、悪い段になると、人を取殺さずにゃ置かねえ。で、みんな腫物はれもののように、おっかながっているが、おいらなんぞは、ちっともこわいと思わねえ」
「え、え、米友さんは、あのお嬢様のお気に入りのようですね、米友さんに限って、あのお嬢様の前でポンポン言っても、ちっとも気におかけなさらないようですけれど、ほかの者はみんなピリピリしているようです」
「なにも、おいらは気に入られようと思って、おべッかを使ってるわけじゃねえんだが、みんなお嬢様、お嬢様って鬼かじゃででもあるように、おっかなびっくりしているのが、おかしくってたまらねえや――」
と、米友が得意になって、少しくせせら笑いの気持です。その時、お雪ちゃんが胆吹山の方を向いて、
「友さん、あそこへおいでのは、あれは、お嬢様じゃありませんか」
 お雪ちゃんが指したところの林の透間を米友が見ると、
「あっ!」
と舌を捲きました。
「こっちへおいでなさるようですね」
「うん」
「わたしは、お目にかからない方がいいでしょう、さよなら、米友さん」
「まあ、いいよ」
「でも、なんだか、わたし怖いわ」
「ナニ、怖いものか――」
 林の蔭から姿を現わしたのは、お銀様と見られた人の姿ばかりではありません――そのあとに一頭の駄馬をいた馬子と、馬子に附添って、手代風てだいふうなのが一人、つまり、この二人一頭が、恐る恐るお銀様のあとを二丈ばかり間隔を置いてついて来る。お銀様は先に立って、儼然げんぜんとして、例の覆面姿で歩みを運びながら、ゆらりゆらりとこちらへ向いて練って来るのです。一筋道ですから、それは当然、この米友があらくを切っている現場のところへ通りかかるに相違ありません。
 お雪ちゃんは隠れるともなしに、姿を後ろの林に隠してしまいました。
 米友は再びくわをとって、黙々として木の根起しにとりかかります。
 人家のない胆吹尾根いぶきおねの原ですから、近いようでも遠く、姿ははっきり認めてからでも、あの通り、ゆらりゆらりと練って来るものですから、この場へ来かかるまではかなりの時間を要します。
 お雪ちゃんがこの場をはずしたのは、特にお銀様という人に好意が持てないわけではなし、悪意を芽ぐませているというわけでもないのですが、なんとなく気が置けて、不意に当面に立つことをいやがったのでしょう。
 米友には、そうしてお銀様を避けなければならない心の引け目というものが少しもないから、引続いて木の根を掘りくずしに取りかかっているぶんのこと。
「友さん」
「何だい」
 暫くあって、尋常一様の応対がはじまりました。いつしかお銀様は、米友の丹念な木の根掘りの前に立っている。米友は特に頭をもち上げないで、仕事の手をも休めないで、
「何か用かい」
と答えました。
 米友としては、この人が来たために、特に仕事の手先まで休ませて敬意を表さなければならない引け目を感ずるということなく、また、さいぜんお雪ちゃんをあしらったように、ともかくも木の根へ腰を卸して応対するほどの必要を認めなかったのか、それとも、人の来る度毎に手を休めて株根へ腰をかけていた日には際限が無いとでも思ったのか、そのままで仕事をしていると、
「ずいぶん骨が折れるでしょう」
と、先方からお世辞を言いますと、
「なあーに」
 米友は、鼻の先で返事をしながら、傍目わきめもふらずに鍬を使っていました。
 こういう働きぶりは、二宮尊徳に見られると非常に賞美される働きぶりなのですが、米友は、賞美されんがためにこうして働いているわけでもなく、お銀様もまた、使用人の勤惰きんだを見るつもりでここへ来たのではありませんでした。
「友さん」
「何だえ」
「少し、お前に頼みたいことがある」
 その時、米友がはじめて鍬の手を休め、腰をのばして、鍬の柄をあごのところへあてがって、まともにお銀様の方に立ち直りました。
「何だい、おいらに頼みてえというのは」
「ちょっと、お使に行ってもらいたい」
「ちぇッ……」
と米友が舌打ちをしました。
 それは、頼みを聞いてやらないという表情ではありません。せっかく精を出して、こうして木の根を掘っているところへ小うるさいが、事と次第によっては、頼まれを聞いてやらない限りではないという好意を知っているお銀様は、米友の舌打ちに頓着なく、
「この人たちと一緒に、長浜というところまで行ってもらいたいと思います」
「長浜――」
「え――長浜というところへ両替りょうがえに行って下さい、友さんはただ、用心について行ってくれさえすればいい、万事はこの人たちに頼んであるから」
 この時まで、お銀様の後ろ影を踏まざること二丈ばかりの間隔を置いて、鞠躬きっきゅうとしていた手代風のと馬子と、それに従う極めて従順なる一頭の駄馬とを、米友が流し目に見ました。
「つまり、おいらは、ただ用心棒だけについて行きゃいいんだな」
「そうです、この人たちに万事は頼んであります、こちらから、お金を持って行って、そうして、あちらで、そのお金を、ここの土地で使えるお金と取替えて来るだけの仕事なのです。ですけれども、なにしろお金のことだから、誰かしっかりした連れがあって欲しいと言いますから、そこで、友さんのことを考えつきました、用心に行ってやって下さいな」
「ああ、ああ、どっちへ廻ってもおいらは、用心棒に使われるように出来てるんだ――」
と米友は、やけのように言ったが、自ら軽蔑しているわけでもなく、頼まれることを拒絶するわけでもなく、くわを取り上げて、かたえの小流れのところへ行って手を洗い、そのついでに、ブルブルとかおを二つばかり水で押撫で、それから腰にたばさんだ手拭を抜き取って無雑作むぞうさに拭き立ててしまうと、もうそれで外行よそゆきの仕度万端が整ったのです。
 一頭の駄馬を中にして、一人の馬子と、馬わきの手代風なのと、それに宇治山田の米友(例の杖槍は附物)が前後して、この一文字道を長浜街道の方へ行く。その後ろ姿をお銀様は、米友が今まで掘り起していた木の株根の傍に立ち尽して遠く遠く見送っておりました。
 右の一行が山林叢沢そうたくの蔭に見えなくなってしまうと、広い荒野原の開墾地に、お銀様ひとりだけの姿です。
 この時分はちょうど真昼時なので、うらうらと小春日和が開墾地の土の臭いをあおるような日取りでしたけれど、お銀様がくるりと向き直って胆吹山に対し、ひたと向い合いになった時分に、胆吹山がにわかに山翼をひろげて、お銀様に迫って来るのを覚えました。

         二

 そこでお銀様は、胆吹山の挑戦に向って答えるように、ゆらりゆらりと右の開墾場から山を押して進んで行きました。
 以前、馬を曳いて来た一筋道とはちがって、今度は、あらく沿いの林をめぐって、めぐり尽すと、そこにまた一つの風景が展開されました。
 山腹が、ここへ来るとまたカーヴのなだらか味を見せまして、雄偉なる胆吹の山容そのものの大観はさして動かないけれども、裾の趣はとみに一変してきました。
 右の三合目ばかりの麓は、一帯に松柏がこんもりと茂る風情、左へかけて屋の棟が林の中に幾つか点々として見える。そのつづき、弥高いやたかから姉川あねがわの方へ流れる尾根を後ろにして宏大な屋敷あと、城跡と言った方がよいかもしれないほどの構えがあることを、明らかに見つけられるような地点に立ちました。
 ゆらりゆらりと山を押しながら行くお銀様の目は、この宏大なる屋敷あと乃至ないし城あとに向って、足は爪先あがりに上って行くのであります。
 その時、往手ゆくての林の中から、いかにもあわただしく転がり出して、こけつまろびつ、こちらへ向って走りきたる二つの物体がありました。
 不意ではあったけれど、こちらは驚くほどのことはありません。まさしくこの地方に見る、あたりまえの山稼やまかせぎの二人の農夫で、仕事着を着て、籠を背負ったなり。これはこの地特有の副業、或いは正業としての有名な、胆吹山の薬草取りのこぼれであることは疑うべくもありません。ただ、ちょっと驚かされたのは、かくあわただしく、こけつまろびつ走る二人のうちの一人が、何か胸に後生大事にかき抱きながら、ものに追われるもののように走り来る事のていが、穏かでないと見らるるばかりです。
 いよいよ近づいて見ると、その二人は、額にも手にも、かすりきずだらけで、着物もかなり破れ裂けている。妙な恐怖心と、はにかみをもって、お銀様にれ違うところまで来たが、存外、歩調がゆるやかになって、その胸に後生大事に抱いたものに眼をくれながら、何かお銀様の好奇に訴えてもみたいようなしなをして、
「いやはや、大変な目に逢っちまいました」
「どうしたのです」
とお銀様も、反問せざるを得ませんでした。
わしの子をとっつかまえましたよ、鷲の子を……」
「鷲の子を……」
 その胸にかい抱いたところのものを提示するように言いましたから、お銀様がとくとそれを見直すと、それは、ボロボロの風呂敷包にくるんであるとはいえ、中で、生きて動く気色がむくむくと見えました。
「お見せなさい」
「この通りでがす」
 彼等は、自慢半分に、風呂敷の結び目を少しはだけて見せると、まだくちばしの黄色くなりかけている一箇の猛禽雛が、幼いながらも猛然として、人を射るの眼を光らして、跳り立とうとしています。
「まあ、どこで捕りました」
硯石すずりいしの崖のてっぺんで見つけたから、仕事を休んでとっつかまえましたが、いやはや、これがために一日つぶしてしまった上、命拾いでござんした。ごらんなさい、この通り二人とも、からだじゅう傷だらけ、高い崖から転がり落ちてすんでのことに生命いのちを粉にするところでござんしたよ」
「珍しいものですね」
「鷲の子なんぞは、なかなか捕まえられるもんじゃござんせん、親鳥にでも見つかろうものなら、今度はあの爪で上の方へ……命がけの仕事なんでがすが、でも、親鳥は留守でござんしてなあ」
「そうして、お前さんたち、せっかくつかまえたこの鳥を、これからどうしようというの」
「さあ――」
と二人が、お銀様から尋ねられて、改めてかおを見合わせましたが、
「うちへ連れて行って飼って置きてえと思うんでがす」
「そうですか、えさには何をやるつもり?」
と、お銀様から畳みかけられて、二人はまた面を見合わせてしまい、
「さあ――」
「何を食べさせて置きますか」
「そうだなあ――何をったって、こちとらの身分じゃ、特別のものをあてがうわけにもいきましねえから、あわひえを、わしらのうちとら並みに食べさせて、育ててみてえと思っとるでがすが」
「それは、いけません」
と、お銀様は二人の農夫の言い分を頭から蹴散らしたものだから、彼等も眼を白黒させ、
「いけませんかねえ」
「鷲という鳥は、粟や稗なんぞを食べやしません」
「そうですかね」
「そうだともさ」
「では、何を食べさせたらよろしうござんしょうね」
 彼等はお銀様に向って憐みを乞うもののように教えを仰がんとするていです。彼等は、ただ、この猛禽の子を見つけ出したという興味と、それを捕えることの緊張さから、正当の職業である薬草取りの一日の業を抛擲ほうてきしてしまって、生命いのちがけでこの一羽を巣の中から捕獲して来は来たものの、その前後の処分法については、あまり考慮をめぐらしていなかったのです。小鳥山鳥を捕まえて来たと同様に、当座は何でも有合せの雑穀をあてがって置き、それからしかるべき買い手を見つけたら相当にいい値になるだろうの漫然たる予算だけであったのが、お銀様のために頭からそれを否定されたのですから狼狽ろうばいしました。
「生きたものでなければ食べやしません、鷲という鳥は、鳥の中の王様ですから」
「あ、左様でございましたなあ。生きた物、生きたものなら何でもよろしうございますか」
「生きたものといっても、トカゲやイナゴなんぞを食べさせてもダメですよ、生きたものの肉でなければ鷲の子は育ちません、さし当り兎なんぞがいいでしょう」
「兎の生きた肉を食べさせるのでございますか」
「ええ毎日――少し大きくなると、一匹や二匹では足りないでしょう」
「あてこともねえ、毎日、兎を二三匹も食いこまれちゃたまることでねえ」
と、抱いてた一人が、自分の身でも食いきられるかのように悲鳴をあげました。
「とてもやりきれた話でござらねえ」
 二人は、この時、はじめてかおを青くしてしまいました。
 事実、この二人の者の身上で、一羽の鳥とはいえ禽類の王者の子を手飼いにしようとは、分に過ぎた扶持方ふちかただと、この時、はじめて観念せざるを得なくなったに相違ありません。
「どうしような、欲しいという人はねえか知ら、誰かいい買い手を見つけて売ってしまうことだ」
「そうだ」
 二人がこう言って吐息をつくのを、お銀様が受取って、
「お前さんたちが、相当の値段でゆずってくれるなら、わたしが買って上げてもようございます」
「え、奥様が買って下さる?」
「え、売っていいなら、わたしに譲って下さい」
「どうしような」
「でもなあ――せっかく命がけでつかまえて来たもんだからなあ」
 彼等は売りたくもあるし、そうかと言って、生命いのちがけでつかまえて来たものを、あたり近所へも披露しないで、ここですげなく譲り渡してしまうことにも、多大の未練があるらしい。
 その煮え切らない返答ぶりが、お銀様の興を損じたものか、お銀様は駄目を押すこともなにもしないで、二人を置去りにして、ゆらりゆらりと前へ進んでしまいました。
 取残された二人、売ろうか売るまいか、思案に暮れて、まだ茫然と猛禽の子を抱いたまま、お銀様の行く後にぼんやりと立っている。お銀様は、ゆらりゆらりと、それでも歩くものと歩かないものとの距離ですから、みるみる相当の隔りが出来たが、このひやかしのお客様は、柳原河岸で洋服の値切りをする客のように、番頭の呼戻しを待っているという駈引きもないと見えて、さっぱりと歩み去って行くのに、未練たっぷりの二人はまだ立去りきれないで、馬鹿な面をして、お銀様の後ろ姿を見送っているばかりです。
 こうして、お銀様の姿の小さくなるまで見送ってまだ立去りきれなかった二人が、また改めて面を見合わせて、
「ありゃ、このごろ、お城あとの地面が売れたそうだが――あのお城へ来る奥様じゃねえか」
「そうかも知れねえ」
「国中一番の大金持だって話だから――」
「そうだ――なら、お気の変らねえうちに売ってしまった方がいいかも知れねえ」
 その時、二人とも、また逆さにころがり震動してお銀様のあとを追いかけ、
「おーい」
「もうし」
「もうし」
御新造様ごしんぞさま――」
「お城あとの奥様」
 呼ばれてお銀様が振返ると、
「もうし、この鳥をいくらで買うておくんなさる」
「いくらでも、お前さんたちの欲しいと思うだけの値をつけてごらん」
「え!」
 彼等二人は、またそこで二の句がつげなくさせられてしまいました。

         三

 そこで、とうとう、猛禽の子売買の路上取引は成立せず、ついにお銀様は大手の崩れ門から城跡の中に身を隠してしまいました。
 お濠外ほりそとに残された二人の農夫は、相変らず馬鹿なかおをして、ぼんやりと、相手を呑んでしまってけろりとしている門内を見込んでいるばかりです。
 そこで、門内へ入ったお銀様の手に何物も抱えられていず、ぼんやりと取残された二人の男の中の一人の腕に、最初の通り、禽王子入りの風呂敷包が後生大事に抱えられている。
 一方は売ろうと言ってわざわざ追いかけて来、一方はいくらでも糸目なしに買おうと申し出でたらしいのに、その取引が行われずして、一方は手ぶらで門内へ入り、一方は、あっけらかんとして、物品をストックしているていは少し変です。
 しかし、その取引は取引として、お銀様が何物も持つことなくして、この城あとの大手の崩れ門から入ると、早くも戞々かつかつとして斧の音、のみの響が伝わります。
 邸内は今し、盛んな普請手入れの時と思われます。
 大手の崩れ門から入ったお銀様は、鷹揚おうようとして、この領土をわがもの顔の気位は更に変りないところを以て見れば、この普請、手入れ、斧の音、鑿の音というものも、他人のものではなく、自分の権力によって動かされている物の音だと聞かないわけにはゆきますまい。事実――お銀様のこの間中の理想と、計画と、実行とが、ここにこうして現実に行わるるの緒につきつつあるのです。
 と言ってしまっただけでは、地理と方針に、多少の無理があり、撞着どうちゃくがあることを、不審とする人もありましょう。
 第一、あの時に不破ふわの関の関守氏の紹介によって、お銀様が西美濃の地に、かなり広大な地所を購入し、岡崎久次郎の助けを求めず、西田天香の指導を仰がずに、ここへお銀様独流の我儘わがままな、自由な、圧制者と被圧制者のない、搾取者と被搾取者のない、しかしながら、統制と自給とのある新しき王国を作ろうとして、そのことをトントン拍子に進行せしめたのは、前に言う通りであるが、その土地というのは、あの時の話であってみると、足利尊氏あしかがたかうじ以来の名家、西美濃の水野家の土地を譲り受けるということであったが、ここへ来て見ると、これは見る通り胆吹山の南麓より山腹へかけて――北近江の地になっています――その間に、どういう変化があったのか、或いは実地踏査の結果、西美濃の地が何か計画に不足を感じているところへ、偶然この北近江の地の話があって、急に模様変えになったのか、その辺の事情はまだわからないが、しかし、北近江といっても、ここは西美濃と地つづきの地形だから、変化融通がきいて、現実の示す通り、彼女はここに王国のいしずえを置くことになったものらしい。
 この界隈すなわち――京極の故城址上平寺かみひらでらを中心にして、左に藤川、右は例の弥高いやたかから姉川にかけての小高い地点、土地の人が称して「お城跡」という部分の広大な地所内を、お銀様が我物顔に、この驕慢きょうまんな歩みぶりを以てみれば、この辺一帯の地は、まさしくこの人の所有権内にうつり、そうしてお城あとの中の「江北殿こうほくどの」と呼ばれている部分の修補と復興が、これから女王の宮殿となり、新理想境の本山となろうとするものであるらしい。
 そこへ、ひょっこりと、奥の方から姿を現わした、撫附髪なでつけがみに水色の紋つきの年配の男がありました。
「や、お帰りでござったか」
「はい」
「飛脚の方は滞りなく出立を致させましたから、御安心ください」
「御苦労さまでした」
 その撫附髪に水色の紋つきというのは、見たことのあるようなと思うも道理、これぞ、短笛を炉中に焼いて、おのが身の恋ざんげを試みた不破の関屋の関守氏でありました。
 その取りしきりぶりを見ると、この男は、あれから不破の関屋の関守をやめて、ここに来て、もっぱらお銀様の事業の番頭役を引受けている気分は確かであります。
 ここで右の関守氏は、右のわがままな女王を案内して先に立ち、お銀様のために、江北殿の隅々の案内に当ります。その途中、説明するところを綴り合わせてみると、江北殿というものには、ほぼ、次のような歴史があるのでした。
 お城あとはいにしえ佐々木京極氏のお城あとであり、江北殿はその京極屋形のあったところだという。京極氏は江北六郡の領主で、元弘建武以来の錚々そうそうたる大名であり、山陰の尼子氏の如きもその分家に過ぎない――松の丸の閨縁けいえんによって豊臣秀吉の寵遇ちょうぐうを受け――といった名家であることは、不破の関屋の関守氏が事新しく説明するまでもなく、お銀様の歴史の知識には充分なる予備がある。お銀様は、その名家の屋形のあとをそっくり自分のものにすることに、多少の満足を覚えていないではない。
 不破の関守氏は、屋形の隅々をめぐり、ここを指し、彼処かしこを叩いて、往昔の居館の構図を聯想してお銀様に地の理を説明し、ほぼその要領をつくした後に、お銀様のための居館としての一部まで戻って来ると、そこで、自然に別れて、関守氏は工事の監督の方へ取って返し、お銀様はお銀様で、このやかたの中へ没入してしまいました。

         四

 その前後の時、このお城あとの西南隅のピークの一角に、お雪ちゃんがおりました。
 これは別に離れのようになっているけれども、離れではありません。あちらを本丸とすれば西の出丸になります。廊下伝いに渡って行ける間柄ではあるが、庭を廻って、縁側から出入りするのがかえって人の勝手になっているのは、その縁から庭先が開けてすばらしいながめになっているせいでしょう。お雪ちゃんも、この縁先へ台所仕事を持ち出してやっていることほど、このすばらしい情景をよしとしました。それはそのはずです、ここから眺めてごらんなさい、日本第一の大湖、近江の琵琶の湖の大半が一目なんです。
 自然に、その琵琶の湖をめぐるところの山河江村までが眼の下に展開されていようというものですから、誰だってこの縁先を祝福せずにはおられない道理、まして風景を愛することを知るお雪ちゃんのことです、さいぜんみ取って来た野菜類を洗って、ここへすくい上げて来て、まないた、庖丁、小桶の類までこの縁先に押並べて、そうして琵琶湖の大景を前にしてはお料理方を引受けているところです。
 お雪ちゃんが庖丁を使っている手を休めて、まぶしそうに眼を上げて、またうっとりと、なだらかな胆吹尾根から近江の湖面を眺めやった時――壺中の白骨しらほねの天地から時あって頭を出して、日本の脊梁せきりょうであるところの北アルプスの本場をお雪ちゃんは眺めあかしておりました。それからふと、飛騨の高山の相応院の侘住居わびずまいへ居を移してみると、眼下に高山の市街を見て胸が開いたほど眼界の広きを感じましたが、今ここへ来て見ると、その比較ではありません。
 さすがに日本第一の琵琶の湖は大きい。周囲七十五里と言ってしまえば、それまでですけれども、こうして見たところ津々浦々は、決して七十里や百里ではないように思われてなりません。
 まして、この大湖の岸には、飛騨の高山と違って、日本開闢かいびゃく以来の歴史があり、英雄武将の興亡盛衰があり、美人公子の紅涙があるのです。さすが好学のお雪ちゃんにしても、いま直ぐにその歴史と伝記を数え挙げるに堪えないのですけれども、歴史と伝記に彩られているこの山水の形勢が、お雪ちゃんの詩腸を動かさないということはありません。
 あわただしい今日の日が過ぎれば、やがていちいちの指呼のあの山水についての、人間の残したロマンを訪ねることが、今のお雪ちゃんの生活に清水のようにたたえられているのです。
 今も、うっとりとながめていると、ふと比良ヶ岳のこなた、白雲の揺曳ようえいする青空に何か一点の黒いものを認めて、それを凝視している間に、みるみるその一点が拡大されて、それは鵬翼ほうよくをひろげた大きな鳥、清澄の茂太郎がよろこぶアルバトロスを知らないお雪ちゃんにとっては、まあ、何という鳥でしょう、あんな大きな鳥は見たことがありません――白骨の山の奥にいる時だって見たことのない鳥。
 そう思って右の一点の鳥影から眼をはなすことではありませんでしたが、その鳥は次第次第に近づいて来て、お雪ちゃんのやかたの上へ来ると、姿が見えなくなりました。
 お雪ちゃんにとっては、その大きな鳥は、今し、あの湖水のあちら側の比良ヶ岳から来て、そうして、自分のいるこの裏山の胆吹まで、ほとんど一息に飛んで来たように思われないではありません。
 鳥の姿は、こうしてお雪ちゃんの頭上から胆吹の山に向って消えてしまったが、それはそれとして、なお山水の大景に見惚みとれていると、不意にまた頭上で、バサと大きな物音がしたのに驚かされました。頭上とは言うけれども、この館の屋根の上よりも高いところです。この屋根の上からピークへかけて押被おしかぶさったように、枝をひろげた大きな松の木がありました。それは何百年という松の木で、直ぐこの庭の中央に根を張っているのですが、幹がすっくと太く高くて、枝が上空に一むらをしているものですから、遠く望めば霊芝れいしの如く、車蓋しゃがいの如く、庭へ出てみると、その高い枝ぶりは気持がいいのですが、この室内では盤崛ばんくつしている太い幹と根元を見るだけで、枝葉は見えないのです。
 頭上の物音というのは、この大きな松の上からバサと起りました。
 そうすると、そのあたりいっぱいに影を引くように舞い下りたものは例の大きな鳥、以前にも大きな鳥に相違ないとお雪ちゃんはながめたのだが、今度のは、ほんとうに、眼の前、咫尺しせきかん羊角ようかくして飛び下って行くのですから、とやから追い下ろされた鶏を見るほど鮮かに、その鳥の形を見ることができて、ハッと眼を澄ましました。
わし!」
と直覚的に、お雪ちゃんはさとりました。鷲の実物をまだこんなに近く見たことのないお雪ちゃんでしたけれども、鷲でなければこんな大きな鳥はあり得ないという直覚と、実物ではのあたりに見ないが、絵ではずいぶん見せつけられている猛禽の王の姿が、はっきりと眼の前に落ちたのです。
 眼をすましていると、右の猛禽は、すさまじい勢いで羽ばたきをして、羊角に中空を押廻り、それから急に翼を旋回して、ほとんど地上とすれすれに舞い下り、そうかと思うと、また相当に高く舞い上っては、思い出したように直下して来るかと思えば輪なりになって舞っている、その挙動が何となしに尋常でないことを想わせられてなりません。
 右の大鷲は、いったん胆吹のとまり所へついたが、何をか見つけたものだから、また飛び戻って来たのだ、何かこの下の平原で見つけものをしたものだから、それを捕りに来たものらしい。
 お雪ちゃんはそう思って鳥の挙動を見守ると、全く物狂わしいように横転、逆転、旋回、飛上、飛下を試みているのが、いよいよ只事とは思われないのです。
 恐ろしい鳥、鳥の中での王――あの勢いで人間をさえさらって行くことがある。何をあの鳥が地上に見つけ出したのだろう、ねらわれたものこそ災難――
 お雪ちゃんはそう思って、下の原野を見おろしたけれど、鳥は中空にあるから見得られるものの、獲物えものがこの眼の下いっぱいの原野のいずれにあるということなどが認められようはずがありません。
 鷲が人間を攫うということはいつも聞いている――もし不幸な人間の子が――もしや、米友さん――あの人は小さいから、もしや子供と間違えられて、あの荒鷲の餌食に覘われているようなことはないか。ああして一心に木の根を掘っているところを、後ろから不意にあの大鷲の鋭い爪を立てられるようなことはないか。鷲が大人を攫ったという話はまだ聞かないが、子供を攫ったということは極めてよく聞いている。米友さんは柄が小さいから、鳥の眼には子供と見られない限りもない――お雪ちゃんは、とりあえず、米友のためによけいなことまで心配になって、わざわざ縁を下りて、下駄をつっかけて、ここから左へよればやはり視野の一部分の中にはいる、さいぜん米友があらくを切っていた開墾地のあたりを見とおしましたけれども、それらしい人の影が認められませんでした。それにも拘らず、大鷲の物狂わしさはいよいよ一層でありました。
 単に獲物を覘うならば、あんなに騒ぐはずはない、猛禽の中の王ともあるべき身が、兎や小鳥をあさるのに、あんなに仰々しい振舞をするはずはないと、お雪ちゃんは案ぜられてきました。
 地上を探しあぐねたように、この猛禽は、今度は一文字に羽をのして、弥高いやたかから春照しゅんしょうの方の人里へ向けて飛び狂って行くようでしたが、そのうちに姿が見えなくなったのは、遠く雲際に飛び去ったわけではなく、近く胆吹の山中へ舞い戻ったわけでもなく、どこをどこと見定めたわけではないが、お雪ちゃんの眼には、たしかにあの人里の中へ大鷲が飛び下りてしまったと思わずにはおられません。
 そうだとすれば、あの勢いで村里へ舞い下りたとすれば、村里一帯の不安が思いやられる!
 一匹の狼、一頭の猪でさえ村が荒される、まして肉を裂くに足る鋭い爪と、血を吸うことに慣れたあの獰猛どうもうくちばしと、それから千里を走る翼を備えた、猛禽の王様に侵入されてはたまらない――何か、あの不安を村の人に知らしてやるすべはないものか。
 お雪ちゃんは、そんなことを考えながら、再び無事にあの猛禽が中空高く舞い上り、飛び戻って来ることを望んでいたが、どうしたものか、さっぱりその音沙汰がありません。
 お雪ちゃんは、村里の安否も気になるが、猛禽の消息も気にかかってなりません。
 そんなことまで思い惑うているところへ、庭から人の足音がして、はっと思う間に、それが例によっての覆面のお銀様であることを認めました。

         五

 お雪ちゃんは、お銀様の姿を見た瞬間にいずまいを直してしまいました。無論、たすきをとって、極めていんぎんに挨拶をしました。
「ここはよい景色でございますね」
とお銀様が言う。
「はい、おやかたのうちで、景色はここが一番よろしうございます」
「この松も、いい松ではありませんか」
「全く、見事な松でございます」
「あなたは、ここから見た琵琶湖附近の名所名所を御存じですか」
「いいえ――まだ、ずいぶん昔からの名所でございますそうですけれども、調べてみる暇もございません、教えて下さる方もございません」
「二人で少し調べてみましょうか」
「はい」
「お仕事が忙しいの?」
「いいえ――どうでもよろしい仕事なのでございます」
「では、もう少しこちらへいらっしゃいな」
 少しでも多くの視野をひろげられるように、お銀様は、お雪ちゃんを自分の身に近く招き寄せましたから、お雪ちゃんはそのまま縁先ににじり寄ると、
「ごらんなさい、あの比良ヶ岳から南へ、比叡山の四明ヶ岳――その下が坂下さかもと、唐崎、三井寺――七景は雲に隠れて三井の鐘と言いますが、ここではその鐘も聞えません。唐崎の松は花よりおぼろにてとありますが、その松もここでは朧ろにさえ見えはしません」
「けれどもお嬢様、そのつもりで、こうして眺めておりますと、三井寺の鐘が耳許みみもとに響き、唐崎の松が墨絵のように浮いて出る気持が致すではございませんか」
「そう思えばそうですけれども、物足りない思いもします」
「一日、ゆっくりおともをして、あの辺を見て歩きたいものでございます」
「そのうちに、一緒に出かけましょう、こちらの岸から船を浮べて、船でゆっくり八景めぐりをしたいものです」
「お船でしたら、それに越したことはございません、おともをさせていただきたいものでございます」
「そんなに遠くないうちに、その暇が得られるだろうと思います」
「楽しみにしてお待ち申しております」
「それから、お雪さん――」
と、お銀様が改まって呼びかけたものですから――お銀様はお雪ちゃんと呼ばず、お雪さんと呼ぶのです――そこでお雪ちゃんが、
「何でございますか、お嬢様」
「あなたにまた少し、御面倒を願わなければならないことがございます、実は、あなたにこれから勘定方を引受けていただきたいと思うのでございます。こうして工事に取りかかっておりますと、何かと入目いりめを取りに来る者がありまして、いちいちわたし一人で払渡しをしたり、受取をやりとりしたりすることは容易でありませんから、その仕事をひとつ、あなたに引受けていただきたいと思います。つまり、この屋敷の勘定方、会計方をあなたにお頼みしたいのですが」
「まあ、そんな大役がわたしにつとまりましょうかしら」
「いいえ――ただ、お金を少し預かっていただいて、その出入りを記して置いていただけばよろしいのです。そうして下さると、わたしが助かります。わたしはまた関守さんを相手に、この古館ふるやかたを新しくするいろいろの設計や、田畑の開墾や、人の出入りなどに気を配らなければなりませんから」
「ずいぶんお忙しくっていらっしゃいましょう、それならば、わたしでお役にたちますことならば、一生懸命おつとめを致しましょう。でも、お金の会計方は、わたしなんぞでは、あんまり大役過ぎるかと思います」
「いいえ――慣れればやさしいことです。ただ、お金を扱っていることが悪い人に知られると、それをねらうものが出来てきますから、そのつもりで、お金の番人はあの米友さんにでも頼んで置いて、あなたは人に払い渡してやることと、人から受取ることだけをおやり下さって、それをいちいち帳面につけていただきさえすればよいと思います」
「そういうわけでございましたなら、米友さんを相手に――御用をおつとめ致してみましょう」
「有難う――では早速お頼みしましょう、ここへ少し持って来たのですが」
と言ってお銀様は、抱えて来た小箱の包みを解いて、ふたをあけながら、
「これから、この土地をひらくについては、相当にお金も要ることとおもいましたから、今日飛脚を甲州へ立ててもらって、お金を取寄せることにしました。とりあえず道中の路用のうちを、お角さんという人から受取って、当座の費用にあてることにしましたが、どうも、土地土地でお金が変るものですから、両替をしなければなりません。それでまた、たった今、あの長浜というところへ使を頼んで、お金の両替をしてもらうことにしましたから、そのうちこまかいのも参るでしょう、とりあえず、このお金を預かって下さい」
と言って、お銀様が無雑作むぞうさに箱の中からつまみ出したのは、幾片いくひらかの小判でありました。
「甲州を立つ時に、父がわたしのために路用だと言って、あのお角さんという人に預けたお金を、半分は手附としてこの土地の持主に渡しました、その残りを、わたしがこちらへ来る時にお角さんが渡してくれました、それをまた三つに分けて、あの人にも持たせてやりました、その一つは、いま長浜へ両替にやりました、残る一部がこれなのです――数えてみると小判が五十二枚だけありました」
「まあそんな大金……」
 お雪ちゃんは、思わず眼をみはりました。お雪ちゃんとしても、単に金銭に眼がくらんだというわけではなく、あんまりお銀様の金扱いが大まかなのに、ちょっと驚かされたのです。
 五十二枚の小判を、無雑作に他人の眼の前へ持って来て、余り物でも処分するような扱い方が、お雪ちゃんには意外に思われてたまらなかったのです。お雪ちゃんとしても、そう卑しい生立ちではないから、千万金を見せられようとも、時と場合によっては、心を動かすようなさもしい人柄ではないけれども、お銀様のあまりざっくざっくした扱いぶりに呑まれたような形で見ていると、お銀様が、
「いいえ、大金というほどではありませんけれども、それでも、払渡しや買物に、これでは扱いかねることがありますから、別に五十二枚だけ、いま申しました通り、長浜へ両替にやりましたから、そのうちに戻りましょう、小出しは小出しとして置いて、これはまたこれとしてお預かり下さい」
「では……お引受け致しました以上は、ともかく米友さんの帰るまでお預かりして置きまして――」
「どうぞ、そうして下さい」
「念のために、一応おあらためを願います」
「はい――」
と言って、お銀様はわるびれずに、自身その箱の中から小判を取り出して、いちいちお雪ちゃんの眼の前で数を読み、
「この通り、五十二枚ございます」
「確かに五十二枚――そうして、お金につもれば幾らになるのでございましょうか」
「ホ、ホ、ホ」
と、お銀様が珍しく軽く笑いながら、
「お金につもればと言っても、これがそのお金そのものじゃございませんか」
「まあ、ほんとうに左様でございました、小判五十二枚ですから、五十二両でございますね」
「え、一枚を一両と覚えていらっしっていただきまして、その値段は、小判のたちによって違うのでございます」
「そのように聞いておりましたが、この小判は……」
「これは、たちのよい方の小判なのです、ごらんなさい、享保小判と申しまして、これでこの一枚の重さが四匁七分あるのです」
と言って、お銀様は小判の一片ひとひらを指の上にのせて、目分量を試むるかのように、お雪ちゃんの眼の前に示し、
「一枚の重さが四匁七分ありますが、それがみんなきんというわけではありません、そのうちの六分三毛というのがほかの混ぜものなのです、純金ばかりでは軟かくってお金になりませんから――そうして、この一両を小銭に替えますと、六貫五百文ほどになるのです」
と、お銀様が説明しました。つまり一両の享保小判の全体の重さは四匁七分あって、混ぜ物が六分三毛あるから差引そのうち正味の純金が四匁九厘七毛だから、これを銀にかえ、小粒こつぶに替え、銭にかえたら幾ら――西暦一九三三年前後、世界各国が、金の偏在と欠乏に苦しんで、それぞれ国家が金の輸出を禁止し、日本の国に於ても、公定相場が持ちきれなくなり、その一匁市価が十円まで飛び上ったとして、右の享保小判の一枚は四十七円に相当するから、五十二枚は二千四百四十円ばかりの勘定となる――それだけの金を、旅費の一部分として無雑作に目の前に出されたことに於て、今更、お雪ちゃんも、この人の実家というものが、底の知れないほどの長者であることを思わせられずにはいないと共に、そうかといって、それを湯水、塵芥ちりあくたの如く扱うわけでもなく、量目の存するところは量目として説明し、換算の目算は換算の目算としての相当の常識――むしろ、富に於てはこれと比較にならない自分たちの頭よりも、遥かに細かい計算力を持っている様子に於て、お雪ちゃんは、このお嬢様は金銀の中に生れて来たが、金銀そのものの価値を知らないお姫様育ちの娘ではないということの、頭の働きを見て取ることができました。
 昔、三井みついであったか、鴻池こうのいけであったかのお嬢様が、ある時、述懐して言うことには、
「世間の人が、お金が無くって困ると口癖に言いやるけれど、いくらお金が無いと言いやる人でも、に一杯や二杯は持っていることだろう」と。
 このお銀様は、そういった種類のノホホンなお嬢様とは全然違うということを、お雪ちゃんはちらと思い出してみました。事実、この目の前にいるお嬢様のお家というのは、三井、鴻池、奥州の本間といったような家筋に、優るとも劣らない長者でおありなさるにしても、このお嬢様こそは、鷹揚おうようなところはドコまでも鷹揚ではあり得べしとも、細かいところは充分細かく眼が届き、頭が働く人柄だと思わずにはおられません。それがかえって、この際、お雪ちゃんの心を頼もしいものにしました。世間知らずのお嬢様から、無算当に大金を預かるということよりも、知るところは知り尽している人から、情を明けて頼まれる方が、頼まれ心がよい――ということをお雪ちゃんが感じました。そういうことをお雪ちゃんが感じながら、二人さし向って話しているうちに、眼下の原野の中の遠方から、轟然ごうぜんとして一発の鉄砲の音が聞えると共に、森の中から、人が蟻の子のようにこぼれ出したのを、二人とも殆んど同時に認めました。
「何でしょう」
と、まず不審を打ったのはお銀様でした。
「そうでございます、何か騒がしい様子でございます」
とお雪ちゃんも相鎚あいづちを打ちました。
 やや遠く、鉄砲の音だけでしたら、二人ともそんなに不審がることはなかったでしょうが。人が蟻の子のように散乱したものですから、それで、何か相当に穏かならざることが起ったのではないかしらと、多少不安がらせる空気があったのです。
 その時、また、さきほどこの場へお銀様が訪れない以前、お雪ちゃん一人で空想と実景にあこがれている時分に、お雪ちゃんの印象をつかまえた、あの大きな鳥――アルバトロスを知らない限り、日本の本土で見る最も大きな鳥であり、強さに於ては鳥類の世界を通じての王者であるところの、わしの姿が、突然またあの森の中から見え出して来ました。
 この大きな、そうして強い鳥が、あの村里の森の中に今まで潜行していたと見えるが、今しパッと舞い上って、空中に姿を現わしてみると、また急に低く飛び下り、低く飛び下ったかと見ると、また、やや高く舞い上ったのです。その途端にパンパンと鉄砲の音が続けざまにまた聞え、同時に、蟻の子を散らしたような人が、あちらこちらへ去り飛ぶのをハッキリと二人が認めました。
 そこで、お雪ちゃんには、はっきりと、それだけの光景のおこりがわかりました。ああ、そうだ、さいぜんの大きな鷲が人里に下ったものだから、それを認めて、村人が騒ぎ出したのだ、だが、それは大きな鷲を見ていないこのお銀様には合点がてんのゆかないことだろうと、
「わかりました、わかりました、お嬢様、わたくしが先程ここで見ておりますと、あの比良ヶ岳の方から一羽の大きな鷲が参りまして、それが、この胆吹の上からやかたの屋根の上を飛び廻っておりましたが、やがてあの村へ飛び下りたのは、たった今のことでございました、それを村の人が見つけて捕まえようとして騒いでいるのでございましょう」
「ああ、そうですか、あの大きな鳥は鷲でございますか」
とお銀様も、またその鳥の姿を見ていると、或いは高く、或いは低く、村里と人の頭上にのぼりつ降りつして、その辺を去らない鳥の挙動を、いよいよ不審だと思わないわけにはゆきません。
 いくら鳥類の王、無双の猛禽にしてみたところが、人類の威嚇を怖れないというはずはない。まして、その様式の程度は知らない、種ヶ島時代の遺物にしてからが、鳥おどしの価値だけは充分につとまる、あの鉄砲というものの音を聞いて走らない鳥はないはずなのに、あの鳥は自家の勇力をたのんでか、高く低くあの通りにして人里と人の影を怖れない、見ようによっては人間と相争うかの如く、また人間を憤るかの如く、また人間を揶揄からかうかの如く、つかず離れずに空と地とで対峙たいじしているのであります。人間の騒いでいることは、猛禽の襲来に備える意味から言っても、同時にこれを捕えんとする慾望から言っても、当然のようなものだが、それと対抗して去らない鳥の挙動こそせない――と眉をひそめた途端に、お銀様がハッと気のついたことがありました。
 それは先刻、開墾地方面をゆらりゆらりと歩いていた時分に、パッタリ行会って、それから取引の開始となって、押しつ押されつ、それっきりになったあの二人の山狩が、つかまえた鷲の子のことでありました。
 それが思い浮ぶと、お銀様は覆面の中で二三度うなずいて、
「わかりました、わかりました」
と、さきほどお雪ちゃんが言った通りに鸚鵡返おうむがえしをして、
「あの鳥が村へ下りたのは、自分の子を取戻したいために下りたのでございます」
「どうして、そんなことがおわかりになりますか」
と、その以後ばかりを知って、以前を知らないお雪ちゃんには、以後を知らず、以前を体験しているお銀様の言うことが、全くわかりませんでしたけれど、実はこの場合、二人の実見を合わせて、はじめて完全な全体観が出来上るのでありました。お銀様がそれを説明することは雑作もないことでした。
「それはね、ごらんなさる通り、あの大きな鳥は、村里の上を離れないで、村人と追いつ追われつしているでしょう、珍しく鳥の中の王様が人里へ現われたものだから、村の人の騒ぐのは無理はないが、鉄砲の音にも驚かずに、ああして鳥が離れないのは、あれは、村の人に自分の子を捕られたから、それを取戻そうとしてねらっているのです、わたしはさきほど、村の人がこの鷲の子を捕ったのを知っていますから、あの大鷲の心持がよくわかります」
「あ、左様でございましたの、それで、自分の子を取戻したいがために、ああして鉄砲の音にも、人の数にも怖れないで、戦っているのでございますね」
 二人は、その出来事に、すっかり解釈がついてしまうと同時に、それをながむる興味もいっそう高潮してきました。
 人と鳥との争い――それはいずれが勝つかということの興味よりも、お雪ちゃんの心では、あれほどの執着だから返してやればよいのに――捕えた子供をはなしてやりさえすれば、猛禽も満足して帰ることでしょうのに。ところが、ああなっては人間も慾だから、捕えた子を返してやらないのみか、飛び込んで来た親をまで捕えずには置くまいとして意気込んでいるのだ。
 ですけれども、この場合、親鷲に勝利を得させてやりたい――ような心持が、お雪ちゃんの胸の中では繰返し繰返し念ぜられてならないのに、覆面のお銀様は冷々として、人鳥いずれが勝とうとも、負けようとも、われ関せずといったような素振りでながめているのが物足りない。
 そうしているうちに、鉄砲は引きつづいてパンパンと鳴り、なかには弓矢を持ち出したり、長竿をかつぎ出したりするものまで見えましたが、鳥の姿がまた森かげに隠れて見えなくなってしまいました。しかし、村人がまだ騒がしい気分を以て走り廻り、立惑うているところを以て見ると、大鷲を射留めたものでも、捕縛したものでもないことはよくわかります。
 こうして、やや長いこと、おそらくは何とか解決のつくまでは、二人はこの場の光景から眼をはなせないことになっていると、けたたましく、前庭の木戸口から人の息せき切った発音があって、
「申し上げます、只今、村の人が大勢これへ押しかけて参りまして、生捕った鷲の子を、いくらでもいいから、こちらの奥様に買っていただきたい、買っていただけなければ、暫く預かっていただきたいなんぞと申して、これへ持って参りました、いかが取計らいましょうか」
 この報告を聞くと、お銀様が、だから言わないこっちゃない――と言いたそうな表情で立ち上り、
「今、そちらへ参ります」

         六

 お銀様が急に立去った後、急にお雪ちゃんは、何かとそぐわない気持で、ぼんやりしていると、後ろから、
「お雪ちゃん――」
「おや、弁信さんじゃありません? 弁信さん、あなたもあんまりですね」
とお雪ちゃんは、振返って弁信の姿を見るが早いか、こう言ってえんじかけたほど、事が急促の思いになりました。
「はい」
 抜からぬかおで立っている弁信の姿を改めて見直すと、お雪ちゃんが、こみ上げて来るような悲痛と、それから、何と言っていいか知れない、昔の感じにあおりかけられました。
 それは、その昔、弁信が自分の家の甲州上野原の月見寺で、机竜之助に斬られた時のあの表情と少しも変らない、やつれきった姿であるのを見ると、この人は、斬られて来たのではないかと、胸を打たれるような心になると共に、そのあたりの光景までが、弁信が伝って来た廊下づたいの構えまでが、あの時の自分の家の寺の住居そっくりが、ここへ移されたのではないかと、お雪ちゃんは一時、くらくらと瞑眩めまいがするようになって、
「弁信さん、お前さんはまあ――」
と言ったきりです。
「お雪ちゃん、どうですか、この新しい村の、新しい御殿の住み心地は……」
と言いかけた弁信の調子は、少しも変ったものではありませんでした。無論、斬られてなんぞ来たわけではなく、これがいつもの調子の弁信なのですが、この際のことが、なんだか不意に出たようなものですから、お雪ちゃんの神経が少し昂奮し過ぎていたのでしょう。
「大へん、ようござんすね、よろしうござんすけれども、弁信さん……」
 お雪ちゃんは、とりあえず問いに答えておいてから、引続いて、やっぱりうらごとの筋を引くことを如何いかんとも致し難く、畳みかけて詰問でもするように、
「あなたという人も、あんまりじゃありませんか、わたしをこんなところへまで連れて来て――連れて来て下さった御親切も、こうして何とは知らないけれども、住み心地は悪いとは思えないところまで、連れて来て下さった御親切は有難いですけれども、わたしの会おうとしている人に、ちっとも会わせて下さらないじゃありませんか」
「ああ、そのことですか」
「そのことですかじゃありません、美濃の国の不破の関へ来て、鈴慕の曲をまで聞かせて下さっておきながら、それからあとはどうしたのです、あなたはどうしてわたしの会いたい人に会わせて下さらないのですか――鈴慕が聞けるくらいのところにいるのですから、あなたさえ会わせてやろうとお思いになれば、今日すぐにでも会えるに違いないと思いますのに、それを、あなたは会わせて下さらない、ただ会わせて下さらないだけならいいけれども、もしかして、あなたは、わたしをあの人から遠ざけようとなさるのじゃないかしら、それも、あなた一流の親切から出でてそうなさる、意地悪でなさるのではないことはよくわかっていますけれども、そんなにまで、わたしというものが、たよりない、意気地ない人なのでしょうか。不破の関で鈴慕の曲を遠音に聞いて、それからわたしは、あなたの呼びにいらっしゃるのを待ちきれませんから、自分で行って見ますと、鈴慕の主はいないし、関守さんもなんだか空とぼけておいでになって、わたしの聞きたいわけを答えては下さいません。ただあの紅々あかあかと燃えた炉の中に、尺八の燃え残りだけが無残に残っておりました。それから、わからないお嬢様が、思い通りの世界を作ってみたいとおっしゃって、ここへ土地をお求めになり、住居を建てるから、わたしも仲間に入れとおっしゃる。それはよいことだと弁信さん、あなたも賛成なさいますから、あなたを信じて、ここへこうして三日目になりますけれど……」
 ここでも、お雪ちゃんが、弁信の株を奪って、一息にこれだけの恨みつらみを述べたててしまいました。
「よくわかります、お雪ちゃんの怨み言がよくわかります」
と弁信の方が、かえってさっぱりした短句調であしらうものですから、お雪ちゃんに、いよいよ満足の与えられようはずもありますまい。
「わかります、わかりますだけでは困るじゃありませんか、わかったら、わかったようにして下さらなければ……」
「お雪ちゃん、そんなに言うものではありません、会える時が来ればいつでも会えますよ、いったいお雪ちゃんは、何のためにそんなに会いたがるのですか」
「そんなこと、わかってるじゃありませんか」
「わたしには、ちっともわかりません」
「いやな弁信さん――それがわかっていらっしゃればこそ、お前さんだって、わざわざ飛騨の高山から、美濃の不破の関までわたしを連れて来て下すったじゃありませんか」
「いいえ、そういうわけじゃありません、わたしの耳に鈴慕の音が聞えて、こちらへこちらへと導くものですから、その音色を伝って来ると、ついつい不破の関まで来てしまったのです」
「あら――あんなこと言って。弁信さんという人も、人を揶揄からかいます、こんな人の悪い方じゃないと思いました」
「いいえ、わたしは、あなたをからかいは致しませんし、また別段、あなたに対して人の悪い行いをしたとも思いません」
 お雪ちゃんは、いよいよ弁信の答弁ぶりに平らかではありません。
「弁信さんのなさることは、弁信さんだけの世界にはよくおわかりなのでしょうが、わたしは短笛の音色だけを聞き、その笛の管の燃えさしだけを見るために来たのではありません、あなたと二人、裸はだし同様で美濃の国から飛んで来ました。いま思えばどうして、こんなかよわい二人だけで、あの旅ができたのか夢の様に思われるばかりです。それほどの思いをして来たのに、来て見れば、その遠音を聞かせただけの思わせぶりで……万事をうやむやにしている弁信さんのズルイのを怨むのは、怨む方が無理なんでしょうか」
「ですからね、お雪ちゃん、あなたも、わたしも、鈴慕の音色にあこがれて来たのだということは、今もクドクドと申した通りなのです。しかし、不幸にして二人の聞こうとしていた鈴慕は聞くことができないのみか、音色を鈴慕に借りて、内容、精神はやっぱり堕地獄の音でありました。それ故に、わたしはあれを聞かせないように、せめて、あなたにそれを聞かせたくないようにとつとめている心は、今もあの時も少しも変りありません――それですから、今のわたしと致しましては、お雪ちゃんに怨まれましょうとも、ズルイと言われましょうとも、コスイと言われましょうとも、うやむやと言われましょうとも、これよりほかに何とも致し方がないのでございます。ですから、これはそうと致しまして、お雪ちゃん、わたくしはこれからひとつ、お山巡りをして参りますから、少しのあいだ待っていて下さい。お山巡りと申しますのは、実は、わたくしも縁あってこの胆吹山の麓をけがしながら、まだお山の神様へ御挨拶にもお礼にも出ておりませんから、これからひとつ……参詣をしてまいりたいと思うのです。お聞きにもなりましたでしょうが、この胆吹山と申しまする山は、日本七高山のその一つに数えられておりまする名山でございます。高さから申しますと、さきほどあなた方がおいでになった焼ヶ岳や穂高、神高坂かみこうさか大天井おおてんじょうの方の山々とは比較になりませんけれども、あの地方は、山そのものも高いことは高うございますけれども、地盤がまたおのずから高いだけに、こちら方面よりは標高が高まっておりますものでございますから、山容そのものだけの高さをもっていたしますると、この胆吹山とても随分あちらの高山峻嶺に劣りはしないとこう考えますから、わたくしも、その心構えで参詣してまいりたいと思います。案内者でございますか。私としましては別段、案内者は頼みませんでも、山にしたがってまいりさえすれば、あぶないことはなかろうと存じます。登山路の道筋だけはよく承って置きました。これから参りますと、ほどなく女一権現というのがあるそうでございます、それを過ぎますと、北に弥勒菩薩みろくぼさつのお堂がございまして、あの辺には一帯に松柏の類が繁茂いたし、胆吹名代の薬草のございますのも、その辺であると伺いました。それから登りますと三所権現があり、それをまた十町登りますると鞠場まりばというのへ出ると承りました。その鞠場より上へは女人は登ることを止められてあるそうでございます。それからは巌根こごしき山坂を越えて、絶頂が弥勒というところ、そこへ行くと、時ならぬ風は飄忽ひょうこつとして起り、且つ止まり、人の胆を冷すそうでございますが、一体にこの胆吹のお山は気象の変化のはげしい山だそうでございまして、ことに怖るべきは、頂上の疾風だなんぞと人様が申しますから、その辺もずいぶん用心を致しまして、そうして頂上の弥勒菩薩に御参詣を致して御挨拶を申し上げ――それから帰りには、できますことならば、別の道をとって西に降り、胆吹神社に参詣――胆吹明神と申しますのは風水竜王が御神体であらせられ、その昔、飛行上人ひぎょうしょうにんがこの山に多年のあいだ住んでおりまして、開基を致されたと承りました。飛行上人と申すのは、いずれのお生れか存じませんが、飛行自在ひぎょうじざい神通力じんずうりきを得て、御身の軽きこと三銖さんしゅ――とございますが、三銖の銖と申しますのは、三匁でございましょうか、三十匁でございましょうか――まだ私もよく取調べておりませんが、身の軽いということを申しますと、わたくしも至って身軽の痩法師やせぼうしでございますが、飛行自在の神通力なんぞは及びもないことでございます故に、つとめて自重を致しまして、山険と気象に逆らわず、神妙に登山を致し、慎密に下山を致して参るつもりでございます。本来、目が見えませんから、山へ登りましても人寰じんかんの展望をほしいままに致そうとの慾望もござりませず、山草、薬草の珍しきをでて手折たおろうとの道草もござりません、ただ一心に神仏を念じ、他念なく登ってくだるまでのものでございます。それ故、今晩のうちには、無事に戻って参るつもりでございますから御安心下さいまし。もしまた、途中、天変地異の災難がございましたら、心静かに臨機の避難をいたしまして災難をやり過して、それからおもむろに下りてまいります。いかに疾風暴雨といたしましても、一昼夜のあいだ威力を続けているという例は少のうございますから、その間をどこぞに避難しておりまする間の時間――それを御考慮に入れて置いていただきましても、明朝までには間違いなく戻って参ります。そのほかには、決して御心配になるほどのおそれはございますまい。あっ、そうでございますか、なるほど、昔、日本武尊やまとたけるのみことがこの山で大蛇おろちにお会いになって、それがために御寿命をお縮めあそばされたという歴史の真相、あれはおそれ多いことでございましたね、山神が化して大蛇となり、悪気を以て武尊をお苦しめ奉ったという歴史、これは真実でござりましょうが、今日は左様な悪気はことごとく消滅しているに相違ござりませぬ。でも、毒蛇はいない代りに盗賊が――ああなるほど、それは一応はもっともなお心づかいでございますが、この胆吹山や、伊勢の鈴鹿山が、名ある盗賊のすみかであったことも、もはや過ぎ去った昔のことでございます、今日では誰も左様なことをうわさにさえ申しませぬ。ただ恐るべきは山路の険と、気象の変化、それだけなんでございましょう。では、わたくしはこれから出かけて参ります」
 ここまで弁信はしゃべりまくって、また静かに、風のように廊下先から消えてしまったのを、お雪ちゃんは、とどめようとして、つかまえどころのないのに苦しみました。

         七

 弁信が帰るとまもなく、天候がにわかに変ってきました。
 後ろの胆吹山が大きな鳴りを立てたかと思うと、さっと吹き下ろす風が千丈の枯葉を捲いて、原も、村も、里も、一度に裏葉を返す秋の色を見せました。
 と見れば、比良ヶ岳、比叡山ひえいざんの上に、真黒な雲がかぶさり、さしも晴れやかに光っていた琵琶湖の湖面が、淡墨うすずみを流したようにくろずんできたのを認めました。
 麓の方で、さしも物騒であった鳥の形も、人の気配けはいも、いつのまにかすっかり消えてしまって、胆吹山おろしだけが、自分の頭の上でゴーッと鳴るのを聞くばかりです。
 あまりの急激な天候の変化に、お雪ちゃんは悲しいような、怖ろしいような気分に襲われていると、つづいて山おろしが庭先の松の梢を伝って、見ゆる限りの野も山も、どよめき渡ると見る見る南近江から、伊勢と美濃へかけての天地が暗くなって行くのです。
 うしろの胆吹の山が息をついては吐き、吐いてはつくように山鳴りをつづけている。その度毎に野分のわけの大風が吹き出されるような響を聞くと、お雪ちゃんは、どうしても、さきのあの大鷲がこの山へ舞い戻って、その羽風はかぜがこうしてあおるのだと思われてなりません。不在るすの間に子を捕られて、それを取戻そうとつとめたけれども、そのかいがないために、親鷲が憤って、山の上で羽風を鳴らすために、急に天候がこう変って、風が吹きすさんで来たもののように、お雪ちゃんには受取れてなりませんでした。
 それにしても、この不穏な天候、もはやこうして、暢気のんきな縁先の仕事はできないものですから、委細をとりまとめて室内へ持ち込みながら、ああ、いやな風、自分の不快よりも、これからたもとをひるがえして、あの胆吹の山の頂を極めようとする弁信のために、悪いさいさきだと思わずにはおられません。
 お雪ちゃんは障子を締め切って風を防ぎながら、弁信さんのために、この風が早くやむように、あまり強くならないようにと心配していると、その心配がようやく昂じて来てなりません。取越し苦労はするなと、特に戒めて行かれたにかかわらず、この時はまた弁信法師の山登りがいっそう気がかりになってたまらないのみならず、風水盗賊の難のほかにまた一つ、もしかしてあの弁信さんが、この山上にむ大鷲にさらわれてしまいはしないだろうかという懸念けねんさえ起って、不安に堪えられませんでした。
「弁信さんも弁信さんです――なにもわたしたちさえ御参詣をしない先に、いくら身軽だからといって、たった一人でお山登りなんぞをしないでもよいではないか」
 この信友もまた、自分に気をもませる存在の一つであるように思い案じてみました。

         八

 その心遣こころづかいが、その夜、枕についてからのお雪ちゃんを苦しいものにしました。
 胆吹山から吹きおろす大風の中に、袖を翻して、ひたすらに山路を登る弁信の姿を、いと小さく、まざまざとのあたりに見ました。
 胆吹山容の雄偉にして黝黒ゆうこくなることは少しも変らず、大風はその山全体から吹き湧き、吹き起り、吹き上げ、吹き下ろすようにのみ思われて、つまり、山全体が大きな呼吸をしているようにしか、お雪ちゃんには受けとれなかったのは、さしも大風ではあるけれども、雨というものは一滴も降ってはいず、星の空はらんかんとして、山以外の天地は至って静かなものです。そこを、山だけが盛んにひとり吹き荒れ、吹きすさんでいるものですから、山自身が呼吸をしているものとしか思われません。その度毎に、弁信のやつれた法衣ころもの袖が吹き裂けんばかりに吹きなびかされ、その小さな五体が吹き上げられ、吹き下ろされているのを見るばかりです。
 そこでお雪ちゃんはまた、弁信をかわいそうだと見ないわけにもゆきません。ごらんなさい、あの通り、あのたどたどしい足どりを。二万フィート以上のエヴェレストの探検家の運ぶ足どりと同様に、弁信の身が吹き倒され、吹きまろばされるから、寸進尺退の有様、見るも歯痒はがゆいばかりであります。山路がけわしい上に、あの烈風がまともに吹き下ろすのだから、たまったものではありません。なるほど、音に聞く胆吹颪いぶきおろしは怖ろしい、全く、弁信さんという人は進んでいるのだか、退いているのだかわからない、ああ、危ない、あの崖、あそこへ顛落てんらくした以上はもう助からない!
 その時に、弁信の頭の上の空中から、にわかにまた一団の黒雲が捲き起って来たようなのを認めました。あ、鳥が――またあの大鷲が……
 あなやと思う間に、その一羽の大鷲が、急に舞い下って、大風にこけつまろびつしている弁信の胸のあたりを見計らい、一掴ひとつかみに掴んだ、と見れば、そのまま空中高く舞い上ってしまったのです。つまり、山路を、こけつまろびつ上らんとして、危なく崖下に顛落することの不幸の代りに、空中高くさらわれてしまったのです。
 あれよあれよ――と呼ぶものは、お雪ちゃんばかりでした。
「ど、どうしたんだ」
 ああ、よかった、米友さんが来てくれた、友さん、今、弁信さんが鷲に攫われてしまいました、大きな鷲がたくさん出て来て、そのうちの一羽が――崖にすべって転んだ弁信さんの身体からだを上からのしかかって、あれが本当の鷲掴みというのでしょう、胴中どうなかのところをグッと一掴みにしたまま、あれ、あの通り高いところへ飛んで行ってしまいました。弁信さんは身体が小さいから、それで子供と間違えられて、鷲の爪にかかったに違いない、あれあれ、あの崖のところへ――米友さん、何でもいいから早く弁信さんを助けてあげて下さい。
「よーし来た」
 頼もしげに米友はりきみ立ったけれども、その実は同じところに歯がみをしいしい地団駄を踏んでいることがよくわかります。つまり、いかに米友の勇気と精力とを以てしても、翼を持たない限り、あの攫われた弁信を如何いかんともし難い焦躁が、お雪ちゃんにはっきりとわかるだけ、よけいに気が気ではありません。
 そのくせ、鷲に攫われて、中空高くつり下げられた弁信のかおを見ると――夜ではあるし、遠くはあるし、高くはあるのですから、ここで弁信の面が見えようはずはないのですが、不思議とお雪ちゃんには、ハッキリとそれがわかりました。
 平々淡々として、泣きもしなければ、怖れもしないのです。もがきもしなければ、焦りもしない。悲鳴も上げなければ、絶叫もしてはいないのです。鷲の爪で胴中の全部をしっかりと掴まれてはいるけれど、その爪が肉身の間に喰い入っているのではないのでしょう、苦痛の表情が更にないのみならず、血も流れてはいないのです。でも死んでいるのでないことは、その表情がそれを示します。寂静ではあるけれども、弁信の面の上には、苦痛のあとと悶絶もんぜつの色は現われてはいないのです。弁信さんという人は、普通の人が苦痛の極とする時には、かえって安静の色が現われるし、多くの人が絶望の刹那せつなという時に、かえって大安心だいあんじんの愉悦相を現わして来る人だ――だから、この場合、ああして澄まし切った面を見ていると、あれで全く無事なんだという弁信の心境が、お雪ちゃんの心の鏡にはっきり映るのです。せめてそれだけが、お雪ちゃんの心の慰めでありましたが、そうかといって、あのままで置けるものではありません――米友はしきりに歯がみをして、地団駄を踏んでいる。
「奴! やりゃあがったな」
「友さん、どうかならないものですか」
「うむ、見てやがれ!」」
 その時、ブーンと風をきって曳火弾えいかだんのように米友の手のうちから飛び出したのは、それは例の宇治山田以来身辺を離さぬところの杖槍つえやりでありました。手練の手もとから風をきって飛び出したその目あては、あの大鷲でなくて何であろう。
「あら! 米友さん、無茶なことをしては……」
 かえってお雪ちゃんが、その棒のために胸を打たれた思いをしました。
 というのは――いくら腹が立つといったところで、ここであの鳥を痛めつけては、どうもならないではないか、鷲が一羽だけでもあるならば、それを打ち落そうとも、射止めようとも知らないが、あの鷲は弁信さんという人質を取っている、鷲を落せば、弁信さんも落ちて来る、落ちれば鷲よりも弁信さんが先に粉微塵こなみじんに砕けてしまうではないか、米友さんという人も考えが浅い!
 お雪ちゃんはこう思って、ひやりとしたけれども、そこはまた余裕があって、まあ、米友さんがこうして腹立ちまぎれ、危急まぎれに、思わず知らず得意の棒をなげうってみたところで、鷲はあの通り、千尺の高みにいる、いくら米友さんが棒の名人だからといって、矢も鉄砲も届くはずのないあんな高いところまで、棒が届くはずがない――そうも思って、お雪ちゃんも、やや安心していると、どうでしょう、その米友の擲った槍が、容易には下へ落ちて来ないのです――それはちょうど棒の先に眼鼻でもついていて、棒の身には翼が生えて、棒のうしろは推進機プロペラでも仕掛けてあるかの如く、真一文字に鷲に向って伸びて行くというよりも、米友そのものが棒に化けて、中空を飛んで、鷲を追いかけに出かけたと見るよりほかはない心持がしました。
「友さん――お前も危ない」
「なあに、大丈夫だよ」
 その声は後ろでしないで、中空から聞えて来たからです。
 と見ると、繰出して中空へ飛ばせたその棒の上に、早くも米友が馬乗りにまたがっているではありませんか。そうして毬栗いがぐりと筒袖とを風になびかせながら、一文字に鷲をめがけて乗りつけるのです。
「あ! 友さん」
 お雪ちゃんは、ひたあきれに呆れてしまいました。米友さんとしたことが、音に聞いてはいるけれども、こうまで向う見ずの人とは思わなかった。あれあれ、米友さんに追いかけられて、あの鷲が逃げますよ――逃げるのはいいが、弁信さんを落さなければ――あ、かなわない、鷲の逃げるのよりも、棒に乗って追いかける米友さんが早い、もう、やがて追いつく、鷲は、あれあれ越中の立山たてやまの方へ向って逃げるが、逃げ間に合わない、あの分では、米友さんが鷲に追いつくに違いない、追いつけば米友さんのことだから、いきなり鷲に向って組みつくに違いない、いくら米友さんが強いからといって、裸同様の身で、くちばしと爪とを持っている鳥の王様にまともに向ってはたまるまい――あれあれ、鷲の仲間が、あの通り、山々から幾羽も幾羽も飛び出して来ました。あれがみんな加勢するでしょう。あれが寄ってたかって米友さんを突っつくに違いない――ああ、天地いっぱいの鷲、米友さんの姿も、それに包まれて見えなくなった。
 星の空はらんかんとして暗い、胆吹山は真黒く、憎らしいほどに落着いている。いつのまにか、大風はやんだのですが、風がやんで、山が澄まし返っているところを見ると、いよいよ胆吹の山というのは、山それ自らが息をする山だというように、お雪ちゃんには感ぜられてなりません。そこからは、地球上のいずれかの低気圧に作用されて起る風とは別に、胆吹自身が持っている呼吸が、夜のある期間には風となってあの通り湧き出すのだ。それが証拠には、山以外の天地はあんなに静かなのに、山自身もまた定期の呼吸というものをやめてしまえば、この通り憎らしいほどの落着きぶり。
 だが、山は落着きぶりを示しているが、お雪ちゃんの不安は去らない。
「お雪さん――」
 そこへまた耳許に、憎らしいほど落着いた、これは人の声、女の声。眼を上げて見ると、お銀様が枕もとに立っています。そのお銀様も白の行衣ぎょうえを着て、白の手甲脚絆てっこうきゃはんかおだけはすっかり白衣で捲いて、その上に菅笠、手には金剛杖――そうしてお雪ちゃんの枕許に立って呼びかけたその姿だけを以て見れば、決して、これがお銀様だとさとれるわけではないのですが、その声でお雪ちゃんはさとって、起き直っていずまいを直さなければならない思いがしました。

         九

「さあ、お雪さん、お山へ登りましょう」
「まあ、この夜中に……」
と、お雪ちゃんがあきれました。
 けれども、それを許すお嬢様ではない。
 否やを言わせる余地のない圧迫を感じてみると、起きてこの人と同じ扮装いでたちをして、待機の姿勢をとらなければならないことを余儀なくせられました。
「ホ、ホ、ホ、夜中なればこそです、胆吹夜登りといって、胆吹の山には夜登ることになっているのです」
「ですけれども……」
「あなたは怖がっていらっしゃる。なに、怖いことがあるものですか、見た目では恐ろしい山のように見えますけれども、登って行く間の美しさでは、日本国中、こんな美しい山はないとさえ言われているのではありませんか」
「そんなに美しい山でございますか」
「美しい山ですとも。世間並みの萩や、すすきや、桔梗ききょう女郎花おみなえしの秋草がいっぱい咲いている上に、この山でなければ見られない花という花がたくさんに咲いています。胆吹の百草と言いますけれども、百草どころではありません、五百草も、千草も、三千草も、花という花はみんなこの山にあるのです。見た目の美しい百草の中には、何とも言えないよい香いを不断に放っているものがあります、その香いと色の中を、ちょうど夜が明ける時分に、わたしたちが歩いて行くことができるのですから、こんな楽しい山登りは、ほかにはございません。あなたは、白馬ヶ岳のお花畑を御存じでしょう、あれよりも、この胆吹の山の花の路の方が美しいのです。白馬のお花畑は、美しいけれども、冷た過ぎ、清くあり過ぎます。ここのはほんとうに花野原……花という花がみんな、人間味を以て咲きそろっているのですから、同じ美しさにも温か味がありますのよ」
 そう言ってお銀様から遊意をそそのかされても、お雪ちゃんは少しも、誘われる気にはならないで、かえって命令のように響きます。百花が絢爛けんらんであろうとも、香気が馥郁ふくいくであろうとも、温か味があろうとも無かろうとも、白馬ヶ岳のお花畑のあくまで清く、あくまで冷たいのには心をかれたが、ここでは何と言われても、その気になれないのは、多分お銀様その人の口から言われたというばかりではなく、さきほどの大風と、それに続いての弁信法師と大鷲との印象が、どうしてもお雪ちゃんをして、この胆吹の山の山道を懐しがらせるようにしないものでしょう。その難色を見て取ったお銀様は、附け加えて言いました、
「それから頂上へ行くと、とてもながめがまた日本一です、北の方の高山という高山が、みんな眼の中に落ちて来ると共に、南の平野も、西の京洛も、それにあの通り日本一の大琵琶の湖が、眼の下に控えているのですもの、風景の好きなあなたが、それを好きになれないはずはありません。文永の昔、胆吹の弥三郎という山賊がこの山の頂上に腰をかけて、琵琶湖の水で足を洗いました、その時に湖水を取りひろげようとして土を運びましたが、その土のもっこの中からの落ちこぼれが、あの竹生島ちくぶじまや、沖ノ島になって残っているのだそうです。胆吹の西の麓、姉川を渡ったところにあるあの七尾山も、弥三郎がつき固めた土くれだということです。それからまた東の麓には、俗に泉水といわれているところがあって、そこには千人の人を容れられる洞穴ほらあながあります、それが弥三郎の住居であったといわれているけれど、わたしたちは、もそっと奥へ突き進んで、人の全く見られないところを見ることができるのです」
 お銀様は、風景の次に、伝説を以て、お雪ちゃんの想像心に訴えて、これが遊意をそそろうとしたが、それでもお雪ちゃんの気の進まないのをもどかしがって、
「おいやですか」
「いやではありませんけれども……」
「あの大風の中を、弁信さんでさえ登って行ったではありませんか、それを意気地のない、お雪さん、あなたは越後の白馬ヶ岳や、杓子岳しゃくしだけまでも登ったではありませんか、好きな人と一緒ならば、畜生谷を越えて、加賀の白山までも登りかねないあなたではありませんか、わたしと一緒ではおいやなのですか」
「そういうわけではありませんが」
「そういうわけでなければ、わたしと一緒に行って下さってもいいでしょう、あなたはお山に慣れていらっしゃるけれども、わたしはそうはゆきません」
「いいえ、わたしだって……」
「あんなことを言っている、白馬ヶ岳から高山の花をんだり、雪のたにを越えたりして、越中の剣岳つるぎだけや、あの盛んな堂々めぐりを、いい気になってながめて来たくせに」
「それはそうかも知れませんが」
「さあ、早くなさい、風もすっかりやみましたよ」
「それではおともをいたしましょう」
「わたしと同じことに、ここにこうして白い行衣ぎょうえも、白い手甲脚絆も、金剛杖も、あなたの分をすっかり取揃えて持って来ましたから、これをお召しなさい」
 なるほど、あつらえてついにこしらえさせたと思われる装束が、早くもお雪ちゃんの枕許にちゃんと並んで催促している、こうなっては退引のっぴきがならない。
 圧倒的に、いつのまにか、お銀様と同じこしらえをさせられてしまって、いざとばかり、戸外へ出ますと、星はらんかんとして輝き、胆吹の山が真黒にわだかまっている麓は、濛々もうもうたる霧で海のように一杯になっているのを見ました。お銀様は無二無三にその霧の中へと没入して行くので、お雪ちゃんも同様の行跡を猶予することを許されません。
 雲霧晦冥うんむかいめいの中に没入して行くお銀様、それに追従せしめられて行くお雪ちゃん、ある時はお銀様の姿をはっきりと霧の中に浮ばせてみとめ、ある時は、どこにどう彷徨さまようか見失って呆然ぼうぜんとして立つと、不思議にお銀様が霧に隠れる時は、きっとすずしい鈴の音が聞えます。
 ふと気がつくと自分は、お銀様のあとを追うているのではない、ただ清らかな鈴の音を追うて、雲霧の中を突き進ませられているのだと感じた途端に、また、ありありと、お銀様の姿が先に立って、すっきりと歩み行くものですから、その鈴の音を聞いている時は、清水の湧くようなさわやかな気分に打たれますけれども、お銀様の姿のひらめくのを見ると、ゾッと、身の毛が立つような思いをします。かくて、見えつ隠れつして行くうちに、ついに人間としてのお銀様の姿が次第次第に竜蛇りゅうだに変って行くのではないかと疑われ出してきました。
 今や、憎らしいほど真黒くわだかまっていた、山容雄偉なる胆吹山の形も全く見えなくなりました。見えるものは、雲と、霧と、その雲と霧の中を清らかな鈴の音と、それから、ひらりひらりひらめく竜蛇の面影――
 自分は山登りは慣れないと言ったお銀様の身の軽いこと――そうして、絶えずそれに引摺ひきずられて行く気分のわたし、それでも山へ登る気持はしないで、濡れない海の中を深く潜り入るような感じが不思議です。
「お雪さん――疲れましたか」
「いいえ」
「早くいらっしゃい、あなたに見せて上げるものがありますから」
「何でございますか」
「足もとを見てごらんなさい、いろいろな花が咲いておりますよ」
「まあ――」
 なるほど、足もとを見ると――あるにはあるがお雪ちゃんがぎょっとしました。
 点々として、到るところに、花といえば花が咲いていることは間違いはないが、その花のまた何という毒々しい色、ドス黒くて、いやに底光りのする、血といえばいえるが、しかも人間の温かい血という感じさえない、魚類の冷たい悪血あくち――そうして葉の捲き方から節根ふしねまでがいちいちひねくれている。
「一つそれを摘んでごらんなさい」
「はい」
「それが胆吹の毒草というのですよ」
「毒草でございますか、薬草ではございませんか」
「薬草も毒草も同じことなんです、薬草も変じて毒草になるし、毒草もいつか薬草になることがあります、一つ摘んで香りをかいでごらんなさい」
「はい」
「遠慮には及びませんよ」
「でも……」
 お雪ちゃんは、これを摘む気にはなれないのです。見てさえ胸の悪くなる、この魚血のようなドス黒い草の花――胆吹の山は薬草で満ちていると話には聞いているが、これはみんな毒草! 良薬は口ににがしということですから、見て身ぶるいするほどいやな草なればこそ、薬としての効能が強いものか。よし、それはそれとしても自分は手をのべて、この花を摘む気にはなれない。
 たといそれは毒があろうとも、もっと美しい花を摘みたい――お雪ちゃんが、そう思ってためらっていると、意地悪そうにお銀様が笑い、
「そうでしょう、あなたは、そんなのを摘むのはおいやでしょう、いつぞや白馬ヶ岳のお花畑で、胸に余るほど摘み取って誰かに見せたような、ほんとに美しい色の花は、ここにはございません、ですから、あなたは、それを摘むのがおいやなんでしょう」
「そういうわけではありませんけれども……」
「わたしはまた、こんな毒々しい花が好きなんです」
と言って、お銀様は、いきなり前かがみになって、その花の一茎を手早く摘み取って、そうして、それを無遠慮にお雪ちゃんの鼻先に持って来て、
「香いをかいでごらんなさい」
「あっ!」
 ああ、いやな香い――お雪ちゃんは、むせ返って、ほとんど昏倒しようとしました。
「そんなにいやがるものじゃありません、それは白馬ヶ岳の雪に磨かれた深山薄雪みやまうすゆきや、梅鉢草うめばちそうとは違います、ここのは、眼のあおい、ひげの赤い異国の人が持って来て、人の生血いきちを飲みながら植えて行った薬草なんですもの」
「もう御免下さい」
「あなたには嫌われてしまいましたねえ。それでも、わたしはなんとなし、このあくどい香いが好きなんです」
 お銀様は、その一茎の花を今度は自分の鼻頭はなづらへあてがって、すみれに酔うが如く、むさぼり嗅ぐのでありました。
 お雪ちゃんはめまいがしてきました。
「お雪さん、しっかりしなくちゃいけません、この花の香いぐらいが何です――それそれ、この山から立ちのぼる悪気の香いは、日本の武神日本武尊やまとたけるのみことのお命をさえ縮めるほどの怖ろしい毒があるのです」
「え!」
「今日はそれを、あなたに見せて上げたい、いや、それで、あなたを迷わせて上げたいと思って連れて来たのです。大蛇おろちがいるのですよ、現在このお山に。その昔、日本武尊の御命をちぢめ奉った大蛇のことを、あなたも本を読むことがお好きだから、歴史でよく御存じのはずです、山神さんじん化して大蛇となり道に当る、日本武尊、蛇をまたいでなお行く、時に山神、雲を起し氷を降らし、とあります。それは太古の歴史ですけれども、わたしも現在、この山におろちを一つ封じ込んで置くのです、それをあなたに見せて上げましょう」
「もう、たくさんでございます、御免下さい」
「ホ、ホ、ホ、まだ大蛇が出て来はしません。出て参っても、あなたを呑もうともしません、呑ませもしませんから御安心なさい。さあ、もう少し登りましょう、まだ、なかなか夜は明けません」
 こう言ってお銀様は、またも雲霧の中に突き進んでしまうと、以前の如く、玲々れいれいとして爽やかな鈴の音が聞えはじめました。

         十

 暫くして、一つの巨大なる石門せきもんのところに来ました。
「これが、さっきの話の、胆吹の弥三郎の千人窟ですよ」
 見上げるばかりの石柱が二つ、夫婦岩めおといわのような形にそびえていて、その間が船形のうつろになっているその間へ、お銀様がお雪ちゃんを引摺ひきずり込みました。
 引摺り込んだというのは穏かでないけれども、お雪ちゃんは、そもそもこの人との道づれに全く気が進まないでいるところを、圧倒的に歩かせられたり、毒草を鼻頭にこすりつけられたりして、それでも、どうも、この人のあとを追うことから免れられない引力を感じているところへ、今はもう、この先が地獄になるか、牢屋になるか、真暗闇の石門の前へ来て、ここへはいれと身を以て導かれる。それを拒む力もなく、いやという言葉さえ出ないで、ぐんぐんと引摺られて行くのは、お銀様の手ごめにかかってそうされないでも、事実は、それ以上の力で引摺られて行くのです。
 お雪ちゃんは、ついにこの石門の中へと引摺り込まれてしまいました。
「御安心なさい、直ぐにまた明るくなりますよ、そらごらんなさい」
 石門の中の真暗な洞窟を二町ばかり歩むと、左手の崖がカッと開けて、そこから、真赤な日の光がさしました。日の光であろうと思うけれども、それはあまりにあか過ぎる。遠く彼方かなたに広大なる池がある、池というよりも湖です。そうしてその広さ、その周囲、それはなんとなく琵琶湖に似ているけれども、その湖面を見るといよいよ真赤であって、湖辺の山に、例えば比良であるとか、比叡であるとか、見立てらるべき山々が、実景に見るそれよりも遥かに嶮山絶壁をなしている上に、鮮紅のヴェールをかけたものであるように思われてならぬ。
 そうして見ると、決して日の光を一帯にかぶっているわけではない、日の光とは全く違った、たとえば蛍の光を鮮紅にしたように、光は光に相違ないが、それは熱のない光である。つまり、月の光に血が交ったらこんな色になるかもしれないと、お雪ちゃんは全くいやな思いで、この湖面を左右に見ながら、こうなってもなお、お銀様のあとを追わなければならない自分の無力のほどを、自覚する余裕もありません。
「ここが弥三郎の百間廊下ですよ、千人座敷へ行くまでには、また暗くなりますから、御用心なさい」
 果して、この天然の大廊下を少し行くと、また真暗闇になってしまいました。
「足もとにお気をつけなさい、水があります、水が流れています、妙にベトベトした水ですけれど、血ではありませんから、怖がるには及びません」
 ハッとお雪ちゃんは、その水たまりの中に爪先を踏み込むと、なるほどなまぬるい。こんな奥まった岩窟の間から湧き出す清水だから、こんなに生温なまぬるいはずはありようはない。血ではないとあらかじめ予告をされたから、かえってこれは、生血いきちがどろどろ流れているのではないかと、お雪ちゃんが二の足を踏むと、お銀様から、
「そらごらんなさい。向うの岩に大小二つの滝がかかっておりましょう、あの大きいのは姉川あねがわ、小さいのが妹川いもがわの源になるのです」
と言われて見ると、なるほど、広大に開けた岩窟の中の往年の壁面に、大小二条の滝がかかっている。飛騨の平湯の大滝だの、白山白水の滝だのを、うつつに見聞きしたお雪ちゃんにとっては、その滝が、必ずしも珍しい滝だとは思いませんけれども、周囲の異様なる景色には打たれざるを得ないのです。
「胆吹の弥三郎よりも、もっと昔、この洞窟ほらあなの中に山賊がんでいたのです、大江山を追われた酒呑童子しゅてんどうじの一族が、ここを巣にしていたのです。その時に、公家や民家から奪い取って来た美しい女たちを、山賊がきそってもてあそびました。そうして、この滝壺で汚物を洗わせたということです。その山賊を征伐するために頼光父子が、渡辺の綱や金時を連れて、二万余騎で攻めかけて来たということですから、山賊の方も少々の数ではなかったんでしょう、ですから、このくらい大きな洞窟が無ければなりません。さあ、もう少し奥へ行ってみましょう」
 もう少し奥へと言ってのぞき込んだお銀様のうしろ姿を、お雪ちゃんは怖ろしいと思いました。怖ろしいの、こわいのというのは、もう通り越しているはずなのですが、その時はもう、意地も我慢もなくって、
「お嬢様、もう、わたしは、ここでたくさんです。本来わたしは、あなたとお山登りをするつもりで出てまいりました、こんな、洞窟入りをするお約束じゃなかったはずでございます」
 一生懸命にこれだけのことを言いますと、後ろを振向かないお銀様は冷然として、
「いいえ――お山登りなんぞは、いつでもできます、あなたとわたし二人は、ほかに見るものと見せたいものがあればこそでしょう、暫く待っていらっしゃい、わたしが叩きますから」
と言って、お銀様は岩壁の一方に立つと、しなやかな手で、その岩壁の上をはたはたと打ちはじめました。
 あんな手荒なことをして――でも、しなやかな手は折れも砕けもしないで、岩壁の一方が割れました。たちまちそこが開けて見ると、第二の岩戸があって、注連しめが張りめぐらしてある。その中は土の牢、岩の獄屋ひとやになっているのがありありとわかる。
「おやすみですか」
 その奥に人がいるに相違ない。しかもその主こそ、お銀様がかねて承知の人であるらしい。
 その時、その暗い中から、不意に短笛の音が流れ出しました。
「今、わたしが明りをつけて、よく見えるようにして上げます」
と言って、お銀様は、いつのまに用意したのか、懐中から小田原提灯を取り出すと、早くも火がうつっていました。
 もとより小田原提灯の火ですから、この広大陰暗な洞窟の全部が照し出されようはずはありません。それでも、注連しめを張った岩窟の中まではおぼろに光が届いて、その奥の方に、かすかに白い衣服がうごいていることがわかる。それはたしかに人間には相違ないが、まだ、そのえたいはわからないのです。男だか女だか、それはもとよりわからないが、幽明いずれの人だか分明ではないが、その中から起る短笛――つまり尺八です――の音だけは明々喨々めいめいりょうりょうとして、お雪ちゃんの耳まで響ききたるのであります。
「ああ、鈴慕れいぼ――」
 やっぱり鈴慕でした。
「お嬢様、この中で鈴慕の声が聞えます、早くこの中へ入ってみましょうよ」
「危ない!」
と、お銀様がさえぎるのを、お雪ちゃんはかえってせき込んで、
「お嬢様、もう少し、あの提灯の火を明るくしていただけませんでしょうか、笛の音だけはハッキリと聞えますけれど、中においでになるお人がどなたかわかりません」
「もう、これより明るくはなりません」
「そんなことをおっしゃらず、もう少し明るくして……光が届かなければ、わたしはあの牢へ近寄ってみましょう、できますことならば、あの牢の中に入って見てもよいと思います」
「足もとをよくごらんになっての上でね――」
と言われて、お雪ちゃんが足もとを見直すと、全身の血が一時に冷たくなりました。
 同じ岩壁の中の遠近と見たのは、実はウソでした。あの牢屋のあるところと、自分たちの立っているところの間には、絶対的の岩角が相聳あいそびえ立っていることにはじめて気がついたのです。
 普通、山に於ての隔たりと言っても、谷と谷とを予想するのですが、つまり同じ日本中、同じ地上である限りは、山河渓谷の隔たりがあるとはいえ、河には橋、谷にはかけはしを以てすれば、要するに地続きの実が現われるものですけれども、ここの懸崖というものはちょうど、地球と月世界との間の絶対と同じこと、下を見れば見るほど底の知れない断岸きりぎし――
 そうして、その裂け目の左右を見ると、先刻見た赤い空気の湖面がいっそう面積を拡大して、山脚はいよいよ押迫っている。山も、湖面も、今は全く蛍の光そのもの同様な蒼白そうはくなる光線が流れ渡っているのであります。
「あ、月が上って来ましたね、もう提灯は要りません」
 お銀様がこう言って、フッと蝋燭ろうそくを吹き消した途端に、さきに湖面山岸いっぱいに充ち満ちていた蛍のような光が、競ってこの岩窟のすべての中に流れ込みました。
 そうすると、対岸の牢屋の中が、はっきりと見得られるようになりました。その中に心憎くも澄ましきって、座を構えてしきりに短笛をろうしている白衣びゃくえの人の姿、それが、また極めてハッキリと浮び出て来ました。
 それは白骨温泉以来の鈴慕の主です。

         十一

 その時に竜之助は、短笛を持ったまま、気軽にずっとこちらへ出て来ました。
 ずんずんこちらへ歩いて来て、お雪ちゃんと当面の巌の直ぐ突角とっかくのところまで来ると、そこにずっと結びめぐらしてあった丸太の手すりに無雑作むぞうさに腰をかけてしまったものですから、お雪ちゃんが、
「お危のうございますよ」
と言いましたが、竜之助は微笑しただけです。お雪ちゃんはそれから立て続けに、
「先生、まあ、あなたは、どうしてこんなところに……」
と言ってせき込みましたが、竜之助は、
「お雪ちゃん、お前どうしていたの」
「先生、あなたこそ、どうしてそんなところにいらっしゃるのです、お一人ですか、こちらへいらっしゃい」
「は、は、は、とうとうこんなところへ閉じこめられてしまったよ」
「まあ、誰があなたを、そんな岩の牢の中へ入れてしまいましたの」
「誰でもない、そ、そこにいる人がさ」
と言ったその上眼うわめつかいで、お雪ちゃんの記憶が、お銀様の方へよみがえって来ました。
「お嬢様、あなたが先生を、こんな牢の中へお入れ申してしまったのですか」
「でも、仕方がありませんもの」
「仕方がないとおっしゃるのは?」
「胆吹の山の大蛇おろちは、こうでもして封じて置かなければ、世間がたまりません」
「まあ、残酷な」
 お雪ちゃんが、一切の恐怖を忘れてムキになりましたが、問題の当人はいっこう平気で、
「まあ、いいさ、こうして窮命させられているのはやむを得ない自業自得というものだ。でも、二人で、よく見舞に来てくれました、ゆっくり昔話でもしようではないか」
 懸崖絶壁に腰をかけながら、涼み台に出て世間話でも持ちかけるような気分で、いやになれなれしいところへ、お銀様がまた妙に砕けたしなをして、
「どうです、悪女大姉のことは。悪女大姉に未練はございませんか」
「は、は、もう、何とも思っちゃいないね」
「お絹さんはどうです」
「は、は、は」
「山の娘のお徳さんとやらの、こってりした情味は忘れられますまいね」
「は、は、は」
「高尾山蛇滝じゃたき馴染なじんだお若さんというのはどうです」
「は、は、は」
「伊勢の国の鈴鹿峠の下の関の宿しゅくから、お安くない御縁を結んだ、あのお豊さんとやらの心意気だけは、あなただって恩に着ないわけにはゆきますまい」
「は、は、は」
「あなたは、人妻を犯しました、人の後家さんを取りました、婬婦をもてあそぶこともしましたし、処女と戯れることもしましたねえ、わたしの知っているだけでも……そのうち、誰がいちばんお気に召しましたかねえ」
「は、は、は」
「甲州の八幡村の小泉の家で、わたしに逆綴ぎゃくとじの帳面の初筆しょふでをつけさせました、あの時の水車小屋の娘もかわいそうでしたね」
「は、は、は」
「その帳面はあれからどうなりました」
「は、は、は」
「水に流されてしまってそれっきりでしたか。帳面は水に流されても、あなたの悪い行いは流れてしまいは致しますまい」
「は、は、は」
「あれから後、何人の人を殺しましたか」
「は、は、は」
「染井の化物屋敷の時のことをお忘れなさりはしますまいね、弁信さんとわたしと三人で、あの、うんきの中に、土蔵の二階で合奏をしたことがありましたねえ」
「は、は、は」
「白骨の温泉こそお楽しみでしたねえ、誰も知らない天地の間で、こんな憎らしい小娘と一緒に……」
「は、は、は」
「あなたは、この小娘を愛していたのですか、愛してはいなかったのですか」
「は、は、は」
「この雪という小娘も、かおに似合わない大胆者でしたね、姉さんの男を横取りしてしまって、そうして……」
「あら――」
 こんどはお雪ちゃんが、たまりかねて叫びました。
「は、は、は」
 そのあとで、竜之助の響。お銀様はお雪ちゃんに取合わずに、竜之助の方に向いてつづけました。
しらを切っているけれども、わたしはもううににらんでいますよ、二人の仲は、あの月見寺の一間で刀を拭っている時から出来ていたんですとも……そうして、このお雪ちゃんという小娘を妊娠させてしまったものだから、土地にいたたまれないで、湯治を言い立てて白骨温泉なんぞと洒落しゃれこんだのが憎らしい」
「あら、まあ」
 お雪ちゃんが、また眼をみはって、抗議を申し込もうとする途端に竜之助がまた、
「は、は、は」
と笑いました。そこで、お銀様は、やっぱりお雪ちゃんにはとり合わずに、竜之助の方にまともに向って、
「そうして、白骨にいる間に、あなたはあのイヤなおばさんという女をどうしました」
「は、は、は」
「かわいそうなのは、浅吉という男妾おとこめかけと、それからですね、もう一人……」
「は、は、は」
「それを言うと、またここにいる小娘がムキになることでしょうが、浅吉という男妾ばかりがかわいそうなのではありませんでした、まだ、たしかに一人、闇から闇へ送られたかわいそうなのがあったはずです」
「何をおっしゃるのです、それは、誰のことでございますか」
 果してお雪ちゃんが躍起となりました。お雪ちゃんの躍起ぶりが、あまりに真剣であったせいか、今度は竜之助も、は、は、は、という例の軽薄極まる冷笑を浮べませんでした。そこで、お銀様が今度は、お雪ちゃんの方へ向き直って、
「誰だか、わたしは知りませんが、あの時に、たしかに闇から闇へ送られた、かわいそうな人の子が、たった一人はあったはずです」
「それを承りましょう、それを――ほかのこととは違います」
 なぜか、お雪ちゃんが、お銀様の喧嘩を買うような気勢にまでいきみ立ったのが、意外でありました。
「聞きたいとおっしゃるならば、言ってみましょう、それを誰よりも早く感づいたのは、あのイヤなおばさんという人でした。そこは年功ですから、いやに処女ぶっている乙女の乳首に眼をつけてしまったんでしょうね、温泉のお湯の中で……ですけれども、それが飛騨の高山へ来る時分には、すっかり下りてしまっていました。男の子であったか、女の子であったか、そのことは存じませんが、だいそれた自分の手で、虫も殺さない処女ぶった娘さんが、嬰児殺えいじごろしをやりました。それは、人を殺すことは茶飯を食べるように心得ている人のお仕込みだから、子供を一人、闇から闇に送るなんぞは、言うに足りない仕事でしょうが、それでも親は親、子は子です、どこぞにいる人殺しの名人でも、まだ我が子を手にかけて殺したということは承りません」
「まあ、お嬢様、あなたのお言葉は怖ろしい毒を持っておいでなさいます――ほんとうに驚くべき邪推でございます、いつ、わたしが、そんなことを……」
「お雪さん、いつまたわたしが、あなたがそんな悪いことをしたと申しました、今でも白骨へ行ってごらんなさい、あそこで死んだ浅吉さんという男妾の人の石の墓じるしがございましょう、その傍に、心ばかりの小さな石塔が据えてあります、いったい、あれは誰のですか」
「あんまりだ、あんまりだ」
 お雪ちゃんは、ついにかおおおうて泣き伏してしまいました。
「は、は、は」
 その時また、冷淡極まる笑いが竜之助の面に浮びました。

         十二

 同時に、湖面の一点に、ざんぶと音がして、そのあたり一面に水煙が立ったかと見ると、漣々れんれんとして、そこに波紋が、韓紅からくれないになってゆく異様の現象が起りました。
 湖面も、湖を立てこめた数千丈の断崖も、前に言った通りの蛍のように蒼白そうはくの色に覆われていたのが、今、不意にざんぶと音がして、その水煙から輪になって行く波紋のすべて鮮紅色になってゆく現象を、さすがお銀様が怪しまずにはおられません。
「あれは、どうしたのです」
 意地悪いお雪ちゃんいじめを抛擲ほうてきして、そうして疑問をかけたのを、竜之助がうなずいて、
「あれだ、ああして毎日、いいかげんの時に、人が飛び込むのだ」
「飛び込んでどうするのです」
「どうするって、つまり身投げだよ。見ていると、一刻ひとときの間に十も二十も飛びこむことがある、そら見な、あの通り真紅まっかになっている中に、真白いものがふわりと浮いているだろう、女のしりだ」
「え?」
「女は水に落ちて死ぬと、死体は上向きになり、男は下向きになるということだが、ここで見るとそうばかりではない、真白い女の臀っぺたが、き立てのお餅のように、幾つも幾つも浮いているところは見られたものじゃない」
ごうさらしです、女の風上には置けない」
「人間というやつは全くわからないやつだ、刀を抜いて見せたりなんぞすると、ふるえ上って助けを呼ぶくせに、死にたいとなると、勇敢にああして後から後からと、この血の池の中に飛び込んでしまう」
「勇敢なのじゃありません、意気地なしなんです」
「どっちだかわからないよ」
「自分の身を粗末にして、それを見栄と心得る馬鹿者が絶えないのです」
「時に……」
と竜之助は少し改まって、断崖の欄干から後ろの岩壁へ背をもたせ、
「開墾事業の方はどうです」
「どしどし進行しておりますよ」
と、お銀様との問答が、全く別な内容へ向いて来ました。
ものになりますかね」
ものにしますとも」
「そうして、この開墾王国の女王の下に、何人ぐらいの人口が収容できる見込みですか」
「何人と制限はありません、土地の生産の供給が許す限りは人を入れます」
「土地の生産の見込みはつきますかな」
「それは、つかないはずはありません、いやしくも土そのものに生産能力のある限り、種をいてやれば、実を結ばせるだけの素質を持った土地ならば、それに住む人口は食わせて余りあるだけの生産は、きっと得られます。既に土地が食物を供給しさえすれば、人間をそこに収容し、そこに生活を為さしめ得ないということはありません」
「なるほど――」
「人間が自由を奪われるのは、つまり食えないからですね。それと同じように、人間が人間にたよらずして食えさえすれば、人間は本当に人間らしく生きて行くことができます。さむらいが主君に忠義を尽すというのも、知行ちぎょうを貰って食べさせられているからです。知行を貰って食べさせられているから、それで、まさかの時は君の馬前で死ななければなりません。まさかの時でない時、尋常の場合にも、主君というものの前に奴隷の状態でいなければなりません――自分で食うことを知っていれば、知行を貰って忠義を尽す必要なんぞはありません。それと同じように、すべての人が……」
「まあ、待って下さい、お銀さん、自分で食うことを知っていれば、人は奴隷の状態にいなくてもいいと言いましたね。さむらいというやつは、知行を貰って身売りをしている奴隷の一種だというようなことを、お前さんは言いましたね。なるほど、してみると、自分で作り、自分で食うことを知っている、あの百姓の生活はどうです、あれがさむらい以上の奴隷生活ではないと誰が言います」
「え、それにはそれで、また理窟があります、百姓が天地の間に物を作り、自ら生き、自ら食うことを知っている境涯にありながら、現在、さむらい以上の奴隷生活を送っているということは、わたしも充分にそれを認めます。それを認めればこそ、わたしの開墾事業も起ろうというものです。事実、今日の百姓は、自ら力を尽して土地に蒔いたその収入を、自分のものとすることができません。全部を自分のものとすることができないのみならず、ほとんど全部を他のために奪われてしまっているのです」
「誰が奪うのですか」
「百姓以外の、衣食を作らない人が奪っているのです。そうして、衣食を作っている百姓は、そのうちのホンの生きて行くだけというよりは、息をするに足るだけの少量を与えられて、そうして、身動きもできないようにこしらえられてあるのです。ですから、それを、わたしの開墾地ではやめようと思います、正当に衣食を作る人には、正当にその分け前を与えます、そうして、衣食のために人間が人間に屈従することなく、衣食そのものは人間以外の天の恵み――とでも申しましょうか、そこから得て、人間はおたがいに人間としての平等な体面をもってきて行こうというのが、わたしの開墾地の目的なのです」
「ははあ――それは結構なお考えに違いありません、が、しかし、仮りにその目的が達せられたとしましてですな」
「はい」
「そうして、人間が生活のために、つまり衣食のために、おたがいに屈従することなく、衣食の余りある生活の下に、人間の自由が伸び、享楽が増し、まあいわゆる、王道楽土とか、地上の理想国とかいうものが成立したとしましてですな」
「はい」
「その時に、もし隣の地に悪い奴があって、その理想国をうらやみ、その余裕のある宝を奪いに来たらどうします」
「そういうものが多少現われたところで、わたしたちの団結の力で受けつけません」
「ですけれども、それがもし、その悪い奴が多少でなく、二人や三人や五人や十人ということでなく、数百、数千の人が団結して侵して来たらどうします」
「その時は、わたしたちのうちの男はくわを捨てて、女はつむぎを投げ捨てて、その外敵をはじきかえします」
「してみると、そういう不時の侵入者に対して、平常の用意というものが要りますね――五六十人の敵ならば、有合わす得物えものを取って、応急的に追っぱらいましょうけれど、千人万人の侵入者に対して素手すでというわけにはゆきますまい、先方もまた必ず素手でやって来るというわけでもありますまい。必ず、こちらにも、それに要するだけの武器というものを、平生備えて置かなければならないでしょう」
「それは、事業が進み、規模が大きくなるにつれて、自然にその準備が出来るようになります。たとえば部落の中に火事があったとしましても、一軒二軒のうちならば、手桶やたらいで間に合いましょうけれど、殖えてくれば、非常手桶や竜吐水りゅうとすいも備えなければならず、また備える費用もおのずから働き出せて来ようというものです。いつ来るかわからない侵入者のために、あらかじめ備えて置かなければならない必要もありますまい」
「拙者は、そうではないと思う、その非常と侵入者に対するあらかじめの設備が無い限り、開墾地は成り立つものでないと思う。そうして、行く行く、その設備のために生産の大部分が奪われて行ってしまうから見ていてごらんなさい――それはそうとしてですな、今度は内部に就いて伺いましょう。お銀さん、仮りにあなたの理想国が成立して、無事に相当の期間つづき得たとしてですな、外敵も侵入者も影を見せない水いらずの楽土が成立したとしてですな、その内部に我儘者わがままものがいたら、それを誰がどう処分しますか」
「そこです、わたしの理想国では我儘というものが無いのです。我儘がないというのは、誰に対しても絶対に我儘を許すからです。今の政治も、道徳も、すべて人間の我儘を抑えることにのみ専一なのですから、それで人間の反抗性をあおる結果になるのです。無制限に我儘を許してみてごらんなさい、人は無意識に自重の人となりますよ」
「ははあ、それは、すばらしい徹底ぶりですね、また一理ありと思いますが、そんならひとつ、実例について伺いましょう」
と、竜之助は尺八を取り直して、それをかせに使いながら、改めてお銀様にものやわらかな質問を試み出しました。

         十三

「たとえば……ここに、その理想国のうちに一人の我儘者が出たとします、そのものが男であったとして、仮りに、その男が同じ楽土のうちの一人の女を恋したとしましょう、その結果はどうなるのです」
「わたしたちは、恋愛の自由を絶対に許すつもりでございます」
「恋愛の自由……しかし、その恋愛が完全性を帯びなかった時はどうです、つまり、一方だけに恋愛があって、一方にそれが無かった時はどうです」
「相愛しないところに自由は許されませんね」
「ところで、問題はそれからです、許されないその恋愛を強行したものがあった時は、どうします、つまり、最初の例の楽土のうちの一人の男が一人の女を愛してはいるが、女がその恋に酬いなかった時、男が淡泊にあきらめて引下れば問題は無いのですが、そうでなかった時、当然、暴力が発動される、そうして女が力に於て弱くして、その暴力に反抗しきれなかった時に、その結果はどうなりますか」
「それは仕方がありません、その時は、女は死を以て身を守るか、そうでなければ男の力に服従するのです、同様の事情は、女が積極的である場合にも許されなければなりません」
「ははあ、してみると、あなたの国もやっぱり暴力を是認するのですな、征服を認めるのですな」
「そうですとも、力が大事です。力というのは、腕の力ばかりではありませんよ。絶対の自由を許すところには、絶対の力がなければならないのです――そうして、その力というものは、非常の時は武力で、平和の時は金力なんです」
「だが、武力も、金力も、如何いかんともするあたわざる力のあることを認めませんか」
「そんな力はありません、あるように見えましても、みな、武力か金力が持つ変形なのです」
「ですが――たとえば、いま女のことで例をとってみましたから、もう一つ、仮りに女の貞操というものなんぞはどうです」
「貞操――みさおですね」
「そうです、たとえばです、女が愛する夫のために死を以て貞操を守るというような場合に、武力や、金力が、これをどう扱いますか」
「貞操ですか――貞操なんていうものが本来、わたしにはよくわかっていないのです」
「ははあ、そうしますと、良家の夫人も、遊女おいらんのたぐいも、同じようなものなんですね」
「え、え、本来同じ人間ですね、一方は一人の夫を守るように生みつけられているし、一方は多数の客を相手にするように出来ているだけのものなんでしょう。一人の夫を守らなければならないようにさせられている者が貞女で、多数の男を相手にするものが不貞女とは断言できません。良家の夫人と言われるものでも、性格的にずいぶんイヤな女があり、遊女おいらんの類でも、性格的に立派な女があるものです。貞操なんていうものの本質を何だかわかっていないくせに、世間ていだけを守って、内実は堕落しきっている良家の夫人というのがいくらもあります、それからまた、境遇さえ改めてやれば、立派な貞女になりきる遊女がいくらもありますね――わたしは女を見るに、貞操なんぞをそう勿体もったいない標準にしたくはないと思います。もともと、貞操というものは、一定の人を、一定の人に押しつけたり、与えきったりしようとする圧制から起った人間の勝手な束縛なのです。しかし、昔はその圧制も束縛も、社会生存のために必要でありました点は認めますけれども、今ではその圧制と束縛が、人間を使用するようになりました」
「そうしますと、女の貞操というものは、無条件に解放していいのですか」
「そうです」
「では、女という女はみな、遊女にならなければならない道理ですね」
「いいえ、違います、遊女はみさおを売るのです、解放というのは売却することではありません、また、わたしたちの社会では、売ることの必要を認めないのです、男も女も独立して生活が与えられる保証が立てば、何を好んで売りたがるものがありましょう――縁あれば会い、縁なければ去るだけのものです」
「なかなかむずかしくなりましたが、それはそうとして、かりに道義的に貞操を認めないとしても、感情的にけがらわしい女と、汚らわしくない女との区別はありましょう、そうして、仮りにあなたが男であって、どちらかを選ぶとすれば、それは無論、汚らわしいものよりも、汚らわしくないものを選ぶことでしょう。最初から一人の男を守り通してくれる人と、誰でもおかまいなしに相手にする女と、どちらを選ぶかということになれば、あなただって、それはきまっているでしょう。それをもう少し実感的に言ってみるとですな、あなたの妻が、あなた一人を愛してくれるのと、妻でありながら他の男に許すという女と、どちらを選びますか」
「そんなことはお尋ねになるまでもありませんよ」
 お銀様はツンとして、つき戻すように竜之助に向って答えました、
「一人の夫を愛しきれない妻――一人の妻を愛しきれない夫――つまり、それを世間でいう放蕩のはじまり、乱倫の起りときめてしまっていますから、すべての悲劇がそこから起るんですが、考えてみればばかばかしい話です、本来、自然に出でなければならない愛情というものを、いて追いかけようとするから、そんなばかばかしいことが起ってくるのです。好きである間は夫婦であってよろしい、いやになれば、夫婦なんていう形式をぬいでしまいさえすれば何でもないことではありませんか。夫婦という形式を、お友達という関係として見れば、何のことはございません、その時々によって無制限であり、近くもなり、遠くもなるべきお友達というものを、生涯一緒に引きつけて置かなければならないはずもなし、また、そんなわずらわしいことをしたいと言ってもできるものではありません」
「だがなあ、男女の間のことってものは、そう単純にはいかんものでなあ、一方の愛が衰えても、一方の愛はまだ盛んなこともあるですからなあ。つまり、未練というものがあるものでな」
「その未練とか、嫉妬とかいうのが一番いけないんです、わたしの作ろうとする理想国では、そういう場合に於ける未練と嫉妬とを、厳重に禁止する、またそういう場合は極めて自由恬淡てんたんであるべきように、子供のうちから教育して置きたいと思います」
「なるほど――子供のうちから、異った習慣の社会に置いて、異った教育をして置けば知らぬこと、現在このままでは、好きな女が自分になびかぬ時、自分にそむいて行こうとする時に起る悲劇をどう扱いますか、武力か、金力か、ともかく、お前さんの言う強力が、そんなのをどう扱うか聞きたいものです。もう少し露骨に例をとって言えば、自分の女房が不義をしたとか、または亭主が女ぐるいをして方図がないとかいう場合の、あなたの王国での制裁方法はどうなんですか」
「不義をした女房――その不義ということが、いわゆる世間の不義と、わたしの国の不義とでは解釈が違うかも知れませんが、仮りに世間の例に従ってみましょう、刑罰として殺すということは、わたしの国では許さないつもりです、また他国へ追放するということも、未解決の延長になるだけのものですから、そういう場合には極めて気分安らかに、一方が一方を離れてさえしまえばよいのです、未練も残さず、嫉妬も起さずに――離れることを好まなければ、やはり同じ生活をしていながら、お互いともに絶対的に許してしまうのです」
「ははあ、そういうことができますかね、現在、目の前で自分の女房が、自分以外の幾多の男に許すのを、平気で見たり聞いたりしていられるものですかね」
「わたしは、それができると思うのです――観念の持ちよう一つでできなければならないと思うのです、現在それが、片一方だけには完全に行われて、誰もあやしまない程度に許されているのですから……」
「そんなことが許されていますかね、自分の最愛であるべき女房が、相手かまわず不義をしてもいいと言って、ながめていられるような社会が、現在のこの世界にありますかね」
「だから、片一方だけと言ったではありませんか――片一方というのは、男の側にだけということなんですよ、男の方は、現在の妻の目の前で、どんな不義をしても通っているし、通されているのです、その点に於て、女は嫉妬深いというけれど、実は寛大至極なんですね、早い話が、わたしたちがこんど新しく求めて種をこうとする理想国の地面は、昔京極家の城跡であったということですから――ひとつその京極家から出立しての実例について見ようではありませんか」
「なるほど」
「このお雪さんという子が仮住居かりずまいにしているところに、大きな松の木があるのです、わたしはそれを見ると、あの辺をどうしてもまつ丸殿まるどのと名をつけてみたくなりました。御存じでしょう、松の丸殿というのは太閤秀吉の御寵愛ごちょうあいの美人の一人なのです。あの人は、或る城主の妻でありましたが、それがとりことなって秀吉の御寵愛を受ける身になったのです。おめかけではないそうです。太閤には五妻といって、ほとんど同格に扱われた五人の夫人がありましたことは、あなたも御存じでしょう。北の政所まんどころとか、淀君よどぎみとかを筆頭として、京極の松の丸殿もそれに並ぶ五妻のうちの一人でした。一人の男に仮りにも正式に妻と呼ばれるものが五人あって、それがおのおの一城を持って、一代を誇っていたのです。そのくらいですから、それ以外にあの秀吉の征服した女という女の数は幾人あったか知れません――と想像もできますし、また物の本を読めば、相当に実例を挙げて数えてみることもできるのではありませんか。はなはだしいのは、宿将勇士たちを朝鮮征伐にやったそのあとで、いちいち留守の奥方を呼び入れてねやのおとぎを命じたということが、事実として信ぜられているではありませんか。それほどなのに、誰も太閤の乱倫没徳をとがめる人がない。力というものはそれです。力さえあれば、男は幾人の女を同時に愛しても善い悪いは別として、事実が許すではありませんか。それが女には比較的――というよりは、絶対的に許されないと見られるまでのことなのです。けれども、男に許されて、女に許されないという道理はないはずです、要するに力の相違なんですから、その力がありさえすれば女といえども、男のした通りのことをして、やはり道徳的に善い悪いということは問題外に置いてでございますね、力がありさえすれば女だって、それがやれないことはないのです」
「そういう理窟になるね。しかし、女の方にそんな実例がありますか」
「ありますとも、唐の則天武后そくてんぶこうをごらんなさい」
「うむ、則天武后ですか」
「歴史家という人たちは、その人たちの支配されている時代の尺度で歴史を書くものですから、自然、人間の規模を見損なってしまうことが多いのです、則天武后を、淫乱の、暴虐の、無茶の、強悪の権化ごんげのようにのみ、歴史の書物には写し出されていますけれども、そう暴虐の、淫乱の、無茶な人に、いつまでも人心が服しているはずはありません、たとい一時の権勢はありましても、長く人気を保てるはずはないのに、あの人は大唐国の王座をふまえて少しもゆるがさず、好きなという好きな男は無条件に自分の性慾の犠牲として、或いはもてあそび、或いは殺していながら、それで八十歳の天寿をまで保ち得たということは、非常な力を持った人でなければならないはずです、ああなると力というよりも、一種の徳と見なければなりません」
「ははあ――力は、すべての道徳の上の道徳だな」
と竜之助がうそぶきました。

         十四

 お銀様は、さほど昂奮しているとも見えないが、その論鋒はいよいよ衰えないで、
「力は即ち道徳と言っても少しも差支えはないのです。世間では、道徳を一つ一つの型にこしらえてしまっていますから、小さいものは当嵌あてはまりますが、大きくなると、その型に入れきれなくなります、その場合になって、不道徳だの、乱倫だのと、目を三角にして騒ぎ廻りますけれども、自分たちの型の小さいことには気がつきません、ただ事実だけの進行を如何いかんともすることができないでいるのが痛快とは言わないが、かえって自然なんですね。珊瑚さんごの五分玉には、針で突いたほどの穴があってもきずは瑕に相違ないのです、五分玉としての価値はもうありませんが、この胆吹山に、一丈や二丈の穴を掘ったからとて瑕にもなんにもなりません、従って山のねうちに少しも関係はないのです、それを世間が同じように見るから、そこで狂乱がはじまるのです。裏店うらだなのかみさんたちが御亭主の胸倉むなぐらをとるつもりで、太閤の五妻を責めるわけにはゆかないのです。ですけれども、道徳というものは差別があっては道徳の権威がないと、もう少し若い時には、わたしたちでも、ひとり腹をたてたものです、裏店のおかみさんが間男まおとこをして悪ければ、太閤秀吉が人の女房を犯していいという道徳はありますまい。それが許されているのは片手落ちなる強者の道徳――こんなことをわたしも、もう少し昔はヒドク憤慨してみた一人なのですが……」
「してみれば、力のある奴は、力一杯何をしてもいいんだな」
「そうですとも、力いっぱいに仕事をさせれば、きっと人間は、この世を楽土にさせ得るものなのです、型の小さい人間が、強者の力の利用を妨害するから、それで人間がしきれないのです」
「拙者の考えでは、理想郷だの、楽土だのというものは、夢まぼろしだね。人間の力なんていうものも底の知れたものさ。天は人間に生みの苦しみをさせようと思って、色だの