一
今、お雪は、自分の身を、
はて、このところは――と、右を見たり、左を見たりしたが、ちょっとの思案にはのぼって来ない光景であります。
白馬の裏を
涯しを知らない大きな湖だと思って、あきれているその額の上を見ると、雪をかぶった高い山岳が、あちらこちらから、湖面をのぞいているというよりは、わたしの姿を見かけて何か呼びかけたがっているようにも見られます。
「やっぱり
この夕暮を、急に真夏の日ざかりの午睡からさめたもののように、お雪ちゃんは、なさかがわからないで、暫く、ぼんやりとして立っていましたが、さて、自分の身はと顧みると、髪はたばねて後ろへ垂らし、白羽二重の小袖を着て、
ただ
どうも、なんだか、この白い小袖が、鶴の羽のようにふわりと空中に浮いて、白馬の
その時鐘が一つ鳴りました。その鐘の音が、お雪ちゃんのうっとりした心を、よびさますと、あたりの薄暗がりが気になってきました時、湖の
「あ、弥兵衛さんだ、弥兵衛さんが来る」
とお雪ちゃんが叫びました。
朧ろながら、それと見えるようになった人の姿は、背に何物かを背負うて、杖をついて、かるさんのようなものを
その老人は、湖畔をめぐって、お雪ちゃんの休んでいる方へと、杖をつき立ててやって来ましたが、いよいよ程近いところまで来ると、お雪ちゃんがまず言葉をかけました、
「弥兵衛さんですか」
「はい、弥兵衛でござんすよ」
こちらが弥兵衛さんと呼び、あちらも弥兵衛さんと答えるのだから、これは弥兵衛さんに間違いはありますまい。
二
してみれば、お雪ちゃんは、とうにこの弥兵衛さんを知っていて、弥兵衛さんもまた、お雪ちゃんに頼まれるかなにかしていた間柄とみなければなりません。
しかしながら、白骨へ来て以来の、お雪ちゃんの知合いには、
「わたしは弥兵衛さんだとばっかり思ったら、やっぱり弥兵衛さんでしたわ」
「はい、その弥兵衛でございますよ」
と言って、至りついた老人は、お雪ちゃんの前へ来ると、腰をのばして、
「まあ弥兵衛さん、どうしてこんなところへおいでなすったの」
「はい、わたしは、ここからあんまり遠くないところに住んでいるのでございますよ」
「そうですか、ちっとも知らなかったわ」
「はい、はい」
お雪は突立っている弥兵衛老人の頭から爪先まで、今更のように極めて興味深く見上げたり、見下ろしたりしていました。
「ほんとうにそっくりよ」
「何でございます」
「弥兵衛さんに、そっくりよ」
「何をおっしゃります」
どうも、ばつの合わないところがあります。弥兵衛さんが、弥兵衛さんにそっくりだということは、別段、念を押すには及ばないことだろうと思われるのに、お雪には、これは容易ならぬ興味の的であるようです。
それにもかかわらず老人は、極めて無表情に突立って、背に負うたものを、さも重そうにしていました。
この空気を見ると、お雪ちゃんと、弥兵衛さんとは全く他人です。
そこで、お雪ちゃんは、極めて手持無沙汰に、それでも、充分なる興味の眼は弥兵衛老人からはなすことではなく、無言に見詰めていますと、この老人は、さながらお雪ちゃんに興味を以て見つめられているために、ここに現れて来たもののように、どこからでも存分に御覧下さいと言わぬばかりに、いつまでもじっと立ちつくしているのです。そうしているうちに、弥兵衛さんの輪郭が、最もハッキリしてきました。
何のことだ――これは弥兵衛は弥兵衛だが、只の弥兵衛ではない、平家の侍大将、
弥兵衛兵衛宗清の本物を、お雪ちゃんが、いつ見知っていた? それは申すまでもなく、弥兵衛宗清は弥兵衛宗清だが、それは
今、弥兵衛さんの重そうに背負っているもの、それが、やっぱりお
「弥兵衛さん、重いでしょう、それをここへ卸して、少しお休みなさいな」
「はい、有難うございます、ではお言葉に従いまして」
と言って、弥兵衛は、これは制札ではない杖を置き、砂の上へ
三
老人が、やっと重い鎧櫃を下に置いて、ホッと息をつき、お雪ちゃんの横の方に腰を卸して煙草をのみはじめたものですから、自然お雪ちゃんは、親しく話しかけないわけにはゆきません。
「お
「へ、へ、へ」
弥兵衛老人は人相よく笑って、
「山奥へ行きますてえと、どこへ行っても、平家の落武者はいますねえ」
「でも、お前さんこそ、本当の落武者なのでしょう」
「やっぱり、先祖はね、そんな言いつたえもあります、珍しい遺物も、残っているにはいますがねえ」
「どこなんですか、お
「あの山の裏の谷です」
「え」
「そら、あの真白い、おごそかな山が、北の方に高く
「まあ、あれが加賀の白山でしたか」
お雪はいま改めて、群山四囲のうち、北の方に当って、最も高く雪をかぶって、そそり立つ山を
「はい、あの白山の山の南の谷のところに、わしらは一族と共に、六百年以来住んでおりますでな」
「きまってますよ、平家の
「はい、その白川郷の……」
「白川郷は、いいところですってね」
「え、いいところにも、悪いところにも、先祖以来、わしどもは、その白川郷から足を踏み出したことがございませんから、比較するにも、比較すべきものを持ちませんでな」
「自分が住んでいて、いいか、悪いか、わからないくらいのところが、本当にいいところなんでしょう。全く悪いところはお話になりませんが、ああいいところだと思えば、きっとドコかに悪い影がさすものです。永年住んでいて、いいところか、悪いところか、わからないくらいのところは、本当にいいところにきまっていますねえ」
「そんなものかも知れませんが、まあいいところとしておきましょう」
「実はねえ、お
「そうですか」
「平家の
「それは住めば都と申しましてな、お天道様の照らすところ、草木の生えるところで、人間が住んで住めないという土地はございませんけれど、お嬢さん、買いかぶってはいけませんよ、平家の公達だって、白川郷が住みよいからそこへ来たわけではありません、それは花の都に
「それはわかっててよ、わたしたちだって、同じ心持ですわ、どこへ行っても安心して住めるところがないから、一生をその白川郷へ埋めてしまいたい、という真剣な心持がお爺さんにはわからないの?」
「ははあ、お若いに、どうして、そうまで突きつめておいでですね」
「何でもいいから、わたしたちは、誰もさまたげることのない世界へ住みたいのです、ほかに
四
「それは教えて上げない限りもございませんが、白川郷へ行く道は、並大抵の道ではありませんよ、まあ、あの白山をごらんなさい」
「はい」
「富士の雪は消える時がありましても、白山の雪は消えることがございません、あの高い
「え、え」
お雪ちゃんは
「あれが、加賀の白山の
「まあ、そうですか」
「その白山の白水の滝が落ちて流れて、この白川の流れになるのでございます」
「ずいぶん大きな滝ですこと、ここで見てさえあのくらいですから」
「高さが三百六十間ありまして……」
「まあ……」
「滝より上が
そこで、お雪はそのうちの、どの村へという当てはないのでした。老人も、それをたしかめようとはしないが、
「で、あの白水の滝のあるところまでは、これからどのくらいありますか、あそこまで行ってみたいと思います」
「それはいけません」
「どうしてですか、道がないのですか」
「道はあります、道はありますけれども、女は行ってならないことになっておりますのでございますよ」
「それは、またどうしてでしょうか」
「あそこに
「まあ、それは本当ですか」
「それは古来の言い伝えでございますけれども、わしらが覚えてからも一つございました、ある坊さんが、あの温泉で眼を
「え、それでは、あの滝の下あたりに、やはり眼によい温泉があるのですか」
「ありますとも、
「そのお湯へも、女は行ってはいけないのですか」
「え、あれから先は只今申し上げた通りです、行って行けないことはございませんが、行けば必ず
「お爺さん、わたしは、どうも、そういうことは嘘だと思います――男だって、女だって、同じ人間ではありませんか、女は罪が多いと言いますけれども、男にだって罪の少ない者ばかりはありません、たまに女が災難に逢うと眼に立ち
そう言った時に、老人の
五
その何とも言えない、いやな色を見て、お雪ちゃんは急に、言わでものことを言ってしまったと、自分ながら気の毒と、それから一種の
畜生谷と言われて、何とも名状し難い嫌な色を、面に現わした老人は、暫くうつむいていましたが、
「人は、いろんなことを言いますねえ。それは、広い世界とはかけ離れたこの谷々の間のことですから、風俗も、それぞれ変ったことがございましょうよ」
「でも、畜生谷なんて、いやな名前ですねえ、ほんとに」
と、お雪は慰めのような気分で、老人に向って言いかけたことほど、老人の不快な色を気の毒に思ったからです。気の毒に思ったといううちには、もしかして、この老人が、その世間の人の悪口に言われる畜生谷の部落の中の一人ではなかったか、ということに気が廻ったことほど、胸を打たれたものがありましたからです。
そこで、お雪は、もう再びこの老人の前で、そんな言葉を口にすまいという気になりました。その老人の前だけではなく、どんなところでも、人前でうっかり、畜生谷なんていう言葉を出すものではない、ついついそれに言葉がわたった自分というものの
そこで、半ばはその思いをまぎらわすようにお雪は、
「それはそれとしまして、ねえおじいさん、わたしは今、誰が何と言いましても、その白川郷の中へ、落着きたい心持でいっぱいなのよ。人が世間並みに生きて行きたいというのは、義理人情にせまられるか、そうでなければ利慾心にからまれて、どうしても、そうしなければ生きて行かれないからなんでしょう、わたしは、そんなことはあきらめてしまいました、といっても、死ぬのはいやなのです、生きて行きたいのです、静かに生きて行きたいのです。そんなら、わたしを静かに生きて行かせないのは何者でしょう。それはわかりません、誰もわたしを縛っているのではないけれども、わたし自身が縛られているような気持で、あの静かな白骨谷でさえが、わたしを落着かせてはくれないのです。白川郷ならば、全く浮世のつまらない心づかいから離れて、生きられるように生き、何をしようとも、
「それは人間の世界じゃなく、それこそ畜生道というものじゃありませんかねえ、お嬢さん」
と言って、老人が反問したので、
「え」
とお雪が驚かされました。
「人間の生きて行く道よりは、畜生のいきて行く道の方が、気兼ね苦労というものが、かえって少ないのじゃありますまいか、ねえお嬢さん」
「何ですって、おじいさん――もし人間の生きて行く道が、つまらない気兼ね苦労ばかりいっぱいで、畜生の道が素直で、安心ならば、わたしはいっそ……」
「何をおっしゃります、お嬢さん、それが、あなた方のお若いところです……あの白山へ登るよりは、この白水谷を下る方がずっと楽には楽なんですがね」
と言って老人は立ち上り、砂上に置き据えた
「おじいさん――まあ待って下さい、急に気がかりなことがありますから、その鎧櫃の中を、ちょっとでいいからわたしに見せて下さいな、今になって気がつくなんて、ほんとに、わたしはどうかしています」
六
お安い御用と言わぬばかりに、弥兵衛老人が鎧櫃の
「わたしが頼んでおきましたのに、今まで忘れていました、さぞ、御窮屈なことでしたろうにねえ」
鎧櫃の中には、人の姿がありありと見えているのであります。
「先生、ずいぶん御窮屈でございましたでしょうねえ」
人の姿は見えているけれども、返事はありません。
「先生」
やはり手ごたえはない。
「おや!」
お雪は一方ならずあわてました。
「先生、お休みでございますか」
でも、やっぱり何ともいらえがない。
「ほんとうに……眠っておいでなさるんでしょうか、先生」
お雪は
本来、鎧櫃の中というものは、一匹一人の人間を容れるには足りないものであります。せいぜい十代の少年ならばとにかく、普通の大人一人が、鎧櫃の中にいることは至難の業であります。ましてその中で
それだのに、ありありと見える中の人は、立派な一人の成人であって、それは
お雪が、狼狽し、且つ不安に堪えぬ色をあらわしたのは、あまり深い眠りに驚かされたのみならず、その眠っている人の
「先生、どうぞお目ざめ下さいまし、わたしが
と、のぞき込んだ顔を、押しつけるようにして呼びましたが、その人は、ガラス箱の中に置かれた人形のように、姿こそは、ありありとその人だが、返答がなく、表情がなく、微動だもありません。そのくせ、蝋のような
「先生、
お雪は、ついに鎧櫃にしがみついて見ると、これは透かし物のような鎧櫃の
「俗名机竜之助霊位」
「おや――」――お雪はついに声をあげて叫びました。
七
「どうしたのです、お雪ちゃん」
事はまさに反対で、声の限り人を呼びさまし、呼びさますことに絶望の揚句、絶叫したその声を聞いて、かえって呼びさまされたのは、当のお雪ちゃんで、呼びさましたその人が、
しかも、ところは窮屈な鎧櫃の中ではなく、飛騨の国の平湯の温泉の一間、せんだって宇津木兵馬もこの室に宿り、仏頂寺、丸山の徒もここに
夜具の中からこちらに寝返りを打った竜之助は、ぼんやりとした有明の燈の光に、自分の面を射させて、そうして、二つ並べた
「まあ、
あたりを見廻したお雪は、狼狽と、不安との上に、茫漠とした安心の色を少し加えて、ホッと息をついたが、寝汗というもので、しとどと
「また、夢を見たね」
「夢なら夢でいいのですけれど、どうもこのごろは、夢と本当のこととがぼかされてしまって、つぎ目がハッキリしませんから、覚めても、やっぱり夢でよかったという気にはなれないから、いやになっちまいますね、まるで夢にからかわれているようなんですもの」
「夢がいいねえ、いつぞや、お雪ちゃんから聞かされた、白馬へ登った夢なんぞはよかったよ。拙者は今まで、ロクな夢という夢を見たことはないが、白馬へ登った夢だけは格別だ。あの時、あのままで、二人が白馬の上から白雲の上まで登って、永久に降りて来なければ、一層よかったろうに――あれから、また降りて来たばっかりに、畜生谷というところまで落されてしまうのか知らん」
「いやなことを、おっしゃいますな」
お雪は、そこで、またちょっと不快な気持になっていると、その際に、ずっと以前から外で呼び続けられてはいたのだけれども、お雪ちゃんの耳に、はじめて入るけたたましい人の声を聞きました。
「駒さんよ――」
「聞えたかえ、もう一ぺん戻って下さいよう、聞えたかえ、駒さんよう」
「早く戻らさんせよう」
「早く帰らさんせよう」
極めて単調の声で、野卑な哀音が夜をこめて、やや遠いところから、絶えず呼びつづけられていたらしいが、急に目ざめたお雪には、今となってはじめて聞えて来たものです。
「何でしょうね、先生、あの声は」
「あれはね、この近所の家で人が死んだのだそうだ、人が死ぬと、この土地の習いで、ああして三日三晩の間とか、その名を呼びつづけているのだということを、さいぜん、女中が来て話して行った、ぬけ出した
「いやな習わしですね」
「うん、気にして聞いていると、自分が地獄から呼び戻されてでもいるようだ」
「でも、よろしうござんした、こちらは首尾よく呼び戻してしまいましたから。ねえ、先生、ここに鎧櫃がございますね、ここへ休まれる前に、あなたに向って、わたしが冗談を言いましたが、先生、あなた、この鎧櫃へお入りなされば、わたしが白川へでも、白山へでも、おぶって行ってあげると言いながら、二人が眠ってしまいましたのね。ところがどうでしょう、あなたが、ちゃあんと、この鎧櫃へはいっていらっしゃるじゃありませんか。それだけならいいけれど、鎧櫃の中のあなたのお姿といったら、いやいや、思い出してもいやですわ、どう見たってこの世の人じゃございませんでしたもの。わたしは一生懸命、あなたの魂を呼び戻そうとして、叫びましたが、呼び戻しているわたしが、かえってあなたのために呼びさまされて、こうして汗をかいているわけじゃありませんか。夢でよかったというには、あんまり気持が悪過ぎる夢でした。でも、こうして
八
そこで、暫く静かである間、例の、
「早く戻らんせやい」
「早く帰ってござらせ」
という叫び声を、うるさく小耳にしないわけにはゆきません。
半ば習慣的に繰返される野卑なる哀音も、竜之助の耳に、「帰るに
「ほんとうに耳ざわりですね、先生、いくら呼んだって、叫んだって、死んで行く人を呼び戻すことなんか、できやしませんね」
「そうさなあ」
「でも魂魄この世にとどまりて……ということもありますから、ほんとうに人間の魂は、死んでも四十九日の間、屋の棟に留まっているものでしょうか」
「いないとも言えないね」
「そんなら、あのイヤなおばさんなんて、まだ魂魄が、白骨谷か、
「左様、あのおばさんの魂魄は、もう白骨谷には留まっていまいよ」
「どうしてそれがわかります」
「飛騨の高山が家だというから、いまごろは、高山の方の屋の棟にかじりついているかも知れない、それとも途中、この温泉場が
「イヤですね、先生、そんなことをおっしゃってはイヤですよ」
「でも、お雪ちゃん、お前はだいぶあのイヤなおばさんに、なついていたようだ」
「それは、あのおばさん、イヤなおばさんにはイヤなおばさんでしたけれど、それでも憎めないところがあって、イヤだイヤだと思いながら、どこか好きになれそうなおばさんでした、本来は悪い人じゃないのでしょう」
「は、は、は、あぶないこと、お前も二代目浅公にされるところだったね、あんなのに好かれると、骨までしゃぶられるものだ」
「全く、浅吉さんていう人は、なんてかわいそうな人なんでしょう、おばさんの方は
「だらしのない奴等だ」
と言いながら、竜之助は不意に起き上ったのは、
白骨は
お雪は、白骨に残して置いた同行の久助さんのことを考えました。
わたしたちは一足先に平湯へ行っているから、荷物をとりまとめ、
これは大きな冒険でもあり、
どうしたものだろう、ほんとうに……それを今も思案しているところへ、竜之助が廊下を渡って出てきました。それを見るとお雪ちゃんは、素直に
その時に一番鶏が
九
かくて三日を過している間に、白骨から久助が、委細をとりまとめて、抜からぬ
「お雪ちゃん、またこのごろ雲隠れ、お嫁さんにでも行ったのか」
なんぞと噂をしているとのことです。久助はそれとなく、平湯から高山へ行って、また戻るようなそぶりで、なにげなく荷物をまとめて出て来たとのことです。
お雪ちゃんは、久助が万事よくしてくれたことを表面は喜びましたが、内実は、また一当惑と思います。
この久助さんを、ズッと白骨に残して置けるものならば残して置きたかったし、なおできるならば、国へ先に帰してしまいたいと思うけれども、それはどうしても、できないことだし、そんならばいっそ久助さんをもまき添えに、白川郷まで引張りこんでしまおうかしら。
それはいけない、久助さんは国へ帰ることだとばっかり思っている、わたしたちが白川郷へ行こうなんぞという気持が、全く理解のできる人ではない。こうなった以上は、途中でまいてしまうよりほかはないとも考えました。
だが、ここで、私たちにまかれた後の久助さんはどうなるのだろう。そうでなくてさえ忠実すぎるほど忠実なあの人が、この遠国の旅路で、わたしたちをはぐらかしたとしたら、その心配と、
お雪はこのことの思案だけで、かなり頭が疲れ、旅の仕度も手につきませんでしたが、久助さんはいい気なもので、明日の出立の
万事は高山で――と決心の
高山へ行けば、あれを後ろに廻って、
どのみち、こうなった上は、高山まではありきたりの路を踏まねばならぬ。そこまでは約八里、そんなに遠いほどの道ではないのに、途中、平湯峠というところが少々難所だけで、あとは
白川郷へ、白川郷へというお雪ちゃんの空想がさせる大胆な冒険は、もう心のうちで
それとは知らぬ従者役の久助は、宵のうちに馬と駕籠とを頼み、お雪は荷物と共に馬に乗り、竜之助は駕籠に乗せ、自分は、その傍らに
平湯峠の上、峠といっても、この辺では最も
万事をいたわる久助を――かりそめながら犠牲にあげるという心持に打たれて、見るに忍びない気にもなりました。
十
平湯峠の上で一行が暫く休んでいる時に、後ろから、つまり自分たちがいま出て来たところの平湯の方から、息せき切って上って来る
まもなく、その一行は、ここまで登りつめてしまった。非常に急いでいた旅ではあるらしいが、さすがにここに来ると、一息入れないわけにはゆかないから、その一行も、お雪ちゃんの馬の程遠からぬところへ荷物を置いて、ちょっと
都合七八人の人が、いずれも
その急病人の上には、形ばかり蒲団をかけてあるが、その上に
久助さんも、同じように見たとみえて、その人たちに向って、
「御病人でございますか」
「はい――どうも、いけませんでな」
一行の
「お気の毒でございます、こんな
「はい、どうもなんにしても、こんな山坂の間でござんすから」
「どちらからおいでになりました」
「白骨から参りました」
「え、白骨から、左様でございますか、いつ白骨からおいでになりました」
「昨晩、夜どおしで参りました」
「それは、それは」
久助さんも改めて、その釣台を見直すのでありました。
それというのも、自分も昨日、白骨を立ったのであるが、こんな人には行逢わなかった。多くもあらぬ白骨谷に
「そうして、なんでございますか、御病人は、白骨で病み出しておいでになりましたか」
「はい、どうもとんだ災難でしてね」
「どちらのお方でございますか」
「高山の者なんですが、ついつい、あんなところに長居をしたばっかりに、こんなことになってしまいました、ホンとによせばよかったのですがね」
「ははあ」
久助も、お雪ちゃんも、ほとんど
白骨は、つい今まで自分たちの
「さあ、それでは皆さん、もう一息御苦労」
「はいはい」
釣台をかつぎ上げた時に、揺れた調子か、山風にあおられてか、面のあたりにかぶさっていた白い布の一端が、パッとはね上ると、その下に現われたのは、久助は
「あっ!」
あたりの誰人をも驚かした声をあげたが、それよりも当人のお雪ちゃんが、土のようになってふるえたのは、覆われた白布のうちから見せた死人の面は、例のイヤなおばさんに相違なく、まだつやつやしい髪の毛がたっぷりと――あの
十一
それは、お雪ちゃんが気のついた瞬間に、釣台をかついだ人夫が、あわてて覆いをしたものですから、ほかの誰も気のついたものはありません。
一息入れて釣台の一行は、こうしてお雪ちゃんの一行に
そのあとから、おもむろに
「お客さん、これが平湯峠の名物、笹の魚というのでがんすよ、おみやげにお持ちなさいましな」
それは笹の葉が魚の形に巻き上ったもの。
「これが
笹の葉化して岩魚となるという、名物のいわれ面白く、
「平湯峠が海ならよかろ、いとし殿御と船で越そ――という唄がござんしてな」
馬子が、そういって教えたのも、いつものお雪ちゃんならば、「それをひとつ唄って下さいな、ぜひ」とせがむにきまっているが、今はその元気さえありません。
たったいま、見た
心には、思い定めたけれども、胸はいよいよ不思議でいっぱいです――あの、夏以来、温泉場の座持であったイヤなおばさん、あの人の
浅吉さんが死んでまもなく、あの無名沼にイヤなおばさんの死体が浮いていたということ、たしかそれを引き上げて、宿でお通夜があったとか聞いていたが、その時、自分はとても、傍へ寄って、あのおばさんの
多分、もう、
人違い――となれば万事は解決するが、一目見ただけのお雪ちゃんの印象で、どうしてもあの人が、イヤなおばさん以外の人であるとは思い直すわけにはゆかないのです。けれども、もし本人であるとすれば、時間に於て著しい錯誤がある。それともすべてが物の怪で、前の晩に、
だが、こればっかりは、争われぬ眼前の事実で、夢だとも、幽霊だとも、思直しようがありません――お雪ちゃんの、はっきりした頭では、もしやと、こんなふうにも想像してみました――
あの時、無名沼の
十二
これに先立つこと幾日、宇津木兵馬は同じ道を、すでに飛騨の高山の町に入って、一の町二丁目の
大きな柳の枯枝に、なぶられている立札を見ると、「御廻状
「近来浪人共、水戸殿浪人或は新徴組抔 と唱へ、所々身元宜者共へ攘夷之儀を口実に無心申懸け、其余公事出入等に、彼是申威 し金子為差出 候類有之候処 、追々増長におよび、猥 に勅命抔と申触 し在々農民を党類に引入候類も有之哉 に相聞き、今般御上洛被仰出折柄難捨置 、依之已来 御料私領村々申合せ置き、帯刀いたし居候とも、浪人体 にて恠敷 見受候分は無用捨 召捕り、手向いたし候はば切殺候とも打殺候とも可致旨被仰出候間、其旨可存候
右之通り万石以上以下不洩様に相触れ、且右之趣板札に認め、御料私領の宿村高札場或者 村役人宅前抔に当分掛置候様可被相達候
亥十二月」
これは、新しいものではない、今に始まった警告ではない。右之通り万石以上以下不洩様に相触れ、且右之趣板札に認め、御料私領の宿村高札場
亥十二月」
つまり、近来、浪人と称するものが、或いは水戸家の浪人とか、新徴組とかいって、相当の資産ありそうな家へ無心に押しかけて、迷惑をかけ、追々増長して、或いは勅命だとかなんとかいって、横行するのにてこずった揚句、左様な者に対して斬捨御免を表示したものである。
左様、飛騨の高山は、やはり幕府の直轄地であって、諸侯の城下ではないために、勤王を
兵馬は、いたる所でこんな高札を見かけることを珍しいとはしなかったけれど、これほど明瞭に保存されているのは少ないと思いました。立てるとまもなく汚したり、壊したりして、みじめな有様になっているところも多いのに、ここは相当年月を経ながら、かなり完全に保存されて、明瞭に読み得られることに、物珍しさを感じたくらいです。
しかし、顧みてみると、自分もこれで年少ながら、浪人の端くれとしての形を備えているようだ。怪しいと
ともかくこの高札が、数年前に掲げられたまま無事であるということが、この地が何というてもまだ直轄の有難さであり、それだけ山間の平和を示しているものと見られないでもない。だが、兵馬は、この高札場へ立寄ったのは、これを読まんがためではなく、何かの道しるべを見たかったからです。
仏頂寺、丸山が教えることには、飛騨の高山はあれで幕府の代官地だ、ことに先年やって来た旗本の小野朝右衛門の
十三
先年、飛騨の郡代として来任した小野朝右衛門
この飛騨高山が、その人の発祥地とはなつかしいようだ。左様の人物を育てたくらいの所だから、今も相当にその道の達人がいるかも知れない。第一その鉄太郎が、最初に師として学んだという井上清虎という人は、今もこの地にいるかどうか、必ずや、相当の達人に相違あるまい。健在でおられたら、ぜひとも
兵馬は
しかるべき武術家といったところで、誰と目星をつけて来たわけではない。右の小野鉄太郎と、井上清虎の名をふりかざしてたずねてみたが、要領ある返事をしてくれるものは極めて稀れです。
でも、ある人が、こんなことを教えてくれました、
「剣術のことでしたら、お代官屋敷へおいでなさいまし。新お代官が、ばかに剣術がお好きで、毎晩毎晩、お盛んな稽古をやらせていらっしゃいます。先のお代官は、剣術の方も名人でいらっしゃいまして、御自身で誰にも剣術を教えていらっしゃいましたけれども、新お代官は、御自身ではどうでいらっしゃいますか知れませんが、お好きにはお好きでいらっしゃいまして、お屋敷の道場をお開き申して、誰にでも自由に剣術を習わせるようにしていらっしゃいます――」
いらっしゃいます、という言葉を、ふんだんに使って紹介してくれたから、ついこちらでも左様でいらっしゃいますか、それは結構でいらっしゃいます、と返事をしてやりたいくらいに滑稽にも感じたけれど、なんにしても耳よりな話には違いない。
お代官といえば、この飛騨の郡代のことであろう。徳川幕府より
兵馬は、それを聞くと早速に、教えられた通り代官屋敷の道場を叩いてみると、その時に、もはや
その音を聞くと勇みをなして、兵馬は玄関から正当に案内を申し入れ、型のごとく出て来た取次の用人に向って、自分が武者修行の旅行中のもので、御英名を慕いて推参したということ、兼ねて「英名録」や、その他旗本の要路の紹介免許状等が口をきいて、一議もなく、快き
「暫くお控え下さい」
次の案内を、兵馬が玄関先で暫く控えて待っている間、この代官屋敷の奥の一方で、しきりに三味線の音と陽気な唄の声が
庭前では、道場を開放して四民の間に武術を奨励するかと見れば、奥の間ではしきりに三味線の
紺のぶっさき
丸八 かけて
長州征伐おきのどく
イヨ、ないしょ、ないしょ
もり(毛利)ももりじゃが
あいつ(会津)もあいつ
かか(加賀)のいうこときけばよい
イヨ、ないしょ、ないしょ
の調子で、荒らかに三味線をひっかき廻し、興がっている。長州征伐おきのどく
イヨ、ないしょ、ないしょ
もり(毛利)ももりじゃが
あいつ(会津)もあいつ
かか(加賀)のいうこときけばよい
イヨ、ないしょ、ないしょ
それを聞いて兵馬が興ざめ顔になったのも無理がありません。
十四
庭前では尚武の風を鼓吹し、奥の間では
それを
もう数十人の稽古者が集まって、入りかわり立ちかわり、師範か代稽古か知らないが、
これらの連中、ともかく、一応の礼儀をする、次に道具のつけ方を見ていると、正式に結ぶのもあるが、
やがて代稽古らしい大兵の人が、稽古をやめ、道具を取って兵馬の方へ来て挨拶をしました、
「どうか、これらの連中に、一本稽古をつけてやっていただきたい」
とのことです。兵馬はかえって、それを面白いことに思いました。
「おやすい御用です」
士分連も相当にいたのですけれども、それらは、少年兵馬を見るに異様な眼を以てして、進んで稽古をこおうとはしませんから、兵馬は、それにかまわず、借受けた道具をつけて道場の一方に立ち上ると、代稽古の紹介を待たず、勢いこんで
少年兵馬の物々しさを侮って、いきなり、
「お面!」
と打ちこんで来ました。
それを兵馬が、ちょっとかわして、肩のところを
出鼻をぶっ倒された猛牛は、起き上るが早いか、覚えたかといわぬばかりに滅多打ちに打ちかかって来るのを、兵馬は軽くあしらい、軽く
猛牛が難なく退治せられたと見ると、道場内の空気が忽ち一変します。
しかし、やや怖れをなしたのは、多少心得ある者だけで、猛牛に次ぐに野牛、野あらし、野犬、まき割り、向う
でも、最初のように、いきなり、ぶっつかることはなく、一応は礼儀をして、一本お稽古を願う態度を示したはいいが、その後のぶっつかり方は、相変らず乱暴極まるもので、頭から力ずくで、このこざかしい若武者をやっつけろ、という意気組み丸出しでかかって来るから、兵馬はおかしくもあり、それが一層こなし
士分連も今は侮り難く、謹んで兵馬に稽古をつけてもらうことになったのはそれからです。
十五
誰が復命したものか、この、素晴しい少年の道場荒しが乗込んで来たという報告が、いつのまにか、主人の耳に伝えられたと見えて、奥の間から、現われて来たその人は、いわゆる「新お代官」という人なのでしょう。肥った、色のドス黒いところに赤味を帯びた、それで背はあんまり高くはない男が、小姓に刀を持たせて、よい機嫌で、そこへ現われて来て、家来を相手の兵馬の稽古ぶりを、無遠慮にながめながら、ニタニタ笑っているのを見ました。
御機嫌はいいに違いないが、それは一杯機嫌であることもたしかです。
稽古が済んでから、兵馬は、この「新お代官」に引合わせられる。「新お代官」は兵馬の腕の見事なのをほめた上に、どうかできるだけ長く留まって、指導してもらいたいということ、自分はこれから出かけるが、今晩は、ゆっくり君と話したい――というようなことを言うて出て行きました。
その夜、兵馬は改めて、この「新お代官」に招かれて、御馳走になりつつ話をしたが、わかったようでわからないのは、この「新お代官様」だと思いました。
水戸の生れだということだが、そうだとすれば、どうして直轄地の代官になれたかということが判然しない。当然、士分の生れの者でなければならぬことはわかっているが、その口調や態度が、ややもすれば、どうしても前身が、バクチ打か何かであったろうとしか思われないものが飛び出す――それだけまた、お役人としては、風変りの苦労人であり、相当に分ったところもあるようです。御主人の出身は、まだよく判然しないが、その口から小野鉄太郎のことは、かなり明瞭に聞くことを得ました。
その語るところによると、鉄太郎はこの土地で育ったが、生れはやっぱり江戸だ、本所の大川端の四軒屋敷で生れたのだ、祖父の朝右衛門がここの郡代になるについて、当地へやって来たのが
十六
兵馬は、その「新お代官」の
小冠者といっても、これは兵馬がしばしば驚かされつけている宇治山田の米友の
薄化粧しているかとおもわれる白面紅顔に、
ところが、道場に満つる人々が、この傍若無人の小冠者の振舞を怪しともせず、彼が入り
二三名を、こなしている間、
「おお、見事見事、わたしにも指南してたも」
と、早くも道具をつけにかかる。兵馬には、稽古中から、この異様な貴公子の挙動が解しきれないものであったが、いかにも小気味よく稽古をこうのだから、辞すべき理由は少しもありません。
無論、兵馬の予想通りで、術としては、さのみ怖るるにも足らないが、気象の烈しいことが太刀先に現われて、美音の気合と共に、息をもつかず打ち込む気力は
「そなたほどの年で、それだけに使える人は全く珍しい、どこで修行なされたか、流儀は
「はい」
「そなた、剣術ばかりか、他の武芸は?」
「はい、槍も少し覚えました」
「ほう、それは頼もしい、して、馬は?」
「馬――も少しばかりせめてみたことがございます」
「おお、それは一段、では、桜の馬場で、わしと一緒に一せめして、それから
「はい……」
「武芸ばかりかの、そなたは、ほかに何ぞたしなみはないか」
「何も存じませぬ、未熟者でして」
「いや、そうではあるまい、そなたの剣術は本当に修行している、して、泳ぎは?」
「水泳でございますか」
「左様、水泳をそなたはやりますか。わしは水泳が一番の得意じゃ」
「ははあ」
「熊野にいた時は、時候もよくあったし、海が近いから、毎日泳ぎに行って、遠海まで泳ぎ廻り、二三日も
「ははあ」
「そなた、何ぞ、芸に遊ぶ心得はないか、たとえば、歌をよむこと、絵を描くこと、香を聞くこと、管絃をかなでることでもよろしい、さもなくば囲碁か、
「はい、いっこう何も心得ませぬが、囲碁ならば少々」
「ああ、それはよろしい、わしのところへ来て相手をしてたも……わしもここに閉じこめられて、鬱積して堪え難いのじゃ、わしを
十七
兵馬も
第一、このたてつづけの質問の主は、誰人であるかわかりもせず、また名乗りもしない先に、自分の注文だけは遠慮なく提出し、ただ提出するだけならよいが、いちいちそれが命令的になってしまうのです。
兵馬というものを、この山中の都会で見つけ出して、
だが、その身元
「して、あなた様は、どちらにおいでになりますか」
「わしは、この川西に家をあてがわれているけれども、わしの
そう言って、委細かまわず、兵馬を自分の相手として任命してしまうところ、全く眼中に人はないのです。
左右の様子を見てみると、代官の役人共、この
「さあ、わしが屋敷へ行こう。わしが屋敷といっても仮の宿じゃ、本当の家は京都の
貴公子はこう言って、のっぴきならず、兵馬を
それは前に言う通り、それを預かる代官の家中も、かえって同意的に黙認しているらしいから、やがて兵馬はこの貴公子に引き立てられて、道場を立ち出でました。
「飛騨の高山には海が無い……その代り、思う存分駒に乗って、国内を飛ばせてみよう」
十八
現に兵馬も、その驚かされたうちの一人で、右の怪しい物音のために、猟師と共に武相の山谷に探検を試みたこともあったということを。
白骨谷へ集まった、お
彼等一味の有志連が、
兵馬は今はじめて、その人を見、まず煙に巻かれてしまって、言句が出ないのです。
たとえば、この人は、初対面の自分をつかまえても呼捨てであるが、いわゆる「新お代官」の
おそらく、この貴公子の唇頭からは、日本の国の中では
そこで、この貴公子に
御家来ではなし、これは代官から、従者とお目附をかねた
川西の屋敷へ着いて見ると、そこに用人らしいのが、玄関に頭をつけて待っている。
貴公子は、さっさと奥へ通って、自分の居間と覚しいところの一室に座を占め、兵馬を坐らせて、涼風を煽って、汗ばんだ肌を押しくつろぎ、
「そなた、もう食事は済みましたか。これから桜の馬場へ馬をせめに行こう――明日は午前に、そちに剣術を教えてもらい、午後には馬に乗り、夜分は双六……そちは双六を知らぬとな。では碁を打とう。ああ、よい友達を見出し得て、わたしはしあわせじゃ」
と言って、中啓を閉じて、ハタハタと
「そなた、さしつかえる事なくば、この屋敷に来てたもらぬか。朝夕、わしと一緒にここに
十九
その晩、貴公子と兵馬とが碁を囲んでいるところへ、恐る恐る用人が、次の間から
「御清興中恐れ入りますが、ちとお願いの儀がござりまして……」
「何事じゃ」
「まことに恐れ入りまする儀ではござりますが、お聞届けの儀をひらにお願い
「は、は、は、お願いの儀とか、お聞届けの儀とか言うて、その儀の本義を言わぬ先に、恐れ入ってばかりいてはわからない」
「実は、この家の主人が立戻って参りました儀で……」
「ナニ、この家の主人が戻って来たとな。それは不思議じゃ、この家の血統は死に絶えて、幽霊が出るなんぞというて、誰もすみてが無いというから、これほどの屋敷を惜しいものじゃ、そんなら、わしにくれと言うておいたのに、今になって主人が戻って来たとは奇怪な……」
「はッ、御不審
「ナニ、生きて戻ったのでなければ、死んで戻ったのか」
「はい」
「それはまた、死人がどうして、これへ戻ったのじゃ」
「ええ、もう無いものとあきらめておりました死体を、ゆくりなく、このほど、水の底から見つけ出しまして、今日、引取って参ることになりました」
「何と言いやる、今まで水の底にかくれていた当家の主人の
「はい、左様の次第でござりまする」
「生きているのでないならば、もはやこの家の主人ではあるまい」
「左様の儀でござりますが、なにぶんにも、親類縁者が数多くござりまする故」
「親類縁者が多数にあっても、この家のあとを継ぐべき者は無いというのではないか」
「御意の通りにござりまするが、なにぶんにも、死体とはいえ、当家の主人が見つかりました上は、親類縁者一同寄り集まり、相当のとむらいの営みをしてやらねばならぬと、そのように申しておりまする」
「いかさま、それはありそうな儀じゃ」
「就きまして、恐れ入った次第でござりまするが、葬儀万端を営みたいと申しまするために、当分当家を拝借したいが、この儀いかがのものにやと、親類縁者共の願いでござりまするが……」
「この屋敷で、葬式を営みたいと申すのか」
「恐れながら、左様な不浄の次第ゆえに、
次の間で、用人がこれだけのことを、平身低頭して申し入れたのを、問答
「それは一応聞えたが、それまでには及ぶまいにな。生きて戻ったものならば、わしも一儀なく、この屋敷を明渡してよろしいが、主人が死んでしまっている上は、主人とはいえまい、やっぱり、わしが主人じゃ、わしが許すから、遠慮なくこの屋敷で葬儀をとり行え」
「えッ」
用人は
「死んだ人が生きたものを走らせることは、
二十
この貴公子が、どうしても動座を
「ほかに家はないのですか、ただお葬式を済ますだけの家はありませんか」
と、あまり巧妙ならぬ調停の言葉をはさんでみました。
「それがその、ほかの事と違いまして、現在自分の家がありながら、葬式の席をかせと申しがたいことでもござりまするし、それに、当人が、第一よろしくござりませぬ、それ故に死んだ後までも親類中に
用人が、かく弁解すると、貴公子は、
「だから、この家でやるがよい、わしはいっこうかまわぬのじゃ」
「それが、
「うむ、天罰、何かよほどの悪いことをしたのかな」
「淫楽に
「ナニ、淫楽に耽った……」
「はい」
「淫楽――というのも程度問題じゃな、これだけの家を踏まえている主人として、
貴公子が存外、さばけて挨拶をするのを、用人は、いっそう恐縮して、
「それがその、男性でござりませぬが故に……」
「男性? 男ではないのか、この家の元の主人は」
「はい、夫なるものは死に失せまして、後家を立てておりましたが、いやはやどうも、箸にも棒にもかからぬ淫婆でござりまして……」
「おお、そうか、女主人であったのか」
「はい」
しかしながら、女主人であるが故によいとも、悪いとも言わず、碁の手が難局になったと見えて、そこで貴公子は沈黙してしまいました。せっかく、ここまで話をすすめた用人は、その結論が聞かれないので、がっかりしたが、やっと少しばかり膝をにじらせて、
「左様な不所存者の非業の死体をこのところに引取り、
「待て、待て」
貴公子は石をパチリと落し、
「そのほうは、よく不浄の家、不浄の家と申したがるが、わしがいる間は、この家の主人じゃ、不浄呼ばわりは聞き苦しいぞ」
「恐れ入りました」
「いったい、その
「はい、水死をいたしました」
「水死――水に落ちて死んだのか」
「はい」
「このあたりには、落ちて死ぬほどの水たまりは無いではないか」
「はい、実はその、これより国境を越えて信濃分になりまする白骨谷というところで、水死を遂げました」
「白骨で……」
「はい」
「一概に水死というが、あやまって水に落ちて死んだのか、得心で水に投じて死んだのか」
「それが、いずれともわかりませぬ」
「ははあ……」
今や局面の定まるところに一石を下ろした貴公子は、
「いずれにしても苦しうはない、今晩でもよろしい、明日でもかまわぬ、その死体をこの家へ運ぶがよい、遠慮なく。次第によってはわしが施主となって、その淫楽の女主人とやらのともらいをしてやってもよい」
「恐れ入りました」
二十一
用人としては、もはや、それ以上には押すことができません。
ぜひなく、この事を、主人たる代官に向って申し上げ、その復命を待って事を決するよりほかはないと思いました。
夜更くるまで、兵馬を相手に碁を囲んでいた貴公子は、やがて、極めて機嫌よく寝室に入りました。兵馬のためにも、すでに、この家に泊るべく、代官の方から用意が充分にしてあったのです。
しかし、その晩のうちに、淫楽の後家さんの非業の死体というのが、この家へ乗込んで来た形跡はありませんでした。
その翌朝、未明に貴公子は兵馬を促し、二人が
自分の家へ、自分の死体が乗込んで来たということは、少しも不思議のことではありません。
ことに、新たに家を預かっている人の、あれほどの諒解を得ているのだから、なおさら不思議のことはないのです。やかましく言った代官の方でも、貴公子の充分なる諒解があったから、黙認の形式を取ったものだろうと思われます。
広間の真中へ置かれた一つの新しい
夜になるとその周囲に、幾台もの燭台が
時としては、こういう席が、かえって賑やかになるもので、故人の徳をたたえてみたり、その
お義理だから集まっては来たけれども、いずれも、むっつりとした顔をして、特に何かの故人のしのびごとを言い出でようという者もなく、どうして発見して、誰がいつ持って来たかということを、念を押す者もなく、よく見つかったという者もなく、悪く持ち帰したという者もなく、全くお義理で、イヤイヤながら寄って来たという空気が充満して、全く白けきったお通夜の席が出来上りました。
こんな空気の中に、たった一人、目立ってハシャイでいるのは、
この男が、万事をとりしきって、白けきった席の
「お、お、おじさん……お前は畜生を、人でなしを、生きたけだものを、家へ連れて来て、葬式をなさるそうだ、わ、わ、わしが不承知だ、わしが不承知だ」
二十二
この声で、満堂のお通夜の客が、一時に、そちらに眼を集めると、血相を変えて立っている若い男は、これも、この家には一族に当る角之助という
「何じゃ、角之助、あわただしい、そちゃ何事を言うのだ」
徳兵衛も、穏かならぬ応対です。
「お、お、おじさん、こ、この死人というのは、人間じゃござんせんぜ」
「ナ、ナ、何を言わしゃるのだ、皆様もきいてござるに」
「何を言うものか、そ、そ、そこに、長い箱に寝そべっている、そりゃ何者じゃ」
「
「仏、仏、おかしいわい、けがらわしい、そ、そ、そんな仏があるかい、畜生じゃ、畜生じゃわい」
「ナ、ナ、何を言いくさる、おぬし、気が違ったか」
「気は違やせんわい、お、お、おじさん、お前が気が違ったろう、お前ばかりじゃない、ここへ集まる、皆さんが、みんな気が違っていなさるのじゃわ」
「ナ、ナ、ナ、ナニを御無礼なことを言わっしゃる、わ、わしはいいが、皆様を気違いじゃとは、そのおとがい――……」
「気違いでなくて何じゃ、この、この人でなしは、この家へ入れるべきもんじゃない、皆様、皆様も、こんな人でなしの畜生のために、なに、
「わりゃ、わりゃ、まだぬかすか、ほんとうに慢心じゃ、ほんとうに気違いじゃ」
「いいや、わしは気は狂わぬ、この人でなしをここへ連れて来た者が狂っている、ここへ集まった者は
「まだ言うか、われ、そのおとがいを
「砕けるものなら砕いてもらおうわい、その前にわしが言うことを聞いて置きや、この仏、仏ではない、人でなし、地獄、畜生婆あはこの川杉屋で何をしたか、皆様、知ってござろう。これほどの
憤慨のあまり、吃弁が雄弁となり、
二十三
「こ、こ、こ、これ、何をしくさる」
今度は徳兵衛が、
「いまさら、お前が、それを並べんでも、わしも知っとる、皆様も御存じじゃ、この席で、それを並べ立てて何になる、生きている間は生きている間、死んだ者は死んだ者じゃ、たとえ生きている間は畜生であろうと、死んだ上は、相当のとむらいをしてやるのが礼儀じゃ、人情じゃ、それをお前は……」
「いけません、おじさん、そ、そ、そんな礼儀や、人情は、この場では通りません、とむらいをしてやるならば、してやるようにして、それからなさい、こいつは、この人でなしの
「こ、これ、阿呆するな、ばかな
「誰が何と言っても、わしが不承知じゃ、これは追い出さにゃ置かぬ」
「理不尽な、それでは、わしが承知じゃ、わしが承知で、この葬式はする、お前の知ったことじゃない、お前こそ、この席から
「わしを、抛り出す、本当の人間の道を言うわしを、ここから抛り出して、人でなし、畜生の亡骸を、上壇でおとむらいなさる、面白い、それができるなら、おやりなさい」
「できるとも、さあ、わりゃ、出てうせろ、出てうせろ」
「わしを手込めになさったな、おぶちなさったな、おじさん、お前にも言い分がありますよ、お前だって、この死人が、人でなしが生きている時は、わしと一緒に、さんざんに悪口を言って、人間の皮をかぶった
「何、何を言いやる、わしが川杉屋の身代が欲しいから、それでこの席を取持つ、阿呆もほどほどにしておきなされや、ほかの言い分とは違うぞや。生きてるうちはともかく、死んでしまってみれば、こうもするのが世間様への礼儀、人情じゃ、たとえ犬猫が死んでも、道路へ
「笑わせなさんな、親類寄合いの時、わしをこの家の
「怪しいとは、何が怪しい」
「胸に聞いてごろうじろ、お前は、お前はとうからこの川杉家を
「聞捨てならん、こいつが、この席で、皆様の前でこうしてくれる」
徳兵衛は、よほどこたえたと見えて、いきなり、角之助の頬っぺたを、
「あいた、た、た」
「うぬ、こうして、こうして、その横に裂けた口をいたしめてくれよう」
「
「うむ」
「こん畜生」
「獄道」
叔父と甥とが棺の前で、組んずほぐれつ、大争いを捲き起したのはほとんど
二十四
叔父は甥の口を両手で引裂こうとし、甥は叔父の
これは仲裁として立ったお通夜の者の中に、また別に、二つの説があって、
「角之助さんの言うのが
と言うのと、
「新家の旦那の言い分が人情だ」
と言うのが衝突して、早くも組打ちがはじまってしまったことです。
仲裁する者が仲裁されるようになると、今夜はどうしたものか、最初から空気そのものが只事でありませんでした。妙に人の心を沈めて、そのくせ神経をイライラさせるような低気圧が、この家の周囲に覆いかぶさっていたのか、それとも、この室内の空気がら、おのずからそういう悪気を
仲裁が、二説にわかれては、争いがあるばかりで、妥協の望みは壊されて行くのみです。
口を
今や、棺の周囲に
そう言われれば、たしかにそうです。家の外の低気圧でもなく、室の中の悪気でもなく、あの茸です、あのきちがい茸です。それを食べたから、食べたすべての者が、こうして狂い出してしまったのです。ただ、罵る者、組んずほぐれつする者、棺を引き出そうとする者、そうはさせまじとする者のみではありません、大動乱の半ばに、大きな顔をして笑い出す者が起りました。とめどもない高笑いをしながら、
柱へ登ろうとして、
「廻るわ、廻るわ、この家屋敷がグルグル廻る、廻り
と、天井を指しながら
原因はわかりました、茸のせいです、毒のある茸のせいです。
もし、たった一人でもいいから、その茸を食わなかった者があるならば、早く走って医者のところへ行きなさい。
ところが、走り出そうとすれば、どっこいとつかまえられてしまいます。
深夜のことで、大きな構えですから、あたり近所からも急に
障子の紙を伝って、天井へメラメラと火がのぼると、
二十五
これはまさしく一大
茸のために一家
この附近の
しかし、茸の生える所がこの国で、石占山ときまったものでない限り、どこにどのような毒茸が
すべて、この場の突発椿事の一切の責任を、挙げて茸氏に
しかし右の毒茸族のうちでも、今宵の犯罪者は、極左に属したものでないことだけは、不幸中の幸でありました。
毒茸党の極左に属するものには、人間が手を触れただけで、その触れた部分を腐らせてしまうものがある。もしそれを取って胃袋の中へでも送ろうものならば、たちどころに内臓の全部を顛覆し、人間の外体を一昼夜もころげ廻って悩乱させ、その全身を紫斑色にして虐殺してしまう。それに比べると、今晩この連中を昂奮せしめた茸氏は、社民系に属するものと見てよいかと思う。
昂奮させ、反抗させ、或いは笑いを爆発せしめることはあるが、生命を奪うまでに、人体を苦しませることはしていないようです。だが、どちらにしても茸に
右の如く、
そこで彼等のうちの一隊は、イヤなおばさんの入れられた寝棺を、無意識に担ぎ出しました。われも、われもと、その寝棺に手がかかり、肩がかかると、お
「あ、
「熱!」
火が室外に追い、熱さが、この一行を宮川河原まで追い出してしまいました。
やはりお神輿を揉むように、揉みに揉んで宮川の河原へ、一同が押し出した時分になって、あたり近所がようやく騒ぎ出しました。打てば響くように代官所が出動したのは、単にこれは、一民家の騒動だけではないと見たからであります。
二十六
かの高村卿と呼ばれた
それは、この葬式のために右の屋敷を立ちのいてしまったものではなく、公達と兵馬とは、この日、早朝から馬を並べて、日和田まで野馬をせめに行って、まだ戻って来ないうちの出来事がこの通りなのです。
もとより、二人とも、遠乗りのつもりで行ったので、泊って来る予定ではないのだから、こんなに遅く帰らないということは、出先で、その野馬ぜめなるものが、帰ることを忘れしめるほどに面白かったものか、そうでなければ、途中何かの事故を生じたために、こんなに遅くまで戻らないのでしょう。
左様、事実はその前者でありました。
日和田というのは飛騨の国内ではあるけれども、信濃、木曾御岳の境に当り、その辺の村の家々に飼われた馬は、毎朝、夜の明くるを待ち
早く、戸をあけてくれよとの、持主に向っての合図です。
持主の家では、馬の催促に従って厩の戸をあけてやる。家々の馬は、いななき合って、勇ましく打群れて走り出す。誰も
或いは馬首をあげて、北風か、南風か知らないが、風に向っていななくのもある。或いは軽俊に
さりながら、この二人連れの者にいささかも害心がなく、やはり駒同様の、はずみきった若い人間種族が、我々と遊びたいがために、わざわざここまでやって来たに過ぎないのだ、我等をとって以て、肉親の愛を剥ぎ、これを市場に売ろうとして出て来たばくろうの
背中を貸すだけではなく、やや疲れたと見た時分には、草にふしたその腹を提供して、そこに
かくて、二人はえりどりに、甲馬から乙駒、乙駒から丙丁へと、のり替え、かけ替え、その終日を、馬と共に遊び興じて、ついに帰ることを忘るるほどの興味に
行く時のつもりでは、ここでめぼしいのがあったら、二人で一頭ずつ曳いて帰るつもりでしたけれども、こうして馬を見ると、そのうちのどの一頭を選んで、自分のものにしようとの気分が、全くなくなってしまいました。
これはこのままでよろしい、やはり野に置け――と言い捨てた時分に、ああ、日がもう御岳へ隠れてしまった、さあ、帰りを急がねばならぬ……
二十七
そこで、二騎相つれて帰路にはついたけれども、せっかく、ここまで来た以上は、
それでも、二人は馬乗提灯をともし、上手に馬を御して、あえて
二人は、こうして若い同士に、清興と、冒険とを兼ねて、いい心持いっぱいで打たせて行きましたけれど、ここに気の毒千万なのは三騎のお
出立の時から、相離れて、つき従っては来たけれども、この連中は、いずれも公達と兵馬ほどの乗り手ではなかったものです。お役目やむことを得ず、慣れぬ馬に
高村卿は、世間話が、ちょっと時事に触れて来た時、一種の慷慨に満ちた憂色をもって、
「左様――何がどこへ落着くかわからない時代じゃ、宇津木、そなたはどう思います、関東の政治が続くか、公家の世となるか……そなたも、諸国を歩いている、そちの見るところの形勢では……」
「拙者共には、いっこう天下の形勢などわかりませぬが、しかし、もはや関東の勢力も末で、世の改まるのは時間の問題に過ぎないとは、誰も感じているようでござります」
「その通り、武家の政治にはみな
「それは、いずれの
「それそれ、遠からずその世が来るのじゃ、夜が明けますぞ、北条、足利の時代が終って、万民の待ち望む中興の時代が来るのは、ホンの
貴公子は、慷慨と共に前途に希望を置いて、おのずから、昂奮を禁じ得ざる態度であります。しかし兵馬は、自身、風雲児をもって任じておらぬだけに、この問題には、いつも、かなり冷静に見もし、聞きもしておりましたものですから、この時も、極めておとなしく言葉を加えてみました――
「しかし……かりに徳川家が倒れましても、第二の幕府が起るようではなんにもなりませぬ。北条が倒れて、
「そこじゃ、それそれ、次の時代を中興の時代とするはよいが、漁夫に利を与えてまた足利にしてやられてはならぬ、公家の英雄をして、遠く
貴公子は再び慷慨に落ちた時、馬は美女峠の高みに立って、飛騨の平原を見おろしておりました。無論、高山の町の夜が眼下に見える。
「あれ、火が……高山の町の中に火が起ったのではござりますまいか」
と馬首をとどめて、兵馬が言いました。
なるほど火だ、火事としても小さからぬ火事だ。
二十八
イヤなおばさんの
白骨から平湯へ来ると、
他国にあってこそ、飛騨の高山といえば、山また山の奥の山里のように聞えますけれど、山から出て来れば、立派に一つの都会へ来た感じに打たれずにはおられません。
ここは昔の城下町として、今の代官の所在地として、長い間のこの国の行政の中心地を成しているだけに、すべて、それ相応の都会としての気分が、しっくり整っている。
もしお雪ちゃんが、一度京都あたりを見て来た人であるならば、この宮川のほとりへ来て、鴨川を思い起さずにはおられないはず、そうして周囲の光景がなんとなく、
ただ、そんな比較を別にしても、久しく山谷の間にうずもれて来たお雪ちゃんは、ここへ来て、
風呂から出て、日暮の宮川のもやを眺めながら、燈の明るい座敷で、
まして、この近辺は花柳の
そうして、この夜は、落着いて、ぐっすりと休むことができました。
だが、お雪ちゃんに限らず、人というものは、生きている以上は、周囲が穏かならば、自分の心の中が動き出すし、自分の心がやっと落着いたかと見れば、何かまた周囲で煩わしいことが、大きかれ小さかれ、そのいずれかの
それはまず、犬の盛んに吠え出したことによって破れていると、次に
「何だろう、もう時刻も夜中を過ぎていようのに……」
お雪ちゃんが、寝床の中で、やや長いこと聞き耳を立てている間に、その人家の罵り声はいよいよ高くなり、全く只事ではないと思わせられました。
それのみか、今まで、家の中でばかり騒いでいると聞えたその声が、今は室外へ
「お祭のお神輿様か知ら、御祭礼があったようにもないが、おかしいねえ」
お雪ちゃんは、寝巻のまま立って、雨戸へ手をかけて無雑作に引きあけてみた途端に、
「あっ」
と言って、眼も口も打たれて、開くことのできなくなったのは、
二十九
この辺で、名古屋で大持てのために
あの時の水かぶりで、危うく陸沈をまぬかれたが、先生の鼻息すこしも異状なく、宿へ帰ってつぎたしをして休みながら、宇治山田の米友のいないことなんぞも、一向お気がつかれませんでした。
先生は更に明日からの日程を、夢みながら……なお
江戸に残された、道庵の
本来、デモと言い、プロと言い、道庵ある間は、天晴れ貧民の味方で、先棒をかついでいたが、本来何も特別の主義信念があって、道庵と行動を共にしていたというわけではなく、道庵に一杯飲ませられたのと、道庵の一面に備わっている暴君的独断に圧迫されて、寄りたかっていたのだから、少しでも、そのおみきと、圧迫から離しておかれれば、どっちへどうにでもなる連中です。
それのみならず、盟主と頼む道庵は、十八文をふりかざして、大いに貧民の味方らしくは振舞っているが、酒気に乗じて横暴を
これではたまらない、いつかしかるべき親分に乗り替えて、もっと飲めるようにしてもらわねばならないと考えていました。
ところで、このたびの
どうだ、これで胸が透いたろう、道庵の奴、いい気持で、江戸へ帰りつく時分には、お株はすっかり橋庵先生に奪われて、立場を失って、ベソをかく
デモ倉と、プロ亀が
この分で、上方へやっては、道庵の上方に於ける人気が思いやられる。ほうっておけば当時天下に、道庵のほかは人が無いようになってしまう。江戸の方で、天晴れ
しかし、デモとプロもさるもの、たちまち智嚢をしぼって、この道庵の人気に対する対抗策を考えついたというのは――仲間中から人を選んで、道庵の行くところにさし向け、つきつ
その人選には、折助のマアちゃんに限ると思いました。折助のマアちゃんというのも、別に本名はあるのだろうが、当時は、折助のマアちゃんで通って、誰知らぬ者もない。
三十
マアちゃんに限る。むこッきが強くって、おだてが
だが、マアちゃんの名では、道庵の向うを張らせるには重味が足りないから、何としよう、そうそう三文安の先生もあることだから、「安直先生」あたりがよかろうではないか。
そうして右の、「安直」の相役にはデモ倉が、名も「金茶金十郎」と改めて同行することになり、日ならずして、この安直先生と金茶金十郎の同行が、道庵の跡を
人はいかなる場合に、いかなる敵を持つか知れたものではありません。かかる大敵が後門に迫るとは、神ならぬ身の知る由もなき道庵は、翌日眼覚めると、自室にも、次の間にも、頼みきったる宇治山田の米友がいないことに気がつきました。
これは破格のことです。今まで、米友が道庵を見失うことはあろうとも、道庵が、米友を見失ったことはないはずです。
道庵が米友を見失ったのは、ある格別の事情によって、米友のいることを不利益と考えた場合や、また計画的ではないにしても、ついつい興に乗じて、行違いになってしまうことも、一度や二度ではありませんでした。
その度毎に、道庵の方では、友様の野郎をまいてやったと大得意でふざけきっているが、米友の方では、その忠実厳正なる責任感から、
これは道庵としては、
今朝は、まさしく、その前例と違って、道庵の方で米友を見失ったので、道庵が米友をまいたのでないことはわかっています。そこで、さしもの道庵も少々しょげて、
「はて、友様はどうしたろう、あれから、ああして、あの時までは、あれだったが、ああしてその後が……『水祝い』の時は、奴、いなくってよかったと思ったが……奴がいてごろうじろ、軽井沢の伝で、棒切れを振り廻された日には、せっかくの御趣向が水にもならねえ、あの時ばっかりは友様がいてくれねえのがお
道庵は
三十一
その夜、宇治山田の米友は、鳴海の宿の
夢を破られて見ると、自分というものが、
大抵の場合に於て、この男は、素肌に
そのはずです。日中には名古屋の市街から、宮、熱田を七里の渡しの
半ば以上無意識で、睡眠をとろりとさせていたが、やはり夢を破られても夢心地で、
「やんなっちゃあな」
と、米友は、ひとりでこう
「やんなっちゃあな」というのは、更に正しくてにをはをはめてみると、「いやになってしまうな」ということで、これに漢字を交えてみると、「
そこで、米友は、半ば以上無意識の
「やんなっちゃあな」
と言いながら室内を見廻したけれど、うたた寝では毒だと気がついて、あわてて起き直るでもなし、
しかし、米友が夢を破られたというのは、単にそれだけの理由ではありません。この男は、例えば、打って叩いても、熟睡から
心がけのあるさむらいは、
ですから御覧なさい、半ば無意識で、夢うつつの境にぼんやり眼を据えながらも、その右の手は首の下に廻って、スワといわば、かの杖槍を
三十二
果して、この一室へさいぜんから、怪しいものが
半ば以上を、今や三分の二以上といっていいほど意識を取戻した米友は、この真黒い動物に気がつきました。
その瞬間――猫にしてはズンと大きい、犬にしては

