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大菩薩峠

無明の巻

中里介山




         一

 温かい酒、温かい飯、温かい女の情味も畢竟ひっきょう、夢でありました。
 その翌日の晩、蛇滝じゃだきの参籠堂に、再びはかない夢を結びかけていた時に、今宵は昨夜とちがってしとしとと雨です。
 机竜之助は、軒をめぐる雨滴あまだれの音を枕に聞いて、寂しいうちにうっとりとしていますと、頭上遥かに人のさわぐ声が起りました。
 しとしとと降りしきる雨をおかして、十一丁目からいくらかの人が、この谷へ向って下りてくることが確かです。
 見上げるところの九十九折つづらおりの山路からおもむろに下りて来るのは、桐油とうゆを張った山駕籠やまかごの一挺で、前に手ぶらの提灯を提げて蛇の目をさしたのは、若い女の姿であります。
 ややあって、駕籠だけは蛇滝の上に置かせて、蛇の目の女だけが提灯を持って、参籠堂の前まで下りて来ました。
 わざと正面の御拝ごはいのある階段からは行かないで、側面の扉をほとほとと叩いて、
「御免下さいまし」
 なんとなく、うるおいのある甘い声。机竜之助は枕をそばだてて、その声を聞いていると、
「あの、昨晩申し上げましたように、わたくしはこの夜明けに江戸へ参ります、それは、いつぞやも申し上げました、わたくしの子供の在所が知れました、ふとしたことから兄の家へ乳貰ちちもらいに来た人が、その子を連れて参りましたのを、兄が取り戻したから、そっと、わたくしに取りに来るようにと沙汰さたがありました、それ故、急いで行って参ります、急いで帰るつもりではございますけれど、行きがかりで日数がかかるかも知れません、どちらに致しましても、わたくしはあの子を連れてお江戸に近いところにはおられませんから、きっと戻って参ります、それまでの間、昨晩も申し上げましたように、これから上野原へお移り下さいまし、あれに月見寺つきみでらと申しまして、山家やまがにしては大きなお寺がございます、あのお寺には、わたくしの妹がおりますから、あれへおいでになって、暫く御養生をなさいませ」
 扉の外に立った女は欄干につかまって、扉の中へこれだけのことを小声で申し入れました。中へは入ろうとしないで、外でこれだけの用向をいって、中なる人の返事を待っている間に、提灯ちょうちんの中を上からながめているそのおもてが、やや盛りを過ぎてはいるけれども、情味のゆたかな女で、着物もこのあたりの人とはいえないまでに、柄のうつりのよいのを着ているのが、提灯の光ですっきりと見えるのであります。これぞ、巣鴨庚申塚のほとりで、不義の制裁を受けて殺されようとした女に紛れもないのです。たしか、この女の郷里は、ここから程遠からぬ小名路こなじ宿しゅくの、旅籠屋はたごやの花屋の娘分として育てられた女であります。のぞいている提灯にも、花という字が大きく書いてあるのでわかります。
 あれから後、夢のような縁に引かされて、この蛇滝にこもることになってほぼ百箇日、その間の保護は、この女から受けていたと見るよりほかはありません。
 今、この女は江戸へ行くとのことです。江戸へ行かねばならぬその理由は、よそへ預けておいた行方不明ゆくえふめいの子供の行方がわかったから、それを取り戻しに行くのだと言っています。あの近所へ近寄れない怖れと弱味とを持っておりながら、やはり子供の愛には引かされて行くものらしい。
「子供というのは、それほど可愛いものかなあ」
 扉の中で竜之助の声。
「可愛ゆうござんすとも、子供ほど可愛ゆいものは……」
 提灯の中を見入っていた女が面を上げた時に、その身体からだが欄干からするすると巻き上げられて、蛇にのまれたように、扉の中へすいこまれてしまいました。

         二

 参籠堂の中で、焚火が明るくなった時分に、机竜之助は、いつのまにか着物をきがえて旅の装いをすまし、頭巾ずきんをかぶって、その火にあたっておりました。
 それと向い合って、女はおくをかき上げて、恥かしそうに横を向いていましたが、
長房ながふさというのへ出て小仏へかかるのが順でございますけれども、駕籠屋さんが慣れていますから、高尾の裏山を突切ると言いました、五十丁峠の道をわけて、山道づたいに上野原へ出た方が、道は難渋なんじゅうでも、人目は安心でございます」
「いや、なにかとお世話になるばかりで、御恩報じもできないことを痛み入ります」
と竜之助は、焚火に手をかざして、その蒼白あおじろい面に、いささかながら感謝のひらめきを見せると、女は、
「いいえ、どう致しまして、わたくしこそ、命を助けていただいた御恩が返しきれないのでございます」
「いつ、拙者が人の命を助けたろう」
「お忘れになりましたのですか」
 女はその言葉にあきれたらしい。
「そなたに助けられた覚えはあるが、そなたを助けた覚えはありませぬ」
「まあ、ほんとうにお忘れになりましたのですか、あの、巣鴨の庚申塚のことを」
 この時、女は、病気のせいでこの人の記憶がにぶったのではないかと、まじめに疑いはじめたが、竜之助は、
「覚えていますとも……」
「それごらんなさいませ。あのことがなければ、わたくしはどうなっていたか知れません、いいえ、わたくしはあの時に殺されていたのです、それを、あなた様に助けられましたので」
 その時の思い出が、女を堪えがたい羞恥しゅうちと感謝とに導く。
「そのとき助けたのは、拙者ではない、助けようと思ったのも拙者ではござらぬ。もしその時、そなたたちを助けようとした人、助け得た人があったとすれば、それは弁信といって、安房あわの国から出た口の達者な、やはり眼の見えない小坊主の働きじゃ。拙者は人を助けはせぬ、助けようともしなかったのみならず……」
「いいえ、もうおっしゃらなくてもよろしうございます、なんとおっしゃってもわたくしは、現在あなた様に助けられているのですから」
 女はひとり、それを身にも心にも恩に着ているのであった。人のあやまちは七度ななたびこれを許せと、多数の私刑者の中に絶叫して歩いたのは、竜之助の言う通り、安房の国から出た弁信という口の達者な、目の見えない小坊主であった。しかるにその人は感謝を受けないで、この人がひとりほしいままに女の心中立しんじゅうだてを受けている。怨み必ずしも怨みではない、徳必ずしも徳ではない。外では雨の音。
「さて」
と刀を取って引き寄せようとしたのは、待たしてある駕籠のことをおもんぱかったのでしょう。
「まあ、お待ち下さいませ、まだよろしうございます、かまいませんです、みんな家の者同様の人たちなんですから」
 最初には、上へあがることをさえはばかった女が、今はかえって名残りを惜しんで、立たせともなき風情ふぜいであります。
「ああ、そうでした、わたくしはいつぞやお約束の餞別せんべつを、あなたに差上げるつもりで持って参りました」
と言って、女は立って扉を押し、
「駕籠屋さん、あの刀をちょっとここへ貸して下さいな」
 やや離れた行衣場ぎょうえばに、同じく焚火にあたり、無駄話をしていた二人の駕籠屋を呼びます。

         三

 女は駕籠屋かごやから刀箱を受取って、それを改めて竜之助の前に置いて、
「あなた、この刀には、なかなか因縁いんねんがあるのでございます」
「何という人の作か、それを聞いておきましたか」
といって竜之助は、箱の紐に手をかけてほどきはじめました。
「ええ、銘がございますそうです」
「在銘ものか。そうしてその銘は?」
 箱の中から萌黄もえぎの絹の袋入りの一刀を取り出して、手さぐりで、その紐を払うと、女は燭台しょくだいをズッと近くへ寄せて、
「どうか、よくごらんなすって下さいまし、こういうものばかりは見る人が見なければ……」
「その見る人が、この通りめくらだ」
 袋の中から白鞘物しらさやものを取り出しますと、女は、
「それでも、心得のあるお方がお持ちになればちがいます」
といって、今更、燭台を近く引き寄せたことの無意味を恥かしく思います。
「重からず、軽からず、振り心は極めてよい」
「手入れの少ないわりには、さびが少しもついておりませぬ」
「なるほど。そうして刃紋はもんの具合はどうじゃな」
といって竜之助は、鞘を払った刀を、女の声のする方へ突き出して見せました。
「刃紋とおっしゃるのは……」
 女はこころもち身を引きかげんにして、この時はじめて、傍近く引き寄せた燭台の存在が無意味でないことを知りました。竜之助のかおと、突き出された白刃とを、蝋燭の光で等分にながめて、返事にさしつかえていると、
「刃紋とは、鍔元つばもとから切尖きっさきまで縦に刃の模様がついているはず、その模様が大波を打ったように大形についているのもあれば、丸味を持ったのこぎりの歯のように細かくついているのもある、或いは杉の幹を立てたようなのが真直ぐに幾つとなく並んでいるのもある、のたれというのもある、美しい乱れ形になっているのもあります」
「ございます、ちょうど、雨だれののきを落ちる時のような同じ形が揃って、つばの下から切尖まで、ずっと並んで、いかにもみごとでございます」
「あ、ではみだれになっているのだろう。それから、にえにおい、それは、あなたにはわかるまいが……銘があるとの話、その銘は何という名か覚えていますか」
「小さい時から聞いておりました、国広くにひろの刀だそうでございます」
「国広……」
「はい」
「ただ、国広とだけか」
「ええ、国広の二字銘だとか、父が申しておりましたそうで」
「ああ、国広か」
 竜之助にかなりの深い感動を与えたものらしく、刀を二三度振り返してみて、
「国広にも新刀と古刀とあるが、これはそのいずれに属するか、相州の国広か、堀河の国広か」
とひとり打吟じて、
「多分、堀河の国広だろう、ああ、いい物を手に入れた」
 彼の蒼白あおじろかおの色が、みるみる真珠の色に変ってゆくと、
「堀河の国広というのは、よい刀ですか」
「新刀第一だ」
 その真珠色の面が刀の光とうつり合って、どこかに隠れていた血汐ちしおが、音もなく上って来るようで、気のせいか女のびんの毛が、風もないのに動いて見えます。
 刀をなげうってここにほぼ百日。ようやく人の世の微光がその眼に宿りかけた時、再びこれに刀を与えた。らざる餞別せんべつ。与うべからざるものを与うるのが、女の常か。

         四

 雨のしとしとと降る中を、わざと甲州街道の本街道を通らずに、山駕籠に桐油とうゆをまいて、案内に慣れた土地の駕籠舁かごかきが、山の十一丁目までかつぎ上げ、それから本山を経て五十丁峠の間道を、上野原までやろうとするのは、変則であってまたかなりの冒険です。しかし、駕籠屋が好んでそれをやるわけではなく、また乗る人が好んで、それを行きたがるわけでもなく、要するに女の特別の頼みと、駕籠屋が山上に住んでいて、往返おうへんの距離と案内においてかえって優れているせいと思われます。女は、そこまで見送って、別に一人の男をつれて、駕籠屋には駄目を押して、参籠堂から本道を家へ帰ってしまいました。
 十一丁目までの間は、壁にのぼるような急勾配きゅうこうばい。それから道はゆるやかになって、そこで駕籠屋たちも無駄話をする余裕が出来ました。
「もし、旦那様、あの花屋のお若さんは、あなたのおかみさんですか」
 朴訥ぼくとつな言葉で、前棒さきぼうをかついでいた若いのが、駕籠の中の竜之助に問いかけたものですから、竜之助もむずがゆい心持で、
「違う」
「そうですか、お若さんは江戸で御亭主をお持ちなすったそうですが、本当でしょうか」
「拙者は、それをよく知らないのだ」
「そうですか」
といって、前棒の若い駕籠屋は黙ってしまいました。その言葉つきによって見ると、これは全く土地の人間で、雲助風の悪ずれしたのとは、たちが違うことがよくわかります。暫く無言で、やや坂道になったところを上りきると、今度は後ろのが、
「お若さん、子供があるって本当だろうか」
 ぽつりと、思い出したようにいい出したのは、前棒のよりはやや年とったような声です。そうすると、前のが、
「ああ、そりゃ本当なんだ、なんでも今度は、その子供を引取って来るとかいってるものがあったよ」
「子供があれば御亭主があるだろう」
「そうだな、御亭主があっても子供はないのはあるが、子供があって御亭主のねえというのはあるめえ」
「では子供と一緒に御亭主さんも来るんだろう」
「そうかも知れねえ」
 あたりまえならば、この会話に何か皮肉が入りそうなのを、極めて平凡な論理と想像で進行させてしまって、道はまた少しく勾配にかかるので黙ってしまいました。
「旦那様」
 今度のは、後ろの駕籠屋が思い出したように、駕籠の中に向って言葉をかけました。そこで竜之助は、
「何だ」
「わたしどもは、あんまりお若さんが親切にあなた様の世話をなさるから、それで、お若さんはあなたのおかみさんだろうと、もっぱらうわさをしておりましたよ」
「それは有難いような、迷惑なような話で、拙者は世話にはなったけれども、縁はないのです」
「それでも、お若さんは、大へんあなたに御恩になったように申しておりましたよ」
「別に骨を折って上げた覚えもないけれどな、まあ計らぬ縁でこうして世話になるのだ、あれはなかなか親切でよい人だ」
「そうです、親切で、気前がなかなかようございます。旦那様は、あのお若さんの盛りの時分から御存じですか、それとも、近頃のお知合いなんですか」
「ほんの、つい近頃の知合いだ」
「そうですか、小名路こなじの花屋のお若さんといえば、甲州街道きっての評判でございましたよ、街道を通る人が花屋のお若さんから、お茶を一ついただかないことには話の種になりませんでした、それだけ評判者でしたけれども、身の上をお聞き申すとかわいそうです」
「ははあ」
 机竜之助は思わぬところから、女の身の上話を聞かされようとするのを、あながちいやとは思いませんでした。今までも、自分をしては問わず、女もまた好んで語ろうともしなかったが、雨の山駕籠を揺りながら、朴訥ぼくとつな土地の者の口から無心に語り出でられようとする情味を、あえて妨げようとする気にもなりません。
「御存じですかね、お若さんは花屋の本当の娘ではありません、小さい時に貰われて来たんです」
「なるほど」
「貰われて来たんですけれども、その親許がわからないのですね」
「親がわからない?」
「それがね、わかっているのですけれども、わからないことにしてあるんです」
「というのは?」
「それが、なかなかり込んでいるんです。あの甲州街道の、駒木野のお関所の少し北のところに、お処刑場しおきばのあとがあるんでございます。今は、そこではお処刑しおきがありませんが、昔は、あそこでよく罪人が首を斬られたものです。今の花屋の死んだお爺さんが、そのお処刑場の傍らで供養にする花を売っていました、つまり花屋という名も、そこいらから起ったんでしょうねえ。ところで、あるとき一人の浪人が、その花屋のお爺さんに一口ひとふりの刀と、まだばなれのしない女の子を預けてどこかへ行ってしまいました、この女の子が、あのお若さんなのです。浪人衆は多分、父親なんでしょう、関所を通るについて、子供をつれては通りにくいことがあったのでしょう、それっきりお父さんというのが音沙汰がありませんで、女の子は花屋で引取って育てました、これがあのお若さんなんです。土地の人は、そんなことを知ってる者もありますが、知らないものもあります。本人のお若さんは、そのことを知らないでいるそうです」
「それが、どういう縁で、江戸の方へかたづいたのだ」
「そのことは、あんまりよく存じませんが、なんでもお若さんはいやがっていたのを、先方がってというのに、世話人の方へ義理があって行くことになったんだそうですよ」
 後ろの老練なのが、委細を説明していたが、この時、不意に前棒の若いのが口を出して、
「お若さんには、別に好きな男があったっていうじゃないか」
「いろいろの噂があるにはあったがね。何しろ街道一といわれたくらいだから、人がいろいろのことをいいまさあ」
「なかなか固いという者もあれば、思いのほか浮気者だといってる者もあったね」
「いよいよ江戸へ行ってしまうという時に、高尾の若い坊さんが一人、くびれて死んでしまいました。それについて、またいろんな評判がありますが、つまり、その坊さんは、恋のかなわない恨みだということになっています」
「そんなことがあったか知ら」
「お前たちがまだ、鼻汁はなをたらしていた時分のことだ」
「してみると、お若さんは罪つくりだ」
「罪つくりにもなんにも、一体が女というものは、たいてい罪つくりに出来てるものですが、そのうちにもい女ほど、よけい罪つくりになるわけですねえ、旦那様」
といって老練なのが、竜之助のところへ言葉尻を持って来たのを、
「そうだ、そうだ」
と聞き流していると、前棒さきぼうの若いのが、
「罪つくりは女だけに限ったものでもあるめえ、男の方が、女に罪を作らせることも随分ありますねえ、旦那様」
 両方から、罪のやり場を持ち込まれて竜之助は、
「そりゃ、どちらともいわれない」
 この時、竜之助はふと妙な心持になりました。

         五

 本坊の前から炊谷かしきだにへかけて森々しんしんたる老杉ろうさんの中へ駕籠かごが進んで行く時分に、さきほどから小止みになっていた雨空の一角が破れて、そこから、かすかな月の光が洩れて出でました。
めた、お月様が出たよ」
 老杉の間から投げられた光を仰いで、行手を安心する駕籠舁の声を、駕籠の中で竜之助は聞いて、
「ああ、雨がやんだか」
「ええ、雨がやんでお月様が出ましたよ、もう占めたものです」
「この分だと、大見晴らしから小仏の五十丁峠で、月見ができますぜ」
 しかしながら、山駕籠は別段に改まって急ぐというわけでもなく、老杉の間の、この辺はもう全く勾配はなくなっている杉の大樹の真暗い中を、小田原提灯の光一つをたよりにして、ずんずん進んで行きます。
 駕籠に揺られている竜之助は、天に月あることを聞いたが、身は今、この老大樹の闇の中を進んでいることを知らない。ただ、こずえはるかの上より降り落つる陰深な鳥の声を聞いて、ここは多分、護られたる霊域の奥であろうとは想像するのです。
 ふと、その空気の圧迫と、怪しい鳥の落ちて来る鳴き声に、過ぎにし武州御岳山のきり御坂みさかの夜のことが、彼の念頭を鉛のように抑えて来ました。宇津木文之丞を木剣の一撃に打ちたおしたその夜、同門の人にやみうちを受けた霧の御坂の一夜、その夜、山の秘鳥、御祈祷鳥ごきとうどりが、降りかかるようにわが身辺に鳴いていた中を、彼は熱さに燃ゆるお浜の胸を抱いて、闇を走ったのではないか。
 お浜はいずれにある。恨みに生きて恨みに死んだ、かの憎むべき女の遊魂は、いずれにさまよう。
 人間の罪、今も心なき駕籠舁の口から出たその人間の罪は、男女いずれに帰すべきやを知らない。その起るところのいつであるか知らないように、その終るところのいずこであるやを知らない。ただ知っているのは、罪は畢竟ひっきょうずるに、罪以上のものを産まないということ。
 それは仮りに罪といってみるまでのことで、竜之助自身にあっては、世のいわゆる罪ということが、多くは冷笑の種に過ぎないことです。彼は自分の生涯を恵まれたる生涯だとは思っていないが、また決して罪悪の生涯だとは信じていないのです。彼自身においては、自分が生きるように生きているのみで、未だかつたくらんで人を陥れようとしたことがない。わが生きる前途にふさがるものは容赦なく、これを犠牲にして来たつもりだが、わが存在をてらうために一筋でも、他を犯したことはないつもりである。夜な夜な出でて人を斬ったことですらが、彼は渇して水を求むるのと同じことで、自己の生存上のやむにやまれぬ衝動に動かされたのだという、盲目的の信念に生きているのであった。国と国が争う時には、幾万の人の命が犠牲になるではないか……自然が威力をたくましうした時、おびただしい人畜を殺すこともあるではないか。誰が国と自然との罪を責める?
 悪いことをしていない、という盲目的信念は、今までこの男をして、世の罪ある者の方へ、罪ある者の方へと縁を結ばしめて来た。愛すべきものは罪である。ことに愛すべきは罪を犯して来た女である。今まで彼を愛し、彼に愛せられた女性は皆、この罪ある女ではなかったか。愛でも恋でもない、それは罪と罪とのからみ合う戯れではないか。ただし戯れにしては、そのもだえがあまりに重くして深いことの怨みがある。
 道はいつしか、老杉の境を出でて樺木科かばのきかの密林をよぎると、そこから、すすき尾花の大見晴らしの頭が現われます。
「すっかり晴れちまったね。いいお月見ですよ、旦那様」
 駕籠屋がいい心持で天を仰いで、雨あがりの雲間のえた月をながめて、その気分をいささかながら駕中がちゅうの人に伝えようとする好意で、
「ここのお月見は格別ですね、何しろ十二カ国が一目で見渡せるんですからね」
 駕籠は、すすき尾花の大見晴らしを徐々しずしずと押分けて進むと、五十丁峠のやや下りになります。少しく下ってまた蜿蜒えんえんとして、すすき尾花の中に見えつ隠れつ峰づたいに行く道が、すなわち小仏の五十丁峠。もし昼間にこれを通るならば、身の丈をおおいかくすほどの、すすき尾花の路のつい足もとから、バタバタと雉子きじや山鳥が飛び出して、幾度か旅人を驚かすのですが、夜はすべての鳥が、その巣に帰っていると見えて、悠長な駕籠屋を驚かすほどの物音もなく、五十丁峠を七八丁ほど来て、また小高い峰の頂にかかった時、
「向うのあの松林の中で、変な火の色が見えたぜ」
「え、松林の中で?」
 二人の駕籠屋はいい合わせたように、大だるみの方面へ走った峰つづきの松原の方を眺めました。
「なるほど」
「何だろう、あの火は」
「提灯でもなし」
「焚火でもなし」
 駕籠の中で、それを聞いていた竜之助は、むらむらと昨夜ゆうべの夢を思い起しました。その松林には、はるばると甲州の白根の奥から来た肉づきの豊かな年増としまの山の娘がいて、その火は、温かい酒と松茸まつたけを蒸しているのではないか。
「こっちへ来るようでもあるし、あっちへ行くようでもあるし」
「いやな色をした火だなあ」
 駕籠かごの歩みが、こころもち遅くなったのは、すすき尾花の丈がようやく高くなって、歩みわずらうせいでしょう。
「だけんど、おれはこの道でおっかねえと思ったのは、たった一ぺんきりさ」
前棒さきぼうの若いのが、おじけがついて、強がりをいってみたくでもなったもののようです。
「そりゃあ、どうしてだ」
「高尾の山には天狗様がいるという話だが、おれは、三年ばかり前の晩景ばんげ、この通りでその天狗様にでっくわしてしまった。なあに、鼻も高くはないし、羽団扇はうちわもなにも持っちゃいなかったし、あたりまえの旅人のなりをしていたんだが、その足のはやいこと……すっとすれ違ったと思ったら、あの地蔵辻から、もう大見晴らしの上に立っていたのにおったまげて、あの時ばかりは動けなくなっちまったよ」

         六

 その地蔵辻の上へ駕籠を置いて、駕籠屋は一息入れています。
 蜿蜒えんえんとして小仏へ走る一線と、どこから来てどこへ行くともない小径こみちと、そこで十字形をなしている地蔵辻は、高尾と小仏との間の大平おおだいらです。
 四方に雲があって、月はさながら、群がる雲と雲との間を避けて行くもののように、景信かげのぶ陣馬じんばはらの山々は、半ば雲霧におおわれ、道志どうし丹沢たんざわの山々の峰と谷は、はっきりと見えて、洞然どうぜんたるパノラマ。その中に置きえられた一つの駕籠。
 机竜之助は、その中に、堀河の国広を抱いて、うっとりと眠るともなく、めるともなく、天狗様の怪異談まで聞いて、駕籠のとどまったことを夢心地に覚えていると――
 その時、不意に風でも吹き起ったもののように、サーッと尾萱おがやの鳴る音が、行手ではなく、自分たちが今たどって来た道筋から起ったかと思うと、月影に見ゆるのは、旅人らしい一箇の人影です。
「今晩は」
 その人影は早くも、休んでいた駕籠の傍へ来た。先方から挨拶の言葉で、二人の駕籠屋があわてました。
「今晩は」
「いいあんばいに、雨があがりましたね」
「ええ、いいあんばいに雨があがりましたよ」
「どちらへおいでになりますね」
「ええ、上野原の方へ。急病人がありましたのでね」
「それは、それは」
といって、旅人はお辞儀をして、その駕籠のわきの細道を通りぬけようとして、また踏みとどまり、
「済みませんが、火を一つお貸しなすって下さいまし」
「さあ、どうぞ」
 この旅人は、棒鼻の小田原提灯の中の火が所望と見えて、懐ろから煙草入を出すと、そのかおを提灯の傍へ持って行きました。駕籠屋は心得て提灯をはずして、その旅人の鼻先に突きつけてやりながら、その面を見るとかなりの年配で、堅気の百姓のようでもあるし、何か一癖ありそうにも見えますが、物ごしは最初から丁寧で、好んでこの夜道を突切りたがる男とは見えません。
「いや、どうも有難うございました」
 吸いつけた煙草をおしいただいて、お礼の真似事をしながら、ジロリと駕籠の方を見ましたが、あいにくに提灯をこっちへ持って来ていたものだから、横目でジロリと見たぐらいでは、思うように見当がつかないらしい。
「どう致しまして」
 そこで旅人は、煙草をくゆらして、お別れをしようとしたが、また何か思いついたもののように、
「若い衆さん、お気をつけなさいましよ、やがて霧が捲いて来ますぜ」
「え、霧が……こんな雨上りの月夜にですか?」
「そうですよ、町の真中でさえ霧に捲かれると、方角を間違えますからな、ことに山路で霧に捲かれては、いくら慣れておいでなすっても、困ることがありますからね」
「そうですかねえ」
 駕籠屋は、いよいよせぬ色で、その忠告を聞き流していたが、なあーに、こんな雨上りの月夜に、そう急に霧が捲くことがあるものかと、たかをくくってそれにはあえて驚きもしなかったが、やがて、
「あッ!」
と驚かされたのは、いま立去った旅人の挙動です。つい、たった今、そこで煙草の火をつけて、霧の起るべき予告をしておいて立去った旅人は、早や眼を上げて見ると、二十八丁のいただきに、豆のような形を消して行くところです。
「今の人が、もうあすこまで行った」
「あッ!」
と若いのが青くなったのは、今も今の話、天狗様の夜歩きを、この男は生涯に二度見たからです。二人の見合わせた面は真蒼まっさおです。
「さあ、いけねえ」
 ふるえがとまらないでいる。この時遅しとでもいおうか、谷と沢の間から、徐々として白いものが流れ出すと、峠や峰の横合いからも、ひたひたとその白いものが流れ出して来るのです。
 気のついた時分には、月の光も隠れておりました。
「さあ大変! 天狗様のお告げ通りになったぞ」
 彼等は、いま立去った旅人を人間とは見なかったように、いま捲き起った霧を、単純な天変とは見ることができないで、おののきはじめました。
「旦那様、旦那、どう致しましょう、いっそ駕籠かごを戻しましょうか、それとも千木良ちぎらの方へでも下りてしまいましょうか」
 根が正直な土地の駕籠屋だけに、まじめになって駕籠の中の客に相談をかけると、その理由を知ることのできない竜之助は、
「どうして」
「今晩は、いけない晩でございますよ」
「何がいけない」
「お聞きになりましたか、今、怪しい旅の人が、煙草の火を借りて参りました、それが、その、ただの人ではないのでございます」
「ただびとでない?」
「ええ、さきほどもお話し致しました通り、この高尾のお山には、昔から天狗様がんでおいでなさるのです、そうして今の旅人がたしかに、その天狗様に違いありません」
「ばかなことをいうな、拙者もここでその旅人のいうことをよく聞いていたが、人間の声だ」
「左様でございます、言葉だけをお聞きになったんでは、ちっとも人間と変りはございません、また姿を見たって人間とちっとも変りはございませんが、旦那様、歩くところをごらんになれば、直ぐわかります」
「何か変った歩きつきをして見せたか」
「変ったどころではございません、今ここで煙草の火をつけて、霧が捲くから用心しろとおっしゃったかと思うと、もう二十八丁目の天辺てっぺんへ飛んで行ってしまいました」
「羽が生えて飛んで行ったのか、足で歩いて行ったのか」
「それは、よく見届けませんでしたが、二人がこうして傍見わきみをしているかいない間に、もうあすこまで一飛びに飛んで行ったんですから、おおかた羽が生えたんでしょう」
「心配することはない、ずいぶん世間には足のはやい奴があるものだ、人間業にんげんわざとは思えないほどに迅い奴があるものだ、そういう奴が、よく山道の夜歩きなぞをしたがる」
「足の早いといったって旦那、たいてい相場がありましょう、今のあの旅人なんぞは……」
「たとい、天狗にしろ、お前たち、なにも天狗に申しわけのないほど悪いことをしているわけではあるまい」
「いいえ、論より証拠でございます、天狗様がお知らせになった通り、晴れた月夜が、このように霧になってしまいました」
「かまわず目的通りの道を行くがよい」
「でも旦那、ほかの者と違って、相手が天狗様じゃかないません」
「お前たち、天狗に借金でもあるのか」
「御冗談をおっしゃってはいけません、ばちが当ります」
「罰は拙者が引受けるから、かまわずやってくれ」
「行くには行きますがね」
 二人の駕籠屋は怖々こわごわながら棒に肩を入れました。どのみち、進むか退くかせねばならぬ運命を、ぼんやり立っているのはなお怖いような心持がする。最初のうちは、彼等が仰天したほど深くはなかった霧が、歩き出すにつれて、歩一歩と深くなりまさってゆくようです。やがては峰も谷も、すすきも尾花も一様に夜霧におおわれて、人も駕籠もその中に没入して、五十丁峠は晦冥かいめいの色に塗りつぶされてしまいました。
 駕籠屋が迷いはじめたのはそれからです。本来この連中が、この慣れきった道に迷うはずがないのを、迷い出しました。
「旦那、方角がわからなくなっちまったんですが、どっちへいったもんでしょう!」
 正直な二人が、ようやくのことで弱音よわねを吐き出した時分は、もう真夜中で、彼等としては、こうも行ったら、ああも戻ったらという、思案と詮術せんすべも尽き果てたから、鈍重な愚痴を、思わず駕籠の中なる人に向ってこぼしてみたのです。
「こんなはずではなかったんですが、どっちへ行っても道へ出ないでございます、いっそ千木良か底沢へ下りてしまおうかと思いますが、その道がどうしてもわからないでございますよ」
「それを拙者に言ったって仕方があるまい」
「それはそうでございますけれども、景信から陣馬を通って上野原へ山道をする、その慣れきった山道が、今夜に限ってわからなくなってしまったのは、只事じゃございません」
 彼等はもう、おろおろ声です。
 竜之助は、もう取合わない。
「もうし」
 この時、立てこめた夜霧の中から、不意に響いて来たのは人の声です。それも優しい子供らしい声でしたから、
「おや!」
「失礼でございますが、あなた方は、そこで何をしておいでになりますか」
 続いて彼方かなたの夜霧の中から起った声は、以前と同じく優しい子供らしい声で、しかもこの時は一層はっきりして、朗々たる音吐おんとになっておりました。
「道に迷ったんだよ」
 駕籠屋は、不意や、おそれや、癇癪かんしゃくや、いろいろの思いで投げ出すように返事をしますと、先方で、
「私もそうだと存じましたから、失礼ながらこちらから言葉をかけてみましたのでございます、さいぜんから、あなた方は同じ所を往きつ戻りつなさっておいでの御様子が、只事とは思えませんのでございますものですから、もしやとお尋ねを致しました。斯様かように申しまする私は、決して怪しいものでもなんでもございません、もと安房国あわのくに清澄きよすみの山におりました小法師でございまして、あれから一度は江戸へ出て参りましたが、江戸も少しさわることがございましたために、私に幼少の折から琵琶を教えて下さいました老師が、あの高尾山薬王院に隠居をしておいでの由を承り、それを頼って参りましたが、不幸にして老師は上方かみがたの方へお立ちになってしまったあとなのでございます、それ故に、私も高尾がなんとなくつれなくなりましたから、今宵こよい心をきめまして、またも行方定めぬ旅に出でたというわけなのでございます。連れが一人ございます、これは清澄の茂太郎しげたろうと申し、私よりも年下の男の子でございます」
 問われないのにこれだけのことを、一息にしゃべってしまった者があります。

         七

 これより先、道庵の家の一間で、中に火の入れてない大きな唐銅からかね獅噛火鉢しかみひばちを、盲法師めくらほうしの弁信と、清澄の茂太郎が抱き合って相談したことには、
「茂ちゃん、また困ったことが出来たね」
「どうして」
「お前がこの間、上手に笛を吹いたものだから、たちまち評判になって、あれは清澄の茂太郎だ、清澄の茂太郎が道庵先生の家に隠れていると、こう言って噂をしていたのが広がってしまったようだよ」
「困ったね」
「それが知れるとお前、また小金ヶ原のような騒ぎがはじまって、二人が命を取られるかも知れない、そうでなければ両国へ知れて、またお前が見世物に出されてしまうかも知れない」
「どうしたらいいだろう、弁信さん」
「わたしは、それについて、いろいろ考えてみました、うちの先生に御相談をしてみようと思ったけれども、うちの先生は、そんな相談には乗らない先生だから困っちまう」
「どうして、先生が相談に乗らないの」
「でもね、先生に薄々うすうすその話をするとね、先生があの調子でりきみ返ってね、ナニ、お前たちを取り戻しに来るものがあるって? 有るなら有るように来てごらん、幾万人でも押しかけて来てごらん、はばかりながら長者町の道庵がかくまった人間を、腕ずくで取り返せるなら取り返してみろ、とこう言って大変な力み方で、わたしたちの言うことを耳にも入れないのだから、先生に相談しても、トテも駄目だと思います」
「では、どうしたらいいだろう」
「茂ちゃん、先生にはほんとうに済まないけれどもね、二人で今のうちにここを逃げ出すのがいちばんいいと思ってよ、今のうち逃げ出せば、二人も無事に逃げられるし、先生のお家へも御迷惑をかけないで済むから、今のところは御恩を忘れて、後足で砂を蹴るようで、ほんとうに済まないけれども、あとで私たちの心持はわかるのだから、いっそ、そうしてしまった方がよいだろうと思う。茂ちゃん、お前逃げ出す気はないかえ」
「弁信さん、お前が逃げようと言うんなら、あたいも逃げる」
「それじゃあ逃げることにしようよ、それもなるべく早い方がいいから、今晩逃げることにしようよ」
「あたいはいつでもいいけれど、逃げるって、お前どこへ逃げるの」
「逃げる先は、わたしがちゃんと考えてあるから心配をおしでない」
「もう、小金ヶ原じゃあるまいね」
「まさか、二度とあそこへ逃げられるものかね、今度は全く方角を変えて、いいところを考えてあるんだから心配をしなくってもいい。それでね茂ちゃん、もう一つ相談だが、お前、ここでいっそわたしと同じように、坊さんになってしまう気はないかえ」
「頭を丸くするの、なんだかイヤだなあ」
「イヤなものを無理にとは言わないけれど、向うへ行って長くいるようなら、そうしておしまいよ」
「そりゃあ、お前、都合によっちゃあね、坊さんになってもいいけれども、いま直ぐじゃきまりが悪いよ」
「いま直ぐでなくってもいいのよ、その心持でいてくれればいいの」
「そうして、お前、逃げて行く先はどこなの」
「それはねえ、これから甲州街道を上って行くと、甲州境に高尾山薬王院というお寺があるのよ、そこへ逃げて行こう」
「お前、そのお寺と懇意なの」
「そのお寺に、昔わたしに琵琶を教えてくれたお師匠さんが、御隠居をなさっていらっしゃるということを思い出したんだよ」
「それはよかったね」
「そんなに遠いところじゃないのよ、ここから十五六里ぐらいのものでしょう。茂ちゃん、お前は足が達者だし、わたしは眼が見えないけれども、旅をすることは平気だから、十里や二十里はなんともありゃしないね」
「十里や二十里、なんともないさ」
「それじゃお前、今夜、人が寝静まってから逃げ出すことにしようよ。先生はお帰りになるかならないか知れないけれど、どちらにしてもあの通り酔っぱらっておいでなさるから、夜中に眼をおさましなさるようなことはないけれど、国公さんに気取けどられないように気をつけて下さい」
「ああ」
「そのつもりで、あたしは草鞋わらじをちゃあんと買っておきました、少し大きいけれども、茂ちゃん、お前もこれをお穿き」
「有難う」
「お小遣こづかいは、あたしが持っているのを、お前にも分けて上げるよ」
「有難う」
「裏のくぐりから出ることとしましょう。夜中に、あたしが時分を見計らってお前を起すから、それまではゆっくり休んでおいで」
「ああ、あたいはそれまで休んでいるけれど、弁信さん、お前寝過ごしちゃいけないよ」
「大丈夫」
「弁信さん、お前の前だけれどね、あたいはお寺はあんまり好きじゃないのよ、清澄にいる時だって、ずいぶん頑入がんにゅうにいじめられたからなあ」
「ああ、そうそう、頑入はずいぶんお前をいじめたっけね。けれどもね、頑入の方から言えば無理もないところがあるんだよ、お寺へ入れられてもお前は、少しもおとなしくないんだもの、そうして人の嫌いな虫や獣とばかり遊んでいるんだもの。頑入はお仕置のつもりであんなことをしたんだから、頑入ばかりが悪いと思っているとお前、了見りょうけんが違うよ」
「高尾の山には、頑入みたような坊さんはいないだろうなあ」
「そりゃいないだろうけれど、お前、おとなしくしなくちゃいけないよ」
「山へ行きたいなあ」
「山はお前、房州よりもあっちの方が本場だから、ずいぶんいい山がたくさんあるだろう、峰つづきを歩くと、甲斐の国や信濃の国の山へまでいけるんだからね、それを楽しみにしてお前、早くお寝よ」
 二人はここで相談をととのえて、おのおの眠りに就きました。果してその翌日になると、道庵の屋敷にこの者共の影が見えません。そこで、さすが呑気のんきな道庵主従も騒ぎ出して見ると、二人の寝た行燈あんどんの隅に置手紙がしてあります。それを読んだ道庵が大きな声をして、
「べらぼうめ、逃げるなら逃げるでいいけれど、道庵の家は食物が悪いから居堪いたたまらねえの、やれ人使いが荒いから逃げ出したのと、よそへ行って触れると承知しねえぞ」
と言ってプンプン怒ってみたけれども、別にあとを追っかけろとも言いませんでした。ともかくも相談の通りに道庵屋敷を落ちのびた二人の者は、真夜中の江戸の市中をくぐり抜け、弁信は例の琵琶を頭高かしらだかに負いなし、茂太郎は盲者の手引をして行く者のように見えましたから、さのみ怪しむものもありません。
 上高井戸あたりで夜が明けました。それから甲州街道の宿々を、弁信法師は平家をうたって門附かどづけをして歩きます。
 茂太郎はその手引のつもりで先に立っていたが、弁信の語る平家なるものが、なにぶん俚耳りじに入らないで困ります。
 祇王祇女ぎおうぎじょさびしく歌っても、那須の与市を調子高く語り出しても、いっこう家並の興をきません。道行く旅人の足をとどめることもできません。
 ある時は、祭文語さいもんかたりのために散々さんざんに食われて、ほうほうのていで逃げました。
「弁信さん、お前の平家は、根っから受けないねえ」
 府中の六所明神に近い大きな欅並木けやきなみきの下で、一休みした時に、さすがの茂太郎も、弁信法師の平家物語なるものに、そぞろ哀れを催してしまいました。
 ところが、弁信法師はそれほどにはしょげておりません。
「ねえ、茂ちゃん、平家というものは、本来流して歩くように出来ていないのだからね。お江戸の真中だってお前、平家を語って歩いて、それを聞いてくれる人は千人に一人もありゃしないよ。だからなるべくよけいの人に聞いてもらいたいと思うには、これじゃ駄目なんだよ。それで、あたしは琵琶をやめて三味線にし、平家の代りに浄瑠璃じょうるりをやってみたいと、ずっと前からそのつもりでいたけれどもね、気に入った三味線が手に入らないし、それから浄瑠璃もまだ人様の前で語れるほどに出来ていないから、やっぱり、まだこうして手慣れた琵琶をやっているのよ」
「だからお前、琵琶をやめて、急いで歩いた方がいいだろう」
「それでもねえ、黙って道を歩くよりは、何かの縁になるものだから、やっぱり、あたしは知っていることは人様に伝えた方がよかろうと思ってよ。人様があたしをおしゃべりだという通り、あたしは知っているだけのことはみんな喋ってしまいたいし、聞いてくれ手があってもなくっても、覚えているだけの平家は語ってしまいたいのが、わたしの性分なんでしょう。それについて、ここはお前、武蔵の国の府中の町といって、この府中の町にはお六所様というのがあって、これが武蔵の国の総社になっているのです。あたしは今晩、そのお六所様のお宮の前で、平家を語ってお聞かせ申したいと思っていますよ。昨夜は十五夜でしょう、今夜は十六日ですからね、いざよいのお月様をいただいて、あたしのまずい琵琶を神様へ奉納をして上げたいと思って、さいぜんからそのことを考えて来ました。日が暮れて月が上る時分まで待って、そろそろお六所様のお庭へ行ってみましょうよ」
 欅の根に腰をかけた弁信が、こんなことを言い出したから茂太郎も、さすがにその悠長にあきれました。呆れながらまた弁信らしい願いであると思いました。
「弁信さん、お前がその気なら、あたいだっていやとは言わないよ」
 この二人は、木茅きかやに心を置く落人おちうどのつもりでいるのか、それとも道草を食う仔馬こうまの了見でいるのか、居候から居候へと転々して行く道でありながら、こし方も、行く末も、御夢中であるところが子供といえば子供です。
 陰暦十六日の月があがった時分に、この二人は相携えて、武蔵の国の総社、六所明神の社の庭へわけいりました。

         八

 六所明神の前にむしろを敷いて弁信法師は、ちょこなんとかしこまり、おもむろに琵琶を取り上げてキリキリと転手てんじゅを捲き上げると、その傍らに介抱気取りで両手を膝に置いて、端然と正坐しているのが清澄の茂太郎です。
 こっそりと入って来たから、誰も知る者はありません。
 あらかじめ二人の間に約束があったと見えて、琵琶はただちに曲に入りました。その弾奏は自慢だけに、堂にったところがあります。大絃だいげん※(「口+曹」、第3水準1-15-16)そうそうとして、急雨のように響かせるところは響かせます。小絃しょうげん切々せつせつとして、私語のように掻き鳴らすところは鳴らします。宮商角徴羽きゅうしょうかくちうの調べも、乱すまじきところは乱さずにかなでます。
 果して、弁信法師が、琵琶を弾かせて名人上手といえるかどうかは疑問だけれども、ごまかしを弾かないことだけは確かのようで、曲に第五の巻の月見を選んだことは、如才ないと見なければなりません。
ふるき都は荒れゆけど、今の都は繁昌す、あさましかりつる夏も暮れて、秋にも既になりにけり、秋もやうやう半ばになりゆけば、福原の新都にましましける人々、名所の月を見むとて、或ひは源氏の大将の昔の路を忍びつつ、須磨すまより明石あかしの浦づたひ、淡路あはぢ迫門せとを押しわたり、絵島が磯の月を見る、或ひは白浦しろうら吹上ふきあげ、和歌の浦、住吉すみよし難波なには高砂たかさご尾上をのへの月のあけぼのを眺めて帰る人もあり、旧都に残る人々は、伏見、広沢の月を見る……」
 弁信は得意になって旧都の月見を語りました。前にいうようにこの盲法師が、琵琶にかけて名人上手であるかどうかは疑問ですけれども、月夜の晩に、月見の曲を選んで、古今の名文をわがものがおに清興を気取らず、かなり無邪気な子供らしい声で語るから、人をして声を呑んで泣かしむるほどの妙味はなくとも、聞いていて歯の浮くような声ではありません。
「中にも徳大寺の左大将実定の卿は、旧き都の月を恋ひつつ、八月十日あまりに福原よりぞ上り給ふ、何事も皆変りはてて、稀に残る家は門前草深くして庭上露しげし、よもぎそま浅茅あさぢはら、鳥のふしどと荒れはてて、虫の声々うらみつつ、黄菊紫蘭の野辺とぞなりにける、いま、故郷の名残りとては、近衛河原の大宮ばかりぞましましける」
 弁信法師は得意になって、この妙文みょうもんをほしいままに語って退けました。
 不思議なもので、こうなって来ると、東夷あずまえびすの住む草の武蔵の真中の宮柱に、どうやら九重ここのえの大宮の古き御殿の面影おもかげがしのばれて、そこらあたりに須磨や明石の浦吹く風も漂い、刈り残された雑草のたぐいまでが、大宮の庭の名残りの黄菊紫蘭とも見え、月の光に暗い勾欄こうらんの奥からはの袴をした待宵まつよい小侍従こじじゅうが現われ、木連格子きつれごうしの下から、ものかわ蔵人くらんども出て来そうです。
 ただ、琵琶を抱えている弁信法師だけが、どう見直しても徳大寺の左大将とは見えないとは言え、あまり喋り過ぎた時は小憎らしいほどな小坊主が、この時は、いかにもしおらしい月下の風流者であります。風流者というより敬虔けいけんなる礼拝者のように見えました。
 茂太郎もまた、しんみりとして、両手をちゃんと膝に置いたままに、神妙に聞き惚れているのに。どうでしょう、心なき御輿部屋みこしべやの後ろから姿を見せた白丁はくちょうの男が、いきなり長い竿を出して、
「おい、誰だい、そこでピンピンやってるのは誰だい、誰にことわってそんなことを始めた、誰の許しを得て歌なんぞをうたうんだい」
 闇の中からがなり出したので、せっかく浮き出した情景が、すっかり壊されました。
「へえ、どなたでございますか、まことに申しわけがございません」
 せっかく、曲も終りに入ろうとする時に、正直な弁信法師は、ばちをとどめて返事をしました。
「申しわけがございませんじゃない、断わりなしにやしろのお庭へ闖入ちんにゅうしては困るじゃないか」
「まことに申しわけがございません……」
 弁信法師は琵琶をむしろの上にさしおいて、さておもむろに弁明を試みようとする態度であります。
「申しわけがないと悟ったら、早く出て行かっしゃい」
 長い竿で、弁信の頭をつつこうとします。
「ええ、少々、お待ち下さいまし、ただいま、立退きまするでございます……立退きまするについては、一応お話を申し上げておかなければなりませぬ。それと申しますのは、わたくしはこうやって、お断わりを申し上げずにお庭をけがしてつたない琵琶を掻き鳴らしましたのは、なんとも恐れ入りましたことでございまする。ただいまやりましたのは、お聞きでもございましょうが、平家物語のうちの旧都の月見の一くだりでござりまする。お聞きの通り拙い琵琶ではござりまするけれども、これでもわたくしが真心まごころをこめて、六所明神様へ御奉納の寸志でござりまする。昔、妙音院の大臣おとどは、熱田の神宮の御前で琵琶をお弾きになりましたところが、神様が御感動ましまして、霊験がのあたりに現われましたことでござりまする。また平朝臣経正殿たいらのあそんつねまさどのは、竹生島明神ちくぶじまみょうじんの御前で琵琶をお弾きになりましたところが、明神が御感応ましまして、白竜が現われたとのことでござりまする。わたくしなんぞは、ごらんの通りさすらいの小坊主でございまして、無衣無官は申すまでもございません、その上に、お心づきでもありましょうが、この通り目がつぶれているのでござります、目かいの見えない不自由なものでございます、それに、琵琶とても、ふしとても、繰返して申し上げるまでもなく、お聞きの通りの拙いものでございますから、とても神様をお悦ばせ申すのなんのと、左様なだいそれた了見りょうけんは持っておりませんのでござりまする。ただまあこうも致しまして、わたくしの心だけが届きさえ致せば、それでよろしいのでございますから、もう暫くのところお待ち下さいませ、せめてこの一くさりだけを語ってしまいたいのでござりまする、旧き都を来て見れば、浅茅あさじはらとぞ荒れにける、月の光はくまなくて、秋風のみぞ身にはむ、というところの、今様いまようをうたってみたいと思いますから、どうぞ、それまでの間お待ち下さいませ、それを済ましさえ致せば、早々立退きまするでござりまする」
 一息にこれだけの弁解をしてしまったから、さすがの社人しゃじんも相当にあきれたと見えます。ただ呆れただけならいいが、どうもそのこましゃくれた弁解ぶりが、癪にもさわったようで、
「いけねえ、いけねえ、貴様たちは火放泥棒ひつけどろぼうでも仕兼ねまじき乞食坊主だろう、昔の高貴の方と一緒の気になって、神様へ琵琶を奉納という柄じゃねえ、そんなことを言い言い、社の御縁の下に野宿でもしようというたくらみだろう。つい、この間も、危ないところ、乞食めがもぐり込んで、煙草の吸殻を落したために、火事をしでかすところだった。乞食琵琶なんぞはサッサとやめて、早く出ろ、早く出ろ、出ねえとこれだぞ」
 またしても長い竿で、弁信の頭をつつきました。
「弁信さん、出ようよ」
 茂太郎は、見兼ねてうながしました。
「出ろ、出ろ。貴様たち、それほど琵琶が弾きたいなら、河原へ行って、思う存分弾くとも呶鳴どなるともするがいいや。そこを出ると多摩川で、その近辺の河原が分倍河原ぶばいがわらといって、古戦場のあとだ。河原の真中で弾く分には、誰も文句をいうものはなかろう」
 社人は、一刻の猶予も与えずに追い立てるから、弁信も詮方せんかたなく、琵琶を抱いて立ち上りました。

         九

 弁信のしゃべった通り、平皇后宮亮経正たいらのこうごうのみやのすけつねまさは、竹生島ちくぶしまで琵琶を弾じた時に、明神が感応ましまして、白竜が袖に現われたかも知れないが、弁信が六所明神で琵琶を奉納すると、白竜が現われないで、竹竿が現われました。
 その竹竿につつき出された二人は、これから宿中を流して歩こうとも思いません。また宿を求めて泊ろうとも致しません。わからずやの社人に差図をされた通り、正直に程遠からぬ分倍河原へ出てしまいました。ここで奉納の曲の残りを語ってしまい、なお夜もすがら喋りつづけ、或いは語りつづけるつもりと見えます。
 分倍河原へ来て見ると、多摩川の流れが月を砕いて流れています。広い河原には、ほとんどいっぱいに月見草の花が咲いています。遠く水上みなかみには、秩父や甲州の山がおぼろに見えるし、対岸の高くもない山や林も、墨絵のようにぼかされています。
「ここが分倍河原というんだろう」
 むしろを巻いて来た茂太郎は、月見草の中に立って、さてどこへ席を設けたものかと迷うています。
「ああ、ここが分倍河原で、古戦場のあとなんだよ」
 弁信法師はこう言いましたけれども、その古戦場の来歴を説明するまでには至りません。いかに耳学問の早い物識りのお喋り坊主でも、行く先、行く先の名所古蹟を、いちいち明細に説明して聞かせるほどの知識は持っていないのがあたりまえです。
 しかし、二人の立っているところは、いわゆる、分倍河原の古戦場の真中に違いないので、そこは昔、軍配河原ぐんばいがわらととなえられたところであります。しかも、茂太郎が席を設けようかと思案しているあたりの小さな二つの塚は、俚俗に首塚、胴塚ととなえられる二つの塚であります。治承じしょう四年の十月には、このあたりへ、源頼朝が召集した関八州のつわものくつわを並べて集まりました。新田義貞にったよしさだが鎌倉勢に夜うちをかけたのもここであります。頼朝がここに集めた関八州の兵は、総勢二十八万騎ということだから、かなりの人数でありましたろう。義貞が北条勢を相手にした時は、太平記によると、
「義貞追ひすがうて、十万余騎を三手に分けて三方より同じくときを作る、入道恵性えしよう驚きて周章あわて騒ぐ処へ、三浦兵六力を得て、江戸、豊島としま葛西かさい、川越、坂東ばんどうの八平氏、武蔵の七党を七手になし、蜘手くもで輪違わちがひ、十文字に攻めたりける、四郎左近太夫大勢たいぜいなりと雖も、一時に破られて散々ちりぢりに、鎌倉をさして引退ひきしりぞく」
 茂太郎は程よきところへ蓆を敷きました。弁信はその上へ乗って、後生大事ごしょうだいじに抱えて来た琵琶を、そっとさしおいてから、きちんと座を構えると、つづいて茂太郎が前と同じように介添役かいぞえやく気取りで、少し前へ避けて坐り、さて、弁信は再びおもむろに琵琶の調子をしらべにかかると、
「茂ちゃん」
「何だエ」
「淋しいねえ」
「ああ」
「何か、音が聞えるよ」
「何の音が」
くつわの音が聞えるよ」
 茂太郎は何の音も聞くことがないのに、弁信は聞き耳を立てて、ばちを取り直そうとしません。
「轡の音が聞えるよ」
「どっちの方から聞えるの」
「東の方から」
「嘘だろう、東の方からじゃない、土の下から聞えるんだろう」
「いいえ、東の方から、此方こっちへ向いて轡の音が聞えるのよ」
「弁信さん、そりゃお前の気のせいだろう、ここは昔の古戦場だというから、昔、いくさをして死んだ軍人いくさにんの魂が、この河原の下に埋まっているんだろう、その軍人や、馬の魂が、お前の耳に聞えるのに違いない」
「なるほど、そう言われてみると……この川の下流にあたって、新田義興にったよしおきという大将が殺された矢口ノ渡しでは、どうかすると馬のひづめの足音が不意に聞えて、竜頭りゅうずかぶとをかぶった大将の姿が現われるということを聞きました。茂ちゃんの言う通り、いま聞えるあのくつわの音も、昔ここで死んだ軍人の怨霊おんりょう仕業しわざかも知れない、それが土の下から響いて来るのを、あたしの空耳そらみみで東の方に聞えるのかも知れない」
 弁信はこう言いました。自分の耳を疑ったことのない弁信が、かえって荒誕こうたんな怨霊説に耳を傾けるのが迷いでしょう。
「そうだろう、でも、お前に聞えるものなら、あたいにも聞えそうなものだねえ」
「お待ちよ……何か、わたしは気になってならない」
 弁信は見えぬ眼に四辺あたりを見廻そうとしたが、四辺を見廻したところで、前に言う通り、ややもすれば弁信の身の丈よりも高い月見草が、頭を出している分倍河原に過ぎません。
「弁信さん、あたいが悪かった、たしかに聞えるよ、たしかに、あたいの耳にも馬の足音が聞えて来たよ」
 その時坐っていた茂太郎が、席を立ち上りました。
 子供とはいえ……、立ってみれば月見草よりも背が高い。立って、そうして茂太郎が前後と左右と、遠近と高低とを見廻したけれど、月の夜の河原に見咎みとがめ得べきなにものもありません。
「ええと……一つ……二つ……三つ……四つ……」
 弁信は坐ったままで、小声で物の数を読みはじめました。
「何を言っているの、弁信さん」
「五つ……六つ……七つ……八つ……」
 弁信はしきりに数を読んでいる。茂太郎はそれを不審がっているうちに、
「十……十一……十二……十三……十四……十五……!」
で終りました。
「ああ、これですっかりに落ちた。茂ちゃん、馬の数は十五だよ、つまり十五人の人が、馬の轡を並べて東の方からやって来たんですよ。夜中に十五人も馬を並べて通るのが只事ではないと思って考えてみたが、江戸の侍たちが月見の遠乗りに、この分倍河原をさして来たものでしょう。今夜はいざよいですからね」
 ところがこの十五騎の蹄の音がやむと暫くたって、府中の町がひっくり返るような騒ぎになりました。喧々囂々けんけんごうごうののしる声が地に満つるの有様です。
 一年一度行われる関東名物の提灯祭りの夜以外には、絶えてないほどの騒ぎが持ち上ったのは、まさしくいま乗込んだ十五騎が持ち込んだものに違いありますまい。事のていをよく見ると、どうやら全町を挙げて家探やさがしが行われているようです。
 騒ぎ、驚き、怖れ、憂えている人々の罵る声を聞いてみるとこうです。世にはだいそれた奴があればあるもので、江戸のあるお大名の奥方を盗み出して、たしかにこの町あたりまで入り込んだ形跡があるようで、江戸の市中の取締が轡を並べて追いかけて来たということです。いや、それは奥方ではない、お部屋様だという者もありました。ともかくも諸侯の秘蔵の寵者おもいものを盗み出して、連れて逃げるということであってみれば容易ならぬことです。
 その探索の手にかかった町民の迷惑というものもまた容易なものではありません。泊り合せた旅人どもの迷惑というものも容易なものではありません。まして婦人の驚愕きょうがく狼狽ろうばいは見るも気の毒な有様。
 はるかに離れているとは言いながら、常の人よりは三倍も五倍もかんの鋭い弁信が、その騒ぎを聞きつけないはずはありません。
「茂ちゃん」
「何だい」
「府中の町は今、上を下への大騒ぎをやっているね」
「そうか知ら」
「何か大変が出来たのに違いない」
「何だろう」
 二人もまた安き心がなく、自分たちの追われた府中の町をながめて、茂太郎は立ったまま、弁信は坐ったままで、伸び上っているけれど、その騒ぎの要領を得るには少し離れ過ぎています。
「いけない、お月様まで隠れてしまった、さっきまでれていた空が、すっかり薄曇りに曇ってしまったよ、弁信さん、雨が降りそうになってしまったよ」
「琵琶は止めにしよう、ね、茂ちゃん、こんな日に無理をすると悪いから」
 さすがの弁信法師も、再三の故障に気を腐らして、琵琶を弾くのを断念したようです。茂太郎もまたそれが穏かだと思いました。弁信はせっかく琵琶を弾くことを断念して、静かにそれを袋に納めました。

         十

 府中の宿のこの大騒ぎの避難者の一人に、がんりきの百蔵があります。こういう場合において、この男は避難ぶりにおいても、抜け駆けにおいても、決して人後に落つるものではない。手が入ったと聞いて、自分が泊っていた中屋の二階から、屋根づたいに姿をくらましたのは、例によって素迅すばやいもので、もちろん、あとに煙管きせる一本でも、足のつくようなものを残して置くブマな真似はしないで、スワと立って、スワと消えてしまった鮮かな脱出ぶりは、手にったものです。
 そうして、まもなくすましたかおを、日野の渡し守の小屋の中へ突き出して、
「おとっさん」
「はい、はい」
 道中師で通っているがんりきの百蔵は、ここの渡し守のおやじともうからなじみで、言葉をかければ、響くほどの仲になっているのです。
 渡し守の小屋の中へ身を納めて、土間に燃えた焚火の前へ腰をかけ、おもむろに腰の煙草入を抜き取った時分に、程遠からぬ街道の騒動が、渡し守のおやじの耳に入って来たものです。
「何だい、ありゃ、えらく騒がしいじゃねえかな」
 寝ていたおやじが起き直ると、がんりきは、さあらぬかおをして、
「おとっさん、気をつけな、府中の宿は今、上を下への大騒ぎだぜ」
「え、府中の宿が上を下への大騒ぎだってな? なるほど、馬で人が駆けるわな、夜中に馬で飛ばす騒ぎは只事ではござるめえ」
 おやじは、むっくりと起きて心配そうです。せがれの家は府中の町はずれにあって、幾人いくたりかの孫もあるはず。
「只事じゃねえ、府中の町をひっくるめて、一軒別に家さがしが始まってるんだぜ」
「へえ、一軒別に家さがし……なんです、泥棒ですか、駆落かけおちですか」
「さあ……」
 がんりきは尋ねられて、はじめて当惑しました。実は、脱出ぶりのはやいのを鼻にかけて、ここへ避難して来てはみたものの、何者に追われて来たかと聞かれると手持無沙汰です。家探しの声は聞いたが、何の理由で、何者の手で家探しが行われるのだか、それを聞き洩らしたのは重大な手落ちだ。我ながら気が利いて間が抜けていると、がんりきはいささか悄気しょげていると親爺は、もう提灯をさげて、
「それじゃ親分済みませんが、今夜はひとつここに泊っていておくんなさいまし、わしはこれから宿しゅくまで様子を見に行って来ますから」
 おやじはがんりきに留守の小屋を託して、渡し守の小屋を出て行ってしまいました。
 日野の渡しの渡し守の小屋は、江戸名所図会ずえにある通りの天地根元造りです。この天地根元造りへひとり納まったがんりきは、結句これをいい都合に心得て、焚火の前にはだかりながら思わず見上げると、鼻のさきに弁慶が吊り下げてあります。
 その弁慶には焼いて串にさしたあゆはやうなぎの類が累々とさしこんである。がんりきは手を伸ばして鮎を一串抜き取って、少しばかり火にかざしてあぶってみると、濁りでもいいから一杯飲みたくなりました。
 酒はおやじの蓄えを知っている。自在につるした鉄瓶もかんのしごろに沸いている。左の手を上手にあしらって少しばかり働いて、それから、さいぜん親爺が寝ていた空俵の畳へみこしをえてしまって、燗の出来るのを待っているうちに、何か思い出して、
「南条先生も、ずいぶん人が悪いや」
とつぶやいてニヤリと笑う。
 それから手酌てじゃくで、一ぱい二はいと重ねているうちに、いい心持になって、そのまま、うとうとといどをはじめてしまいました。いつか知らないうちに、おやじの寝床にもぐり込んで一夜を明してしまったが、夜中におやじの帰った様子もなし、焚火にくべてあった松の切株がしきりに煙を立てて、剣菱けんびしの天井から白々と夜の明け初めたのがわかります。
 何かしら、昨夜、この男、相当のいい夢でも見たものか、寝起きの機嫌がそれほど悪くはなく、
「南条先生も人が悪いが、がんりきがんりきと見込んで、けしかけるなんぞは隅には置けねえ」
 しきりに南条なにがしが口頭に上ってくるのは、その以前、相模野街道で南条なにがしから、がんりきの百蔵がこういってそそのかされたことがある、「よろしい、それでは貴様に知恵をつけてやろう。ほかでもないが、相手は出羽の庄内で十四万石の酒井左衛門尉だ、今、江戸市中の取締りをしているのが酒井の手であることは貴様も知っているだろう、我々にとって、その酒井が苦手にがてであることも貴様は知っているだろう、酒井は我々の根を絶ち、葉を枯らそうとしている、我々はまたそこにつけ込んで、酒井をらそうとしている、その辺の魂胆こんたんはまだ貴様にはわかるまい、わかってもらう必要もないのだが、貴様の今に始めぬ色師自慢から思いついたのは、酒井左衛門尉の御寵愛ごちょうあいこうむった尤物ゆうぶつが、いま宿下りをして遊んでいることだ、それは佐内町の伊豆甚いずじんという質屋の娘で、酒井家に屋敷奉公をしているうち、殿に思われて、お手がついて、お部屋様に出世をして、当時はある事情のもとに宿下りの身分であるという一件だ、その名はお柳という。これだけのことを聞かせてやるから、あとは貴様の思うようにしてみろ」――こういって猫の前へ鰹節を出したのが、今いう、その南条先生なるものの言い草である。この南条という男、ある時は慨世の国士のように見え、ある時はてんでけたに合わないことを言い出して、掠奪や誘拐を朝飯前の仕事のようにいってのける。勧めるのに事を欠いて、がんりきの百蔵というやくざ者にこんなことを勧めるのは、油紙へ火をつけるようなもので、ただでさえも、そういうことをやりたくて、やりたくて、むずむずしている男に向って、こういって筋を引いたから堪ったものではない。「先生、がんりきを見込んで、そうおっしゃって下さるのは有難え」――手を額にして恐悦きょうえつしたのはつい先頃のことです。今や、その仕事にとりかかろうとして、しきりに思出し笑いをしているところへ、夜前の渡し守が帰って来ました。
「親方、お留守を有難うございました、いやはや、昨晩は話より大騒ぎでしたよ」
 その時がんりきは、もう起き上って火を焚きつけていました。
 そこでがんりきはなにげなく、
「おとっさん、騒ぎというのは何だったね」
「乱暴な奴もあればあるもので、あるお大名の殿様のおめかけを盗み出して逃げた奴があるんだそうですよ」
「え……」
「お江戸から、その殿様のお妾を盗んで来て、なんでも、たしかにこの府中のうちに泊ったにちがいないとにらまれたんだそうでがす」
「ナニ、何だって」
「それをお前さん、あとから追いかけてきたもんでがす、何しろ、殿様の御威勢ですからね、二十人ばかりのお侍が馬を飛ばせて江戸から、これへ追いかけて来たんだそうで……」
「ま、待ってくれ。してみると昨晩のさがしというのは、泥棒や火つけというようなものじゃあなかったんだね」
「どういたして、殿様のお妾なんです、お大名のお部屋様を連れ出した奴があったんだそうでがすから」
「そいつはなかなか大事おおごとだった……」
「大事にもなんにも、浄瑠璃や祭文さいもんで聞くお半と長右衛門が逃げ出したのなんぞより事が大きいでがすから、町の役人たちも騒ぎました」
「やれやれ」
 ここまで聞いてみると、どうやら、がんりきの胸が穏かでなくなりました。大名のお部屋様をそそのかして来たという、だいそれた色師の腕が憎いと、そういうところに妙な反抗心を持つこの男は、その憎いかたきかおを見てやりたくなる心持で、
「そうして、おとっさん、その色敵いろがたきは首尾よくつかまったのかえ」
「ところが、つかまらねえんでがす、たしかにこの府中の町へ入ったはずなのが、どこをどうして逃げたか、いっこう行方ゆくえがわからなくなってしまいましたんで」
「おやおや」
 がんりきとしては、首尾よく逃げおおせたその果報者をますます憎い者に思って、また一面には、さがしに来たやつらの腑甲斐ふがいなさを、腹のうちであざけっていたが、なんだか腹の中が無性むしょうに穏かでない。
「それで何かえ、そのお妾を盗まれたという殿様はいったい、どこの何という殿様だか、それを聞いて来なすったか」
「それが、その酒井様の……」
「ナニ、酒井様?」
「ええ、出羽の庄内の酒井様」
「何だって」
 がんりきが飛び上ったのは、よくよく胸にこたえるものがあったと見えます。
「ええ、出羽の庄内で十四万石、酒井左衛門尉様のお手がついたお部屋様を、悪者が盗み出して、そうして、この甲州街道を逃げたということですよ」
「やい、ばかにするな、そのことならおれが知ってるんだ」
 がんりきは眼の色を変えて飛び出そうとするから、渡し守のおやじが呆気あっけにとられて、
「親方、お前さん、それを知っておいでなさる?」
「知ってるとも。知らなけりゃ、どうしてこんなことが聞いていられると思う、ばかばかしいにも程があったもんだ、昨夜ゆうべもそれを考えて、ひとりで思出し笑いをしていた奴はどこにいる、先手を打たれて眼の前で騒がれながら、いい心持でどぶろくを飲んでいりゃあ天下は泰平だ、つらを洗って出直さなけりゃあ、とても明るい日の下を歩けるわけのものじゃねえ」
 こういって、がんりきの百蔵は道中差をつき差すと共に、小屋の外へ飛び出して、いきなり多摩川の流れで、ゴシゴシと自分のかおを洗いはじめました。

         十一

 やや暫くあって、村山街道の方面から、八幡太郎の欅並木けやきなみきを、なにくわぬ面をして、府中の町へ入り込もうとするがんりきの百蔵を見ることができます。
 多摩川べりから大廻りに廻って、宵に逃げ出したあぶないところへ、再び足を踏み入れようとするこの男の心の中は、渡し守から聞かされた昨夜の事件の内容で、自分ながら呆気に取られると共に、むらむらと例によっての功名心に油が乗り、わざわざこうして取って返したもので、取って返した以上は、必ずしるしを挙げて、我ながら気の利いて間の抜けた昨夜のしくじりを取り返そうという自信のほどが、鼻の先にうごめいている。
「いけねえ、草鞋わらじが切れちゃった、幸先さいさきがよくねえや、ちぇッ」
 八幡太郎の欅並木のとっつきで、草鞋のの切れたのを舌打ちして忌々いまいましがったが、まだ夜明け時分ではあり、近いところに店もなし、当惑して見廻すと、馬頭観音のささやかなお堂の前につるしてあるのが奉納の草鞋です。
「これ、これ、これを御無心申すことだ」
といって百蔵は、堂の前へやって来て、自分の草鞋を脱ぎ捨て、奉納の草鞋を抜き取り、それに紐を通して、例の片手で器用に穿いてしまうと、何と思ったか、そのまま立たないで、堂の戸前へ腰を卸し、
「いつ見ても、この欅並木はたいしたものだ、八幡太郎が奥州征伐の時に植えたということだが、八幡太郎は今から何年ぐらい前の人だか知らねえが、まあ、ざっと千年も経つかな、見たところ、千年は経つまいがな、何しろ、欅としては珍しい方だ。雑司ぞうしの鬼子母神の欅が、またかなりの大木だ。そのほか一本立ちならば随分あっちこっちに大木はあるにはある。いったい、関東でも、この辺の地味はけやきにいいんだろう。そういえば上方かみがたへ行っちゃ、あんまり欅の大木というのを見たことがねえ……そりゃそうと、これからこの欅並木を通って府中の宿しゅくへ入り込むと、さて、どういうふうに当りをつけてみたものかな。いったい、おれがいろいろ考えてみると、お役人の力で軒別に家さがしをして、それでわからねえものが、おれがこうして、ぶらりと飛び込んでみて当りのつくはずもねえのだが、さて、いったん府中の町へ入り込んで逃げたとすればどこだ、どこをどっちへ行けばうまく逃げ果せるか。ここをこっちへ行けば逃げ損うということは、ちゃんとおれが心得ている、その心得で考えてみても、どうもこの悪者はまだ府中の宿を離れてはいねえと、こうにらんだのだ、つまり酒井様のお手のついた別嬪べっぴんをつれ出した奴が、ほんとうにこの府中の町へ逃げ込んだものとすれば、そうして昨晩ゆうべつかまらなかったのが本当だとすれば、これはまだてっきりこの府中の町のどこかに隠れている。隠れていて、ほとぼりの冷めた時分に、連れ出そうという寸法にきまっている。そんならば、広くもねえこの府中の町の中のどこに、そのだいそれたいたずら者が隠れているのか、そこが問題だテ。そこの見当が、玄人くろうとでなくっちゃあちょっと附きにくかろう。ところでがんりきの鑑定をいってみるとこうだ……これはつまり、あの六所明神の社の中に何か仕掛があって、神主のなかにグルな奴があるんじゃねえかな、六所明神は武蔵の国の総社で、なかなかけんしきがある、守護不入てえことになっていると聞いたが、そこだ!」
 がんりきの百は、この時したりがおに、ポンと自分の膝を打って、欅並木から六所明神の森をながめたものです。果してこのロクでなしの鑑定が当っているかどうかは知らず、当人は、いっぱし睨みのいたつもりで、武蔵の国の総社六所明神を向うに廻し、一合戦をする覚悟の色を現わして、小鼻をうごめかしながら立ち上る拍子に、どうしたものかよろよろとよろけて、あぶない足を踏み締めると、これはしたり、自分の風合羽かざがっぱの裾がお堂の根太ねだにひっかかっている。
「ちぇっ」
 にがかおをして、それをはずしにかかって、思わず面の色を変えました。
 合羽の裾が何かにひっかかって、それで足をすくわれたものと、いまいましがって外しにかかると、
「おや?」
といって百の面の色が変ったのは、単に出そこなった釘の頭や、材木のそそくれにひっかかったのではない、刀の小柄こづかで念入りにピンと、その合羽の裾が根太へ縫いつけられてあったからです。
「誰だい、こりゃあ」
 さすがのやくざ者も、これには少しばかり度肝どぎもを抜かれました。自分が有頂天うちょうてんになって、六所明神を向うに廻しての策戦を考えているうちに、後ろにいてこういうたちの悪いいたずらをした奴がある。それをうっかり気がつかずに引張り込まれたなぞは、返す返すもドジだ。昨夜の逃げ出し以来、どうもがんりきの風向きが悪いと、自分ながらごうが煮えて、
「誰だい、こんな悪戯いたずらをしたのは」
 抜き取った小柄を手にして、堂の後ろを見込んで呼びかけてみたが、がんりきの心持では、こういう悪戯をする奴はほかにはない、七兵衛の奴が後ろに隠れていてやったのにきまっている、一杯食わされたなという心持で呼んでみたのですが、
がんりき
といって、物騒がずに堂の後ろから姿を現わしたのは、意外にも七兵衛ではありません。形こそ七兵衛に似たような旅人の風はしているが、第一、七兵衛よりは物々しい声であって、全く七兵衛とは別人に相違ないから、ここでもがんりきの百が見当外れで、
「え……」
「どうだ、がんりき、おれを知ってるか」
といって、笠の紐へ手をかけて、そろそろと出て来ました。
「やあ、あなた様は……そうだ、水戸の山崎先生でございましたな」
「うむ、驚いたろう」
「全く驚きましたね、わっしはまた、てっきり七兵衛の奴とばかり思っていたものですからな。先生、なかなかお人が悪い、時節柄ですから、ずいぶん驚いてしまいましたよ、どうかお手柔らかにお願い致したいものでございます」
「別段、貴様をおどかしてみるつもりもなかったのだが、張っておいた網に貴様の方からひっかかったようなものだから、ふしょうしろ。実は、もう少し大物を引っかけるつもりで張った網だが、いやなみそさざいがひっかかったので、おれも少しうんざりしているのだ」
みそさざいは恐れ入りました」
「ところで、がんりき、おれがこうして網を張っているわけも、また貴様がこうして、あぶないところへ近寄りたがるわけも、大概はわかっているはずだが、ここで計らず、二人がめぐりあったのは、六所明神のお引合わせかも知れないぞ」
「どう致しまして」
 がんりきは額へ手を当てて苦笑いしました。今まで自分は南条、五十嵐の方の手先をつとめて、この山崎――この人はもと新撰組の一人で水戸の浪士、香取流の棒をよくつかう人――にたてを突いて来たので、この山崎には七兵衛が附いて、おたがいに張り合って来たのですが、ここで苦手にとっつかまっては、苦笑いがとまらない。
がんりき、昨夜のあのいたずらは誰の仕事だ、貴様はよく知っているだろうな、知らないとは言わせんぞ。あれは南条力と五十嵐なにがしらの浪人どもがたくらんで、伊豆甚の娘を盗み出して逃げたものに相違あるまい。多分、貴様あたりがその手引をしたものとにらんでいる。どうだ、真直ぐにいってしまえ、どっちへ逃げたか、それともどこへ隠したか、てっとり早く明白はっきりといってしまえ」
 山崎譲はグッと近く寄って来て、小柄を持っているがんりきの小手を、しっかりとつかまえてしまいました。
「その事、その事なんでございます、実はがんりきもその事で、出し抜かれたんでございますからなあ」
 何をか言いわけをしようとするのを、山崎は許すまじき色で手首を持って引き寄せました。
 がんりきの百蔵も、この人にとっつかまっては弱りきっているのを、山崎はグングンと引張って、
がんりき、貴様はこの間、南条なにがしの案内をして相模野街道を南へ歩いていたそうだが、あれはどこへ行ったのだ」
「白状してしまいますから、どうか、そう強く手を引張らないようにしていただきたいものです、片一方しかないがんりきの手がもげてしまうと、かけがえがねえんでございます」
 がんりきの痛そうなかおを見て、山崎は引張っていた手をゆるめて、
「うむ、素直すなおに言ってしまえよ」
「素直に申し上げるまでもございません、あれは、たあいのねえことなんです、ほんの道連れになっただけのものでございます」
「まだトボけているな」
「お待ち下さい、私の方ではたあいのないことなんですが、先方様の思惑おもわくのところはわかりません、ただちょっとした縁で道づれになって、その道筋の案内を少しばかりして上げたようなものでございます」
「その案内の道筋というのは、どっちの方角だった」
「それは……その、八王子から平塚街道を厚木の方へ出る道をたずねられたものですから、その案内をして上げました」
「いや、そうではあるまい、貴様は南条なにがしの手引をして、荻野山中おぎのやまなかの大久保長門守の城下へ入り込んだのだろう」
「ええ、それは違います」
「違うはずはない、しらを切ると承知せんぞ」
「違います、あの方は果して厚木へおいでになったか、それとも荻野山中の大久保様の御城下とやらへおいでになったか、そのことは一向存じませんが、かく申すがんりきは途中からお暇乞いとまごいをして、八王子へ出て参ったに相違ございません」
がんりき、貴様は、南条、五十嵐の一味が容易ならぬ陰謀を企てていることを知って彼等に加担かたんしているのか、知らずして働いているのか」
「どう致しまして、あの先生方が、どういう大望を企てて、どういう陰謀をめぐらしているのだか、私共にはそんなことはわかりません、出たとこ勝負で、頼まれるままにいい気になって、附いたり離れたりしているまででございます」
「そうすると貴様は、あの者共のダシに使われているだけだな」
「そうでございますとも、ダシに使われているだけの罪のねえのでございますから、どうかお手柔らかに願いたいんでございます。いや、あの南条先生ときては、あれでけっこう人が悪いんだからな。さりとて、今度のことはあんまり人をダシに使い過ぎらあ」
「うむ、ダシに使われていると知ったら、それを出し抜いて、裏をいてやる気にはならないか」
「そういう芸当は、大好きなんですがね、何しろ、あちらこちらとでは役者が違いますからなあ」
といって、がんりきがポカンと口をあいて見せたのは、かなり人を食った振舞です。山崎はなんと思ったかがんりきの手を放して、
「よし、それではがんりき、もし貴様が南条、五十嵐の方で買収されているなら、こっちでもう一割高く買ってやろうではないか。先方の後立てはたかの知れた大名、こっちは二百五十年来、日本を治めて来た八百万石の将軍家のお味方だ。ともかくもこっちへ来い、人目のないところで、もう一応、貴様を吟味してみたり、また貴様の手を借りてみたいと思うこともあるのだ」
といって山崎譲は、がんりきの手から小柄を取り戻し、百蔵をうながして、六所明神の森の方へ歩き出すと、がんりきもいやいやながら、それに従わないわけにはゆきません。

         十二

 吉原の万字楼の東雲しののめの部屋に、夜明け方、宇津木兵馬はひとり起き直って、蘭燈らんとうもとに、その小指の傷を巻き直しています。
 この傷が、妙にピリピリと痛んで眠られないのです。傷が痛むだけではない、良心が痛むのでしょう。
「起きていらっしゃるの」
 障子を半ば開いて笑顔を見せた女。
「ああ、眠れないから」
 兵馬は正直に答えました。そうすると女は、うちかけを引いて中へ入って来て、
「お怪我をなさったの」
「少しばかり」
「どこですか」
「この小指」
 兵馬は巻きかけた右の手の小指を、女の眼の前に突き出すと、
「まあ」
と女は美しい眉根まゆねを寄せて、
「痛みますか、どうしてこんな怪我をなさいました」
「この間あるところで」
「お転びになったのですか」
「いいえ」
「それでは戸の間へ、はさまれたのでしょう、あれはあぶないものです」
「そうでもありません」
「巻いて上げましょう」
 女――この兵馬の馴染なじみになっている万字楼の東雲は、兵馬の手から繃帯の一端を受取って、軟らかな手で結びはじめました。
「宇津木さん」
 手際よく繃帯を巻きながら女は、やさしく問いかけますと、
「何です」
「あなたは、隠していらっしゃいますね」
「何を」
「何をとおっしゃって、あなた、このお怪我は、ただのお怪我ではありません」
「ただの怪我でないとは?」
「よく存じておりますよ、あなた様のお連れの方々のおうわさでは、あなたはお若いけれども、たいそう武芸がお出来なさるそうではございませんか」
「なにも、出来はしないよ」
「いいえ、お出来になることはよくわかっています、そのあなた様が、たとい、これだけにしても、手傷をお負いになるのは、よくよくのことでございます」
「そういうわけではないのだ」
「ほほ、そういうわけとおっしゃっても、まだそのわけを言わないじゃありませんか、あたし、最初から、あなた様の御様子のおかしいことを、ちゃんと見ておりました」
「ふむ」
「あなたは斬合いをなすっておいでになったのでしょう、あなたほどの方ですから、きっと先の人を斬っておしまいになって、その時に受けた手傷がこれなんでしょう、わたしはそう思います」
「そうではない、ちょっとした怪我だ」
 兵馬は極めて怪しい打消しをすると、女はこの怪我をした指先を、ちょっと握って、
「にくらしい」
「ああ痛ッ」
 兵馬はほんとうに痛かったのです。
「弱い人ですね、そんなことではかたきは討てませんよ」
 東雲はあやなすようにいったのを、兵馬はかえって意味深く聞いて、
「全く……」
 東雲はしげしげと兵馬のおもてを見直しました。この女は兵馬が仇を持つ身であることを、まだ知らないのです。
「それでは隠さずにいってしまおう、いかにもこの傷は人から受けた傷なのだ、しかし、斬合いをして斬られた傷ではない、人から打たれた傷なのだ……傷は僅かながら、残念でたまらないのは、受けなくともよい傷を、無理に受けたようになる鍛練の未熟が恥かしいのじゃ」
 兵馬は心から残念がって、その時のことを眼に見るように思います。
 尺八を持って月下にさまようていた人。それを普通の虚無僧こむそうだと思って、その右を通り抜けようとした時に、その虚無僧が尺八を振り上げて、風を切って打ちこんで来たのを、かわすにはかわしたが、充分にかわしきれないで、この指先を砕かれた。その不鍛練が今になっても恥かしい。相手の虚無僧の只者でないことが思われてならぬ。それ故に、この傷が一層痛んで寝られない。それともう一つ……兵馬は改めて女に向い、いとまじめに、
「今日は暇乞いのつもりで来ました。それについて、そなたへ打明けてのお願いがある、とりあえずここへ僅かながら金子きんすを持参致した、拙者わしの帰るまで、五日か長くて十日の間、これをそなたに預っておいてもらいたい、それと共に、その間はそなたの身に変りのないように、そなたはこの万字楼を動かないように起請きしょうをしてもらいたいのだ」
といって兵馬は、蒲団ふとんの下に置いた一包の金子を取り出して、東雲の前に置きました。
「まあ、足もとから鳥の立つように。旅にお出かけなさるのですか……そうしてこのお金を、わたしに預かれとおっしゃるのは?」
「かねがね話してもおきました通り」
 兵馬は思い切って語り出でようとする時、廊下に人の歩む音があって、
「東雲さん、東雲さん」
「はい」
 その声を聞くと女が、そわそわと立ち上り、
「少しの間、待っていて下さい」
 にっこりと愛嬌を見せて行ってしまいました。

 その翌日、結束して江戸を離れて、例の甲州街道の真中に立った宇津木兵馬。
 今夜こそは、と思い切って出かけてみたが、よいのうちは人に妨げられ、ようやく打解けて物語りにかかろうとする時、また人に呼ばれて女は行ってしまった。そのまま、ついに思いを遂げずして楼を出たのは昨夜のこと。
 それがいかにも残り惜しいのである。とはいえ、もう自分があの女を人手に渡したくないという心は、よく通じているはずである。さればこそ女の手許に預けた一包の金、事情は語り残したけれども、それが何を意味しての金だか、女が充分に推量している、と兵馬は、それを自ら慰めつつ、歩くともなく歩いているのです。
 その時、女に預けた金。どうして彼は今の浪々の少年の身でそれを得たか。それはまさしく南条力の手から出でたもの。
 南条力は、絶えず自分の仕事の邪魔者である山崎譲を亡きものにしたいと思っている。南条の心持では、あえて山崎一人を敵とするのではないけれど、この男あるがために、ややもすれば大事の裏をかかれようとする。それが苦手で、ついに宇津木兵馬をそそのかした。
 兵馬とても、理由なしに唆かされて、それに応ずるほどの愚か者でなし、ことに山崎は京都にいた時分には、同じ壬生みぶの新撰組で、同じ釜の飯を食った人である。唆かされて討つ気になるほど兵馬もうつけ者ではないはずなのに、ついにそれを引受けてしまったのは、誰のためでもない女のためです。知らず識らずはまり込んだ女が、あだし人の手に身受けされようとする噂を聞き込んで、矢も楯もたまらずに、彼は南条の勧誘に従いました。そうして彼は、四谷の大木戸に待受けて山崎を斬ったのです……ところがそれは当の相手ではなくて、名もない、罪もない、飛脚の男であった。兵馬は慚愧ざんき煩悶はんもんとを重ねて、もはや南条に合わすかおはないと思い込んでいたのに、南条の方は案外磊落らいらくで、兵馬に力をつけて、もう一遍やれという。山崎はいま甲州街道を上っている。多分駒木野の関以東のいずれかで彼の姿を見出すに違いない、といって兵馬に一封の金を与えた。昨夜吉原へ携えて来たのはその金です。ここ数日の間に山崎を斬ってしまえば、かの女を自由の身にするだけの融通は、南条の手で保障がついていると見てよい。
 兵馬はこうして、山崎譲を斬りに行く。彼を斬ることは必ずしも難事とは思っていないが、彼を斬るの理由を見出すことに苦しんでいるのです。意義のない仕事には必ず苦悶がある。いかに有利な条件も、その苦悶を救うに足らないことに悩まされている。
 頭を挙げて見ると、秋の武蔵野には大気が爽やかに流れて、遥かに秩父の連山。その山々を数えて見ると、武州の御岳山みたけさん
 そこで流した兄の血潮はまだ乾いてはいないのに、その恨みは決して消えてはいないのに、それを差措さしおいて、自分は今、意趣も恨みもない人を斬ろうとして行くのだ。兵馬は浅ましく思って、われと自分の胸を強く打ちました。
 宇津木兵馬は、まだ日脚ひあしのあるのに府中の町へ入ると、そのまま六所明神の神主猿渡氏さるわたりしの邸を叩きます。
 猿渡氏の家は、兵馬にとっては旧知の関係があって、兵馬の不意の来訪を喜び、それからそれと話が尽きませんでした。
 そのうちに、このごろは世の中が物騒で、この界隈かいわいも穏かでないから、今この社務所でも、若い者だの、剣術の出来る人だのを十余人も頼んであって、警護を怠らないということもありました。六所明神は所領の高も少なくはない。猿渡氏もなかなか裕福を以て聞えた家ですから、その用心ももっともと思います。
 風呂に入り、夕飯も済み、いざ寝ようという場合に、兵馬はちょっと宿しゅくへ用足しに行って来るといって、邸を出て夜番の詰所になる社務所へ、下男に案内をしてもらいました。
 なるほど、そこには火鉢を囲んで、七八人の人が集まって雑談にふけっています。下男の紹介で兵馬は一座に仲間入りをする。一座の中の浪人者のようなのが得意になって、
「いや、その前の晩じゃ、拙者が、陣街道を三千人まで来た時分に、河原のまん中に当って異様の物の音がする、はて不思議と耳をすましていると、それが琵琶のじゃ」
 この浪人者は、むしろ新来の兵馬に聞かせるつもりで、兵馬の横顔を見ながら語り出でました。
「へえ、河原で琵琶が聞えましたかね」
とそれにあいづちを打ったのは兵馬ではなく、力自慢で頼まれた若い者。
「たしかに琵琶が聞えたよ、聞ゆべからざるところで琵琶の音がしているから、拙者も不審に思って、立ちどまって耳を傾けている間に、例の人馬の音で、この町が物騒がしくなったから急いで駈けつけたのだが、なんにしても、あの陣街道は鬼哭啾々きこくしゅうしゅうというところである」
「鬼哭啾々というのは何です」
 誰かが抜からず反問したのを、浪人は無雑作に、
「それはお化けの出そうなものすごいところという意味だ。何しろ、分倍河原ぶばいがわらはむかし軍配河原といって、何十何万の兵士が火花を散らして合戦をしたそのあとだ、陣街道の首塚と胴塚、それに三千人というのは、元弘より永享にかけて討死した三千人を葬ったところだから、今でもその魂魄こんぱくが残って遊びに出る。あの琵琶の音も、たしかに魂魄の致すところに相違ない、こちらに不意の騒動が起ったため、よくその根原を見届けなかったのが残念じゃ」
 兵馬は、それを聞いてしまってから、この座を立って寝に行くかと思うとそうではなく、まもなく番屋の門を出でた兵馬は、身には饅頭笠まんじゅうがさと赤合羽で、片手には「六所明神社務所」の提灯を持ち、片手には夜番の者が持つような六尺棒をついて、刀脇差は合羽の下に隠し、木馬もくばから御宮おんみや、本社を一廻りして、一の鳥居から甲州街道の本通りへ出で、両岸に賑わしい府中の宿の真中を悠々と通りましたが、誰も怪しむ者がありません。
 兵馬が誰にも怪しまれなかったのは、左巴ひだりどもえの紋のついた六所明神の提灯のおかげです。
 笠と合羽を用意して出たのは、空模様をもしやと気遣ったのみでなく、それが身を隠すに都合がよかったからで、ことに長い刀は見えないようにと苦心して、悠々と府中の宿を西へ一通り歩み抜けて裏へ出ました。
 裏へ出るとまもなく、問題の分倍河原です。河原一面に離々りりとした草叢くさむら。月のあるべき空が曇っていて、地上はボーッとして水蒸気が立てこめているから、さながら朧夜おぼろよの中を歩んで行く気持です。
 鬼哭啾々のところ、ここで前の晩、時ならぬ琵琶の音が聞えたと、さいぜんの浪人者がいいました。兵馬は河原道を陣街道の方へ出ようとして、そぞろに進んで行くと、河原の中に一つの大きな塚がある。三千人の塚というのは多分これか知らと、兵馬は塚の下にたちどまって、四方あたりを見廻すと、やはりボーッと立てこめたもやの中に、自分ひとりが茫々ぼうぼうと置き捨てられている光景です。
 その時に兵馬は、自分が今までとはまるで別の世界へ持って来られたように感じて、画中の人という気分にひたってみると、なんだか知らないが、犇々ひしひしとして悠久なる物の哀れというようなものが身にせまってくるのを覚えて、泣きたくなりました。
 ここは武蔵の国府の地。東照公入国よりもずっと昔、平安朝、奈良朝を越えて、神代の時にさかのぼるほどの歴史を持った土地。江戸の都が、茫々として無人の原であった時分に、このあたりは、直衣狩衣のうしかりぎぬ若殿わかとのばらが、さんざめかして通ったところである。源頼朝はここへ二十万騎の兵を集めたそうな。新田義貞と北条勢とは、ここを先途と追いつ追われつしていた。足利尊氏が命辛々からがら逃げたあともここを去ること遠くはない。英雄豪傑の汗馬かんばのあとを、撫子なでしこの咲く河原にながめて見ると、人は去り、山河は残るというおもいが、詩人ならぬ人をまでも、詩境に誘い易いのであります。
 こういう弱い心を鞭打つには、こういう静かなところへ来てはいけない、と兵馬は、陣街道を真直ぐに、またも府中の宿へ足を向けました。

         十三

 兵馬はそこを引返して、車返くるまがえしから甲州街道筋へ出て、再び宮前まで来た時、おそろしく急ぎの乗物が一挺、西の方から飛んで来るのにでっくわせました。
 もとよりここは、甲州街道の道筋では、一二を争う宿駅の一つ。まだ宵の口、幾多の人馬が往来することに、あえて不思議はありませんが、この乗物は、物々しい人数に囲まれ、乗物を囲んで急ぐ三四の人影が、皆さむらいであることが奇怪。そうして先手さきてを払った一人は、これはさむらいていではないのが、棒を携えて、これが一行の差図ぶりで飛んで来たものだから、兵馬はどうしても、見逃すわけにはゆきません。で、眼前を過ぐる乗物に近寄ると、
「危ない」
 棒を持ったのが、それを制止しようとした途端のことです、
「やあ」
 これは、どちらが先に言ったのか、
「君は……」
 棒を持ったのが踏み留まると、同時に乗物も、これを擁護した物々しい一行も、たじろいでしまいました。
「君は、宇津木兵馬ではないか」
「おお、山崎!」
 そこで、おたがいが、やや離れて棒のように突立ったものです。
 乗物を守った数名のさむらいたちが、早くも血気を含む。
「宇津木、君は今頃、こんなところに何をしているのだ」
 乗物の先を払って来たその人は、まさしく山崎譲でありました。
「山崎氏、君こそどこへ行かれるのだ、そうしてその乗物は?」
 兵馬は反問しました。その時は、充分に足場をみはからっていたものらしい。
「どこへ行こうとも君の知ったことではないが、僕の方から、君には充分に聞いておきたいことがあるのだ、いいところで逢った」
といって山崎は、乗物と、それを守る人々を見廻して、
「君たち、拙者はこの少年にぜひ聞いておきたいことがあるのだが……」
 それから六所明神の鳥居の中に眼をつけ、
「暫く、あれで待っていてくれ給え」
 山崎の差図通りに、乗物は、鳥居から明神の境内けいだいかつぎ込まれて、鳥居の背後に置かれると、それを擁護しながら、一方には事のなりゆきを注視して、彼等はすわといわば山崎に加勢する身構え気込み充分です。
 しかし、山崎は甚だ騒がぬていで、
「宇津木」
と言葉をかけて、一足近寄って来ました。
「宇津木、君は何か非常に心得違いをしているらしい、ナゼ君は拙者を殺そうとしているのだか、その理由が一向にわからんので、僕は迷っている。考えても見給え、君と拙者とは、壬生の新撰組で同じ釜の飯を食った仲ではないか、それ以来、拙者は何か君に怨まれることをしたのかな」
 こういわれてみると、兵馬は返すべき言葉がないので、ぜひなく、
「私の怨みではない……」
といいますと、すかさず山崎は、
「私の怨みでなければ何だ」
 兵馬は、この場合、たしかにやや逆上していました。
「ある人に頼まれたのだ」
「人に頼まれた? ばかな!」
 山崎は、カラカラと笑うと、いっそう激昂した兵馬は、
「山崎氏、君にはなんらの怨みとてはないが、君が邪魔をするために、国家の大事を誤るといってなげいている人がある、その人のために君を遠ざけねばならぬ。拙者はその人のために助けられている、その人は拙者の命の親である、余儀なき頼みを引受けて君を遠ざけようとするのも、一つには恩にむくゆるため、一つには君等が邪魔をするために、国家の大事を誤ると慨いている――それが気の毒で、頼みを引受けたまでじゃ」
「まあ、待て、待て。君を頼んだというその人も、こっちではちゃんと見当がついている、その人たちがほんとうに国家を憂いている人か、あるいは乱を好む一種の野心家に過ぎないか、君にはそれがわかっているのか」
「わかっている」
「わかっている? では、あの連中が本当の憂国者か」
「少なくとも、君等の見ているよりは、広く今の時勢を見ていることだけは確かだ」
「宇津木、君はいやしくもいったん新撰組に籍を置いた人として、この山崎譲の前で本心からそれをいうのか」
「無論のこと」
「そうなると、君は我々同志に縁のあるものを、残らず敵とするのだが、それでいいか。拙者だからいいようなものの、他の同志の中で、その一言を吐けば、君はその場で乱刀の下に、血祭りに上げられることを知っているだろうな」
「拙者は、壬生みぶの屯所の世話になったことがあるけれど、新撰組に同志の誓いを立てたものではない。その新撰組とても、幾つにも仲間割れがして、おのおの意見も違っているではないか。尊王攘夷の浪士とても、もとより無頼漢もあれば、真に尊敬すべき人もある。その尊敬すべき点を認めて、同情を寄せるには何の妨げもあるまいではないか。それがために、貴殿より恨まるるならば、恨まれても仕方がない」
「うむ、君が本心からそれを言うならば、我々は今後、君を待つのに裏切者を以てしなければならぬ」
「拙者はあえて裏切りをした覚えはない」
「昨日は我々の組の世話になり、今日はまた西国浪人どもの手先をつとめる卑怯者!」
「卑怯者とは聞捨てがならぬ」
 兵馬はムッとして怒りました。その怒りは心頭より発したる怒りではなく、癇癪かんしゃくより出でた怒りでしたけれども、この場合怒ることのできたのは物怪もっけの幸いでした。しかしながら、兵馬の怒るより激しく怒っているのは、山崎譲ではなく、乗物を守護して来た数名の覆面のさむらいたちです。
 さいぜんからの事の行きがかりを、彼等はれきって注視している。にわかに乗物の鼻を抑えたことさえあるに、まだ小二才の身分で、山崎譲に向って、ちっとも譲らぬ談判ぶりが、面憎つらにくくてたまらないのでありました。それをまた、かなりの緩慢な態度で応対している山崎の振舞を、はがゆく思っておりました。問答は無益、一蹴して血煙を立てて行けば差支えないものを、なぜ山崎が一目置いた応対ぶりをしているのだろうと、それがもどかしくて堪らなかったから、この場合、火蓋を切ろうとするのを山崎が抑えました。
「まあ、待ち給え、諸君」
「山崎氏、緩慢至極で見ていられぬ」
「待ち給え、これは僕の旧友で、宇津木兵馬……」
 そこで改めて兵馬の方へ向き直り、
「宇津木君、まあ、そこへ掛け給え」
 山崎譲は自分が先にやしろの鳥居の台石へ腰を卸して、
「この間、四谷の大木戸で、君は罪のない者を斬ってしまったな、よく考えて見給え、あれは飛脚渡世の者で、家には養わねばならぬ妻も子もあるのだ、ああいう者を斬捨てて、君はいい心持でいるのか。いい心持ではあるまい、間違えられた僕でさえ、気の毒でたまらないから、通りがかりには、キットあの遺された家族の連中へ、見舞に立寄っているのだ。君の人となりもたいていは知っている拙者だ、無意味に人間の命を取って、それを興がる君でないことは、よく知っているつもりだ。それにもかかわらず、ああいうことをしでかした原因を推量してみると、宇津木君、君はこのごろ、女に迷うているのではないか。女に迷うと金に詰まる、これは切ってはめたような浮世の習いだ、君が、よしみはあっても更に怨みというもののない拙者を討とうとするのも、多分、この辺から来ているのではないか、と僕は推量している。また、そうとしかほかに理由が考えられないのだ。自重じちょうしてくれ給えよ……しかし、宇津木、それはどうあろうとも、正直のところは、拙者は君を敵に持つことを怖れているのだ。卑怯の意味で後ろを見せるというわけではないが、君がいて事を好めば拙者も手をつかねてはおられぬ、同行の諸君もそれを見てはおれまい。ここでおたがいが火の出るような斬合いをはじめて、どっちが勝ってみたところで、どっちが負けてみたところで、あるいは共倒れになってみたところで、無名の戦いは畢竟ひっきょう無名の戦いで、むなしく人の笑われ草となるに過ぎない。ここをよく考えてくれ給え、とかくの判断は後日として、宇津木君、今日は拙者を見のがしてくれ給え。さあ諸君」
と言って山崎は、棒を兵馬の前へ投げ出して、人数の中へハサまるが早いか、一団になって走せ去りました。
 宇津木兵馬は、過ぎ行く乗物の一行を、その提灯の影が見えなくなるまで、茫然として見送っておりました。
「少々物をお尋ね致しとうございますのですが」
 呼びさまされて見ると、自分の前に、見慣れない旅人風の男が立っております。
「何事です」
「ただいま、これへ一挺の乗物が通りは致しませんでしたろうか、ええと、たしか、源氏車の紋のついた提灯を持っておりましたはずで、お附添のさむらい衆が四五人、もっともその中に一人、さむらいていでないお方が、棒を持っておいでなさいましたはずで」
「ははあ、そのことか」
「その乗物は黒塗りでございました」
「それそれ」
 兵馬はまだ、過ぎ去ったそのもののあとをながめているのです。
「いかがでしょう、通りましたでしょうか、通りませんでしたろうか、通りましたとすれば、どのくらい前のことでございましたろう、ぜひひとつ」
「なに、何をいわれた?」
「じょうだんではございません、ただいまこれへ、一挺の乗物が通りは致しませんでしたろうか、たしか源氏車の紋のついた提灯をつけて、お附添のさむらい衆が四五人、もっともその中の一人のお方が、さむらい姿でない棒を持ったお方と、こうお尋ね申しているんでございます」
「うむ、それか、それならば、たった今、ここを通った」
「有難うございます」
 喜んで駈け出した旅人風の後ろ影を見送ると、その男の足の迅いこと、右の肩から腕へかけて、急にすべり過ぎている姿勢なり恰好かっこう
「はて……」
 乗物が怪しい! その瞬間に兵馬の頭脳あたまにひらめいたのがそれです。その途端に、鳥居の後ろからそろそろと人の姿が現われて、
「兵馬様、兵馬様」
と呼ぶ声。それは七兵衛の声です。
 例によって、笠をかぶって合羽を着た旅装の七兵衛は、鳥居の裏から出て来て、
「兵馬様、私はさいぜんから残らずこっちで承っておりました、山崎先生のおっしゃることが、いちいち御尤ごもっともに聞えますると共に、あなた様の御身について、合点がてんの参らぬふしが多いようでございます、それを少しばかり、七兵衛にお聞かせ下さいまし」
といって、兵馬とは向い合った鳥居の台石に腰をかけると、兵馬は、
「ああ、自分で自分の心がわからぬ」
「いったい、お前様は、ほんとうに山崎先生をお斬りになる御了見ごりょうけんなんでございますか。それはたしかに山崎先生にもおわかりにならないように、私共にも一向せないことでございます。なお、山崎様のおっしゃるところを聞いておりますると、お前様は、このごろ、吉原へしげしげおいでになるとやら、そこへ図星を差した山崎先生のおめがねは、見上げたものだと七兵衛も感心致しました。悪所の金に詰まって、心にもない人の頼みをお受けになって、よしない人を討とうとなさるお前様とは存じませぬが、いかなる人も女に迷うと人間が変ります、もしお金がいりようでございましたら、失礼ながらいくらでも、私の手で都合して差上げますから、軽挙かるはずみなことはなさらぬように……と申し上げますと、口幅ったいようでございまするが、ともかく、お金で済むようなことでしたら、いつでも御遠慮なく、御相談を願いたいものでございます」
「いつもながら、そなたの親切は有難い。そういえば世間のことは、大抵は金で済むようなものじゃ、打明けていえば、拙者の迷うていることもその一つかも知れない、金があれば、ここまで深入りをせずともよかろうものをと思われないではないが……」
と兵馬はいいかけて、また打悄うちしおれてしまいます。実際、今の兵馬の場合は金の問題で、怨みもない人をあやめようと決心を起したのも、せんじつめればそれです。七兵衝からそこへ水を向けられてみると、渡りに舟のようなものではあるが、なんといっても相手がこの田舎老爺いなかおやじでは、お歯に合わないほどの金が要ると思うから、親切は有難く思っても、いっそう打悄れるのが関の山です。ところが七兵衛は、存外に腹がいいと見えて、
「それは何よりです、金で思案がきまることでしたら、及ばずながら私が骨を折ってみようではございませんか。いったい差当りお前様は、どのくらいお金がおありになればよろしいのでございますか」
「いいや、それはいうまい、いうたとてせんのないことじゃ、今までもそなたには、随分世話になっているのに――」
「まあ、おっしゃってみて下さい、七兵衛の手で出来ればよし、出来なければ出来ないと申し上げるまでですから――」
「正直にいってみると、差当り三百両ばかりの金が要ります」
「三百両……」
 七兵衛は、そこで、ちょっと黙ってしまったのは、むろん後込しりごみをしてしまったものと兵馬はあきらめ、いっそこんなことをいわない方がよかったと思っていると、七兵衛は率直に、
「よろしうございます、私が、きっとその三百両をあなた様のために、三日のうちに調ととのえて差上げましょう。その代り私から、あなた様に一つの願いがございます」
 そこで兵馬が意外の思いをしているのを、
「お願いというのはほかではありません、あのお松のことでございます。あの子は私が大菩薩峠の上で拾って来た、かわいそうな孤児みなしごなんでございます、私だって、いつまでもあの子の後立てになっているわけには参りませんし、それに、私が後立てになっていたんでは、あの子のために末始終、よくないことが起るかも知れませんので……どうかあなた様に、行末永く、あの子の面倒を見てやっていただきたいのでございます」
 こういって改まって、お松という女の子の身の上を頼みます。
「それはよく心得てはいますけれども、今の拙者の身では、人の力になってやることができない」
「それは嘘でございます」
 七兵衛は少しく膝を進ませて、
「人の力になってやるのやらないのというのは、心持だけのものです、あなたの心を、お松の方に向けてやっていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
「拙者の心持は、いつもあの人に親切であるつもりだが……」
「ところが、あの子の方では、わたしの親切が足りないから、兵馬さんに苦労をさせるのだと、この間も泣いておりました。私はお若い方に立入って、野暮やぼなことは申し上げるつもりはございません、あなた様が、第一にあのお松を可愛がってやっていただけば、それから後のことは、とやかくと申し上げるのではございません」
といって七兵衛は、何か思い出したように台石から立ち上り、やしろの木立から少しばかり街道筋へ出て天を見上げ、
「それでは、兵馬様、私はこれから三日の間に、あなた様のお望みだけのお金を調えて――そうですね、ドコへお届けしましょうか、ええと……浅草の観音の五重の塔の下でお目にかかりましょう、時刻は今時分、あの観音様の前までお越し下さいまし、その時に間違いなくお手渡し致します。今夜は雨が降るかも知れません、私はちょっと側道わきみちれるところがございますから、これで失礼を致します」
といって七兵衛は、そのまま風のように姿を闇に隠してしまいました。
 そこで兵馬は、社の木立の深い中をたどって、社務所の方へ帰りながら、
「わかったようでわからぬのはあの七兵衛という人だ、金を持っているのか、持っていないのか、トント判断がつかぬ。どこにか少なからぬ小金こがねを貯えていて、表にああして飄々ひょうひょうと飛び廻っているのか知ら。いつもと違って今宵は三百両というなかなかの大金である、それを事もなげに引受けて、三日の期限をきったところには信用してよいのか悪いのか、とんと夢のようである。しかし、今まであの人の約束を信じて、ツイ間違ったことがない、それで、ここでも約束通りに信を置いて間違いないだろうか知らん」
と胸に問いつ答えつしていたが、やはり夢のようです。果して易々やすやすとその要求するだけの金が手に入ったならば、自分の今の苦痛はたちどころに解放される。解放されるのは自分だけではない、苦界くがいに沈む女の身が一人救われる。そうして、金にあかして、愛もなければ恋もない女を買い取ろうとする色好みの老人の手から、本当に愛し合っている人の手に取り戻すことができる。自分の本望、女の喜び、それを想像すると、兵馬はたまらない嬉しさにうっとりとする。
 うっとりとして、自分の足も六所明神の社内を、冷たく歩いているのではなく、魂は宙を飛んで、温かいねやの燃えるような夜具の中に、くるくると包まれてゆく心持になってゆく時、ヒヤリとして胸をいたものは、
「あなたの心を、お松の方に向けていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
といまいい残して行った七兵衛の一言ひとことがそれです。

         十四

 狭山さやまの岡というのは、武蔵野の粂村くめむらあたりから起って、西の方、箱根ヶ崎で終る三里ほどの連岡れんこうであります。武蔵野の真中に、土の持ち上っただけのもので、その高さ二百歩以上のところはなく、秩父ちちぶから系統を引いているわけではなく、筑波根つくばねの根を引いているわけでもなく、いわば武蔵野の逃水にげみず同様に、なんの意味もなくむくれ上って、なんの表現もなく寝ているところに、狭山連岡の面白味があるのです。
 狭山の尽くるところに、狭山の池があります。その中に小さな島があって、ささやかな弁天のほこらがまつられてある。府中の六所明神の社頭で兵馬と別れた七兵衛が、ひとり、こっそりとこの弁天の祠に詣でたのは、その翌日の真昼時であります。
 七兵衛は弁天様にちょっと御挨拶をしてから、その縁の下をのぞき込んで手を入れて探すと、蜘蛛くもの巣の中から引き出したのが、一挺の小鍬こぐわであります。この鍬を片手に提げると、池のまわりを一ぺん通り、西の方へまわって、松の大樹の落々らくらくたる間へ進んで行きました。この辺、数里にわたって、見渡す限りの武蔵野であります。
 七兵衛は池尻の松の大樹の林の中を鍬を提げて歩いて行き、一幹ひともとの木ぶり面白い老樹の下に立って、いきなり鍬を芝生の上へ投げ出すと、その松の根方に腰をおろしました。
 そこで煙草入を取り出して、ひうちを切って一ぷく吸いつけると、松風の響きがつづみのように頭上に鳴り渡ります。七兵衛は、松の木立の隙間すきまから、晴れた空をながめやり、暫くその空の色に見恍みとれていたようでしたが、やがて、思い出したように煙管きせるをハタハタとはたくと、再び立ち上って、例の小鍬を無雑作に拾い上げ、いま自分が坐っていたところから二尺ほど離れた大地の上へ、軽くその鍬先を当てたものです。
 七兵衛はここへ、何物かを掘り出しに来たものに相違ない――この男は改めて説明するまでもなく、極めて足のはやい奇怪な盗賊であります。一夜に五十里を飛ぶにはなんの苦もない足を持っていて、郷里の青梅宿おうめじゅくを中心に、その数十里四方を縄張りとし、その夜のうちに数十里をせ戻って、なにくわぬかおをして百姓をしているから、捕われる最後まで、誰もそれを知るものがなかった男であります。
 甲所で盗んだ金は乙所へ隠して置き、乙所でかすめたものは丙所へ埋めて置いて、自分は常に手ごしらえの絵図面を携帯し、それへいちいち朱点を打っておいて、時機に応じ、必要に従って、その金を取り出す習いになっているのだから、ここへこうして鍬を持って来てみれば、もうその目的は問わずして明らかなのであります。昨夜、六所明神の社前で、宇津木兵馬に誓っておいただけの金子きんすを、この貯えのうちから引き出しに来たものと思えば間違いはありますまい。
 兵馬は、今日まで、ずいぶんこの男の世話にはなっていたけれども、ただ、こういった義侠的の人に出来ているのだろうと思うよりほかは、考えようがなかったもので、果してこうとさとったなら、その恩恵を受けられよう道理がなかったのですが、このことは兵馬が知らないのみならず、誰も知っていないので、ただがんりきの百蔵というならず者だけが心得てはいるが、これとても最初からの同類でもなんでもなかったのです。
 果して七兵衛は、熱心に芝生の上を掘りはじめました。下は軟らかい真土まつちで、掘るに大した労力がいるわけでもなく、たちまちの間に一尺五寸ほど掘り下げると、くわほうり出して両手を差し込み、土の中から取り出したのは、油紙包を縄でからげた箱のような一品で、土をふるって大切だいじそうに芝生の上へ移し、再び鍬を取って、以前のように地均じならしをはじめていると、またも晴れた嵐が松の枝を渡る時、
「兄貴、何をしているのだ」
 悪い奴が来たもので、これはがんりきの百蔵が風のようにやって来て、いつか後ろに立っているのでした。
「百、何しに来たんだ」
 悪いところへ悪い奴と思って、七兵衛が苦りきっていうと、百蔵は洒唖しゃあとして、
「日光街道の大松原で、ふと兄貴の後ろ姿を見かけたものだから、こうしてあとをつけてやって参りましたよ」
「油断も隙もならねえ」
 七兵衛が鍬をついてがんりきをながめていると、がんりきは、その鍬と七兵衛の掘り出した油紙包の箱と両方へ眼をくれながら、
「ひとつ折入って兄貴にお聞き申したいことがあって、それ故、おあとを慕って参りました」
「それはいったい、どういうことを聞きたいのだ」
「ほかでもありませんが、この道中筋を横と縦へ向って、今がんりきの百蔵がしきりに捜し物をして飛び廻っているという次第ですが、その捜し物というのは、兄貴の前だが……」
「わかってる、わかってる」
 七兵衛は頭を振って、
手前てめえが、そうしてのぼせ切って東西南北を血眼ちまなこで馳け廻っている有様を見ると、おれは不憫ふびんで涙がこぼれる、仕舞しまいの果てにはなけなしの、もう一本の片腕をぶち落されるくらいが落ちだろう……色狂いろきちがい!」
「その御意見は有難えが、時のいきはりで、つい