一
温かい酒、温かい飯、温かい女の情味も
その翌日の晩、
机竜之助は、軒をめぐる
しとしとと降りしきる雨をおかして、十一丁目からいくらかの人が、この谷へ向って下りてくることが確かです。
見上げるところの
ややあって、駕籠だけは蛇滝の上に置かせて、蛇の目の女だけが提灯を持って、参籠堂の前まで下りて来ました。
わざと正面の
「御免下さいまし」
なんとなく、うるおいのある甘い声。机竜之助は枕をそばだてて、その声を聞いていると、
「あの、昨晩申し上げましたように、わたくしはこの夜明けに江戸へ参ります、それは、いつぞやも申し上げました、わたくしの子供の在所が知れました、ふとしたことから兄の家へ
扉の外に立った女は欄干につかまって、扉の中へこれだけのことを小声で申し入れました。中へは入ろうとしないで、外でこれだけの用向をいって、中なる人の返事を待っている間に、
あれから後、夢のような縁に引かされて、この蛇滝に
今、この女は江戸へ行くとのことです。江戸へ行かねばならぬその理由は、よそへ預けておいた
「子供というのは、それほど可愛いものかなあ」
扉の中で竜之助の声。
「可愛ゆうござんすとも、子供ほど可愛ゆいものは……」
提灯の中を見入っていた女が面を上げた時に、その
二
参籠堂の中で、焚火が明るくなった時分に、机竜之助は、いつのまにか着物をきがえて旅の装いをすまし、
それと向い合って、女は
「
「いや、なにかとお世話になるばかりで、御恩報じもできないことを痛み入ります」
と竜之助は、焚火に手をかざして、その
「いいえ、どう致しまして、わたくしこそ、命を助けていただいた御恩が返しきれないのでございます」
「いつ、拙者が人の命を助けたろう」
「お忘れになりましたのですか」
女はその言葉に
「そなたに助けられた覚えはあるが、そなたを助けた覚えはありませぬ」
「まあ、ほんとうにお忘れになりましたのですか、あの、巣鴨の庚申塚のことを」
この時、女は、病気のせいでこの人の記憶が
「覚えていますとも……」
「それごらんなさいませ。あのことがなければ、わたくしはどうなっていたか知れません、いいえ、わたくしはあの時に殺されていたのです、それを、あなた様に助けられましたので」
その時の思い出が、女を堪えがたい
「そのとき助けたのは、拙者ではない、助けようと思ったのも拙者ではござらぬ。もしその時、そなたたちを助けようとした人、助け得た人があったとすれば、それは弁信といって、
「いいえ、もうおっしゃらなくてもよろしうございます、なんとおっしゃってもわたくしは、現在あなた様に助けられているのですから」
女はひとり、それを身にも心にも恩に着ているのであった。人の
「さて」
と刀を取って引き寄せようとしたのは、待たしてある駕籠のことを
「まあ、お待ち下さいませ、まだよろしうございます、かまいませんです、みんな家の者同様の人たちなんですから」
最初には、上へあがることをさえ
「ああ、そうでした、わたくしはいつぞやお約束の
と言って、女は立って扉を押し、
「駕籠屋さん、あの刀をちょっとここへ貸して下さいな」
やや離れた
三
女は
「あなた、この刀には、なかなか
「何という人の作か、それを聞いておきましたか」
といって竜之助は、箱の紐に手をかけてほどきはじめました。
「ええ、銘がございますそうです」
「在銘ものか。そうしてその銘は?」
箱の中から
「どうか、よくごらんなすって下さいまし、こういうものばかりは見る人が見なければ……」
「その見る人が、この通りめくらだ」
袋の中から
「それでも、心得のあるお方がお持ちになればちがいます」
といって、今更、燭台を近く引き寄せたことの無意味を恥かしく思います。
「重からず、軽からず、振り心は極めてよい」
「手入れの少ないわりには、さびが少しもついておりませぬ」
「なるほど。そうして
といって竜之助は、鞘を払った刀を、女の声のする方へ突き出して見せました。
「刃紋とおっしゃるのは……」
女はこころもち身を引きかげんにして、この時はじめて、傍近く引き寄せた燭台の存在が無意味でないことを知りました。竜之助の
「刃紋とは、
「ございます、ちょうど、雨だれの
「あ、では
「小さい時から聞いておりました、
「国広……」
「はい」
「ただ、国広とだけか」
「ええ、国広の二字銘だとか、父が申しておりましたそうで」
「ああ、国広か」
竜之助にかなりの深い感動を与えたものらしく、刀を二三度振り返してみて、
「国広にも新刀と古刀とあるが、これはそのいずれに属するか、相州の国広か、堀河の国広か」
とひとり打吟じて、
「多分、堀河の国広だろう、ああ、いい物を手に入れた」
彼の
「堀河の国広というのは、よい刀ですか」
「新刀第一だ」
その真珠色の面が刀の光とうつり合って、どこかに隠れていた
刀を
四
雨のしとしとと降る中を、わざと甲州街道の本街道を通らずに、山駕籠に
十一丁目までの間は、壁にのぼるような
「もし、旦那様、あの花屋のお若さんは、あなたのおかみさんですか」
「違う」
「そうですか、お若さんは江戸で御亭主をお持ちなすったそうですが、本当でしょうか」
「拙者は、それをよく知らないのだ」
「そうですか」
といって、前棒の若い駕籠屋は黙ってしまいました。その言葉つきによって見ると、これは全く土地の人間で、雲助風の悪ずれしたのとは、たちが違うことがよくわかります。暫く無言で、やや坂道になったところを上りきると、今度は後ろのが、
「お若さん、子供があるって本当だろうか」
ぽつりと、思い出したようにいい出したのは、前棒のよりはやや年とったような声です。そうすると、前のが、
「ああ、そりゃ本当なんだ、なんでも今度は、その子供を引取って来るとかいってるものがあったよ」
「子供があれば御亭主があるだろう」
「そうだな、御亭主があっても子供はないのはあるが、子供があって御亭主のねえというのはあるめえ」
「では子供と一緒に御亭主さんも来るんだろう」
「そうかも知れねえ」
あたりまえならば、この会話に何か皮肉が入りそうなのを、極めて平凡な論理と想像で進行させてしまって、道はまた少しく勾配にかかるので黙ってしまいました。
「旦那様」
今度のは、後ろの駕籠屋が思い出したように、駕籠の中に向って言葉をかけました。そこで竜之助は、
「何だ」
「わたしどもは、あんまりお若さんが親切にあなた様の世話をなさるから、それで、お若さんはあなたのおかみさんだろうと、もっぱら
「それは有難いような、迷惑なような話で、拙者は世話にはなったけれども、縁はないのです」
「それでも、お若さんは、大へんあなたに御恩になったように申しておりましたよ」
「別に骨を折って上げた覚えもないけれどな、まあ計らぬ縁でこうして世話になるのだ、あれはなかなか親切でよい人だ」
「そうです、親切で、気前がなかなかようございます。旦那様は、あのお若さんの盛りの時分から御存じですか、それとも、近頃のお知合いなんですか」
「ほんの、つい近頃の知合いだ」
「そうですか、
「ははあ」
机竜之助は思わぬところから、女の身の上話を聞かされようとするのを、あながちいやとは思いませんでした。今までも、自分を
「御存じですかね、お若さんは花屋の本当の娘ではありません、小さい時に貰われて来たんです」
「なるほど」
「貰われて来たんですけれども、その親許がわからないのですね」
「親がわからない?」
「それがね、わかっているのですけれども、わからないことにしてあるんです」
「というのは?」
「それが、なかなか
「それが、どういう縁で、江戸の方へかたづいたのだ」
「そのことは、あんまりよく存じませんが、なんでもお若さんはいやがっていたのを、先方が
後ろの老練なのが、委細を説明していたが、この時、不意に前棒の若いのが口を出して、
「お若さんには、別に好きな男があったっていうじゃないか」
「いろいろの噂があるにはあったがね。何しろ街道一といわれたくらいだから、人がいろいろのことをいいまさあ」
「なかなか固いという者もあれば、思いのほか浮気者だといってる者もあったね」
「いよいよ江戸へ行ってしまうという時に、高尾の若い坊さんが一人、
「そんなことがあったか知ら」
「お前たちがまだ、
「してみると、お若さんは罪つくりだ」
「罪つくりにもなんにも、一体が女というものは、たいてい罪つくりに出来てるものですが、そのうちにも
といって老練なのが、竜之助のところへ言葉尻を持って来たのを、
「そうだ、そうだ」
と聞き流していると、
「罪つくりは女だけに限ったものでもあるめえ、男の方が、女に罪を作らせることも随分ありますねえ、旦那様」
両方から、罪のやり場を持ち込まれて竜之助は、
「そりゃ、どちらともいわれない」
この時、竜之助はふと妙な心持になりました。
五
本坊の前から
「
老杉の間から投げられた光を仰いで、行手を安心する駕籠舁の声を、駕籠の中で竜之助は聞いて、
「ああ、雨がやんだか」
「ええ、雨がやんでお月様が出ましたよ、もう占めたものです」
「この分だと、大見晴らしから小仏の五十丁峠で、月見ができますぜ」
しかしながら、山駕籠は別段に改まって急ぐというわけでもなく、老杉の間の、この辺はもう全く勾配はなくなっている杉の大樹の真暗い中を、小田原提灯の光一つをたよりにして、ずんずん進んで行きます。
駕籠に揺られている竜之助は、天に月あることを聞いたが、身は今、この老大樹の闇の中を進んでいることを知らない。ただ、
ふと、その空気の圧迫と、怪しい鳥の落ちて来る鳴き声に、過ぎにし武州御岳山の
お浜はいずれにある。恨みに生きて恨みに死んだ、かの憎むべき女の遊魂は、いずれにさまよう。
人間の罪、今も心なき駕籠舁の口から出たその人間の罪は、男女いずれに帰すべきやを知らない。その起るところのいつであるか知らないように、その終るところのいずこであるやを知らない。ただ知っているのは、罪は
それは仮りに罪といってみるまでのことで、竜之助自身にあっては、世のいわゆる罪ということが、多くは冷笑の種に過ぎないことです。彼は自分の生涯を恵まれたる生涯だとは思っていないが、また決して罪悪の生涯だとは信じていないのです。彼自身においては、自分が生きるように生きているのみで、未だ
悪いことをしていない、という盲目的信念は、今までこの男をして、世の罪ある者の方へ、罪ある者の方へと縁を結ばしめて来た。愛すべきものは罪である。ことに愛すべきは罪を犯して来た女である。今まで彼を愛し、彼に愛せられた女性は皆、この罪ある女ではなかったか。愛でも恋でもない、それは罪と罪とのからみ合う戯れではないか。ただし戯れにしては、その
道はいつしか、老杉の境を出でて
「すっかり晴れちまったね。いいお月見ですよ、旦那様」
駕籠屋がいい心持で天を仰いで、雨あがりの雲間の
「ここのお月見は格別ですね、何しろ十二カ国が一目で見渡せるんですからね」
駕籠は、すすき尾花の大見晴らしを
「向うのあの松林の中で、変な火の色が見えたぜ」
「え、松林の中で?」
二人の駕籠屋はいい合わせたように、大だるみの方面へ走った峰つづきの松原の方を眺めました。
「なるほど」
「何だろう、あの火は」
「提灯でもなし」
「焚火でもなし」
駕籠の中で、それを聞いていた竜之助は、むらむらと
「こっちへ来るようでもあるし、あっちへ行くようでもあるし」
「いやな色をした火だなあ」
「だけんど、おれはこの道でおっかねえと思ったのは、たった一ぺんきりさ」
と
「そりゃあ、どうしてだ」
「高尾の山には天狗様がいるという話だが、おれは、三年ばかり前の
六
その地蔵辻の上へ駕籠を置いて、駕籠屋は一息入れています。
四方に雲があって、月はさながら、群がる雲と雲との間を避けて行くもののように、
机竜之助は、その中に、堀河の国広を抱いて、うっとりと眠るともなく、
その時、不意に風でも吹き起ったもののように、サーッと
「今晩は」
その人影は早くも、休んでいた駕籠の傍へ来た。先方から挨拶の言葉で、二人の駕籠屋があわてました。
「今晩は」
「いいあんばいに、雨があがりましたね」
「ええ、いいあんばいに雨があがりましたよ」
「どちらへおいでになりますね」
「ええ、上野原の方へ。急病人がありましたのでね」
「それは、それは」
といって、旅人はお辞儀をして、その駕籠のわきの細道を通りぬけようとして、また踏みとどまり、
「済みませんが、火を一つお貸しなすって下さいまし」
「さあ、どうぞ」
この旅人は、棒鼻の小田原提灯の中の火が所望と見えて、懐ろから煙草入を出すと、その
「いや、どうも有難うございました」
吸いつけた煙草をおしいただいて、お礼の真似事をしながら、ジロリと駕籠の方を見ましたが、あいにくに提灯をこっちへ持って来ていたものだから、横目でジロリと見たぐらいでは、思うように見当がつかないらしい。
「どう致しまして」
そこで旅人は、煙草をくゆらして、お別れをしようとしたが、また何か思いついたもののように、
「若い衆さん、お気をつけなさいましよ、やがて霧が捲いて来ますぜ」
「え、霧が……こんな雨上りの月夜にですか?」
「そうですよ、町の真中でさえ霧に捲かれると、方角を間違えますからな、ことに山路で霧に捲かれては、いくら慣れておいでなすっても、困ることがありますからね」
「そうですかねえ」
駕籠屋は、いよいよ
「あッ!」
と驚かされたのは、いま立去った旅人の挙動です。つい、たった今、そこで煙草の火をつけて、霧の起るべき予告をしておいて立去った旅人は、早や眼を上げて見ると、二十八丁の
「今の人が、もうあすこまで行った」
「あッ!」
と若いのが青くなったのは、今も今の話、天狗様の夜歩きを、この男は生涯に二度見たからです。二人の見合わせた面は
「さあ、いけねえ」
気のついた時分には、月の光も隠れておりました。
「さあ大変! 天狗様のお告げ通りになったぞ」
彼等は、いま立去った旅人を人間とは見なかったように、いま捲き起った霧を、単純な天変とは見ることができないで、
「旦那様、旦那、どう致しましょう、いっそ
根が正直な土地の駕籠屋だけに、まじめになって駕籠の中の客に相談をかけると、その理由を知ることのできない竜之助は、
「どうして」
「今晩は、いけない晩でございますよ」
「何がいけない」
「お聞きになりましたか、今、怪しい旅の人が、煙草の火を借りて参りました、それが、その、ただの人ではないのでございます」
「ただ
「ええ、さきほどもお話し致しました通り、この高尾のお山には、昔から天狗様が
「ばかなことをいうな、拙者もここでその旅人のいうことをよく聞いていたが、人間の声だ」
「左様でございます、言葉だけをお聞きになったんでは、ちっとも人間と変りはございません、また姿を見たって人間とちっとも変りはございませんが、旦那様、歩くところをごらんになれば、直ぐわかります」
「何か変った歩きつきをして見せたか」
「変ったどころではございません、今ここで煙草の火をつけて、霧が捲くから用心しろとおっしゃったかと思うと、もう二十八丁目の
「羽が生えて飛んで行ったのか、足で歩いて行ったのか」
「それは、よく見届けませんでしたが、二人がこうして
「心配することはない、ずいぶん世間には足の
「足の早いといったって旦那、たいてい相場がありましょう、今のあの旅人なんぞは……」
「たとい、天狗にしろ、お前たち、なにも天狗に申しわけのないほど悪いことをしているわけではあるまい」
「いいえ、論より証拠でございます、天狗様がお知らせになった通り、晴れた月夜が、このように霧になってしまいました」
「かまわず目的通りの道を行くがよい」
「でも旦那、ほかの者と違って、相手が天狗様じゃかないません」
「お前たち、天狗に借金でもあるのか」
「御冗談をおっしゃってはいけません、
「罰は拙者が引受けるから、かまわずやってくれ」
「行くには行きますがね」
二人の駕籠屋は
駕籠屋が迷いはじめたのはそれからです。本来この連中が、この慣れきった道に迷うはずがないのを、迷い出しました。
「旦那、方角がわからなくなっちまったんですが、どっちへいったもんでしょう!」
正直な二人が、ようやくのことで
「こんなはずではなかったんですが、どっちへ行っても道へ出ないでございます、いっそ千木良か底沢へ下りてしまおうかと思いますが、その道がどうしてもわからないでございますよ」
「それを拙者に言ったって仕方があるまい」
「それはそうでございますけれども、景信から陣馬を通って上野原へ山道をする、その慣れきった山道が、今夜に限ってわからなくなってしまったのは、只事じゃございません」
彼等はもう、おろおろ声です。
竜之助は、もう取合わない。
「もうし」
この時、立てこめた夜霧の中から、不意に響いて来たのは人の声です。それも優しい子供らしい声でしたから、
「おや!」
「失礼でございますが、あなた方は、そこで何をしておいでになりますか」
続いて
「道に迷ったんだよ」
駕籠屋は、不意や、おそれや、
「私もそうだと存じましたから、失礼ながらこちらから言葉をかけてみましたのでございます、さいぜんから、あなた方は同じ所を往きつ戻りつなさっておいでの御様子が、只事とは思えませんのでございますものですから、もしやとお尋ねを致しました。
問われないのにこれだけのことを、一息に
七
これより先、道庵の家の一間で、中に火の入れてない大きな
「茂ちゃん、また困ったことが出来たね」
「どうして」
「お前がこの間、上手に笛を吹いたものだから、たちまち評判になって、あれは清澄の茂太郎だ、清澄の茂太郎が道庵先生の家に隠れていると、こう言って噂をしていたのが広がってしまったようだよ」
「困ったね」
「それが知れるとお前、また小金ヶ原のような騒ぎがはじまって、二人が命を取られるかも知れない、そうでなければ両国へ知れて、またお前が見世物に出されてしまうかも知れない」
「どうしたらいいだろう、弁信さん」
「わたしは、それについて、いろいろ考えてみました、うちの先生に御相談をしてみようと思ったけれども、うちの先生は、そんな相談には乗らない先生だから困っちまう」
「どうして、先生が相談に乗らないの」
「でもね、先生に
「では、どうしたらいいだろう」
「茂ちゃん、先生にはほんとうに済まないけれどもね、二人で今のうちにここを逃げ出すのがいちばんいいと思ってよ、今のうち逃げ出せば、二人も無事に逃げられるし、先生のお家へも御迷惑をかけないで済むから、今のところは御恩を忘れて、後足で砂を蹴るようで、ほんとうに済まないけれども、あとで私たちの心持はわかるのだから、いっそ、そうしてしまった方がよいだろうと思う。茂ちゃん、お前逃げ出す気はないかえ」
「弁信さん、お前が逃げようと言うんなら、あたいも逃げる」
「それじゃあ逃げることにしようよ、それもなるべく早い方がいいから、今晩逃げることにしようよ」
「あたいはいつでもいいけれど、逃げるって、お前どこへ逃げるの」
「逃げる先は、わたしがちゃんと考えてあるから心配をおしでない」
「もう、小金ヶ原じゃあるまいね」
「まさか、二度とあそこへ逃げられるものかね、今度は全く方角を変えて、いいところを考えてあるんだから心配をしなくってもいい。それでね茂ちゃん、もう一つ相談だが、お前、ここでいっそわたしと同じように、坊さんになってしまう気はないかえ」
「頭を丸くするの、なんだかイヤだなあ」
「イヤなものを無理にとは言わないけれど、向うへ行って長くいるようなら、そうしておしまいよ」
「そりゃあ、お前、都合によっちゃあね、坊さんになってもいいけれども、いま直ぐじゃきまりが悪いよ」
「いま直ぐでなくってもいいのよ、その心持でいてくれればいいの」
「そうして、お前、逃げて行く先はどこなの」
「それはねえ、これから甲州街道を上って行くと、甲州境に高尾山薬王院というお寺があるのよ、そこへ逃げて行こう」
「お前、そのお寺と懇意なの」
「そのお寺に、昔わたしに琵琶を教えてくれたお師匠さんが、御隠居をなさっていらっしゃるということを思い出したんだよ」
「それはよかったね」
「そんなに遠いところじゃないのよ、ここから十五六里ぐらいのものでしょう。茂ちゃん、お前は足が達者だし、わたしは眼が見えないけれども、旅をすることは平気だから、十里や二十里はなんともありゃしないね」
「十里や二十里、なんともないさ」
「それじゃお前、今夜、人が寝静まってから逃げ出すことにしようよ。先生はお帰りになるかならないか知れないけれど、どちらにしてもあの通り酔っぱらっておいでなさるから、夜中に眼をおさましなさるようなことはないけれど、国公さんに
「ああ」
「そのつもりで、あたしは
「有難う」
「お
「有難う」
「裏のくぐりから出ることとしましょう。夜中に、あたしが時分を見計らってお前を起すから、それまではゆっくり休んでおいで」
「ああ、あたいはそれまで休んでいるけれど、弁信さん、お前寝過ごしちゃいけないよ」
「大丈夫」
「弁信さん、お前の前だけれどね、あたいはお寺はあんまり好きじゃないのよ、清澄にいる時だって、ずいぶん
「ああ、そうそう、頑入はずいぶんお前を
「高尾の山には、頑入みたような坊さんはいないだろうなあ」
「そりゃいないだろうけれど、お前、おとなしくしなくちゃいけないよ」
「山へ行きたいなあ」
「山はお前、房州よりもあっちの方が本場だから、ずいぶんいい山がたくさんあるだろう、峰つづきを歩くと、甲斐の国や信濃の国の山へまでいけるんだからね、それを楽しみにしてお前、早くお寝よ」
二人はここで相談をととのえて、おのおの眠りに就きました。果してその翌日になると、道庵の屋敷にこの者共の影が見えません。そこで、さすが
「べらぼうめ、逃げるなら逃げるでいいけれど、道庵の家は食物が悪いから
と言ってプンプン怒ってみたけれども、別にあとを追っかけろとも言いませんでした。ともかくも相談の通りに道庵屋敷を落ちのびた二人の者は、真夜中の江戸の市中をくぐり抜け、弁信は例の琵琶を
上高井戸あたりで夜が明けました。それから甲州街道の宿々を、弁信法師は平家をうたって
茂太郎はその手引のつもりで先に立っていたが、弁信の語る平家なるものが、なにぶん
ある時は、
「弁信さん、お前の平家は、根っから受けないねえ」
府中の六所明神に近い大きな
ところが、弁信法師はそれほどにはしょげておりません。
「ねえ、茂ちゃん、平家というものは、本来流して歩くように出来ていないのだからね。お江戸の真中だってお前、平家を語って歩いて、それを聞いてくれる人は千人に一人もありゃしないよ。だからなるべくよけいの人に聞いてもらいたいと思うには、これじゃ駄目なんだよ。それで、あたしは琵琶をやめて三味線にし、平家の代りに
「だからお前、琵琶をやめて、急いで歩いた方がいいだろう」
「それでもねえ、黙って道を歩くよりは、何かの縁になるものだから、やっぱり、あたしは知っていることは人様に伝えた方がよかろうと思ってよ。人様があたしをお
欅の根に腰をかけた弁信が、こんなことを言い出したから茂太郎も、さすがにその悠長に
「弁信さん、お前がその気なら、あたいだっていやとは言わないよ」
この二人は、
陰暦十六日の月があがった時分に、この二人は相携えて、武蔵の国の総社、六所明神の社の庭へわけいりました。
八
六所明神の前にむしろを敷いて弁信法師は、ちょこなんと
こっそりと入って来たから、誰も知る者はありません。
あらかじめ二人の間に約束があったと見えて、琵琶はただちに曲に入りました。その弾奏は自慢だけに、堂に
々果して、弁信法師が、琵琶を弾かせて名人上手といえるかどうかは疑問だけれども、ごまかしを弾かないことだけは確かのようで、曲に第五の巻の月見を選んだことは、如才ないと見なければなりません。
「旧 き都は荒れゆけど、今の都は繁昌す、あさましかりつる夏も暮れて、秋にも既になりにけり、秋もやうやう半ばになりゆけば、福原の新都にましましける人々、名所の月を見むとて、或ひは源氏の大将の昔の路を忍びつつ、須磨 より明石 の浦づたひ、淡路 の迫門 を押しわたり、絵島が磯の月を見る、或ひは白浦 、吹上 、和歌の浦、住吉 、難波 、高砂 、尾上 の月の曙 を眺めて帰る人もあり、旧都に残る人々は、伏見、広沢の月を見る……」
弁信は得意になって旧都の月見を語りました。前にいうようにこの盲法師が、琵琶にかけて名人上手であるかどうかは疑問ですけれども、月夜の晩に、月見の曲を選んで、古今の名文をわがもの「中にも徳大寺の左大将実定の卿は、旧き都の月を恋ひつつ、八月十日あまりに福原よりぞ上り給ふ、何事も皆変りはてて、稀に残る家は門前草深くして庭上露茂 し、蓬 が杣 、浅茅 が原 、鳥のふしどと荒れはてて、虫の声々うらみつつ、黄菊紫蘭の野辺とぞなりにける、いま、故郷の名残りとては、近衛河原の大宮ばかりぞましましける」
弁信法師は得意になって、この不思議なもので、こうなって来ると、
ただ、琵琶を抱えている弁信法師だけが、どう見直しても徳大寺の左大将とは見えないとは言え、あまり喋り過ぎた時は小憎らしいほどな小坊主が、この時は、いかにもしおらしい月下の風流者であります。風流者というより
茂太郎もまた、しんみりとして、両手をちゃんと膝に置いたままに、神妙に聞き惚れているのに。どうでしょう、心なき
「おい、誰だい、そこでピンピンやってるのは誰だい、誰にことわってそんなことを始めた、誰の許しを得て歌なんぞをうたうんだい」
闇の中からがなり出したので、せっかく浮き出した情景が、すっかり壊されました。
「へえ、どなたでございますか、まことに申しわけがございません」
せっかく、曲も終りに入ろうとする時に、正直な弁信法師は、
「申しわけがございませんじゃない、断わりなしに
「まことに申しわけがございません……」
弁信法師は琵琶を
「申しわけがないと悟ったら、早く出て行かっしゃい」
長い竿で、弁信の頭をつつこうとします。
「ええ、少々、お待ち下さいまし、ただいま、立退きまするでございます……立退きまするについては、一応お話を申し上げておかなければなりませぬ。それと申しますのは、わたくしはこうやって、お断わりを申し上げずにお庭を
一息にこれだけの弁解をしてしまったから、さすがの
「いけねえ、いけねえ、貴様たちは
またしても長い竿で、弁信の頭をつつきました。
「弁信さん、出ようよ」
茂太郎は、見兼ねて
「出ろ、出ろ。貴様たち、それほど琵琶が弾きたいなら、河原へ行って、思う存分弾くとも
社人は、一刻の猶予も与えずに追い立てるから、弁信も
九
弁信の
その竹竿につつき出された二人は、これから宿中を流して歩こうとも思いません。また宿を求めて泊ろうとも致しません。わからずやの社人に差図をされた通り、正直に程遠からぬ分倍河原へ出てしまいました。ここで奉納の曲の残りを語ってしまい、なお夜もすがら喋りつづけ、或いは語りつづけるつもりと見えます。
分倍河原へ来て見ると、多摩川の流れが月を砕いて流れています。広い河原には、ほとんどいっぱいに月見草の花が咲いています。遠く
「ここが分倍河原というんだろう」
「ああ、ここが分倍河原で、古戦場のあとなんだよ」
弁信法師はこう言いましたけれども、その古戦場の来歴を説明するまでには至りません。いかに耳学問の早い物識りのお喋り坊主でも、行く先、行く先の名所古蹟を、いちいち明細に説明して聞かせるほどの知識は持っていないのがあたりまえです。
しかし、二人の立っているところは、いわゆる、分倍河原の古戦場の真中に違いないので、そこは昔、
「義貞追ひすがうて、十万余騎を三手に分けて三方より同じく鬨 を作る、入道恵性 驚きて周章 て騒ぐ処へ、三浦兵六力を得て、江戸、豊島 、葛西 、川越、坂東 の八平氏、武蔵の七党を七手になし、蜘手 、輪違 、十文字に攻めたりける、四郎左近太夫大勢 なりと雖も、一時に破られて散々 に、鎌倉をさして引退 く」
茂太郎は程よきところへ蓆を敷きました。弁信はその上へ乗って、「茂ちゃん」
「何だエ」
「淋しいねえ」
「ああ」
「何か、音が聞えるよ」
「何の音が」
「
茂太郎は何の音も聞くことがないのに、弁信は聞き耳を立てて、
「轡の音が聞えるよ」
「どっちの方から聞えるの」
「東の方から」
「嘘だろう、東の方からじゃない、土の下から聞えるんだろう」
「いいえ、東の方から、
「弁信さん、そりゃお前の気のせいだろう、ここは昔の古戦場だというから、昔、
「なるほど、そう言われてみると……この川の下流にあたって、
弁信はこう言いました。自分の耳を疑ったことのない弁信が、かえって
「そうだろう、でも、お前に聞えるものなら、あたいにも聞えそうなものだねえ」
「お待ちよ……何か、わたしは気になってならない」
弁信は見えぬ眼に
「弁信さん、あたいが悪かった、たしかに聞えるよ、たしかに、あたいの耳にも馬の足音が聞えて来たよ」
その時坐っていた茂太郎が、席を立ち上りました。
子供とはいえ……、立ってみれば月見草よりも背が高い。立って、そうして茂太郎が前後と左右と、遠近と高低とを見廻したけれど、月の夜の河原に
「ええと……一つ……二つ……三つ……四つ……」
弁信は坐ったままで、小声で物の数を読みはじめました。
「何を言っているの、弁信さん」
「五つ……六つ……七つ……八つ……」
弁信はしきりに数を読んでいる。茂太郎はそれを不審がっているうちに、
「十……十一……十二……十三……十四……十五……!」
で終りました。
「ああ、これですっかり
ところがこの十五騎の蹄の音がやむと暫くたって、府中の町がひっくり返るような騒ぎになりました。
一年一度行われる関東名物の提灯祭りの夜以外には、絶えてないほどの騒ぎが持ち上ったのは、まさしくいま乗込んだ十五騎が持ち込んだものに違いありますまい。事の
騒ぎ、驚き、怖れ、憂えている人々の罵る声を聞いてみるとこうです。世にはだいそれた奴があればあるもので、江戸のあるお大名の奥方を盗み出して、たしかにこの町あたりまで入り込んだ形跡があるようで、江戸の市中の取締が轡を並べて追いかけて来たということです。いや、それは奥方ではない、お部屋様だという者もありました。ともかくも諸侯の秘蔵の
その探索の手にかかった町民の迷惑というものもまた容易なものではありません。泊り合せた旅人どもの迷惑というものも容易なものではありません。まして婦人の
「茂ちゃん」
「何だい」
「府中の町は今、上を下への大騒ぎをやっているね」
「そうか知ら」
「何か大変が出来たのに違いない」
「何だろう」
二人もまた安き心がなく、自分たちの追われた府中の町をながめて、茂太郎は立ったまま、弁信は坐ったままで、伸び上っているけれど、その騒ぎの要領を得るには少し離れ過ぎています。
「いけない、お月様まで隠れてしまった、さっきまで
「琵琶は止めにしよう、ね、茂ちゃん、こんな日に無理をすると悪いから」
さすがの弁信法師も、再三の故障に気を腐らして、琵琶を弾くのを断念したようです。茂太郎もまたそれが穏かだと思いました。弁信はせっかく琵琶を弾くことを断念して、静かにそれを袋に納めました。
十
府中の宿のこの大騒ぎの避難者の一人に、がんりきの百蔵があります。こういう場合において、この男は避難ぶりにおいても、抜け駆けにおいても、決して人後に落つるものではない。手が入ったと聞いて、自分が泊っていた中屋の二階から、屋根づたいに姿をくらましたのは、例によって
そうして、まもなくすました
「お
「はい、はい」
道中師で通っているがんりきの百蔵は、ここの渡し守のおやじとも
渡し守の小屋の中へ身を納めて、土間に燃えた焚火の前へ腰をかけ、おもむろに腰の煙草入を抜き取った時分に、程遠からぬ街道の騒動が、渡し守のおやじの耳に入って来たものです。
「何だい、ありゃ、えらく騒がしいじゃねえかな」
寝ていたおやじが起き直ると、がんりきは、さあらぬ
「お
「え、府中の宿が上を下への大騒ぎだってな? なるほど、馬で人が駆けるわな、夜中に馬で飛ばす騒ぎは只事ではござるめえ」
おやじは、むっくりと起きて心配そうです。
「只事じゃねえ、府中の町をひっくるめて、一軒別に家さがしが始まってるんだぜ」
「へえ、一軒別に家さがし……なんです、泥棒ですか、
「さあ……」
がんりきは尋ねられて、はじめて当惑しました。実は、脱出ぶりの
「それじゃ親分済みませんが、今夜はひとつここに泊っていておくんなさいまし、わしはこれから
おやじはがんりきに留守の小屋を託して、渡し守の小屋を出て行ってしまいました。
日野の渡しの渡し守の小屋は、江戸名所
その弁慶には焼いて串にさした
酒はおやじの蓄えを知っている。自在につるした鉄瓶も
「南条先生も、ずいぶん人が悪いや」
とつぶやいてニヤリと笑う。
それから
何かしら、昨夜、この男、相当のいい夢でも見たものか、寝起きの機嫌がそれほど悪くはなく、
「南条先生も人が悪いが、がんりきをがんりきと見込んで、けしかけるなんぞは隅には置けねえ」
しきりに南条なにがしが口頭に上ってくるのは、その以前、相模野街道で南条なにがしから、がんりきの百蔵がこういって
「親方、お留守を有難うございました、いやはや、昨晩は話より大騒ぎでしたよ」
その時がんりきは、もう起き上って火を焚きつけていました。
そこでがんりきはなにげなく、
「お
「乱暴な奴もあればあるもので、あるお大名の殿様のお
「え……」
「お江戸から、その殿様のお妾を盗んで来て、なんでも、たしかにこの府中のうちに泊ったにちがいないと
「ナニ、何だって」
「それをお前さん、あとから追いかけてきたもんでがす、何しろ、殿様の御威勢ですからね、二十人ばかりのお侍が馬を飛ばせて江戸から、これへ追いかけて来たんだそうで……」
「ま、待ってくれ。してみると昨晩の
「どういたして、殿様のお妾なんです、お大名のお部屋様を連れ出した奴があったんだそうでがすから」
「そいつはなかなか
「大事にもなんにも、浄瑠璃や
「やれやれ」
ここまで聞いてみると、どうやら、がんりきの胸が穏かでなくなりました。大名のお部屋様を
「そうして、お
「ところが、つかまらねえんでがす、たしかにこの府中の町へ入ったはずなのが、どこをどうして逃げたか、いっこう
「おやおや」
がんりきとしては、首尾よく逃げ
「それで何かえ、そのお妾を盗まれたという殿様はいったい、どこの何という殿様だか、それを聞いて来なすったか」
「それが、その酒井様の……」
「ナニ、酒井様?」
「ええ、出羽の庄内の酒井様」
「何だって」
がんりきが飛び上ったのは、よくよく胸にこたえるものがあったと見えます。
「ええ、出羽の庄内で十四万石、酒井左衛門尉様のお手がついたお部屋様を、悪者が盗み出して、そうして、この甲州街道を逃げたということですよ」
「やい、ばかにするな、そのことならおれが知ってるんだ」
がんりきは眼の色を変えて飛び出そうとするから、渡し守のおやじが
「親方、お前さん、それを知っておいでなさる?」
「知ってるとも。知らなけりゃ、どうしてこんなことが聞いていられると思う、ばかばかしいにも程があったもんだ、
こういって、がんりきの百蔵は道中差をつき差すと共に、小屋の外へ飛び出して、いきなり多摩川の流れで、ゴシゴシと自分の
十一
やや暫くあって、村山街道の方面から、八幡太郎の
多摩川べりから大廻りに廻って、宵に逃げ出したあぶないところへ、再び足を踏み入れようとするこの男の心の中は、渡し守から聞かされた昨夜の事件の内容で、自分ながら呆気に取られると共に、むらむらと例によっての功名心に油が乗り、わざわざこうして取って返したもので、取って返した以上は、必ずしるしを挙げて、我ながら気の利いて間の抜けた昨夜のしくじりを取り返そうという自信のほどが、鼻の先にうごめいている。
「いけねえ、
八幡太郎の欅並木のとっつきで、草鞋のちの切れたのを舌打ちして
「これ、これ、これを御無心申すことだ」
といって百蔵は、堂の前へやって来て、自分の草鞋を脱ぎ捨て、奉納の草鞋を抜き取り、それに紐を通して、例の片手で器用に
「いつ見ても、この欅並木はたいしたものだ、八幡太郎が奥州征伐の時に植えたということだが、八幡太郎は今から何年ぐらい前の人だか知らねえが、まあ、ざっと千年も経つかな、見たところ、千年は経つまいがな、何しろ、欅としては珍しい方だ。
がんりきの百は、この時したり
「ちぇっ」
合羽の裾が何かにひっかかって、それで足をすくわれたものと、いまいましがって外しにかかると、
「おや?」
といって百の面の色が変ったのは、単に出そこなった釘の頭や、材木のそそくれにひっかかったのではない、刀の
「誰だい、こりゃあ」
さすがのやくざ者も、これには少しばかり
「誰だい、こんな
抜き取った小柄を手にして、堂の後ろを見込んで呼びかけてみたが、がんりきの心持では、こういう悪戯をする奴はほかにはない、七兵衛の奴が後ろに隠れていてやったのにきまっている、一杯食わされたなという心持で呼んでみたのですが、
「がんりき」
といって、物騒がずに堂の後ろから姿を現わしたのは、意外にも七兵衛ではありません。形こそ七兵衛に似たような旅人の風はしているが、第一、七兵衛よりは物々しい声であって、全く七兵衛とは別人に相違ないから、ここでもがんりきの百が見当外れで、
「え……」
「どうだ、がんりき、おれを知ってるか」
といって、笠の紐へ手をかけて、そろそろと出て来ました。
「やあ、あなた様は……そうだ、水戸の山崎先生でございましたな」
「うむ、驚いたろう」
「全く驚きましたね、わっしはまた、てっきり七兵衛の奴とばかり思っていたものですからな。先生、なかなかお人が悪い、時節柄ですから、ずいぶん驚いてしまいましたよ、どうかお手柔らかにお願い致したいものでございます」
「別段、貴様をおどかしてみるつもりもなかったのだが、張っておいた網に貴様の方からひっかかったようなものだから、ふしょうしろ。実は、もう少し大物を引っかけるつもりで張った網だが、いやなみそさざいがひっかかったので、おれも少しうんざりしているのだ」
「みそさざいは恐れ入りました」
「ところで、がんりき、おれがこうして網を張っているわけも、また貴様がこうして、あぶないところへ近寄りたがるわけも、大概はわかっているはずだが、ここで計らず、二人がめぐりあったのは、六所明神のお引合わせかも知れないぞ」
「どう致しまして」
がんりきは額へ手を当てて苦笑いしました。今まで自分は南条、五十嵐の方の手先をつとめて、この山崎――この人はもと新撰組の一人で水戸の浪士、香取流の棒をよくつかう人――に
「がんりき、昨夜のあのいたずらは誰の仕事だ、貴様はよく知っているだろうな、知らないとは言わせんぞ。あれは南条力と五十嵐
山崎譲はグッと近く寄って来て、小柄を持っているがんりきの小手を、しっかりとつかまえてしまいました。
「その事、その事なんでございます、実はがんりきもその事で、出し抜かれたんでございますからなあ」
何をか言いわけをしようとするのを、山崎は許すまじき色で手首を持って引き寄せました。
がんりきの百蔵も、この人にとっつかまっては弱りきっているのを、山崎はグングンと引張って、
「がんりき、貴様はこの間、南条なにがしの案内をして相模野街道を南へ歩いていたそうだが、あれはどこへ行ったのだ」
「白状してしまいますから、どうか、そう強く手を引張らないようにしていただきたいものです、片一方しかないがんりきの手がもげてしまうと、かけがえがねえんでございます」
がんりきの痛そうな
「うむ、
「素直に申し上げるまでもございません、あれは、たあいのねえことなんです、ほんの道連れになっただけのものでございます」
「まだトボけているな」
「お待ち下さい、私の方ではたあいのないことなんですが、先方様の
「その案内の道筋というのは、どっちの方角だった」
「それは……その、八王子から平塚街道を厚木の方へ出る道をたずねられたものですから、その案内をして上げました」
「いや、そうではあるまい、貴様は南条なにがしの手引をして、
「ええ、それは違います」
「違うはずはない、
「違います、あの方は果して厚木へおいでになったか、それとも荻野山中の大久保様の御城下とやらへおいでになったか、そのことは一向存じませんが、かく申すがんりきは途中からお
「がんりき、貴様は、南条、五十嵐の一味が容易ならぬ陰謀を企てていることを知って彼等に
「どう致しまして、あの先生方が、どういう大望を企てて、どういう陰謀をめぐらしているのだか、私共にはそんなことはわかりません、出たとこ勝負で、頼まれるままにいい気になって、附いたり離れたりしているまででございます」
「そうすると貴様は、あの者共のダシに使われているだけだな」
「そうでございますとも、ダシに使われているだけの罪のねえのでございますから、どうかお手柔らかに願いたいんでございます。いや、あの南条先生ときては、あれでけっこう人が悪いんだからな。さりとて、今度のことはあんまり人をダシに使い過ぎらあ」
「うむ、ダシに使われていると知ったら、それを出し抜いて、裏を
「そういう芸当は、大好きなんですがね、何しろ、あちらとこちらとでは役者が違いますからなあ」
といって、がんりきがポカンと口をあいて見せたのは、かなり人を食った振舞です。山崎はなんと思ったかがんりきの手を放して、
「よし、それではがんりき、もし貴様が南条、五十嵐の方で買収されているなら、こっちでもう一割高く買ってやろうではないか。先方の後立てはたかの知れた大名、こっちは二百五十年来、日本を治めて来た八百万石の将軍家のお味方だ。ともかくもこっちへ来い、人目のないところで、もう一応、貴様を吟味してみたり、また貴様の手を借りてみたいと思うこともあるのだ」
といって山崎譲は、がんりきの手から小柄を取り戻し、百蔵を
十二
吉原の万字楼の
この傷が、妙にピリピリと痛んで眠られないのです。傷が痛むだけではない、良心が痛むのでしょう。
「起きていらっしゃるの」
障子を半ば開いて笑顔を見せた女。
「ああ、眠れないから」
兵馬は正直に答えました。そうすると女は、うちかけを引いて中へ入って来て、
「お怪我をなさったの」
「少しばかり」
「どこですか」
「この小指」
兵馬は巻きかけた右の手の小指を、女の眼の前に突き出すと、
「まあ」
と女は美しい
「痛みますか、どうしてこんな怪我をなさいました」
「この間あるところで」
「お転びになったのですか」
「いいえ」
「それでは戸の間へ、はさまれたのでしょう、あれはあぶないものです」
「そうでもありません」
「巻いて上げましょう」
女――この兵馬の
「宇津木さん」
手際よく繃帯を巻きながら女は、やさしく問いかけますと、
「何です」
「あなたは、隠していらっしゃいますね」
「何を」
「何をとおっしゃって、あなた、このお怪我は、ただのお怪我ではありません」
「ただの怪我でないとは?」
「よく存じておりますよ、あなた様のお連れの方々のお
「なにも、出来はしないよ」
「いいえ、お出来になることはよくわかっています、そのあなた様が、たとい、これだけにしても、手傷をお負いになるのは、よくよくのことでございます」
「そういうわけではないのだ」
「ほほ、そういうわけとおっしゃっても、まだそのわけを言わないじゃありませんか、あたし、最初から、あなた様の御様子のおかしいことを、ちゃんと見ておりました」
「ふむ」
「あなたは斬合いをなすっておいでになったのでしょう、あなたほどの方ですから、きっと先の人を斬っておしまいになって、その時に受けた手傷がこれなんでしょう、わたしはそう思います」
「そうではない、ちょっとした怪我だ」
兵馬は極めて怪しい打消しをすると、女はこの怪我をした指先を、ちょっと握って、
「にくらしい」
「ああ痛ッ」
兵馬はほんとうに痛かったのです。
「弱い人ですね、そんなことでは
東雲はあやなすようにいったのを、兵馬はかえって意味深く聞いて、
「全く……」
東雲はしげしげと兵馬の
「それでは隠さずにいってしまおう、いかにもこの傷は人から受けた傷なのだ、しかし、斬合いをして斬られた傷ではない、人から打たれた傷なのだ……傷は僅かながら、残念でたまらないのは、受けなくともよい傷を、無理に受けたようになる鍛練の未熟が恥かしいのじゃ」
兵馬は心から残念がって、その時のことを眼に見るように思います。
尺八を持って月下にさまようていた人。それを普通の
「今日は暇乞いのつもりで来ました。それについて、そなたへ打明けてのお願いがある、とりあえずここへ僅かながら
といって兵馬は、
「まあ、足もとから鳥の立つように。旅にお出かけなさるのですか……そうしてこのお金を、わたしに預かれとおっしゃるのは?」
「かねがね話してもおきました通り」
兵馬は思い切って語り出でようとする時、廊下に人の歩む音があって、
「東雲さん、東雲さん」
「はい」
その声を聞くと女が、そわそわと立ち上り、
「少しの間、待っていて下さい」
にっこりと愛嬌を見せて行ってしまいました。
その翌日、結束して江戸を離れて、例の甲州街道の真中に立った宇津木兵馬。
今夜こそは、と思い切って出かけてみたが、
それがいかにも残り惜しいのである。とはいえ、もう自分があの女を人手に渡したくないという心は、よく通じているはずである。さればこそ女の手許に預けた一包の金、事情は語り残したけれども、それが何を意味しての金だか、女が充分に推量している、と兵馬は、それを自ら慰めつつ、歩くともなく歩いているのです。
その時、女に預けた金。どうして彼は今の浪々の少年の身でそれを得たか。それはまさしく南条力の手から出でたもの。
南条力は、絶えず自分の仕事の邪魔者である山崎譲を亡きものにしたいと思っている。南条の心持では、あえて山崎一人を敵とするのではないけれど、この男あるがために、ややもすれば大事の裏をかかれようとする。それが苦手で、ついに宇津木兵馬を
兵馬とても、理由なしに唆かされて、それに応ずるほどの愚か者でなし、ことに山崎は京都にいた時分には、同じ
兵馬はこうして、山崎譲を斬りに行く。彼を斬ることは必ずしも難事とは思っていないが、彼を斬るの理由を見出すことに苦しんでいるのです。意義のない仕事には必ず苦悶がある。いかに有利な条件も、その苦悶を救うに足らないことに悩まされている。
頭を挙げて見ると、秋の武蔵野には大気が爽やかに流れて、遥かに秩父の連山。その山々を数えて見ると、武州の
そこで流した兄の血潮はまだ乾いてはいないのに、その恨みは決して消えてはいないのに、それを
宇津木兵馬は、まだ
猿渡氏の家は、兵馬にとっては旧知の関係があって、兵馬の不意の来訪を喜び、それからそれと話が尽きませんでした。
そのうちに、このごろは世の中が物騒で、この
風呂に入り、夕飯も済み、いざ寝ようという場合に、兵馬はちょっと
なるほど、そこには火鉢を囲んで、七八人の人が集まって雑談に
「いや、その前の晩じゃ、拙者が、陣街道を三千人まで来た時分に、河原のまん中に当って異様の物の音がする、はて不思議と耳をすましていると、それが琵琶の
この浪人者は、むしろ新来の兵馬に聞かせるつもりで、兵馬の横顔を見ながら語り出でました。
「へえ、河原で琵琶が聞えましたかね」
とそれにあいづちを打ったのは兵馬ではなく、力自慢で頼まれた若い者。
「たしかに琵琶が聞えたよ、聞ゆべからざるところで琵琶の音がしているから、拙者も不審に思って、立ちどまって耳を傾けている間に、例の人馬の音で、この町が物騒がしくなったから急いで駈けつけたのだが、なんにしても、あの陣街道は
「鬼哭啾々というのは何です」
誰かが抜からず反問したのを、浪人は無雑作に、
「それはお化けの出そうなものすごいところという意味だ。何しろ、
兵馬は、それを聞いてしまってから、この座を立って寝に行くかと思うとそうではなく、まもなく番屋の門を出でた兵馬は、身には
兵馬が誰にも怪しまれなかったのは、
笠と合羽を用意して出たのは、空模様をもしやと気遣ったのみでなく、それが身を隠すに都合がよかったからで、ことに長い刀は見えないようにと苦心して、悠々と府中の宿を西へ一通り歩み抜けて裏へ出ました。
裏へ出るとまもなく、問題の分倍河原です。河原一面に
鬼哭啾々のところ、ここで前の晩、時ならぬ琵琶の音が聞えたと、さいぜんの浪人者がいいました。兵馬は河原道を陣街道の方へ出ようとして、そぞろに進んで行くと、河原の中に一つの大きな塚がある。三千人の塚というのは多分これか知らと、兵馬は塚の下にたちどまって、
その時に兵馬は、自分が今までとはまるで別の世界へ持って来られたように感じて、画中の人という気分にひたってみると、なんだか知らないが、
ここは武蔵の国府の地。東照公入国よりもずっと昔、平安朝、奈良朝を越えて、神代の時に
こういう弱い心を鞭打つには、こういう静かなところへ来てはいけない、と兵馬は、陣街道を真直ぐに、またも府中の宿へ足を向けました。
十三
兵馬はそこを引返して、
もとよりここは、甲州街道の道筋では、一二を争う宿駅の一つ。まだ宵の口、幾多の人馬が往来することに、
「危ない」
棒を持ったのが、それを制止しようとした途端のことです、
「やあ」
これは、どちらが先に言ったのか、
「君は……」
棒を持ったのが踏み留まると、同時に乗物も、これを擁護した物々しい一行も、たじろいでしまいました。
「君は、宇津木兵馬ではないか」
「おお、山崎!」
そこで、おたがいが、やや離れて棒のように突立ったものです。
乗物を守った数名のさむらいたちが、早くも血気を含む。
「宇津木、君は今頃、こんなところに何をしているのだ」
乗物の先を払って来たその人は、まさしく山崎譲でありました。
「山崎氏、君こそどこへ行かれるのだ、そうしてその乗物は?」
兵馬は反問しました。その時は、充分に足場をみはからっていたものらしい。
「どこへ行こうとも君の知ったことではないが、僕の方から、君には充分に聞いておきたいことがあるのだ、いいところで逢った」
といって山崎は、乗物と、それを守る人々を見廻して、
「君たち、拙者はこの少年にぜひ聞いておきたいことがあるのだが……」
それから六所明神の鳥居の中に眼をつけ、
「暫く、あれで待っていてくれ給え」
山崎の差図通りに、乗物は、鳥居から明神の
しかし、山崎は甚だ騒がぬ
「宇津木」
と言葉をかけて、一足近寄って来ました。
「宇津木、君は何か非常に心得違いをしているらしい、ナゼ君は拙者を殺そうとしているのだか、その理由が一向にわからんので、僕は迷っている。考えても見給え、君と拙者とは、壬生の新撰組で同じ釜の飯を食った仲ではないか、それ以来、拙者は何か君に怨まれることをしたのかな」
こういわれてみると、兵馬は返すべき言葉がないので、ぜひなく、
「私の怨みではない……」
といいますと、すかさず山崎は、
「私の怨みでなければ何だ」
兵馬は、この場合、たしかにやや逆上していました。
「ある人に頼まれたのだ」
「人に頼まれた? ばかな!」
山崎は、カラカラと笑うと、いっそう激昂した兵馬は、
「山崎氏、君にはなんらの怨みとてはないが、君が邪魔をするために、国家の大事を誤るといって
「まあ、待て、待て。君を頼んだというその人も、こっちではちゃんと見当がついている、その人たちがほんとうに国家を憂いている人か、あるいは乱を好む一種の野心家に過ぎないか、君にはそれがわかっているのか」
「わかっている」
「わかっている? では、あの連中が本当の憂国者か」
「少なくとも、君等の見ているよりは、広く今の時勢を見ていることだけは確かだ」
「宇津木、君はいやしくもいったん新撰組に籍を置いた人として、この山崎譲の前で本心からそれをいうのか」
「無論のこと」
「そうなると、君は我々同志に縁のあるものを、残らず敵とするのだが、それでいいか。拙者だからいいようなものの、他の同志の中で、その一言を吐けば、君はその場で乱刀の下に、血祭りに上げられることを知っているだろうな」
「拙者は、
「うむ、君が本心からそれを言うならば、我々は今後、君を待つのに裏切者を以てしなければならぬ」
「拙者はあえて裏切りをした覚えはない」
「昨日は我々の組の世話になり、今日はまた西国浪人どもの手先をつとめる卑怯者!」
「卑怯者とは聞捨てがならぬ」
兵馬はムッとして怒りました。その怒りは心頭より発したる怒りではなく、
さいぜんからの事の行きがかりを、彼等は
「まあ、待ち給え、諸君」
「山崎氏、緩慢至極で見ていられぬ」
「待ち給え、これは僕の旧友で、宇津木兵馬……」
そこで改めて兵馬の方へ向き直り、
「宇津木君、まあ、そこへ掛け給え」
山崎譲は自分が先に
「この間、四谷の大木戸で、君は罪のない者を斬ってしまったな、よく考えて見給え、あれは飛脚渡世の者で、家には養わねばならぬ妻も子もあるのだ、ああいう者を斬捨てて、君はいい心持でいるのか。いい心持ではあるまい、間違えられた僕でさえ、気の毒でたまらないから、通りがかりには、キットあの遺された家族の連中へ、見舞に立寄っているのだ。君の人となりもたいていは知っている拙者だ、無意味に人間の命を取って、それを興がる君でないことは、よく知っているつもりだ。それにもかかわらず、ああいうことをしでかした原因を推量してみると、宇津木君、君はこのごろ、女に迷うているのではないか。女に迷うと金に詰まる、これは切ってはめたような浮世の習いだ、君が、
と言って山崎は、棒を兵馬の前へ投げ出して、人数の中へハサまるが早いか、一団になって走せ去りました。
宇津木兵馬は、過ぎ行く乗物の一行を、その提灯の影が見えなくなるまで、茫然として見送っておりました。
「少々物をお尋ね致しとうございますのですが」
呼びさまされて見ると、自分の前に、見慣れない旅人風の男が立っております。
「何事です」
「ただいま、これへ一挺の乗物が通りは致しませんでしたろうか、ええと、たしか、源氏車の紋のついた提灯を持っておりましたはずで、お附添のさむらい衆が四五人、もっともその中に一人、さむらい
「ははあ、そのことか」
「その乗物は黒塗りでございました」
「それそれ」
兵馬はまだ、過ぎ去ったそのもののあとをながめているのです。
「いかがでしょう、通りましたでしょうか、通りませんでしたろうか、通りましたとすれば、どのくらい前のことでございましたろう、ぜひひとつ」
「なに、何をいわれた?」
「じょうだんではございません、ただいまこれへ、一挺の乗物が通りは致しませんでしたろうか、たしか源氏車の紋のついた提灯をつけて、お附添のさむらい衆が四五人、もっともその中の一人のお方が、さむらい姿でない棒を持ったお方と、こうお尋ね申しているんでございます」
「うむ、それか、それならば、たった今、ここを通った」
「有難うございます」
喜んで駈け出した旅人風の後ろ影を見送ると、その男の足の迅いこと、右の肩から腕へかけて、急にすべり過ぎている
「はて……」
乗物が怪しい! その瞬間に兵馬の
「兵馬様、兵馬様」
と呼ぶ声。それは七兵衛の声です。
例によって、笠をかぶって合羽を着た旅装の七兵衛は、鳥居の裏から出て来て、
「兵馬様、私はさいぜんから残らずこっちで承っておりました、山崎先生のおっしゃることが、いちいち
といって、兵馬とは向い合った鳥居の台石に腰をかけると、兵馬は、
「ああ、自分で自分の心がわからぬ」
「いったい、お前様は、ほんとうに山崎先生をお斬りになる
「いつもながら、そなたの親切は有難い。そういえば世間のことは、大抵は金で済むようなものじゃ、打明けていえば、拙者の迷うていることもその一つかも知れない、金があれば、ここまで深入りをせずともよかろうものをと思われないではないが……」
と兵馬はいいかけて、また
「それは何よりです、金で思案がきまることでしたら、及ばずながら私が骨を折ってみようではございませんか。いったい差当りお前様は、どのくらいお金がおありになればよろしいのでございますか」
「いいや、それはいうまい、いうたとて
「まあ、おっしゃってみて下さい、七兵衛の手で出来ればよし、出来なければ出来ないと申し上げるまでですから――」
「正直にいってみると、差当り三百両ばかりの金が要ります」
「三百両……」
七兵衛は、そこで、ちょっと黙ってしまったのは、むろん
「よろしうございます、私が、きっとその三百両をあなた様のために、三日のうちに
そこで兵馬が意外の思いをしているのを、
「お願いというのはほかではありません、あのお松のことでございます。あの子は私が大菩薩峠の上で拾って来た、かわいそうな
こういって改まって、お松という女の子の身の上を頼みます。
「それはよく心得てはいますけれども、今の拙者の身では、人の力になってやることができない」
「それは嘘でございます」
七兵衛は少しく膝を進ませて、
「人の力になってやるのやらないのというのは、心持だけのものです、あなたの心を、お松の方に向けてやっていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
「拙者の心持は、いつもあの人に親切であるつもりだが……」
「ところが、あの子の方では、わたしの親切が足りないから、兵馬さんに苦労をさせるのだと、この間も泣いておりました。私はお若い方に立入って、
といって七兵衛は、何か思い出したように台石から立ち上り、
「それでは、兵馬様、私はこれから三日の間に、あなた様のお望みだけのお金を調えて――そうですね、ドコへお届けしましょうか、ええと……浅草の観音の五重の塔の下でお目にかかりましょう、時刻は今時分、あの観音様の前までお越し下さいまし、その時に間違いなくお手渡し致します。今夜は雨が降るかも知れません、私はちょっと
といって七兵衛は、そのまま風のように姿を闇に隠してしまいました。
そこで兵馬は、社の木立の深い中をたどって、社務所の方へ帰りながら、
「わかったようでわからぬのはあの七兵衛という人だ、金を持っているのか、持っていないのか、トント判断がつかぬ。どこにか少なからぬ
と胸に問いつ答えつしていたが、やはり夢のようです。果して
うっとりとして、自分の足も六所明神の社内を、冷たく歩いているのではなく、魂は宙を飛んで、温かい
「あなたの心を、お松の方に向けていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
といまいい残して行った七兵衛の
十四
狭山の尽くるところに、狭山の池があります。その中に小さな島があって、ささやかな弁天の
七兵衛は弁天様にちょっと御挨拶をしてから、その縁の下を
七兵衛は池尻の松の大樹の林の中を鍬を提げて歩いて行き、
そこで煙草入を取り出して、
七兵衛はここへ、何物かを掘り出しに来たものに相違ない――この男は改めて説明するまでもなく、極めて足の
甲所で盗んだ金は乙所へ隠して置き、乙所で
兵馬は、今日まで、ずいぶんこの男の世話にはなっていたけれども、ただ、こういった義侠的の人に出来ているのだろうと思うよりほかは、考えようがなかったもので、果してこうと
果して七兵衛は、熱心に芝生の上を掘りはじめました。下は軟らかい
「兄貴、何をしているのだ」
悪い奴が来たもので、これはがんりきの百蔵が風のようにやって来て、いつか後ろに立っているのでした。
「百、何しに来たんだ」
悪いところへ悪い奴と思って、七兵衛が苦りきっていうと、百蔵は
「日光街道の大松原で、ふと兄貴の後ろ姿を見かけたものだから、こうしてあとをつけてやって参りましたよ」
「油断も隙もならねえ」
七兵衛が鍬をついてがんりきをながめていると、がんりきは、その鍬と七兵衛の掘り出した油紙包の箱と両方へ眼をくれながら、
「ひとつ折入って兄貴にお聞き申したいことがあって、それ故、おあとを慕って参りました」
「それはいったい、どういうことを聞きたいのだ」
「ほかでもありませんが、この道中筋を横と縦へ向って、今がんりきの百蔵がしきりに捜し物をして飛び廻っているという次第ですが、その捜し物というのは、兄貴の前だが……」
「わかってる、わかってる」
七兵衛は頭を振って、
「
「その御意見は有難えが、時のいきはりで、つい

