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大菩薩峠

如法闇夜の巻

中里介山




         一

 お君は、やがて駒井能登守の居間へ通されました。
 能登守の居間というのは、そこへ案内されたお君が異様に感じたばかりでなく、誰でもこの居間へ来たものは、異様の念に打たれないわけにはゆかないものであります。それは畳ならば六十畳ほどの広さを持った居間に、畳を敷いてあるのでなく、板張りにして絨氈じゅうたんのようなものが敷き詰められてありました。
 その広い室の中央と片隅とに卓子テーブルが置かれて、その周囲には椅子が置かれて、四方には明るく窓が切ってあります。
 長押なげしの上や壁の間には、いくつもの額が掲げられてありますが、どの額も、軍艦や大砲やまた見慣れない風景や建築の図案であります。それから書棚には多くの書物があります。その書物には洋式の書物が特にめだっているのみならず、書棚の隅や、本箱の上、また別に棚を作って、見慣れないさまざまの武器の実物と模型とが、無数に陳列されてあります。
 さまざまの武器といううちにも、ことに鉄砲が多く、ことに小銃にはいくつかの実物があり、大砲は模型として順序よく並べられてありました。
 旧来の屋敷を、こんなに能登守が好みで建築をし直したものだと、お君はそのくらいのことはわかりますけれども、そのほかのことは、めまぐるしいほどで、なんと言ってよいかわかりません。
 その卓子テーブルの近くの椅子の上へ腰をかけてよいのだか、また絨氈の上へ坐らねば失礼であるのだか、それさえお君にはわかりませんで、案内のあとに隠れてただポーッとして立ちすくんでしまったようです。能登守はその時、片隅の椅子に腰かけて卓子に向っていました。
 黒羅紗くろらしゃの筒袖の陣羽織を着て野袴を穿いていました。門番の足軽が言った通り、今まで調練の指図さしずをしていたのが、それが済んでからここへ来て、書物を開いて何か書いているのでありましょう。その書物は、やはり見慣れない文字の書物であります。それを見慣れた文字に書き直していたようであります。今まで広場で調練の指図をしていたという能登守は、それがために血色が活々いきいきとして、汗ばんだところへ黒い髪の毛が乱れかかっていました。
「よくおいでなされた、暫らくそれでお待ち下さい」
と言って、筆を持ちながら、お君の方へ向いて莞爾かんじとしたおもてには、懐しいものがあります。
「はい」
 お君は、やっぱり立ち場に困って、椅子へ腰をかけるのは失礼であろうし、そうかと言って、絨氈の上へ坐って笑われはすまいかとの懸念けねんで、真赤になって立ち竦んでいるのみであります。
 駒井能登守は和蘭オランダから渡った砲術の書物を、いま自分の手で翻訳しているところであります。ちょうどそれを程よいところでクギリをつけてから筆をさしおいて、その椅子から立ち上って、
「お君どの、よく見えましたな、一人で……」
と言って能登守は、真中にある方の大きな卓子テーブルの方へ進んで、
「さあ、それへお掛けなさるがよい」
「はい」
 能登守は、お君に椅子をすすめながら、自分も椅子にりました。お君はようやく、その椅子へ腰を卸して、能登守と卓子を隔てて座にはつきましたけれど、恥かしいやら恐れ多いやらの感じで、胸がいっぱいです。
「先日は結構な下され物を、まことに有難う存じました」
 やっとの思いで、お君はこれだけのお礼を、能登守の前へ申し述べたのであります。
「ナゼお前は、わたしのところへ来てくれない」
と能登守は砕けてこう言いました。その言葉の温かみは感じたけれども、その意味がお君には、よく呑込めませんでした。
「お礼に上ろうと存じましても、あまり恐れ多いものですから……」
 お君は、おどおどとして申しわけをしました。
「お前がわしのところへ来てくれると、わしは嬉しいけれども、伊太夫の家で、お前を放すことはできぬというからぜひもない」
と能登守は、お君の横顔を見ながらこう言いました。この一語は、少なからずお君の胸を騒がせました。今までは身分の違う人の前と、見慣れぬ結構の居間へ通されたことから、気がわくわくしていたのですけれども、能登守の今の一言ひとことは、それとは全くちがった心でお君の胸を騒がせました。
「わたくしは左様なことを、いっこう承りませぬ、主人からも、そのようなお沙汰のあったことをお聞き申しませぬ故に……」
「ナニ、それを聞かぬ? では、わしがお前の身の上について、伊太夫へ頼んでやったことが、お前の方へは取次がれんのじゃな」
「はい、どのような御沙汰でございましたか……」
「それは不審」
 能登守は美しいおもてを少しく曇らせました。お君はハラハラとした気持が休まりませんでした。やがて能登守はこう言いました。
「ほかではない、わしのところはこの通り女手のない家、それ故に伊太夫の方でさしつかえのない限り、お前にわしの家へ来て働いてもらいたいがどうじゃと、家来をして申し入れたはず、それを伊太夫が断わって来た」
「まあ、そんな有難い御沙汰を……どうして旦那様が」
 お君は当惑に堪えないのであります。御支配様からの御沙汰をおけをするとしないとにかかわらず、左様な御沙汰があったならば、一応は自分のところへお話がなければならないはずだと思いました。いくら主人だといっても、自分の身の上の御沙汰を、途中で支えてしまうというのは道理のないことだと思いました。さりとて、あの大家の旦那様が左様なことをなさるはずもなし……その時、はたと思い当ったのはお銀様のことであります。あ、それではお銀様の仕業しわざと、すぐにこう感づいてしまいました。
 殿様から御沙汰があると、旦那様は必ずお銀様へその御沙汰のお伝えがあったに違いない、それをお銀様が、あの気性で、わたしに話なしに御一存でお断わりなすってしまったに違いないと、お君はすぐにそう感づいてみると、お銀様に言われた言葉がいちいち思い当るのであります。お前が行けば殿様は喜んでお会い下さると、お銀様が断言したこと、そこに何かの確信があるような言いぶりがお君によく思い合わされると共に、殿様はお前を好いている……と言ったお銀様の言葉、薔薇ばらのような甘い香と鋭いとげとが、ふたつながら含まれていたのも漸くわかってくると、お君は我知らずポーッと上気してまたもかおが真赤になりました。そうして、お銀様の仕打ちが憎らしくなってたまりませんでした。
「わたくしは初めて承りました、殿様からそのようなお沙汰のありましたことを、わたしは今まで存じませんでございました」
 お君は自分の冤罪えんざいを申し開きするような態度でこう言いました。
 お君が、自分の冤罪を主張するように熱心になったのを、能登守は意外に思いました。
「お前がそれを聞かない――では伊太夫がお前に伝えることを忘れたのであろう」
と言いました。
「左様でございましょうか知ら」
とお君が本意ほいないように言いました。
「伊太夫が承知をすれば、お前はここへ来てくれるか」
と能登守は頼むように優しい言い方であります。
「それは御主人の方さえ、お暇が出ますれば……」
とお君は、我ながら出過ぎたように思い直しました。
「それでは、もう一度、伊太夫に頼んでみよう」
 お君は、やはりその言葉を有難いことに思いました。けれども、まだそこに一つの故障があることを同時に考えさせられないわけにはゆきません。その故障というのはお銀様のことであります。旦那様は御承知があっても、お銀様が何というかとそれが心配であります。しかしそれとても、どうにか言いこしらえることができるものと安んじておりました。
 お君は、今この優しい言葉を聞き、これから始終、この殿様の傍につかえることができるという嬉しさに、胸がいっぱいであります。それがために胸がいっぱいで、おのれの身分を考える余裕よゆうもありませんでした。また何のために自分がここに来たかという使命の程も忘れてしまっていました。やがてそれを考えついた時に、お君は悲しい心持がしました。悲しい心持があわてる心持でせきたてられました。それで、幸内の行方不明になったことを逐一ちくいち申し上げて、お頼みをしなければならないと思いました。
 お君はようやく、そのことの一切を能登守に物語りました。幸内が伯耆の安綱といわれる刀を持って出て家へ帰らないこと、それがためにお嬢様がいちばん心配していらっしゃること、幸内はこの城内のどなた様かへお目にかけるつもりでその刀を持って出たらしいこと、どうかお嬢様のために殿様のお力添えをお願い申したいということを、お君は嘆願したのであります。
 能登守は黙ってそれを聞いて、何か考えているだけで返事をしません。しかし、それだけのお願いを申し上げておけば、お君のここへ来た使命は尽きたわけであります。
 お君がお暇乞いをして帰ろうとする時に、能登守は立って一方の机の上から、一つの小さな箱を取って、
「まだ帰らんでもよかろう、お前に見せたいものがある」
 そのふたを取って、お君の前に置きました。
「まあ、これは、殿様のお姿……」
と言って立ちかけたお君は、この箱の中にあった絵姿に見入ってしまいました。これは絵姿ではありません。けれども、お君は、絵姿だと思って、
「ほんとに、お生写いきうつし……どうしてこんなに上手にかけるものでございましょう」
と我を忘れて驚嘆したのであります。
「それはかいたのではない」
と能登守は微笑しました。けれども、お君にはその意味がわかりませんでした。
「恐れながらこちらのは、殿様、こちらのお方は……」
 お君の見ている絵姿には、二人の人の姿が写し出されてあるのであります。その一人はこの能登守、もう一人は気高けだかい婦人のすがたでありました。
「それは、お前によく似た人」
 この時のお君が写真というものを知ろうはずがありません。眼に見たことはおろか、話にさえ聞いたことはありません。
「それは、お前によく似た人」と言われて、お君の胸は何ということなしに騒ぎました。念を推してお尋ねするまでもなく、これは殿様の奥方でいらっしゃるとお君はさとりました。
 お君は奥方のお像をじっと見入って、「お前によく似た」とおっしゃった殿様のお言葉が、おからかいなさるつもりのお言葉ではないと、お君は自分ながら、そう思いました。おのれの容貌を買い被るのも女であるし、己れの容貌をよく知るのも女であります。
「それは写真というもので、筆や絵具でかいたのではない、機械でとって薬で焼きつけたしょうのままのすがたじゃ、日本ではまだ珍らしい」
 絵姿だとばかり思って、お君があまり熱心に見恍みとれているものですから、能登守が少しばかり説明を加えますと、
「これはかいたものではございませんか。まあ、機械で、どうしてこんなによくお像を写すことができるのでございましょう、切支丹きりしたんとやらの魔法のようでございます」
「そうそう、最初はそれを切支丹の魔術と思うていた、今でもその写真をとると生命いのちが縮まるなんぞと言うものが多い、けれどもそれは取るに足らぬおろかな者の言い分じゃ」
「ほんとにお珍らしいものでございます」
 お君はその写真を飽かず見ておりました。自分は今お暇乞いをして立とうとしていることも忘れて、写真から眼をはなすことができません。
「それをお前が欲しいならば、お前に上げてもよい」
 能登守からこう言われた時に、かおを上げたお君の眼は狂喜にかがやいて見えました。

 こうしてお君は能登守から、箱に入れたまま紙取りの写真をいただいて帛紗ふくさに包み、後生大事ごしょうだいじに袖に抱えてこのお邸を立ち出でました。
 それから御門まで来る間も、お君は嬉しさで宙を歩んでいるような心持です。その嬉しさのうちには、やはり胸を騒がせるようなおののきが幾度か往来ゆききをします。その戦きはお君にとって怖ろしいものでなく、心魂しんこんとろかすほどに甘いものでありました。
「わたしは、あの殿様に好かれている、あの殿様は、わたしを憎いようには思召していない、たしかに――」
 お君は身をゆすって、そこからおのれの心の乱れて行くことを、更に気がつきません。
 ましてや、お君は、お銀様に頼まれて来たことも、そのお銀様がおほりの外で待ちこがれておいでなさるだろうということも、この時は思い出す余裕がありませんでした。さいぜん親切に案内された門番へさえも、一言ひとことも挨拶をしないで門を通り抜けようとして、門番から言葉をかけられてようやく気がついて、あわててお礼を言ったくらいでありました。
 橋を渡って、お銀様を待たせた柳の樹のところへ来て見たが、そこにお銀様の姿が見えませんでした。
「お嬢様は……」
と言って、お君はそのあたりを見廻しましたけれども、そのあたりのいずれにもお銀様らしい人の影は見えません。
 その時に、お君は自分が能登守の前に、あまり長くの時をついやしたことを考えました。待たせる自分は嬉しさに包まれて時の移るのを知らなかったけれど、待たせられたお嬢様にとっては、ずいぶん長い時間であったろうと気がつきました。

         二

 これより先、お濠の岸に立ってお君の帰るのを待っていたお銀様は、そのあまりに長いことに気をいらだちました。
 役割の市五郎が傍へ寄って来た時に、お銀様は振返ってそれをにらみました。市五郎はなにげなくそれをらして行ってしまったが、お銀様がそれを忘れてやや久しいのに、お君はまだ御門から出て来る模様がありません。
 お銀様はお城の方を睨んで、荒々しく足踏みをしました。それからお濠の岸を、あっちへ行ったりこっちへ帰ったりしていました。
 そうすると、問屋場の方から五六人かたまって私語ささやきながらこっちへ来る者があります。それは例の折助連おりすけれんであります。
 自分で無理にすすめてくるわの中へやっておきながら、お銀様はれて焦れてたまらなくなっていました。自分を平気でこんなに待たせておくお君をのろうような心持になって、城の方ばかり睨んでいましたから、この五六人の折助連が私語ささやきながらこっちへ近づいて来ることも気がつきません。
 そうしていると、折助の一人が、ふらふらと歩いて来て、お銀様に突き当るようにしてすれ違って、
「危ねえ、危ねえ」
と言いましたから、お銀様も気がつくとその折助は酔っていて、足許も定まらないようであります。お銀様は驚いてそれをけました。それを避けるとその次に、また一人の折助が通りかかって、同じようにお銀様に突き当ろうとしました。お銀様は、また驚いてそれを避けると、第三番目の折助が、とうとうお銀様にぶっつかってしまいました。お銀様は危なく足を踏み締めますと、
「やい、気をつけやがれ」
とその折助が言いました。わざとする乱暴さに、お銀様は口惜しがって折助どもをにらめて立っていました。お銀様の眼つきは、ことさらににらめないでも、いつも怒気を含んでいるように見えるのであります。
「へへへへへ、これはこれは」
と言って折助は急に、ふざけた声色こわいろを使って、頭巾で隠してあるお銀様の顔をワザとのぞき込むようにして、
「お女中のお方でいらっしゃる、それとは知らず飛んだ御無礼」
 なんぞと言って、またまたワザとらしい声色と身ぶりでお辞儀をしました。
 お銀様は、それを見ないでぷいと向き直って歩き出すと、
兄弟きょうでえ、どうしたんだい」
と言ってほかの折助が寄って来ました。
「いや、このお女中に飛んだ失礼をしてしまったんだ、ツイ足がよろめいたために、このお女中に突き当ってしまったから、今、謝罪あやまっているところなんだ、兄弟、なんとかとりなしてくんねえ」
と、前の折助がこんなことを言いました。
「そいつは悪いことをした。まあ、どちらのお女中さんか知らねえが、この野郎は、平常ふだんから軽佻かるはずみな野郎でございますから、ナニ、別に悪い心があってするわけじゃございません、どうぞ御勘弁してやっておくんなさいまし」
 ほかの折助が、これもまたワザとらしい身ぶりと声色で、揉手もみでをしながら、お銀様の方へとかたまって来るのであります。
 お銀様は腹を立てました。無礼にも無作法にも限りのないやつらだと、口惜しくてたまりませんでした。それだから黙って彼等を振り払って行こうとすると、その前へ廻り、
「どうか、御勘弁をなすっておくんなさいまし」
 それを振り払って、また進んで行くと、
「野郎が、あんなに謝罪あやまるんだから、どうか御勘弁をして上げておくんなさいまし」
 お銀様は心の弱い女ではありません。どちらかと言えば気丈な女であります。それだからこれらの無作法な折助に一言も口を利くことをいやがりました。それを振り払って避けようとしました。
 折助どもはそれを前後から取捲くようにして追いかけるのは、どうも何か計画あってすることとしか思われません。
「これほど謝罪あやまっても、何ともお許しが出ねえのは、よくよく見倒された野郎だ」
と折助の一人が言いました。
「ナーニ、お女中さんが縹緻きりょうがよくっていらっしゃるから、それで気取っておいでなさるのよ、下郎どもとは口を利くもけがれと思っておいでなさるんだ」
と、また一人の折助が言いました。
「違えねえ、折助なんぞはお歯に合わねえという思召しなんだから、それでお言葉も下し置かれねえのだろう。ああ、情けなくなっちまわあ、孫子まごこの代まで折助なんぞをさせるもんじゃねえ」
と言って、またり寄ってお銀様のかおを覗き込むようにしました。お銀様がついと横を向くと、乗り出してわざとまた覗き込んで、
「はははは」
 一度に笑いました。お銀様は歯咬はがみをして彼等を押し退けて避けようとすると、折助たちは、ゾロゾロと後をついて来るのであります。お銀様は、ついに立ちすくんでしまうよりほかはなくなりました。
 そうすると、折助もまたその周囲に立ちはだかりました。
「お前たちは女とあなどって、このわたしに無礼なことをする気か」
 お銀様はこらえきれなくなったから、声をふるわして折助どもを詰責きっせきしました。お銀様でなかったら、ぜひはさていて、一応この折助どもに謝罪あやまってみるべき儀でありましたけれど、お銀様は口惜しさに堪えられないで、わが家の雇人を叱るような態度でかさにかかりました。
「どう致しまして、無礼をするなんぞと、そんなことがございますものですか、お女中がお一人では途中が案じられますから、こうしてお送り申し上げようと言うんでございます」
 折助はこう言いました。
「わたしは、ほかに連れの者がある、それを待っているの故、お前方のお世話はらぬ」
 お銀様は、やはり叱るような言いぶりであります。折助どもは、お銀様が何か言い出すのを待っていたと言わぬばかりでしたから、
「そんなことをおっしゃらなくたっていいじゃあございませんか」
「無礼なことをすると許しませぬ」
 お銀様は懐中へ手を入れました。その時に一人の折助が、横の方からお銀様の被っていた頭巾を引張りました。眼ばかり見えていたお銀様のかおの口もとから額へかけて、斜めにその呪われた怖ろしい面が見えました。
「はははは」
と折助どもは声高く笑いました。歯をキリキリと噛み鳴らしたお銀様は、キラリ光るものを手に持っていました。
「やあ、危ねえ、刃物を持っている」
 前後から五六人の折助が寄ってたかって、お銀様の持っていた懐剣を奪い取ろうとして、怪我をしたものもありました。
「面倒くさいから引担ひっかついでしまえ」
 彼等は寄ってたかって無礼な振舞に及ぼうとする時に、妙詮寺みょうせんじの角から突然いきなり飛び出して来た強そうな男。
「この野郎ども、飛んでもねえことをしやがる」
 折助どもをポカポカと殴り飛ばして、その一人を濠の中へ蹴込みました。
「やあ、役割!」
と言って、折助はたあいもなく逃げてしまいました。この場へ来合せた強そうな男は、役割の市五郎であります。

「お嬢様、もう御安心なさいまし、ほんとにあいつらあ、悪い奴だ、お嬢様とも知らずにろくでもねえことをしやがる」
 市五郎がこんなことを言って慰めているところは市五郎の宅であります。
「市五郎どのとやら、お前が来てくれなければ、わたしはドノような目に会ったことやら。よいところへお前が来てくれたから、それで悪者がみんな逃げてしまいました」
 お銀様は泣いていました。
「ナニ、たかの知れた折助どもでございますが、打捨うっちゃっておくと癖になりますから、少々大人げねえと思いましたけれど、二つ三つくらわしてやりました。御心配なさいますな、これからお屋敷まで送らせて差上げますから」
「市五郎どのとやら、わたしには連れの者があってそれを待っていたところ、その連れの者に沙汰をして貰いたい」
「左様でございますか、そのお連れの方とおっしゃるのはどちらへおいでになりました」
「御城内まで参りました、もう帰って来て、あのおほりの傍で、わたしを探していることと思います、早う、そこへ人をやって、わたしがここにいることを知らせて下さい」
「へえ、よろしうございますとも。そうしてそのお連れの方のお名前は何とおっしゃいますな」
「それは君といって、年もわたしと同じ位、わたしと同じこのような衣裳を着ておりますわいな」
「なるほど、お君さんとおっしゃるのでございますな、へえ、よろしうございます、今、人をやってお迎え申して差上げますから、御安心なさいまし」
「この甲府にも、わたしの親戚はあるけれど、誰にも言わないように頼みます、わたしが悪い者に出会って、あんな狼藉ろうぜきをしかけられたと、それを世間に知られては外聞になるから、内密ないしょに頼みます」
「へえ、もうその辺は心得たものでござりまする、人様の外聞になるようなことを、頼まれたって触れて歩くような、そんなけちな野郎でもございませんから御心配なさいますな。まあ、なんにしてもお怪我がなくてようございました」
「あの、早く連れの者に沙汰をして」
「へえ、よろしうございます、いま使に出した野郎が、もう帰って来ますから、帰って来たらすぐに飛ばせてやりますでございます、お乗物なんぞは、ここで一声怒鳴どなれば御用が足りるんです。かかあでもいるとおぐしやお召物のお世話をして上げるんでございますけれども、まあそのうちに嬶も帰って参りますから」
「髪や着物などはかまいませぬ、あのお君が帰って来さえすれば、直ぐにおいとまをして屋敷へ帰りたい、早くあの子へ沙汰をして」
「へえへえ。どうも困ったな、いつも二人や三人はゴロゴロしているくせに、今日に限って嬶までが出払ってしまうなんて。と言って俺が出向いて行けば家はからになるし……野郎どもも大概てえげえ察しがありそうなものだ、ぐずぐずしていると日が暮れちまうじゃねえか、日が暮れちまった日にゃあ、お嬢様をここへお泊め申さなけりゃならなくなるんだ。そんなことにでもなってみろ、お屋敷でどんなに心配なさるか知れたもんじゃねえ」
 市五郎はれ気味で独言ひとりごとを言っているにかかわらず、自分は長火鉢の前へ御輿みこしを据えて、悠々と脂下やにさがっていました。

         三

 宇治山田の米友は、この時分に八幡宮の境内を出て来ました。米友は油を買うべく、町へ向って出かけたのであります。
 町へ出る時にも、やっぱり米友は烏帽子えぼしかぶって白丁はくちょうを着ておりました。それから例の杖に油壺をくくりつけて肩にかついでおりました。今夜もまたでえだらぼっちの来襲に備うべく、燈籠とうろうの番をする必要があればこそ、油を買いに行くのであります。
 でえだらぼっちというのはそもそも何者であろうかというに、これは伝説の怪物であります。素敵すてきもない大きな男で、常に山を背負って歩いて、足を田の中へ踏み込んで沼をこしらえたり、富士山を崩して相模灘さがみなだを埋めようとしたり、そんなことばかりしているのであります。
 でえだらぼっちという字には何を当箝あてはめたらよいか、時によっては大多法師と書きます。ところによってはレイラボッチとも言います。そんなばかばかしい巨人があるわけのものではないけれど、諸国を旅行したものは、どこへ行ってもその伝説を聞くことができます。今でも土地によってはその実在をさえ信じているところもあるのであります。でえだらぼっちが八幡様へ喧嘩を売りに来るという伝説の迷信が取払われないから、米友は今夜も燈籠へ火を入れなければなりませんでした。
でえだらぼっちでえだらぼっちだが、八幡様も八幡様だ」
 米友はブツブツ言いました。実際、米友の粗雑な頭でさえも、でえだらぼっちの実在を信じきれないのであります。わざわざ眠い眼をこすって、実際有るか無いかわからないものの来襲に備えているということは、かなりばかばかしいものだと思わないではありませんでした。
 しかし、米友はいま宮仕みやづかえの身であります。ばかばかしいからと言ってそれを主張した日には、また追い出されてしばらくは路頭に迷わねばならないと思って、これまでずいぶん追い出されつけていただけに、多少身にこたえがあるから、ばかばかしいはばかばかしいなりに辛抱して、その油買いにも行き、油差しもしようというものであります。
「油買いに茶買いに、油屋の縁ですべってころんで、油一升こぼした」
と町の子供が、米友が油を買いに出たところを見てはやしました。
 米友は、それに取合わないで澄まして歩きました。子供らにとっても大人にとっても、米友が油買いに行く形はおかしいものでありましたろう。
 八幡の社を出て米友は三の堀を、くるわの中へと行きました。廓を抜けて町の方へ行こうとして、竪町たてまちの正念寺の角を曲って二の堀のきわを歩いて行くうちに、米友は、
「あっ」
と言って立ち止まりました。
 そうして猿のような眼を円くして、しきりに御門の橋のあたりを見つめていました。
「あっ、ありゃ」
と言ってどもりました。吃った時分には、いま米友が見かけた人影は、御米蔵おこめぐらの蔭へ隠れてしまいました。その人影の隠れた御米蔵をめざして、米友は一目散いちもくさんに駆けて行きました。
 その挙動は、かなり粗忽そそっかしいものであります。ついには油壺が邪魔になるので、その油壺を振り落して堀際を駆けました。米友の身にとっては油壺も大切ですけれどもその油壺を抛り出してさえ、なお追い求めようとするものがあったと見なければならぬ。ほかでもない、米友は今ここではからずもお君の姿を認めたからであります。
 米友がその不自由な足を引きずってわざわざ甲州まで来たのは、いつにお君を求めんがためでありました。米友にとってお君は唯一ゆいつおさ馴染なじみであり、お君にとっても米友は唯一の幼な馴染でありました。米友は、今しばらく旅費に窮したから八幡宮に雇われましたけれど、いくらか給金がたまればそれを持って、お君を探しに行くつもりなのであります。
 それだから、いま認めたそれがお君であったとすれば、もう油壺などは問題にならないはずであります。
 息を切って米友が馳せつけたのは、例の役割市五郎の宅の裏手。
「こんにちは」
 米友は、せいせい言って、そこに庭を掃いていた折助に挨拶しました。
「何だ」
 折助は米友を見て怪訝けげんかおをしました。
「少しお聞き申してえことがあるんだ」
 米友はつばを飲んで咽喉を湿うるおしました。
「何だ何だ」
 折助は米友が、あんまり一生懸命に見えるから笑止しょうしがって箒を持った手を休めました。
「今、ここへ娘が一人、入ったろう、仲間ちゅうげんにつれられて娘が一人入ったろう」
「ふん、それがどうしたい」
「それを聞きてえんだ、あの娘はありゃ、この家に奉公している娘かい、それともまたよそからお客に来た娘なのかい」
「それをお前が聞いてどうするんだ」
 折助は突き放すように答えました。
「それを聞かなくちゃならねえことがあるんだ、後生ごしょうだから教えてくれ」
 米友は突き放されじとき込みました。焦き込めば焦き込むほど、米友の調子が変になりますから、折助などが嘲弄するには、よい材料であります。
「ははは、ずいぶん教えてやらねえもんでもねえがの、いったいお前はどこの何者で、あの娘っ子とは、どんな筋合いがあるんだ、それから聞かしてもらった上でなけりゃあ骨が折れめえじゃねえか」
「うむ、おいらはいま八幡様に奉公しているんだ。名前か、名前は米と言ってもよし、友と言ってもかまわねえんだ。今たしかにこの家の中へ入った娘は、ありゃ、国にいた俺らの幼な馴染とよく似ているんだ、よく似ているじゃねえ、あの子に違えねえのだから会いてえのよ、向うでもまた、そう言えばキット俺らに会いたがる」
「おやおや、こりゃあお安くねえわけだ」
と言って折助は、またおかしなかおをして、米友の面をジロジロと見ました。
 この問答が事ありげなので、そこへ屋敷の中から二三人の折助がまた面を出しました。
「どうしたのだ」
「ははは、この大将が、はるばる国許くにもとから女を追っかけて来たんだ、そうして後生だから一目会わせてくれという頼みよ。会わせてやらねえのも罪のようだし、そうかと言って、会わせて間違えでも出来た日には、取返しがつかねえし、どうしたものかと、挨拶に困っているところだ」
「なるほど」
 彼等は充分の侮辱を以て、米友の面をしげしげとのぞいて、
「は、は、は」
嘲笑あざわらいしました。米友は勃然むっとして、
「何だ、何がおかしいんだ」
 手に持っていた杖を取り直しました。
「まあ、兄さんや、そんなことを言わねえで帰りな。そりゃ、お前の眼で見ると、どの女もこの女も、みんなその国許にいた馴染の女とやらに見えるんだろうけれど、今ここを通った女はありゃ、ちっとお前には縁が遠いんだ。悪いことを言わねえから、ほかへ行って、もう少しウツリのいいのを探してみな」
 お君のことを言い出すと、米友は必ず侮辱されてしまいます。前に両国の軽業かるわざ小舎こやへ訪ねて行った時も、美人連のために手ヒドク嘲弄されました。
 短気の米友が、ここで折助連と衝突を起さなかったのは不思議であります。しかし、米友もこのごろでは、短気がいつでも自分に好い結果を来さないことを少しはさとったのか、争っても到底、折助が自分の言うことを相手にしないのを見て取ったのか、口がどもって利けないほどに憤慨しながら、悄々しおしおとしてそこを引上げたのであります。
 引上げるには引上げたけれども、確かに米友はお君を見たのです。お君が堀端をあちらこちら歩いている時に、一人の男が来てお君に何か言って、お君を連れて行くのを見かけたから、それで油壺を抛り出して追いかけて、この家へ連れ込まれたのを、確かに見たのでありますから、その場は立ち去ったけれども、到底この屋敷から眼と心とを離すわけにはゆきますまい。
 しばらくその屋敷の周囲を彷徨さまようていた米友は、物蔭へ入って烏帽子えぼしと白丁とを脱いでクルクルと丸めて懐中ふところへ入れました。それからこの屋敷の前にあった縄のれんの一ぜん飯屋の前を二三度往来ゆききしましたが、思いきってその中へ入って空樽へ腰をかけてしまいました。米友はここで一ぜん飯を食いはじめました。一ぜん飯を食いながらも、役割の屋敷からちっとも眼をはなすことではありません。けれどもいったん入ったお君の姿は、この家のどちらからも外へ出た模様はありません。一ぜん飯を食い終った米友は、なお暫らく腰をかけて、縄のれん越しに市五郎の宅ばかりを見ていました。そのうちに日が暮れかかって、四方あたりが薄暗くなりました。飯屋の親方は掛行燈に火を入れました。
 米友はようやく気がついたように、四方を見廻して、
「ああ、俺らも燈籠へ火を入れるんだった」
と急に考えて飛び上りました。
 けれども、燈籠に火を入れることはもはや米友の責任ではありません。ただ偶然、その責任に驚かされてこの一ぜん飯屋を飛び出した米友は、役割の家の塀のあたりをグルグルと廻っていました。
 ちょうど、黄昏時たそがれどきであることが、米友にとっては仕合せでありました。塀のまわりや壁の下に身をりつけて、中の様子を伺っていると、数多あまたの折助が、遠慮のない馬鹿話をしたり高笑いをしたりするのがよく聞えましたけれど、女の声としては更に聞えることがありません。
 米友はついにこらえ兼ねて、その杖を塀のところに立てかけて、それに足をかけて飛び上りました。天性の敏捷な米友は易々やすやすと塀を乗り越えてしまいました。塀を乗り越えるとその杖を上から引き上げて、屋敷の中の井戸端からソット忍びました。
 ここは、折助どもの集まっている、いわゆる大部屋であります。昼のうちはそんなでもなかったのが、いつ集まったか、盛んな人集ひとだかりで、一方の隅にかたまって博奕ばくちに夢中なのもありました。真中どころにごろごろして竹の皮包みのあんころかなにかを頬張りながら、下卑げびた話をしてゲラゲラ笑っているのもあります。
 博奕の方ではスポンスポンと烈しい音がしていました。今まで着ていた唐桟とうざんの着物を脱いで抛り出すのもあり、縮緬ちりめんの帯を解いて投げ出すのもありました。
 こちらで寝転んで、餡ころを頬張りながらゲラゲラ笑って下卑た話をしているのが、米友の耳によく入ります。米友は戸の節穴ふしあなからそっとのぞいていると、蜜柑箱みかんばこを枕にした折助が、
「はくしょッ」
と咳をしました。
風邪かぜを引いちまった、飛んでもねえところで泳ぎをさせられちまったから、風邪を引いちゃった」
と言いました。
「は、は、は」
と一人の折助が高笑いをすると、
「あっぷ、あっぷ」
と、もう一人の折助が水に溺れるような形をしました。
「笑いごとじゃあねえ、全く命がけの狂言よ、二朱じゃやすい」
と風邪を引いた折助は、さのみ浮き立ちません。
「全く笑いごとじゃあねえ、親方にいいところを買って出られて、こっちはまるっきりもうからねえ役廻りだが、そのなかでも、兄いが儲からねえ方の座頭ざがしらだ」
「そりゃそうよ、手前たちは、痛くねえように二つばかりなぐられたんで事が済んだけれど、俺らときた日にゃあ御丁寧に、お濠の中で涼ませられたんだ」
「仕方がねえ、頼まれりゃ水火の中へも飛び込むということがある」
「そこが男だ」
「ふざけるない。そうして骨を折っておけば、骨を折っただけのものはあるだろうと思っていたら、何のことだ、手前たちと同じように二朱の頭だ。結局、看板をだいなしにしたのと、寒い思いをしたのとが儲けもんで、風邪を引いたのが利息だ、ばかばかしいっちゃあねえ」
「ははははは」
 折助どもは、愚痴を言っている折助を笑いました。
「いったい親方は、あんな狂言をして、あんな化物娘を引張り込んでどうする気だろう、姉御の縹緻きりょうだってマンザラではねえし、どうも役割の気が知れねえ」
「そりゃお前、なんだな、あれはおトリというものさ。あれをああしておトリにしておけば、それあんじょう、あとから音色ねいろのいいのがひっかかって来ようというものじゃねえか。けれどもこりゃ、役割が色に転んだ狂言じゃあねえ、慾にかかった仕事だよ」
「なるほど」
 米友は、折助どもの話を聞いてギクリとしました。
 米友は大部屋から奥の方へソロソロと歩み出します。今の話によっても、ぜひぜひこの家に突き留めねばならぬものがあることは、充分に合点してしまいました。
 米友はそこやここをウロウロと歩いて、戸の節穴や壁の隙間をねらっていました。誰かに見つかればまさしく泥棒の仕業であります。しかしもう心のいっぱいに張りきっている米友は、更に疑惧ぎぐするところがありません。戸でもあいていたなら、そこから家の中へ入ってしまったでしょう。けれど、戸はよく締めてあり、節穴もないことはないし、壁の隙間もあるにはあったけれど、中は障子が立てきってあったり、真暗であったりして、どうも思うように家の中をうかがうことができません。
 もしも、それらしい女の声でもしたらと、耳を戸袋へ密着くっつけたりなどしましたけれども、それらしい声も聞えません。米友はこうして家の周囲を一通り廻ってしまいました。
 今度は縁の下へもぐってみようと思いました。短躯たんくにして俊敏な米友は、縁の下を潜るのにことに適当しております。
 米友が縁の下へ潜ろうとした時に、表の方で人の声がしました。
「へえ、お迎えのお駕籠かごでございます」
 縁の下へ潜りかけた米友は、その声を聞きとがめて耳を引立てたが、急に縁の下へ潜ることを見合せて、その声のした方へ出かけました。米友は立木の蔭から、今この家の表へ来た駕籠と駕籠舁かごかきとをじっと見ていました。駕籠が二挺釣らせてありました。人足は提灯を持ったり、息杖いきづえをかかえたり、煙草を喫んだりして、居たり立ったりしていました。これらの連中がそこへ暫く待っていると、家の中から、
「御苦労、御苦労」
と言って出て来たのは役割の市五郎であります。米友はこの男を知らないけれども、多分、これがここの親方だろうと思いました。
「親方、今晩は」
と言って、駕籠舁どもは頭を下げました。
「さあ、お嬢様、これにお召しなさいまし、お女中さんはこちらのにお召しなさいまし」
 市五郎が、あとを顧みてこう言ったから、米友は、
「ちぇッ、提灯の火が暗えなあ」
 米友は腹の中でごうをにやしました。米友が身体を固くして、固唾かたずを呑んで、その上に業をにやして待っているのは、今、市五郎がお嬢様と呼び、お女中さんと呼んだその人のすがたをよく見たいからであります。まもなくそこへ現われたのは――一層口惜しいことに頭巾ずきんかぶっています。頭巾を被ってかおの全部はほとんど見えないから、米友が身悶みもだえしているうちに、その頭巾を被った若い娘は前の方の駕籠へ、市五郎が手を取って乗せてたれを下ろしてしまいました。
「ちぇッ」
 米友は口惜しがって地団太じだんだを踏みましたが、続いて同じようななりをして、同じ年頃の娘が、これも同じように頭巾で面を包んで出て来たのを見ると、
「おや」
 米友は実にカッとしてしまいました。
「おっと待ってくれ」
 こう言ってやみの中から飛び出してしまったのは、米友としてはぜひもないことであります。
「何、何だと」
 はしなく米友がその場へ飛び出したことによって、その場は大混乱をき起しました。
 その混乱を聞きつけて折助どもが飛び出して来ました。折助どもが米友を支えている間に、市五郎は、差図してズンズン駕籠を進ませてしまいました。
 ほどなく米友の姿は市五郎の家の屋根の上に現われました。彼は杖を持って、いつのまにかその俊敏な身を屋根の上へと刎上はねあげてしまったものと見えます。
 米友の姿が屋根の上に現われた時に、下では折助どもが喧々囂々けんけんごうごうとしてさわぎ罵りました。梯子はしごを持って来いと怒鳴りました。俺は頭を三ツ四ツ続けざまに、あの棒で殴られたと言って歯咬はがみをしているものもありました。眼と鼻の間を一撃の下に打ち倒されて、鼻血を出して頭の上げられない者もありました。博奕ばくちをしていたのも、無駄話をしていたのも、みんな馳せ集まって来ました。
 下では、こうして折助が芋をむようにして噪いでいるのを、米友は見下ろしてハッハッと息を吐きました。
「ちぇッ、口惜しいなア、こいつらに邪魔をされて、あの駕籠を追蒐おっかけることができねえのが口惜しいなア」
 屋根の上で足を踏み鳴らしつつ口惜しがりました。
 四辺あたりを見廻しても、夜は真暗であります。真暗い中に甲府の城がそびえています。二のくるわは右手の方に続いています。前も左もいずれも武家屋敷であります。
 屋根へ上った米友は、いつぞや古市の町で宇津木兵馬に追い詰められた時のように、屋根から屋根を泳ぐつもりでありました。
 米友は小躍こおどりして屋根の瓦の上を走りました。
「ソレ、そっちへ行った」
 折助がさわぎました。
「ヤレ、こっちへ来た」
 梯子はしごが飛び廻りました。ヒューと石が飛んで来ました。
「危ねえ!」
 お手の物で米友は、その石を発止はっしと受け止めました。
「竹竿で足を打払ぶっぱらえ」
 折助は物干竿ものほしざおを幾本も担ぎ出しました。跛足びっこになった米友は、その危ない屋根の上をなんの苦もなく走ります。市五郎の宅から大部屋の屋根の上をいたちの走るように走って、武家屋敷の屋根へ飛び移りました。
 折助は、いよいよさわぎました。梯子と竹竿とが盛んに担ぎ出されます。今や噪ぐのは折助ばかりでなく、武家屋敷の者共が、みんな家々から飛び出して噪ぎました。担ぎ出されたのは梯子と竹竿ばかりでなく、水弾みずはじきや、槍、長刀なぎなたまで担ぎ出されるという有様です。米友はよく屋根の上を走りました。或る時はこれ見よがしに直立して走りました。或る時はそっと身を沈めて走りました。
「ばかにしてやがら、手前たちをこっちは相手にしねえんだぞ、相手にするほどのやつらでねえからそれで相手にしねえんだぞ、俺らが逃げりゃあいい気になって追蒐おっかけて来る手前たちの馬鹿さ加減の底が知れねえや」
 こう言って米友が立ち止まって息を切った。屋根の上から下を見ると、家並やなみはそこで尽きて足許は二の廓の堀の水。屋根から垣へ足をかけた米友の姿は、これもどこかの闇へ消えてしまいました。

         四

 何事か起るべく思われて何事も起らなかったのが、その夜の市五郎と、お銀様と、お君との一行でありました。
 市五郎の挙動から推せば、この二人をどこへつれて行って、どんな目に遭わせることかと思われたのに、案外にも、極めて素直すなおに駕籠に付添うて有野村へ入ってしまいました。
 有野村へ入って、お銀様の屋敷へ送り込んでしまいました。これでは尋常の上の平凡であります。
 お銀様とお君とがその屋敷へ送り届けられた前後には、もちろん伊太夫の家はかなえの沸くような騒ぎであります。前に幸内の行方ゆくえが今以て知れないところへ、今またお銀様とお君との行方が知れなくなったということは、伊太夫はじめ、この大尽だいじんの家の一家と出入りの者を驚かせずにはおきません。
 お銀様もお君も、出る時は誰にも断わらないで出て行きました。ほどなく帰るつもりでしたから黙って行きました。お君は誰にか一言ひとこと言い置いて出ようと言ったのを、お銀様が無下むげしりぞけてしまいました。それだから屋敷では誰あって、二人がいつごろ、どこへ行ったかを知るものはありません。召使の女のうちに、お銀様とお君さんとがおついの着物を着て紫の頭巾を被って、裏の林の中を脱けておいでなすったのを見たというものがあったというぐらいのものであります。
 なかにはお君がお銀様をそそのかして、一緒に駈落かけおちをしたのではないかと言っているものもありました。君ちゃんはそんな子ではない、お嬢様があの通りの気むずかし屋だから、無理にお君さんを引きつれてお出かけになったのだと弁護するものもありました。
 人が諸方へ飛びました。そうして甲府の市中へ入ったということがわかり、甲府の市中へ入って八幡様へ参詣をしたということもわかり、そこでお御籤みくじを取ったということもわかりました。それまではわかったけれども、それから後が更にわかりません。ところがその八幡様でもまた一つの騒ぎがありました。それは油注あぶらつぎの男が、油買いに出たまま帰って来ないということであります。
 それやこれやで、尋ねに行った人は途方に暮れ、馬大尽の家の混乱はいや増しに増してきました。
 そこへ役割の市五郎が、悠々として両人の駕籠を送り込んだのでありましたから、市五郎がここでどうしても器量を上げないわけにはゆきません。実際、市五郎はこの時、馬大尽の一家一門の者からも、村中の者からも、神仏のように思われてしまいました。市五郎の身体から後光ごこうがさすように見えてしまいました。
 下へも置かないもてなしというのはこのことであります。ことにお銀様が悪い折助にからかわれていらっしゃるところを、この親方が通りかかって助けて下さったという物語りは、市五郎を武勇伝の主人公のように、村の人から崇拝させることになってしまいました。
 市五郎は、自分の手柄を自分からはあんまり語りませんでした。馬大尽うまだいじんの一家一門の人が、さまざまに待遇もてなすのをって辞退して帰ることにしました。ぜひに一泊をすすめるのを断わって帰る時分には、市五郎の駕籠が提灯で隠れるほどに見送りがついて参りました。
 その翌日は釣台が幾台も市五郎の宅まで運ばれ、羽織袴で親類や総代が、いちの立ったほどにお礼を述べに来ました。
 市五郎はこうして馬大尽の家から感謝を受け、それから同家へしばしば出入りをすることになりました。そうして主人の伊太夫と親しくなりました。伊太夫は市五郎を信用し、市五郎はよく伊太夫の意を迎えることができるようになりました。
 市五郎がその後、しばしば伊太夫の許へ出入りする間に、伊太夫に向って一つの内談ないだんを持ち込みました。内々で伊太夫が何というか、それを聞いてみたいような口吻くちぶりであります。
 それは意外にも縁談のことであります。
「お嬢様もお年頃でございますから」
と言い出した時に、さすがに伊太夫はにがかおをしました。
 その苦い面を見て、市五郎も話しにくいのをいて一通り話してしまうと、伊太夫の苦い面が少しくけかかってきました。
「お組頭で神尾主膳殿……」
と言って腕組みをしました。伊太夫の顔色がやわらいだのを見て、市五郎はその目をそらさぬように、
「もとはお旗本のお歴々でございます、お使い過ぎでこちらへおいでになったくらいでございますから、苦労人でございます、人間がさばけておいでなさいます、物のいもあまいもよくわかっておいでなさるお方でございます、もう御当家のこともお嬢様のことも万々ばんばん御承知の上で……」
と言って媒人口なこうどぐちらしい口を利きました。さてはこの男の縁談というのは神尾主膳へ、この家の娘のお銀様を縁づけようという取持ちであることに疑いもない――人もあろうに神尾主膳へ、そして女もあろうにお銀様を――市五郎の内心は計りがたないものであります。しかしながら市五郎の口前は極めて上手であります。神尾主膳の人柄を、伊太夫の心へ最もよくうつるように言葉を尽して、蔭と日向ひなたから説きかけました。そうして苦労人の神尾様は決して御縹緻好ごきりょうごのみをなさるようなお方でなく、お嬢様があんな不仕合せでおいでになっても、それがために愛情を落すようなお方でないということ、かえってお嬢様のお身の上を蔭ながら同情をしているというようなことを言葉巧みに説きました。その上に当地の有力者であるこの藤原家と縁を結ぶことが、神尾のためには有力なる後援であり、お嬢様のために生涯の幸福であり、且つまた若い神尾主膳はやがて甲府詰から出世をなさる人に疑いのないことなども話しかけました。市五郎のこのごろの信用の上に、その口前によって伊太夫の心がだんだん動いて来るのが眼に見えるようであります。
 市五郎がこの縁談のことを話して辞して帰った後で、伊太夫は一人でやはり腕を組んで考えていました。もとは何千石のお旗本、今は甲府勤番の組頭、それにあの娘が貰われて行くことは、家にとって釣合わぬことではないと思いました。しかしながら、あの娘――と思い出すと、さすがの伊太夫も自分ながら気落ちがしてなりません。お旗本どころではない、どんな人でもあの娘を貰って、生涯の面倒を見てくれる人があるなら大恩人だと、日頃から思わせられないことではありません。娘もよくそれを呑込んで、つまらぬ男にかしずくよりは、いっそ独身で通す覚悟をきめているのを見て、親としての伊太夫が、不憫ふびんに思わぬということもありません。
 伊太夫は、なお暫く考えた後に女を呼んで、
「お銀にここへ来るように」
と言って、
「あれが何と言うか、あれのことだからウンとは言うまい、たとえ少しは気があっても、はいと返事をするような女ではないけれども、もし承知したら……あれが承知をしたら、わしの方にも異存はないのだが、しかし、それがほんとうに当人のために仕合せかなあ。あれはああしておいた方が仕合せであるかも知れない。まあまあ了見りょうけんを聞いてみての上で」
 伊太夫はこんな独言ひとりごとを言って考えながら、お銀様の来るのを待っていました。
 父の許へ呼ばれたお銀様は、やがて自分の部屋へ帰って来ました。
 お銀様は、父から言い出されたことをだまって聞いて帰りました。父が言い出したことというのは、神尾主膳への縁談の一件でありました。お銀様はそれを聞いてなんとも返事をしませんでした。
 うそにも縁談のことは若い人の血汐ちしおおどらせねばならぬものであります。けれどもお銀様にあっては必ずしもそうでありません。お銀様がだまって父の許からおのが部屋へ帰ったのは、そのことの恥かしさから返事ができないで帰ったのではありません。
 いつも怒気を含んだようなお銀様のかおが、一層の怒気で曇って見えました。父のものやわらかな話半ばで、ついと立って挨拶もなくて立ちかえったその畳ざわりは荒いものでありました。父の伊太夫は、
「ははあ、また失策しくじった」
というような面をして、立って行く娘の後ろ姿をむなしく見送っているばかりであります。
 お銀様が縁談を嫌うのは今に始まったことではありません。そのことを言い出されるのさえ、毒虫に触れることのようにいやがりました。お銀様は自分の身にかかる縁談のことを聞くのをいやがるばかりでなく、人の縁談のことを聞くのさえいやがりました。その話を聞くと、ジリジリとれてゆくのが目に見えるのであります。それだからお銀様の前で縁談を言うものはありません。お君も近ごろ来て、その呼吸をよく呑込んでおりました。父の伊太夫ももとよりそのことを知っていたけれども、市五郎の口前を信ずるの余りに、つい口に出してしまって、また娘の御機嫌を損ねたことに気がついて、気まずい思いをしてむなしく見送るばかりでありました。
 お銀様は縁談を持ち込まれることを、自分が侮辱されたように口惜しがります。それと共に自分に縁談を申し込んで来る男を、あくまでさげすむのでありました。自分に縁談を申し込んで来るような男は、男のなかのいちばん意気地なしで恥知らずで、あるものは慾ばかりで人格も趣味もあったものではない、男のなかのくずだと、口に出してまでそう言うことがありましたくらいであります。
 今、神尾主膳のことを聞いても、まずその蔑みで頭を占領されてしまって、これから父が説き出そうとすることを、受入れる余裕はありませんでした。
 お銀様はすごい面をして自分の部屋へ帰って来て、
「お君、お君、お君や」
 続けざまに呼んで、自分の部屋を素通りして、お君の部屋へ駈込みました。
 お気に入りのお君には、お銀様と同じような部屋が与えられてありました。このごろのお銀様は、居間から衣裳から、室内の飾り、すべてのものをお君と同じようにしなければ納まらないのであります。お銀様はこうしてお君の部屋へ駈込んだけれど、どこへ行ったかそこにお君の姿が見えません。机の上にお銀様の好きな寒椿かんつばきが一輪、留守居顔にさされてあるばかりです。
「どこへ行ったのだえ」
 お銀様は、お君の坐るべき蒲団の上に坐って机に向いました。その一輪挿しの寒椿を取っておもちゃにしようとした時に、机の上に見慣れないものが載せてあるのを見ました。お銀様は一輪挿しの寒椿の方はさしおいて、その見慣れないものを手に取りました。
「まあ、これは珍らしいもの」
と言って、つくづく眼をそそいだのは一枚の写真でありました。その写真は、先日お君が駒井能登守からいただいて来た、何よりも大切にしている二人立ちの写真なのであります。
 最初はただ物珍らしげに取り上げたお銀様が、それをつくづくと見ているうちに、体がワナワナ震えてきました。眼がキラキラと光ってきました。
「アア、口惜しいッ」
 鬼女きじょが炎をふくように言い捨てました。
 その写真には前に言った通り、二人の人が写されているのであります。
 その一人はお銀様もよく知っている駒井能登守のすがたでありました。それと並んだ一人は女の像でありました。
「いつのまに、こんなことに……ああそうだ、この間、お城の前で、わたしを待たせている間に、わたしは、あんな恥かしい目に遭っている時に、お君は城の中でこんなにしていたのか。それとは知らなかった」
 お銀様は、その女の方の像を見ながら歯を咬鳴かみならしました。
「この若い御支配の殿様と、あの奥方気取りで……憎らしいッ」
 お銀様は頭を自棄やけに振って、銀のかんざしを机の上へ振り落しました。振り落したその簪をグイと掴んで、呪いの息を写真のおもてに吹きかけました。
 お銀様の呪いのまととなっている写真の中の女の像、それは裲襠姿うちかけすがたの気高い奥方でありました。美男の聞えある能登守と並んだこの気高くて美しい奥方。お銀にとってそれは、骨を削ってやりたいほどに呪わしいものでなければなりませぬ。
 ことに、あのおほりの外で、折助どもからあんな無礼な仕打をされている時に、城の中で二人にこんなことをされては……それが口惜しくて、ねたましくて、腹立たしくて、呪わしくて、お銀様の銀の簪持った手がワナワナとふるえて慄えてたまりません。
 お銀様はその写真を左の手で持ち直して、右の手で銀の簪を取り直して、
「エエ、覚えておいで」
と言ってズブリ――その女のすがたの面をめがけてつきとおそうとしました。
「お嬢様、まあ何をなさいます」
 あわてて入って来たお君は飛びついて、銀の簪を持ったお銀様の手をしかと抑えました。
「お放しなさい」
 お銀様はお君の抑えた手を振り切って、なおもその写真につきとおそうとするのであります。
「このお写真は、大切のお写真でございます、お嬢様、そんなことをあそばしては」
「それはお前には、お前には大切なお写真であろうけれども……」
「このお写真に間違いがあっては、私が殿様に申しわけがありませぬ」
「そりゃ、そうだろう、お前は殿様に申しわけがあるまいけれど、わたしはばかにされたのが口借しい!」
「何をおっしゃいますお嬢様、そのお写真ばかりはどうしても御自由におさせ申すことはできませぬ」
 お君は日頃に似気にげなく争いました。お銀様はほとんど狂気のていで写真をらじとしました。一枚の写真を争う両人ふたりは、ほとんど他目よそめからは組打ちをしているほどの烈しさで揉み合いました。
 そうしてお君は、やっとお嬢様の手からその写真を取り上げて、太息といききながら、
「お嬢様、こんな乱暴をあそばしますなら、もうもう、わたしはお嬢様のお側にいるのはいやでございます、今日限りお暇をいただきまする」
「ああ、それがよい、わたしも、もうお前がいなくてもよい、お前はその可愛い殿様のところへおいで、わたしもお嫁に行くところがあるのだから、ええ、わたしはお嫁に行くようにきめてしまったのだから」
 お銀様がこう言ってその両眼から留度とめどもなく涙を落した時に、お君は何と言ってよいか解らない心持になりました。
 いつもならば何でもないことでしたろうけれど、その時はそれで、二人のなかがかれてしまいました。お君が、もうお嬢様のお傍にいないと言ったのは一時の激した言い分のようであったが、実は本心からその気で言ったのであります。
 お銀様が、自分もお嫁に行くところがあると言ったのは、どういうつもりだかお君にはわかりませんでした。
 しかし、その場は気まずくなって、今までになかった張合いの心持がおたがいにつのったけれど、すぐにあとでお君が謝罪あやまりました。お銀様もうちとけました。
 謝罪ったあとで、お君は改めてお銀様にお暇乞いを申し出でました。お銀様は冷やかに、それでも快くお君の暇乞いを承知しました。それにお銀様はお君に対して、身の廻りのものやらお金などを多分に分けてやりました。お君はそれを有難く思って、なんとなくこのお嬢様の傍を離れたくない心持もしましたけれど、自分の行く先のことを考えれば、その心持も忽ち消えてしまうのであります。
 お君がこのお嬢様のもとを辞して行こうとする先は問うまでもなく、それは駒井能登守のお邸であります。
 主人やお銀様からいろいろの下され物をおともの男に馬につけてもらって、お君は愛するムク犬と共に藤原家を離れました。
 みんな機嫌よくお君を送ってくれました。
 有野村から甲府まで行く間に、お君は一足毎に春の野原へ近づいて行く心持でありました。駒井の殿様のお情けというものが嬉しくて、心がけてゆくばかりでありました。それでも釜無河原かまなしがわらへ来た時分に振返って有野村を見ますと、小高い丘の下に一面に黒くなった森、そこが今まで世話になっていた馬大尽の藤原の家の構えだと知った時に、なんとなく四辺あたりの光景が物悲しくなりました。
 幸内に助けられてあの家へ厄介になったかりそめの縁が、思い出にならないということはありません。その幸内は行衛ゆくえが知れないし、それよりもひとり残ったお嬢様が、「わたしもお嫁に行く」と言った一言は今でもお君にとって、何の意味だかよくわからないのであります。
 いったいにお銀様の心持というものは、お君にはよくわかりませんでした。駒井様で所望する自分の身の上をお銀様が途中で、水をそうとするような仕打がわかりません。そうかと思えば、そのお暇乞いをした時に冷やかではあったけれど、不快な色を見せないで承知をして下すったこともわかりません。
 自分をすすめて御城内の殿様のところへやりながら、その殿様のお写真に向って、あんなことをなさるお嬢様の気心はなおさらにわかりませんでした。
 いろいろと、わからないことはありましたけれども結局、お君はお銀様の同情者でありました。お銀様がああしてれておいでなさる心持も、お君には我儘わがままだとばかりは思われませんでした。お銀様と幸内との間は知らないけれど、幸内がいなくなってお銀様が一層焦れ出したことは、側についていて手に取るようにわかるのでありました。その後お銀様がお君を愛するために、怖ろしいような挙動をなさることも度々ありました。今やそのわたしもお側を離れてしまう。お銀様はお一人。どうかこの上ともお仕合せにお暮しなさるようにと、お君は目に涙を持って、心のうちに祈りました。

         五

 神尾主膳の邸ではこの頃普請ふしんが始まりました、建増しをしたり、手入れをしたりするために、大工や左官が幾人も入りました。
 表の方ではのみかんなの音で景気がいいし、奥の方は奥の方でまた、箪笥たんす、長持、葛籠つづらの類を引き出して女中たちが、虫干しでもするような騒ぎであります。
 正月が近いから、それで御普請をなさるのだろうと表の方では言っていましたけれど、奥の方はそれだけでは納まりません。
「近いうちにおめでたいことがおありなさるんですとさ」
 早くも女中たちの口から、こんなうわさが立ってしまいました。
 その女中たちの中にはお松がいました。お松は今、箪笥から掛物の一幅を取り出してちりはらっていました。
「お慶たいこととはどなた」
「お松様はまだ御存じないの」
と言って、ほかの女中たちは面を見合せました。
「いいえ、存じません」
「そのお慶たいことで、あんなに御普請が始まったり、こちらではまた御宝物のお風入れがあったりするのではありませんか」
 女中たちはお松の迂闊うかつを笑うような言いぶりです。
「それでも、わたくしは存じませんもの」
「それはね」
「はい」
「つい、この近いところよ」
「近いところとは……」
「近いと言ってもこの甲府に近いところ、それはこれから三里ばかり離れた有野村というところの大金持のお家から、近いうちに殿様へお輿入こしいれがあるんですとさ」
「それは結構でございますねえ」
 お松は手に持っていた掛物の塵を掃ってその紐を解きました。なにげなくあけて見ると、それは山水でも花鳥でもなく、一枚の絵図面を仕立てた横幅よこふくでありました。
 神尾主膳の家にめでたいことがあるといっても、それはお松が知ったことではありません。
 けれども、このたびの慶事の噂が、お松の耳にはあまりに突飛とっぴに聞えたものですから、多少考えさせられないわけにはゆきませんでした。
 今まで放蕩無頼に身を持ち崩して、いったん持った奥方を去ったという主膳が、今になって女房を迎えようとする心持がお松にはわかりませんでした。それから、この殿様を夫に持とうという女はどういう人であろうか、その人の気も知れないように思いました。
 めでたいことだから祝わねばならぬけれども、お松の常識で考えては、この結婚がどうも末頼すえたのもしくは思われません。どうしても一時の権略のための結婚であるとしか思われないのであります。
 どうしても、お気の毒なのは、こちらへ貰われて来る嫁御寮よめごりょうだと思わないわけにはゆきません。
 このお屋敷の殿様が、どういうお方であるかまるきり知らずに、ただお殿様という名前にれて、可愛い娘を手放す親御たちをもお気の毒と思わないわけにはゆきません。
 人のめでたいことを呪うような心を起すのは浅ましいとは知りながら、お松はこの慶たい噂を慶たからず思いました。
 それはそれとして、お松がいま持って出た掛物は甲府のお城の絵図面であります。今日、宝物の風入れに、お松はそれとなくこの絵図を心がけていました。塵を掃っている数多あまたの書物や掛物のなかにはそれがあるだろうと思っていましたが、幸いにそれを見つけました。
 仕事が済んでから、お松はその絵図を持って自分の部屋へ帰りました。部屋へ帰ってそれを拡げて、つくづくとながめていました。
 お松のながめている絵図には、甲府城を真中にして、そのくるわの内外の武家屋敷や陣屋、役宅などが細かに引いてありました。
 お松の眼はお城の濠に沿うて東の方の一角をじっと見ていました。ほかのところはさしおいて、その一角ばかりを見つめていました。お松の見つめている一角というのは、お濠を隔ててお城と、お代官の陣屋との間に挟まれたところで、そこには罪人をとらえる牢屋があるのであります。聞いてもいやな感じのする牢屋、お松はそれを見たいばかりに、わざわざこの絵図をそっと持ち帰ったのであります。牢屋を見たがるお松は、牢屋の中に見たいと思う人があるからであります。
 その人のために、お松はどのくらい心を痛めているか知れません。お絹を通したり、自分で遠廻しに頼んだりして神尾にすがりました。ここへ来る道中では駒井能登守にさえも訴えてみました。
 けれども、その証拠が歴然たる上に、御金蔵破りのことが重いので、ともかくも本当の犯人が挙った上でなければ、冤罪えんざいが晴れまいということを聞かされて、お松の失望落胆は言うべくもありません。
 せめて牢屋の模様でも知っておきたいと、お松はその道筋を幾度か指で引いてみました。けれどもそれは徒事いたずらごとで、お松の力でどうしようというのではありません。自分の力でどうしようというわけにはゆかないものであると知りながら、お松は人の力のたのみにならないことをもどかしがって思案に暮れました。
 ここは神尾の本邸とは別に一棟をなしているところの別宅であります。その一間に、お絹は取澄まして一人の男のお客を前に置いて話をしていました。
 お絹の前に坐っている男の客というのは役割の市五郎です。
「御別家様、まず以てとどこおりなく運びましておめでとう存じまする。御結納ごゆいのうはこの暮のうちに日をえらんでお取交とりかわしなさいますように。お婚礼は来春になりまして花々しく」
 市五郎が言葉をうやうやしくこう言いますと、お絹も喜ばしそうに、
「お前さんの橋渡しで都合がよく運びました、これでわたしもワザワザ甲府へ来た甲斐かいがあると申すもの、主膳殿もこれから身持ちが改まって出世をすることでしょう、三方四方めでたいこと」
と言ってお絹は市五郎の労をねぎらいました。市五郎はひたいを叩いて、
「まことにハヤ慶たいことで。なにしろ、先方が聞えた旧弊の家柄でございますのに、当人がまたばかに気むずかしいものでございますから、どうなることかと心配しておりましたが、幸いなことに、その当人が乗気になりまして、それで話がズンズンと進んで参りました……しかし御別家様」
 市五郎が呑込んで話しているのは、例の縁談の一件であります。
「御別家様」
 市五郎はお絹を呼ぶのに御別家様の名を以てして、
「お媒妁人なこうどはどなた様にお頼みあそばしますおつもりでございますな」
「それは……あの御支配のお二方のうち、筑前様と能登様といずれかにお頼み致すよりほかはなかろうと思っておりまする。また別に組頭や奉行衆のうちにしかるべきお方があれば、その方へお頼みすることにしてもかまいませぬ」
「左様でございますな、お組頭やお奉行衆のうちで……それも結構でございますが、御当家様のお媒妁としては、やはり御支配様をお頼みになるのが順当でございましょう。その御支配様と申しましても、能登様は御新任の上に、お年もお若いし、それに奥方様をお連れになりませぬ故、やはりお年と申しお二方のお揃いと申し、筑前様をお頼みあそばすが至極よろしいことのように存じまする」
「わたしもそう思いまする。それに主膳殿は能登様とは合いませぬ」
「左様……」
「もとは同じぐらいの格式の旗本、それで同じところへ勤めていると、若い同士でどうも気拙きまずくなって困ります」
「けれども能登様へも、一応のお話は申し上げませんと」
「それは筑前様の方を、よくよくお頼み申しておいて、お話をきめた上で能登様へは一通りの御挨拶だけにしておきたいと、主膳殿も申しておりました」
「左様でございますな……あれで能登様もなかなかかぬところがおありなさるから、万一、この縁談に……そんなこともございますまいが、能登様から故障が出るようなことがございますると……」
「それだから、最初に筑前様の方をまとめておけばよいではありませぬか。その筑前様へのお使は、わたしが行って、きっと纏めて参りましょう」
「左様ならば大丈夫でございます、御別家様からねんごろにお頼みになりますならば、大丈夫でございます」
 市五郎はそこへ仰山ぎょうさんらしく保証をおいて、お暇乞いをして帰ろうとすると、
「まあ、よいではないか、前祝いに何か差上げたいもの……お松や、お松はおらぬかいな」
 お絹は市五郎を引留めてお松の名を呼びました。
 お絹から呼ばれてお松はその席へ出ますと、
「こっちへお入り」
 お松はしとやかに座敷の中に入りました。
 そこでお絹はお松を市五郎に引合わせると、市五郎はにわかに膝を揃えて座を下り、
「これはこれは初めまして、わたくしが市五郎めにござりまする、どうぞお見知り置かれて」
と非常に低く頭を下げましたから、お松はそれに準じて丁寧に挨拶をし、
「行届かぬものでござりまする、なにぶんよろしく……」
と両手を揃えて言いました。
 近づきが終ってから市五郎は卑下ひげと自慢とをこき交ぜて、自分がこの土地に長くいることだの、折助や人足、それらの間における自分の勢力が大したものであること、御支配をはじめ重役の間にて自分の信用が多大であるということ、そんなことを、それとなく言っているが、お松には聞き苦しいほどであるのに、お絹は上機嫌で、
「お松や、お政治向きのことは別にして、そのほかのことならこの人が何でも心得ているから、お前、何か頼みたいことがあるなら、遠慮なくこの人に片肌脱いでおもらい」
とまで言いました。
 お松が自分の部屋へ帰った後も市五郎は、お絹の許を辞して帰る模様がありませんでした。しばらくたつと、その座敷が陽気になって、盃のやりとりにまで進んでいったようであります。根岸へ引籠った時分には一層慕わしく思われたお師匠様が甲府へ来ると、またがらりと変ったように思われるのがお松には浅ましい。誰とでも容易たやすく懇意になってしまって、ああして気を許すお師匠様の挙動がお松には歎かわしい。

         六

 甲府の牢屋は甲府城の東にあたってお濠と境町の通りを隔てて相対し、三方はお組屋敷で囲まれている。そのお組屋敷の東は御代官の陣屋になっているのであります。
 宇津木兵馬のとらわれているのは、その牢屋の中の一番室で、それは六畳敷でありました。その六畳の中には兵馬と、そのほかに一人の奇異なる武士が囚われています。
 この室の中の南と北は格子であります。東と西は羽目はめであります。
 宇津木兵馬はその羽目の方の一隅に寝ています。もう夜が更けているから牢の中は真暗であります。兵馬は寝入っている様子だけれども、同室のもう一人の奇異なる武士は、まだ起きていて暗い中で何をかしているようです。
 その武士は三十前後の歳で、総髪にして髪を結んで後ろへ下げています。
「うーん」
というて苦しげにうなるのは寝ている宇津木兵馬の声で、それと同時に寝返りを打とうとするらしい。
「宇津木、苦しいか」
 奇異なる武士は声をひそめてこう言いますと、
「いや、別に」
と兵馬は、これも、ひそかに答えました。けれどもその返事は、苦しさをこらえている返事です。
「もう一服、飲んでみるか」
と言って奇異なる武士が、兵馬の枕許まで来て、蒲団ふとんの下を探ります。
「うーん」
と兵馬はまた苦しげに呻りました。
 蒲団の下から一包の紙、それは薬とおぼしいのを取り出して、奇異なる武士が兵馬の口許へ持って来ました。
「まだ熱が高いな」
 片手では薬の包を持ち、片手では兵馬の額を押えました。
 兵馬は寝ていながら、口を開いてその紙包から薬を飲みました。
「ソレ水」
 枕許の椀を取って水を兵馬に飲ませました。兵馬は少しばかり起き直って、コクリコクリとその水を飲みました。
「気をつけて寝ておれ」
 奇異なる武士は、じっと兵馬のかおを見つめています。
 火の気のない牢屋の中の夜のことであるから、尋常ならば、なにもかも見えないのであろうけれど、この奇異なる武士は暗い中でも、よく物が見えるようであります。
 兵馬もまた相当に暗い中で物が見えるようです。暗い牢の中に居つけたために、おのずから眼がそういうふうに慣らされたものでしょう。
 兵馬が寝ついたのを見て奇異なる武士は、また以前の座へ立戻り、何をしているのかと思えば、紙を裂いて、しきりに紙撚こよりをこしらえているのであります。
 自分の蒲団は兵馬に着せてしまっているから、この武士の横たわるべきものはありません。半畳ほどの渋紙をしいてその上で、紙撚をこしらえて、眠いということを知らないもののようです。
 何十本かの紙撚をこしらえてしまうと、そこにはもはや紙撚にすべき紙がありません。その時この人の座右ざうの書冊、それは「安政三十二家絶句」というのを手に取ると、その中の紙をメリメリと引き破り、幾枚か引き破ってそれをまた細かにし、細かにしてまた紙撚をこしらえはじめたのであります。
 この人がこうして一心不乱に紙撚をこしらえていると、この室の一隅、兵馬の寝ている隅とは違ったところの羽目板が、微かな音でトントンと二つばかり鳴りました。
 羽目をトントンと叩いた音は、到底そのつもりでいなければ聞けないほどの微かな音でありました。けれども、紙撚をこしらえていた奇異なる武士は直ぐにそれを聞きつけて、坐ったまま耳をその羽目の合せ目の透間すきまへ着けてしまいました。
「まだ起きてか」
 これが次の室から聞えた小さな声でありました。
「起きてる、起きて一生懸命に内職じゃ」
 こっちの奇異なる武士は、そう答えてニヤリと笑いました。
「そうか、病人はどうじゃ」
「熱は高いけれど、生命いのちにかかわることはあるまい」
「大事にするがよい」
「せっかく養生中じゃ」
「それからな、今日は重大な音信たよりを聞いたから、知らせる」
「左様か」
「今日は、おれの方に一人の新参しんまいがあった、それは、贋金遣にせがねづかいとやらの罪で、この牢へ送られた男だが、その男から聞いた話だ」
「なるほど」
「長州では、いよいよ三人の家老を斬って、幕府におびをすることになったげな」
「ナニナニ、長州で三人の家老を斬って幕府へお詫びをすると? そりゃ夢のような話だ、真実まこととは聞かれぬ」
「どうも、拙者においても信じきれぬのだが、その男の言うことを聞いてみればマンザラうそとは思われぬ、まあ聞いてくれ、こういうわけじゃ。長州藩では去年の八月、入京を禁ぜられてから、その許しを願うことと、それから例の七卿の復任を許されたいということで、さまざまに建言をするけれど更に御採用がない、この上は兵力を以て京都へ推参して手詰てづめの歎願をするほかはないと、久坂玄瑞くさかげんずい、来島又兵衛、入江九一の面々が巨魁きょかいで、国老の福原越後を押立てて、およそ四百人の総勢で周防すおうの三田尻から、京都へ向って出帆したというものだ」
「うむ、うむ」
「そのほかに、久留米の神主で、あの慷慨家こうがいか真木和泉まきいずみが加わる、それから中山卿のお附であった池、枚岡ひらおか、大沢の三人――中山卿は長州でくなられたそうじゃ。大和の十津川から浪華なにわを経て、長州へおいでになったが、そこで亡くなられたということじゃ。まだ十九か二十のお歳であろうに、お痛わしいことな」
「そうか、中山侍従は長州で亡くなられたか」
「御病気で亡くなられたか、または不慮の御災難であったか、その辺は更にわからぬ。してその中山卿のお附であった池、枚岡、大沢の三人も加わってよ、浪華へ着くと、同藩の仲間や諸藩の脱走がせ加わったから、兵を二手に分け、一手は船で山崎から、一手は陸を伏見へのぼって行った。何しろ兵器をたずさえ、旗を立て、隊伍を乱さず上って行くのだから、京都も騒がずにはいられないのじゃ」
「なるほど、なるほど」
「それにまた国司信濃や益田右衛門介らが鎮撫ちんぶを名としてせ加わって、とうとう御所へ押しかけてしまった、そこで会津、一橋、薩州の兵を相手に、かしこくも宮闕きゅうけつの下を戦乱のちまたにしてしまった」
「うむ、うむ」
「しかし、さすが命知らずの長兵も諸藩の矢に攻められて、来島又兵衛は討死する、久坂玄瑞も討死する、福原、国司、益田の三家老は歯噛みをしつつ本国へ引上げるということになって、その後が長州征伐の結末は、毛利公の恭順と、例のその三家老の首を斬って謝罪するということで納まったそうじゃ」
 これらの話し声は、極めて小さい声で行われましたけれども、平談俗語へいだんぞくごの通り、尋常に聞き且つ答えることができました。
 話をしている間も、見廻りの来る心配はありません。ここの牢番もよく見廻りをするよりも、よく眠りたい方です。
「ははあ、それは一大事じゃ」
と言って、こちらの奇異なる武士は考え込みました。
「これで長州も寂滅じゃくめつ
 えたいの知れない話し相手も、絶望したような声で言いました。
「いやいや、そう容易たやすくはいくまいよ」
 こちらの奇異なる武士は、存外、平気で答えました。
「どうして」
「長州の中にも、二派あるはずじゃ」
「左様」
「そうして幕府に恐れ入ってしまうのもあるだろうが、なかなかそれで承知のできぬ奴もあるはずじゃ」
「左様」
「例の高杉晋作しんさくがこしらえた奇兵隊というのがある、あの辺のところが黙って引込んではいまいよ」
「なるほど」
「君は高杉を知っているか」
「知らん」
老物ろうぶつは知らん、若手では、あれが第一の男よ。あれのこしらえた奇兵隊というのは、他藩には、ちょっと類のないものじゃ」
「うむ、うむ」
 さきには向うが話の主でこっちが聞き手でありましたが、今度はこっちが話し手で、向うが聞き手になりました。
「長州には奇兵隊があり、薩摩には西郷吉之助のようなのがある、長州が本気で立てば薩摩が黙っていない、薩摩と長州とが手を握れば天下の事知るべし」
「面白くなるのだな」
「それは面白くなるにきまっているけれど、おたがいに籠の鳥だ」
「南条――」
 ここで両人の話が暫らく途切れました。話が途切れると獄舎ひとやのうちは暗くありました。こちらの室では兵馬の寝息、あちらでは同じ室に、また幾人いるか知らん、いびきの声を立てているのさえあるが、それをほかにしては、いよいよ静かなものであります。
 こちらの奇異なる武士は、いよいよ近く羽目の透間すきまへ耳をつけた時に、
「南条――南条」
と向うから呼びましたが、
「手を出せ」
「うむ、うむ」
 こちらの武士は、耳を着けていたところより一尺ばかり下の透間へ手を当てると、その透間からスーッと抜き取ったのは、のない一挺のやすりのようなものであります。
「これはどうしたのだ」
「今いう贋金遣にせがねづかいという男が、そっとおれにくれたのだ、同じやつがまだ一挺ある、のこぎりのみ小刀こがたなと三様に使える」
「エライものを手に入れたな」
「それこそ天の与え」
「有難い、有難い」
と言って、こちらの奇異なる武士は、そのやすり推戴おしいただきました。
 この時に牢番の小使が咳をしました。もう大抵、話すべき要領は尽きたと見えて、それを機会しおに話は切れてしまいました。
 牢屋の形式は厳重でありましたけれど、中の見廻りはさほど厳重なものではありません。
 牢番の小使の老爺おやじに金をやって頼めば、大抵のものは調ととのえてくれます、羽目の間から物のやりとりや、小さな声で話をすることなどは、ほとんど自由です。
 宇津木兵馬は、ここへとらわれて来る時に金を持って来ませんでしたけれども、その後、誰ともなく金を差入れてくれるものがあると見え、その小づかいが二両三両と兵馬に手渡されます。それも五両差入れたものがあるとすれば、そのうち二三両ずつ、誰か頭をねる者があるらしくありました。
 誰が差入れてくれるのだか知らないけれど、兵馬はそれがために、大へんに便宜を得ました。望みの物を買ってもらうこともでき、同室の人に融通することもできました。多分、七兵衛の仕業しわざでありましょう。
 その兵馬は不幸にして、このごろ熱におかされています。そうして枕が上らないでいるのを、例の同室の奇異なる武士が介抱していました。この奇異なる武士は、兵馬よりは先にこの室に入れられていました。それと同室して語っているうちに、兵馬はこの奇異なる武士の奇なることを感ぜずにはいられません。

 今日は少しかったから起きてみました。夜は早く床に就きましたが、よく眠れました。夜中になって、ふと妙な音が耳に入りましたから目を覚まして、音のする方を見て、我知らず身を起しました。兵馬は半身を起して、怪しげな音の耳ざわりになるところを見ると、同室の奇異なる武士が、格子によりかかって仕事をしているのを認めました。
 その奇異なる武士は、何かを以て、極めて小さな音を立てながら、牢の格子を切っているとしか見えません。言葉を換えて言えば、牢破りをくわだてつつあるとしか見えません。
 あまりのことに兵馬は、蒲団ふとんって、よろめく足を踏みしめて立ち上りました。
「南条殿」
 兵馬はよろめきながら近寄って、牢の格子を切っている奇異なる武士の手を押えました。
「宇津木、起きてはいかん」
 奇異なる武士は、兵馬に押えられても、別段に驚きはしません。
「南条殿、何をなさる、軽々しいことをなさるな」
 兵馬はたしなめるように言いました。
「君の知ったことではない、身体に悪いから寝て居給え」
 南条と呼ばれた奇異なる武士は兵馬の手を取って、牢の格子の角の隅をさぐらせました。兵馬はそこへ手を当ててみると、何かの刃物でズーッと横に筋が切り込まれてあります。その切込みはまだそんなに深くはありませんでしたけれど、退引のっぴきならぬ破牢の極印ごくいんであることは確かであります。
「ああ、大胆なこと」
と言って兵馬は嘆息しました。
「二番の室でも、これをやっている、成敗せいはいともに我々が引受けるから、まあまあ安心して寝て居給え」
 奇異なる武士は騒ぐことなく、兵馬をなだめて、またも静かにその切込みへ刃物を入れました。その刃物というのは、前夜隣室の羽目の隙間から手に入れた鑢様やすりようのものであります。兵馬は、その上にかれこれと言いませんでした。それは余人ならぬこの人が、かく決心して事をはじめた上は、いまさら自分が是非を論じても駄目だと思ったからであります。
「世が世ならばこんなことはしたくはないが、時勢を聞いてみると、どうしてもここに安んじてはいられぬのじゃ、文天祥ぶんてんしょうが天命に安んずるこそ丈夫の襟懐きんかいではあるが、盗人の屋尻やじりを切るような真似をせにゃならぬのも時節。宇津木、君だからとて、そうそう正直にむじつの晴れるのを待ってもいられまい。上に名判官ある世には、獄屋ひとやのうちにも白日の照すことはあろうけれど、ここらあたりでそれを望むは、百年富士川の流れが澄むのを待つのと同じこと」
 南条と呼ばれた奇異なる武士は、こう言いながら静かに、格子の角を引いているのであります。
 兵馬はぜひなく寝床の方へ退きました。兵馬は蒲団を引被ひきかつぎながら、格子の角に引かれる鑢のちいさな音を聞いていました。

 兵馬は正直な心で、今まで待っていました。おのれのやましいことさえなければ、泰然として待っているうちに、天は必ず己れを助くるものだと信じていました。非法に囚われたけれど、自分は法を犯してそれを逃れようとはしませんでした。しかし今という今、その心に動揺が起らないわけにはゆきません。

         七

 駒井能登守は例の洋風に作った一間にこもって、このごろは役所へもあまり出勤せず、また調練も暫らく他の者に任せておきました。
 この一間に籠った能登守は、人を諸方につかわして土を集めさせています。自分もまた、思い立ったように外へ出ては土を集めて来るのであります。
 集めた土を分析ぶんせきしたり、また火にかけたりしてためすことに、ほとんど寝食を忘れるくらいの熱心でありました。
 能登守が預かって、城内の調練場で扱っている虎砲こほう十二磅砲ポンドほうというようなのは、伊豆の江川の手で出来たものであります。伊豆の江川は能登守と同じく、高島四郎太夫を師とするものであります。能登守は甲府へ赴任の最初から、ここへひとつ、江川と同じようなものを建てたいと思っていたのでありました。それは自身で研究して自身で造り出した砲でなければ満足のできないほどに、能登守の砲術の愛好心はこうじているのであります。
 江川太郎左衛門が伊豆の韮山にらやまに立てたのは有名なる反射炉であります。江川がその反射炉を立てる時に最も苦心したのは煉瓦れんがでありました。煉瓦を作る土でありました。当時、外国から取り寄せることのできないために、江川はまず煉瓦から焼いてかからねばなりませんでした。その高熱に耐える煉瓦を焼くべき、土から求めてかからなければなりませんでした。
 江川はようやくにしてその土を、天城山あまぎさんの麓と韮山附近の山田山というところから探し出して、煉瓦を作りました。その煉瓦は立派なものでありました。今日の進歩した耐火煉瓦に劣らぬほどの煉瓦を、当時、独創的に作り出したものであります。耐火試験によって、千七百度の高熱に耐えるということであります。千七百度の熱度は、白金の溶解度であります。
 能登守は江川のその苦心を見もし聞きもしました。土を集めてそれを調べていることは、やはり同一の目的のためと見てよいのであります。その研究の間は誰人をもこの室に入れることを避けて、眠ることも、ほとんどこの椅子と卓子テーブルとにったのみでありました。疲れた時は夜となく、昼となく、うつらうつらと眠るのでありました。覚めた時は書物と実物とを向うに首っ引きでありました。
 今も疲れて能登守は、椅子に深く身体を埋めて眠っていました。その時に扉が静かにあいて、
「殿様」
 扉の前に立っているのはお君でありました。
 お君は、大名や旗本の家へ仕える女中のようにこしらえています。お松とは年の頃合いは同じくらいでありましたけれど、お松は肉附のよい、どこかに雄々しいところのある娘でありました。お松に比べると、お君はもういっそう色白で、繊細きゃしゃで、沈んだ美しさを持っていました。
「殿様」
と言って、そっと扉をあけたお君は、椅子にってスヤスヤと眠っている能登守の姿を見て、嫣然にっこりとして、音を立てないようにその傍へ近づいて行きました。
 能登守はよく眠っていて、お君の入って来たのに少しも気がつきません。お君は、能登守の椅子に近いところまで来て、主人の寝顔の前に立っていました。
 この数日、主人の髪も乱れているし、それに寝ているおもてにもやつれが見えていました。心配そうに見ていたお君は、
「殿様」
 やや大きい声でふたたび呼んだ時に、能登守は眼を覚まして、
「あ、お前か」
と言って莞爾にっこりとして、えてとがめることをしませんでした。お君が給仕としてこの室に入ることを許されている唯一の者であります。
「よく、おっておいであそばしました」
 お君はこう言いました。
「あ、ついうとうとと寝入ってしまった」
 能登守は椅子に埋めた身体を、少しばかり起そうとしました。
「あの、お客様でございますが」
とお君が言いました。
「客?」
 能登守は小首をかしげて、
「言うておいた通り、この仕事をはじめてからは、来客に会いたくない」
ってお目通りを致したいと、そのお客様からのお願いでございます」
「それは誰じゃ」
「女の方でございます」
「女の……」
「はい、神尾主膳様の御別家のお方と申すことでございまする」
「ははあ」
 駒井能登守は、直ぐにそれとうなずくところのものがありましたが、
「どのような用向か知らん、わしは会いたくない、誰か会ってもらいたい」
 会うことを多少迷惑がるようであります。
「それでも殿様に、じかにお目通りを致さねば申し上げられないことなのだそうでございます。それがため、小島様も服部様も、わたしにお殿様へお取次ぎ申してみるように、お頼みでございました」
「はてな」
 能登守は、その晴れやかなおもてを少しく曇らせました。
「ともかく、あちらへお通し申しておくがよい、暫らくの間お待ち下さるようにお断わりをして」
かしこまりました」
「それから、お前は、わしの羽織だけをここへ持って来てくれるように」
「畏まりました」
 お君はむねを受けてこの一間を出て行きました。能登守はその後で腕を組んで考え込んでいましたが、
「ははあ、そうじゃ、忘れていたわい、例の神尾が嫁を貰いたいということであろう、あの一件で例の婦人が出向いて来たものと見ゆるわい――筑前殿からも内談があったのだが、あれは、まだ拙者にはせぬことがある故に、なんとも返事をせずにおいた。事実、神尾があの縁組みを本気でするか、それとも一時の策略か、その辺を、もう少し確めてみぬことには……」
 駒井能登守は、こんなことを思いつきました。そうして独言ひとりごとのように、
「しかし神尾は小人じゃ、まんいち拙者が故障を言えば、きっと拙者を恨むに違いない、恨まれるのは苦しくないが、何も知らぬ処女おとめが、悪い計略に落ちるようじゃと気の毒の至り」
 こんなことを胸に問い答えている時に、お君が羽織を入れた黒塗りの箱を捧げて来ました。能登守が筒袖の羽織の紐を解くと、お君はその後ろに廻りました。それを黒の紋付の羽織と着替えさせて、お君はその筒袖の羽織を畳みかけました。
 能登守は着替えた羽織の紐を結ぶと、お君は、
「殿様、あの、おぐしが乱れておいであそばしまする」
と言いました。
「うむ、それもそうじゃ」
 お君は、筒袖の羽織を畳んでいた手を休めて、鏡台を卓子テーブルの上に立てました。その鏡は隅の棚の上に置かれてあった、これは洋式のものではなく、磨き上げた丸い鏡でありました。
 お君はこうして能登守のために乱れたびんの毛を撫でつけながら、その鏡にうつる殿様のおかおを見ると、恥かしさで手先がふるえて、自分の面が火のようにほてるのに堪えられません。

 駒井能登守は客間でお絹と対坐しております。
 それは日本式の客間で、二人の間には桐の火桶が置いてありました。お絹は、いつぞやの甲州道中のお礼などを述べました。そうして後に、お絹が言い出したことは案の如く、神尾主膳のこのたびの縁談のことでありました。
「神尾も、ああして置きますると我儘わがままつのって困りまする、わたしが参りましたのをよい折に、ぜひこの縁談だけはまとめて帰りたいのでございまする。筑前様にも、このことを大へんおよろこび下さいました」
 こういう話でありました。能登守はそれを聞いて、
「それはめでたいことでござる、左様な慶たいことを何しに拙者において異議がござりましょう。して、先方のお家柄は?」
 穏かにこう尋ねたのでありました。
「先方は、有野村の藤原の伊太夫の一の娘にござりまする」
「有野村の伊太夫の娘?」
「左様でござりまする」
「なるほど」
 能登守は暫らく考えている風情ふぜいでありましたが、言葉をついで、
「あれは聞ゆる旧家でありましたな」
「仰せの通り、家柄では多分、この甲州に並ぶ者がなかろうとのことでござりまする」
 お絹はやや誇りがおに答えました。
「その通り、伊太夫は拙者もよく存知の間柄、その家柄もよく承っているが、その息女にはまだお目にかからぬ」
「常には、あまり人中へ出ることさえ嫌うような娘でありましたが、このたびの縁談は、その当人が進みましたものでござりまする」
「それは何よりのこと。この縁談の仮親かりおやはどなたでござりまするな」
「仮親と仰せられまするのは?」
「神尾家と藤原家とにはいささか家格に違いがござるようじゃ、藤原家の息女が神尾家へ御縁組み致すには、仮親をお立てなさるが順序と考えられるが」
「恐れながら、家格の違いと仰せでござりまするが、あの伊太夫が家は、御承知の通り、葛原親王かつらはらしんのういらいの家柄と申すことでござりまする、それに権現様以前より苗字帯刀みょうじたいとうは御免、国主大名の系図にも劣らぬ家柄でござりまする故に、神尾家にとって釣合わぬ格式とは存じませぬ」
 お絹は、こう言って能登守から、家格の相違ということを言われたのに弁解を試みました。
「いやいや、そのことではない。およそ旗本の家が縁組みをするには、同じ旗本のうちか、或いは大名の家よりするか、さもなき時はしかるべき仮親を立てるが定め、その辺は御承知でござりましょうな」
「それは……」
と言ってお絹は、ややあわてました。
「まだそれまでには運んでおらぬのでござりまする……」
 お絹が、それについてなお何かを弁明しようとする、その言葉の鼻を押えるように、能登守が、
「左様ならば取敢とりあえず、そのことをお取定とりきめあってしかるべく存じまする」
と言ってしまいましたから、お絹は二の矢がげないようになりました。
「御親切のお心添えを有難く存じまする、よく主膳にも申し聞けました上で……」
 お絹はこう言って辞して帰るよりほかはありません。能登守の言い分は正当であるにしても、せっかく使者に来たお絹にその言い分が快い感じを与えることができませんでした。ましてやこれが神尾主膳の耳に伝わる時は、憎悪となり怨恨えんこんと変ずることは目に見えるのであります。

         八

 神尾主膳はその晩、一人で躑躅つつじさきの古屋敷を訪ねました。酔っているもののように足許がふらふらしています。
「机氏、机氏」
 いつも竜之助のいる屋敷へ、そのふらふらした足どりで入って来たけれども、そこに竜之助がいませんでした。
「竜之助殿、どこへ行った」
と言いながら、そこへドカリ坐ってしまい、それから酔眼をえて室内を見廻しました。
 例の通り、丸行燈まるあんどんに火が入っているにはいたけれども、それは今や消えなんとしているところであります。
「いやに暗い火だ、明るくない燈火ともしびだ、もっと明るくなれ、明るくなれ」
 主膳は燈火に向って、こんなことを言いました。その舌のもつ塩梅あんばいを見れば、かなりに酔っていることがわかります。
「誰もおらぬか、誰ぞ来い、あの燈火をもっと明るいように致せ、こんなにして燈心をき立てるがよい、燈心を掻き立てさえ致せば、火はおのずと明るくなるのじゃ、早う致せ、誰もおらぬか、誰ぞ来い来い」
 怪しげな呂律ろれつで取留まりもなく言いました。そうして酔っぱらい並みに頭をグタリと下げたり、怪しげな手つきをして、その手をすぐに膝の上へ持って来て、狛犬こまいぬのような形をしたりしていました。
「うむ、よし、誰も来ないな、来なければこっちにも了見がある、お松、お松、いや女中共、女中共はおらぬか、其方そのほう共は主人の言いつけを聞かぬな、其方共までこの主膳をあなどると見ゆるな」
 神尾主膳は、また酔眼を据えて室内をめ廻したが、
「はははは」
と高笑いをしました。
「違った、違った、ここは古屋敷であったな、なるほど、ここは躑躅ケ崎の古屋敷じゃ、ここには誰も召使はおらぬのじゃ、屋敷の中には無暗に物を斬りたい奴が一人いて、屋敷の外には法性狐ほっしょうぎつねがいる、そのほかには誰もいない、いないところへ物を言いつけた、これは拙者が悪い、どれどれ、大儀ながら御自身に立って、あの燈火を掻き上げにゃならぬ、燈火ともしびは暗し数行虞氏すうこうぐしなんだ――」
 こんなことを言いながら神尾主膳は、ふらふらと立って行燈の傍へ来て、燈心を掻き上げて火影ほかげを明るくして、覚束おぼつかなくも油をさえ差加えましたから、四辺あたりは急に明るくなりました。
「はははは、現金なものじゃ、燈心を掻き立てて油を差したらば火が明るくなったわい、火が明るくなったから四辺の物がよく見えるわい、よく見えるけれども机はおらぬわ、竜之助が姿を見せぬわい、はて、この夜中に、どこへ行った、眼の見えぬくせに、はははは、眼が見えぬから夜と昼の区別がつかず、どこぞへ彷徨さまよい出したかな」
 神尾主膳には酒乱の癖があります。しかしこちらへ来てからは酒乱の癖が出るほどに酒を飲みませんでした。主膳もこれだけは多少謹慎の心があったのであります。それにどうしたものか今宵は、その酒乱に近いほど酒を過して来たもののようであります。
 室内が明るくなると共に、主膳は四辺をまた見廻しはじめました。
「刀もある、槍もある、敷物もある、屏風びょうぶもある……茶道具もあれば煙草盆まである、ふすま唐紙からかみ……」
 こんなことを言って室内を見廻した主膳の酔眼がトロリとして、室の片隅の長持の上へ落ちました。
「あ、あれだ、誰もおらぬと思うたのはこれも間違い、あの中に一人の男がいる、口の利けない男がいる、今それを引き出して玩弄おもちゃにするのだ」
 主膳は、またふらふらと立って長持の傍へ行きました。
「幸内、長持の中にいる幸内、これへ出ろよ、そのように長持の中に隠れてばかりいては窮屈であろう、貴様も若い身空みそらじゃ、そう長持の中に隠れていずと、ちっとは広いところへ出てこいよ、壺中こちゅうの天地ということもあるから、それは長持の中もよかろうけれど、若いのにそう隠れてばかりいては命の毒じゃ、それこそ長持ちがないぞ」
 主膳は刀を提げて長持の中へ片手を入れました。その長持にはふたがしてありません。蓋をしてない長持の中へ主膳は手を入れて、鼠を吊し出すような手つきをして、その襟髪えりがみを取って引き立てたのは幸内であります。
 かわいそうに幸内は、いまだにこの長持の中へ入れられてあったのであります。袋はかぶせられていないけれどもせきっておりました。両手は前にくくられていました。両足は揃えて固く縛られてありました。争うにも力は尽き果て、物を言おうにも声が立ちません。
 ズルズルと長持の中から幸内を引張り出した神尾主膳は、それを燈火に近いところへ持って来て、
「はははは」
 主膳は幸内をそこへ引き倒して置いて、
「幸内、そちに窮命をさせて、拙者は気の毒に思う、そちには怨みも憎みもないのじゃ、これというのは名刀のたたり、小人罪なし珠を抱いて罪ありということがある、幸内罪なし刀を抱いて罪ありというのじゃ、伯耆ほうきの安綱が悪いのじゃから不祥ふしょうせい……それからまたお前の主人の伊太夫の娘、気の毒ながらお化けのような娘、あれを拙者が嫁にしたいと言うのは、抱いて寝たいからではないぞ、いとしい恋しいと思うからではないぞ、恥かしながら拙者はいま手許てもと不如意ふにょいじゃ、伊太夫の財産に惚れたのじゃ、娘には恋なし、財産があるから恋ありと言わば言うものよ、ははははは」
 主膳は憎らしい毒口を吐きかけました。幸内の口は声の立てられぬように薬を飲ませられてしまったけれど、その耳は、この毒口を聞き取ることに不足はないと見えます。
 幸内は主膳の言葉を聞くと、その首を烈しく振って苦しげな表情をしました。その有様を、主膳は、やはり酔眼を張って見ていましたが、
「まあ聞けよ、悲しいことに九分まで運んだこの縁談が、きわどいところでこわれそうじゃわい、ほかでもない、それは駒井能登めが為すわざじゃ、あの小賢こざかしい駒井能登が邪魔をして、惜しい縁談が壊れかかったわい、残念じゃ、腹が立ってたまらぬわい」
 ここに至って神尾主膳は、正銘しょうめいの酒乱になってしまったようであります。
しゃくに触って腹が立ってたまらぬ故、これからそちを駒井能登めに見立てて、この腹が納まるほど、なぶって弄って、弄りのめしてやるからそう思え」
 神尾主膳はブルブルと身をふるわして、突然、幸内の襟髪を取って引き立て、
「やい、駒井能登守、この神尾主膳をなんとするのじゃ、主膳をなんと心得て、どうしてみようというのじゃ、えい、小癪な」
 力を極めて前へ突き倒しました。突き倒されて幸内が突んのめるのを直ぐにまた引き起して、
せこけた駒井能登守、口の利けない駒井能登守、突き倒されて直ぐに突んのめる駒井能登守、この神尾主膳をなんとするのじゃ、えい、腹が立ってたまらぬ、見るも胸が悪くなるわ、やい」
 それをまた、力を極めて横へ突き転がしました。突き転がしておいて直ぐにまた引き起し、
「前へ突き倒せば前へ倒れる駒井能登守、横へ転がせば横に転がる駒井能登守、さあ、この次はどうしてくれよう、水をくらわせてくれようか、火を浴びせてくれようか、どうすればこの腹がえることじゃ、やい」
 こんなことをしているうちに、神尾主膳の酒乱がだんだんこうじてきました。残忍性が増長してきました。
 幸内の襟髪をもってズンズンとこの座敷を引きずり出しました。
 座敷を引きずり出して戸をあけると縁側であります。その縁側から裏庭へ、主膳は幸内を引き下ろしました。自分は足袋跣足たびはだしで、庭へ飛び下りていました。
 今度は土の上を引いて引いて、古井戸の傍まで引張って来ました。
 おそらく酒乱が、こんなふうに嵩じると、もはや自分で自分の為すことを知らないのでありましょう。野獣のような残忍性が、加速度を以て加わって来るものとしか思われません。
 古井戸の流しへ幸内を引摺って来て、そこへ突き放すと、神尾主膳は車井戸の綱へ手をかけてキリキリと水を汲み上げました。
おのれが、汝れが」
 主膳は汲み上げた水をザブリと幸内の上から浴びせました。
 手を縛られ、足を縛られた幸内は、水を浴びせられて二尺ばかりも飛び上りました。飛び上ってまた倒れました。
 神尾主膳は、心持よかりそうに高笑いして、また二杯目の水を汲みにかかりました。
「はははは」
 二杯目の水を汲み上げて、またザブリと幸内のかおのあたりから浴びせました。幸内は一尺ほど飛び上りました。
 広い古屋敷のことで誰もいませんから、この場へ来るものはありません。ここにいる人のために衣食の世話をする人は、この近所の農夫の家族でありましたが、それは一定の時をきめて来るほかには、ここへ寄りつきませんでした。
 どんな目に遭わされても幸内は、ついに一語をも発することができません。主膳はこの残忍性の面白味を帯びた遊戯のために、三杯目の水を汲み上げて、
「はははは、これは信玄が軍用に用いた用水じゃ、なかなか冷たい水だ、指を入れると指が切れるような水だ、信玄はこの水の底へ黄金を沈めて置いたとやら、それで水がこんなに冷たい、さあ、この冷たい水を、もう一杯飲め」
 釣瓶つるべを抱いて、さあ三杯目の水を幸内の頭から浴びせようとして、神尾主膳はよろよろとよろけました。幸内に浴びせようとした水を三分の一ばかり、自分の懐ろの中へ浴びせてしまいました。
「あッ、冷たい」
 主膳は釣瓶を取落すと、釣瓶は井戸の中へ落ちました。やりそこなった主膳は、まだ釣瓶の綱の手を放さないで四杯目の水を汲みにかかりました。諸手もろてをかけてウンウンと力を入れて手繰たぐった時は、自分のしている残忍そのものの興味をも忘れているようであります。
 かわいそうに幸内は、主膳が酒乱の犠牲となって、なぶごろしにされなければ納まらないでしょう。弄り殺しにした上に、その屍骸を粉々にしなければ納まりそうにはありません。
 主膳は悪魔のうなるように、ウンウンと力をこめて綱を引きました。力余って釣瓶を井戸車の上までね上げてしまいました。井戸の水は、滝が岩に砕けるように一時にパッと飛び散りました。
「うーん」
 その途端に神尾主膳は、どうしたハズミか二三間後ろへ※(「手へん+堂」、第4水準2-13-41)どうと尻餅をいてしまいました。釣瓶の縄が切れたのです。釣瓶はすさまじい音をして単独ひとりで井戸の底へ落ちて行きました。ハズミを喰って尻餅を搗いた神尾主膳は、暫らく起き上ることができません。
「神尾殿、神尾殿」
 やや暫らくして神尾主膳は、何者にか呼びまされました。
「あ……」
 主膳は気がついた時に、自分のかおの上へ小田原提灯を差しつけている者があることと、また自分の身体を後ろから抱き上げている者があることを知りました。
「神尾殿、気を確かにお持ちなさい、拙者は小林でござる、小林文吾でござる」
 後ろから抱き上げているのがこう言いました。それはすなわち剣道の師範役小林文吾であります。小林はやはり仲間ちゅうげんのような扮装なりをして、看板の上には半合羽を着て、脇差を一本だけ差しておりました。
「別に怪我をしているわけじゃねえんだ、ただ釣瓶つるべの縄が切れたから、それで尻餅をいて気を失っただけなんだ」
 小田原提灯を差しつけてこう言ったのは、それは宇治山田の米友でありました。
 やっと気がついた神尾主膳、もとより別段に斬られたというわけでもなし、突かれたというわけでもないから、すぐに正気に返って、
「これはこれは、小林文吾殿か」
 この時には、主膳も酒乱の狂いから醒めていました。そうしてみると、なんとなくきまりの悪いような心持にもなり、また今ごろ小林師範が、どうしてこんな扮装なりをしてここへ来合せたかということも、疑問にならないではありませんでしたけれど、
「面目ないことじゃ、実は少々酔いが廻ったものだから、酔醒めの水を飲もうと、水を汲みかけてこのざまじゃ――して貴殿方はどうしてここへ」
「我々はちと尋ねる人があって、その人を尋ねてこのあたりまで来たところ、ついその人を見失うて……」
「それはそれは、ともかく、あれまで」
 神尾主膳は立ち上りました。先に立って小林を屋敷のうちへ案内しようとすると、
「こりゃどうしたんだ、エ、ここに男が一人縛られて倒れてるが、こりゃどうしたんだ」
と言って、けたたましく叫んで提灯を振りかざしたのは米友であります。
「ああ、そりゃあきちがいじゃ、養生のためにそうして水を浴びせてやるのじゃ」
 神尾は憎そうに言い捨てました。
「いくらきちがいだってお前、この寒いのに井戸側いどばたへ、水をかけて置きっ放しにしたんじゃこごえ死んでしまうじゃねえか」
 米友は同情しました。神尾は米友の方を、じっと見ただけで取合わずに、小林に向い、
「貴殿方が尋ぬる人というのは、そりゃ、いかなる人でござるな」
「ほかではござらぬ、このごろ市中に評判のある辻斬の曲者くせものを尋ねんがために」
「なるほど」
夜更よふけから暁方あけがたへかけて、こうして扮装みなりを変えて毎夜のように尋ねてみるが、ついぞ出会でっくわし申さぬ。しかるに今夜という今夜、柳小路で見かけた怪しの者、見えがくれに後をつけると、要法寺の墓地へ入って行衛が知れず、引返そうとした時に、かねてしめし合せておいたこの男、同じような怪しい者が、たった今、古城の方へ行ったと申す故、二人で後追いかけて、たしかに姿を認めたのが当屋敷の裏手。喜び勇んで駈けつけて見れば、それは尋ねる曲者ではなくて、御主人の神尾殿がこのていたらく」
 小林文吾は一通りの事情を話して苦笑いしました。
「それは、それは」
 神尾はそれを聞いてなんとなくに落ちないような心持で、例の座敷の傍へ来て縁側から覗いて見ると、さいぜん、さんざん問題にした丸行燈の火は消えてしまっていましたから、中は真暗でありました。
 幸いに米友は小田原提灯を持っていました。頼まれもしないのに、幸内を担いでその縁側のところまでやって来ていました。
 主膳と幸内とを座敷の中へ送り込んで、小林文吾と米友とはそこを辞して外へ出てしまいました。
 そのあとで、主膳は座敷の中で寝転んで、詩を吟じてみたり、新内しんないを語ったりしてみましたが、やがて思い出したように起き直りました。米友が提灯からうつした行燈には火が入っていました。その行燈の下に幸内は、水を浴びせられたままでほうって置かれてありました。主膳はその傍へ寄って来て、
「幸内、お前にもだいぶ苦しい思いをさせたな、どれ、許してやろう、縄をゆるめてつかわすぞ」
と言って、縛ってある幸内の縄の結び目を解きにかかりました。酒乱は止んだらしいけれど、酔いはまだめていないようであります。
 ついに面倒になったものと見えて、主膳は小柄こづかを抜きました。その小柄でブツリブツリと縄を切ってしまいました。
 こうして手首の縄を切られたけれど、幸内はグッタリとしていました。
「ははははは、おとなしいな」
と主膳は笑いました。それから同じ小柄をもって足首の縄をブツリブツリと切りかかりました。
 縄は足首の中に食い込んであったのを切ってしまうと、幸内の両足も自由になりました。
 両手も両足も自由になったけれど、幸内はグッタリとして動きません。それはそのはずです、三杯目の水を浴びせられようとする時分から、幸内は絶息していたものでありましたから。
「ははは、永らく窮命させた、これで許して遣わす、どこへなと勝手に出て行け」
 神尾主膳はこう言って、暫らく幸内の姿をながめていたけれど、幸内は更に動くことをしませんでした。
「はははは」
と主膳はまた発作的に笑って、そのままゴロリと横になりました。横になると新内しんない明烏あけがらすをところまんだらつまんで鼻唄はなうたにしているうちに、グウグウと寝込んでしまいました。
 主膳のいびきがようやく高くなった時分に、幸内の身体が少しばかり動きました。絶息していた幸内の眼に白い雲のようなものがかかりました。幸内は夢のように手を振りました。それが気のついたはじめで、それから自分のことをさとるまでには、なお幾分かの時間がかかりましたけれど、結局、幸内は我に返りました。
 我に返った最初に、行燈の光がボンヤリと眼へ入りました。それよりも幸内が嬉しくて嬉しくてたまらなかったのは、いつのまにか、わが手が自由になっていたことのわかった時であります。
 それがわかると勇気が一時に十倍百倍し、さほど弱っていた身体でい起きたのが不思議なくらいでありましたけれど、這い起きて見るとこれも嬉しや、足も自由になっていました。
 見れば行燈の影に一人の侍が寝ています。
 幸内はゾッとしてしまいました。永らくおのれを苦しめて苦しめ抜いた極悪人ごくあくにんという憎悪ぞうおがむらむらと起りましたけれど、その憎悪は復讐ふくしゅうというところまで行かない先に、恐怖を以て占領されてしまいました。
 何事を置いてもこの場を逃げなければならぬ、逃げ出さなければならぬという考えが、前にも後にも犇々ひしひしと迫って来たから、幸内は縁側の方の戸を押し開きました。一生懸命で戸を開いて縁側へ出て、縁側から転げ落ちて、やっと起き直って、庭を駈け出してまた転びました。また転んでまた起きました。その有様は後ろから鬼に追われて、足のすくんだ夢を見ているような形でしたけれど、別に何者も追いかけるのではありません。
 神尾主膳が寝込んでしまって、幸内が転がり出して、いくらもたたない時に、机竜之助が帰って来ました。
 例の通り宗十郎頭巾を被っていましたが、いつもあおざめているかおが一層蒼ざめていました。
「神尾殿、神尾殿」
 行燈の下へ来て寝ている神尾を呼び起した時、竜之助は胸のあたりを気にしております。
「やあ、机氏、どこへ行っていた」
 神尾主膳はやっと起き直りました。
「夜遊びに行って来た」
と言いながら竜之助は、片手で長い刀を横に置いた時に、神尾主膳は竜之助の例の胸のあたりを見て、
「や!」
 神尾はぎょっとして少しく身を退しりぞかせました。
 胸のあたりを気にしていたという竜之助は、その羽織の少しく下の方にぶら下がっている白い物を右の手に持って、左は羽織を押えて、無理にそれをもぎ取ろうとするのであります。
 神尾が見てぎょっとしたのは、その竜之助のもぎ取ろうとしている白い物が、人間の手のように見えたからであります。
 人間の手のように見えたのではない、まさに人間の手に違いないからであります。
「竜之助殿、いったいそりゃ、どうしたのだ」
 主膳も、ほとほと身の毛がよだつようでありました。
「固く……むしりついて……どうしても取れぬ」
 竜之助は、そう言いながら人間の手を羽織の襟からもぎ取ろうとして、なおも力を入れたのであります。
「どうしたのじゃ」
 主膳は再びたずねました。
「これが……この手首が……」
 竜之助は、自棄やけに力を入れてその羽織にぶらさがった人間の手を引きました。
「斬ったのか、人を斬ったのか……」
 主膳は面を突き出して、その手首をとくと見届けようとして、
「取れないのか」
「取れない」
「どれどれ」
「斬った途端にここへ飛びついたから、また斬った、手首だけ残して倒れた、その手首が、ここに密着くっついて離れない」
「拙者が離してみてやろう」
 神尾主膳は竜之助の胸の前へ来て気味悪そうに、その手首にさわりましたが、
「こりゃ女の腕ではないか」
「ああ、女の腕よ」
「女を斬ったのか」
「うむ、女を斬った」
「なぜ斬った、どこで……」
 それから、やや暫らく古屋敷の中は寂然ひっそりとしていましたが、
「はははは、拙者にその駒井能登守とやらを討てと言われるのか」
 机竜之助のこう言った声が、低いけれども座敷の隅にとおりました。
ッ、静かに」
 それは神尾主膳が怖れるように抑えたのであります。
 それから小さい声で話が続きました。時々は声が高くなったけれどよくは聞き取れません。暫らくして神尾主膳の、
「や、幸内がいない。幸内が逃げた」
と叫ぶ声が聞えました。
 幸内を逃がしたのは自分が逃がしたのである。主膳は今までの自分のしたことに気がつかないでいたと見えます。
 それから急に騒ぎ立って雨戸をあけて見たり、庭へ出て見たりするようでありましたけれども、結局、逃げた幸内の行方ゆくえがわからない。そうなると神尾主膳はじっとしていられないほど、狼狽ろうばいをはじめましたようであります。
 主膳は周章あわただしく帰りました。主膳が帰ってのあとは竜之助が一人でありました。
「神尾主膳はおれに向って、駒井能登守とやらを討ってくれという、神尾の頼みを聞いてやらにゃならぬ義理もなければ、駒井能登守を討たにゃならぬ怨みもない、おれは人を斬りたいから斬るのだ、人を斬らねばおれは生きていられないのだ――百人まではきっと斬る、百人斬った上は、また百人斬る、おれは強い人を斬ってみたいのじゃない、弱い奴も斬ってみたいのだ、男も斬ってみたいが、女も斬る、ああ甲府は狭い、江戸へ出たい、江戸へ出て思うさまに人が斬ってみたいわい。ああ、人を斬った心持、その時ばかりが眼のあいたような心持だわい。助けてくれと悲鳴を揚げるのをズンと斬る、ああ胸がく、たまらぬ」
 竜之助は座の左を探って、手柄山正繁てがらやままさしげの刀を取り上げました。
「今宵もこれで斬った。女だ、まさしく女の声で助けてくれと泣いた。若い女であったか、年を取っていたか、そりゃわからぬ。綺麗なかおをしていたか、醜い面をしていたか、それもわからぬ。若い女であったら何とする、また美しい女であったら何とする、おれはただ斬ればよいのだ、斬りさえすれば胸が透くのだわい。声をしるべに斬った途端に、すがりついて泣いたからまた斬った、それでこの片腕がおれの羽織にしがみついたなりに残った」
 竜之助はその刀に残る血の香にふるえつくようでありました。身体もまたブルブルと顫えて、手に持った刀から水が飛ぶようであります。
「以前は強い奴でなければ斬りたくなかった、手ごたえのある奴でなければ斬ってみようと思わなかった、このごろになっては、弱い奴を斬ってみたい、助けてくれと泣く奴を斬るのが好きになったわい。ああ、咽喉のどが乾くように人が斬りたい。あの幸内とやらは逃げたそうな、長持の中の窮命人は逃げたそうな、せめて彼でもいたら斬ってみたい、一人では斬り足らぬ。どうしてまた、今宵はこれほどに人が斬りたいのだ」
 竜之助はほんとうに乾いた咽喉を鳴らしているので