一
お君は、やがて駒井能登守の居間へ通されました。
能登守の居間というのは、そこへ案内されたお君が異様に感じたばかりでなく、誰でもこの居間へ来たものは、異様の念に打たれないわけにはゆかないものであります。それは畳ならば六十畳ほどの広さを持った居間に、畳を敷いてあるのでなく、板張りにして
その広い室の中央と片隅とに
さまざまの武器といううちにも、ことに鉄砲が多く、ことに小銃にはいくつかの実物があり、大砲は模型として順序よく並べられてありました。
旧来の屋敷を、こんなに能登守が好みで建築をし直したものだと、お君はそのくらいのことはわかりますけれども、そのほかのことは、めまぐるしいほどで、なんと言ってよいかわかりません。
その
「よくおいでなされた、暫らくそれでお待ち下さい」
と言って、筆を持ちながら、お君の方へ向いて
「はい」
お君は、やっぱり立ち場に困って、椅子へ腰をかけるのは失礼であろうし、そうかと言って、絨氈の上へ坐って笑われはすまいかとの
駒井能登守は
「お君どの、よく見えましたな、一人で……」
と言って能登守は、真中にある方の大きな
「さあ、それへお掛けなさるがよい」
「はい」
能登守は、お君に椅子をすすめながら、自分も椅子に
「先日は結構な下され物を、まことに有難う存じました」
やっとの思いで、お君はこれだけのお礼を、能登守の前へ申し述べたのであります。
「ナゼお前は、わたしのところへ来てくれない」
と能登守は砕けてこう言いました。その言葉の温かみは感じたけれども、その意味がお君には、よく呑込めませんでした。
「お礼に上ろうと存じましても、あまり恐れ多いものですから……」
お君は、おどおどとして申しわけをしました。
「お前がわしのところへ来てくれると、わしは嬉しいけれども、伊太夫の家で、お前を放すことはできぬというからぜひもない」
と能登守は、お君の横顔を見ながらこう言いました。この一語は、少なからずお君の胸を騒がせました。今までは身分の違う人の前と、見慣れぬ結構の居間へ通されたことから、気がわくわくしていたのですけれども、能登守の今の
「わたくしは左様なことを、いっこう承りませぬ、主人からも、そのようなお沙汰のあったことをお聞き申しませぬ故に……」
「ナニ、それを聞かぬ? では、わしがお前の身の上について、伊太夫へ頼んでやったことが、お前の方へは取次がれんのじゃな」
「はい、どのような御沙汰でございましたか……」
「それは不審」
能登守は美しい
「ほかではない、わしのところはこの通り女手のない家、それ故に伊太夫の方でさしつかえのない限り、お前にわしの家へ来て働いてもらいたいがどうじゃと、家来をして申し入れたはず、それを伊太夫が断わって来た」
「まあ、そんな有難い御沙汰を……どうして旦那様が」
お君は当惑に堪えないのであります。御支配様からの御沙汰をお
殿様から御沙汰があると、旦那様は必ずお銀様へその御沙汰のお伝えがあったに違いない、それをお銀様が、あの気性で、わたしに話なしに御一存でお断わりなすってしまったに違いないと、お君はすぐにそう感づいてみると、お銀様に言われた言葉がいちいち思い当るのであります。お前が行けば殿様は喜んでお会い下さると、お銀様が断言したこと、そこに何かの確信があるような言いぶりがお君によく思い合わされると共に、殿様はお前を好いている……と言ったお銀様の言葉、
「わたくしは初めて承りました、殿様からそのようなお沙汰のありましたことを、わたしは今まで存じませんでございました」
お君は自分の
お君が、自分の冤罪を主張するように熱心になったのを、能登守は意外に思いました。
「お前がそれを聞かない――では伊太夫がお前に伝えることを忘れたのであろう」
と言いました。
「左様でございましょうか知ら」
とお君が
「伊太夫が承知をすれば、お前はここへ来てくれるか」
と能登守は頼むように優しい言い方であります。
「それは御主人の方さえ、お暇が出ますれば……」
とお君は、我ながら出過ぎたように思い直しました。
「それでは、もう一度、伊太夫に頼んでみよう」
お君は、やはりその言葉を有難いことに思いました。けれども、まだそこに一つの故障があることを同時に考えさせられないわけにはゆきません。その故障というのはお銀様のことであります。旦那様は御承知があっても、お銀様が何というかとそれが心配であります。しかしそれとても、どうにか言いこしらえることができるものと安んじておりました。
お君は、今この優しい言葉を聞き、これから始終、この殿様の傍に
お君はようやく、そのことの一切を能登守に物語りました。幸内が伯耆の安綱といわれる刀を持って出て家へ帰らないこと、それがためにお嬢様がいちばん心配していらっしゃること、幸内はこの城内のどなた様かへお目にかけるつもりでその刀を持って出たらしいこと、どうかお嬢様のために殿様のお力添えをお願い申したいということを、お君は嘆願したのであります。
能登守は黙ってそれを聞いて、何か考えているだけで返事をしません。しかし、それだけのお願いを申し上げておけば、お君のここへ来た使命は尽きたわけであります。
お君がお暇乞いをして帰ろうとする時に、能登守は立って一方の机の上から、一つの小さな箱を取って、
「まだ帰らんでもよかろう、お前に見せたいものがある」
その
「まあ、これは、殿様のお姿……」
と言って立ちかけたお君は、この箱の中にあった絵姿に見入ってしまいました。これは絵姿ではありません。けれども、お君は、絵姿だと思って、
「ほんとに、お
と我を忘れて驚嘆したのであります。
「それはかいたのではない」
と能登守は微笑しました。けれども、お君にはその意味がわかりませんでした。
「恐れながらこちらのは、殿様、こちらのお方は……」
お君の見ている絵姿には、二人の人の姿が写し出されてあるのであります。その一人はこの能登守、もう一人は
「それは、お前によく似た人」
この時のお君が写真というものを知ろうはずがありません。眼に見たことはおろか、話にさえ聞いたことはありません。
「それは、お前によく似た人」と言われて、お君の胸は何ということなしに騒ぎました。念を推してお尋ねするまでもなく、これは殿様の奥方でいらっしゃるとお君は
お君は奥方のお像をじっと見入って、「お前によく似た」とおっしゃった殿様のお言葉が、おからかいなさるつもりのお言葉ではないと、お君は自分ながら、そう思いました。
「それは写真というもので、筆や絵具でかいたのではない、機械でとって薬で焼きつけた
絵姿だとばかり思って、お君があまり熱心に
「これはかいたものではございませんか。まあ、機械で、どうしてこんなによくお像を写すことができるのでございましょう、
「そうそう、最初はそれを切支丹の魔術と思うていた、今でもその写真をとると
「ほんとにお珍らしいものでございます」
お君はその写真を飽かず見ておりました。自分は今お暇乞いをして立とうとしていることも忘れて、写真から眼をはなすことができません。
「それをお前が欲しいならば、お前に上げてもよい」
能登守からこう言われた時に、
こうしてお君は能登守から、箱に入れたまま紙取りの写真をいただいて
それから御門まで来る間も、お君は嬉しさで宙を歩んでいるような心持です。その嬉しさのうちには、やはり胸を騒がせるような
「わたしは、あの殿様に好かれている、あの殿様は、わたしを憎いようには思召していない、たしかに――」
お君は身を
ましてや、お君は、お銀様に頼まれて来たことも、そのお銀様がお
橋を渡って、お銀様を待たせた柳の樹のところへ来て見たが、そこにお銀様の姿が見えませんでした。
「お嬢様は……」
と言って、お君はそのあたりを見廻しましたけれども、そのあたりのいずれにもお銀様らしい人の影は見えません。
その時に、お君は自分が能登守の前に、あまり長くの時を
二
これより先、お濠の岸に立ってお君の帰るのを待っていたお銀様は、そのあまりに長いことに気をいらだちました。
役割の市五郎が傍へ寄って来た時に、お銀様は振返ってそれを
お銀様はお城の方を睨んで、荒々しく足踏みをしました。それからお濠の岸を、あっちへ行ったりこっちへ帰ったりしていました。
そうすると、問屋場の方から五六人かたまって
自分で無理にすすめて
そうしていると、折助の一人が、ふらふらと歩いて来て、お銀様に突き当るようにしてすれ違って、
「危ねえ、危ねえ」
と言いましたから、お銀様も気がつくとその折助は酔っていて、足許も定まらないようであります。お銀様は驚いてそれを
「やい、気をつけやがれ」
とその折助が言いました。わざとする乱暴さに、お銀様は口惜しがって折助どもを
「へへへへへ、これはこれは」
と言って折助は急に、ふざけた
「お女中のお方でいらっしゃる、それとは知らず飛んだ御無礼」
なんぞと言って、またまたワザとらしい声色と身ぶりでお辞儀をしました。
お銀様は、それを見ないでぷいと向き直って歩き出すと、
「
と言ってほかの折助が寄って来ました。
「いや、このお女中に飛んだ失礼をしてしまったんだ、ツイ足がよろめいたために、このお女中に突き当ってしまったから、今、
と、前の折助がこんなことを言いました。
「そいつは悪いことをした。まあ、どちらのお女中さんか知らねえが、この野郎は、
ほかの折助が、これもまたワザとらしい身ぶりと声色で、
お銀様は腹を立てました。無礼にも無作法にも限りのないやつらだと、口惜しくてたまりませんでした。それだから黙って彼等を振り払って行こうとすると、その前へ廻り、
「どうか、御勘弁をなすっておくんなさいまし」
それを振り払って、また進んで行くと、
「野郎が、あんなに
お銀様は心の弱い女ではありません。どちらかと言えば気丈な女であります。それだからこれらの無作法な折助に一言も口を利くことをいやがりました。それを振り払って避けようとしました。
折助どもはそれを前後から取捲くようにして追いかけるのは、どうも何か計画あってすることとしか思われません。
「これほど
と折助の一人が言いました。
「ナーニ、お女中さんが
と、また一人の折助が言いました。
「違えねえ、折助なんぞはお歯に合わねえという思召しなんだから、それでお言葉も下し置かれねえのだろう。ああ、情けなくなっちまわあ、
と言って、また
「はははは」
一度に笑いました。お銀様は
そうすると、折助もまたその周囲に立ちはだかりました。
「お前たちは女と
お銀様はこらえきれなくなったから、声を
「どう致しまして、無礼をするなんぞと、そんなことがございますものですか、お女中がお一人では途中が案じられますから、こうしてお送り申し上げようと言うんでございます」
折助はこう言いました。
「わたしは、ほかに連れの者がある、それを待っているの故、お前方のお世話は
お銀様は、やはり叱るような言いぶりであります。折助どもは、お銀様が何か言い出すのを待っていたと言わぬばかりでしたから、
「そんなことをおっしゃらなくたっていいじゃあございませんか」
「無礼なことをすると許しませぬ」
お銀様は懐中へ手を入れました。その時に一人の折助が、横の方からお銀様の被っていた頭巾を引張りました。眼ばかり見えていたお銀様の
「はははは」
と折助どもは声高く笑いました。歯をキリキリと噛み鳴らしたお銀様は、キラリ光るものを手に持っていました。
「やあ、危ねえ、刃物を持っている」
前後から五六人の折助が寄ってたかって、お銀様の持っていた懐剣を奪い取ろうとして、怪我をしたものもありました。
「面倒くさいから
彼等は寄ってたかって無礼な振舞に及ぼうとする時に、
「この野郎ども、飛んでもねえことをしやがる」
折助どもをポカポカと殴り飛ばして、その一人を濠の中へ蹴込みました。
「やあ、役割!」
と言って、折助はたあいもなく逃げてしまいました。この場へ来合せた強そうな男は、役割の市五郎であります。
「お嬢様、もう御安心なさいまし、ほんとにあいつらあ、悪い奴だ、お嬢様とも知らずに
市五郎がこんなことを言って慰めているところは市五郎の宅であります。
「市五郎どのとやら、お前が来てくれなければ、わたしはドノような目に会ったことやら。よいところへお前が来てくれたから、それで悪者がみんな逃げてしまいました」
お銀様は泣いていました。
「ナニ、たかの知れた折助どもでございますが、
「市五郎どのとやら、わたしには連れの者があってそれを待っていたところ、その連れの者に沙汰をして貰いたい」
「左様でございますか、そのお連れの方とおっしゃるのはどちらへおいでになりました」
「御城内まで参りました、もう帰って来て、あのお
「へえ、よろしうございますとも。そうしてそのお連れの方のお名前は何とおっしゃいますな」
「それは君といって、年もわたしと同じ位、わたしと同じこのような衣裳を着ておりますわいな」
「なるほど、お君さんとおっしゃるのでございますな、へえ、よろしうございます、今、人をやってお迎え申して差上げますから、御安心なさいまし」
「この甲府にも、わたしの親戚はあるけれど、誰にも言わないように頼みます、わたしが悪い者に出会って、あんな
「へえ、もうその辺は心得たものでござりまする、人様の外聞になるようなことを、頼まれたって触れて歩くような、そんな
「あの、早く連れの者に沙汰をして」
「へえ、よろしうございます、いま使に出した野郎が、もう帰って来ますから、帰って来たらすぐに飛ばせてやりますでございます、お乗物なんぞは、ここで一声
「髪や着物などはかまいませぬ、あのお君が帰って来さえすれば、直ぐにお
「へえへえ。どうも困ったな、いつも二人や三人はゴロゴロしているくせに、今日に限って嬶までが出払ってしまうなんて。と言って俺が出向いて行けば家は
市五郎は
三
宇治山田の米友は、この時分に八幡宮の境内を出て来ました。米友は油を買うべく、町へ向って出かけたのであります。
町へ出る時にも、やっぱり米友は
でえだらぼっちというのはそもそも何者であろうかというに、これは伝説の怪物であります。
でえだらぼっちという字には何を
「でえだらぼっちもでえだらぼっちだが、八幡様も八幡様だ」
米友はブツブツ言いました。実際、米友の粗雑な頭でさえも、でえだらぼっちの実在を信じきれないのであります。わざわざ眠い眼を
しかし、米友はいま
「油買いに茶買いに、油屋の縁で
と町の子供が、米友が油を買いに出たところを見て
米友は、それに取合わないで澄まして歩きました。子供らにとっても大人にとっても、米友が油買いに行く形はおかしいものでありましたろう。
八幡の社を出て米友は三の堀を、
「あっ」
と言って立ち止まりました。
そうして猿のような眼を円くして、しきりに御門の橋のあたりを見つめていました。
「あっ、ありゃ」
と言って
その挙動は、かなり
米友がその不自由な足を引きずってわざわざ甲州まで来たのは、
それだから、いま認めたそれがお君であったとすれば、もう油壺などは問題にならないはずであります。
息を切って米友が馳せつけたのは、例の役割市五郎の宅の裏手。
「こんにちは」
米友は、せいせい言って、そこに庭を掃いていた折助に挨拶しました。
「何だ」
折助は米友を見て
「少しお聞き申してえことがあるんだ」
米友は
「何だ何だ」
折助は米友が、あんまり一生懸命に見えるから
「今、ここへ娘が一人、入ったろう、
「ふん、それがどうしたい」
「それを聞きてえんだ、あの娘はありゃ、この家に奉公している娘かい、それともまたよそからお客に来た娘なのかい」
「それをお前が聞いてどうするんだ」
折助は突き放すように答えました。
「それを聞かなくちゃならねえことがあるんだ、
米友は突き放されじと
「ははは、ずいぶん教えてやらねえもんでもねえがの、いったいお前はどこの何者で、あの娘っ子とは、どんな筋合いがあるんだ、それから聞かしてもらった上でなけりゃあ骨が折れめえじゃねえか」
「うむ、
「おやおや、こりゃあお安くねえわけだ」
と言って折助は、またおかしな
この問答が事ありげなので、そこへ屋敷の中から二三人の折助がまた面を出しました。
「どうしたのだ」
「ははは、この大将が、はるばる
「なるほど」
彼等は充分の侮辱を以て、米友の面をしげしげとのぞいて、
「は、は、は」
と
「何だ、何がおかしいんだ」
手に持っていた杖を取り直しました。
「まあ、兄さんや、そんなことを言わねえで帰りな。そりゃ、お前の眼で見ると、どの女もこの女も、みんなその国許にいた馴染の女とやらに見えるんだろうけれど、今ここを通った女はありゃ、ちっとお前には縁が遠いんだ。悪いことを言わねえから、ほかへ行って、もう少しウツリのいいのを探してみな」
お君のことを言い出すと、米友は必ず侮辱されてしまいます。前に両国の
短気の米友が、ここで折助連と衝突を起さなかったのは不思議であります。しかし、米友もこのごろでは、短気がいつでも自分に好い結果を来さないことを少しは
引上げるには引上げたけれども、確かに米友はお君を見たのです。お君が堀端をあちらこちら歩いている時に、一人の男が来てお君に何か言って、お君を連れて行くのを見かけたから、それで油壺を抛り出して追いかけて、この家へ連れ込まれたのを、確かに見たのでありますから、その場は立ち去ったけれども、到底この屋敷から眼と心とを離すわけにはゆきますまい。
しばらくその屋敷の周囲を
米友はようやく気がついたように、四方を見廻して、
「ああ、俺らも燈籠へ火を入れるんだった」
と急に考えて飛び上りました。
けれども、燈籠に火を入れることはもはや米友の責任ではありません。ただ偶然、その責任に驚かされてこの一ぜん飯屋を飛び出した米友は、役割の家の塀の
ちょうど、
米友はついに
ここは、折助どもの集まっている、いわゆる大部屋であります。昼のうちはそんなでもなかったのが、いつ集まったか、盛んな
博奕の方ではスポンスポンと烈しい音がしていました。今まで着ていた
こちらで寝転んで、餡ころを頬張りながらゲラゲラ笑って下卑た話をしているのが、米友の耳によく入ります。米友は戸の
「はくしょッ」
と咳をしました。
「
と言いました。
「は、は、は」
と一人の折助が高笑いをすると、
「あっぷ、あっぷ」
と、もう一人の折助が水に溺れるような形をしました。
「笑いごとじゃあねえ、全く命がけの狂言よ、二朱じゃやすい」
と風邪を引いた折助は、さのみ浮き立ちません。
「全く笑いごとじゃあねえ、親方にいいところを買って出られて、こっちはまるっきり
「そりゃそうよ、手前たちは、痛くねえように二つばかり
「仕方がねえ、頼まれりゃ水火の中へも飛び込むということがある」
「そこが男だ」
「ふざけるない。そうして骨を折っておけば、骨を折っただけのものはあるだろうと思っていたら、何のことだ、手前たちと同じように二朱の頭だ。結局、看板をだいなしにしたのと、寒い思いをしたのとが儲けもんで、風邪を引いたのが利息だ、ばかばかしいっちゃあねえ」
「ははははは」
折助どもは、愚痴を言っている折助を笑いました。
「いったい親方は、あんな狂言をして、あんな化物娘を引張り込んでどうする気だろう、姉御の
「そりゃお前、なんだな、あれはおトリというものさ。あれをああしておトリにしておけば、それ
「なるほど」
米友は、折助どもの話を聞いてギクリとしました。
米友は大部屋から奥の方へソロソロと歩み出します。今の話によっても、ぜひぜひこの家に突き留めねばならぬものがあることは、充分に合点してしまいました。
米友はそこやここをウロウロと歩いて、戸の節穴や壁の隙間を
もしも、それらしい女の声でもしたらと、耳を戸袋へ
今度は縁の下へ
米友が縁の下へ潜ろうとした時に、表の方で人の声がしました。
「へえ、お迎えのお
縁の下へ潜りかけた米友は、その声を聞き
「御苦労、御苦労」
と言って出て来たのは役割の市五郎であります。米友はこの男を知らないけれども、多分、これがここの親方だろうと思いました。
「親方、今晩は」
と言って、駕籠舁どもは頭を下げました。
「さあ、お嬢様、これにお召しなさいまし、お女中さんはこちらのにお召しなさいまし」
市五郎が、あとを顧みてこう言ったから、米友は、
「ちぇッ、提灯の火が暗えなあ」
米友は腹の中で
「ちぇッ」
米友は口惜しがって
「おや」
米友は実にカッとしてしまいました。
「おっと待ってくれ」
こう言って
「何、何だと」
はしなく米友がその場へ飛び出したことによって、その場は大混乱を
その混乱を聞きつけて折助どもが飛び出して来ました。折助どもが米友を支えている間に、市五郎は、差図してズンズン駕籠を進ませてしまいました。
ほどなく米友の姿は市五郎の家の屋根の上に現われました。彼は杖を持って、いつのまにかその俊敏な身を屋根の上へと
米友の姿が屋根の上に現われた時に、下では折助どもが
下では、こうして折助が芋を
「ちぇッ、口惜しいなア、こいつらに邪魔をされて、あの駕籠を
屋根の上で足を踏み鳴らしつつ口惜しがりました。
屋根へ上った米友は、いつぞや古市の町で宇津木兵馬に追い詰められた時のように、屋根から屋根を泳ぐつもりでありました。
米友は
「ソレ、そっちへ行った」
折助が
「ヤレ、こっちへ来た」
「危ねえ!」
お手の物で米友は、その石を
「竹竿で足を
折助は
折助は、いよいよ
「ばかにしてやがら、手前たちをこっちは相手にしねえんだぞ、相手にするほどのやつらでねえからそれで相手にしねえんだぞ、俺らが逃げりゃあいい気になって
こう言って米友が立ち止まって息を切った。屋根の上から下を見ると、
四
何事か起るべく思われて何事も起らなかったのが、その夜の市五郎と、お銀様と、お君との一行でありました。
市五郎の挙動から推せば、この二人をどこへつれて行って、どんな目に遭わせることかと思われたのに、案外にも、極めて
有野村へ入って、お銀様の屋敷へ送り込んでしまいました。これでは尋常の上の平凡であります。
お銀様とお君とがその屋敷へ送り届けられた前後には、もちろん伊太夫の家は
お銀様もお君も、出る時は誰にも断わらないで出て行きました。ほどなく帰るつもりでしたから黙って行きました。お君は誰にか
なかにはお君がお銀様を
人が諸方へ飛びました。そうして甲府の市中へ入ったということがわかり、甲府の市中へ入って八幡様へ参詣をしたということもわかり、そこでお
それやこれやで、尋ねに行った人は途方に暮れ、馬大尽の家の混乱はいや増しに増してきました。
そこへ役割の市五郎が、悠々として両人の駕籠を送り込んだのでありましたから、市五郎がここでどうしても器量を上げないわけにはゆきません。実際、市五郎はこの時、馬大尽の一家一門の者からも、村中の者からも、神仏のように思われてしまいました。市五郎の身体から
下へも置かないもてなしというのはこのことであります。ことにお銀様が悪い折助にからかわれていらっしゃるところを、この親方が通りかかって助けて下さったという物語りは、市五郎を武勇伝の主人公のように、村の人から崇拝させることになってしまいました。
市五郎は、自分の手柄を自分からはあんまり語りませんでした。
その翌日は釣台が幾台も市五郎の宅まで運ばれ、羽織袴で親類や総代が、
市五郎はこうして馬大尽の家から感謝を受け、それから同家へしばしば出入りをすることになりました。そうして主人の伊太夫と親しくなりました。伊太夫は市五郎を信用し、市五郎はよく伊太夫の意を迎えることができるようになりました。
市五郎がその後、しばしば伊太夫の許へ出入りする間に、伊太夫に向って一つの
それは意外にも縁談のことであります。
「お嬢様もお年頃でございますから」
と言い出した時に、さすがに伊太夫は
その苦い面を見て、市五郎も話しにくいのを
「お組頭で神尾主膳殿……」
と言って腕組みをしました。伊太夫の顔色が
「もとはお旗本のお歴々でございます、お使い過ぎでこちらへおいでになったくらいでございますから、苦労人でございます、人間が
と言って
市五郎がこの縁談のことを話して辞して帰った後で、伊太夫は一人でやはり腕を組んで考えていました。もとは何千石のお旗本、今は甲府勤番の組頭、それにあの娘が貰われて行くことは、家にとって釣合わぬことではないと思いました。しかしながら、あの娘――と思い出すと、さすがの伊太夫も自分ながら気落ちがしてなりません。お旗本どころではない、どんな人でもあの娘を貰って、生涯の面倒を見てくれる人があるなら大恩人だと、日頃から思わせられないことではありません。娘もよくそれを呑込んで、つまらぬ男に
伊太夫は、なお暫く考えた後に女を呼んで、
「お銀にここへ来るように」
と言って、
「あれが何と言うか、あれのことだからウンとは言うまい、たとえ少しは気があっても、はいと返事をするような女ではないけれども、もし承知したら……あれが承知をしたら、わしの方にも異存はないのだが、しかし、それがほんとうに当人のために仕合せかなあ。あれはああしておいた方が仕合せであるかも知れない。まあまあ
伊太夫はこんな
父の許へ呼ばれたお銀様は、やがて自分の部屋へ帰って来ました。
お銀様は、父から言い出されたことをだまって聞いて帰りました。父が言い出したことというのは、神尾主膳への縁談の一件でありました。お銀様はそれを聞いてなんとも返事をしませんでした。
いつも怒気を含んだようなお銀様の
「ははあ、また
というような面をして、立って行く娘の後ろ姿を
お銀様が縁談を嫌うのは今に始まったことではありません。そのことを言い出されるのさえ、毒虫に触れることのようにいやがりました。お銀様は自分の身にかかる縁談のことを聞くのをいやがるばかりでなく、人の縁談のことを聞くのさえいやがりました。その話を聞くと、ジリジリと
お銀様は縁談を持ち込まれることを、自分が侮辱されたように口惜しがります。それと共に自分に縁談を申し込んで来る男を、あくまで
今、神尾主膳のことを聞いても、まずその蔑みで頭を占領されてしまって、これから父が説き出そうとすることを、受入れる余裕はありませんでした。
お銀様は
「お君、お君、お君や」
続けざまに呼んで、自分の部屋を素通りして、お君の部屋へ駈込みました。
お気に入りのお君には、お銀様と同じような部屋が与えられてありました。このごろのお銀様は、居間から衣裳から、室内の飾り、すべてのものをお君と同じようにしなければ納まらないのであります。お銀様はこうしてお君の部屋へ駈込んだけれど、どこへ行ったかそこにお君の姿が見えません。机の上にお銀様の好きな
「どこへ行ったのだえ」
お銀様は、お君の坐るべき蒲団の上に坐って机に向いました。その一輪挿しの寒椿を取っておもちゃにしようとした時に、机の上に見慣れないものが載せてあるのを見ました。お銀様は一輪挿しの寒椿の方はさしおいて、その見慣れないものを手に取りました。
「まあ、これは珍らしいもの」
と言って、つくづく眼を
最初はただ物珍らしげに取り上げたお銀様が、それをつくづくと見ているうちに、体がワナワナ震えてきました。眼がキラキラと光ってきました。
「アア、口惜しいッ」
その写真には前に言った通り、二人の人が写されているのであります。
その一人はお銀様もよく知っている駒井能登守の
「いつのまに、こんなことに……ああそうだ、この間、お城の前で、わたしを待たせている間に、わたしは、あんな恥かしい目に遭っている時に、お君は城の中でこんなにしていたのか。それとは知らなかった」
お銀様は、その女の方の像を見ながら歯を
「この若い御支配の殿様と、あの奥方気取りで……憎らしいッ」
お銀様は頭を
お銀様の呪いの
ことに、あのお
お銀様はその写真を左の手で持ち直して、右の手で銀の簪を取り直して、
「エエ、覚えておいで」
と言ってズブリ――その女の
「お嬢様、まあ何をなさいます」
あわてて入って来たお君は飛びついて、銀の簪を持ったお銀様の手をしかと抑えました。
「お放しなさい」
お銀様はお君の抑えた手を振り切って、なおもその写真につきとおそうとするのであります。
「このお写真は、大切のお写真でございます、お嬢様、そんなことをあそばしては」
「それはお前には、お前には大切なお写真であろうけれども……」
「このお写真に間違いがあっては、私が殿様に申しわけがありませぬ」
「そりゃ、そうだろう、お前は殿様に申しわけがあるまいけれど、わたしはばかにされたのが口借しい!」
「何をおっしゃいますお嬢様、そのお写真ばかりはどうしても御自由におさせ申すことはできませぬ」
お君は日頃に
そうしてお君は、やっとお嬢様の手からその写真を取り上げて、
「お嬢様、こんな乱暴をあそばしますなら、もうもう、わたしはお嬢様のお側にいるのはいやでございます、今日限りお暇をいただきまする」
「ああ、それがよい、わたしも、もうお前がいなくてもよい、お前はその可愛い殿様のところへおいで、わたしもお嫁に行くところがあるのだから、ええ、わたしはお嫁に行くようにきめてしまったのだから」
お銀様がこう言ってその両眼から
いつもならば何でもないことでしたろうけれど、その時はそれで、二人のなかが
お銀様が、自分もお嫁に行くところがあると言ったのは、どういうつもりだかお君にはわかりませんでした。
しかし、その場は気まずくなって、今までになかった張合いの心持がおたがいに
謝罪ったあとで、お君は改めてお銀様にお暇乞いを申し出でました。お銀様は冷やかに、それでも快くお君の暇乞いを承知しました。それにお銀様はお君に対して、身の廻りのものやらお金などを多分に分けてやりました。お君はそれを有難く思って、なんとなくこのお嬢様の傍を離れたくない心持もしましたけれど、自分の行く先のことを考えれば、その心持も忽ち消えてしまうのであります。
お君がこのお嬢様の
主人やお銀様からいろいろの下され物をお
みんな機嫌よくお君を送ってくれました。
有野村から甲府まで行く間に、お君は一足毎に春の野原へ近づいて行く心持でありました。駒井の殿様のお情けというものが嬉しくて、心が
幸内に助けられてあの家へ厄介になったかりそめの縁が、思い出にならないということはありません。その幸内は
いったいにお銀様の心持というものは、お君にはよくわかりませんでした。駒井様で所望する自分の身の上をお銀様が途中で、水を
自分をすすめて御城内の殿様のところへやりながら、その殿様のお写真に向って、あんなことをなさるお嬢様の気心はなおさらにわかりませんでした。
いろいろと、わからないことはありましたけれども結局、お君はお銀様の同情者でありました。お銀様がああして
五
神尾主膳の邸ではこの頃
表の方では
正月が近いから、それで御普請をなさるのだろうと表の方では言っていましたけれど、奥の方はそれだけでは納まりません。
「近いうちにお
早くも女中たちの口から、こんな
その女中たちの中にはお松がいました。お松は今、箪笥から掛物の一幅を取り出して
「お慶たいこととはどなた」
「お松様はまだ御存じないの」
と言って、ほかの女中たちは面を見合せました。
「いいえ、存じません」
「そのお慶たいことで、あんなに御普請が始まったり、こちらではまた御宝物のお風入れがあったりするのではありませんか」
女中たちはお松の
「それでも、わたくしは存じませんもの」
「それはね」
「はい」
「つい、この近いところよ」
「近いところとは……」
「近いと言ってもこの甲府に近いところ、それはこれから三里ばかり離れた有野村というところの大金持のお家から、近いうちに殿様へお
「それは結構でございますねえ」
お松は手に持っていた掛物の塵を掃ってその紐を解きました。なにげなくあけて見ると、それは山水でも花鳥でもなく、一枚の絵図面を仕立てた
神尾主膳の家に
けれども、このたびの慶事の噂が、お松の耳にはあまりに
今まで放蕩無頼に身を持ち崩して、いったん持った奥方を去ったという主膳が、今になって女房を迎えようとする心持がお松にはわかりませんでした。それから、この殿様を夫に持とうという女はどういう人であろうか、その人の気も知れないように思いました。
どうしても、お気の毒なのは、こちらへ貰われて来る
このお屋敷の殿様が、どういうお方であるかまるきり知らずに、ただお殿様という名前に
人の
それはそれとして、お松がいま持って出た掛物は甲府のお城の絵図面であります。今日、宝物の風入れに、お松はそれとなくこの絵図を心がけていました。塵を掃っている
仕事が済んでから、お松はその絵図を持って自分の部屋へ帰りました。部屋へ帰ってそれを拡げて、つくづくとながめていました。
お松のながめている絵図には、甲府城を真中にして、その
お松の眼はお城の濠に沿うて東の方の一角をじっと見ていました。ほかのところはさしおいて、その一角ばかりを見つめていました。お松の見つめている一角というのは、お濠を隔ててお城と、お代官の陣屋との間に挟まれたところで、そこには罪人を
その人のために、お松はどのくらい心を痛めているか知れません。お絹を通したり、自分で遠廻しに頼んだりして神尾に
けれども、その証拠が歴然たる上に、御金蔵破りのことが重いので、ともかくも本当の犯人が挙った上でなければ、
せめて牢屋の模様でも知っておきたいと、お松はその道筋を幾度か指で引いてみました。けれどもそれは
ここは神尾の本邸とは別に一棟をなしているところの別宅であります。その一間に、お絹は取澄まして一人の男のお客を前に置いて話をしていました。
お絹の前に坐っている男の客というのは役割の市五郎です。
「御別家様、まず以て
市五郎が言葉を
「お前さんの橋渡しで都合がよく運びました、これでわたしもワザワザ甲府へ来た
と言ってお絹は市五郎の労をねぎらいました。市五郎は
「まことにハヤ慶たいことで。なにしろ、先方が聞えた旧弊の家柄でございますのに、当人がまたばかに気むずかしいものでございますから、どうなることかと心配しておりましたが、幸いなことに、その当人が乗気になりまして、それで話がズンズンと進んで参りました……しかし御別家様」
市五郎が呑込んで話しているのは、例の縁談の一件であります。
「御別家様」
市五郎はお絹を呼ぶのに御別家様の名を以てして、
「お
「それは……あの御支配のお二方のうち、筑前様と能登様といずれかにお頼み致すよりほかはなかろうと思っておりまする。また別に組頭や奉行衆のうちにしかるべきお方があれば、その方へお頼みすることにしてもかまいませぬ」
「左様でございますな、お組頭やお奉行衆のうちで……それも結構でございますが、御当家様のお媒妁としては、やはり御支配様をお頼みになるのが順当でございましょう。その御支配様と申しましても、能登様は御新任の上に、お年もお若いし、それに奥方様をお連れになりませぬ故、やはりお年と申しお二方のお揃いと申し、筑前様をお頼みあそばすが至極よろしいことのように存じまする」
「わたしもそう思いまする。それに主膳殿は能登様とは合いませぬ」
「左様……」
「もとは同じぐらいの格式の旗本、それで同じところへ勤めていると、若い同士でどうも
「けれども能登様へも、一応のお話は申し上げませんと」
「それは筑前様の方を、よくよくお頼み申しておいて、お話をきめた上で能登様へは一通りの御挨拶だけにしておきたいと、主膳殿も申しておりました」
「左様でございますな……あれで能登様もなかなか
「それだから、最初に筑前様の方を
「左様ならば大丈夫でございます、御別家様から
市五郎はそこへ
「まあ、よいではないか、前祝いに何か差上げたいもの……お松や、お松はおらぬかいな」
お絹は市五郎を引留めてお松の名を呼びました。
お絹から呼ばれてお松はその席へ出ますと、
「こっちへお入り」
お松はしとやかに座敷の中に入りました。
そこでお絹はお松を市五郎に引合わせると、市五郎は
「これはこれは初めまして、わたくしが市五郎めにござりまする、どうぞお見知り置かれて」
と非常に低く頭を下げましたから、お松はそれに準じて丁寧に挨拶をし、
「行届かぬものでござりまする、なにぶんよろしく……」
と両手を揃えて言いました。
近づきが終ってから市五郎は
「お松や、お政治向きのことは別にして、そのほかのことならこの人が何でも心得ているから、お前、何か頼みたいことがあるなら、遠慮なくこの人に片肌脱いでおもらい」
とまで言いました。
お松が自分の部屋へ帰った後も市五郎は、お絹の許を辞して帰る模様がありませんでした。しばらくたつと、その座敷が陽気になって、盃のやりとりにまで進んでいったようであります。根岸へ引籠った時分には一層慕わしく思われたお師匠様が甲府へ来ると、またがらりと変ったように思われるのがお松には浅ましい。誰とでも
六
甲府の牢屋は甲府城の東に
宇津木兵馬の
この室の中の南と北は格子であります。東と西は
宇津木兵馬はその羽目の方の一隅に寝ています。もう夜が更けているから牢の中は真暗であります。兵馬は寝入っている様子だけれども、同室のもう一人の奇異なる武士は、まだ起きていて暗い中で何をかしているようです。
その武士は三十前後の歳で、総髪にして髪を結んで後ろへ下げています。
「うーん」
というて苦しげに
「宇津木、苦しいか」
奇異なる武士は声をひそめてこう言いますと、
「いや、別に」
と兵馬は、これも、ひそかに答えました。けれどもその返事は、苦しさを
「もう一服、飲んでみるか」
と言って奇異なる武士が、兵馬の枕許まで来て、
「うーん」
と兵馬はまた苦しげに呻りました。
蒲団の下から一包の紙、それは薬と
「まだ熱が高いな」
片手では薬の包を持ち、片手では兵馬の額を押えました。
兵馬は寝ていながら、口を開いてその紙包から薬を飲みました。
「ソレ水」
枕許の椀を取って水を兵馬に飲ませました。兵馬は少しばかり起き直って、コクリコクリとその水を飲みました。
「気をつけて寝ておれ」
奇異なる武士は、じっと兵馬の
火の気のない牢屋の中の夜のことであるから、尋常ならば、なにもかも見えないのであろうけれど、この奇異なる武士は暗い中でも、よく物が見えるようであります。
兵馬もまた相当に暗い中で物が見えるようです。暗い牢の中に居つけたために、おのずから眼がそういうふうに慣らされたものでしょう。
兵馬が寝ついたのを見て奇異なる武士は、また以前の座へ立戻り、何をしているのかと思えば、紙を裂いて、しきりに
自分の蒲団は兵馬に着せてしまっているから、この武士の横たわるべきものはありません。半畳ほどの渋紙をしいてその上で、紙撚をこしらえて、眠いということを知らないもののようです。
何十本かの紙撚をこしらえてしまうと、そこにはもはや紙撚にすべき紙がありません。その時この人の
この人がこうして一心不乱に紙撚をこしらえていると、この室の一隅、兵馬の寝ている隅とは違ったところの羽目板が、微かな音でトントンと二つばかり鳴りました。
羽目をトントンと叩いた音は、到底そのつもりでいなければ聞けないほどの微かな音でありました。けれども、紙撚をこしらえていた奇異なる武士は直ぐにそれを聞きつけて、坐ったまま耳をその羽目の合せ目の
「まだ起きてか」
これが次の室から聞えた小さな声でありました。
「起きてる、起きて一生懸命に内職じゃ」
こっちの奇異なる武士は、そう答えてニヤリと笑いました。
「そうか、病人はどうじゃ」
「熱は高いけれど、
「大事にするがよい」
「せっかく養生中じゃ」
「それからな、今日は重大な
「左様か」
「今日は、おれの方に一人の
「なるほど」
「長州では、いよいよ三人の家老を斬って、幕府にお
「ナニナニ、長州で三人の家老を斬って幕府へお詫びをすると? そりゃ夢のような話だ、
「どうも、拙者においても信じきれぬのだが、その男の言うことを聞いてみればマンザラ
「うむ、うむ」
「そのほかに、久留米の神主で、あの
「そうか、中山侍従は長州で亡くなられたか」
「御病気で亡くなられたか、または不慮の御災難であったか、その辺は更にわからぬ。してその中山卿のお附であった池、枚岡、大沢の三人も加わってよ、浪華へ着くと、同藩の仲間や諸藩の脱走が
「なるほど、なるほど」
「それにまた国司信濃や益田右衛門介らが
「うむ、うむ」
「しかし、さすが命知らずの長兵も諸藩の矢に攻められて、来島又兵衛は討死する、久坂玄瑞も討死する、福原、国司、益田の三家老は歯噛みをしつつ本国へ引上げるということになって、その後が長州征伐の結末は、毛利公の恭順と、例のその三家老の首を斬って謝罪するということで納まったそうじゃ」
これらの話し声は、極めて小さい声で行われましたけれども、
話をしている間も、見廻りの来る心配はありません。ここの牢番もよく見廻りをするよりも、よく眠りたい方です。
「ははあ、それは一大事じゃ」
と言って、こちらの奇異なる武士は考え込みました。
「これで長州も
えたいの知れない話し相手も、絶望したような声で言いました。
「いやいや、そう
こちらの奇異なる武士は、存外、平気で答えました。
「どうして」
「長州の中にも、二派あるはずじゃ」
「左様」
「そうして幕府に恐れ入ってしまうのもあるだろうが、なかなかそれで承知のできぬ奴もあるはずじゃ」
「左様」
「例の高杉
「なるほど」
「君は高杉を知っているか」
「知らん」
「
「うむ、うむ」
さきには向うが話の主でこっちが聞き手でありましたが、今度はこっちが話し手で、向うが聞き手になりました。
「長州には奇兵隊があり、薩摩には西郷吉之助のようなのがある、長州が本気で立てば薩摩が黙っていない、薩摩と長州とが手を握れば天下の事知るべし」
「面白くなるのだな」
「それは面白くなるにきまっているけれど、おたがいに籠の鳥だ」
「南条――」
ここで両人の話が暫らく途切れました。話が途切れると
こちらの奇異なる武士は、いよいよ近く羽目の
「南条――南条」
と向うから呼びましたが、
「手を出せ」
「うむ、うむ」
こちらの武士は、耳を着けていたところより一尺ばかり下の透間へ手を当てると、その透間からスーッと抜き取ったのは、
「これはどうしたのだ」
「今いう
「エライものを手に入れたな」
「それこそ天の与え」
「有難い、有難い」
と言って、こちらの奇異なる武士は、その
この時に牢番の小使が咳をしました。もう大抵、話すべき要領は尽きたと見えて、それを
牢屋の形式は厳重でありましたけれど、中の見廻りはさほど厳重なものではありません。
牢番の小使の
宇津木兵馬は、ここへ
誰が差入れてくれるのだか知らないけれど、兵馬はそれがために、大へんに便宜を得ました。望みの物を買ってもらうこともでき、同室の人に融通することもできました。多分、七兵衛の
その兵馬は不幸にして、このごろ熱に
今日は少し
その奇異なる武士は、何かを以て、極めて小さな音を立てながら、牢の格子を切っているとしか見えません。言葉を換えて言えば、牢破りを
あまりのことに兵馬は、
「南条殿」
兵馬はよろめきながら近寄って、牢の格子を切っている奇異なる武士の手を押えました。
「宇津木、起きてはいかん」
奇異なる武士は、兵馬に押えられても、別段に驚きはしません。
「南条殿、何をなさる、軽々しいことをなさるな」
兵馬はたしなめるように言いました。
「君の知ったことではない、身体に悪いから寝て居給え」
南条と呼ばれた奇異なる武士は兵馬の手を取って、牢の格子の角の隅をさぐらせました。兵馬はそこへ手を当ててみると、何かの刃物でズーッと横に筋が切り込まれてあります。その切込みはまだそんなに深くはありませんでしたけれど、
「ああ、大胆なこと」
と言って兵馬は嘆息しました。
「二番の室でも、これをやっている、
奇異なる武士は騒ぐことなく、兵馬をなだめて、またも静かにその切込みへ刃物を入れました。その刃物というのは、前夜隣室の羽目の隙間から手に入れた
「世が世ならばこんなことはしたくはないが、時勢を聞いてみると、どうしてもここに安んじてはいられぬのじゃ、
南条と呼ばれた奇異なる武士は、こう言いながら静かに、格子の角を引いているのであります。
兵馬はぜひなく寝床の方へ退きました。兵馬は蒲団を
兵馬は正直な心で、今まで待っていました。
七
駒井能登守は例の洋風に作った一間に
この一間に籠った能登守は、人を諸方に
集めた土を
能登守が預かって、城内の調練場で扱っている
江川太郎左衛門が伊豆の
江川はようやくにしてその土を、
能登守は江川のその苦心を見もし聞きもしました。土を集めてそれを調べていることは、やはり同一の目的のためと見てよいのであります。その研究の間は誰人をもこの室に入れることを避けて、眠ることも、ほとんどこの椅子と
今も疲れて能登守は、椅子に深く身体を埋めて眠っていました。その時に扉が静かにあいて、
「殿様」
扉の前に立っているのはお君でありました。
お君は、大名や旗本の家へ仕える女中のように
「殿様」
と言って、そっと扉をあけたお君は、椅子に
能登守はよく眠っていて、お君の入って来たのに少しも気がつきません。お君は、能登守の椅子に近いところまで来て、主人の寝顔の前に立っていました。
この数日、主人の髪も乱れているし、それに寝ている
「殿様」
やや大きい声でふたたび呼んだ時に、能登守は眼を覚まして、
「あ、お前か」
と言って
「よく、お
お君はこう言いました。
「あ、ついうとうとと寝入ってしまった」
能登守は椅子に埋めた身体を、少しばかり起そうとしました。
「あの、お客様でございますが」
とお君が言いました。
「客?」
能登守は小首を
「言うておいた通り、この仕事をはじめてからは、来客に会いたくない」
「
「それは誰じゃ」
「女の方でございます」
「女の……」
「はい、神尾主膳様の御別家のお方と申すことでございまする」
「ははあ」
駒井能登守は、直ぐにそれと
「どのような用向か知らん、わしは会いたくない、誰か会ってもらいたい」
会うことを多少迷惑がるようであります。
「それでも殿様に、
「はてな」
能登守は、その晴れやかな
「ともかく、あちらへお通し申しておくがよい、暫らくの間お待ち下さるようにお断わりをして」
「
「それから、お前は、わしの羽織だけをここへ持って来てくれるように」
「畏まりました」
お君は
「ははあ、そうじゃ、忘れていたわい、例の神尾が嫁を貰いたいということであろう、あの一件で例の婦人が出向いて来たものと見ゆるわい――筑前殿からも内談があったのだが、あれは、まだ拙者には
駒井能登守は、こんなことを思いつきました。そうして
「しかし神尾は小人じゃ、まんいち拙者が故障を言えば、きっと拙者を恨むに違いない、恨まれるのは苦しくないが、何も知らぬ
こんなことを胸に問い答えている時に、お君が羽織を入れた黒塗りの箱を捧げて来ました。能登守が筒袖の羽織の紐を解くと、お君はその後ろに廻りました。それを黒の紋付の羽織と着替えさせて、お君はその筒袖の羽織を畳みかけました。
能登守は着替えた羽織の紐を結ぶと、お君は、
「殿様、あの、お
と言いました。
「うむ、それもそうじゃ」
お君は、筒袖の羽織を畳んでいた手を休めて、鏡台を
お君はこうして能登守のために乱れた
駒井能登守は客間でお絹と対坐しております。
それは日本式の客間で、二人の間には桐の火桶が置いてありました。お絹は、いつぞやの甲州道中のお礼などを述べました。そうして後に、お絹が言い出したことは案の如く、神尾主膳のこのたびの縁談のことでありました。
「神尾も、ああして置きますると
こういう話でありました。能登守はそれを聞いて、
「それは
穏かにこう尋ねたのでありました。
「先方は、有野村の藤原の伊太夫の一の娘にござりまする」
「有野村の伊太夫の娘?」
「左様でござりまする」
「なるほど」
能登守は暫らく考えている
「あれは聞ゆる旧家でありましたな」
「仰せの通り、家柄では多分、この甲州に並ぶ者がなかろうとのことでござりまする」
お絹はやや誇りがおに答えました。
「その通り、伊太夫は拙者もよく存知の間柄、その家柄もよく承っているが、その息女にはまだお目にかからぬ」
「常には、あまり人中へ出ることさえ嫌うような娘でありましたが、このたびの縁談は、その当人が進みましたものでござりまする」
「それは何よりのこと。この縁談の
「仮親と仰せられまするのは?」
「神尾家と藤原家とには
「恐れながら、家格の違いと仰せでござりまするが、あの伊太夫が家は、御承知の通り、
お絹は、こう言って能登守から、家格の相違ということを言われたのに弁解を試みました。
「いやいや、そのことではない。およそ旗本の家が縁組みをするには、同じ旗本のうちか、或いは大名の家よりするか、さもなき時はしかるべき仮親を立てるが定め、その辺は御承知でござりましょうな」
「それは……」
と言ってお絹は、ややあわてました。
「まだそれまでには運んでおらぬのでござりまする……」
お絹が、それについてなお何かを弁明しようとする、その言葉の鼻を押えるように、能登守が、
「左様ならば
と言ってしまいましたから、お絹は二の矢が
「御親切のお心添えを有難く存じまする、よく主膳にも申し聞けました上で……」
お絹はこう言って辞して帰るよりほかはありません。能登守の言い分は正当であるにしても、せっかく使者に来たお絹にその言い分が快い感じを与えることができませんでした。ましてやこれが神尾主膳の耳に伝わる時は、憎悪となり
八
神尾主膳はその晩、一人で
「机氏、机氏」
いつも竜之助のいる屋敷へ、そのふらふらした足どりで入って来たけれども、そこに竜之助がいませんでした。
「竜之助殿、どこへ行った」
と言いながら、そこへドカリ坐ってしまい、それから酔眼を
例の通り、
「いやに暗い火だ、明るくない
主膳は燈火に向って、こんなことを言いました。その舌の
「誰もおらぬか、誰ぞ来い、あの燈火をもっと明るいように致せ、こんなにして燈心を
怪しげな
「うむ、よし、誰も来ないな、来なければこっちにも了見がある、お松、お松、いや女中共、女中共はおらぬか、
神尾主膳は、また酔眼を据えて室内を
「はははは」
と高笑いをしました。
「違った、違った、ここは古屋敷であったな、なるほど、ここは躑躅ケ崎の古屋敷じゃ、ここには誰も召使はおらぬのじゃ、屋敷の中には無暗に物を斬りたい奴が一人いて、屋敷の外には
こんなことを言いながら神尾主膳は、ふらふらと立って行燈の傍へ来て、燈心を掻き上げて
「はははは、現金なものじゃ、燈心を掻き立てて油を差したらば火が明るくなったわい、火が明るくなったから四辺の物がよく見えるわい、よく見えるけれども机はおらぬわ、竜之助が姿を見せぬわい、はて、この夜中に、どこへ行った、眼の見えぬくせに、はははは、眼が見えぬから夜と昼の区別がつかず、どこぞへ
神尾主膳には酒乱の癖があります。しかしこちらへ来てからは酒乱の癖が出るほどに酒を飲みませんでした。主膳もこれだけは多少謹慎の心があったのであります。それにどうしたものか今宵は、その酒乱に近いほど酒を過して来たもののようであります。
室内が明るくなると共に、主膳は四辺をまた見廻しはじめました。
「刀もある、槍もある、敷物もある、
こんなことを言って室内を見廻した主膳の酔眼がトロリとして、室の片隅の長持の上へ落ちました。
「あ、あれだ、誰もおらぬと思うたのはこれも間違い、あの中に一人の男がいる、口の利けない男がいる、今それを引き出して
主膳は、またふらふらと立って長持の傍へ行きました。
「幸内、長持の中にいる幸内、これへ出ろよ、そのように長持の中に隠れてばかりいては窮屈であろう、貴様も若い
主膳は刀を提げて長持の中へ片手を入れました。その長持には
かわいそうに幸内は、いまだにこの長持の中へ入れられてあったのであります。袋は
ズルズルと長持の中から幸内を引張り出した神尾主膳は、それを燈火に近いところへ持って来て、
「はははは」
主膳は幸内をそこへ引き倒して置いて、
「幸内、そちに窮命をさせて、拙者は気の毒に思う、そちには怨みも憎みもないのじゃ、これというのは名刀の
主膳は憎らしい毒口を吐きかけました。幸内の口は声の立てられぬように薬を飲ませられてしまったけれど、その耳は、この毒口を聞き取ることに不足はないと見えます。
幸内は主膳の言葉を聞くと、その首を烈しく振って苦しげな表情をしました。その有様を、主膳は、やはり酔眼を張って見ていましたが、
「まあ聞けよ、悲しいことに九分まで運んだこの縁談が、きわどいところで
ここに至って神尾主膳は、
「
神尾主膳はブルブルと身を
「やい、駒井能登守、この神尾主膳をなんとするのじゃ、主膳をなんと心得て、どうしてみようというのじゃ、えい、小癪な」
力を極めて前へ突き倒しました。突き倒されて幸内が突んのめるのを直ぐにまた引き起して、
「
それをまた、力を極めて横へ突き転がしました。突き転がしておいて直ぐにまた引き起し、
「前へ突き倒せば前へ倒れる駒井能登守、横へ転がせば横に転がる駒井能登守、さあ、この次はどうしてくれよう、水を
こんなことをしているうちに、神尾主膳の酒乱がだんだん
幸内の襟髪をもってズンズンとこの座敷を引きずり出しました。
座敷を引きずり出して戸をあけると縁側であります。その縁側から裏庭へ、主膳は幸内を引き下ろしました。自分は
今度は土の上を引いて引いて、古井戸の傍まで引張って来ました。
おそらく酒乱が、こんなふうに嵩じると、もはや自分で自分の為すことを知らないのでありましょう。野獣のような残忍性が、加速度を以て加わって来るものとしか思われません。
古井戸の流しへ幸内を引摺って来て、そこへ突き放すと、神尾主膳は車井戸の綱へ手をかけてキリキリと水を汲み上げました。
「
主膳は汲み上げた水をザブリと幸内の上から浴びせました。
手を縛られ、足を縛られた幸内は、水を浴びせられて二尺ばかりも飛び上りました。飛び上ってまた倒れました。
神尾主膳は、心持よかりそうに高笑いして、また二杯目の水を汲みにかかりました。
「はははは」
二杯目の水を汲み上げて、またザブリと幸内の
広い古屋敷のことで誰もいませんから、この場へ来るものはありません。ここにいる人のために衣食の世話をする人は、この近所の農夫の家族でありましたが、それは一定の時をきめて来るほかには、ここへ寄りつきませんでした。
どんな目に遭わされても幸内は、ついに一語をも発することができません。主膳はこの残忍性の面白味を帯びた遊戯のために、三杯目の水を汲み上げて、
「はははは、これは信玄が軍用に用いた用水じゃ、なかなか冷たい水だ、指を入れると指が切れるような水だ、信玄はこの水の底へ黄金を沈めて置いたとやら、それで水がこんなに冷たい、さあ、この冷たい水を、もう一杯飲め」
「あッ、冷たい」
主膳は釣瓶を取落すと、釣瓶は井戸の中へ落ちました。やり
かわいそうに幸内は、主膳が酒乱の犠牲となって、
主膳は悪魔のうなるように、ウンウンと力をこめて綱を引きました。力余って釣瓶を井戸車の上まで
「うーん」
その途端に神尾主膳は、どうしたハズミか二三間後ろへ

「神尾殿、神尾殿」
やや暫らくして神尾主膳は、何者にか呼び
「あ……」
主膳は気がついた時に、自分の
「神尾殿、気を確かにお持ちなさい、拙者は小林でござる、小林文吾でござる」
後ろから抱き上げているのがこう言いました。それはすなわち剣道の師範役小林文吾であります。小林はやはり
「別に怪我をしているわけじゃねえんだ、ただ
小田原提灯を差しつけてこう言ったのは、それは宇治山田の米友でありました。
やっと気がついた神尾主膳、もとより別段に斬られたというわけでもなし、突かれたというわけでもないから、すぐに正気に返って、
「これはこれは、小林文吾殿か」
この時には、主膳も酒乱の狂いから醒めていました。そうしてみると、なんとなくきまりの悪いような心持にもなり、また今ごろ小林師範が、どうしてこんな
「面目ないことじゃ、実は少々酔いが廻ったものだから、酔醒めの水を飲もうと、水を汲みかけてこの
「我々はちと尋ねる人があって、その人を尋ねてこのあたりまで来たところ、ついその人を見失うて……」
「それはそれは、ともかく、あれまで」
神尾主膳は立ち上りました。先に立って小林を屋敷のうちへ案内しようとすると、
「こりゃどうしたんだ、エ、ここに男が一人縛られて倒れてるが、こりゃどうしたんだ」
と言って、けたたましく叫んで提灯を振りかざしたのは米友であります。
「ああ、そりゃあきちがいじゃ、養生のためにそうして水を浴びせてやるのじゃ」
神尾は憎そうに言い捨てました。
「いくらきちがいだってお前、この寒いのに
米友は同情しました。神尾は米友の方を、じっと見ただけで取合わずに、小林に向い、
「貴殿方が尋ぬる人というのは、そりゃ、いかなる人でござるな」
「ほかではござらぬ、このごろ市中に評判のある辻斬の
「なるほど」
「
小林文吾は一通りの事情を話して苦笑いしました。
「それは、それは」
神尾はそれを聞いてなんとなく
幸いに米友は小田原提灯を持っていました。頼まれもしないのに、幸内を担いでその縁側のところまでやって来ていました。
主膳と幸内とを座敷の中へ送り込んで、小林文吾と米友とはそこを辞して外へ出てしまいました。
そのあとで、主膳は座敷の中で寝転んで、詩を吟じてみたり、
「幸内、お前にもだいぶ苦しい思いをさせたな、どれ、許してやろう、縄をゆるめて
と言って、縛ってある幸内の縄の結び目を解きにかかりました。酒乱は止んだらしいけれど、酔いはまだ
ついに面倒になったものと見えて、主膳は
こうして手首の縄を切られたけれど、幸内はグッタリとしていました。
「ははははは、おとなしいな」
と主膳は笑いました。それから同じ小柄をもって足首の縄をブツリブツリと切りかかりました。
縄は足首の中に食い込んであったのを切ってしまうと、幸内の両足も自由になりました。
両手も両足も自由になったけれど、幸内はグッタリとして動きません。それはそのはずです、三杯目の水を浴びせられようとする時分から、幸内は絶息していたものでありましたから。
「ははは、永らく窮命させた、これで許して遣わす、どこへなと勝手に出て行け」
神尾主膳はこう言って、暫らく幸内の姿をながめていたけれど、幸内は更に動くことをしませんでした。
「はははは」
と主膳はまた発作的に笑って、そのままゴロリと横になりました。横になると
主膳の
我に返った最初に、行燈の光がボンヤリと眼へ入りました。それよりも幸内が嬉しくて嬉しくてたまらなかったのは、いつのまにか、わが手が自由になっていたことのわかった時であります。
それがわかると勇気が一時に十倍百倍し、さほど弱っていた身体で
見れば行燈の影に一人の侍が寝ています。
幸内はゾッとしてしまいました。永らく
何事を置いてもこの場を逃げなければならぬ、逃げ出さなければならぬという考えが、前にも後にも
神尾主膳が寝込んでしまって、幸内が転がり出して、いくらもたたない時に、机竜之助が帰って来ました。
例の通り宗十郎頭巾を被っていましたが、いつも
「神尾殿、神尾殿」
行燈の下へ来て寝ている神尾を呼び起した時、竜之助は胸のあたりを気にしております。
「やあ、机氏、どこへ行っていた」
神尾主膳はやっと起き直りました。
「夜遊びに行って来た」
と言いながら竜之助は、片手で長い刀を横に置いた時に、神尾主膳は竜之助の例の胸のあたりを見て、
「や!」
神尾は
胸のあたりを気にしていたという竜之助は、その羽織の少しく下の方にぶら下がっている白い物を右の手に持って、左は羽織を押えて、無理にそれをもぎ取ろうとするのであります。
神尾が見て
人間の手のように見えたのではない、まさに人間の手に違いないからであります。
「竜之助殿、いったいそりゃ、どうしたのだ」
主膳も、ほとほと身の毛がよだつようでありました。
「固く……むしりついて……どうしても取れぬ」
竜之助は、そう言いながら人間の手を羽織の襟からもぎ取ろうとして、なおも力を入れたのであります。
「どうしたのじゃ」
主膳は再びたずねました。
「これが……この手首が……」
竜之助は、
「斬ったのか、人を斬ったのか……」
主膳は面を突き出して、その手首を
「取れないのか」
「取れない」
「どれどれ」
「斬った途端にここへ飛びついたから、また斬った、手首だけ残して倒れた、その手首が、ここに
「拙者が離してみてやろう」
神尾主膳は竜之助の胸の前へ来て気味悪そうに、その手首にさわりましたが、
「こりゃ女の腕ではないか」
「ああ、女の腕よ」
「女を斬ったのか」
「うむ、女を斬った」
「なぜ斬った、どこで……」
それから、やや暫らく古屋敷の中は
「はははは、拙者にその駒井能登守とやらを討てと言われるのか」
机竜之助のこう言った声が、低いけれども座敷の隅に
「
それは神尾主膳が怖れるように抑えたのであります。
それから小さい声で話が続きました。時々は声が高くなったけれどよくは聞き取れません。暫らくして神尾主膳の、
「や、幸内がいない。幸内が逃げた」
と叫ぶ声が聞えました。
幸内を逃がしたのは自分が逃がしたのである。主膳は今までの自分のしたことに気がつかないでいたと見えます。
それから急に騒ぎ立って雨戸をあけて見たり、庭へ出て見たりするようでありましたけれども、結局、逃げた幸内の
主膳は
「神尾主膳はおれに向って、駒井能登守とやらを討ってくれという、神尾の頼みを聞いてやらにゃならぬ義理もなければ、駒井能登守を討たにゃならぬ怨みもない、おれは人を斬りたいから斬るのだ、人を斬らねばおれは生きていられないのだ――百人まではきっと斬る、百人斬った上は、また百人斬る、おれは強い人を斬ってみたいのじゃない、弱い奴も斬ってみたいのだ、男も斬ってみたいが、女も斬る、ああ甲府は狭い、江戸へ出たい、江戸へ出て思うさまに人が斬ってみたいわい。ああ、人を斬った心持、その時ばかりが眼のあいたような心持だわい。助けてくれと悲鳴を揚げるのをズンと斬る、ああ胸が
竜之助は座の左を探って、
「今宵もこれで斬った。女だ、まさしく女の声で助けてくれと泣いた。若い女であったか、年を取っていたか、そりゃわからぬ。綺麗な
竜之助はその刀に残る血の香に
「以前は強い奴でなければ斬りたくなかった、手ごたえのある奴でなければ斬ってみようと思わなかった、このごろになっては、弱い奴を斬ってみたい、助けてくれと泣く奴を斬るのが好きになったわい。ああ、
竜之助はほんとうに乾いた咽喉を鳴らしているので

