[#ページの天地左右中央に]この小説「大菩薩峠」全篇の主意とする処は、人間界の諸相を
曲尽して、
大乗遊戯の境に参入するカルマ
曼陀羅の面影を
大凡下の筆にうつし見んとするにあり。この着想前古に無きものなれば、その画面絶後の輪郭を要すること是非無かるべきなり。読者、
一染の好憎に執し給うこと勿れ。
至嘱。
著者謹言
[#改ページ]
一
大菩薩峠は江戸を西に
距る三十里、甲州裏街道が
甲斐国東山梨郡
萩原村に入って、その最も高く最も
険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
標高六千四百尺、昔、貴き
聖が、この
嶺の
頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を
埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは
笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を
湿おし田を
実らすと申し伝えられてあります。
江戸を出て、武州八王子の
宿から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の
追分を右にとって
往くこと十三里、武州
青梅の宿へ出て、それから山の中を甲斐の
石和へ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。
青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に
日本武尊、中世に日蓮上人の
遊跡があり、
降って慶応の頃、
海老蔵、
小団次などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の
郡内あたりは人気が悪く、ゆすられることを
怖れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の
上り
煩う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。
「
上野原へ、
盗人が入りましたそうでがす」
「ヘエ、上野原へ盗人が……」
「それがはや、お陣屋へ入ったというでがすから驚くでがす」
「驚いたなあ、お陣屋へ盗賊が……どうしてまあ、このごろのように盗賊が
流行ることやら」
妙見の
社の縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば
焼畑も作るという人たちであります。
これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。
萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て
小菅から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して
魚塩を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。
右の両人は、この近まわりに盗賊のはやることを話し合っていたが、結局、
「どろぼうが
怖いのは
物持の
衆のことよ、こちとらが家はどろぼうの方で
怖れて逃げるわ」
ということに落ちて、笑って立とうとする時に、峠の道の
武州路の方から青葉の茂みをわけて登り来る
人影があります。
「あ、人が来る、お武家様みたようだ」
二人は少しあわて気味で、炭俵や
糸革袋が結びつけられた
背負梯子へ両手を突っ込んで、いま登り来るという武家の眼をのがれるもののように、
社の裏路を
黄金沢の方へ切れてしまいます。
二
ほどなく武州路の方からここへ登って来たのは、彼等両人が認めた通り、ひとりの
武士でありました。黒の着流しで、
定紋は
放れ
駒、
博多の帯を締めて、
朱微塵、
海老鞘の刀
脇差をさし、
羽織はつけず、
脚絆草鞋もつけず、この険しい道を、素足に下駄穿きでサッサッと登りつめて、いま頂上の見晴らしのよいところへ来て、深い
編笠をかたげて、甲州路の
方を見廻しました。
歳は三十の前後、
細面で色は白く、身は
痩せているが骨格は
冴えています。この若い武士が峠の上に立つと、ゴーッと、
青嵐が
崩れる。谷から峰へ吹き上げるうら葉が、海の浪がしらを見るようにさわ立つ。そこへ何か知らん、寄せ来る波で岸へ打ち上げられたように飛び出して来た小動物があります。
妙見の社の上にかぶさった栗の大木の上にかたまって、武士の方を見つめては時々白い歯を
剥いてキャッキャッと
啼く。その数、十匹ほど、ここの名物の猿であります。
柳沢峠が開けてから後の大菩薩峠というものは、全く廃道同様になってしまいましたけれど、今日でも通れば通れないことはないのです。そこを通って猿に出くわすことは
珍らしいことではないが、それを珍らしがって
悪戯でもしかけようものなら、かえって飛んだ仕返しを食うことがあります。人の
弱味を見るに
上手なこの群集動物は、相手を見くびると
脅迫する、
敵わない時は
味方を呼ぶ、味方はこの山々谷々から呼応して来るのですから、初めて通る人は全くおどかされてしまいます。が、旅に
慣れた人は、その虚勢を知って
自らそれに処するの道があるのであります。
右の武士は、慣れた人と見えて、
一目猿を
睨みつけると、猿は怖れをなして、なお高い所から、しきりに
擬勢を示すのを、取合わず峠の前後を見廻して人待ち顔です。
さりとて容易に人の来るべき路ではないのに、誰を待つのであろう、こうして
小半時もたつと、木の葉の繁みを
洩れて、かすかに人の声がします。その声を聞きつけると、武士はズカズカと萩原街道の方へ進んで、松の木立から身を斜めにして見おろすと、
羊腸たる坂路のうねりを今しも登って来る人影は、たしかに巡礼の二人づれであります。
「お
爺さん――」
よく澄んだ子供の声がします。見れば一人は
年寄で半町ほど先に、それと
後れて十二三ぐらいの女の子――今「お爺さん」と呼んだのは、この女の子の声でありました。
右の二人づれの巡礼の姿を認めると、何と思うてか武士は、つと妙見堂のうしろに身をかくします。木の上では従前の猿が眼を円くする。
「やれやれ頂上へ着いたわい、おお、ここにお堂がござる」
年寄の方の巡礼は社の前へ進んで笠の紐を解いて
跪まると、
「お爺さん、ここが頂上かい」
面立の愛らしい、元気もなかなかよい子でありました。
「これからは下り一方で、日の暮までに
河内泊りは楽なものだ、それから三日目の今頃は、三年ぶりでお江戸の土が踏める――さあお弁当をたべましょう」
老爺は
行李を開いて竹の皮包を取り出すと、女の子は、
「お爺さん、その
瓢箪をお貸しなさい、さっきこの下で水音がしましたから、それを
汲んでまいりましょう」
「おおそうだ、途中で飲んでしまったげな。お爺さんが汲んで来ましょう、お前はここで休んでおいで」
腰なる瓢箪を抜き取ると、
「いいのよ、お爺さん、あたしが汲んで来るから」
女の子は、老人の手から
瓢を取って、ついこの下の沢に流るる清水を汲もうとて
山路をかけ下ります。
老人は
空しくそのあとを見送って、ぼんやりしていると、不意に
背後から人の足音が起ります。
「
老爺」
それはさいぜんの武士でありました。
「はい」
老爺は、あわただしく居ずまいを直して
挨拶をしようとする時、かの武士は前後を見廻して、
「ここへ出ろ」
編笠も取らず、用事をも言わず、
小手招きするので、巡礼の老爺は怖る怖る、
「はい、何ぞ御用でござりまするか」
小腰をかがめて進み寄ると、
「あっちへ向け」
この声もろともに、パッと血煙が立つと見れば、なんという
無残なことでしょう、あっという間もなく、
胴体全く二つになって青草の上に
のめってしまいました。
三
「お
爺さん、水を汲んで来てよ」
瓢箪を捧げた少女は、いそいそとかけて来たが、老人の姿の見えぬのを少しばかり不思議がって、
「お爺さんはどこへ行ったろう」
お堂の裏の方へでも行ったのかしらと、来て見ると、
「あれ――」
瓢を投げ出して
縋りついたのは老人の
亡骸でした。
「お爺さん、誰に殺されたの――」
亡骸をかき抱いて泣きくずれます。
ここにこの不慮の
椿事を平気で
高見の
見物をしていたものがあります。さいぜんの武士の一挙一動から、老人の切られて少女の泣き叫ぶ有様を目も放さずながめていたのは、かの
栗の木の上の猿です。
猿どもは、今や木の上からゾロゾロと下りて来ました。老少二人の伏し倒れた周囲を遠くからとりまいて、だんだんに近寄ると、小さな
奴がいきなり飛び出して、少女の
頭髪にさしてあった小さな
簪をちょっとツマんで引き抜き、したり
顔に仲間のものに見せびらかすような
身振をする。それを見た、も一つの小猿は負けない気で、少女の頭髪から
櫛を抜き取って振りかざす。その間に大猿どもは、さきに老爺が開きかけた竹の皮包の
握飯を引き出して口々に
頬ばってしまうと、今度は落ち散っていた手頃の木の枝を拾って、何をするかと思えば、刀を差すようなふうに腰のところへあてがい、少女の背後へ廻って抜打ちに――つまりさいぜんの武士のやった通りに――その木の枝で少女の背中をなぐりつけました。
我を忘れて泣き伏していた少女は、この不意の一撃で、
「あれ――」
と飛びのいたが、
気丈な子でした、すぐにあり合わす木の枝を拾い取って振り上げると、猿どもは眼を
剥き出し白い歯を突き出してキャッキャッと叫びながら、少女に飛びかかろうとして、
物凄い光景になりましたが、折よくそこへ通りかかった旅の人があります。
年配は四十ぐらいで、
菅笠をかぶって
竪縞の
風合羽を着、
道中差を一本さしておりましたが、手に持っていた
松明の火を振り廻すと、今まで
驕っていた猿どもが、急に飛び散らかって、我れ勝ちにもとの栗の大木へと
馳せ上ります。
旅に慣れた証拠は、この旅人の持っている松明でわかります。大菩薩を通るものは獣類を
逐うべく、松の木のヒデというところでこしらえた松明を用意します。獣類のなかでも猿はことに火を
怖れるものであります。右の旅人はその松明を消しもせず、
「
姉さん、
怪我はなかったかね」
近く寄って見て、
「おやおや、人が斬られている!」
少女を掻き分け
死骸へ手をかけ、その
斬口を
検べて見て、
「よく斬ったなあ、これだけの腕前をもってる
奴が、またなんだってこんな年寄を手にかけたろう」
旅人は歎息して何をか暫らく思案していたが、やがて少女を慰め励まして、ハキハキと老爺の屍骸を押片づけ、少女を自分の背に負うて、七ツ
下りの
陽を後ろにし、大菩薩峠をずんずんと武州路の方へ下りて行きます。
四
大菩薩峠を下りて東へ十二三里、武州の
御岳山と多摩川を隔てて向き合ったところに、
柚のよく実る沢井という村があります。この村へ入ると誰の眼にもつくのは、山を負うて、
冠木門の左右に
長蛇の如く走る白壁に黒い腰をつけた
塀と、それを越した
入母屋風の大屋根であって、これが
机竜之助の邸宅であります。
机の家は
相馬の系統を引き、名に聞えた家柄であるが、それよりもいま世間に知られているのは、門を入ると左手に、九歩と五歩とに建てられた道場であります。いつでもこの道場に武者修行の五人や十人ゴロゴロしていないことはないのでありましたが、今日はまた話がやかましい。
「お聞きなされましたか、昨日とやら大菩薩に
辻斬があったそうにござります」
「ナニ、大菩薩に辻斬が……」
「年とった巡礼が一人、
生胴をものの見事にやられたと甲州から来た人の
専らの
噂でござりまする」
「やれやれ年寄の巡礼が、
無残なことじゃ」
「近頃の
盗人沙汰と言い、またしても辻斬、
物騒千万なことでございますな」
「
左様、なにしろこの
街道筋は申すに及ばず、
秩父、
熊谷から上州、野州へかけて毎日のように盗人沙汰、それでやり口がみな同じようなやり口ということでございます」
「いかにも。それほどの盗賊に罪人は一人もあがらぬとは、八州の
腹切ものだ」
「それにしても、この沢井村
界隈に限って、盗賊もなければ辻斬もない、これというも、つまり沢井道場の余徳でありますな」
沢井道場で門弟食客連がこんな噂をしているのは、前段大菩薩峠の殺人の翌々日のことでありました。
「さて、道具無しの一本」
「心得たり、若先生の
型を」
門弟二人が左右に分れると、
「沢井道場
名代の
音無しの勝負」
口上まがいで叫ぶ者がある。
沢井道場音無しの勝負というのは、ここの若先生、すなわち机竜之助が一流の剣術ぶりを、そのころ剣客仲間の呼
慣わしで、
竹刀にあれ木剣にあれ、一足一刀の青眼に構えたまま、我が刀に相手の刀をちっとも
触らせず、二寸三寸と離れて、敵の出る
頭、出る頭を、或いは打ち、或いは突く、自流他流と敵の強弱に
拘らず、机竜之助が相手に向う筆法はいつでもこれで、一試合のうち一度も竹刀の音を立てさせないで終ることもあります。机竜之助の音無しの
太刀先に向っては、いずれの剣客も
手古摺らぬはない、竜之助はこれによって負けたことは一度もないのであります。
その型をいま二人は熱心にやっていると、おりから道場の入口とは斜めに向った玄関のところで、
「頼む」
中では返事がない。
「頼みましょう」
まだ誰も返答をするものがない。そのうちに、こちらの
立合は、一方が
焦れて
小手を打ちに来るのを、得たりと一方が竹刀を頭にのせて勝負です。
「お頼み申します」
勝負が終えて気がついた門弟連が、こちらから
無遠慮に首を突き出して見ると、お供の男を一人つれて、見事に
装うた若い婦人の影が植込の間からちらりと見えました。
「
拙者が応対して参ろう」
いま立合をして負けた方のが、道場から
母屋へつづいた廊下をスタスタと
稽古着に
袴のままで出てゆくと、
「安藤さん、若い
女子のお客と見たら
臆面なしに応対にお出かけなすった」
皆々笑っていると、
「ドーレ」
安藤の太い声。ややあって女の
優しい声で、
「あの、手前は和田の
宇津木文之丞が妹にござりまする、竜之助様にお目通りを願いとう存じまして」
「ハハ
左様でござるか」
姿は見えないけれども、安藤がしゃちほこばった様子が手に取るようです。
「その若先生はな」
いよいよ安藤は四角ばって、
「ただいま御不在でござるが」
「竜之助様はお
留守……」
女はハタと当惑したらしく、
「左様ならば、いつごろお帰りでございましょうか」
「さればさ、うちの若先生のことでござるから、いつ帰るとお
請合いも致し兼ぬるで……」
「遅くとも
今宵はお帰りでございましょう」
「それがその、今申す通り、いつ帰るとお請合いを致し兼ぬるが、次第によりては拙者ども御用向を承り置きまして」
安藤と来客の若い婦人との問答を道場の連中は面白がって
洩れ聞いておりましたが、
「若先生に
直談判というて美しい
女子が乗り込んで来た、
前代未聞の道場荒し」
「見届けて参りましょうか」
自ら
薦めて
斥候の役を承ろうとする者がある。
「賛成賛成、裏口から廻って見て参られい」
ますます御苦労さまな話で、まもなくあたふたと
走せ
戻って、
「見届けて参りました、
確かに見届けて参りました」
息を切っての
御注進です。
「どのような女子じゃ」
「あれは和田の宇津木文之丞様の奥様でござりまする、しかも評判の美人で……」
「ナニ、和田の宇津木の
細君か、さいぜん妹だというたではないか」
「いいえ、お妹御ではございませぬ、まだ内縁でございまして甲州の
八幡村からついこの間お越しのお方、発明で、美人で、お里がお金持で評判もの、私は、八幡におりました時分から、
篤とお見かけ申しました」
「文之丞の細君が何故に妹と名乗って当家の若先生を訪ねて来たか、それが
解せぬ」
「あ、若先生のお帰り」
無駄口がパタリとやんで、見れば門をサッサッと歩み入る人は、思いきや、一昨日、大菩薩の上で巡礼を斬った武士――しかも、
なりも
ふりもその時のままで。
五
竜之助の前には、宇津木の妹という、島田に
振袖を着て、
緋縮緬の
間着、
鶸色繻子の帯、引締まった着こなしで、年は十八九の、やや才気ばしった美人が、しおらしげに坐っています。
「お浜どのとやら、御用の
筋は?」
竜之助の問いかけたのを待って、
「今日、兄を差置き折入ってお願いに上りましたは」
歳にはませた
口上ぶりで、
「ほかでもござりませぬ、五日の日の
御岳山の大試合のことにつきまして……」
竜之助もいま帰って、その組状を見たばかりのところでした。そうして机の上に置かれた長い奉書の紙に眼を落すと、女は言葉を
継いで、
「その儀につきまして、兄はことごとく心を痛め、食ものどへは通らず、夜も眠られぬ有様でござりまする故、妹として見るに忍びませぬ」
「大事の試合なれば、そのお心づかいも
御尤もに存じ申す、我等とても油断なく」
素気なき答え方。女は少し
焦き込んで、
「いえいえ、兄は
到底あなた様の敵ではござりませぬ、同じ
逸見の道場で腕を磨いたとは申せ、竜之助殿と我等とは段違いと、つねづね兄も申しておりまする。人もあろうに、そのあなた様に晴れのお相手とは何たること、兄の身が
不憫でなりませぬ」
「これは早まったお言葉、逸見先生の道場にて我等如きは破門同様の身の上なれど、文之丞殿は師の覚えめでたく、
甲源一刀流の正統はこの人に伝わるべしとさえ望みをかけらるるに」
「人がなんと申しましょうとも、兄はあなた様の
太刀先に
刃向う腕はないと、このように申し切っておりまする」
「それは
御謙遜でござろう」
竜之助は
木彫の像を置いたようにキチンと坐って、
面の
筋一つ動かさず、色は例の通り
蒼白いくらいで、
一言ものを言っては直ぐに唇を固く結んでしまいます。女はようやく
躍起となるような調子で、頬にも
紅がさし、眼も少しかがやいてきたが、
「もしもこのたびの試合に恥辱を取りますれば、兄の身はもとより、宇津木一家の破滅でござりまする。ここを汲み分けて、今年限り、兄が身をお立て下さるよう、あなた様のお情けにすがりたく、これまで
推参致しました、なにとぞ兄の身をお立て下されまして」
女は涙をはらりと落して、竜之助の前にがっくりと
結立ての髪を
揺がしての歎願です。
竜之助は眼を落して、しばらく女の姿をみつめておりましたが、
「これはまた
大仰な。試合は真剣の争いにあらず、勝負は時の運なれば、勝ったりとて負けたりとて、
恥でも
誉でもござるまい、まして一家の破滅などとは
合点なり
難き」
冷やかな返事です。
女が再び面をあげた時、涙に輝いた眼と、情に熱した頬とは、
一方ならぬ
色香を添えつ、
「何もかも打明けて申し上げますれば、兄はこのたびの試合済み次第に、さる諸侯へ指南役に
召抱えらるる約束定まり、なおその時には婚礼の儀も兼ねて
披露を致す心組みでおりましたところ……」
「それは重ねがさね
慶たきこと、左様ならばなお以て試合に充分の腕をお示しあらば、出世のためにも縁談にも、この上なき誉を添ゆるものではござらぬか」
「それが
折悪しく……いや時も時とてあなた様のお相手に割当てられ、勝ちたいにもその望みはなく、逃げましてはなお以て面目立ちませぬ。ただ願うところはあなた様のお慈悲、武士の情けにて勝負をお預かり置き下さらば
生々の御恩に存じまする。兄のため、宇津木一家のために、
差出がましくも折入ってのお願いでござりまする」
この女の言うことがまことならば、いじらしいところがあります。兄のため、家のためを思うて、女の一心でこれまで説きに来たものとあれば、その
心根に対しても、武士道の情けとやらで、花を持たして帰すべきはずの竜之助の立場でありましょう。ところが、
蒼白い
面がいよいよ蒼白く見えるばかりで、
「お浜どのとやら、そなた様を文之丞殿お妹御と知るは
今日が初めながら、兄を思い家を思う御心底、感じ入りました。されど、武道の試合はまた格別」
格別! と言い切って、口をまた固く結んだその
余音が何物を以ても動かせない強さに響きましたので、いまさらに女は
狼狽して、
「
左様ならば、あの、お聞入れは……」
声もはずむのを、竜之助は物の数ともせぬらしく、
「剣を取って向う時は、親もなく子もなく、弟子も師匠もない、
入魂の友達とても、試合とあれば
不倶戴天の敵と心得て立合う、それがこの竜之助の武道の覚悟でござる」
竜之助はこういう
一刻なことを平気で言ってのける、これは今日に限ったことではない、常々この覚悟で稽古もし試合もしているのですから、竜之助にとっては、あたりまえの言葉をあたりまえに言い出したに過ぎないが、女は
戦慄するほどに怖れたので、
「それはあまりお強い、人情知らずと申すもの……」
涙をたたえた
怨みの眼に、じっとお浜は竜之助の
面を見やります。
竜之助の細くて底に白い光のある眼にぶつかった時に、蒼白かった竜之助の顔にパッと
一抹の血が通うと見えましたが、それも
束の
間で、もとの通り蒼白い色に戻ると、膝を少し進めて、
「これお浜どの、人情知らずとは近ごろ意外の御一言、物に
譬うれば我等が武術の道は女の
操と同じこと、たとえ親兄弟のためなりとて操を破るは女の道でござるまい。いかなる人の頼みを受くるとも、勝負を譲るは武術の道に欠けたること」
「それとても親兄弟の
生命にかかわる時は……」
「その時には女の操を破ってよいか」
六
宇津木の妹を送り出したのは
夕陽が御岳山の裏に落ちた時分です。しばらくして竜之助の姿を、万年橋の下、多摩川の岸の水車小屋の前で見ることができました。
「与八! 与八!」
夜は水車が廻りません、中はひっそりとして鼠の逃げる音、
微かな
燈火の光。
「誰だい」
まだるい返事。
「竜之助だ、ここをあけろ」
「へえ、今……」
やや狼狽の
体。やがて中からガラリと戸が開かれると、
面は子供のようで、形は牛のように
肥った若者です。
「与八、お前に少し頼みがあって、お前の力を借りに来た」
「へえ」
この若者は、竜之助を見ると
竦んでしまうのが
癖です。
「与八、お前は力があるな、もっとこっちへ寄れ」
耳に口をつけて何をか
囁くと、与八は
慄え上って返事ができない。
「いやか」
「だって若先生」
「いやか――」
竜之助から圧迫されて、
「だって若先生」
与八は歯の根が合わない。
「
俺をお斬りなさる気かえ」
「いやか――」
「行きます」
「行くか」
「行きます」
「よし、ここに縄もある、手拭もある、
しっかりやれ、やりそこなうな」
七
竜之助の父
弾正が江戸から帰る時に、青梅近くの山林の中で子供の泣き声がするから、
伴の者に拾わせて見ると丸々と肥った当歳児であった、それを抱き帰って養い育てたのがすなわち今日の与八であります。与八という名もその時につけられたのですが、
物心を覚えた頃になって、村の子供に「拾いっ子、拾いっ子」と言って
苛められるのを
辛がって、この水車小屋へばかり遊びに来ました。その時分、水車番には老人が一人いた、与八はその老人が死んだ時はたしか十二三で、そのあとを
嗣いで水車番になったのです。
与八の
取柄といっては馬鹿正直と馬鹿力です。与八の力は十二三からようやく現われてきて、十五になった時は大人の三人前の力をやすやすと出します。十八になった今日では与八の力は底が知れないといわれている。荷車が道路へメリ込んだ時、
筏が岩と岩との間へはさまった時、そういう時が与八の天下で、すぐさま人が飛んで来ます。
「与八、米の飯を食わせるから手を貸してくれやい」
「うん」
そして、大八車でも杉の大筏でも、ひとたび与八が手をかければ、苦もなく解放される。お礼心に
銭などを出しても与八は
有難がらない、米の飯を食わせれば限りなく
悦ぶ、それに
鮭の切身でもつけてやろうものなら一
かたげに三升ぐらいはペロリと
平げてしまいます。米の飯を食わせなくても、与八がそんなに不平を言わないのは、小屋へ帰れば麦の飯と焼餅とを腹いっぱい食い得る自信を持っているからであるが、ずるい奴が、米の飯を食わせる食わせるといってさんざん与八の力を借りた上、米の飯を食わせずに
済まそうとする、二度三度
重なると与八は怒って、もう頼みに行っても出て来ない、その時は前祝いに米の飯を食わせると、前のことは忘れてよく力を貸します。
与八が村へ出るのをいやがるのは、前申す通り子供らがヨッパだの拾いっ子だの言って、与八が通るのを見かけていじめるからです。それで水車小屋の中にのみ引込んでいるが、感心なことには、毎朝欠かさず主人弾正の
御機嫌伺いに行きます。
「
大先生の御機嫌はいいのかい」
女中や
雇男が、
「ああ好いよ」
と答えると、
にっこりして帰ってしまう。竜之助の父弾正は老年の上、
中気をわずらって永らく床に就いています。
竜之助から
脅迫されて与八が出て行くと、まもなく万年橋の上から
提灯が一つ、
巴のように舞って谷底に落ちてゆく。
暫くして与八は、一人の女を荒々しく横抱きにして、ハッハッと大息を吐いて、竜之助の前に立っています。与八に
抱えられている女は、さっき兄のためと言って竜之助を説きに来た宇津木のお浜であります。
それからまた
程経て、河沿いの
間道を、たった一人で竜之助が帰る時分に月が出ました。
竜之助が万年橋の
詰のところまで来かかると、ふと
摺違ったのが
六郷下りの
筏師とも見える、旅の
装いをした男で、振分けの荷を肩に、何か鼻歌をうたいながらやって来ましたが、竜之助の姿を見て、ちょっと驚いたふうで、やがて
丁寧に頭を下げて、
「静かな
晩景でござりやす」
竜之助はやり過ごした旅人を見送っていたが、
「少し待て」
「へい」
「お前はどこから来た」
「へい、
氷川の方から」
「氷川? 氷川の何というものだ、名は……」
「へい、七兵衛と申します筏師で」
「待て、待てと申すに」
「何ぞ御用で……」
立ち止まるかと思うとかの男は身を
飜して逃げようとするのを、竜之助は
脇差に手をかけて
手練の抜打ち。
侮り切って刀へは手をかけず、脇差の抜打ちで払った
刃先をどう
潜ったか、旅の男は
飛鳥の如く逃げて行きます。竜之助は自分の腕を信じ過ぎた形になって、切り損じた瞬間に
呆然と、逃げ行く人影をみつめて立っている。
早いこと、早いこと、飛鳥といおうか、弾丸といおうか、四十八間ある万年橋の上を一足に飛び越えたか、その男の
身体はまるで宙にあるので、竜之助はその
迅さにもまた気を抜かれて、追いかけることをも忘れてしまったほどでした。
脇差の
切先を調べて見ると肉には触れている、橋の上をよくよく見ると血の
滴りが小指で
捺したほどずつ
筋を引いてこぼれております。竜之助は右の男を斬り殺そうとまでは思わなかったが、斬ろうと思うた程度よりも斬り得なかったことが、よほど心外であるらしく、
歯咬みをして我家の
方をさして行くと、邸のあたりが非常に混雑して
提灯が
右往左往に飛びます。
「あ、若先生、大変でござります、賊が入りました」
「賊が?」
邸の中へ入って調べて見ると、この時の盗難が
金子三百両と秘蔵の
藤四郎一
口。
「届けるには及ばぬ、このことを世間へ
披露するな」
なにゆえか竜之助は家の者に口留めをします。
八
宇津木文之丞が妹と称して沢井の道場へ出向いたお浜は、実は妹ではなく、甲州
八幡村のさる家柄の娘で、文之丞が内縁の妻であることは道場の人々があらかじめ察しの通りであります。
お浜は才気の勝った女で、八幡村にある時は、家のことは自分が切って廻し、村のことにも口を出し、お嬢様お嬢様と立てられていたその癖があって、宇津木へ縁づいてまだ表向きでないうちから、モウこんな策略を以て
良人の急を救わんと試みたわけです。
宇津木の家は代々の千人同心で、山林
田畑の産も相当あって、その上に、川を隔てて沢井の道場と
双び立つほどの剣術の道場を開いております。
竜之助の剣術ぶりは、
形の如く
悪辣で、文之丞が門弟への扱いぶりは
柔かい、その
世間体の評判は、竜之助よりずっとよろしい。お浜もそれやこれやの評判に聞き惚れたのが、ここへ来た最も有力なる縁の一つであったが、実際の腕は文之丞がとうてい竜之助の敵でないことを
玄人のなかの評判に聞いて、お浜の
気象では納まり切れずにいたところを、このたび御岳山上の試合の組合せとなってみると、文之丞の悲観歎息ははたの見る目も
歯痒いのであります。お浜は
焦れてたまりませんでしたが、それでも良人の危急を見過ごしができないで、われから狂言を組んで机竜之助に妥協の申入れに行ったのが前申す如き順序であります。
その晩、お浜は
口惜しくて口惜しくて、寝ても寝つかれません。
憎い憎い竜之助、
歯痒い歯痒い我が夫、この二つが一緒になって、頭の中は無茶苦茶に乱れます。竜之助と文之丞とは、お浜の頭の中で
卍となり
巴となって入り乱れておりますが、ここでもやはり
勝目は竜之助にあって、憎い憎いと思いつつも、その憎さは勝ち誇った男らしい憎さで、その憎さが強くなるほど我が夫の意気地のなさが浮いて出て、お浜のような気の勝った女にはたまらない
業腹です。
縁を結ぶ前には、門弟は千人からあって、腕前は甲源一刀流の第一で、どうしてこうしてと、それが何のざま、さんざん腹を立てても、やっぱり帰するところは我が夫の意気地のないということに帰着して、どうしても夫をさげすむ心が起ってきます。夫をさげすむと、どうしてもまた憎いものの竜之助の男ぶりが上ってきます。妻として夫を
侮る心の起ったほど不幸なことはない。
もしも自分が強い方の人であったならば、どのくらい気強く、肩身も広かろう。武術の勝負と女の操。竜之助のかけた
謎が
頑として今も耳の端で鳴りはためくのです。
邸で会った竜之助と、水車小屋の竜之助。その水車小屋では、穀物をはかる
斗桶に腰をかけていた竜之助。神棚の上には
蜘蛛の巣に
糠のくっついた間からお
燈明がボンヤリ光っていた、気がついた時は自分は縛られていた、上からじっと
見据えた竜之助。
冷やかな
面の色、白い光の眼、人の苦しむのを見て
心地よさそうに、
「試合の勝負と女の操」
と言って板の間を踏み鳴らした。
それから、その時の竜之助の姿が眼の前にちらついて、憎い憎い
念が、いつしか色が変って妙なものになり行くのです。
「お山の太鼓が朝風に響く時までにこの謎を解けよ」
という一言。それを思い出すごとにお浜の胸の中で
早鐘が鳴ります。
その夜、竜之助は
己が室に
夜更くるまで
黙然として、腕を胸に組んで身動きもせずに坐り込んでいます。
人を斬ろうとして斬り損じたこと、秘蔵の藤四郎を盗まれたこと、そのほかに、考えても考えても、わけのわからぬものが一つあるのです。与八をそそのかして、宇津木のお浜を
縄にまでかけて
引捕えさしたのは何のためであろう。お浜が邸を出るまでは、そんな考えはなかったが、女が門を出てから、どうしてもこの女をただ帰せないという考えが
勃然として起ったので――竜之助の心には石よりも
頑固なところと、理窟も筋道も通り越した
直情径行のところと、この二つがあって、その時もまた、初めは理を
説いて説き伏せたところが、あとはまるで
形なしのことをやり出した。
それでやはり女のことを考えてみています。
九
机の家に盗難のあったその翌朝のことです。沢井から三里離れた青梅の町の
裏宿の尋常の百姓家の中で、
「おじさん、
昨夜はどこへ行ったの」
炉の火を
火箸で
掻きながら、真黒な鍋で何か煮ていた女の子、これは先日、大菩薩峠で救われた巡礼の少女でありましたが、おじさんと呼ばれた人はまだ寝床の中に横たわっていたが、ひょいと首をもたげて、
「ナニ、どこへも行きはしないよ」
その
面を見れば、これはかの峠で火を
焚いて猿を
逐い、この巡礼の少女を助けた旅の人でありました。
「でも夜中に目がさめると、おじさんの姿が見えなかったものを」
こう言われて主人は横を向いて、
「ああそれは、雨が降ると困るので裏の山から
薪を運んでおいたのだ」
「そう」
と言って少女は
得心したが、
「おじさん、それでは今日お江戸へつれて行って下さるの」
たずねてみたが、直ぐに返事がないので、せがんでは悪かろうと思うたのか、そのままにして仏壇の方にふいと目がつくと、
「お線香をモ一本上げましょう」
たったいま上げた線香が長く煙を引いているのに、また新しい線香に火をつけて、口の中で念仏を
唱え、
「お
爺さん、わたしが大きくなったらば、きっと
仇を討ちますからね」
独言を言っている間に眼が曇ってくる。寝床の中で一ぷくつけていた主人はそれを見とがめて、
「お松坊、ちょっとここへおいで」
女の子は横を向いて、そっと眼の
縁を払い、
「はい」
主人の前に
跪まると、
「おまえは口癖に
敵々というが、それはいけないよ、
敵討ということは
侍の子のすることで、お前なんぞは念仏をしてお爺さんの
後生を願っておればよいのだ」
「でもおじさん、あんまり
口惜しいもの」
また横を向いて、
溢るる涙を払います。
「口惜しい口惜しいがお爺さんの後生の
障りになるといけない。あ、それはそうと、お前を今日はお江戸へつれて行くはずであったが、私は少し
怪我をしてな」
「エッ、怪我を!」
「ナニ、大した事じゃねえ、
昨夜それ、薪を運ぶとって
転んで腰を木の根にぶっつけたのだよ、二日もしたら
癒るだろう、江戸行きはもう少し延ばしておくれ」
「お江戸なんぞはいつでもようござんす、早くその怪我を癒して下さい」
「そ言ってくれると有難い。それでな、お松坊、お前に預けておきてえものが一つある」
主人は
蒲団の下を探って取り出したのが、
錦の袋に入れた短刀ようのもの。
「おじさん、これは何」
「何でもよい、これから大事に懐中へ入れて持っておいで、決して人に見せてはいけないよ」
「これは短刀ではないの」
「うむ、そうだ、用心に
肌身をはなさず持っておいで、そのうちにはわかることがあるからな」
少女は何だか
合点がゆきません。ようよう寝床を
這い出したこの家の主人はかなりの怪我と覚しく、
跛足を引き引き炉の傍までやって来て少女と二人で朝飯を食べていると、
「七兵衛さん、七兵衛さん」
表口で呼ぶ。ここの主人の名は七兵衛というのであるらしい。
「これは
嘉右衛門さん、朝っぱらからどちらへ」
「なに、ちっと見舞に行こうかと思って」
「お見舞に? どこへ」
「まだお聞きなさらねえか、材木屋の藤三郎さんが今朝早く上げられなすって」
「材木屋のあの藤三郎さんが?」
「そうだよ、お役所へ上げられてお調べの
最中だよ」
「それはまあ、どうしたわけで」
「何だかわしもよくは知らねえが、盗賊のかかわり合いだということでがす」
「盗賊のかかり合い?」
七兵衛は思わず小首を傾けながら、
「あの正直な人が盗賊のかかり合いとは、おかしいことですね」
「この間、甲州の上野原のお陣屋へ盗賊が入ったそうで」
「ナニ、上野原のお陣屋へ?」
「そうですよ、お陣屋へ入るとはずいぶん度胸のいい泥棒ですね。ところが泊り合せたお武家に見つけられて、その泥棒が逃げ出したが、その時に泥棒が
書付を一本お座敷へ落したそうで、そいつを拾われちまった」
「書付を拾われた?」
七兵衛は思わず自分のふところを
撫でてみる。
「それからね、どうしたものやらその書付が藤三郎さんところの材木売渡しの受取証文で、ちゃんと
印形まで
据わっている」
「それはとんだ災難、私もお見舞に上らなくては済みませんが、昨晩少しばかり怪我をしたものだから、お前さんからよろしく申しておいておくんなさい」
「怪我をなすった?」
「なあに、大したことはありません、山でころんで腰をちっとばかり強く打っただけのことで」
「そりゃいけねえ、まあ大切にした方がいい、それじゃ行って来ますから」
嘉右衛門が立去ったあとで、七兵衛はなんと考え直したか、
「お松坊、今から江戸へ行こうや」
「でも、おじさんお怪我は?」
「なあに、馬も
駕籠もあらあな」
「
嬉しいこと」
お松は
大欣びで食事もそこそこ、はや手の廻りの用意をします。
十
今日は五月の五日、御岳山上へ
関八州の武術者が集まって奉納試合を為すべき日であります。
机竜之助はこの朝、
縁側に立って山を見上げると、真黒な杉が満山の緑の中に天を刺して立っているところに、一むらの雲がかかって、八州の平野に響き渡れよとばかり山上で打ち鳴らす大太鼓の音は、その雲間より洩れて落ちます。
「ああよい天気」
白い雲の山にかかる時は、かえって
五月晴れの空の色を
鮮やかにします。
「
奉納日和でござりまするな」
門弟連ははや準備をととのえてそこへやって来ました。
竜之助も身仕度をして、いつぞや大菩薩峠の上で
生胴を
試してその
切味に覚えのある武蔵太郎安国の
鍛えた
業物を横たえて、門弟下男ら
都合三人を引きつれて、いざ
出立の
間際へ、思いがけなく駈け込んで来たのは水車番の与八でありました。
「若先生、今この手紙をお前様に渡してくれと頼まれた」
与八の手には一封の手紙、受取って見ると意外にも
女文字。
「お山の太鼓が鳴り渡る朝までに解け」と
脅したあの
謎の、これが心か。
竜之助は
忙しいうちに、くりかえしてこの手紙を読みました。
十一
この日、宇津木文之丞もまた
夙に起きて衣服を改め、武運を神に祈りて後、妻のお浜を
己が居間に招いて、
「浜、誰もおらぬか」
人を嫌った
気色は別段に改まって、
愁いと決心とが現われている。
「誰も見えませぬ」
「ちと改まってそなたに申し置くことがあるぞ」
「それは何でござりましょう」
「今日の
門出に、これをそなたに
遣わします」
机の上なるまだ墨の香の新しい一封の書状、お浜は
不審顔に手に取って見ますと、意外にもこれは離縁状、俗にいう
三行半でありましたから、
「これは私に下さる離縁状、どうしてまあ」
呆気に取られて夫の
面をみつめていましたが、開き直って、
「お
戯れも過ぎましょう。何の
咎で私が
去状いただきまする」
「問わず語らず、黙って別るるがお互いのためであろう」
「まあ、何がどうしたことやら、
仔細も聞かずに去状もらいましたと
親許へ戻る女がありましょうか、お戯れにも程がありまする」
「浜、この文之丞が為すことがそちには戯れと見えるか、そなたの胸に思い当ることはないか」
「思い当ることとおっしゃるは……」
「言うまいと思えど言わでは事が済まず。そなたは過ぐる夜、机竜之助が
手込に
遭って帰ったな」
「エッ、竜之助殿に手込?」
「隠すより現わるる。下男の久作が
行方と言い、その夜のそなたが
素振、
訝しい限りと思うていたが、人の
噂で思い当った」
「人の噂? 人がなんと申しました」
お浜は
嚇となり、
「あられもない噂を言いがかりに私を
逐い出しなさる御所存か。さほどお邪魔ならば……」
「おお邪魔である、家名にも武名にも邪魔者であればこそ、この去状を
遣わします」
「
口惜しいッ」
お浜は、どうするつもりか夫の
脇差を奪い取ろうとするのを、文之丞はとんと突き返したから、殆んど
仰向けにそこに倒れました。それを見向きもせず、文之丞は奥の間へ立ってしまいます。夫にこう仕向けられて今更お浜が口惜しがるわけはないはずです、文之丞がもしも一倍
肯かぬ
気象であったなら、お浜の首を打ち落して竜之助の家に切り込むほどの騒ぎも起し兼ねまじきものをです。少し気が
鎮まってから、お浜がよくよく考え直したら、ここで離縁を取ったのが結局自分の解放を喜ぶことになるのかも知れない、しかし問題はここを去ってどこへ行くかです、甲州へは帰れもすまい、どこへ落着いて誰を頼る――お浜の頭はまだそこまで行っていないので、ただ
無暗に口惜しい口惜しいで
伏しつ
転びつ
憤り泣いているのです。
宇津木文之丞はその間に、すっかり仕度をととのえて、用意の
駕籠に乗り、たった一人で、これはワザと門弟衆へも告げずに、こっそりと御岳山をさして急がせます。
和田村から山の麓までは三里。文之丞は
禊橋の滝茶屋で駕籠を捨て、
小腋には袋に入れた木剣をかかえ、編笠越しに人目を避けるようにして上って行きます。上って二十四丁目の黒門、ここへ来ると鼻の先に本山の
頂が円く
肥えて、一帯に真黒な大杉を
被り、その間から青葉若葉が威勢よく
盛り上って、その下蔭では
鶯の鳴く音が聞えます。振返れば山々の打重なった
尾根と谷間の
外れには、関八州の平野の一角が見えて、その先は
茫々と雲に
霞んでいる。文之丞はしばしここに
彳んでいると、黒門
側の
掛茶屋で、
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
女の呼び声に応じて茶屋に入り、腰掛で茶を
呑みながら、ふと
傍を見ると、茶屋から
崖の方へ
架け出した妙に
捻った庵室まがいの小屋に、
髯の真白なひとりの老人が、じっとこちらを見ています。老人の前には机があって、
算木筮竹が置いてある。
「
易を立てて
進ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」
老人はこう申しますのを、文之丞は首を振って見せた、老人は再び
勧めようともしません。
おりから坂の下より上って来たのは、かの机竜之助の一行で、同じくこの茶屋の前で立ち止まりました。
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
「休んで行こうかな」
竜之助が先に立って、一行を引きつれて、この黒門の茶屋へ入ります。宇津木文之丞は
何気なく入って来た人を見ると、それは自分の当の相手、机竜之助でありましたから、ハッと
気色ばんだが、幸いに
編笠を被って隅の方にいたので、先方ではそれと気がつかぬ様子。
先刻の老人はまた首を突き出して竜之助の方に向い、
「易を立てて進ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」
竜之助は老人の面を見て頼むとばかり
頷くと、老人は
筮竹を取り上げて、
「そもそも愚老の
易断は、
下世話に申す当るも
八卦当らぬも八卦の看板通り、世間の八卦見のようにきっと当ると保証も致さぬ代り、きっと
外れると
請合いも致さぬ。愚老は
卦面に現われたところによりて、聖人の道を人間にお伝え申すのが務め、当ると当らぬとは愚老の
咎ではござらぬでな……」
仔細らしく筮竹を捧げて、じっと
精神を鎮めるこなしよろしくあって、老人は筮竹を二つに分けて一本を左の小指に、数えては算木をほどよくあしらって、首を傾けることしばらく、
「さて
卦面に現われたるは、かくの通り『
風天小畜』とござる、
卦辞には『密雲雨ふらず我れ
西郊よりす』とある、これは陽気なお盛んなれども、小陰に
妨げられて雨となって地に下るの功未だ成らざるの
象じゃ」
老人は
白髯を左右に振分けて易の講釈をつづけます。
「されども、西郊と申して陰の
方より、陰雲盛んに起るの形あれば、やがて雨となって地に下る、それだによって、このたびの試合はよほどの
難場じゃ、用心せんければならん。が、しかし、結局は雨となって地に下る、つまり目的を
遂げてお前様の勝ちとなる、まずめでたい」
それから老人は
易経を二三枚ひっくり返して、
「めでたいにはめでたいが、また一つの難儀があるで、よいか、よく聞いておきなされ。
象辞にこういう文句がござる、『夫妻反目、室を正しゅうする
能わざるなり』と。ここじゃ、それ、前にも陽気盛んなれども小陰に妨げらるるとあったじゃ、ここにも夫妻反目とあって、どうもこの卦面には
女子がちらついている」
門弟連はまた興に乗って、妙な
面をして老人の講釈を聞いていると、
「細君に用心さっしゃれ、お前様の奥様がよろしくないで、どうもお前様の邪魔をしたがる
象じゃ。夫妻反目は妻たるものの不貞不敬は
勿論なれども、その夫たるものにも罪がないとは申し難い。で、細君をギュッと締めつけておかぬとな、二本棒ではいけない……」
これを聞いて門弟の安藤がムキになって怒り出しました。
「たわけたことを申すな、二本棒とは何じゃ、先生にはまだ奥様も細君もないのだ。若先生、こんなイカサマ
売卜を聞いているは暇つぶし、さあ頂上に一走り致しましょう」
これに応じて、若干の茶代と
見料とを置いて一行はこの茶屋を立ち去ります。
あとで宇津木文之丞は静かにこの茶屋を出ました。
これから頂上までは僅かの道のりで、二人の行く前後に諸国の武芸者が
肩臂を怒らして続々と登って参ります。
十二
東国の中でも武蔵の国は武道に
因の多い国柄であります。
武蔵という国号からが、そもそも
武張った歴史を持ったもので、
日本武尊が秩父の山に武具を
蔵めたのがその起源と古くより伝えられていますが、御岳山の人に言わせると、それは秩父ではない、この御岳山の奥の宮すなわち「
男具那峰」がそれだとあって、これを俗に
甲籠山とも申します。御岳神社に納められたる、いま国宝の一つに数えられている
紫裾濃の
甲冑は、これも在来は日本武尊の
御鎧と伝えられたもので、実は後宇多天皇の弘安四年に蒙古退治の御祈願に添えて奉納されたものだそうです。
さればこの山の神社に四年目毎に行わるる奉納の試合は関東武芸者の血を沸かすこと
並々ならぬものがあります。八州の全部にわたり、なお信州、伊豆、甲州等の近国からも名ある剣客は続々と詰めかけ、武道熱心のものは奥州或いは西国から、わざわざ出て来るものもあるくらいで、いずれの剣士もみな免許以上のもの、一流一派を開くほどの人、その数ほとんど五百人に及び、既に数日前から山上三十六軒の
御師の家に陣取って、手ぐすね引いて今日の日を待ち構えている有様です。
以上五百人のうち、試合の場に上るのは百二十人ほどで、拝殿の前の広庭には
幔幕を張りめぐらし、席を左右に取って、早朝、宮司の式が
厳かに済まされると、それより試合は始まります。
さても宇津木文之丞は、程なく山へ登って来て、いったん知合いの御師の家に立寄って、それから案内されて神前の広庭に出向き、西の
詰から幔幕を
潜って場へ出て見ると、もはやいずれの席もギッシリ剣士が詰め切って、
衣紋の折目を正し、口を結び目を
据えて
物厳かに控えております。自分はそっと甲源一刀流の席の後ろにつこうとすると、
首座の方に見ていた同流の
高足広沢
某が招きますから、
会釈して
延かるる座につき、木刀を広沢に預けて、さて机竜之助はいずれにありやと場内を見廻したが、姿が見えません。
組の順によって試合が行われます。いずれも力のはいる
見物で、三十余組の勝負に時はようやく移って正午に一息つき、日のようやく傾く頃、武州
高槻の
柳剛流師範
雨ヶ
瀬某と、相州小田原の田宮流師範大野某との老練な
型比べがあって後、
「甲源一刀流の師範、宇津木文之丞
藤原光次」
審判が呼び上げる。この声を聞くと、少しだれかかった場内が引締まって黒ずんできます。
宇津木文之丞は生年二十七、
下り
藤の
定紋ついた小袖に、
襷を
綾どり
茶宇の袴、三尺一寸の
赤樫の木刀に牛皮の
鍔打ったるを携えて、雪のような白足袋に
山気を含んだ軟らかな広場の土を踏む。少しの
間隔を置いて審判が、
「元甲源一刀流、机竜之助
相馬宗芳」
と呼び上げます。
机竜之助と宇津木文之丞、この勝負が今日の見物であるのは、それは机竜之助が剣客中の最も不思議なる注意人物であったからで、この中にも竜之助の「音無しの構え」に会うて、どうにもこうにも
兜を脱いだ先生が少なくないのです。
今日はこの晴れの場所で、
如何様の
手並を彼が現わすかということが
玄人仲間の
研究物であったということと、もう一つは、机竜之助は甲源一刀流から出でて別に一派を開かんとする野心がある、甲源一刀流から言えば危険なる
謀叛人で、それが同流の最も
手筋よき宇津木文之丞と組み合ったのだから、他流試合よりももっと皮肉な組合せで、故意か偶然か世話人の役割を不審がるものが多かったくらいだから、ああこれは遺恨試合にならねばよいがと老人たちは心配しているものもあったのです。
呼び上げられて東の
詰から、幔幕をかき上げて姿を現わした机竜之助は、
黒羽二重に
九曜の定紋ついた小袖に、
鞣皮の襷、
仙台平の袴を
穿いて、寸尺も文之丞と同じことなる木刀を携えて進み出る。両人首座の方へ
挨拶して神前に一礼すると、この時の審判すなわち行司役は中村一心斎という老人です。
この老人は富士
浅間流という一派を開いた人で、試合の
見分には熟練家の誉れを得ている人でありました。
一心斎は麻の
裃に
鉄扇を持って首座の少し前のところへ歩み出る。
首座のあたりには各流の老将が威儀をただして控えている中に、甲源一刀流の本家、武州秩父の
逸見利恭の姿が目に立って、このたびの試合の
勧進元の格に見える。
宇津木文之丞と机竜之助は左右にわかれて両膝を八文字に、太刀下三尺ずつの
間合をとって、木刀を前に、礼を交わして、お互いの眼と眼が合う。
山上の空気がにわかに重くなって大地を圧すかと思われる。たがいの合図で同時に二人が立ち上る。竜之助は例の一流、青眼音無しの構えです。その
面は白く沈み切っているから、心の中の動静は更にわからず、呼吸の具合は平常の通りで、木刀の先が浮いて見えます。
竜之助にこの構えをとられると、文之丞はいやでも
相青眼。これは肉づきのよい面にポッと
紅を
潮して、澄み渡った眼に、竜之助の白く光る眼を
真向に見合せて、これも甲源一刀流
名うての人、相立って両人の間にさほどの相違が認められません。
しかし、この勝負は実に
厄介なる勝負です。かの「音無しの構え」、こうして相青眼をとっているうちに出れば、必ず打たれます。向うは決して出て来ない。向うを引き出すにはこっちで
業をしなければならんのだから、音無しの構えに久しく立つ者は大抵は
焦れてきます。
こんな立合に、審判をつとめる一心斎老人もまた、なかなかの骨折りであります。
一心斎老人は
隙間なく二人の位を見ているが、どちらからも仕かけない、これから先どのくらい長く
睨み合いが続くか知れたものでない、これは両方を散らさぬ先に引き分けるが
上分別とは思い浮んだけれども、あまりによく気合が満ちているので、行司の自分も釣り込まれそうで、なんと合図の
挟みようもないくらいです。
そのうちに少しずつ文之丞の呼吸が荒くなります。竜之助の色が
蒼白さを増します。両の
小鬢のあたりは汗がボトボトと落ちます。今こそ分けの合図をと思う矢先に、今まで静かであった文之丞の木刀の先が
鶺鴒の尾のように動き出してきました。
業をするつもりであろうと、一心斎は
咽喉まで出た分けの合図を控えて、竜之助の眼の色を見ると、このとき怖るべき
険しさに変っておりました。文之丞はと見ると、これも人を殺し兼ねまじき険しさに変っているので、一心斎は急いで列席の逸見利恭の方を見返ります。
逸見利恭は鉄扇を砕くるばかりに握って、これも眼中に穏かならぬ色を
湛えて、この勝負を見張っていたが、「分けよう」という一心斎が眼の中の相談を、なぜか軽く左右に首を振って
肯いません。一心斎は気が気でない、彼が老巧な眼識を以て見れば、これは尋常の立合を通り越して、もはや果し合いの域に達しております。社殿の前の大杉が二つに裂けて両人の間に落つるか、行司役が身を以て分け入るかしなければ、この
濛々と立ち騰った殺気というものを消せるわけのものではない。今や
毫厘の
猶予も為し難いと見たから、
「分け!」
これは一心斎の独断で、彼はこの勝負の危険を救うべく鉄扇を両刀の間に突き出したのでしょう、それが遅かったか、かれが早かったか、
「突き!」
文之丞から出た
諸手突きは実に大胆にして猛烈を極めたものでした。五百余人の剣士が
一斉にヒヤヒヤとした時、意外にも文之丞の身はクルクルと廻って、投げられたように甲源一刀流の席に飛び込んで逸見利恭の蔭に
突伏してしまいました。
机竜之助は木刀を提げたまま広場の真中に突立っています。
十三
間髪を
容れざる打合いで場内は一体にどよみ渡って、どっちがどう勝ったのか負けたのか、たしかに見ていたはずなのが自分らにもわからないで度を失うているのを、中村一心斎は真中へ進み出で、
「この立合、勝負なし、分け!」
と宣告しました。
分けにしては宇津木文之丞が自席へ走り込んだのがわからない、一同の
面にやや不服の色が
顕われました。
机竜之助の白く光る眼は
屹と一心斎の面に
注ぎまして、
「御審判、ただいまの勝負は分けと申さるるか」
片手にはかの木刀を提げたなりで鋭い詰問。一心斎は騒がず、
「いかにも分け、勝負なし」
竜之助はジリジリと一心斎の方に詰めよせて、
「さらば当の相手をこれへ出し候え」
「相手を出すに及び申さぬ、この一心斎が
見分に不服があらば申してみられい」
「申さいでか。突いて来た刀を前に進んで
外し面を打った刀、何と御覧ぜられし、老眼のお
見損いか」
試合は変じて審判と剣士との立合となったので、並みいる連中は安からぬ思い。
しかしこの勝負はいかにも竜之助の言い分通り、或いは一心斎の見損いではあるまいか、老人なんと返事をするやらと
気遣えば、一心斎は平気なものでカラカラと笑い、
「分けたあとの出来事はこちの知ったことでない、老眼の見損いとは身知らずのたわごと」
分ける、突く、打つ、その三つの間に一筋の
隙もないようであるが、分けて考えれば三つになる。
竜之助も口を結んで老人の面を見ていたが、
「しからば再勝負を
所望する」
「奉納の試合に意趣は禁物」
一心斎が取合わぬのを竜之助は固く
執って屈せず、
「未練がましき勝負はかえって神への非礼、ぜひに再試合所望」
明快な勝負をつけねば決してこの場を去らずという憎々しい剛情を張っているが、一心斎もまた
肯かぬ気の
一徹者で、
「再試合なり申さぬ、
強ってお望みならば愚老が代ってお相手致そうか」
「これは近ごろ面白い」
竜之助は冷やかな微笑を浮べて、
「富士浅間流の本家、中村一心斎殿とあらば相手にとって不足はあるまい、いざ一太刀の御教導を願う」
「心得たり、年は老いたれど高慢を
挫く太刀筋は衰え申さぬ」
武芸者気質で、一心斎は竜之助の剛情が
赫と
癪に触ったものですから、自身立合おうという。飛んだ
物言になったが、事は面白くなった。ほんとに立合がはじまったらそれこそ
儲けものと、一同は手に汗を握っていると、
「机氏、机氏、控えさっしゃれ」
たまり兼ねて言葉をかけたのは甲源一刀流の本家、逸見利恭です。
十四
逸見利恭は甲源一刀流の家元で、机竜之助ももとこの人を師として剣道を学んだものでありますから、師弟の浅からぬ縁があるのです。
そもそも一刀流の本源をたずぬれば、その開祖は伊豆の人、伊藤一刀斎
景久で、その
衣鉢を受けたのが
神子上典膳忠明(小野治郎左衛門)です。この人、
柳生と相並んで、徳川将軍の師範をつとめたほどの名人で、その子小野治郎左衛門忠常が小野派一刀流、伊藤典膳
忠也が忠也派一刀流を打出し、ことに忠也が父忠明より開祖一刀斎の姓と
瓶割刀とを許される。それを
嗣いだのが忠明以来の高弟亀井平右衛門
忠雄で、これがまた伊藤を名乗る。忠雄の次が新たに
溝口派の名を残した人、溝口五左衛門正勝というものであります。
武蔵国秩父小沢口の
住人逸見太四郎義利は、この溝口派の一刀流を桜井五助長政というものに
就いて学び、ついにその
奥義を
究めて、ここに甲源一刀流の一派を開き関東武術の中興と
謳われたので、逸見利恭は、その正統を受けた人ですから、机竜之助の剛情我慢を見兼ねて控えろと
抑えたのは当然の
貫禄があります。
「検審に向い近ごろ
過言なり、早々刀を引き候え」
逸見を囲んでいた門下の連中は、一方には宇津木文之丞を
介抱する、その他の者は刀に手をかけて、眼を
瞋らして竜之助を
睨んで、いざといわば飛びかからん
気色に見えます。
竜之助はこの
体を見て、例の切れの長い白い光のある眼の中に充分の冷笑をたたえて、なんともいわず身をクルリと神前に向けて一礼し、
左手に幔幕を上げてさっさと引込んでしまいました。
宇津木文之丞の面上に受けた木刀は実に鋭いもので、ほとんど脳骨を砕かれているのですが、さすがにその場へ打倒れる醜さを
嫌い、席まで飛び込んで師の蔭に打伏したが、その時はモウ息が絶えていたのです。
机竜之助は試合とは言いながら、宇津木文之丞を打ち殺してしまったので、無慈悲残忍を極めた立合の仕方であるが、これは文之丞の方で最初しかけて行ったのは明らかで、もしも文之丞があの
諸手突きが
極ったならば、竜之助の
咽喉笛を突き切られて、いま文之丞が受けた運命を自分が受けねばならぬ。あの場合、文之丞がナゼあんな烈しい突きを出したか、あれはやはり人を殺すつもりでなければ出せない突きです。してみれば文之丞の立合い方もまた
不審千万で、無慈悲残忍の
一本槍で竜之助を責めるわけにはゆかないのです。
よって竜之助の剛情我慢を憎むものも暫く口を
噤んで、そのあと二番で終る試合の済むのを待っています。
あとの試合には
頓着なく、机竜之助は、いったん控えの宿へ引取って着物を着換え、
夕餉を済ましてから、また宿を出て雲深き杉の木立を分けて
奥の
宮道の方へブラリと出かけました。
十五
随神門を入って、
霧の
御坂を登り、右の
小径を行くと奥の宮
七代の滝へ出る道標があります。御岳山の地味は杉によろしく、見ても胸の
透く数十丈の杉の木が麓から頂まで生え上っている中に、この霧の御坂から七代の滝へ下るまでの間は特に大きなものであります。竜之助がこの中へ入ると、雲も霧もまた一緒に
捲き込んで行く。
見返れば社殿に上げられた
篝火、
燈籠の光はトロリとして眠れるものの如く、立ち止まって見るとドードーと七代の滝の音が聞ゆる。
立ち尽していると
頭上で御祈祷鳥が鳴く、御岳山の御祈祷鳥は
高野の奥に鳴くという仏法僧。
ふと、霧の御坂の方から人の足音がする。
「竜之助様か」
それは女でした。宇津木文之丞が妻の声でした。
「お浜どのか」
「あい」
「…………」
「御用心あそばせ、
暗討がありまする」
「暗討?」
「お前様を討とうとて同流の
手利が五人、ただいま宿を出てこれへ参りまする」
女の触れた手は熱かったが耳につけた口の息は火のようです。
「お浜どの、ここはあぶない、あれに隠れて」
目の前なる
塞の
神の
社を
指しますと、
「竜之助様、あなたは
斬死をなさる気か」
お浜は竜之助の
行手を
遮るようにして、
「あなたがここで斬死をなさるなら、その前にわたしを殺して」
「なに?」
「文之丞は死にました」
お浜の声は
震えて低い。
「宇津木の妻は去られて来ました」
竜之助はなんとも言いません。
「どこへ行きましょう」
御祈祷鳥がまた鳴く。
「甲州へは帰られません」
お浜の身は
寛く、そして強くだんだんに竜之助の身を
圧して来ます。
御祈祷鳥がまたホーホーと鳴く。
「
不如帰ではないかしら」
お浜はわざと身を横にして杉の木立を仰ぎます。
「竜之助様、なんとかおっしゃって下さい」
竜之助はまだなんとも言いません。
「あなたは刀にお強いように、女にもお強いか」
お浜の髪の毛が竜之助の首のあたりにほつれる。竜之助は
無言。
夜はいよいよ静かで七代の滝の音のみ
爽かに響き渡ります。
霧の御坂でまたしても人の声。
「ああ人が来ます、敵が来ます」
竜之助は勇躍する。
「逃げましょう、逃げましょう、死ぬのはいやいや、逃げて二人は生きましょう」
お浜は身を以て竜之助にすがりつく。
雲と霧とが
濛々として全山をこめた時、
剣鳴りがする。二人の姿はそこから消えてしまいました。
十六
本郷元町に土蔵構えのかなりな呉服屋があって、番頭小僧とも十人ほどの頭が見え、「山岡屋」と染め抜いた
暖簾の前では小僧がしきりに
打水をやっていると、
「御免下さいまし」
入って来たのは百姓
体の男で、小さい包を抱え、十一二になる小娘を連れていましたのは、あれから一カ月ばかり後のことでしたが、二人とも見たようなと思わるるも道理、男は武州青梅の
裏宿の七兵衛で、娘は巡礼の子お松でありました。
「いらっしゃい……」
お客と思って一斉にお世辞をふりかけると、七兵衛は丁寧に頭を下げて、
「あの、こちら様は山岡屋久右衛門様でござりましょうな」
「はい、手前は山岡屋久右衛門でござい」
小僧はいささか拍子抜けの
体でポカンと立っていると、
「手前は武州青梅から参りましたが、旦那様なり奥様なりにお眼にかかりとう存じまして」
「旦那様か奥様にお眼にかかりたいって、いったいお前さん、何の御用だえ」
「ヘエ、実は御当家の御親類のお
娘子をお連れ申しましたので」
小僧は
怪訝な
面をして、七兵衛とお松の面を等分に見比べておりますと、帳場にいた番頭が口を出して、
「手前どもの
親戚の娘子をお連れ下さいましたとな」
「はい、以前本町に刀屋を開いておいでになった彦三郎様のお嬢様と申せば、旦那様にも奥様にもおわかりになるそうで、このお
娘御がそれでございます」
七兵衛はお松を引合わせると、番頭は変な
面をしていましたが、小僧を呼んで、
「長松、なんせ旦那様はお
留守だから奥様にそう申し上げて来な、青梅在のお百姓さんが、本町の彦三郎さんのお娘御をお連れ申してお目にかかりたいと申しておりますって、ね、いいか」
「は――い」
小僧は気のない返事をして奥の方へ行きました。
「まあお掛け……」
番頭が月並の愛想で火鉢を出すのをきっかけに、七兵衛は店先へ腰を下ろして、煙草をぷかりぷかりやりながら落着いているうちにも、お松はなんとなくおどおどした様子で、七兵衛のかげに小さくなっていると、さいぜんの小僧が出て来て突っ立ったなり、
不愛想極まる
面付をしながら、
「番頭さん、お
内儀さんのおっしゃるにはねえ、本町の刀屋さんなんてのは聞いたことも見たこともないって。だからそのお娘さんなんて方には近づきがないから、どうかお帰りなすって下さるように、そう申し上げて下さいと」
これを聞いた七兵衛とお松はハッと面を見合せましたが、お松が進み出でて、
「そんなはずはないのよ」
面を真赤にして眼は
潤みきって、
「そんなはずはありませんよ、こちらのお
内儀さんは、わたしのお母さんの姉さんだもの、面を見ればわかるのよ」
お松は
精一杯にこのことを主張します。番頭と小僧はさげすむような面をして二人を見ていますのを七兵衛は、
「この娘さんもあのように申します、奥様に一度お目にかかればすぐおわかりになりましょう」
「だって、お内儀さんが知らないとおっしゃるものを仕方がないじゃないか」
小僧は口を
尖らします。
「伯母さんに会えばすぐわかるのよ、小さい時お芝居へ連れて行っていただいたこともあるのだもの」
七兵衛はお松の説明のあとをついで、やはり
律儀な百姓の
口調で、
「実は、このお娘御とおじいさんとが甲州裏街道の大菩薩峠と申しまするところでお難儀をなすっているところを、私が通りかかってお連れ申したわけで、このお娘さんも
頼る
方といっては、こちら様ばかりだそうで、いかにもお気の毒ですから御一緒にやって参りましたわけで、どうかもう一度、奥様にお取次を願います」
克明に頭を下げて頼むので、番頭は飛んだ
厄介者と言わぬばかりに小僧に
顋を向け、
「では、モ一遍お内儀さんにそのことを申し上げてみな」
小僧は
不承不承にまた奥へ行きましたが、小さな紙包を一つ持って出て来て、
「番頭さん、何と言っても奥様は御存じがないとおっしゃる、これは少ないが
草鞋銭だから、それを持って帰ってもらうように、足りなければまだ一両や二両はそちらで心配して上げてもいいからって」
番頭はその紙包を受取って七兵衛の前へ進み出で、
「幾度お取次してもお聞きなさる通りでございます、これはホンの草鞋銭の
印で、これを持ってお帰り下さい」
紙包を七兵衛の前へ突き出すと、七兵衛はグッと
癇癪にこたえたのを、だまって抑えつけて紙包を見詰めたままでいると、お松は横を向いて口惜しさに震えます。このときちょうど、「いらっしゃい、お掛けなさい」
小僧たちの雷のような
喚きに迎えられて、この店へ入って来たのは切下げ髪に
被布の
年増、ちょっと見れば大名か旗本の
後家のようで、よく見れば
町家の出らしい
婀娜なところがあって、年は二十八九でありましょうか、手には秋草の
束にしたのを持っておりましたが、
「あの、この間の
柄をもう一度見せて下さいな」
「これはこれはお師匠様、わざわざお運びで恐れ入ります、昨日織元から
新柄が届きまして、ただいま持って上ろうと存じておりましたところで、へえ、この通り」
番頭小僧もろともにペコペコお
低頭をして、棚から盛んに
反物を
担ぎ出して切髪の女の前に
塁を築き立てると、
「ついでがあったものだから」
女は
鷹揚にその反物を取り上げて、柄を打返して調べはじめますと、
「おい、番頭さん、こりゃ何だい!」
閑却されていた七兵衛はここで紙包をポンと突き返して、呼びかけた声がズンと鋭かったので、切髪の女はひょいと振返って七兵衛を見ます。かまいつけなかった番頭小僧どもは、七兵衛の鋭い
権幕を見てゾッとする。
「お
銭をいただきにあがったわけじゃござんせん、番頭さん、悪い推量でございます」
七兵衛は
煙管をポンと叩いて、
「御当家の御親類のお
娘子をお連れ申しただけのことで、それを
強請かなんぞのように
銭金で追っ払いなぞは恐れ入ります」
そろそろ七兵衛の言い分が
巽上りになって、悪くとれば妙にこだわって、いよいよ悪く見えますから番頭小僧も不安の色を見せていると、七兵衛は、
「お金が欲しいのでお邪魔に上ったように取られては私も残念でごぜえますから、念のためにこの子の死んだお爺さんというのから、お預かり申した金をここでお目にかけます」
といって七兵衛は小包を解いて、中から百両の包を三つ取り出して、
「これが、このお娘子のお爺さんから私が預かりましたお金でございます、ナーニ、ここへ拡げなくてもよいわけでございますが、お金が欲しいくらいならわざわざこうして持って参りは致しません――ところで」
七兵衛が存外おとなしくて、
「せっかくこうして親類の名乗りをして尋ねて来たものを畳の上へもお通しなされず、見ず知らずとおっしゃって追い出すお家へ、御無理にお願い申してこの娘さんを置いて帰りましたところで行く末が案じられます。こうやってお連れ申してみればマンザラ他人のような気も致しませんから、よろしゅうございます、御当家に縁のないものなら私に縁のあるものでごぜえましょう、今日から私が貰い受けましょう、どうかあとあとのところを苦情のねえように」
こういって七兵衛は
煙管を筒の中に納めて、お松を顧み、
「なあお松坊、そういうわけだから、ここはおじさんと帰るさ」
三百両の金を
蔵って立ち上ろうとする。お松は情けない
面をして、眼にはいっぱいの涙を含んで、小さな
顋を
襟にうずめて
頷きます。
夏の夕風がうすら
淋しい。二人が出て行くと、まもなく山岡屋の番頭小僧らはドーッと笑いました。この笑い声を聞いた時、お松は
屹と振返って山岡屋の
暖簾を
睨みつけ、暫く立去れない
口惜しさが胸までこみ上げて来るように見えましたが、
「お江戸は広いから居どころに困るようなことはねえ」
七兵衛はお松を
促して連れて行く。
十七
二人が神田明神の方へ曲ろうとすると、後ろから呼びかけるものがあります。
「もしもしあの、お
爺さんにお娘さん」
あたりにあんまり人通りがなかったから直ぐに気がついて二人が振返ると、それはさいぜん、同じ店に反物の柄を見ていた切髪の女でありました。切髪の女は二人に近寄って
人懐こく、
「あの、
無躾ながらお前さんは山岡屋の御親類なそうな」
「はい、
左様でございます、この子が山岡屋の御親類で。私は縁もゆかりもない百姓でございますが」
「そう、わたしもあの店でちょいとお聞き申しました、それでお前さん方がお困りのようだから、だしぬけに声をかけてみましたの」
品のよいわりに口の
利きようが慣れ過ぎた女だと思って、七兵衛は、
「左様でございましたか……」
「わたしはね」
女はちょいと横の方を向いて、
「ついそこの横町に住んでいます者、こんなところで申し上げては失礼ですが、もしなんならそのお娘さんを、わたしがお預かり申し上げても苦しゅうござんせぬ」
「へえ、そりゃ御親切に……」
七兵衛も、あまり変った救い舟が
靄の中から不意に飛び出して乗せて上げようというのだから
聊か
面喰って、
「御親切は有難う存じますが、見ず知らずのあなた様にお
縋り申しては何が何でもあまり
ぞんざいでございますから」
「いいえ、
ぞんざいというのはわたしの言うことよ。世間は妙なもので、お前さんのさっきお言いなさる通り、親類呼ばわりをして来たものを
門口から追い返すものもあれば、赤の他人でもずいぶん
因縁ずくで力にもなったりなられたりするものもあります。ほかにどこぞ頼る所でもおありなされば格別、そうでなかったら、ちょうど私の家が手不足で困っておりますから……」
世間にはなかなか世話好きの女もあるものだと思って、七兵衛がまだ返答もしきらないうちに、女は先に立って、
「まあまあ、わたしの家へお寄りなさい、どちらに致せ今晩はお泊りなすっておいで、ナニ、
気遣いなものは一人もおりませんよ」
「それでは、せっかくの御親切に甘えまして」
七兵衛とお松は
煙に捲かれて、あとをついて行くと、湯島の高台に近い
妻恋坂の西に
外れた裏のところ、
三間間口を二間の
黒塀で、一間のあいだはくぐりの
格子で、塀の中には
見越の松から二階の手すりなども見えて、気取った作りの家の前まで来ると女が先に格子をあけて案内した時、表にかけた松月堂古流
云々の看板で、この女がべつだん
凄いものではなく、花の師匠であることを知りました。
「さあ、お入りなさい、ここはわたしの家で、
婆やと猫が一
疋いるばかり」
十八
甲州本街道の方は、新宿から八王子まで行く間に五宿、府中、日野まで相当の
宿々もありますけれど、裏街道ときてはただ
茫々たる武蔵野の原で、青梅までは人家らしい人家は見えないと言ってもいいくらいです。
ことにこの青梅街道の中で丸山台というところあたりは
追剥の
類が常に出没して、日の
中に心強い人連れでもなければ
屈強な男でさえ容易にここを通りません。まして日の暮や夜は無論のこと。それを今日は珍らしく、まだ
有明の月が空に残っているうちに、馬の鈴の音がこの丸山台のあたりで聞えます。そして
朝露をポクポクと馬の
草鞋に
蹴払って、笠を
被った一人の若い
馬子が平気でこの丸山台を通り抜けようとしております。大方、江戸を
夜前に出て近在へ帰る百姓でありましょう。
それにしても大胆な。馬子でも思慮のあるものは
今時分ここを一人歩きはしないものを。それもそのはず、この若い馬子をよく見れば、かの万年橋の下の水車小屋の番人、馬鹿の与八ですもの。馬鹿ですから
怖いもの知らずです。
馬の背中には大きな
行李が三つばかり
鞍に結びつけられて、その真中に
丈三尺ばかりのお地蔵様の木像、どこから持って来たか、大分に
剥げて、
錫杖の先や
如意宝珠なども少々欠けておりますが、それを馬の背の真中へキチンと
据えつけて、それを
縄でほどよく結びつけておきますから、遠くから見ればお地蔵様が馬に乗ってござるようです。
与八は
手綱を引張りながら、時々後ろを顧みて地蔵様を打仰ぎ、
「はア、地蔵様ござらっしゃるな」
と声をかけて進んで行きます。
「
俺は子供の時分、なんでもこの街道へ
打棄られたのを
大先生が拾って下すったとなあ。俺の親というのはどんな人だんべえ、俺だってまんざら木の
股や岩の間から生れたじゃあるめえから、親というものがあったには違えねえ、
大概の人に
父というものとおっ
母というものがあるだあが、俺にはホントウの父とおっ母が無え、だから俺あ人にばかにされる、なに、ばかにされたってかまやしねえや、大先生が大事にしてくれるから不自由はねえけれども、それでも一ぺんホントウの父というものとおっ母というものに会いてえな――海蔵寺の方丈様のおっしゃるには、地蔵様というものは親なし子を大事にして下さる仏様だとよ、地獄へ行っても地蔵様が我を頼めとおっしゃって子供を助けて下さるくらいだから、地蔵様を
信心していれば自然と親たちにもめぐり会えるだからと、方丈様がそうおっしゃるものだから、俺あ地蔵様を信心して、
道傍に石の地蔵様が倒れてござらっしゃれば起して通る、花があれば花、水があれば水を上げて信心するだ……昨日も
四谷の道具屋に、このお地蔵様の木像があったから、いくらだと聞くと一貫二百で売るというから、
小遣をぶちまけて買って来た――これを持って帰って家で毎日信心をする」
与八はこんな
独言をいって歩きます。
「俺もひとり
ぼっちだあけれど、うちの大先生も運の悪い人だ、五年も六年も御病気で、体が
利きなさらねえ、たった一人の若先生はあの大試合の日から
行方知れずになっておしめえなさるし――今は親類の衆が寄って世話をしてござらっしゃるが、やはり
親身の人が恋しかんべえ……」
与八の独言は涙まじりになってきます。
「そりゃそのはずだあ、俺だって何不自由はねえけれども、それでも親身の親たちに会いてえと思わねえ日はねえくらいだ、大先生はああやって竜之助様を
勘当しておしめえなすって、誰が何といっても許すとおっしゃらねえが、でも腹の中では若先生がいたらと思うこともあるに違えねえ……いったいが竜之助様という人が心得違えだ、たとえば勘当されたとて、たった一人の
親御じゃねえか、それを慕って帰ってござらねえというのが
嘘だ、俺、ふだんから若先生という人は気味の悪い人だと思っていた、剣術なんというものは身の守りにさえなればよかんべえに、若先生は人を斬ることを何とも思わっしゃらねえだ――いくら剣術でもああいう法というのはあるめえ、かりにも御主人を悪くいって
済まねえけんど、あの分で行ったら竜之助という人は決していい死にようはなさらねえ、もしや江戸にござらっしゃるかと
昨日も
一昨日も探して歩いたが、お江戸だって広いや、なかなか見つかりゃしねえ、見つけたら意見をして引張って来べえと思ったが駄目なこんだ」
与八はしきりなく
独言をつづけましたが、この時また地蔵様を振返って、
「まあいいや、大先生の分も若先生の分もおらが分も一緒に、このお地蔵様に信心をしておくべえ……」
独言が
途絶えて、馬のポクポクと歩く音が林の中へひっそりと響いて行く。
ややあって与八はまた独言です。
「それからわからねえのがあのお浜という女よ、若先生から頼まれて水車小屋へ
担いで来た、
俺あの時のことを思うとゾッとする、今まであんな悪いことをした覚えはねえ……それにあの女が若先生に
文を届けてくれろと、あの試合の日、おらがところへそっと持って来た、どうも、あの女がおらがには
解せねえ女だ」
こう言っているうちに与八と馬とは丸山台の難所を三分の一ほど通り過ぎて、行手の
木蔭に
焚火でもあろうか火の光を認めました。
「やあ、火が燃えてるな」
与八は何の気なく
手綱を取って行くと、その火のあたりで
物騒がしい人声です。
「朝っぱらから人声がするな」
近づいて行くにしたがって人声はますます
喧しいので、
「黙って歩いたらよかんべえ、まるで
喧嘩みたような、でけえ声をして」
ポクポク進んで行くと、行手に数個の人影があって、ぐるりと
輪形に突っ立ち、中に一人の人を囲んで棒を持ったり杖を持ったり、そして盛んに
啖呵を切って中なる人を
脅迫している様子です。
「お前たちは何してるだあ」
丸山台へは悪者が出るのがあたりまえで、出ないのが不思議なくらいですから、その心得のあるものなら早く逃げのびる
工夫をすべきはずですけれども、そこは馬鹿のことですから五六人の悪者の中へ、ぬっと首を突き出してしまいました。
「何だ何だ、
手前は」
悪者の方がかえって驚きます。
「朝っぱらから
賭博でもしてるのかと思えば、この小さい人を
捉めえて
小言を言っているのかい」
極めての大胆と全くの無神経とは時によって一致します。
「馬鹿だ、こいつは」
「叩きなぐっちまえ」
悪者と見えるのは、やはりこの辺を飛び廻る下級の
長脇差、
胡麻の
蠅もやれば
追剥も
稼ごうという程度の連中で、今、中に取捲いて
脅しているのは、これは十二三になる
侍の子と
覚しき
風采で、道のまん中に坐り込んだまま、刀の
柄に手をかけて寄らば斬らんと身構えてはいるが、見たところ疲れきって痛々しいばかりです。
「ああわかった、お前たちはなんだな、この子を
捉めえて追剥をすべえというのだな。そんならよした方がいい、人の物を取るのはよくねえだからな」
悪者どもは吹き出したくなるくらいです。何となれば
間の抜けた
面をこの
難場へぬっと突き出して、後ろを見れば地蔵様が馬上ゆたかに立たせ給うのである、ばかばかしくて喧嘩にもならない。
「さきほどより申す通り、わしは大事を控えた身なれば、ここにありたけの
金子をそちたちに
遣わすゆえ見のがせと事を分けて申すに、
強って衣類腰の物まで欲しいとならば是非もないから刀を抜く」
少年は坐りながら、涙ぐんだ眼に彼等を
睨めてキッパリと言う。
「その大小が
金目と睨んだのだ、たかの知れたお前たちの小遣銭なんぞに目はくれねえ。よ、痛い目をしねえうちに投げ出しちめえねえ。お前がいくら光るものをひねくったって、こっちは甲州筋で鳴らした
兄さんたち五人のお揃いだ、
素直に渡して鼻でも拭いて行きねえ」
手に持った棒を少年の頭の上で振る、一人は手を伸ばして少年の抱えた刀を奪い取ろうと、うつむいた
浮腰を横の方から、ひょいと突き飛ばしたのが与八です。
「よくねえことをしやがる」
悪者の一人は
茄子をころがしたようにのめると、
「この野郎」
馬鹿と見た馬方が意外の腕立て。
十九
与八の力は底知れずですから、悪者どもを手もなく追い払ってしまいました。
それから与八は少年の
傍へ寄って来て、
「どうだお前様、あぶねえところだったな」
「おかげで助かりました、お礼を申します」
「お前様一人で来なすったのかえ」
「一人で」
「どこから」
「江戸から……」
「お江戸から……そうしてどこへ行きなさるだ」
「青梅の先まで」
「青梅の先……俺も青梅の方へ行くだ、一緒に行くべえ」
「それでは……」
少年は坐っていたのを、刀を
杖に立ち上ろうとしたが、よろよろと足が定まりませぬ。そのはず、今朝江戸を出て来たものとすれば、子供の足で七里の道、足が
腫れ上って動けないらしい、そこを悪者どもに
脅されたものと見えます。それでも
我慢して、痛いとも疲れたともいわず、与八と連れ立って歩こうとする、その痛々しさは与八も気がつかずにはいられなかったので、
「お前様、足が大分
草臥れたようだなあ、待てよ……」
与八は馬の背中を見上げて、首を
傾げることしばし、
「こうと、荷物はいくらでもねえが、地蔵様を横っちょの方へお廻し申しては
勿体ないし――お地蔵様と相乗りというわけにもゆくめえし」
腕を組んでお地蔵様と首っ引きに
頻りに考えていましたが、
「おおそうだ、そうだ」
にわかに両手を
拍って、馬に近寄って、背中に安置した地蔵尊の木像を
怖る怖る取り下ろし、それを有合せの細帯で後ろへ廻し、子供をおぶうと同じことに自分の背中へ結びつけて、
「これでよし、さあお前様、この馬へ乗っておいでなさい、なに、遠慮しなくてもいいだ、その足で歩けるもんでねえ」
少年は心から有難そうに、すすめられるままに馬上に
跨がります。
与八はお地蔵様をおぶったまま、手綱を取り上げて馬を引きだす。その
恰好のおかしさ。それでも当人はいっこう平気で、
「お前様はお侍様の子供のようだが、青梅はどこまでござらっしゃるかね」
朝の
靄がすっかり晴れて、
雲雀は高く舞い、林から畑、畑から遠く農家の屋根、それから木々の絶え間には、試合のあった御岳山あたりの山々が、いま眠りから
醒めたように
遥々として見え渡ります。
「和田というところへ行きます」
「和田へ……」
「和田の宇津木というところまで」
「和田の宇津木様?」
与八は歩きながら、思わず少年の
面を見上げて、
「宇津木様へ……そりゃお前様の御親類でもあるのかえ」
「宇津木は、わしの
実家じゃ」
「お前様の実家……それではお前様は、文之丞様の弟さんかえ」
「弟の
兵馬という者です」
「ああそうでございましたかい、そうとはちっとも知らなかった」
この少年こそ、宇津木文之丞の実の弟の兵馬であったのです。
兵馬は幼少の頃から番町の旗本の
片柳という叔父の家に預けられていたのが、このたびの変を聞くと無分別に叔父の家を
脱け出して兄の家へ帰ろうとして、ここまで飛んで来て、疲れ切ったところを、悪者に
脅されたものでありました。
宇津木兵馬と聞いて馬子が驚きの意味ありげなのを見て、
「馬子どの、お前もあちらの人か」
「エエわしも」
といったが与八はポキリと言葉の
端を折って、一丁ほどは物を言いませんでした。兵馬も再び尋ねなかったが、やがて与八は、
「お前様のお兄様の文之丞様というお方も、運の悪いお人だ」
「兄上のことを御承知か」
「はあ、よく知ってますだ」
「そんなら机竜之助のことも」
「はあ、その竜之助様のことも」
「してみれば、五月五日の試合のことも知ってであろうがな」
「はあ、その事もあの事もみんなようく知ってますだが……」
「そうか、それは幸い。あの試合で兄上と竜之助の勝負は」
兵馬の意気込むにつれて与八はしょげ返り、
「あの勝負は竜之助様が勝って文之丞様が負けた」
「尋常の勝負ではなかったはず」
「尋常の勝負どころか、お前様、飛んでもねえ勝負でござんす、お前様のお兄様のことだからずいぶん腹も立つべえけれど、俺も悲しいやら
口惜しいやら……」
与八は泣き出してしまいました。
「なにも泣くことはあるまい、お前の身にはかかり合いのないことだ」
「わしにかかり合いのねえどころか、大有りでさあ」
「お前に……あの試合が?」
「何も言わねえ、試合のことなんざあ忘れちまった方がよかんべえ」
「それが忘れられるものか、それがためにわしは江戸を抜け出して兄上の
仇討に出て来たのだものを」
「お前様が仇討に――誰を
敵にお討ちなさるだ」
「机竜之助を」
「机竜之助様を?」
与八が振向いた時、馬上の兵馬は御岳山の方を見やる
眼許より
雫が頬を伝うて流れるのを見かけます。
二十
七兵衛とお松とを
店頭から追い払ったその晩のことです。
主人は商用で
上方へ行ったというにもかかわらず、山岡屋の女房のお滝は、ニヤけた若い男を傍に置いて、夜も大分
更けてゆくのにしきりに酒を飲んでいると、
「あ、人の足音」
「猫でも来たのだろうよ」
「でも、今のはたしかに人の足音でございましたよ」
「度胸のない人だねえ、そんなにおどおどしてさ。あけてごらん」
「おや」
そこにはまさしく人が立っていたので、
「あれ、お前さんは誰だえ」
「誰でもございません、さきほど
店前で追っ払いを食いました百姓で……」
「ええ!」
「まず御免なせえまし」
そこへ入り込んで、どっかと
胡坐をかいて黒い
頭巾を投げ出したのは、なるほど
裏宿の七兵衛でありました。
七兵衛は
懐ろへ手を入れて、短刀を出して、刃先を前に向けてブツリと畳へ突き通します。
「お、お金がお
入用ならいくらでも差上げますから――どうぞ――どうぞ命ばかりは……」
「お
内儀さん、お前さんはよく金々と言いなさる、さきほども大枚のお金をわっしに下すったが、その時も申し上げた通り、金が欲しくって上ったわけじゃござんせん」
「そんなら品物を何でも、お好きな物をお持ちなすって……ただいま土蔵へ案内を致させますから」
「くどいやい、今夜は盗みに来たんじゃねえ」
お滝は
慄え上りながら、やっと気がついたらしく、
「ああ、わかりました、わかりました。さっきお話の本町の彦三郎の娘のこと、つい小僧から
又聞きでございまして、まことに失礼を致しました。たしかにわたくしの
姪に相違ございません……よく――よくお連れ下さいました、
早速手前どもで引取りまして、実の子のようにしてお育て申します、どうかそれにて御勘弁を。はい、小僧めがいいかげんなことを申しますので、ついどうも飛んだ失礼を申しました……」
「遅いやい遅いやい、いまさら
夜迷言をぬかすな、あの子はあとあとの苦情のねえように、ようく念を押しておれが
貰え受けたんだ、お
前たちに縁もゆかりもねえ」
「それでは養育料としまして」
「馬鹿め、縁もゆかりもねえものに養育料が
要るか」
「どうぞ命ばかりはお助け――」
「命まで取ろうとは言わねえ」
「それでは命をお助け下さる……」
「命は助けてやるめえものでもねえが、ただじゃ帰れねえ」
「それではお金を……」
「金は要らねえ」
「では……」
お滝は絶体絶命の
体を、七兵衛は
冷やかに笑って、
「山岡屋のお内儀さん、わっしはほかに望みはねえ、お前さんに恥をかかしに来た」
「恥を……」
お滝は唇の色まで
真蒼になったのを、七兵衛は
心地よげに、
「そんなに驚くことはねえ、恥と言ったって、なにもお前さんを
弄み
物にするわけじゃねえのだ、おれは子供の時分から虫のせいで、善い事にしろ悪い事にしろ仕返しをしなくっちゃあ
納まらねえ
性分だ、それでさきほどのお礼にやって来たわけだが――実はお内儀さん、少し手荒いかも知れねえが、お前さんを
裸にして……」
「えッ?」
「お前さんに裸になってもらって、それをわっしが痛くねえように縛って上げるから、それでもってお内儀さん、
先刻わっしがお松と一緒に
抛り出されたお店の先へ明日の朝まで
辛抱して立っていてもらうんだ。いいかえ、
暁方になったら人も通るだろう、そうなるといいお内儀さんが
素裸で立っているのを見過ごしもできめえから、何とかして上げるだろう、お
淋しくもあろうが
暫しの辛抱だ、幸いここに
二歳がいる、こいつをお
伽に……」
「お助け下さい――」
二人は声を合せ