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大菩薩峠

甲源一刀流の巻

中里介山




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この小説「大菩薩峠」全篇の主意とする処は、人間界の諸相を曲尽きょくじんして、大乗遊戯だいじょうゆげの境に参入するカルマ曼陀羅まんだらの面影を大凡下だいぼんげの筆にうつし見んとするにあり。この着想前古に無きものなれば、その画面絶後の輪郭を要すること是非無かるべきなり。読者、一染いっせんの好憎に執し給うこと勿れ。至嘱ししょく
著者謹言


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         一

 大菩薩峠だいぼさつとうげは江戸を西にる三十里、甲州裏街道が甲斐国かいのくに東山梨郡萩原はぎわら村に入って、その最も高く最もけわしきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
 標高六千四百尺、昔、貴きひじりが、このみねいただきに立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像をめて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹ふえふき川となり、いずれも流れの末永く人を湿うるおし田をみのらすと申し伝えられてあります。
 江戸を出て、武州八王子の宿しゅくから小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分おいわけを右にとってくこと十三里、武州青梅おうめの宿へ出て、それから山の中を甲斐の石和いさわへ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。
 青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊やまとたけるのみこと、中世に日蓮上人の遊跡ゆうせきがあり、くだって慶応の頃、海老蔵えびぞう小団次こだんじなどの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内ぐんないあたりは人気が悪く、ゆすられることをおそれてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人ののぼわずらう所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。
上野原うえのはらへ、盗人ぬすっとが入りましたそうでがす」
「ヘエ、上野原へ盗人が……」
「それがはや、お陣屋へ入ったというでがすから驚くでがす」
「驚いたなあ、お陣屋へ盗賊が……どうしてまあ、このごろのように盗賊が流行はやることやら」
 妙見みょうけんやしろの縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑やきばたも作るという人たちであります。
 これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。
 萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅こすげから炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩ぎょえんを運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。
 右の両人は、この近まわりに盗賊のはやることを話し合っていたが、結局、
「どろぼうがこわいのは物持ものもちしゅうのことよ、こちとらが家はどろぼうの方でおそれて逃げるわ」
ということに落ちて、笑って立とうとする時に、峠の道の武州路ぶしゅうじの方から青葉の茂みをわけて登り来る人影ひとかげがあります。
「あ、人が来る、お武家様みたようだ」
 二人は少しあわて気味で、炭俵や糸革袋いとかわぶくろが結びつけられた背負梯子しょいばしごへ両手を突っ込んで、いま登り来るという武家の眼をのがれるもののように、やしろの裏路を黄金沢こがねざわの方へ切れてしまいます。

         二

 ほどなく武州路の方からここへ登って来たのは、彼等両人が認めた通り、ひとりの武士さむらいでありました。黒の着流しで、定紋じょうもんはなごま博多はかたの帯を締めて、朱微塵しゅみじん海老鞘えびざやの刀脇差わきざしをさし、羽織はおりはつけず、脚絆草鞋きゃはんわらじもつけず、この険しい道を、素足に下駄穿きでサッサッと登りつめて、いま頂上の見晴らしのよいところへ来て、深い編笠あみがさをかたげて、甲州路のかたを見廻しました。
 歳は三十の前後、細面ほそおもてで色は白く、身はせているが骨格はえています。この若い武士が峠の上に立つと、ゴーッと、青嵐あおあらしくずれる。谷から峰へ吹き上げるうら葉が、海の浪がしらを見るようにさわ立つ。そこへ何か知らん、寄せ来る波で岸へ打ち上げられたように飛び出して来た小動物があります。
 妙見の社の上にかぶさった栗の大木の上にかたまって、武士の方を見つめては時々白い歯をいてキャッキャッとく。その数、十匹ほど、ここの名物の猿であります。
 柳沢峠が開けてから後の大菩薩峠というものは、全く廃道同様になってしまいましたけれど、今日でも通れば通れないことはないのです。そこを通って猿に出くわすことはめずらしいことではないが、それを珍らしがって悪戯いたずらでもしかけようものなら、かえって飛んだ仕返しを食うことがあります。人の弱味よわみを見るに上手じょうずなこの群集動物は、相手を見くびると脅迫きょうはくする、かなわない時は味方みかたを呼ぶ、味方はこの山々谷々から呼応して来るのですから、初めて通る人は全くおどかされてしまいます。が、旅にれた人は、その虚勢を知っておのずからそれに処するの道があるのであります。
 右の武士は、慣れた人と見えて、一目ひとめ猿をにらみつけると、猿は怖れをなして、なお高い所から、しきりに擬勢ぎせいを示すのを、取合わず峠の前後を見廻して人待ち顔です。
 さりとて容易に人の来るべき路ではないのに、誰を待つのであろう、こうして小半時こはんときもたつと、木の葉の繁みをれて、かすかに人の声がします。その声を聞きつけると、武士はズカズカと萩原街道の方へ進んで、松の木立から身を斜めにして見おろすと、羊腸ようちょうたる坂路のうねりを今しも登って来る人影は、たしかに巡礼の二人づれであります。
「おじいさん――」
 よく澄んだ子供の声がします。見れば一人は年寄としよりで半町ほど先に、それとおくれて十二三ぐらいの女の子――今「お爺さん」と呼んだのは、この女の子の声でありました。
 右の二人づれの巡礼の姿を認めると、何と思うてか武士は、つと妙見堂のうしろに身をかくします。木の上では従前の猿が眼を円くする。
「やれやれ頂上へ着いたわい、おお、ここにお堂がござる」
 年寄の方の巡礼は社の前へ進んで笠の紐を解いてかしこまると、
「お爺さん、ここが頂上かい」
 面立おもだちの愛らしい、元気もなかなかよい子でありました。
「これからは下り一方で、日の暮までに河内泊かわちどまりは楽なものだ、それから三日目の今頃は、三年ぶりでお江戸の土が踏める――さあお弁当をたべましょう」
 老爺ろうや行李こうりを開いて竹の皮包を取り出すと、女の子は、
「お爺さん、その瓢箪ひょうたんをお貸しなさい、さっきこの下で水音がしましたから、それをんでまいりましょう」
「おおそうだ、途中で飲んでしまったげな。お爺さんが汲んで来ましょう、お前はここで休んでおいで」
 腰なる瓢箪を抜き取ると、
「いいのよ、お爺さん、あたしが汲んで来るから」
 女の子は、老人の手からふくべを取って、ついこの下の沢に流るる清水を汲もうとて山路やまじをかけ下ります。
 老人はむなしくそのあとを見送って、ぼんやりしていると、不意に背後うしろから人の足音が起ります。
老爺おやじ
 それはさいぜんの武士でありました。
「はい」
 老爺は、あわただしく居ずまいを直して挨拶あいさつをしようとする時、かの武士は前後を見廻して、
「ここへ出ろ」
 編笠も取らず、用事をも言わず、小手招こてまねきするので、巡礼の老爺は怖る怖る、
「はい、何ぞ御用でござりまするか」
 小腰こごしをかがめて進み寄ると、
「あっちへ向け」
 この声もろともに、パッと血煙が立つと見れば、なんという無残むざんなことでしょう、あっという間もなく、胴体どうたい全く二つになって青草の上にのめってしまいました。

         三

「おじいさん、水を汲んで来てよ」
 瓢箪を捧げた少女は、いそいそとかけて来たが、老人の姿の見えぬのを少しばかり不思議がって、
「お爺さんはどこへ行ったろう」
 お堂の裏の方へでも行ったのかしらと、来て見ると、
「あれ――」
 ふくべを投げ出してすがりついたのは老人の亡骸なきがらでした。
「お爺さん、誰に殺されたの――」
 亡骸をかき抱いて泣きくずれます。
 ここにこの不慮の椿事ちんじを平気で高見たかみ見物けんぶつをしていたものがあります。さいぜんの武士の一挙一動から、老人の切られて少女の泣き叫ぶ有様を目も放さずながめていたのは、かのくりの木の上の猿です。
 猿どもは、今や木の上からゾロゾロと下りて来ました。老少二人の伏し倒れた周囲を遠くからとりまいて、だんだんに近寄ると、小さなやつがいきなり飛び出して、少女の頭髪かみにさしてあった小さなかんざしをちょっとツマんで引き抜き、したりがおに仲間のものに見せびらかすような身振みぶりをする。それを見た、も一つの小猿は負けない気で、少女の頭髪からくしを抜き取って振りかざす。その間に大猿どもは、さきに老爺が開きかけた竹の皮包の握飯にぎりめしを引き出して口々にほおばってしまうと、今度は落ち散っていた手頃の木の枝を拾って、何をするかと思えば、刀を差すようなふうに腰のところへあてがい、少女の背後へ廻って抜打ちに――つまりさいぜんの武士のやった通りに――その木の枝で少女の背中をなぐりつけました。
 我を忘れて泣き伏していた少女は、この不意の一撃で、
「あれ――」
と飛びのいたが、気丈きじょうな子でした、すぐにあり合わす木の枝を拾い取って振り上げると、猿どもは眼をき出し白い歯を突き出してキャッキャッと叫びながら、少女に飛びかかろうとして、物凄ものすごい光景になりましたが、折よくそこへ通りかかった旅の人があります。
 年配は四十ぐらいで、菅笠すげがさをかぶって竪縞たてじま風合羽かざがっぱを着、道中差どうちゅうざしを一本さしておりましたが、手に持っていた松明たいまつの火を振り廻すと、今までおごっていた猿どもが、急に飛び散らかって、我れ勝ちにもとの栗の大木へとせ上ります。
 旅に慣れた証拠は、この旅人の持っている松明でわかります。大菩薩を通るものは獣類をうべく、松の木のヒデというところでこしらえた松明を用意します。獣類のなかでも猿はことに火をおそれるものであります。右の旅人はその松明を消しもせず、
ねえさん、怪我けがはなかったかね」
 近く寄って見て、
「おやおや、人が斬られている!」
 少女を掻き分け死骸しがいへ手をかけ、その斬口きりくちしらべて見て、
「よく斬ったなあ、これだけの腕前をもってるやつが、またなんだってこんな年寄を手にかけたろう」
 旅人は歎息して何をか暫らく思案していたが、やがて少女を慰め励まして、ハキハキと老爺の屍骸を押片づけ、少女を自分の背に負うて、七ツさがりのを後ろにし、大菩薩峠をずんずんと武州路の方へ下りて行きます。

         四

 大菩薩峠を下りて東へ十二三里、武州の御岳山みたけさんと多摩川を隔てて向き合ったところに、ゆずのよく実る沢井という村があります。この村へ入ると誰の眼にもつくのは、山を負うて、冠木門かぶきもんの左右に長蛇ちょうだの如く走る白壁に黒い腰をつけたへいと、それを越した入母屋風いりもやふうの大屋根であって、これが机竜之助つくえりゅうのすけの邸宅であります。
 机の家は相馬そうまの系統を引き、名に聞えた家柄であるが、それよりもいま世間に知られているのは、門を入ると左手に、九歩と五歩とに建てられた道場であります。いつでもこの道場に武者修行の五人や十人ゴロゴロしていないことはないのでありましたが、今日はまた話がやかましい。
「お聞きなされましたか、昨日とやら大菩薩に辻斬つじぎりがあったそうにござります」
「ナニ、大菩薩に辻斬が……」
「年とった巡礼が一人、生胴いきどうをものの見事にやられたと甲州から来た人のもっぱらのうわさでござりまする」
「やれやれ年寄の巡礼が、無残むざんなことじゃ」
「近頃の盗人沙汰ぬすびとざたと言い、またしても辻斬、物騒千万ぶっそうせんばんなことでございますな」
左様さよう、なにしろこの街道筋かいどうすじは申すに及ばず、秩父ちちぶ熊谷くまがやから上州、野州へかけて毎日のように盗人沙汰、それでやり口がみな同じようなやり口ということでございます」
「いかにも。それほどの盗賊に罪人は一人もあがらぬとは、八州の腹切はらきりものだ」
「それにしても、この沢井村界隈かいわいに限って、盗賊もなければ辻斬もない、これというも、つまり沢井道場の余徳でありますな」
 沢井道場で門弟食客連がこんな噂をしているのは、前段大菩薩峠の殺人の翌々日のことでありました。
「さて、道具無しの一本」
「心得たり、若先生のかたを」
 門弟二人が左右に分れると、
「沢井道場名代なだい音無おとなしの勝負」
 口上こうじょうまがいで叫ぶ者がある。
 沢井道場音無しの勝負というのは、ここの若先生、すなわち机竜之助が一流の剣術ぶりを、そのころ剣客仲間の呼ならわしで、竹刀しないにあれ木剣にあれ、一足一刀の青眼に構えたまま、我が刀に相手の刀をちっともさわらせず、二寸三寸と離れて、敵の出るかしら、出る頭を、或いは打ち、或いは突く、自流他流と敵の強弱にかかわらず、机竜之助が相手に向う筆法はいつでもこれで、一試合のうち一度も竹刀の音を立てさせないで終ることもあります。机竜之助の音無しの太刀先たちさきに向っては、いずれの剣客も手古摺てこずらぬはない、竜之助はこれによって負けたことは一度もないのであります。
 その型をいま二人は熱心にやっていると、おりから道場の入口とは斜めに向った玄関のところで、
「頼む」
 中では返事がない。
「頼みましょう」
 まだ誰も返答をするものがない。そのうちに、こちらの立合たちあいは、一方がれて小手こてを打ちに来るのを、得たりと一方が竹刀を頭にのせて勝負です。
「お頼み申します」
 勝負が終えて気がついた門弟連が、こちらから無遠慮ぶえんりょに首を突き出して見ると、お供の男を一人つれて、見事によそおうた若い婦人の影が植込の間からちらりと見えました。
拙者せっしゃが応対して参ろう」
 いま立合をして負けた方のが、道場から母屋おもやへつづいた廊下をスタスタと稽古着けいこぎはかまのままで出てゆくと、
「安藤さん、若い女子おなごのお客と見たら臆面おくめんなしに応対にお出かけなすった」
 皆々笑っていると、
「ドーレ」
 安藤の太い声。ややあって女のやさしい声で、
「あの、手前は和田の宇津木文之丞うつきぶんのじょうが妹にござりまする、竜之助様にお目通りを願いとう存じまして」
「ハハ左様さようでござるか」
 姿は見えないけれども、安藤がしゃちほこばった様子が手に取るようです。
「その若先生はな」
 いよいよ安藤は四角ばって、
「ただいま御不在でござるが」
「竜之助様はお留守るす……」
 女はハタと当惑したらしく、
「左様ならば、いつごろお帰りでございましょうか」
「さればさ、うちの若先生のことでござるから、いつ帰るとお請合うけあいも致し兼ぬるで……」
「遅くとも今宵こよいはお帰りでございましょう」
「それがその、今申す通り、いつ帰るとお請合いを致し兼ぬるが、次第によりては拙者ども御用向を承り置きまして」
 安藤と来客の若い婦人との問答を道場の連中は面白がってれ聞いておりましたが、
「若先生に直談判じかだんぱんというて美しい女子おなごが乗り込んで来た、前代未聞ぜんだいみもんの道場荒し」
「見届けて参りましょうか」
 みずかすすめて斥候ものみの役を承ろうとする者がある。
「賛成賛成、裏口から廻って見て参られい」
 ますます御苦労さまな話で、まもなくあたふたともどって、
「見届けて参りました、たしかに見届けて参りました」
 息を切っての御注進ごちゅうしんです。
「どのような女子じゃ」
「あれは和田の宇津木文之丞様の奥様でござりまする、しかも評判の美人で……」
「ナニ、和田の宇津木の細君さいくんか、さいぜん妹だというたではないか」
「いいえ、お妹御ではございませぬ、まだ内縁でございまして甲州の八幡やわた村からついこの間お越しのお方、発明で、美人で、お里がお金持で評判もの、私は、八幡におりました時分から、とくとお見かけ申しました」
「文之丞の細君が何故に妹と名乗って当家の若先生を訪ねて来たか、それがせぬ」
「あ、若先生のお帰り」
 無駄口がパタリとやんで、見れば門をサッサッと歩み入る人は、思いきや、一昨日、大菩薩の上で巡礼を斬った武士――しかも、なりふりもその時のままで。

         五

 竜之助の前には、宇津木の妹という、島田に振袖ふりそでを着て、緋縮緬ひぢりめん間着あいぎ鶸色繻子ひわいろじゅすの帯、引締まった着こなしで、年は十八九の、やや才気ばしった美人が、しおらしげに坐っています。
「お浜どのとやら、御用のすじは?」
 竜之助の問いかけたのを待って、
「今日、兄を差置き折入ってお願いに上りましたは」
 歳にはませた口上こうじょうぶりで、
「ほかでもござりませぬ、五日の日の御岳山みたけさんの大試合のことにつきまして……」
 竜之助もいま帰って、その組状を見たばかりのところでした。そうして机の上に置かれた長い奉書の紙に眼を落すと、女は言葉をいで、
「その儀につきまして、兄はことごとく心を痛め、食ものどへは通らず、夜も眠られぬ有様でござりまする故、妹として見るに忍びませぬ」
「大事の試合なれば、そのお心づかいも御尤ごもっともに存じ申す、我等とても油断なく」
 素気すげなき答え方。女は少しき込んで、
「いえいえ、兄は到底とうていあなた様の敵ではござりませぬ、同じ逸見へんみの道場で腕を磨いたとは申せ、竜之助殿と我等とは段違いと、つねづね兄も申しておりまする。人もあろうに、そのあなた様に晴れのお相手とは何たること、兄の身が不憫ふびんでなりませぬ」
「これは早まったお言葉、逸見先生の道場にて我等如きは破門同様の身の上なれど、文之丞殿は師の覚えめでたく、甲源一刀流こうげんいっとうりゅうの正統はこの人に伝わるべしとさえ望みをかけらるるに」
「人がなんと申しましょうとも、兄はあなた様の太刀先たちさき刃向はむかう腕はないと、このように申し切っておりまする」
「それは御謙遜ごけんそんでござろう」
 竜之助は木彫きぼりの像を置いたようにキチンと坐って、かおすじ一つ動かさず、色は例の通り蒼白あおじろいくらいで、一言ひとことものを言っては直ぐに唇を固く結んでしまいます。女はようやく躍起やっきとなるような調子で、頬にもべにがさし、眼も少しかがやいてきたが、
「もしもこのたびの試合に恥辱を取りますれば、兄の身はもとより、宇津木一家の破滅でござりまする。ここを汲み分けて、今年限り、兄が身をお立て下さるよう、あなた様のお情けにすがりたく、これまで推参すいさん致しました、なにとぞ兄の身をお立て下されまして」
 女は涙をはらりと落して、竜之助の前にがっくりと結立ゆいたての髪をゆるがしての歎願です。
 竜之助は眼を落して、しばらく女の姿をみつめておりましたが、
「これはまた大仰おおぎょうな。試合は真剣の争いにあらず、勝負は時の運なれば、勝ったりとて負けたりとて、はじでもほまれでもござるまい、まして一家の破滅などとは合点がてんなりがたき」
 ひややかな返事です。
 女が再び面をあげた時、涙に輝いた眼と、情に熱した頬とは、一方ひとかたならぬ色香いろかを添えつ、
「何もかも打明けて申し上げますれば、兄はこのたびの試合済み次第に、さる諸侯へ指南役に召抱めしかかえらるる約束定まり、なおその時には婚礼の儀も兼ねて披露ひろうを致す心組みでおりましたところ……」
「それは重ねがさねめでたきこと、左様ならばなお以て試合に充分の腕をお示しあらば、出世のためにも縁談にも、この上なき誉を添ゆるものではござらぬか」
「それが折悪おりあしく……いや時も時とてあなた様のお相手に割当てられ、勝ちたいにもその望みはなく、逃げましてはなお以て面目立ちませぬ。ただ願うところはあなた様のお慈悲、武士の情けにて勝負をお預かり置き下さらば生々しょうじょうの御恩に存じまする。兄のため、宇津木一家のために、差出さしでがましくも折入ってのお願いでござりまする」
 この女の言うことがまことならば、いじらしいところがあります。兄のため、家のためを思うて、女の一心でこれまで説きに来たものとあれば、その心根こころねに対しても、武士道の情けとやらで、花を持たして帰すべきはずの竜之助の立場でありましょう。ところが、蒼白あおじろかおがいよいよ蒼白く見えるばかりで、
「お浜どのとやら、そなた様を文之丞殿お妹御と知るは今日こんにちが初めながら、兄を思い家を思う御心底、感じ入りました。されど、武道の試合はまた格別」
 格別! と言い切って、口をまた固く結んだその余音よいんが何物を以ても動かせない強さに響きましたので、いまさらに女は狼狽ろうばいして、
左様さようならば、あの、お聞入れは……」
 声もはずむのを、竜之助は物の数ともせぬらしく、
「剣を取って向う時は、親もなく子もなく、弟子も師匠もない、入魂じっこんの友達とても、試合とあれば不倶戴天ふぐたいてんの敵と心得て立合う、それがこの竜之助の武道の覚悟でござる」
 竜之助はこういう一刻いっこくなことを平気で言ってのける、これは今日に限ったことではない、常々この覚悟で稽古もし試合もしているのですから、竜之助にとっては、あたりまえの言葉をあたりまえに言い出したに過ぎないが、女は戦慄みぶるいするほどに怖れたので、
「それはあまりお強い、人情知らずと申すもの……」
 涙をたたえたうらみの眼に、じっとお浜は竜之助のおもてを見やります。
 竜之助の細くて底に白い光のある眼にぶつかった時に、蒼白かった竜之助の顔にパッと一抹いちまつの血が通うと見えましたが、それもつかで、もとの通り蒼白い色に戻ると、膝を少し進めて、
「これお浜どの、人情知らずとは近ごろ意外の御一言、物にたとうれば我等が武術の道は女のみさおと同じこと、たとえ親兄弟のためなりとて操を破るは女の道でござるまい。いかなる人の頼みを受くるとも、勝負を譲るは武術の道に欠けたること」
「それとても親兄弟の生命いのちにかかわる時は……」
「その時には女の操を破ってよいか」

         六

 宇津木の妹を送り出したのは夕陽ゆうひが御岳山の裏に落ちた時分です。しばらくして竜之助の姿を、万年橋の下、多摩川の岸の水車小屋の前で見ることができました。
「与八! 与八!」
 夜は水車が廻りません、中はひっそりとして鼠の逃げる音、かすかな燈火ともしびの光。
「誰だい」
 まだるい返事。
「竜之助だ、ここをあけろ」
「へえ、今……」
 やや狼狽のてい。やがて中からガラリと戸が開かれると、かおは子供のようで、形は牛のようにふとった若者です。
「与八、お前に少し頼みがあって、お前の力を借りに来た」
「へえ」
 この若者は、竜之助を見るとすくんでしまうのがくせです。
「与八、お前は力があるな、もっとこっちへ寄れ」
 耳に口をつけて何をかささやくと、与八はふるえ上って返事ができない。
「いやか」
「だって若先生」
「いやか――」
 竜之助から圧迫されて、
「だって若先生」
 与八は歯の根が合わない。
おれをお斬りなさる気かえ」
「いやか――」
「行きます」
「行くか」
「行きます」
「よし、ここに縄もある、手拭もある、しっかりやれ、やりそこなうな」

         七

 竜之助の父弾正だんじょうが江戸から帰る時に、青梅近くの山林の中で子供の泣き声がするから、ともの者に拾わせて見ると丸々と肥った当歳児であった、それを抱き帰って養い育てたのがすなわち今日の与八であります。与八という名もその時につけられたのですが、物心ものごころを覚えた頃になって、村の子供に「拾いっ子、拾いっ子」と言っていじめられるのをつらがって、この水車小屋へばかり遊びに来ました。その時分、水車番には老人が一人いた、与八はその老人が死んだ時はたしか十二三で、そのあとをいで水車番になったのです。
 与八の取柄とりえといっては馬鹿正直と馬鹿力です。与八の力は十二三からようやく現われてきて、十五になった時は大人の三人前の力をやすやすと出します。十八になった今日では与八の力は底が知れないといわれている。荷車が道路へメリ込んだ時、いかだが岩と岩との間へはさまった時、そういう時が与八の天下で、すぐさま人が飛んで来ます。
「与八、米の飯を食わせるから手を貸してくれやい」
「うん」
 そして、大八車でも杉の大筏でも、ひとたび与八が手をかければ、苦もなく解放される。お礼心にぜになどを出しても与八は有難ありがたがらない、米の飯を食わせれば限りなくよろこぶ、それにさけの切身でもつけてやろうものなら一かたげに三升ぐらいはペロリとたいらげてしまいます。米の飯を食わせなくても、与八がそんなに不平を言わないのは、小屋へ帰れば麦の飯と焼餅とを腹いっぱい食い得る自信を持っているからであるが、ずるい奴が、米の飯を食わせる食わせるといってさんざん与八の力を借りた上、米の飯を食わせずにまそうとする、二度三度かさなると与八は怒って、もう頼みに行っても出て来ない、その時は前祝いに米の飯を食わせると、前のことは忘れてよく力を貸します。
 与八が村へ出るのをいやがるのは、前申す通り子供らがヨッパだの拾いっ子だの言って、与八が通るのを見かけていじめるからです。それで水車小屋の中にのみ引込んでいるが、感心なことには、毎朝欠かさず主人弾正の御機嫌伺ごきげんうかがいに行きます。
大先生おおせんせいの御機嫌はいいのかい」
 女中や雇男やといおとこが、
「ああ好いよ」
と答えると、にっこりして帰ってしまう。竜之助の父弾正は老年の上、中気ちゅうきをわずらって永らく床に就いています。

 竜之助から脅迫きょうはくされて与八が出て行くと、まもなく万年橋の上から提灯ちょうちんが一つ、ともえのように舞って谷底に落ちてゆく。しばらくして与八は、一人の女を荒々しく横抱きにして、ハッハッと大息を吐いて、竜之助の前に立っています。与八にかかえられている女は、さっき兄のためと言って竜之助を説きに来た宇津木のお浜であります。

 それからまた程経ほどへて、河沿いの間道かんどうを、たった一人で竜之助が帰る時分に月が出ました。

 竜之助が万年橋のつめのところまで来かかると、ふと摺違すれちがったのが六郷下ろくごうくだりの筏師いかだしとも見える、旅のよそおいをした男で、振分けの荷を肩に、何か鼻歌をうたいながらやって来ましたが、竜之助の姿を見て、ちょっと驚いたふうで、やがて丁寧ていねいに頭を下げて、
「静かな晩景ばんげでござりやす」
 竜之助はやり過ごした旅人を見送っていたが、
「少し待て」
「へい」
「お前はどこから来た」
「へい、氷川ひかわの方から」
「氷川? 氷川の何というものだ、名は……」
「へい、七兵衛と申します筏師で」
「待て、待てと申すに」
「何ぞ御用で……」
 立ち止まるかと思うとかの男は身をひるがえして逃げようとするのを、竜之助は脇差わきざしに手をかけて手練しゅれんの抜打ち。
 あなどり切って刀へは手をかけず、脇差の抜打ちで払った刃先はさきをどうくぐったか、旅の男は飛鳥ひちょうの如く逃げて行きます。竜之助は自分の腕を信じ過ぎた形になって、切り損じた瞬間に呆然ぼうぜんと、逃げ行く人影をみつめて立っている。
 早いこと、早いこと、飛鳥といおうか、弾丸といおうか、四十八間ある万年橋の上を一足に飛び越えたか、その男の身体からだはまるで宙にあるので、竜之助はそのはやさにもまた気を抜かれて、追いかけることをも忘れてしまったほどでした。
 脇差の切先きっさきを調べて見ると肉には触れている、橋の上をよくよく見ると血のしたたりが小指でしたほどずつすじを引いてこぼれております。竜之助は右の男を斬り殺そうとまでは思わなかったが、斬ろうと思うた程度よりも斬り得なかったことが、よほど心外であるらしく、歯咬はがみをして我家のかたをさして行くと、邸のあたりが非常に混雑して提灯ちょうちん右往左往うおうさおうに飛びます。
「あ、若先生、大変でござります、賊が入りました」
「賊が?」
 邸の中へ入って調べて見ると、この時の盗難が金子きんす三百両と秘蔵の藤四郎とうしろうふり
「届けるには及ばぬ、このことを世間へ披露ひろうするな」
 なにゆえか竜之助は家の者に口留めをします。

         八

 宇津木文之丞が妹と称して沢井の道場へ出向いたお浜は、実は妹ではなく、甲州八幡やわた村のさる家柄の娘で、文之丞が内縁の妻であることは道場の人々があらかじめ察しの通りであります。
 お浜は才気の勝った女で、八幡村にある時は、家のことは自分が切って廻し、村のことにも口を出し、お嬢様お嬢様と立てられていたその癖があって、宇津木へ縁づいてまだ表向きでないうちから、モウこんな策略を以て良人おっとの急を救わんと試みたわけです。
 宇津木の家は代々の千人同心で、山林田畑でんぱたの産も相当あって、その上に、川を隔てて沢井の道場とならび立つほどの剣術の道場を開いております。
 竜之助の剣術ぶりは、かたの如く悪辣あくらつで、文之丞が門弟への扱いぶりはやわらかい、その世間体せけんていの評判は、竜之助よりずっとよろしい。お浜もそれやこれやの評判に聞き惚れたのが、ここへ来た最も有力なる縁の一つであったが、実際の腕は文之丞がとうてい竜之助の敵でないことを玄人くろうとのなかの評判に聞いて、お浜の気象きしょうでは納まり切れずにいたところを、このたび御岳山上の試合の組合せとなってみると、文之丞の悲観歎息ははたの見る目も歯痒はがゆいのであります。お浜はれてたまりませんでしたが、それでも良人の危急を見過ごしができないで、われから狂言を組んで机竜之助に妥協の申入れに行ったのが前申す如き順序であります。

 その晩、お浜は口惜くやしくて口惜しくて、寝ても寝つかれません。
 憎い憎い竜之助、歯痒はがゆい歯痒い我が夫、この二つが一緒になって、頭の中は無茶苦茶に乱れます。竜之助と文之丞とは、お浜の頭の中でまんじとなりともえとなって入り乱れておりますが、ここでもやはり勝目かちめは竜之助にあって、憎い憎いと思いつつも、その憎さは勝ち誇った男らしい憎さで、その憎さが強くなるほど我が夫の意気地のなさが浮いて出て、お浜のような気の勝った女にはたまらない業腹ごうはらです。
 縁を結ぶ前には、門弟は千人からあって、腕前は甲源一刀流の第一で、どうしてこうしてと、それが何のざま、さんざん腹を立てても、やっぱり帰するところは我が夫の意気地のないということに帰着して、どうしても夫をさげすむ心が起ってきます。夫をさげすむと、どうしてもまた憎いものの竜之助の男ぶりが上ってきます。妻として夫をあなどる心の起ったほど不幸なことはない。
 もしも自分が強い方の人であったならば、どのくらい気強く、肩身も広かろう。武術の勝負と女の操。竜之助のかけたなぞがんとして今も耳の端で鳴りはためくのです。
 邸で会った竜之助と、水車小屋の竜之助。その水車小屋では、穀物をはかる斗桶とおけに腰をかけていた竜之助。神棚の上には蜘蛛くもの巣にぬかのくっついた間からお燈明とうみょうがボンヤリ光っていた、気がついた時は自分は縛られていた、上からじっと見据みすえた竜之助。
 冷やかなかおの色、白い光の眼、人の苦しむのを見て心地ここちよさそうに、
「試合の勝負と女の操」
と言って板の間を踏み鳴らした。
 それから、その時の竜之助の姿が眼の前にちらついて、憎い憎いおもいが、いつしか色が変って妙なものになり行くのです。
「お山の太鼓が朝風に響く時までにこの謎を解けよ」
という一言。それを思い出すごとにお浜の胸の中で早鐘はやがねが鳴ります。
 その夜、竜之助はおのが室にくるまで黙然もくねんとして、腕を胸に組んで身動きもせずに坐り込んでいます。
 人を斬ろうとして斬り損じたこと、秘蔵の藤四郎を盗まれたこと、そのほかに、考えても考えても、わけのわからぬものが一つあるのです。与八をそそのかして、宇津木のお浜をなわにまでかけて引捕ひっとらえさしたのは何のためであろう。お浜が邸を出るまでは、そんな考えはなかったが、女が門を出てから、どうしてもこの女をただ帰せないという考えが勃然ぼつねんとして起ったので――竜之助の心には石よりも頑固がんこなところと、理窟も筋道も通り越した直情径行ちょくじょうけいこうのところと、この二つがあって、その時もまた、初めは理をいて説き伏せたところが、あとはまるでかたなしのことをやり出した。
 それでやはり女のことを考えてみています。

         九

 机の家に盗難のあったその翌朝のことです。沢井から三里離れた青梅の町の裏宿うらじゅくの尋常の百姓家の中で、
「おじさん、昨夜ゆうべはどこへ行ったの」
 炉の火を火箸ひばしきながら、真黒な鍋で何か煮ていた女の子、これは先日、大菩薩峠で救われた巡礼の少女でありましたが、おじさんと呼ばれた人はまだ寝床の中に横たわっていたが、ひょいと首をもたげて、
「ナニ、どこへも行きはしないよ」
 そのかおを見れば、これはかの峠で火をいて猿をい、この巡礼の少女を助けた旅の人でありました。
「でも夜中に目がさめると、おじさんの姿が見えなかったものを」
 こう言われて主人は横を向いて、
「ああそれは、雨が降ると困るので裏の山からたきぎを運んでおいたのだ」
「そう」
と言って少女は得心とくしんしたが、
「おじさん、それでは今日お江戸へつれて行って下さるの」
 たずねてみたが、直ぐに返事がないので、せがんでは悪かろうと思うたのか、そのままにして仏壇の方にふいと目がつくと、
「お線香をモ一本上げましょう」
 たったいま上げた線香が長く煙を引いているのに、また新しい線香に火をつけて、口の中で念仏をとなえ、
「おじいさん、わたしが大きくなったらば、きっとかたきを討ちますからね」
 独言ひとりごとを言っている間に眼が曇ってくる。寝床の中で一ぷくつけていた主人はそれを見とがめて、
「お松坊、ちょっとここへおいで」
 女の子は横を向いて、そっと眼のふちを払い、
「はい」
 主人の前にかしこまると、
「おまえは口癖に敵々かたきかたきというが、それはいけないよ、敵討かたきうちということはさむらいの子のすることで、お前なんぞは念仏をしてお爺さんの後生ごしょうを願っておればよいのだ」
「でもおじさん、あんまり口惜くやしいもの」
 また横を向いて、あふるる涙を払います。
「口惜しい口惜しいがお爺さんの後生のさわりになるといけない。あ、それはそうと、お前を今日はお江戸へつれて行くはずであったが、私は少し怪我けがをしてな」
「エッ、怪我を!」
「ナニ、大した事じゃねえ、昨夜ゆうべそれ、薪を運ぶとってころんで腰を木の根にぶっつけたのだよ、二日もしたらなおるだろう、江戸行きはもう少し延ばしておくれ」
「お江戸なんぞはいつでもようござんす、早くその怪我を癒して下さい」
「そ言ってくれると有難い。それでな、お松坊、お前に預けておきてえものが一つある」
 主人は蒲団ふとんの下を探って取り出したのが、にしきの袋に入れた短刀ようのもの。
「おじさん、これは何」
「何でもよい、これから大事に懐中へ入れて持っておいで、決して人に見せてはいけないよ」
「これは短刀ではないの」
「うむ、そうだ、用心に肌身はだみをはなさず持っておいで、そのうちにはわかることがあるからな」
 少女は何だか合点がてんがゆきません。ようよう寝床をい出したこの家の主人はかなりの怪我と覚しく、跛足びっこを引き引き炉の傍までやって来て少女と二人で朝飯を食べていると、
「七兵衛さん、七兵衛さん」
 表口で呼ぶ。ここの主人の名は七兵衛というのであるらしい。
「これは嘉右衛門かえもんさん、朝っぱらからどちらへ」
「なに、ちっと見舞に行こうかと思って」
「お見舞に? どこへ」
「まだお聞きなさらねえか、材木屋の藤三郎さんが今朝早く上げられなすって」
「材木屋のあの藤三郎さんが?」
「そうだよ、お役所へ上げられてお調べの最中さいちゅうだよ」
「それはまあ、どうしたわけで」
「何だかわしもよくは知らねえが、盗賊のかかわり合いだということでがす」
「盗賊のかかり合い?」
 七兵衛は思わず小首を傾けながら、
「あの正直な人が盗賊のかかり合いとは、おかしいことですね」
「この間、甲州の上野原のお陣屋へ盗賊が入ったそうで」
「ナニ、上野原のお陣屋へ?」
「そうですよ、お陣屋へ入るとはずいぶん度胸のいい泥棒ですね。ところが泊り合せたお武家に見つけられて、その泥棒が逃げ出したが、その時に泥棒が書付かきつけを一本お座敷へ落したそうで、そいつを拾われちまった」
「書付を拾われた?」
 七兵衛は思わず自分のふところをでてみる。
「それからね、どうしたものやらその書付が藤三郎さんところの材木売渡しの受取証文で、ちゃんと印形いんぎょうまでわっている」
「それはとんだ災難、私もお見舞に上らなくては済みませんが、昨晩少しばかり怪我をしたものだから、お前さんからよろしく申しておいておくんなさい」
「怪我をなすった?」
「なあに、大したことはありません、山でころんで腰をちっとばかり強く打っただけのことで」
「そりゃいけねえ、まあ大切にした方がいい、それじゃ行って来ますから」
 嘉右衛門が立去ったあとで、七兵衛はなんと考え直したか、
「お松坊、今から江戸へ行こうや」
「でも、おじさんお怪我は?」
「なあに、馬も駕籠かごもあらあな」
うれしいこと」
 お松は大欣おおよろこびで食事もそこそこ、はや手の廻りの用意をします。

         十

 今日は五月の五日、御岳山上へ関八州かんはっしゅうの武術者が集まって奉納試合を為すべき日であります。
 机竜之助はこの朝、縁側えんがわに立って山を見上げると、真黒な杉が満山の緑の中に天を刺して立っているところに、一むらの雲がかかって、八州の平野に響き渡れよとばかり山上で打ち鳴らす大太鼓の音は、その雲間より洩れて落ちます。
「ああよい天気」
 白い雲の山にかかる時は、かえって五月晴さつきばれの空の色をあざやかにします。
奉納日和ほうのうびよりでござりまするな」
 門弟連ははや準備をととのえてそこへやって来ました。
 竜之助も身仕度をして、いつぞや大菩薩峠の上で生胴いきどうためしてその切味きれあじに覚えのある武蔵太郎安国のきたえた業物わざものを横たえて、門弟下男ら都合つごう三人を引きつれて、いざ出立しゅったつ間際まぎわへ、思いがけなく駈け込んで来たのは水車番の与八でありました。
「若先生、今この手紙をお前様に渡してくれと頼まれた」
 与八の手には一封の手紙、受取って見ると意外にも女文字おんなもじ
「お山の太鼓が鳴り渡る朝までに解け」とおどしたあのなぞの、これが心か。
 竜之助はせわしいうちに、くりかえしてこの手紙を読みました。

         十一

 この日、宇津木文之丞もまたつとに起きて衣服を改め、武運を神に祈りて後、妻のお浜をおのが居間に招いて、
「浜、誰もおらぬか」
 人を嫌った気色けしきは別段に改まって、うれいと決心とが現われている。
「誰も見えませぬ」
「ちと改まってそなたに申し置くことがあるぞ」
「それは何でござりましょう」
「今日の門出かどでに、これをそなたにつかわします」
 机の上なるまだ墨の香の新しい一封の書状、お浜は不審顔ふしんがおに手に取って見ますと、意外にもこれは離縁状、俗にいう三行半みくだりはんでありましたから、
「これは私に下さる離縁状、どうしてまあ」
 呆気あっけに取られて夫のおもてをみつめていましたが、開き直って、
「おたわむれも過ぎましょう。何のとがで私が去状さりじょういただきまする」
「問わず語らず、黙って別るるがお互いのためであろう」
「まあ、何がどうしたことやら、仔細しさいも聞かずに去状もらいましたと親許おやもとへ戻る女がありましょうか、お戯れにも程がありまする」
「浜、この文之丞が為すことがそちには戯れと見えるか、そなたの胸に思い当ることはないか」
「思い当ることとおっしゃるは……」
「言うまいと思えど言わでは事が済まず。そなたは過ぐる夜、机竜之助が手込てごめって帰ったな」
「エッ、竜之助殿に手込?」
「隠すより現わるる。下男の久作が行方ゆくえと言い、その夜のそなたが素振そぶりいぶかしい限りと思うていたが、人のうわさで思い当った」
「人の噂? 人がなんと申しました」
 お浜はかっとなり、
「あられもない噂を言いがかりに私をい出しなさる御所存か。さほどお邪魔ならば……」
「おお邪魔である、家名にも武名にも邪魔者であればこそ、この去状をつかわします」
口惜くやしいッ」
 お浜は、どうするつもりか夫の脇差わきざしを奪い取ろうとするのを、文之丞はとんと突き返したから、殆んど仰向あおむけにそこに倒れました。それを見向きもせず、文之丞は奥の間へ立ってしまいます。夫にこう仕向けられて今更お浜が口惜しがるわけはないはずです、文之丞がもしも一倍かぬ気象きしょうであったなら、お浜の首を打ち落して竜之助の家に切り込むほどの騒ぎも起し兼ねまじきものをです。少し気がしずまってから、お浜がよくよく考え直したら、ここで離縁を取ったのが結局自分の解放を喜ぶことになるのかも知れない、しかし問題はここを去ってどこへ行くかです、甲州へは帰れもすまい、どこへ落着いて誰を頼る――お浜の頭はまだそこまで行っていないので、ただ無暗むやみに口惜しい口惜しいでしつまろびついきどおり泣いているのです。
 宇津木文之丞はその間に、すっかり仕度をととのえて、用意の駕籠かごに乗り、たった一人で、これはワザと門弟衆へも告げずに、こっそりと御岳山をさして急がせます。
 和田村から山の麓までは三里。文之丞は禊橋みそぎばしの滝茶屋で駕籠を捨て、小腋こわきには袋に入れた木剣をかかえ、編笠越しに人目を避けるようにして上って行きます。上って二十四丁目の黒門、ここへ来ると鼻の先に本山のいただきが円くえて、一帯に真黒な大杉をかぶり、その間から青葉若葉が威勢よくり上って、その下蔭ではうぐいすの鳴く音が聞えます。振返れば山々の打重なった尾根おねと谷間のはずれには、関八州の平野の一角が見えて、その先は茫々ぼうぼうと雲にかすんでいる。文之丞はしばしここにたたずんでいると、黒門わき掛茶屋かけぢゃやで、
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
 女の呼び声に応じて茶屋に入り、腰掛で茶をみながら、ふとかたえを見ると、茶屋からがけの方へけ出した妙にひねった庵室まがいの小屋に、ひげの真白なひとりの老人が、じっとこちらを見ています。老人の前には机があって、算木筮竹さんぎぜいちくが置いてある。
えきを立ててしんぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」
 老人はこう申しますのを、文之丞は首を振って見せた、老人は再びすすめようともしません。
 おりから坂の下より上って来たのは、かの机竜之助の一行で、同じくこの茶屋の前で立ち止まりました。
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
「休んで行こうかな」
 竜之助が先に立って、一行を引きつれて、この黒門の茶屋へ入ります。宇津木文之丞は何気なにげなく入って来た人を見ると、それは自分の当の相手、机竜之助でありましたから、ハッと気色けしきばんだが、幸いに編笠あみがさを被って隅の方にいたので、先方ではそれと気がつかぬ様子。
 先刻の老人はまた首を突き出して竜之助の方に向い、
「易を立てて進ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」
 竜之助は老人の面を見て頼むとばかりうなずくと、老人は筮竹ぜいちくを取り上げて、
「そもそも愚老の易断えきだんは、下世話げせわに申す当るも八卦はっけ当らぬも八卦の看板通り、世間の八卦見のようにきっと当ると保証も致さぬ代り、きっとはずれると請合うけあいも致さぬ。愚老は卦面けめんに現われたところによりて、聖人の道を人間にお伝え申すのが務め、当ると当らぬとは愚老のとがではござらぬでな……」
 仔細しさいらしく筮竹を捧げて、じっと精神こころを鎮めるこなしよろしくあって、老人は筮竹を二つに分けて一本を左の小指に、数えては算木をほどよくあしらって、首を傾けることしばらく、
「さて卦面けめんに現われたるは、かくの通り『風天小畜ふうてんしょうちく』とござる、卦辞かじには『密雲雨ふらず我れ西郊さいこうよりす』とある、これは陽気なお盛んなれども、小陰にさまたげられて雨となって地に下るの功未だ成らざるのかたちじゃ」
 老人は白髯はくぜんを左右に振分けて易の講釈をつづけます。
「されども、西郊と申して陰のかたより、陰雲盛んに起るの形あれば、やがて雨となって地に下る、それだによって、このたびの試合はよほどの難場なんばじゃ、用心せんければならん。が、しかし、結局は雨となって地に下る、つまり目的をげてお前様の勝ちとなる、まずめでたい」
 それから老人は易経えききょうを二三枚ひっくり返して、
「めでたいにはめでたいが、また一つの難儀があるで、よいか、よく聞いておきなされ。象辞しょうじにこういう文句がござる、『夫妻反目、室を正しゅうするあたわざるなり』と。ここじゃ、それ、前にも陽気盛んなれども小陰に妨げらるるとあったじゃ、ここにも夫妻反目とあって、どうもこの卦面には女子おなごがちらついている」
 門弟連はまた興に乗って、妙なかおをして老人の講釈を聞いていると、
「細君に用心さっしゃれ、お前様の奥様がよろしくないで、どうもお前様の邪魔をしたがるかたちじゃ。夫妻反目は妻たるものの不貞不敬は勿論もちろんなれども、その夫たるものにも罪がないとは申し難い。で、細君をギュッと締めつけておかぬとな、二本棒ではいけない……」
 これを聞いて門弟の安藤がムキになって怒り出しました。
「たわけたことを申すな、二本棒とは何じゃ、先生にはまだ奥様も細君もないのだ。若先生、こんなイカサマ売卜うらないを聞いているは暇つぶし、さあ頂上に一走り致しましょう」
 これに応じて、若干の茶代と見料けんりょうとを置いて一行はこの茶屋を立ち去ります。
 あとで宇津木文之丞は静かにこの茶屋を出ました。
 これから頂上までは僅かの道のりで、二人の行く前後に諸国の武芸者が肩臂かたひじを怒らして続々と登って参ります。

         十二

 東国の中でも武蔵の国は武道にちなみの多い国柄であります。
 武蔵という国号からが、そもそも武張ぶばった歴史を持ったもので、日本武尊やまとたけるのみことが秩父の山に武具をおさめたのがその起源と古くより伝えられていますが、御岳山の人に言わせると、それは秩父ではない、この御岳山の奥の宮すなわち「男具那峰おぐなのみね」がそれだとあって、これを俗に甲籠山こうろうざんとも申します。御岳神社に納められたる、いま国宝の一つに数えられている紫裾濃むらさきすそご甲冑かっちゅうは、これも在来は日本武尊の御鎧おんよろいと伝えられたもので、実は後宇多天皇の弘安四年に蒙古退治の御祈願に添えて奉納されたものだそうです。
 さればこの山の神社に四年目毎に行わるる奉納の試合は関東武芸者の血を沸かすこと並々なみなみならぬものがあります。八州の全部にわたり、なお信州、伊豆、甲州等の近国からも名ある剣客は続々と詰めかけ、武道熱心のものは奥州或いは西国から、わざわざ出て来るものもあるくらいで、いずれの剣士もみな免許以上のもの、一流一派を開くほどの人、その数ほとんど五百人に及び、既に数日前から山上三十六軒の御師おしの家に陣取って、手ぐすね引いて今日の日を待ち構えている有様です。
 以上五百人のうち、試合の場に上るのは百二十人ほどで、拝殿の前の広庭には幔幕まんまくを張りめぐらし、席を左右に取って、早朝、宮司の式がおごそかに済まされると、それより試合は始まります。
 さても宇津木文之丞は、程なく山へ登って来て、いったん知合いの御師の家に立寄って、それから案内されて神前の広庭に出向き、西のつめから幔幕をくぐって場へ出て見ると、もはやいずれの席もギッシリ剣士が詰め切って、衣紋えもんの折目を正し、口を結び目をえて物厳ものおごそかに控えております。自分はそっと甲源一刀流の席の後ろにつこうとすると、首座しゅざの方に見ていた同流の高足こうそく広沢なにがしが招きますから、会釈えしゃくしてかるる座につき、木刀を広沢に預けて、さて机竜之助はいずれにありやと場内を見廻したが、姿が見えません。
 組の順によって試合が行われます。いずれも力のはいる見物みもので、三十余組の勝負に時はようやく移って正午に一息つき、日のようやく傾く頃、武州高槻たかつき柳剛流りゅうごうりゅう師範あま某と、相州小田原の田宮流師範大野某との老練な型比かたくらべがあって後、
「甲源一刀流の師範、宇津木文之丞藤原光次ふじわらみつつぐ
 審判が呼び上げる。この声を聞くと、少しだれかかった場内が引締まって黒ずんできます。
 宇津木文之丞は生年二十七、さがふじ定紋じょうもんついた小袖に、たすきあやどり茶宇ちゃうの袴、三尺一寸の赤樫あかがしの木刀に牛皮のつば打ったるを携えて、雪のような白足袋に山気さんきを含んだ軟らかな広場の土を踏む。少しの間隔あわいを置いて審判が、
「元甲源一刀流、机竜之助相馬宗芳そうまむねよし
と呼び上げます。
 机竜之助と宇津木文之丞、この勝負が今日の見物であるのは、それは机竜之助が剣客中の最も不思議なる注意人物であったからで、この中にも竜之助の「音無しの構え」に会うて、どうにもこうにもかぶとを脱いだ先生が少なくないのです。
 今日はこの晴れの場所で、如何様いかよう手並てなみを彼が現わすかということが玄人くろうと仲間の研究物けんきゅうものであったということと、もう一つは、机竜之助は甲源一刀流から出でて別に一派を開かんとする野心がある、甲源一刀流から言えば危険なる謀叛人むほんにんで、それが同流の最も手筋てすじよき宇津木文之丞と組み合ったのだから、他流試合よりももっと皮肉な組合せで、故意か偶然か世話人の役割を不審がるものが多かったくらいだから、ああこれは遺恨試合にならねばよいがと老人たちは心配しているものもあったのです。
 呼び上げられて東のつめから、幔幕をかき上げて姿を現わした机竜之助は、黒羽二重くろはぶたえ九曜くようの定紋ついた小袖に、鞣皮なめしがわの襷、仙台平せんだいひらの袴を穿いて、寸尺も文之丞と同じことなる木刀を携えて進み出る。両人首座の方へ挨拶あいさつして神前に一礼すると、この時の審判すなわち行司役は中村一心斎という老人です。
 この老人は富士浅間せんげん流という一派を開いた人で、試合の見分けんぶんには熟練家の誉れを得ている人でありました。
 一心斎は麻のかみしも鉄扇てっせんを持って首座の少し前のところへ歩み出る。
 首座のあたりには各流の老将が威儀をただして控えている中に、甲源一刀流の本家、武州秩父の逸見利恭へんみとしやすの姿が目に立って、このたびの試合の勧進元かんじんもとの格に見える。
 宇津木文之丞と机竜之助は左右にわかれて両膝を八文字に、太刀下三尺ずつの間合まあいをとって、木刀を前に、礼を交わして、お互いの眼と眼が合う。
 山上の空気がにわかに重くなって大地を圧すかと思われる。たがいの合図で同時に二人が立ち上る。竜之助は例の一流、青眼音無しの構えです。そのおもては白く沈み切っているから、心の中の動静は更にわからず、呼吸の具合は平常の通りで、木刀の先が浮いて見えます。
 竜之助にこの構えをとられると、文之丞はいやでも相青眼あいせいがん。これは肉づきのよい面にポッとべにして、澄み渡った眼に、竜之助の白く光る眼を真向まっこうに見合せて、これも甲源一刀流うての人、相立って両人の間にさほどの相違が認められません。
 しかし、この勝負は実に厄介やっかいなる勝負です。かの「音無しの構え」、こうして相青眼をとっているうちに出れば、必ず打たれます。向うは決して出て来ない。向うを引き出すにはこっちでわざをしなければならんのだから、音無しの構えに久しく立つ者は大抵はれてきます。
 こんな立合に、審判をつとめる一心斎老人もまた、なかなかの骨折りであります。
 一心斎老人は隙間すきまなく二人の位を見ているが、どちらからも仕かけない、これから先どのくらい長くにらみ合いが続くか知れたものでない、これは両方を散らさぬ先に引き分けるが上分別じょうふんべつとは思い浮んだけれども、あまりによく気合が満ちているので、行司の自分も釣り込まれそうで、なんと合図のはさみようもないくらいです。
 そのうちに少しずつ文之丞の呼吸が荒くなります。竜之助の色が蒼白あおじろさを増します。両の小鬢こびんのあたりは汗がボトボトと落ちます。今こそ分けの合図をと思う矢先に、今まで静かであった文之丞の木刀の先が鶺鴒せきれいの尾のように動き出してきました。わざをするつもりであろうと、一心斎は咽喉のどまで出た分けの合図を控えて、竜之助の眼の色を見ると、このとき怖るべきけわしさに変っておりました。文之丞はと見ると、これも人を殺し兼ねまじき険しさに変っているので、一心斎は急いで列席の逸見利恭の方を見返ります。
 逸見利恭は鉄扇を砕くるばかりに握って、これも眼中に穏かならぬ色をたたえて、この勝負を見張っていたが、「分けよう」という一心斎が眼の中の相談を、なぜか軽く左右に首を振ってうけがいません。一心斎は気が気でない、彼が老巧な眼識を以て見れば、これは尋常の立合を通り越して、もはや果し合いの域に達しております。社殿の前の大杉が二つに裂けて両人の間に落つるか、行司役が身を以て分け入るかしなければ、この濛々もうもうと立ち騰った殺気というものを消せるわけのものではない。今や毫厘ごうりん猶予ゆうよも為し難いと見たから、
「分け!」
 これは一心斎の独断で、彼はこの勝負の危険を救うべく鉄扇を両刀の間に突き出したのでしょう、それが遅かったか、かれが早かったか、
「突き!」
 文之丞から出た諸手突もろてづきは実に大胆にして猛烈を極めたものでした。五百余人の剣士が一斉いっせいにヒヤヒヤとした時、意外にも文之丞の身はクルクルと廻って、投げられたように甲源一刀流の席に飛び込んで逸見利恭の蔭に突伏つっぷしてしまいました。
 机竜之助は木刀を提げたまま広場の真中に突立っています。

         十三

 間髪かんはつれざる打合いで場内は一体にどよみ渡って、どっちがどう勝ったのか負けたのか、たしかに見ていたはずなのが自分らにもわからないで度を失うているのを、中村一心斎は真中へ進み出で、
「この立合、勝負なし、分け!」
と宣告しました。
 分けにしては宇津木文之丞が自席へ走り込んだのがわからない、一同のおもてにやや不服の色があらわれました。
 机竜之助の白く光る眼はきっと一心斎の面にそそぎまして、
「御審判、ただいまの勝負は分けと申さるるか」
 片手にはかの木刀を提げたなりで鋭い詰問。一心斎は騒がず、
「いかにも分け、勝負なし」
 竜之助はジリジリと一心斎の方に詰めよせて、
「さらば当の相手をこれへ出し候え」
「相手を出すに及び申さぬ、この一心斎が見分けんぶんに不服があらば申してみられい」
「申さいでか。突いて来た刀を前に進んではずし面を打った刀、何と御覧ぜられし、老眼のお見損みそこないか」
 試合は変じて審判と剣士との立合となったので、並みいる連中は安からぬ思い。
 しかしこの勝負はいかにも竜之助の言い分通り、或いは一心斎の見損いではあるまいか、老人なんと返事をするやらと気遣きづかえば、一心斎は平気なものでカラカラと笑い、
「分けたあとの出来事はこちの知ったことでない、老眼の見損いとは身知らずのたわごと」
 分ける、突く、打つ、その三つの間に一筋のすきもないようであるが、分けて考えれば三つになる。
 竜之助も口を結んで老人の面を見ていたが、
「しからば再勝負を所望しょもうする」
「奉納の試合に意趣は禁物」
 一心斎が取合わぬのを竜之助は固くって屈せず、
「未練がましき勝負はかえって神への非礼、ぜひに再試合所望」
 明快な勝負をつけねば決してこの場を去らずという憎々しい剛情を張っているが、一心斎もまたかぬ気の一徹者いってつもので、
「再試合なり申さぬ、ってお望みならば愚老が代ってお相手致そうか」
「これは近ごろ面白い」
 竜之助は冷やかな微笑を浮べて、
「富士浅間流の本家、中村一心斎殿とあらば相手にとって不足はあるまい、いざ一太刀の御教導を願う」
「心得たり、年は老いたれど高慢をくじく太刀筋は衰え申さぬ」
 武芸者気質ぶげいしゃかたぎで、一心斎は竜之助の剛情がかっしゃくに触ったものですから、自身立合おうという。飛んだ物言ものいいになったが、事は面白くなった。ほんとに立合がはじまったらそれこそもうけものと、一同は手に汗を握っていると、
「机氏、机氏、控えさっしゃれ」
 たまり兼ねて言葉をかけたのは甲源一刀流の本家、逸見利恭です。

         十四

 逸見利恭へんみとしやすは甲源一刀流の家元で、机竜之助ももとこの人を師として剣道を学んだものでありますから、師弟の浅からぬ縁があるのです。
 そもそも一刀流の本源をたずぬれば、その開祖は伊豆の人、伊藤一刀斎景久かげひさで、その衣鉢いはつを受けたのが神子上典膳忠明みこがみてんぜんただあき(小野治郎左衛門)です。この人、柳生やぎゅうと相並んで、徳川将軍の師範をつとめたほどの名人で、その子小野治郎左衛門忠常が小野派一刀流、伊藤典膳忠也ただなりが忠也派一刀流を打出し、ことに忠也が父忠明より開祖一刀斎の姓と瓶割刀かめわりとうとを許される。それをいだのが忠明以来の高弟亀井平右衛門忠雄ただおで、これがまた伊藤を名乗る。忠雄の次が新たに溝口みぞぐち派の名を残した人、溝口五左衛門正勝というものであります。
 武蔵国むさしのくに秩父小沢口の住人じゅうにん逸見太四郎義利は、この溝口派の一刀流を桜井五助長政というものにいて学び、ついにその奥義おうぎきわめて、ここに甲源一刀流の一派を開き関東武術の中興とうたわれたので、逸見利恭は、その正統を受けた人ですから、机竜之助の剛情我慢を見兼ねて控えろとおさえたのは当然の貫禄かんろくがあります。
「検審に向い近ごろ過言かごんなり、早々刀を引き候え」
 逸見を囲んでいた門下の連中は、一方には宇津木文之丞を介抱かいほうする、その他の者は刀に手をかけて、眼をいからして竜之助をにらんで、いざといわば飛びかからん気色けしきに見えます。
 竜之助はこのていを見て、例の切れの長い白い光のある眼の中に充分の冷笑をたたえて、なんともいわず身をクルリと神前に向けて一礼し、左手ゆんでに幔幕を上げてさっさと引込んでしまいました。
 宇津木文之丞の面上に受けた木刀は実に鋭いもので、ほとんど脳骨を砕かれているのですが、さすがにその場へ打倒れる醜さをきらい、席まで飛び込んで師の蔭に打伏したが、その時はモウ息が絶えていたのです。
 机竜之助は試合とは言いながら、宇津木文之丞を打ち殺してしまったので、無慈悲残忍を極めた立合の仕方であるが、これは文之丞の方で最初しかけて行ったのは明らかで、もしも文之丞があの諸手突もろてづきがきまったならば、竜之助の咽喉笛のどぶえを突き切られて、いま文之丞が受けた運命を自分が受けねばならぬ。あの場合、文之丞がナゼあんな烈しい突きを出したか、あれはやはり人を殺すつもりでなければ出せない突きです。してみれば文之丞の立合い方もまた不審千万ふしんせんばんで、無慈悲残忍の一本槍いっぽんやりで竜之助を責めるわけにはゆかないのです。
 よって竜之助の剛情我慢を憎むものも暫く口をつぐんで、そのあと二番で終る試合の済むのを待っています。
 あとの試合には頓着とんちゃくなく、机竜之助は、いったん控えの宿へ引取って着物を着換え、夕餉ゆうげを済ましてから、また宿を出て雲深き杉の木立を分けておく宮道みやみちの方へブラリと出かけました。

         十五

 随神門ずいしんもんを入って、きり御坂みさかを登り、右の小径こみちを行くと奥の宮七代ななよの滝へ出る道標があります。御岳山の地味は杉によろしく、見ても胸のく数十丈の杉の木が麓から頂まで生え上っている中に、この霧の御坂から七代の滝へ下るまでの間は特に大きなものであります。竜之助がこの中へ入ると、雲も霧もまた一緒にき込んで行く。
 見返れば社殿に上げられた篝火かがりび燈籠とうろうの光はトロリとして眠れるものの如く、立ち止まって見るとドードーと七代の滝の音が聞ゆる。
 立ち尽していると頭上ずじょうで御祈祷鳥が鳴く、御岳山の御祈祷鳥は高野こうやの奥に鳴くという仏法僧。
 ふと、霧の御坂の方から人の足音がする。
「竜之助様か」
 それは女でした。宇津木文之丞が妻の声でした。
「お浜どのか」
「あい」
「…………」
「御用心あそばせ、暗討やみうちがありまする」
「暗討?」
「お前様を討とうとて同流の手利てききが五人、ただいま宿を出てこれへ参りまする」
 女の触れた手は熱かったが耳につけた口の息は火のようです。
「お浜どの、ここはあぶない、あれに隠れて」
 目の前なるさいかみやしろしますと、
「竜之助様、あなたは斬死きりじにをなさる気か」
 お浜は竜之助の行手ゆくてさえぎるようにして、
「あなたがここで斬死をなさるなら、その前にわたしを殺して」
「なに?」
「文之丞は死にました」
 お浜の声はふるえて低い。
「宇津木の妻は去られて来ました」
 竜之助はなんとも言いません。
「どこへ行きましょう」
 御祈祷鳥がまた鳴く。
「甲州へは帰られません」
 お浜の身はゆるく、そして強くだんだんに竜之助の身をして来ます。
 御祈祷鳥がまたホーホーと鳴く。
不如帰ほととぎすではないかしら」
 お浜はわざと身を横にして杉の木立を仰ぎます。
「竜之助様、なんとかおっしゃって下さい」
 竜之助はまだなんとも言いません。
「あなたは刀にお強いように、女にもお強いか」
 お浜の髪の毛が竜之助の首のあたりにほつれる。竜之助は無言むごん
 夜はいよいよ静かで七代の滝の音のみさわやかに響き渡ります。
 霧の御坂でまたしても人の声。
「ああ人が来ます、敵が来ます」
 竜之助は勇躍する。
「逃げましょう、逃げましょう、死ぬのはいやいや、逃げて二人は生きましょう」
 お浜は身を以て竜之助にすがりつく。
 雲と霧とが濛々もうもうとして全山をこめた時、剣鳴つるぎなりがする。二人の姿はそこから消えてしまいました。

         十六

 本郷元町ほんごうもとまちに土蔵構えのかなりな呉服屋があって、番頭小僧とも十人ほどの頭が見え、「山岡屋」と染め抜いた暖簾のれんの前では小僧がしきりに打水うちみずをやっていると、
「御免下さいまし」
 入って来たのは百姓ていの男で、小さい包を抱え、十一二になる小娘を連れていましたのは、あれから一カ月ばかり後のことでしたが、二人とも見たようなと思わるるも道理、男は武州青梅の裏宿うらじゅくの七兵衛で、娘は巡礼の子お松でありました。
「いらっしゃい……」
 お客と思って一斉にお世辞をふりかけると、七兵衛は丁寧に頭を下げて、
「あの、こちら様は山岡屋久右衛門様でござりましょうな」
「はい、手前は山岡屋久右衛門でござい」
 小僧はいささか拍子抜けのていでポカンと立っていると、
「手前は武州青梅から参りましたが、旦那様なり奥様なりにお眼にかかりとう存じまして」
「旦那様か奥様にお眼にかかりたいって、いったいお前さん、何の御用だえ」
「ヘエ、実は御当家の御親類のお娘子むすめごをお連れ申しましたので」
 小僧は怪訝けげんかおをして、七兵衛とお松の面を等分に見比べておりますと、帳場にいた番頭が口を出して、
「手前どもの親戚しんせきの娘子をお連れ下さいましたとな」
「はい、以前本町に刀屋を開いておいでになった彦三郎様のお嬢様と申せば、旦那様にも奥様にもおわかりになるそうで、このお娘御むすめごがそれでございます」
 七兵衛はお松を引合わせると、番頭は変なかおをしていましたが、小僧を呼んで、
「長松、なんせ旦那様はお留守るすだから奥様にそう申し上げて来な、青梅在のお百姓さんが、本町の彦三郎さんのお娘御をお連れ申してお目にかかりたいと申しておりますって、ね、いいか」
「は――い」
 小僧は気のない返事をして奥の方へ行きました。
「まあお掛け……」
 番頭が月並の愛想で火鉢を出すのをきっかけに、七兵衛は店先へ腰を下ろして、煙草をぷかりぷかりやりながら落着いているうちにも、お松はなんとなくおどおどした様子で、七兵衛のかげに小さくなっていると、さいぜんの小僧が出て来て突っ立ったなり、不愛想ぶあいそうきわまる面付かおつきをしながら、
「番頭さん、お内儀かみさんのおっしゃるにはねえ、本町の刀屋さんなんてのは聞いたことも見たこともないって。だからそのお娘さんなんて方には近づきがないから、どうかお帰りなすって下さるように、そう申し上げて下さいと」
 これを聞いた七兵衛とお松はハッと面を見合せましたが、お松が進み出でて、
「そんなはずはないのよ」
 面を真赤にして眼はうるみきって、
「そんなはずはありませんよ、こちらのお内儀かみさんは、わたしのお母さんの姉さんだもの、面を見ればわかるのよ」
 お松は精一杯せいいっぱいにこのことを主張します。番頭と小僧はさげすむような面をして二人を見ていますのを七兵衛は、
「この娘さんもあのように申します、奥様に一度お目にかかればすぐおわかりになりましょう」
「だって、お内儀さんが知らないとおっしゃるものを仕方がないじゃないか」
 小僧は口をとがらします。
「伯母さんに会えばすぐわかるのよ、小さい時お芝居へ連れて行っていただいたこともあるのだもの」
 七兵衛はお松の説明のあとをついで、やはり律儀りちぎな百姓の口調くちょうで、
「実は、このお娘御とおじいさんとが甲州裏街道の大菩薩峠と申しまするところでお難儀をなすっているところを、私が通りかかってお連れ申したわけで、このお娘さんもたよかたといっては、こちら様ばかりだそうで、いかにもお気の毒ですから御一緒にやって参りましたわけで、どうかもう一度、奥様にお取次を願います」
 克明こくめいに頭を下げて頼むので、番頭は飛んだ厄介者やっかいものと言わぬばかりに小僧にあごを向け、
「では、モ一遍お内儀さんにそのことを申し上げてみな」
 小僧は不承不承ふしょうぶしょうにまた奥へ行きましたが、小さな紙包を一つ持って出て来て、
「番頭さん、何と言っても奥様は御存じがないとおっしゃる、これは少ないが草鞋銭わらじせんだから、それを持って帰ってもらうように、足りなければまだ一両や二両はそちらで心配して上げてもいいからって」
 番頭はその紙包を受取って七兵衛の前へ進み出で、
「幾度お取次してもお聞きなさる通りでございます、これはホンの草鞋銭のしるしで、これを持ってお帰り下さい」
 紙包を七兵衛の前へ突き出すと、七兵衛はグッと癇癪かんしゃくにこたえたのを、だまって抑えつけて紙包を見詰めたままでいると、お松は横を向いて口惜しさに震えます。このときちょうど、「いらっしゃい、お掛けなさい」
 小僧たちの雷のようなわめきに迎えられて、この店へ入って来たのは切下げ髪に被布ひふ年増としま、ちょっと見れば大名か旗本の後家ごけのようで、よく見れば町家ちょうかの出らしい婀娜あだなところがあって、年は二十八九でありましょうか、手には秋草のたばにしたのを持っておりましたが、
「あの、この間のがらをもう一度見せて下さいな」
「これはこれはお師匠様、わざわざお運びで恐れ入ります、昨日織元から新柄しんがらが届きまして、ただいま持って上ろうと存じておりましたところで、へえ、この通り」
 番頭小僧もろともにペコペコお低頭じぎをして、棚から盛んに反物たんものかつぎ出して切髪の女の前にとりでを築き立てると、
「ついでがあったものだから」
 女は鷹揚おうようにその反物を取り上げて、柄を打返して調べはじめますと、
「おい、番頭さん、こりゃ何だい!」
 閑却かんきゃくされていた七兵衛はここで紙包をポンと突き返して、呼びかけた声がズンと鋭かったので、切髪の女はひょいと振返って七兵衛を見ます。かまいつけなかった番頭小僧どもは、七兵衛の鋭い権幕けんまくを見てゾッとする。
「おあしをいただきにあがったわけじゃござんせん、番頭さん、悪い推量でございます」
 七兵衛は煙管きせるをポンと叩いて、
「御当家の御親類のお娘子むすめごをお連れ申しただけのことで、それを強請ゆすりかなんぞのように銭金ぜにかねで追っ払いなぞは恐れ入ります」
 そろそろ七兵衛の言い分が巽上たつみあがりになって、悪くとれば妙にこだわって、いよいよ悪く見えますから番頭小僧も不安の色を見せていると、七兵衛は、
「お金が欲しいのでお邪魔に上ったように取られては私も残念でごぜえますから、念のためにこの子の死んだお爺さんというのから、お預かり申した金をここでお目にかけます」
といって七兵衛は小包を解いて、中から百両の包を三つ取り出して、
「これが、このお娘子のお爺さんから私が預かりましたお金でございます、ナーニ、ここへ拡げなくてもよいわけでございますが、お金が欲しいくらいならわざわざこうして持って参りは致しません――ところで」
 七兵衛が存外おとなしくて、
「せっかくこうして親類の名乗りをして尋ねて来たものを畳の上へもお通しなされず、見ず知らずとおっしゃって追い出すお家へ、御無理にお願い申してこの娘さんを置いて帰りましたところで行く末が案じられます。こうやってお連れ申してみればマンザラ他人のような気も致しませんから、よろしゅうございます、御当家に縁のないものなら私に縁のあるものでごぜえましょう、今日から私が貰い受けましょう、どうかあとあとのところを苦情のねえように」
 こういって七兵衛は煙管きせるを筒の中に納めて、お松を顧み、
「なあお松坊、そういうわけだから、ここはおじさんと帰るさ」
 三百両の金をしまって立ち上ろうとする。お松は情けないかおをして、眼にはいっぱいの涙を含んで、小さなあごえりにうずめてうなずきます。
 夏の夕風がうすらさびしい。二人が出て行くと、まもなく山岡屋の番頭小僧らはドーッと笑いました。この笑い声を聞いた時、お松はきっと振返って山岡屋の暖簾のれんにらみつけ、暫く立去れない口惜くやしさが胸までこみ上げて来るように見えましたが、
「お江戸は広いから居どころに困るようなことはねえ」
 七兵衛はお松をうながして連れて行く。

         十七

 二人が神田明神の方へ曲ろうとすると、後ろから呼びかけるものがあります。
「もしもしあの、おとっさんにお娘さん」
 あたりにあんまり人通りがなかったから直ぐに気がついて二人が振返ると、それはさいぜん、同じ店に反物の柄を見ていた切髪の女でありました。切髪の女は二人に近寄って人懐ひとなつこく、
「あの、無躾ぶしつけながらお前さんは山岡屋の御親類なそうな」
「はい、左様さようでございます、この子が山岡屋の御親類で。私は縁もゆかりもない百姓でございますが」
「そう、わたしもあの店でちょいとお聞き申しました、それでお前さん方がお困りのようだから、だしぬけに声をかけてみましたの」
 品のよいわりに口のきようが慣れ過ぎた女だと思って、七兵衛は、
「左様でございましたか……」
「わたしはね」
 女はちょいと横の方を向いて、
「ついそこの横町に住んでいます者、こんなところで申し上げては失礼ですが、もしなんならそのお娘さんを、わたしがお預かり申し上げても苦しゅうござんせぬ」
「へえ、そりゃ御親切に……」
 七兵衛も、あまり変った救い舟がもやの中から不意に飛び出して乗せて上げようというのだからいささ面喰めんくらって、
「御親切は有難う存じますが、見ず知らずのあなた様におすがり申しては何が何でもあまりぞんざいでございますから」
「いいえ、ぞんざいというのはわたしの言うことよ。世間は妙なもので、お前さんのさっきお言いなさる通り、親類呼ばわりをして来たものを門口かどぐちから追い返すものもあれば、赤の他人でもずいぶん因縁いんねんずくで力にもなったりなられたりするものもあります。ほかにどこぞ頼る所でもおありなされば格別、そうでなかったら、ちょうど私の家が手不足で困っておりますから……」
 世間にはなかなか世話好きの女もあるものだと思って、七兵衛がまだ返答もしきらないうちに、女は先に立って、
「まあまあ、わたしの家へお寄りなさい、どちらに致せ今晩はお泊りなすっておいで、ナニ、気遣きづかいなものは一人もおりませんよ」
「それでは、せっかくの御親切に甘えまして」
 七兵衛とお松はけむに捲かれて、あとをついて行くと、湯島の高台に近い妻恋坂つまこいざかの西にはずれた裏のところ、三間間口さんげんまぐちを二間の黒塀くろべいで、一間のあいだはくぐりの格子こうしで、塀の中には見越みこしの松から二階の手すりなども見えて、気取った作りの家の前まで来ると女が先に格子をあけて案内した時、表にかけた松月堂古流云々うんぬんの看板で、この女がべつだんすごいものではなく、花の師匠であることを知りました。
「さあ、お入りなさい、ここはわたしの家で、ばあやと猫が一ぴきいるばかり」

         十八

 甲州本街道の方は、新宿から八王子まで行く間に五宿、府中、日野まで相当の宿々しゅくじゅくもありますけれど、裏街道ときてはただ茫々ぼうぼうたる武蔵野の原で、青梅までは人家らしい人家は見えないと言ってもいいくらいです。
 ことにこの青梅街道の中で丸山台というところあたりは追剥おいはぎたぐいが常に出没して、日のうちに心強い人連れでもなければ屈強くっきょうな男でさえ容易にここを通りません。まして日の暮や夜は無論のこと。それを今日は珍らしく、まだ有明ありあけの月が空に残っているうちに、馬の鈴の音がこの丸山台のあたりで聞えます。そして朝露あさつゆをポクポクと馬の草鞋わらじ蹴払けはらって、笠をかぶった一人の若い馬子まごが平気でこの丸山台を通り抜けようとしております。大方、江戸を夜前やぜんに出て近在へ帰る百姓でありましょう。
 それにしても大胆な。馬子でも思慮のあるものは今時分いまじぶんここを一人歩きはしないものを。それもそのはず、この若い馬子をよく見れば、かの万年橋の下の水車小屋の番人、馬鹿の与八ですもの。馬鹿ですからこわいもの知らずです。
 馬の背中には大きな行李こうりが三つばかりくらに結びつけられて、その真中にたけ三尺ばかりのお地蔵様の木像、どこから持って来たか、大分にげて、錫杖しゃくじょうの先や如意宝珠にょいほうじゅなども少々欠けておりますが、それを馬の背の真中へキチンとえつけて、それをなわでほどよく結びつけておきますから、遠くから見ればお地蔵様が馬に乗ってござるようです。
 与八は手綱たづなを引張りながら、時々後ろを顧みて地蔵様を打仰ぎ、
「はア、地蔵様ござらっしゃるな」
と声をかけて進んで行きます。
わしは子供の時分、なんでもこの街道へ打棄うっちゃられたのを大先生おおせんせいが拾って下すったとなあ。俺の親というのはどんな人だんべえ、俺だってまんざら木のまたや岩の間から生れたじゃあるめえから、親というものがあったには違えねえ、大概たいがいの人にちゃんというものとおっかあというものがあるだあが、俺にはホントウの父とおっ母が無え、だから俺あ人にばかにされる、なに、ばかにされたってかまやしねえや、大先生が大事にしてくれるから不自由はねえけれども、それでも一ぺんホントウの父というものとおっ母というものに会いてえな――海蔵寺の方丈様のおっしゃるには、地蔵様というものは親なし子を大事にして下さる仏様だとよ、地獄へ行っても地蔵様が我を頼めとおっしゃって子供を助けて下さるくらいだから、地蔵様を信心しんじんしていれば自然と親たちにもめぐり会えるだからと、方丈様がそうおっしゃるものだから、俺あ地蔵様を信心して、道傍みちばたに石の地蔵様が倒れてござらっしゃれば起して通る、花があれば花、水があれば水を上げて信心するだ……昨日も四谷よつやの道具屋に、このお地蔵様の木像があったから、いくらだと聞くと一貫二百で売るというから、小遣こづけえをぶちまけて買って来た――これを持って帰って家で毎日信心をする」
 与八はこんな独言ひとりごとをいって歩きます。
「俺もひとりぼっちだあけれど、うちの大先生も運の悪い人だ、五年も六年も御病気で、体がきなさらねえ、たった一人の若先生はあの大試合の日から行方ゆくえ知れずになっておしめえなさるし――今は親類の衆が寄って世話をしてござらっしゃるが、やはり親身しんみの人が恋しかんべえ……」
 与八の独言は涙まじりになってきます。
「そりゃそのはずだあ、俺だって何不自由はねえけれども、それでも親身の親たちに会いてえと思わねえ日はねえくらいだ、大先生はああやって竜之助様を勘当かんどうしておしめえなすって、誰が何といっても許すとおっしゃらねえが、でも腹の中では若先生がいたらと思うこともあるに違えねえ……いったいが竜之助様という人が心得違えだ、たとえば勘当されたとて、たった一人の親御おやごじゃねえか、それを慕って帰ってござらねえというのがうそだ、俺、ふだんから若先生という人は気味の悪い人だと思っていた、剣術なんというものは身の守りにさえなればよかんべえに、若先生は人を斬ることを何とも思わっしゃらねえだ――いくら剣術でもああいう法というのはあるめえ、かりにも御主人を悪くいってまねえけんど、あの分で行ったら竜之助という人は決していい死にようはなさらねえ、もしや江戸にござらっしゃるかと昨日きのう一昨日おとといも探して歩いたが、お江戸だって広いや、なかなか見つかりゃしねえ、見つけたら意見をして引張って来べえと思ったが駄目なこんだ」
 与八はしきりなく独言ひとりごとをつづけましたが、この時また地蔵様を振返って、
「まあいいや、大先生の分も若先生の分もおらが分も一緒に、このお地蔵様に信心をしておくべえ……」
 独言が途絶とだえて、馬のポクポクと歩く音が林の中へひっそりと響いて行く。
 ややあって与八はまた独言です。
「それからわからねえのがあのお浜という女よ、若先生から頼まれて水車小屋へかついで来た、おらあの時のことを思うとゾッとする、今まであんな悪いことをした覚えはねえ……それにあの女が若先生にふみを届けてくれろと、あの試合の日、おらがところへそっと持って来た、どうも、あの女がおらがにはせねえ女だ」
 こう言っているうちに与八と馬とは丸山台の難所を三分の一ほど通り過ぎて、行手の木蔭こかげ焚火たきびでもあろうか火の光を認めました。
「やあ、火が燃えてるな」
 与八は何の気なく手綱たづなを取って行くと、その火のあたりで物騒ものさわがしい人声です。
「朝っぱらから人声がするな」
 近づいて行くにしたがって人声はますますやかましいので、
「黙って歩いたらよかんべえ、まるで喧嘩けんかみたような、でけえ声をして」
 ポクポク進んで行くと、行手に数個の人影があって、ぐるりと輪形わがたに突っ立ち、中に一人の人を囲んで棒を持ったり杖を持ったり、そして盛んに啖呵たんかを切って中なる人を脅迫きょうはくしている様子です。
「お前たちは何してるだあ」
 丸山台へは悪者が出るのがあたりまえで、出ないのが不思議なくらいですから、その心得のあるものなら早く逃げのびる工夫くふうをすべきはずですけれども、そこは馬鹿のことですから五六人の悪者の中へ、ぬっと首を突き出してしまいました。
「何だ何だ、手前てめえは」
 悪者の方がかえって驚きます。
「朝っぱらから賭博ばくちでもしてるのかと思えば、この小さい人をつかめえて小言こごとを言っているのかい」
 きわめての大胆と全くの無神経とは時によって一致します。
「馬鹿だ、こいつは」
「叩きなぐっちまえ」
 悪者と見えるのは、やはりこの辺を飛び廻る下級の長脇差ながわきざし胡麻ごまはえもやれば追剥おいはぎかせごうという程度の連中で、今、中に取捲いておどしているのは、これは十二三になるさむらいの子とおぼしき風采ふうさいで、道のまん中に坐り込んだまま、刀のつかに手をかけて寄らば斬らんと身構えてはいるが、見たところ疲れきって痛々しいばかりです。
「ああわかった、お前たちはなんだな、この子をつかめえて追剥をすべえというのだな。そんならよした方がいい、人の物を取るのはよくねえだからな」
 悪者どもは吹き出したくなるくらいです。何となればの抜けたつらをこの難場なんばへぬっと突き出して、後ろを見れば地蔵様が馬上ゆたかに立たせ給うのである、ばかばかしくて喧嘩にもならない。
「さきほどより申す通り、わしは大事を控えた身なれば、ここにありたけの金子きんすをそちたちにつかわすゆえ見のがせと事を分けて申すに、って衣類腰の物まで欲しいとならば是非もないから刀を抜く」
 少年は坐りながら、涙ぐんだ眼に彼等をにらめてキッパリと言う。
「その大小が金目かねめと睨んだのだ、たかの知れたお前たちの小遣銭なんぞに目はくれねえ。よ、痛い目をしねえうちに投げ出しちめえねえ。お前がいくら光るものをひねくったって、こっちは甲州筋で鳴らしたにいさんたち五人のお揃いだ、素直すなおに渡して鼻でも拭いて行きねえ」
 手に持った棒を少年の頭の上で振る、一人は手を伸ばして少年の抱えた刀を奪い取ろうと、うつむいた浮腰うきごしを横の方から、ひょいと突き飛ばしたのが与八です。
「よくねえことをしやがる」
 悪者の一人は茄子なすをころがしたようにのめると、
「この野郎」
 馬鹿と見た馬方が意外の腕立て。

         十九

 与八の力は底知れずですから、悪者どもを手もなく追い払ってしまいました。
 それから与八は少年のそばへ寄って来て、
「どうだお前様、あぶねえところだったな」
「おかげで助かりました、お礼を申します」
「お前様一人で来なすったのかえ」
「一人で」
「どこから」
「江戸から……」
「お江戸から……そうしてどこへ行きなさるだ」
「青梅の先まで」
「青梅の先……俺も青梅の方へ行くだ、一緒に行くべえ」
「それでは……」
 少年は坐っていたのを、刀をつえに立ち上ろうとしたが、よろよろと足が定まりませぬ。そのはず、今朝江戸を出て来たものとすれば、子供の足で七里の道、足がれ上って動けないらしい、そこを悪者どもにおびやかされたものと見えます。それでも我慢がまんして、痛いとも疲れたともいわず、与八と連れ立って歩こうとする、その痛々しさは与八も気がつかずにはいられなかったので、
「お前様、足が大分草臥くたびれたようだなあ、待てよ……」
 与八は馬の背中を見上げて、首をかたげることしばし、
「こうと、荷物はいくらでもねえが、地蔵様を横っちょの方へお廻し申しては勿体もったいないし――お地蔵様と相乗りというわけにもゆくめえし」
 腕を組んでお地蔵様と首っ引きにしきりに考えていましたが、
「おおそうだ、そうだ」
 にわかに両手をって、馬に近寄って、背中に安置した地蔵尊の木像をおそる怖る取り下ろし、それを有合せの細帯で後ろへ廻し、子供をおぶうと同じことに自分の背中へ結びつけて、
「これでよし、さあお前様、この馬へ乗っておいでなさい、なに、遠慮しなくてもいいだ、その足で歩けるもんでねえ」
 少年は心から有難そうに、すすめられるままに馬上にまたがります。
 与八はお地蔵様をおぶったまま、手綱を取り上げて馬を引きだす。その恰好かっこうのおかしさ。それでも当人はいっこう平気で、
「お前様はお侍様の子供のようだが、青梅はどこまでござらっしゃるかね」
 朝のもやがすっかり晴れて、雲雀ひばりは高く舞い、林から畑、畑から遠く農家の屋根、それから木々の絶え間には、試合のあった御岳山あたりの山々が、いま眠りからめたように遥々ようようとして見え渡ります。
「和田というところへ行きます」
「和田へ……」
「和田の宇津木というところまで」
「和田の宇津木様?」
 与八は歩きながら、思わず少年のかおを見上げて、
「宇津木様へ……そりゃお前様の御親類でもあるのかえ」
「宇津木は、わしの実家うちじゃ」
「お前様の実家……それではお前様は、文之丞様の弟さんかえ」
「弟の兵馬ひょうまという者です」
「ああそうでございましたかい、そうとはちっとも知らなかった」
 この少年こそ、宇津木文之丞の実の弟の兵馬であったのです。
 兵馬は幼少の頃から番町の旗本の片柳かたやなぎという叔父の家に預けられていたのが、このたびの変を聞くと無分別に叔父の家をけ出して兄の家へ帰ろうとして、ここまで飛んで来て、疲れ切ったところを、悪者におびやかされたものでありました。
 宇津木兵馬と聞いて馬子が驚きの意味ありげなのを見て、
「馬子どの、お前もあちらの人か」
「エエわしも」
といったが与八はポキリと言葉のはしを折って、一丁ほどは物を言いませんでした。兵馬も再び尋ねなかったが、やがて与八は、
「お前様のお兄様の文之丞様というお方も、運の悪いお人だ」
「兄上のことを御承知か」
「はあ、よく知ってますだ」
「そんなら机竜之助のことも」
「はあ、その竜之助様のことも」
「してみれば、五月五日の試合のことも知ってであろうがな」
「はあ、その事もあの事もみんなようく知ってますだが……」
「そうか、それは幸い。あの試合で兄上と竜之助の勝負は」
 兵馬の意気込むにつれて与八はしょげ返り、
「あの勝負は竜之助様が勝って文之丞様が負けた」
「尋常の勝負ではなかったはず」
「尋常の勝負どころか、お前様、飛んでもねえ勝負でござんす、お前様のお兄様のことだからずいぶん腹も立つべえけれど、俺も悲しいやら口惜くやしいやら……」
 与八は泣き出してしまいました。
「なにも泣くことはあるまい、お前の身にはかかり合いのないことだ」
「わしにかかり合いのねえどころか、大有りでさあ」
「お前に……あの試合が?」
「何も言わねえ、試合のことなんざあ忘れちまった方がよかんべえ」
「それが忘れられるものか、それがためにわしは江戸を抜け出して兄上の仇討あだうちに出て来たのだものを」
「お前様が仇討に――誰をかたきにお討ちなさるだ」
「机竜之助を」
「机竜之助様を?」
 与八が振向いた時、馬上の兵馬は御岳山の方を見やる眼許めもとよりしずくが頬を伝うて流れるのを見かけます。

         二十

 七兵衛とお松とを店頭みせさきから追い払ったその晩のことです。
 主人は商用で上方かみがたへ行ったというにもかかわらず、山岡屋の女房のお滝は、ニヤけた若い男を傍に置いて、夜も大分けてゆくのにしきりに酒を飲んでいると、
「あ、人の足音」
「猫でも来たのだろうよ」
「でも、今のはたしかに人の足音でございましたよ」
「度胸のない人だねえ、そんなにおどおどしてさ。あけてごらん」
「おや」
 そこにはまさしく人が立っていたので、
「あれ、お前さんは誰だえ」
「誰でもございません、さきほど店前みせさきで追っ払いを食いました百姓で……」
「ええ!」
「まず御免なせえまし」
 そこへ入り込んで、どっかと胡坐あぐらをかいて黒い頭巾ずきんを投げ出したのは、なるほど裏宿うらじゅくの七兵衛でありました。
 七兵衛はふところへ手を入れて、短刀を出して、刃先を前に向けてブツリと畳へ突き通します。
「お、お金がお入用いりようならいくらでも差上げますから――どうぞ――どうぞ命ばかりは……」
「お内儀かみさん、お前さんはよく金々と言いなさる、さきほども大枚のお金をわっしに下すったが、その時も申し上げた通り、金が欲しくって上ったわけじゃござんせん」
「そんなら品物を何でも、お好きな物をお持ちなすって……ただいま土蔵へ案内を致させますから」
「くどいやい、今夜は盗みに来たんじゃねえ」
 お滝はふるえ上りながら、やっと気がついたらしく、
「ああ、わかりました、わかりました。さっきお話の本町の彦三郎の娘のこと、つい小僧から又聞またぎきでございまして、まことに失礼を致しました。たしかにわたくしのめいに相違ございません……よく――よくお連れ下さいました、早速さっそく手前どもで引取りまして、実の子のようにしてお育て申します、どうかそれにて御勘弁を。はい、小僧めがいいかげんなことを申しますので、ついどうも飛んだ失礼を申しました……」
「遅いやい遅いやい、いまさら夜迷言よまいごとをぬかすな、あの子はあとあとの苦情のねえように、ようく念を押しておれがもれえ受けたんだ、おめいたちに縁もゆかりもねえ」
「それでは養育料としまして」
「馬鹿め、縁もゆかりもねえものに養育料がるか」
「どうぞ命ばかりはお助け――」
「命まで取ろうとは言わねえ」
「それでは命をお助け下さる……」
「命は助けてやるめえものでもねえが、ただじゃ帰れねえ」
「それではお金を……」
「金は要らねえ」
「では……」
 お滝は絶体絶命のていを、七兵衛はひややかに笑って、
「山岡屋のお内儀さん、わっしはほかに望みはねえ、お前さんに恥をかかしに来た」
「恥を……」
 お滝は唇の色まで真蒼まっさおになったのを、七兵衛は心地ここちよげに、
「そんなに驚くことはねえ、恥と言ったって、なにもお前さんをなぐさものにするわけじゃねえのだ、おれは子供の時分から虫のせいで、善い事にしろ悪い事にしろ仕返しをしなくっちゃあおさまらねえ性分しょうぶんだ、それでさきほどのお礼にやって来たわけだが――実はお内儀さん、少し手荒いかも知れねえが、お前さんをはだかにして……」
「えッ?」
「お前さんに裸になってもらって、それをわっしが痛くねえように縛って上げるから、それでもってお内儀さん、先刻さっきわっしがお松と一緒にほうり出されたお店の先へ明日の朝まで辛抱しんぼうして立っていてもらうんだ。いいかえ、暁方あけがたになったら人も通るだろう、そうなるといいお内儀さんが素裸すっぱだかで立っているのを見過ごしもできめえから、何とかして上げるだろう、おさびしくもあろうがしばしの辛抱だ、幸いここに二歳にさいがいる、こいつをおとぎに……」
「お助け下さい――」
 二人は声を合せ