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武装せる市街

黒島傳治




     一

 五六台の一輪車が追手に帆をあげた。
 そして、貧民窟を横ぎった。塵埃ほこりの色をした苦力クリーが一台に一人ずつそれを押していた。たった一本しかない一輪車の車軸は、巨大な麻袋マアタイの重みを一身に引き受けて苦るしげに咽びうめいた。貧民窟の向う側は、青い瓦の支那兵営だ。
 一輪車は菱形の帆をふくらましたまゝ貧民窟から、その兵営の土煉瓦のかげへかくれて行った。帆かげは見えなくなった。だが、車軸はいつまでも遠くで呻吟うめきを、つゞけていた。
 貧民窟の掘立小屋の高梁稈の風よけのかげでは、用便をする子供が、孟子も幼年時代には、かくしたであろうと思われるようなしゃがみ方をして、出た糞を細い棒切でいじくっていた。
 紙ぎれ、ボロぎれ、藁屑、披璃のかけらなど、――そんなものゝ堆積がそこらじゅう一面にちらばっていた。纏足てんそくの女房は、小盗市場の古びた骨董のようだ。顔のへしゃげた苦力は、塵芥や、南京豆の殻や、西瓜の噛りかすを、ひもじげにかきさがしつゝ突ついていた、[#「、」はママ]彼等は人蔘の尻尾でも萎れた菜っぱでも大根の切屑でも、食えそうなものは、なんでも拾い出してそれを喰った。
 一輪車が咽ぶその反対の方向では、白楊の丸太を喰うマッチ工場の機械鋸が骨を削るようにいがり立てた。――青黒い支那兵営の中から四五人の白露兵が歩き出して来た。
要不要ヨウブヨウ?」
 客を求める洋車ヤンチョむれが、どこからか、白露兵の周囲にまぶれついた。苦力のズボンの尻はフゴ/\していた。彼等は、自分だけさきに客を取ろうと口やかましく争った。
「要不要?」
 ロシヤ人は、洋車の群に見むきもせず、長い脚でのしのしと歩いてきた。
 彼等は、昔、本国から極東へ逃げ、シベリアから支那へ落ちのびて来た。着のみ着のまゝの彼等の服装は、もう着破って、バンド一条さえ残っていなかった。が、彼等は、金がなくても、どこからか、十年前の趣味に合致した服や外套を手に入れてきた。汚れた黒い毛皮のコサック帽も、革の長靴も、腰がだぶつき、膝がしまっている青鼠のズボンも、昔に変らぬものを、彼等は、はいていた。
 頭も肩も、低い支那人から遙かに高くそびえていた。
「今月は、いくら月給を貰ったい?」
 支那服の大褂児タアコアルの男が、彼等と並んで歩きながら、話しかけていた。これは山崎である。
「一文も貰わねえや。」
「先月は、いくら貰ったい?」
「先月だって、一文も貰わねえや。」
「先々月は?」
「先々月だって一文も貰わねえや。」
「ひっぱたいたれ!」支那服の山崎は声をひそめた。「かまうもんか、ひっぱたいたれ! あの大男の張宗昌のぶくぶく肥っている頬ッぺたをぴしゃりとやったれよ。」
 白露兵は、ふいに、愉快げに上を向いて笑いだした。
 彼等は、頭領のミルクロフが、張宗昌に身売りをした、そのあとについて、山東軍に買われて来た。いつも、せいの低い、支那馬にまたがり、靴を地上にひきずりそうにして、あぶない第一線ばかりに立たせられた。ある者は、戦線で、弾丸にあたってたおれてしまった。ある者は、びっこになり、片目になり、腕をなくして追っぱらわれた。ある者は、支那人の大蒜にんにくの匂いに愛想をつかして逃亡した。仲の悪い支那兵と大喧嘩をした。
 彼等が戦線からロシヤバーに帰って来る時、皮下の肉体にまで、なまぐさい血と煙硝の匂いがしみこんでいた。
「畜生! 女郎屋のおかみに、唇を喰いちぎられそこなった張宗昌が何だい! 妾ばっかし二十七人も持ってやがって!……かまうもんか。ひっぱたいてやれ!」
 白露兵は、なお嬉しげに上を向いて笑った。
 彼等の眼のさきの、マッチ工場のトタン塀に添うて、並んでいるアカシヤは、初々ういういしい春の芽を吹きかけていた。
 そのなお上には、街の空を、小さい烏が横腹に夕陽を浴びて、嬉しげに群れとんでいた。

     二

 工場は、塵埃と、硫黄と、燐、松脂まつやになどの焦げる匂いに白紫ずんでいぶっていた。
 少年工と少女工が、作業台に並んで、手品師の如く素早く頭付軸木を黄色の小函に詰めている「函詰」では、牛を追う舌打ちのように気ぜわしい音響が絶えず連続して起っている。全く歯の根がゆるむような気ぜわしさだった。
 乾燥室から運ばれる頭付軸木を手ごころで一定の分量だけ掴んで小函の抽斗ひきだしに詰め、レッテルを貼った外函にさす、それを、手を打ち合わす、拍手のような動作のように、一瞬に一箇ずつ、チャッ、チャッとやってのけた。七つか八つの遊びざかりの少年や少女も営々と気ばっている。
 支那人は、小さい子供は籠に担い、少しおおきいのは、歩かして、街へ子供を売りにくる。それを七元か、十元で買い取った者が半分まじっていた。幼年工もあった。おさなくって、せいがひくいので、その子供達は、ほかの男女工達と同列の椅子に腰かけては、作業台に手が届かなかった。床に盆を置いて貰って、その上へ小さな机子ウーズ(腰かけ)を置き、そこへ腰かけて、ッちゃい、可愛らしい手で、ツメこんでいた。
 彼等は、みな、灰黄色の、土のような顔になっていた。燐寸の自然発火と、外函の両側に膠着された硝子粉のため、焼きただらした指頭には、黒い垢じみた繃帯を巻いていた。
 作業にかゝると休憩まで、彼女達と彼等は、用事上で喋ることも、雑談することも禁じられていた。彼等は、六時間を、たゞ、唖の小ロボットのように、手を動かすばかりで過すのだった。
 時々シュッといったり、シャッといったりする。黄燐マッチが、自然と摩擦して一刹那に発火する音響だ。その時、子供達は、指を焼くのだった。同時に、よごれた彼等は、ユラ/\と立上る薄紫の煙に姿がボカされた。
 一人として、一言も発する者がなかった。が、そこには、騒々しい雑音と、軋音あつおんが、気狂いのように溢れていた。
 幹太郎は、そこの工場をぐる/\まわり歩いていた。
 彼も、鞭と拳銃を持っていゝことになっていた。彼の下には、支那人の把頭バトウがついていた。把頭も木の棒を持っていた。その木の棒は、相手かまわず、ブン殴っても、軟らかい手や脚を叩き折ってもかまわないことになっていた。しかし、日本人と把頭の前では、ちり/\して勤勉振りを示そうとつとめる工人達には棒も拳銃も更に必要がなかった。
 彼は今年二十五歳の青年だった。ひどく気むずかしやで、支那人をよりよく働かせることが嫌いなような、監督振りがまずい、理窟ッぽい男だった。
 塵埃と共に黄燐を含んだ有毒瓦斯は、少年達へと同様に、彼の肺臓へも、どん/\侵入して来た。
 ――君は、一体、支那人かね。それとも日本人かね? 最近、瑞典スエーデンマッチの圧迫を受けてぷり/\している不機嫌な支配人は、彼がむしろ支那人に肩を持つ癖があるのを責めて、皮肉な辛辣な眼つきをした。
 幹太郎は、親爺が、とうとうヘロ※(「やまいだれ+隠」、第4水準2-81-77)いん者となってしまった。それと、これを思い合わして淋しげな顔をした。日本人はヘロを売ってもかまわない。しかし、支那人の如くヘロを吸ってはいけない。そのヘロを親爺は、支那人の如く吸飲した。支那人の如く※(「やまいだれ+隠」、第4水準2-81-77)者となってしまった。
「俺れらは、日本人仲間からも嫌われているんだ、どうも、追ッつけ、俺れも、この工場からお払箱か……」
 実際、幹太郎は、すれッからしの日本人よりも、支那人に対して親しみが持てた。又、工人達も、彼に対して、ほかの小山や守田に対するよりも、親しく、ざっくばらんであるように見えた。

「お前あといくつだい?」
 軸削機をがちゃ/\ならして、木枠に軸木を並べている房鴻吉ファンホウチに、彼は、なでるように笑ってみせた。ファンの頭は、ホコリで白くなっていた。平べったい鼻の下には、よごれた大きい黄色い歯が、にやりとしていた。
「あといくつだい?」
「三ツ、三ツ」房は、あたふたと答えた。枠台車わくだいしゃに三台のことだ。
「早くやれ。」
「すぐ、すぐ。」
 房は小さい軸木を林のように一面に植えつけた木枠に止め金をあてがった。ピシン/\とつまった音がした。
 幹太郎は、そこから、浸点作業へ通り抜けた。焼くような甘味のある燐の匂いが、硫黄や、松脂ともつれあって、鼻をくん/\さした。
 開け放された裏の出入口からは、機械鋸と軸素地剥機じくそちはくきが、歯を削るように、ギリ/\唸っていた。生の軸木をにとってしらべていた小山は、唾を吐くように、かますにポイと投げて汚れた廊下をかえってきた。
「君、ユイの奴をどう思うね?」
 幹太郎の受持の、常から頭の下げっ振りが悪い変骨の于立嶺ユイリソンを指しているのは分っていた。
「どうも思いません。」
「あいつの仕事は、いつもおおばちだから、浸点で屑が出来るこた知っとるだろうね?」
「そうでもありませんよ。」
「君の眼に、屑でも屑でないと見えるんならそれでもいゝさ。」
 あんまりしつこく支那人の肩を持っていると、邪推されるのは癪だが、小山と一緒になって自分の受持の者を悪く云うのは、なお更、自分が許さなかった。軸列と、浸点と、乾燥室は幹太郎の受持になっていた。
「あんな奴を放って置いちゃ、北伐軍でもやって来た日にゃ、手がつけられなくなっちまうんだ!」
 小山は傷つけられたものを鼻のさきに出して鳴らした。
 小山がむきになると、幹太郎は、ワザと、于の尻を押してみたい気持を感じるのだった。小山は、下顎骨が燐の毒で腐り、その上、胸を侵され、胴で咳をしていた。于は、人を小馬鹿にしたような、フーンと小鼻を突き出したりする支那人ではあった。
 彼等は歩いた。
※(「口+愛」、第3水準1-15-23)アイヤ!」
 その時、小函を一ダースずつ紙に包み、更に大きい木箱に詰めている包装で、ふいに、シユーッシユーッと空気を斬る音響が起った。
 仲間の工人から、工場での美人とされている、しかし、日本人が見ると、どうしても美しいとは思われない、平たい顔の紅月莪ホンユエウオがびっくりして身を引いた。脚が弱々しく細かった。木箱の中のマッチが、すれて、発火してしまったのだ。紫黒の煙が、六百打詰の木箱から、四方へ、大砲を打ったように、ぱあッとひろがった。煙に取りまかれた紅月莪は、指を焼いたらしかった。
 小山は、骨ばった手を口にあてゝ煙にむせながら、こっちから、じろりと眼をやった。焼いた手を痛そうに、他の手で押えながら顔をあげて、ぐるりをはゞかるように見わたしたホンは、小山の視線に出会すと、すぐ、まだ煙が出ている木箱の方へ眼を伏せた。
 幹太郎は、小山の下顎骨の落ちこんだ口元が、苦るしげに歪むのを見た。ホンは、なお気がかりらしく、今度は恐る恐る、上目遣いに職長の方を見た。
 依然として、濛々とゆれている煙に、小山は、なお、胴ぐるみにむせていた。
 幹太郎は事務所の方へ歩いた。

     三

 蒋介石の第二次の北伐と、窮乏した山東兵の乱暴と狼藉が、毎日、巷の空気をかき乱した。
 名をなすために排日宣伝を仕事とする者もあった。何故、排日をやるかときくと、食えないからやるのだ、と答えたりした。
 六カ月も、七カ月も、一元の給料さえ、兵卒に支払わない、その督弁トバンの張宗昌は、城門附近で、自動車から、あわれげな乞食の親子を見て、扈従こしょうに、三百元を放ってやらした。張という男は、こんな気まぐれな男だった。
「鬼の眼に涙だ!」
 支那人達も、張宗昌をボロくそに、くさした。
 街の空気は、工場の工人達に、ひゞいてこずにはいなかった。
 あてがわれる機密費を、自分の貯金として、支那にいる間に、一と財産作って帰る腹の山崎は、M製粉や、日華蛋粉たんぷん、K紡績、福隆火柴公司ホサイコンスなどを順ぐりに、めぐり歩いていた。
 金を出して、支那人から、あんまりあてにならない情報を一ツ/\買いとるよりは、実業協会の情報を、そのまゝ貰って、それで、報告のまに合わせる方が気がきいている。山崎は、それをやっていた。そして、あてがわれる金は、自分の懐へ取りこんだ。
 彼のポケットには、福隆火柴公司の社員の名刺がはいっていた。日華蛋粉の外交員の名刺も這入っていた。勿論、燐火の注文を取って来た、ためしもなく、用材の買い出しに行ったこともなかった。
 工場の出入口まで来ると彼は、そこで煙と塵埃と、不潔な工人や、鼻をもぎあげる硫黄の臭気に、爪を長くのばした手を鼻のさきにあてゝたじろいだ。今、ロシヤ兵と、別れて来たばかりだ。
 彼は話しも、顔の恰好も、歩きっ振りも、支那人と全く変らないのを自慢にしていた。手洟てばなをかんで、指についたはなをそこらへなすりつけるのは平気になっていた。上に臍のついた黒い縁なし帽子をかむり、服も、靴も、支那人のものを着けている。爪を長くのばしているのも、支那人の趣味を真似たのだ。たゞ、一ツ、彼の気づかない欠点は、白眼と黒眼のさかいがはっきりしすぎている尖った眼だ。これだけは、職業と人種とをどうしても胡麻化すことが出来なかった。どんよりと濁っている支那人とは違っていた。裏から裏をこそ/\とつゝいて歩く職業は、ひとりでに形となって外部に現れた。
 うぬぼれやの山崎は、自分の欠点を知らなかった。それについて面白い話がある。が、丁度、彼が作業場の入口へやってくると、そこへ幹太郎が、鼻のさきへ黄色いゴミをたまらして内部から出て来た。幹太郎は急ににこ/\笑って何か云った。
「何だね?」と山崎はきいた。
「とても面白い種ですよ。」
「何だね?」
「すぐ云いますがね。――云ったら、情報料をくれますか? 五円でいゝですよ。たった五円でいゝですよ。」
「出すさ、物によっちゃ出すさ。」
「呉れなけりゃ、山崎さん、儲かりすぎて、金の置き場に困るでしょう。」
 山崎は、唇から気に喰わん笑いをこぼした。
「何だね?」
「――土匪が出たんですよ。昨日、※(「さんずい+樂」、第4水準2-79-40)ロンコーの沼へ鴨打ちに行ったら、土匪がツカ/\っと、六、七人黄河の方からやって来たんですよ。」
 幹太郎は笑い出した。
 情報料は冗談だと云いたげな、罪のなげな笑い方をした。
「乗って行った自転車を打っちゃらかして逃げて来たんですよ。ケントの上等だったんですがな。」
 山崎は、出て来る苦笑をかみ殺していた。国家(?)の安否にも関係する重大なことをあさっているのに、何ンにもならんことで茶化すんねえ! そんな顔をした。それに気づいた幹太郎は、彼の方でも、次第に硬ばった、不自然な笑い方になった。
 そこへ、胴ぐるみの咳をつゞけながら小山が出て来た。
 一日分の請取り仕事を終った工人達は、色のあせてしまった顔で出口ヘやって来はじめた。幹太郎は、山崎と一緒に事務室へ歩いた。工人は一日の作業高を出勤簿に記入して貰う。食事札を受取る。そのどよめきと、せり合いが金属的な支那語と共に、把頭バトウの机の周囲で起った。
 あたりは薄暗くなっていた。
「ここじゃ、相変らず温順そのものだな。」
 山崎は、もみ合っている工人達をじろりと一瞥いちべつした。そしてささやいた。
「そこどころか、……幹部にまで不穏な奴があるんだから。」
 小山が答えた。
「ふむむ、総工会のまわし者がもぐりこんどるかどうかは、なか/\吾々日本人にゃ分からんもんだ。用心しないと。」
「なに、そんなもぐりこみなら、おとりを使やアすぐ分るさ。」
「ところが、此頃は、その囮に、又囮をつけなきゃあぶなくなっていますよ。」
「チェッ! 如何にも訳が分らねえや。」
 小山はつゞけて咳をした。そこらへ痰を吐きちらした。
 三人は事務室へ這入った。そこも燐や、硫黄や、塩酸加里などの影響を受けて、すべてが色褪せ、机の板は、もく目ともく目の間が腐蝕し、灰色にくろずんでいた。
 三円で払下げを受けた一ちょうの古鉄砲を、五十円で、何千挺か張宗昌に売りつけた仲間の一人の内川は、憂鬱で心配げな暗い顔をして二重硝子の窓の傍に陣取っていた。その顔は、この工場と同じように、規則正しくかたまって、乾き切っていた。これが支配人である。
「なんだ、あんたが来ると馬鹿に大蒜にんにくくさいや。」
 内川はブッキラ棒に笑った。その笑い方までが乾燥していた。
「それゃありがたい。これで大蒜の匂いがすりゃ、支那人と一分も変りがないでしょう。どうです?」
 山崎は、自慢げに、幇間ほうかんのような恰好をした。
「自分でそう思っていれば、それが一番いゝや、世話がいらなくって。」
我和中国人不是一様※(「口+馬」、第3水準1-15-14)ウンホツンゴレンブシイヤンマ※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)不一様ソンモブイヤン那児有不一様的様子ナアルブイヤンテヤンス?」
 急に山崎は支那語で呶鳴った。どこが俺ゃ支那人と異うのだ――というような意味だ。しかし、それは、明かに冗談でむしろ、内川を喜ばす一つの手段の如く見えた。
 彼は、古鉄砲でウンと儲けた内川から約束通りのものをせしめようとこころがけていた。今にも出してよこすか、今か、今か、と待っていた。――幹太郎は、それを知っていた。
 それは、実に、見ッともないざまだった。
 彼は、えた宿なしの犬のように、あらゆる感覚を緊張さして、どこでも、くん/\嗅ぎまわっていた。自分より新米の者の前では、すっかり、その本性の野獣性を曝露する小山は、支配人が居るとまるで別人になった。無口に、控え目になった。山崎は、内川に使われている人間でないだけ、まだ、無雑作で平気だった。しかしそれも、故意に無雑作をよそおっていた。無雑作のかげから、迎合する調子がとび出した。
 小山は、支配人が興味を持つことなら、もう十年間も土地つちを踏んだことのない内地の、新聞紙上だけの政治にも、なか/\興味をよせた。――よせた振りを見せた。
 彼は、内川の暗い顔を見て、すぐそれに反応した。
「めった、今度は去年あたりよりゃあいつらの景気がいいと思ったら、独逸が新しい武器を提供しとるそうじゃありませんか?」
「うむむ。」
 内川は唸った。
「どれっくらいですかな? その数量は?」
 今朝来たばかりの封書の口を引っぺがしてぬすみ見した。ぬすみ見して、その数量をも知っていた。それを、小山は、それだけは知らん振りをした。
「紅毛人は、やっぱし、教会だとか慈善だとか云ってけつかって、かげじゃなか/\大きな商売をやっているね。こちとらとは、けたが異うわい。」
「只の学校、只の病院なんて、まるっきり、奴等の手ですな。どうしても。」
「うむむ。」
「しかし、今度は、いくら精鋭な武器を持って蒋介石がやって来たって、大人たいじんの方でも背水の陣を敷いてやるでしょう。どちらかというと、大人の方が、どうしても負けられない戦じゃありませんか。」
 彼は、専門家の山崎の前で、一ツかどの意見を示したつもりだった。顔は得意げになった。山崎はそれに気づいた。
「古鉄砲の張宗昌が、新しい独逸銃に負けるっていう胸算用だな……」
「なに、張大人が勝ったって負けたって、何もかまいやせんじゃないか。そんなことまで、何も鉄砲を売った人間の責任じゃないですよ。」
 髯のない山崎は、その唇の周囲には皮肉げな、君達はこんなことを云ったり、こねたりする柄か! と云いたげな微笑を含めた。
「北伐軍にゃ、まだ/\政治部を出た共産党が、だいぶまじっとるんだよ。」内川は、にが/\しげに囁いた。「こいつだけは、いくら共産党狩りをやったって、どこまでもだにのように喰いついとるという話だな。――そんな共匪どもがこの町を占領したらどうなるんだね?――一体、どうなるんだね?」
「共産党は空気ですよ。隙間のあるところなら、どこへだって這入りこんで行くんでさ。しかし、それよりゃ、僕は、北伐軍がここまで漕ぎつけて来るだけの力があるかどうか、それが見ものだと思ってるんだがな。そいつを見きわめて置く方が先決問題だと思ってるんだがな。」
「何で、それを見きわめるかね?」
「金ですよ。」と、山崎は冷笑した。「十万の大兵を動かすには、二十万元や三十万元あったところで、二階から目薬にもなりませんからな。」
「金なら、総商会で最初に四百万円、あとから二百万円出しとるさ。」
「へええ、それゃ、又、誤報じゃないですな?」山崎は、又、冷笑するような声を出した。が、鯛でも釣ったように喜んだのは、色あせた机にツバキがとんだので分った。
「たしかにそれじゃ六百万円出したんですな。……そんならやって来ません。大丈夫やって来ません。それは結構なこってすな。総商会が六百万円献金したというのは結構なこってすな。――なかなか結構なこってすな。」
 小山には、山崎が、馬鹿々々しくはしゃぐ理由がちょっと分らなかった。

     四

 内川は三ツ股かけと呼ばれていた。
 カタイ大ッピラな燐寸工場以外、硬派と軟派を兼ねているからだ。
 ここの硬派、軟派は、新聞社内の二つの区別じゃ勿論なかった。武器を扱う商売が硬派だった。そして、阿片、モルヒネ、コカイン、ヘロイン、コデイン等を扱う商売が軟派だった。
 すべて、支那人相手の商売である。
 広い、広い、渾沌こんとんたる支那内地に居住する外国人の多くは、この硬派か軟派かを本当の仕事としていた。英国人もそれをやった。フランス人もそれをやった。ドイツ人もスペイン人もそれをやった。そして一方では支那人を麻酔さした。痴呆症となしおわらしめた。他方では軍閥や匪徒に武器と弾薬を供給した。
 戦乱と掠奪と民衆の不安は、そこからも誘導された。
 内川は頑固な一徹な目先の利く男だった。馬の眼をくり抜くのみならず、土匪の眼玉だってくり抜いたかも知れない。彼は、物事に熱中しだすと、散髪する半時間さえ惜しがった。胡麻塩頭をぼう/\と散乱さしひげむじゃのまま、仕事に打ちこんでいた。工場へはよく暗号の電話がかかって来た。
 三号十八匹、今日、ツブシに到着。と言ってくれば、四千円は動かなかった。豚の鼻十、五目飯で焚き込み。と云えば、十挺の鉄砲と、それに相当する弾薬、所属品が売れたことだ。
 山崎は、こんな、内川の秘密を知っていた。
 いろいろな情報や、日々の変遷、事件が手に取るように速急に這入る機関があるだけでも、工場を兼ねていることは、内川に有利だった。支那の巡警や、鉄道員や、税関吏は、金持をせびって余得をせしめるのが昔からの習慣となっている。内川はそれをうまく利用していた。
「工場へ来とったって、どっちが本職だか分らねえんだからな。あんまり一人でうまい汁ばかり吸っていると、今に腹が痛みだすんだから。」
「それを云うなよ、君、それ、それを云うなよ。」
 内川は、なぞをかけようとする山崎を見抜いて、おどけたように頸をすくめ、手を振って、茶化しようと努めた。
「こいつはまるで、軽業の綱渡りだからね。まかりまちがえば、落っこちて死んじまうんだからね。本当にこうして坐っていたって、しょっちゅう、ヒヤ/\しているんだよ。」
「落っこちる人は、あんたじゃなくってボーイやほかの野郎ですよ。」
「いや/\なか/\そうとばかりは行かないんだ、そうとばかりは……。」
 支那人は、誰でも、一号か、二号か、三号か、どれかがなければ、一日だって過して行けなかった。そんな習慣をつけられていた。
 督弁トバンでも、土豪劣紳でも、苦力クリーでも、乞食でも。一号、二号、三号……というのは阿片、ヘロイン、モルヒネなどの暗号だ。
 拒毒運動者はそれと戦った。
 その輸入は禁止されていた。その吸飲も禁止されていた。
 彼等に云わすと、阿片戦争以来、各国の帝国主義が支那民族を絶滅しようとして、故意に、阿片を持ち込むのだ。それにおぼれしめるのだ。しかし、いくら禁止しても、その法令は行われなかった。網の目をくゞる。
 没収されても罰金をとられても、又別の方法で持って来る。メリケン粉の中へしのびこましたり、外の薬品にまぎれ込ましたり、一人、一人の腹に巻きつけたり。どうにも、こうにも防ぎきれなかった。山崎はそれを知っていた。
 若し、内川が持って来なくっても、それは、ほかの誰れかゞ持って来るのにきまっていた。
 若し、日本人が持って来なくっても、独逸人か、ほかの外国人かゞ持って来るにきまっていた。――山崎は、そこで、内川を援助する理由を見つけた。誰かゞ持って来て欲求を満してやらなけりゃ、中毒した支那人が唸り死んじまうだろう。それなら彼は同胞に味方すべきだ。仏蘭西人や、独逸人は、むしろ、図太く、平気の皮でむちゃくちゃな数量を、輸入していた。六千トンの船にいっぱい積みこんで来たりした。それに較べると日本人は、こせ/\したあの内地のように、あまりに小心に、正直にすぎる。……
 だが、内川は、例外的にケチン坊で、不当に、むくいなかった。山崎はつむじを曲げた。
 彼は、内川とS銀行の高津が、鉄砲で、どれだけ掴んだかを知っていた。
 硬派は軟派よりはもっと仕事が困難だった。すべてを絶対に秘密にやらなけりゃならなかった。支那官憲は極度にやかましかった。軟派が曝露して罰金や牢屋ですむところを、硬派は命をかけなければならなかった。武器を持っていて見つかることは、支那では命がけの仕事だ。これこそ本当の軽業の綱渡りだった。古い錆のついた小銃弾を、ほかの屑物と一緒に買い取った屑屋が、何気なくそれをいじっていて、そこを巡警に見咎められ、ついに死刑にされたことさえあった。
 それほどやかましいのは、それほど、武器が大切であることを意味していた。
 殊に小軍閥や、土匪は、武器なら人を殺しても、それを奪取した。武器ならいくら金を出しても、それを買い取った。そこで、土匪のうわ前をはねるのさえ、実は容易な業だった。
 だから、売込の妨害をされないためだけにでも、五百やそこらは放り出すべきだ。
 それを、下積みの膳立ては、すべて、彼――山崎がちゃんとこしらえてやったんじゃないか。それを内川はむくいようとしなかった。
 山崎は、あんまり気長く放って置くと、自分の努力が時効にかゝっちまう、と気をもんだ。
 しかし内川が、彼を蹴るなら蹴るで、彼は又、彼として、考えがあった。若し万が一、今度百や二百やの眼くされ金で胡麻化そうとするんなら、その時は、その時で、今後の商売を、全く、上ったりにして呉れるから。
 山崎は、内川等がどんなことをやっているか、それを知っていた。そして、彼は、それをあげてやろうと思えばあげてやれるのだった。
 彼は、自国人であるために、それを庇護していた。
 それは、ある秋のことである。市街から離れた田舎道を、なお、山奥へ、樹々が枯色をした深い淋しい林へ、耳の長い驢馬ろばに引かれた長い葬式の列が通っていた。
 棺車は六頭の驢馬に引かれていた。驢馬は小さい胴体や、短かい四本の脚に似合わず、大きい頭を、苦るしげに振り振り、六頭が、六頭とも汗だくだくとなっていた。そのちぢれたような汚れた毛からは、湯気が立った。
 棺は死人をとむらうにふさわしく、支那式に、蛇頭や、黒い布でしめやかに飾られていた。喪主らしい男は、一人だけ粗麻の喪帽をかむり、泣き女はわんわんほえながらあとにつゞいていた。
 町で死んだ者が、郷里の田舎へつれかえられているのだろう。
 だが、一人の死屍に、そして、山の方へだが、まだ、山へはさしかからず平地をつゞいて行くのに、どうして六頭もの馬が、湯気が立つほど汗をかいているのだろう。
 どうして、一人の死屍がそんなに重いのか?
 巡警は、不思議に思った。
 暫らくは安全だった。普通葬列は、馬に引かれず、人の肩に棒でかつがれて行くべきだ。それも巡警の疑念を深くした。が、二人の巡警は、棺車を守る七八人の屈強な男の敵じゃなかった。そして葬列は林へ、山へと近づいて行った。しかし、林へ這入ってしまうまでには、まだ、もう一つの村があった。
 村のたむろ所には巡警のたまりがあった。
 行儀正しくあとにつゞいている粗麻の喪主と、泣き女はくたびれると、欠伸あくびをして変に笑った。それが一人の巡警の眼にとまった。
 そこで、葬列が村の屯所の前にさしかゝった時、状態が急に変化した。棺車は停止を命じられた。
 銃と剣をつけた巡警は、車を取りまいた。
 棺桶を蔽う天蓋や、黒い幕は引きめくられた。桶のふたはあけられた。蓋の下は死屍でなく、鉄砲と手榴弾が、ずっしりと、いっぱいに詰めこまれてあった……。
「うへエ!」
 山崎はそんなことをも知っていた。内川は人の意表に出る男だ。

     五

 十王殿シワンテン附近に、汚ない、ややこしい、ふんどしから汁が出るような街がある。
 幹太郎はそこの親爺の家に住んでいた。
 そこには、彼の二人の親と、母親のない一人の子供と、二人の妹が住んでいた。彼は、そこから、商埠地しょうふちの街をはすかいに通りぬけて工場へ通った。
「あの、よぼよぼのじいさんは日本人ですか?」
 邦人達は、黄白の眼が曇った竹三郎のことを、知りあいの支那人からきかされると、
「なに、あいつは朝鮮人だよ。」
 と軽蔑しきった態度で答えた。
 ここでは、邦人達は、労働することと、※(「やまいだれ+隠」、第4水準2-81-77)者となることを、国辱と思っていた。
 邦人達は、つい三丁先へ野菜ものを買いに行くのでも、洋車くるまにふんぞりかえって、そのくせ、苦力にやる車代はむちゃくちゃに値切りとばして乗りつけなければ、ならないものと心得ていた。
 落ちぶれた、日本人が、苦力達の仲間に這入って、筋肉労働を売っているとする、――そういう者も勿論あった。
 と、
「ふむ、あいつは朝鮮人だ!」
 洋車の上から、唾でも吐きかけぬばかりに軽蔑した。
 親爺の竹三郎は、その軽蔑を受ける人間の一人だった。
 彼は、煙槍エンジャンと、酒精アルコールランプと、第三号がなければ生きて行かれなかった。彼は、一日に一度は必ず麻酔薬を吸わずにはいられなかった。体内から薬のが切れると、うずくような唸きにのた打った。それは、桶から、はね出した鯉のように、どうにもこうにも、我慢のしようがなかった。
 幹太郎は、その親爺が、見るからに好きになれなかった。
 親爺は仕事らしい仕事は殆んど出来なくなっていた。そして親爺の代りは、妹のすゞがした。彼女は、今、三、四封度ポンドを携えてくるために内地に帰って行っていた。
 邦人達は、たいてい、この軟派を仕事としている。饅頭屋、土産物商、時計屋、骨董屋などの表看板は、文字通り表看板にすぎなかった。内川は大量を取扱う卸商とすれば、彼等は小商人だった。――そんな商売をやる人間がここには一千人からいた。
 竹三郎もその一人だった。
 阿片は、苦力や工人達には、あまりに高すぎる。そこで、阿片の代りに、もっと割が安い、利き目が遙かにきつい三号含有物がここでは用いられた。阿片なら、三カ月間、吸いつゞけても、まだ中毒しない、しかし、ヘロインは、十日で、もう顔いろが、病的に変化するのだった。
 ――これにも主薬と佐薬がある。調合がうまくなければ、売行はよくなかった。そして、その調合法は、それぞれ、自分の秘密として家伝の如く、他人には容易にそれを話さなかった。竹三郎は、いろいろな仕事に失敗して、とうとう、一番、最後の切札に、この三号品を扱い出した。当初、売行が悪いのに、苦るしんだ。何もかも、すべてに失敗しても、彼は内地へは帰れなかった。彼は内地を追われて来たのだ。
 いくらでも、めちゃくちゃに金の儲かるボロイ商売のように云われている薬屋でも、やって見れば、やはり、苦労と、骨折がかゝるものだった。
「畜生! 今度は、俺がためしに吸うて見てやる。それくらいなことやらなけゃ、商売はどうしたって、うまくは行かんのだ。」
 こんなことを云っていた時には、まだ薬の恐ろしさは、彼にも、妻にも分っていなかった。
「阿呆云わんすな。――中毒したらどうするんじゃ。」――お仙も笑っていた。
「そんな呑気なことを云っちゃいられないぞ。どうしたって俺は、日本へは帰れないんだ!」彼は品物がだんだんに売行きがよくなると、彼の顔色は、古びた梨のように変化した。
 麻酔薬は、体内の細胞を侵していた。
 彼は、蟻地獄に陥る蟻だった。どんなに、もがいても、あがいても、吸わずにいられなくなっていた。
 すゞも、俊も、幹太郎も、内地からここへ来て、まる二年ばかりしか経っていなかった。
 すゞは、「快上快」の調合から、原料の補給や、時には、それを裏口から、足音をしのばせて、そッと這入ってくる青い顔の支那人に売ることもていた。
 俊は、トシ子が置いて帰った一郎をあやしてたわむれた。一郎は幹太郎の子である。トシ子は、彼と、家を嫌って帰ってしまった妻だ。そして、俊は以前、トシ子と仲がよかった。
 姉の方のすゞは、トシ子が帰ってしまうと、家のことに、心から身を入れて働くようになった。
 原料の補給に内地へ帰らされるのはいつもすゞだった。彼女も、また、危険を冒してもそれをやった。
 やかましい税関をくゞり抜けて、禁制品を持ちこむのは、荒くれた男よりも、女の方が、――殊にまだどこかあどけない娘の方が、はるかにやりよかった。竹三郎は、初めて、幹太郎とすゞと、幹太郎の妻のトシ子を内地からつれて来しなに、もう、早速、一封度ずつ、三人に、肌身につけて上陸するように強いた。
 幹太郎は、その時、親爺の破廉恥はれんちさ加減に、暫らく唖然とした。二人の兄弟だけになら、まだ我慢が出来た。ところが、親爺は貰って四月しか経たないトシ子にも、平気の皮で云いつけた。彼は、トシ子と一年半ばかりで別れなければならなくなった原因の一半は親爺にあるような気が、今だにしている。人の気持が分らないのにも程があった。
 だが、第一回は、はずかしがったり、気をもんだりしたすゞと、トシ子が、うまく、やすやすとやりおおせた。親爺と幹太郎は上陸すると、すぐ眼のさきにある、税関のくぐりぬけがかえって面倒だった。女は、すらすらと通ってしまった。
 親爺は、一度味をしめると、それをいいことにして、またすゞを内地へ帰らした。
 すゞは、二回、三回のうちに税関をだまくらかすのを痛快がりだした。
「お前、あの時、どんな気がしたい?」
 露顕した時の恐怖と、親爺への不服が忘れられない幹太郎は、あとから、すゞに訊いた。
「どんな気もしない。ただお父さんが気の毒で可哀そうだっただけ。」
「お前は、腹のまわりに袋に入れたあの粉をまきつけて、――おや、妊娠三カ月にも見えやしなくって? なんて、ひどく気に病んどったじゃないか。」
「それゃ、気になったわ。帯がどうしても、うまく結べないんだもの、――でも、そんなこと、なんでもなかった。ただお父さんが可哀そうだったの、始めて済南へ連れて来る子供とそれから花嫁さんにまでこんなことをさせなけりゃならんかと思ったら、お父さんが可哀そうで、涙がこぼれたわ。」
「なあに、見つからせんかと、びくびくものだったくせに、今になって、ませた口をたたいてやがら。」
「じゃ、兄さん、あの時から、こっちの暮しが、こんな見すぼらしいものだって分ってて?」
「俺ら、なんぼなんだって、こんなにひどいとは思わなかったよ。」
「私、ちゃんと分ってた。……おじいさんがなくなったのに、お母さんもつれずに、たった一人っきり、お父さんが帰っちゃったでしょう、あれで、もうすっかり、すべてが分るじゃないの。」
「へええ、貴様あとからえらそうなことを云ってやがら。」
 妻に子供を残されて、逃げ帰られてしまってから、二人はお互にかたく結びつくようになった。
 第三者にいわすと、幹太郎はもっといい妻がほしくって、トシ子をヘイ履の如く捨て去ったのだった。ところが、一度、妻とした女を、かえすということは、功利的な打算だけで、そんなに、たやすく出来得ることじゃなかった。旧式な彼には、いろいろな迷いや、苦悩や、逡巡があった。それを知っているのは、すゞだけだ。彼は、妹が、しみ入るように好きになった。子供も彼女になついた。すゞは、浅草の鳩のように、人なれがしていた。つかまえようとすると、鳩が、一尺か二尺かの際どいところで、敏感に、とび立って逃げる。そんなかしこさがあった。
 彼女が内地へ帰ったのは、もう、これで七回目だ。

     六

 ちまたの騒々しさと、蒋介石の北伐遂行の噂は、彼女が内地へ着いた頃から、日々、頻ぱんになって来た。
 在留邦人達の北伐に対する関心は、幾年かを費して、拵え上げた財産や、飾りつけた家や、あさり集めた珍らしい支那器具や、生命を、五・三十事件当時の南京、漢口の在留者達のように、無惨に、血まみれに、乱暴な南兵のため踏みにじられやしないか、という一事にかかっていた。
 彼等は、誰かからそういう心配をするように暗示された。彼等はそのことのために、居留民団で会議を開いた。二人の選ばれたものが、領事館へ陳情に出かけた。小金をためこんでいる者も、すっからかんのその日暮しの連中も、同様に暗示にかかって、そのことにかゝずらった。
 絶えまない軍閥の小ぜり合いと、騒乱の連続は、その暗示をなお力強いものにした。――実際、町ではしょっちゅう騒乱が繰りかえされていた。遊芸園の東隣の女子学校へ、巡邏じゅんらの支那兵が昼間闖入ちんにゅうした。
 支那兵は二人だった。二人の支那兵は、女学生の寄宿している宿へ入り、彼等の飢えた性欲を十分に満足させた。
 ところが、女教師は、兵士に、そのことを内所にしといて呉れと頭を下げて頼むのだった。兵士は金を要求した。教師は弱味につけこまれた。金を出した。
 しかし、二人は青黒い兵営に帰ると、そのことを、ほかの者達にすっかり名誉のようにバラしてしまった。
 夜になると、まだ味をしめない兵士等が、群をなして学校へ押しよせて来た。支那語の叫喚、金属的なざわめきが、遠くで騒がしく起った。
 街では、毎晩、そこ、ここの家々が、武器を持った兵士等に襲われた。「諱三路ウイサルの×さアん、いらっしゃいますか? 急用!」映画を見ている最中に、木戸から誰かが呼ばれると、呼ばれない、附近の者までがギクリとした。――おや、又、強盗かしら?
 兵士達は食に窮していた。顔と頭を黒い布で包み、大きな袋のような大褂児タアコアルに身をかくしている。それは、どこでもかまわず、めちゃくちゃだった。
 土匪のように現金のある家をねらった計画的なものじゃなかった。それだけに尚、厄介だった。貧乏な者までが、気が気じゃなかった。
 そいつは押し入ると、獲物を求める、夜鷹のように、屋内を、隅から隅へ突きあたり、ひっくりかえした。はね上がったり、すねを突いて、物置の奥へ手を突ッ込む拍子に、大褂児の裾から、フト軍服の※(「ころもへん+庫」、第3水準1-91-85)クウズがまくれ出た。
「おや、兵隊だ!」
「兵隊がどうしたい?」
「兵隊だって食わずにゃ生きとれねんだぞ。督弁トバンは一文だってよこさねえし!」
 そいつらは正体を見破られて引っ込むどころじゃなかった。「我的我的オーデオーデ! 爾的我的ニーデオーデ! (おれのもんはおれのもんだ! お前のもんはおれのもんだ!)」
 工場では、内川が、北伐にともなう、共産系の宣伝と組織運動、動乱にまぎれての工人の逃亡に対する対策に腐心していた。
 頭の下げっぷりが悪い、生意気な者には、容赦のないリンチが行われた。
 工人は妻のある男も、夫のある女工も、門外に出ることを絶対に禁じられた。すべてが、二棟の寄宿舎に閉じこめられてしまった。
 門鑑は、巡警によって守られていた。
 巡警は、公司コンスの証明書を持たない者には、一切入門を拒絶した。
 逃亡の防止策としては、給料が払われなかった。工人達は、三月末に受け取る筈の一カ月分の給料と、四月になってから働いた分を貰わず、そのままとなっていた。
 彼等の仕事は、すべて請負制度だった。
 彼等は、函詰、百八十盒でトンズル一文半(日本の金で約九厘)を取った。軸列一台(木枠三十枚)トンズル二文半、外し一車につき、一文、小箱貼り、軸木運び、庭掃は一カ月二円か三円だった。骨が折れること、汚いこと、燐の毒を受けることはすべて彼等がやった。日本人はピストルを持って見張っているだけだ。
 そして燐寸は、中国の国産品と寸分も異わないものが出来上った。商標も支那式で「大吉」を黄色い紙に印されていた。レッテルの四隅には「提倡国貨」(国産品を用いましょう)とれい/\しく書いてあった。
 これは排日委員会で決議されたスローガンの一ツだ。それが、うま/\と逆用されていた。――なる程、何から何まで、すべてが支那人の手によって作られたものである。支那の国で作っている。だから、支那の国産品にゃ違いなかった。資本をのければ。
 猛烈な日貨排斥運動に、皆目売れ口がない神戸マッチを輸入して、関税や、賦金や、附加税を取られるよりは、労働賃銀が安い支那人を使って、全く支那の製品と違わない「国産品」を、支那でこしらえ支那で売る方がどれだけ合理的なやり方か知れない。
 大井商事は、とっくにこれに眼をつけていた。マッチだけじゃない。資本家は、紡績にも、機械にも、製粉にも、搾油にも、製糖にもこの方法を用いていた。世知辛い行きつまった内地で儲けられない埋め合せはここでつけた。
 工人達の窮乏は次第に度を加えて来た。彼等はただ饅頭マントウや、※(「火+考」、第3水準1-87-43)コウビンのかけらを食わして貰うだけだった。そして湯をのまして貰うだけだった。金は一文もなかった。
 金がない為めに、一本の煙草も吸えなかった。ぼう/\となった髪を刈ることが出来なかった。
 稼いで金を送って、家族を養うことが出来なかった。
 三日も四日も飯にありつけない、彼等のおふくろや、おやじや、妻が、キタならしいなりをして息子に面会を求めに来ても、門鑑はそれを拒絶した。
 内には、親にあいたい息子がいた。娘がいた。妻にあいたい夫がいた。夫にあいたい妻がいた。
 外には、息子や夫の仕送りを待っている親や、妻がいた。
 小山達は、会せた後の泣きごとを面倒がって、会せなかった。
 さんぼろさげた工人達は、鉄条網の張られた白楊材置場へまわった。そこの僅かの一部分だけは、トタン塀が張られていなかった。
 そこで、彼等は、金属的な、悲しげな声を出した。
 工人達は、親の唸くような、叫ぶ声をきゝつけると、そっと、作業場を抜け出して、鉄条網のそばへしのびよった。
 彼等は、鉄条網をへだてて、内密に、面会した。
 しかし、息子は、親に与える金がなかった。夫は、妻に与える金がなかった。
 それは悲痛な面会だった。
 幹太郎はこういう者たちから、給料をくれるように話してくれとせがまれた。
「猪川さん。」王洪吉ワンホンチは、おず/\と、浸点を見ている幹太郎のそばへ近よった。気の弱い、勤勉な工人の一人だ。
「何だね?」
「猪川さん。」
「何だね?」幹太郎は早く云えというような顔をした。
「猪川さん。……あのう、月給を半分だけでも渡して貰えるように、あんたから、小山さんに頼んで呉れませんか。」
 ワンの、卑屈げに、はにかんだ声を、幹太郎は意識した。
「今、おふくろが来て、女房がお産をしたが、もう、三日、飯をくわずにいると云うんです。」王はつゞけた。「おとゝいまで、嬶の妹のところから、粟を貰って来て食ったが、妹のところにも、なんにもなくなっちまったんです。」
「当分、月給を渡さないということになってるんだがなあ。」幹太郎は当惑げな顔をした。
「おふくろ、大きい方の餓鬼をおぶって来て、柵の外で泣いているです。――餓鬼も、おふくろも泣いているです。」
「会計にだって、支配人にだって、俺の云うことなんか、ちっとも効果がありゃせんのだよ。」
「…………」
 王洪吉は何か云おうとして、不思議な眼つきで、幹太郎を見た。彼は、肉体と精神と、両方で苦るしんでいた。胸がへしゃがれるようで、息をすることも、出来なかった。幹太郎は王の眼から、眉間みけんを打たれた瞬間の屠殺される去勢牛のように、人のいい、無抵抗なものを感じた。それは無抵抗なまゝに、俺れゃどうして殺されるんだ! 俺れゃ殺される覚えはない! というように無心に訴えていた。
 ふと、彼は
「よし、云ってやるよ。話してやるよ!」憤然と叫んだ。
「まるで、君等を人間並とは考えていないんだからなア。――かまわん。待ってい給え、云ってやる! 話してやるよ!」

 幹太郎は、工場の日本人のうちで一番植民地ずれがしていない、新顔だった。支配人の内川、職長の小山、大津、守田、会計の岩井、みな、コセ/\した内地に愛想をつかして、覊絆きはんのない奔放な土地にあこがれ、朝鮮、満洲へ足を踏み出した者ばかりだ。内地で喰いつめるか、法律に引っかゝるかする。居づらくなる。すると先ず朝鮮へ渡る。朝鮮が面白くない、満洲へ来る。満洲も面白くない、天津へ来る。北京へ来る。そこでもうまく行かない。そういう連中が、ここへ這入りこんでいた。
 彼等は、大連、奉天、青島、天津などを荒しまわっていた。常にニヤ/\している、顔にどっか生殖器のような感じのある大津のために、娘を山分けの手数料を取られて、七八十円で売らされた朝鮮人がどれだけあるか知れない。しかも、その生娘は、一人残らず大津に「あじみ」されて、それから、買手に渡されていた。小山の棍棒にかかって、不具者となり、くたばってしまった苦力は十人を下らないだろう。
 岩井は、今こそ、いくらか小金をためて虫をも殺さぬ顔をしている。が、その金を得るために、彼は日本人でも、朝鮮人でも、支那人でも、邪魔になるものは誰でも、なきものにし兼ねない手段を選んで来た。
 そんなつらの皮の厚さが、二寸も三寸もありそうなゴツイ彼等も、自分自身の悪業のため、満洲がいにくゝなる。天津がいにくゝなる。青島がいにくゝなる。そしてここへやって来ていた。
 工場には、悪党上りが集った場所によくある、留置場のような、一種特別な、ざっくばらんな空気がかもされていた。こゝでは自分の悪業を蔽いかくそうとする者は一人もなかった。強姦でも、強盗でも、窃盗でも、自分の経験を大ッぴらに喋りちらした。そこへ這入って来る人間は、自分にやった覚えのない罪悪をも、誇大に作り出して喋らないと、はばがきかない感じを受けた。いろ/\な前科と剛胆な犯罪の経験をよけいに持っている奴ほど、はばをきかし、人を恐れさし、えらばっていることが出来た。
 小山は、工人の気に喰わぬ奴に対しては、燐や、塩酸加里、硫黄、松脂などが加熱されて釜の中でドロ/\にとけている頭薬を、柄杓ひしゃくですくって、頭からピシャリとぶちかけた。支那人は、彼の手に握られた柄杓を見ると、物がひっくりかえるようなトンキョウな声を出して逃げ出すのだった。そのくせ、工人達が頭薬をこぼすと口ぎたなく呶鳴りちらした。
 彼等は、幹太郎をのけると、みなが、工人に対して、動物に対すると同じような態度をとった。幹太郎は工人等が、黒い饅頭か、高梁粉をベッタラ焼きのようにした※(「火+考」、第3水準1-87-43)コウビンのかけらを噛って、湯をのむだけで、よくも一日十五時間の労働に消費される熱量を補給し得るものだと考えた。
 彼には支那人ほど、根気強く、辛抱強い奴はないと見えた。文句を云わなかった。一箇でもよけいにマッチを詰めて、たゞ金を儲けたいと心がけている。請負制度は彼等の愛銭心を挑発して働かせる。その一つの目的のために、案出された制度のようだった。
「馬鹿な!」小山は冷笑していた。「奴等自身だって、熱量が補給されるかどうかなんてこたア、考えてみもしねえんだ!」
 小山は、彼自身の経験から割り出して、ここの工人は、満洲の苦力よりも生意気で、能率が上らないと確信していた。彼は、大連埠頭の碧山荘の苦力を使った経験があった。「支那人って奴は、やくざな人種だということを知って置かなけゃだめだよ。奴らをほめたりなんかするこたア、そりゃ、決していらんこったよ。」先輩振って、云ってきかすような調子だった。
「あいつらは恥というものがないんだ。こっちがいくらよくしてやったって、それで十分なんてこたないんだ。十円くれてやったって、シェシェでそこすんだりだ。一円くれてやっても、やっぱし、シェシェでそこすんだりだ。十銭くれてやっても、同じように、シェシェとは云うよ。だから奴等に、大きな恩をきせてやるなんか馬鹿の骨頂だよ。――それで、貰ったが最後、なまけて、こっちの云うことなんかききやしないんだ。」
「朝鮮でも、満洲でも、――ヨボやチャンコロは吾々におじけて、ちり/\してるんだがな。」
 支配人は繰り返えした。
 汽車で席がない時、あとから乗り込んだ彼等が、さきから乗りこんでいるヨボを立たして、そこへ坐るのが当然とされている。それを、皆に思い出させながら、
「それが、こっちでは支那人が威張りくさってやがるんだ。やっぱし、ここにゃ、日本の軍隊がいないせいだな。」
 彼等は、満洲や朝鮮をゴロツク間に、不逞なヨボや、苦力が、守備隊の示威演習や、その狂暴な武力によって取っちめられてしまうのを、痛快に思いつつ目撃して来た。
 彼等は、ここに、そういう、日本帝国の守備隊が、来て呉れていないことを残念がった。
「しかし、物はなんでも比較の上の話ですよ。」
 幹太郎は、悪党に対して純なものの正しさを譲るまいと心がけながら云った。
「働くという点から較べると、日本人は到底支那人には及ばんですよ。それに、内地じゃ組合が出来たり、ストライキをやったりして労働者が、そうむちゃくちゃに、ひどい条件でこき使われて黙っちゃいなくなっていますよ。」
「そんなこた俺れゃ知らん。――そんなこたホヤホヤの君が知っているだけだよ。」小山は幹太郎がうぶいことを軽蔑した。「吾々が支那までやって来て、苦力のように働くってことがあるかね。吾々は奴等に仕事を与えているんじゃないか。ね。吾々が、こうしてこの土地に工場をこしらえなかったら、奴等は、ゼニを儲ける口もありゃせんのだよ。洋車ヤンチョだって俺等が乗ってゼニを払わなかったら、誰れからゼニを貰うかね。それを、何を好んで、俺等が、奴等と同じレベルにまでなりさがって働くって法があるかい!そんなこた、それゃ、日本人の面汚しだぞ。」
「働くことが何で面汚しなんだ!」と幹太郎は考えた。「何てばかな奴だ。」
「もっと年を喰やア、君だって今に、分るんだ!」小山は呶鳴った。
 どうかした拍子に、田舎から、口を求めに出た男が、ひょっこりマッチ工場へ這入って来ることがある。
 垢に汚れた布団を肩に引っかけ、がらくたの炊事道具を麻袋マアタイになでこんで、そいつを手にさげたままやって来た。巡警は前以って、内川の云いつけでそんな奴は門内に這入らせた。幹太郎がそういう奴の相手になった。
 内川は、幹太郎が支那語講座流の発音で話している間中、脇の方からその支那人を観察していた。
 おとなしくって、若い、丸々と肥えて、いくらでも働かし得る、そういう奴かどうかによって採否を決した。
 健康そうな、しかし、きれいではない、田舎出の若者が、一人採用される。と、その代りマッチ工場独特の骨壊疽こつえそにかかった老人や、歯齦はぐきが腐って歯がすっかり抜け落ちてしまった勤続者や、たびたびの火傷やけどに指がただれんで、なりっぽのように、小さい物をつまみ上げることが出来ない女工が一人ずつ追い出されて行った。給料ぽッきりで。
 栄養不良と、日光不足(朝四時から夜七時まで作業)にもってきて、世界各国で禁止されている、最も有毒な黄燐を使うため、健康な肉体も、極めて短時日の間に、毒素に侵されてしまった。
 工人の出入は、はげしかった。一人が這入って来ると、一人が追い出された。それが度々繰り返された。そのうちに、一人の採用によって、工場中の支那人が、恐怖と不安に真蒼になることに幹太郎は気がついた。
 それは、解雇されそうな、ヒヨ/\の老人や、睨まれている連中だけじゃなかった。どうしても工場になくてはならない熟練工や、いたいけない、七ツか八ツの少年工や少女工までが、蒼くなって、どんよりとした、悲しげな眼で、生殺与奪の権を握っている日本人をだまっておがむように見るのだった。
 賃銀支払は、幹太郎がいくら懸命に話したところで、内川や小山は容れるどころじゃなかった。
「君は青二才だが、チャンコロのように雄弁だね。」
 小山は、そばに内川がひかえているのを意識しながら、皮肉に、鼻のさきで笑った。
「賃銀は、こっちから、めぐんでやる金じゃないんですよ。」と幹太郎は、喧嘩をするつもりで云った。「支払うべき金ですよ。労働は一つの商品ですからね。買ったものの代金を払うのは当然じゃないですか。」
 いくら人情に訴えたところで、きくような彼等じゃなかった。
「ふふむ、君は一体、支那人かね、ロシヤ人かね、――過激派の。」
「日本人ですよ。」
 幹太郎は、狂暴なものが、一時に、胸のなかでうごめくのを感じた。この二人に対してなにかしてやらねばならない!でなければ、胸のなかの苦痛は慰められない。だが、彼のやろうと思うことは、あまりに、結果がはっきりと分りすぎていた。
「日本人なら、日本人らしくしとり給え!」と小山は云った。「理屈ばかりじゃ、マッチは出来ねえんだから。」
「工人を見殺しにしちゃ、なお、マッチは出来ねえでしょう。」とうとうこらえていたものが、爆発してしまった。「泥棒! バクチ打ち!……」
 彼は、横の椅子を掴みあげた。ひょろ/\しながら、それを振り上げた。
 だが、内川は、豹のように立って来て、その椅子を取り上げた。
「馬鹿! 馬鹿! 何をするんだ猪川! 何をするんだ!……」
 幹太郎は扉の外へ押し出されてしまった。バタン! と扉が閉った。
「実際、あいつは、若いからね。」と、内川は緊張しきって、眼が怒っている小山に笑った。
「仕方のない奴だ。わしも、あいつのおふくろが気の毒だから、あれを使っているんだ。あいつの親爺はヘロ中だし、あいつはあいつで生意気だし、役に立たんが、ただ、あれのおふくろが気の毒でね……」

     七

 黄風ホワンフォンが電線に吠えた。
 この蒙古方面から疾駆して来る風は、立木をも、砂土をも、家屋をも、その渦のような速力の中に捲きこんで、捲き上げ、捲き散らかす如く感じられた。太陽は、青白くなった。人間は、地上から、天までの土煙の中で、自分の無力と、ちっぽけさに、ひし/\とちゞこまった。彼等は、いろ/\なことを考えた。
 支那、支那、何事か行われているが、収拾しきれない支那!
 ここの生活はのんきなようで、一番苦るしい。つらい!
 人間は、自分の通ってきた、これまでの生活がきずだらけであることを考えた。――ある者は、それを蔽いかくして生きて行かねばならぬと決心した。ある者は、自分で、自分の為したことにへたばった。
 俊だけは、憂鬱に物を考える人の中で、一人だけ、何も考えず、何も思わず、三歳の一郎をあやして、ふざけていた。
 一郎は、「テンチン」「テエアンチーン」など、支那語の片言をもとりかねる舌で、俊に菓子を求めた。
「一郎は、まるで、トシ子さんそっくりだわ。……それ、その天向きの可愛い鼻だって、眼もとだって、細長い眉だって」俊は嬉しげに笑った。彼女は、去ったあによめと一番の仲よしだった。
「天下筋の通っている手相までが、そっくりなんだわよ!」
 俊は、嫂をなしてしまったことに不服を持っていた。その不服の対照は母だった。母は最初だけ、珍らしい内は、下にも置かないマゼ方をする。が、暫らくして、アラが見え出すと、それからは、徹底的にクサスのだ。俊は、それが大嫌いだった。
 彼女は、編んでやった一郎の毛糸のドレスの藁ゴミを指頭でツマミ取った。そして、倒れないように、肩を支えて子供を歩かしながら、兄の方へつれて行った。
 母は、工場が引けて帰る幹太郎を待ちかねていた。すゞがいないことは彼女を淋しがらせた。
「何ですか?」
 母の顔はそわ/\していた。
「一寸、油断しとったら、早や、ワンが黙って、『快上快クワイシャンクワイ』を、持ち出して売ってるんだよ。」
「ふむ。」
「こないだだって、靴直しに三円持って行って、あれで、一円くらいあまっとる筈だのに自分で取りこんどるんだよ。」
「ま、ま、知らん顔をして黙っときなさい。」と、幹太郎は言った。「抽出しへは鍵をかけとかなけゃ!」
 第三号に侵され切った、竹三郎は、もうそんなことに神経が行き届かなくなってしまった。快い薬の匂いが体中に浸みこんでくる。彼は、毛のすり切れた、そして、いくらか、白らけた赤毛布の上に高い枕で横たわって、とけるように、まどろんだ。たゞ、自分の恍惚状態を夢のようにむさぼるばかりだ。ほかの一切にかゝずらわなかった。
 幹太郎は、俊が歩かして来た一郎を抱き上げた。
「こないだ、土匪が三人、捕まったんだってよ。」
「じゃ、また、さらし頸ね。」
 俊は嬉しげに笑った。彼女は徳川時代に於けるような、この野蛮なやり方に興味を持っていた。
「ところが、その土匪の一人は、もと愧樹クワイシェの兵営に居った山東兵の中士だそうだよ。そいつが四人分の弾丸や鉄砲を持ち逃げして土匪の仲間入りをしていたのを捕まえて来たんだって。」
「愉快ね、軍曹が銃を持ってって土匪になるって、愉快ね。――面白いじゃないの、気みたいがいゝじゃないの。」
「たいがい、毎日、何か、乱が起るなア。」母は形だけの仏壇へ、燈明とうみょうをあげていた。その仏壇の下の抽出しは、第三号の、秘密なかくし場所だ。「いっそ、すゞに、南軍がこっちへやって来るか来んかはっきりするまで、内地に居るように手紙を出したらどうだろう。あれだって可哀そうだもの。」
「ええ」幹太郎が一寸考えた。「しかし今から手紙出したって間に合わんでしょう。……ひょっと、日光丸に乗っとるとしたら、今日あたり入港しとる日ぐりだから。」
「そうかしら。」
 親爺は、かなり久しく赤毛布の上でまどろんでいた。ぶ厚い、すず黒い、唇からは、だらしなげによだれが、だらだら毛布にたれた。これは、恍惚状態に入った時、いつも現われる現象だ。
「お休み! お休み! ゆっくりお休み!」俊は、その父を指さして、おきゃんな声を出した。
 この時、一寸でもその、まどろみの邪魔をすると、父は、火がついたような狂暴性を発揮する。幹太郎も、母も黙って、大きな音さえ立てぬように努力した。
 親爺の皮膚は、薄黒く、また黄色ッぽく、白血球は、薬のために抵抗力を失って、まるで棺桶に半脚突ッこんだ病人のように気息奄々えんえんとしていた。
「お休み! お休み! ゆっくりお休み!」
 やがて親爺は死ぬだろうと、幹太郎は思った。自分では、滅亡へと急ぎつゝあるのだ。
 彼は、親爺が故郷を追われたことを思った。
 親爺のような人間が、植民地へ来て、深みへ落ちてしまうのは、四人や五人ではきかないだろう。
 いや、幾人あるかしれないだろう。ここは、みな、郷里に居づらくなった者ばかりが来るところだ。食い詰めて頸が廻らなくなった者か、前科を持っている者か、金を儲けて、もう一度村へ帰って威張りたい、俺を侮辱しやがった奴を見かえしてやろう! と、発憤した者か、そして朝鮮や満洲に渡って、そこでも失敗を重ね、もっと内地とは距った遠い地方へ落ちねばならなくなった者がやって来るところだ。
 竹三郎は、九ツの幹太郎と、五ツと、三ツのすゞと、俊を残して満洲へ渡った。
 村の背後には、川を隔てて高峻な四国山脈が空をくぎっている。前面は、波のような丘陵の起伏と、そのさきの太平洋に面した荒海がある。幹太郎は、その村で、ほかの子供たちからけ者にされながら少年時代を過した。太陽は、山に切り取られた狭い、そして、青い/\、すき通った空を毎日横ぎった。春には山際の四国八十八カ所の霊場の一つである寺の鐘がさびた音で而もにぎやかに村の上にひびき渡る。遍路が、細い山路を引っきりなしに鉦をならして通る。幹太郎は、そこで、小さい手を受けて遍路から豆を貰うのにさえ一人ッきりで、皆からのけ者にされた。理由は、親爺が、ほかの子供達のお父さんである村会議員を、確証がないのに、涜職罪として罪人に落そうとたくらんだ。ということからきていた。
 だが本当に確証がなかったか、本当に、親爺がほかの村会議員を罪に落そうとたくらんだか!

 小学校の新築が落成した。その年である。竹三郎は村会議員に当選した。自作農で小作農も兼ねている。そんな人間は、村会議員どころか、衛生組合の伍長の資格さえないもののように思われていた。
 そんな頃である。親爺は、誰の前でも恐れずに、ものを云い得る口を持っていた。物事の裏を衝く眼を持っていた。彼が村会へ頸を出すのは、ほかの議員達は一人として喜ばなかった。
 ――一カ月ほど前、親爺は、門を建てた。用材に山の樹を伐った。そして引き出しを手伝ってくれた近隣の者と、義兄や甥に酒を振る舞った。それが悪かった。それを見ていた『松葉屋』が、買収手段だとして、密告した。用材出しを手伝ったお祝いのしるしに、おみき(酒)を振る舞うのは一つの習慣だ。それだのに、それが、すったもんだの揚句、罰金をとられることになった。あとから二升だけ酒を買い足し、偶然来あわした一人の男に盃したのが悪いというのだ。
 村会議員は、ごた/\言い出して、すぐ自分から引いてしまった。
 補欠選挙が来た。親爺は家に引っ籠って、謹慎の意を表した。もう、家に火をつけてる焼けにするとおどかされたって、議員などになる意志は毛頭なかった。彼は憤慨に堪えなかった。そんな時、蒲団を引っかぶって寝て我慢するたちだった。その時も、敷き流して脂垢あぶらあかにしみた蒲団から、這い出て飯を食うと、また、そこへ這いこんだ。三日ばかりを無為に過した。ところが、よせばいゝのに、『松葉屋』の小作人達が、また、親爺に投票した。
 再選した。親爺にもいくらか色気が出た。
 それから間もなくである。
 二年前から取りかゝっていた学校の新築は落成した。田舎村のその時代としては、驚嘆すべき三万円がかゝっていた。それは洋式だった。青味がかったペンキを塗り立ててあった。屋根はスレート葺きだ。棟は鋭角をなして空中に高く尖っていた。しかし、柱や梁は古木で細く、所々古い孔へ埋め木をしたり、別の板で中味をかくしたりしていた。見えぬところは手を抜いてあった。
 この新築に関係した村会議員の涜職事件が村の者達の前にだん/\曝露されだした。
 親爺は、前に、買収の罪をきせられた意趣がえしもあった。たしかにあった。彼は『松葉屋』や『庄屋』がその同類として引き込みに手を廻して来るのを、きっぱりとはねつけた。
 幹太郎には、すべてが、つい一昨日の出来事のようにまざまざと躍っている。彼は、頑丈で、闘志があって、米俵をかつぐ力持にかけては村中、誰も親爺に及ぶ者がなかった。[#「。」はママ]素朴なあの親爺の一ツ、一ツを、はっきりと手に取るように覚えていた。だが、それは十年も昔、いや、もう十三年も昔のことに属するのだ。
 三月のことだった。畠の、端々に、点々と一と株ずつ植えられた食わずの貝のような蚕豆そらまめの花が群がって咲きかけていた。親爺には一寸留守にしなければならない事件が起った。妹が嫁入ったさきで折合いが悪く、すったもんだやっていたのだ。親爺はK市の海岸通りの船具屋である、その義弟の家へ出かけた。
 事件は、すべて彼の留守中に悪化した。『松葉屋』も、『網元』も、『庄屋』も、証拠不十分で不起訴になった。
 村の九割までは、『松葉屋』に掴まされて、ぱたりと騒動が静まった。
 すべての証拠は湮滅いんめつされた。
 誣告罪ぶこくざいの攻撃が、今度は、反対に村中から、親爺に向って降りかかった。『庄屋』は、門の用材に伐った松が、竹三郎の所持林の境界線をはずれて、『庄屋』自身の山にあったものだと云い出した。
 その松は、皮をむかれ、削られて建ったばかりの門の背骨のような附木となっていた。
 親爺は樹泥棒だった。庄屋は、その樹を戻せと云い出した。だが、その樹を戻すには、折角建った門を、屋根瓦を引っぺがし、塗った壁を叩き落し、組立てた材木をばらばらにしてしまわなければならなかった。――所持林の境界線を間違えた――ごま化したことは、すっかり親爺の信用を落してしまった。
 彼は買収のきく村の人間に愛想をつかした。そして、村の人間は、樹泥棒であり、誣告人である彼に、頭から見切りをつけた。
 八月の末のある晩、親爺は、幹太郎と妹を残して村を出た。路ばたの草叢では蟋蟀こうろぎが鳴き始めていた。家の前の柿の古樹の垂れさがった枝には、渋柿が、青いまゝに、大変大きくなっていた。その下の闇を通ると、実がコツ/\と頭を打った。
 親爺は、村のはずれの船橋を渡ると馬車に乗った。馭者の両脇の曇ったガラスの中のローソクは、ゆら/\とゆれていた。
「さよなら! さよなら!」

 幹太郎は長いこと寝つかれなかった。
 ――あれから親爺の転落が始まったのだ。あんなことさえなかったら、俺等だって、支那へなんか来てやしないのだ! 彼はやはり、いつかは内地へ帰ってしまいたい希望を捨てなかった。腐った奴等に叩き落されて、リン落して行く、彼等もその中の一人だった。どこでも大きなものにびへつらう、卑屈な奴等がうまくやって行くのだ! 彼は長いこと寝つかれなかった。
 犬が根気強く吠えていた。黄風ホワンフォンは轟々と空高く唸った。彼は、でくの坊のように、骨ばった親爺が、ひょく/\と日本建ての家の中を歩いている夢を見ていた。親爺は、何か厚い帳簿を持って廊下へ出た。廊下には戸がたてゝある。親爺は、薄暗い廊下で、脚が引きつるものゝようにひょくひょくした。そのひょうしに、かたい頭が、はげしく戸板にぶつかった。ガタン/\という音がした。すっかり内地における出来事だ。
 幹太郎は、ふと、眼がさめた。実際、誰かが戸を叩いていたのだ。
 母が咳払いをした。そして、ぼそ/\起きて、戸口へ行くのを彼は感じた。戸は、また叩かれた。
 支那人が立っているようだった。母は、誰であるか、疑念と同時に用心しい/\細目にあけてのぞいた。それからぴしゃりと閉して帰ってきた。
「今頃、電報が来たが。」
「誰からです?」幹太郎は半身を起した。
「さあ、……一寸見ておくれ。」
 彼は、頭の上にスイッチをひねった。母が寝巻で、そう寒くはない筈だのに慄えていた。
「今頃に何だろう?」
『スズサン、リヨウジカンケイサツニコウリユウセラル、ドナタカスグゴライセイヲコウ――ハナカワヤ』
「おや、すゞがあげられた。」
 母は、ばたりと畳の上にへたばった。子守台の上で寝ていた一郎が、物音に驚いて頭を動かした。
「今日、やっぱし日光丸で着いたんだな。上陸ししなに税関で見つかったんだ。」
 母はカメレオンのように、真ッ蒼になってしまった。
「あんまり、さい/\持って来さすせに、税関で顔を見覚えられとったんだよ。こりゃ。」

     八

 幹太郎が青島チンタオまで出むいて行かなけりゃならなかった。彼はすゞの身を案じた。ここは、膠済鉄路が青島から西に向ってのび、津浦しんぽ線と相合して三叉路を形作っている。その要衝に陣取っていた。
 幹太郎は、ここから、青島まで、九時間、支那人が唾や手洟をはきちらす不潔な汽車に揺られなければならなかった。
 彼は家を出た。支那の汽車ほどのんきな、あてにならない汽車はない。三時間や五時間は駅で無駄につぶす気でなけりゃ、汽車に乗れなかった。
 彼は、支配人が、しょっちゅう、大々的に、硬派と軟派と兼ねて禁制品を扱いながら、一度もあげられたためしがないのを知っていた。支配人は、彼の親爺や、彼の妹が持ちこむ量の、二十倍も、三十倍も、五十倍もの数量を平気の皮で取り寄せていた。そして、大手を振って歩いている。それだのに、貧弱な親爺や妹は、たった一封度か二封度を持ってきて、あげられる。留置場に拘留される!
 領事館は金持ばかりをかばった。金のない細々と商売している奴ばかりが、やかましい規則の制裁を受けた。こんなところでも、やはり、より多く腐った奴等がより多くうまいことをやっているのだ。
 彼は太馬路タマロ通りへ出た。駅前の処刑場へ引っぱって行かれる土匪が、保安隊士に守られて、蠅のように群がる群衆や丸腰の兵士に俥上から口ぎたない罵声をあびせつつ通りかかった。三人だった。
 騎馬士官と、丸腰の兵士たちが、街上になだれる群衆を制して道をあけた。苦力も、乞食も、独逸人も、日本人も街上に波をなしていた。
「煙草だアい! 煙草だアい!」
 デボチンの色の黒い眼がくり/\した一人の土匪は、両手をうしろへ廻されて、うなじに吊すように、ふん縛られ、足は大きな足枷あしかせで錠をかけられていながら、真中の洋車ヤンチョにふんぞりかえって、俥夫と、保安隊士を等分に呶鳴りつけていた。
 どす黒い俥夫は、煙草屋の主人が喜捨した哈達門ハタメン(紙巻の名称)を一本ぬいてくわえさした。デボチンは、それを噛んではき出してしまった。
「こんな安煙草がなんだい! 馬鹿! 砲台牌ポータイパイをよこせ!砲台牌だ! 砲台牌だ!」
 俥夫は暫らくまごついた。
「砲台牌をよこせい! 砲台牌だい! 砲台牌だアい! 馬鹿!」
 一番さきの囚徒は真蒼に頭を垂れ、打ちしおれていた。三番目の男は、肘の関節を逆に、ねじ折れそうに縛り上げられたまゝ、俥上で、口からこぼれるほど酒をあおって、ぐでんぐでんに酔っぱらっていた。これが軍曹だろう。
 囚徒は、刑場へ引いて行かれる途中で目につく店舗のあらゆる品物を欲するがまゝに要求した。舗子プーズの主人は、やったものから代金は取れなかった。役人は、囚徒が食い飲んだものゝ金は払わなかった。しかし、どんな業慾ごうよくおやじでも、一時間か二時間の後に地獄の門をくゞる囚徒の要求は拒絶しなかった。
 土匪はさすがに、あの世へ持って行けない金銀の器物はほしがらなかった。ひたすら、酒か、菓子か、果実か、煙草を要求した。露天店の、たった一箇二銭か三銭の山梨を、うまそうに頬張らして貰うしおらしい奴もあった。
 見物の群集は、俥が進むに従って数を加えた。馬の糞やゴミでほこりっぽい、広い道にいっぱいになってあとにつづいた。
 駅前の広場には、また別の、もっと/\数多い真黒な群集の山が待ちかまえて、うごめいていた。
 そこには、刑場らしい、かまえも、竹矢来も、何もなかった。しかし、そこへ近づくと、土匪の表情は、さっと変ってこわばってしまった。唸くような、おがむような、低い、聞きとれない叫びが俥上からひびいた。足の鉄錠ががちゃがちゃ鳴った。
 ただ、三番日の酔っぱらいだけは、全く正気を失っているものの如く、ぐにゃ/\の頭は、洋車の泥よけにコツコツぶつかっていた。
「あの酔っぱらいはどうなるかな。」と幹太郎は思った。「酔っぱらったまゝでぱっさりとやられゃ、本人は却ってらくでいゝかな。」
 兵士は群集を追いのけた。俥夫は梶棒をおろした。
 三番日の囚徒は、ふと、頭をあげた。よだれのように酒がだら/\流れ出る土色の唇が、ぴりぴりッと顫えて引きしまった。そして眼は、人の山を見た。死んだ魚の眼のようだ。
「やりやがれ! 怖かねえぞ! やりやがれ!」
 彼はうつゝのようにむにゃ/\呟いた。言葉は、群集のどよめきに消されてしまった。
 さん/″\駄々をこねて砲台牌をくわえさして貰った真中のデボチンは、三分の一ほど吸った吸いがらを、俥から、傍の保安隊士の頭上に吐きすてた。火のついた吸いがらは、帽子から、辷って襟首に落ちた。
「おやッ、つッ、つッ! つッ!」
 若い保安隊士は、びっくりして、とび上った。
 デボチンは、皮肉げに、意地悪げに、空にうそぶいていた。
「畜生!」
 三人は俥から引きずりおろされた。足枷についた鉄の鎖が、錆びた音色で鳴った。囚徒は動かなかった。
 群集は、けしきばんでどよめいた。

ソウ リウユチエ プル
シュエ テイ ユーピンテン
チュンチュ シチュネン
カイン シュエ タ トンチェン
チャン ペイ ハイ ピエン
…………

 ふと、幹太郎は、やけッぱちな、蘇武の歌を耳にした。子供でもしょっちゅう歌っている耳なれた軍歌だった。見ると、デボチンの土匪が、唇をひん曲げて口ずさんでいた。
「あいつ、あの眉楼頭メイロートー(デボチン)なか/\、図太いやつだな!」
 彼の傍で、一人の若い支那人が、憎々しげに呟いた。
「……まだ、歌ってやがら。そら、まだ歌ってやがら。」
 しかし、幹太郎は、その時、日本人として漢詩を習った時のような感情にとらわれた。瞬間、彼は、ひどく淋しい感情に打たれた。一番最後に歌った意味は、『老母は愛児の帰りを待ちわび、紅粧の新妻淋しく空閨くうけいを守る。』というようなものである。
 ――恐らくあのデボチンは、農村に育って、歴山から吹きおろす南風に、その歌を、幼時から歌いなれたものだろう。何等の悪事をもしちゃいないのかもしれない。彼だって、のどかな罪のない幼時はあっただろう!

チュアン イエン ペイフォン ツイ
イエンジュン ハン コアンフイ
パイ ファニャン ワンアルツイ
ホン ゾアン イ コン ウエイ

「畜生! 俺れが人殺しでもしたと云うのか、畜生!」

     九

 支那では土匪が捕まると、市街をひきずりまわして、見せしめに、群集の面前で断罪に処するのが習慣となっている。斬られた頸は三つも四つも並べて路傍の電柱にぶらさげられ、さらし首にされた。
 その頸はうす気味が悪かった。あるやつは、口をあけて歯くそのついた汚い歯を見せていた。あるやつは、笑いそうだった。しかめッ面をしているのがあった。夏は腐爛した肉に、金蠅がワン/\たかった。
 人々は、一と目で、すぐ顔をそむけ、あとを見ずに通りすぎてしまう。土匪の中には、勿論、強盗を働いたものもあった。殺人をやったものもあった。邦人で無惨に殺された者も二人や三人ではきかない。
 彼等は庄長から金をせびり、若しよこさなければ、土墻をめぐらした村を襲い、妻女を奪い、家を焼き、村民全部を惨殺したりなどもやった。たび/\それをやった。いくら晒し首にしたところで、彼等の悪業のむくいとしてはやり足らぬかもしれなかった。だから、掠奪の被害をなめた群集は、むしろ残忍な殺し方を歓喜した。
跪下クイシャ!」
 洋車からおろされた三人に、馬上の士官が叫んだ。三人は、へたばるように、くた/\と地べたに膝をついた。兵士は、荒々しく囚徒の肩を掴んだ。
「西へ向くんだ、馬鹿! そんな方に向いて仕置きを受けるちゅう法があるか、馬鹿!」
 また鎖が鳴った。三人は一間半ずつの距離に坐り直らされた。
 一人の肥ったせいの高い兵士は、青竜刀を肩からはずして、空間に気合をかけて斬る練習のようなことをやっていた。青竜刀は刃のところだけがぴか/\光っていた。なたのようだ。
包子ポオツを持ってこい! 包子を持ってこい! 包子が食いてえんだ!」
 さきに、砲台牌ポータイパイを要求したデボチンは、足の鎖を鳴らし、縛られた自由のきかない手を、ぱたぱたやって、メリケン粉の皮に豚肉を入れて蒸した包子をほしがった。
「ぜいたくぬかすな!」
「えゝい! 持って来い! 持って来い! 包子を持って来い!」
 彼は、頭を振って叫びつゞけた。
 群集は、銃を持った兵士が制するのもきかず、面白がって、前へ、前へとのり出した。幹太郎は、支那人の、脂肪と大蒜にんにくの臭気にもまれながら人々を押し割った。
 うしろへまわした両手を背中でうなじに引きつるようにされていた囚人は、項からだけ繩をときほぐされた。眼を垂れ、蒼白に凋れこんでいた一人は、ぼう/\と髪がのびた頭をあげた。
「俺れだって、好きや冗談で土匪になったんじゃねえんだぞ………」悲痛な暗い声だった。
 動かせないように囚人の頭と、背を支える二人の地方ティフォンがこづきあげた。動かせないのは、斬り易くするためだった。
「包子をよこせい! 包子をよこせい!」
「またあの眉楼頭メイロートー(デボチン)は駄々をこねてるよ。」
 幹太郎の傍で、紫の服を着た婦人が囁いた。前髪をたらしていた。すると、そのうしろの前歯のない老人が、
「やれ、やれ、もっとやれ! 困らしてやれい!」とそこら中へ聞えるように、何か明らかな反感をひゞかせて呶鳴った。
 幹太郎は群集にもまれながら、うしろから肩をつつかれた。
 山崎だった。そして、山崎と並んで、も一人、額の禿げた大柄な顔が、一寸彼を見てほゝえみかけた。やはり日本人だった。中津である。
「君、どっかへ行くんかね?」
 取り落して人波に踏みつぶされないように、一心に、ひん握っている幹太郎の手鞄を群集の動揺の間隙に眼ざとく認めて山崎は訊ねた。
 幹太郎はわけを話した。
 中津は、傍で話をきゝながら彼を見て、好意をよせるような、又、あざ笑うような、複雑な微笑をした。これは、この地方の邦人達を慄え上らしているゴロツキの馬賊上りだった。張宗昌の軍事顧問だ。
「ふむ。ふむ。」山崎はうなずいた。「俺れも今、二人で青島へ出むこうとするところだよ。君は、どんな用事だね?……ふむふむ……そいつは、妹さんが税関で引っかゝるなんて、まのぬけたことをやったもんだね。ふむ、ふむ。」
「支配人がやる商売ならどんなに大げさにやらかしたって、一向、見て見ぬ振りをしとくって云うんだが、親爺のようなぴい/\のするこたア、いけねえって云うんですよ。」
「そう、すねなくたっていゝさ。……それで君は妹さんを貰い受けに行こうとしているんだね?」
「そうですよ。」
「俺等が向うへ行ったついでに、早速貰い下げて来てやろうか。」と、山崎は、中津を見た。「俺等が貰うんならわけなしだよ。」山崎の声のひゞきには、それを現わそうとしているところがあった。幹太郎は、それを感じた。こんな時こそ、山崎を利用しなけゃ損だ、と思った。
「どうだ、情報料はなしで、只でやってやるよ。」
 そして、又、山崎は中津を見た。中津は、掴みどころのない微笑を、その鬚だらけの顔に浮べていた。幹太郎は、山崎が、いつかの冗談への応酬をしていると感じながら、殊更、気づかぬ振りをしていた。
 その時、群集の間に、激しい歓喜の動揺が起った。囚徒の頭と背とを支えていた二人の地方ティフォンは、頭から腕に、いっぱい熱い鮮血をあびていた。首のない屍体は、ガクッと前につんのめった。吹き出る血潮は、心臓の鼓動の弱るがままに、小きざみになって行った。
「うわあ! うわあ!」頸が落ちると群集はわめきたてた。「うわあ! うわあ!」
 拍手して喜ぶものもあった。これは、日本人には、せない感情だ。
 三四分の後、三人は、しょげかえっていた奴も、酔っぱらいも、頸が落ちるまで包子を要求してついに与えられなかったデボチンも、同じような姿勢で空骸となって横たわっていた。
 取りまく群集の間からは、纏足の黒い女房がちょか/\と走り出た。二三人も走り出た。男もまじっていた。それからはにや/\笑いながら、皮をむいた饅頭を、長い箸のさきに突きさして持っていた。士官と兵士達が去りかけた頃である。死体に近づくと、彼女達は斬られて縮少した切り口に、あわてて、その皮むきの饅頭を押しあてた。饅頭には餡が這入っていなかった。それは見る/\流出する血を吸い取って、ゆでた伊勢蝦いせえびのように紅くなった。
「やってる、やってる。」と山崎は笑った。「いつまでたっても支那人は、迷信のこりかたまりなんだからな。」
 中津はあたりまえだよ、というような顔をした。
「張大人だって、ちょい/\あいつを食ってるんだぞ。」
「第十何夫人連中も喰うかね?」
「勿論、食うさ。あいつが無病息災の薬だちゅうんだから。」
「張大人は野蛮だからよ……さぞ、内地の人間が見たら、おったまげるこったろうな。」
 群集はなお笑ったり、さゞめいたりしていた。彼等は、三人の人間が殺されたと感じてもいないようだった。犬か猫かが殺されたとさえ感じないようだ。幹太郎は、そう感じた。それは毛虫か稲子が頭をちぎられた位にしか感動を受けていない。
 たゞ、囚人をのせてきた俥夫だけは、不吉げに悄れこんでいた。三つの洋車は、ぽそぽそと喇叭ラッパもならさず、人ごみの中を引いて行かれた。俥夫は、強制的に狩り出された。一度罪人を運ぶと、一生涯運気が上がらない。そういう迷信があった。丁度、内地の船頭が土左衛門を舟に積むのを忌み嫌うように。それで悄れきっているのだ。
「こいつに見せちゃいけねえ、見せちゃいけねえ! おい、見せちゃいけねえ!」
 ふと、三台の洋車とすれちがいに、又、三台の洋車が、刑場を目がけて全力で突進して来た。前の俥から、三十がらみの纏足の女がころげるように跳びおりると、無二無三に群集の垣に突き入った。そのあとから、狼狽した百姓が、女に追いすがって引き戻そうと争った。
「こいつに見せちゃいけねえ! こいつに見せちゃいけねえ!」
 百姓は懸命な声を出した。
 女は何かヒステリックに叫んで、大声をあげて泣きわめき、群集をかき分けて、屍体の方へ近づこうとするのだった。
 百姓は、五十歳すぎの老人だ。彼は大またに、かまんが脚をかわしながら、両手をひろげて娘のような女を抱き止めた。と、女はその腕の中へ身を投げた。纏足の脚をばたばたやりながら号泣した。
寃※ユアンナ[#「口+那」、204-上-19]! 寃※[#「口+那」、204-上-19]!」彼女は、百姓の腕に泣きくずれた。「悪い人は主人です! 悪い人は主人です! 主人がうちの人をこんなめにあわしてしまったんです!」
「諦めなさい、諦めなさい! どんなに歎いたって死んだものが生きかえれやせん」
 老人は女をなだめた。「仕様がねえ! 諦めなさい! 諦めなさい!」
 群集は、再び緊張して、その女の周囲に集りだした。彼女は、軍歌を唄い、包子をほしがり、砲台牌をねだったあの男のために悲しんでいた。山崎は、女と見ると、何か仔細ありげに中津に耳打ちをした。幹太郎は、なぜか、彼の直観に結びつくものを感じた。中津は、人々を押し分けて兵士達の方へ急いだ。
「あのデボチンは、支配人に使われとったボーイじゃなかったですかな?」幹太郎は、何気なげに訊ねた。
 山崎は、聞えなかったもののように、そっぽをむいていた。
「むじつです! むじつです! 悪い人は親方です! 親方です!」
 女はやはりすすり泣いていた。
「こいつの亭主は、決して土匪じゃねえんだ!」と、百姓はぐるりへたかってくる人々へ説明した。
「日本人の親方がこれの亭主に云いつけて、土匪のもとへ商売にやらしたんだ。そこを官憲に見つかって、土匪と一緒くたにされちまったんだ。自分のボーイに商売をやらしといて、捕まりゃ、もう日本人は解雇したから知らねえと云い張ってるんだ。悪えのは親方だよ。……親方が悪えんだよ! 日本人が悪えんだ!」
 硬派でも軟派でも、細々と、小心に、ちょっとずつ扱っている人間は、発覚すると、自分自身の血税で、そのつぐないをつけさせられている。ところが、大々的に、何にでも手を出している人間は、取りこむだけのものは取りこんだ。血税は、使っているボーイが払わせられた。支那人のボーイは、主人の外国人の命令で、硬派の商品の運搬中に、逮捕せられ、水にぬらした皮の鞭の拷問や、でたらめな裁判で、死刑となることがどれだけあるか知れなかった。
 幹太郎の一家は、自分で自分の血税を払っている組だ。彼は興奮せずにはいられなかった。若し、捕まった支那人のボーイと、それを使っていた外国人の主人とが、切っても切れない連絡があった確証が上がっても、外国人は、自分の国の領事館で裁判を受けるだけだった。ボーイが断罪となっても、主人は、自国人同志が、同胞愛で、罰金か、拘留か、説諭くらいですんじまう。中国人が、治外法権、領事裁判の撤廃を絶叫するのは、こんなところから原因していた。
 女と百姓を取りまいている群集は、中津に注意された兵士達に依って追っぱらわれてしまった。女は、墓地へかつがれて行く夫の屍体のあとにつづいた。彼女は、三番目の俥に積んできた棺に、夫の屍体をおさめることを頼んだが、地方ティファンに容れられなかった。
「さあ、発車だ! 発車だ! おそくなっちゃった。」
 見物にまぎれこんでいた機関手は、その時、ほっと吐息をするように、彼を待っている汽車の方へ馳[#「馳」はママ]け出した。発車時刻は、もう一時間もすぎていた。

     一〇

 領事館と支那官憲の疑問の眼が竹三郎の身辺に光っていた。
 銃を持ち、剣をさげた第七区警察署の巡警は、歩哨のように、アカシヤの並木道の辻に立って、彼の裏門に出入する人間を見張っていた。夜間の、闇にまぎれて、こっそりと麻酔薬を買いに来る人間を見張っているのだ。
 ふと、俊は、それに注意をひかれた。彼女は、よち/\の一郎の手を引いて、石畳の上を隣の馬貫之マクワンシの家から出てきていた。
「あれは、何故、あんなところに立ってるんでしょう?」俊は、巡警の方へ、頸を長くして、馬貫之の細君にたずねた。彼女は、はじめて気がついたのだ。
「あら、猪川さん、まだご存じなかったんですか?」と、纏足の若い細君は答えた。これは、隣同志で、非常に仲よくしていた。細君は、一寸、云いにくげに、舌の根をもつらした。「もう、あいつ、五日も前から毎晩立ってるんですよ。あんたの家、用心なさいね。」
「一体、どうするって云うんでしょう?」
買々マイ/\を見張っているのよ。丸子ワンズを買いに来る人を見張っているのよ。」と細君は、弱々しげな吐息をついた。「立っていて、丸子を買いに来させまいとしているのよ。」
 俊は、自分の家の商売を、馬貫之の細君の前に恥じて、頸まで真紅になってしまった。彼女は、一郎を抱き上げて家の中へせこんだ。竹三郎は磨いた煙槍エンチャンをくわえて、赤毛布の上に横たわり、酒精アルコールランプを眺めながら、恍惚状態に這入ろうとしていた。来訪の諱五路の骨董屋と、母が話相手をしていた。骨董屋は、今朝、戦線へ出動した山東兵が、雨傘を持ったり、石油罐の一方をくり抜いて太い針金を通したバケツをさげていた、と笑っていた。
「あいつ、ぬしとの番人にもならねえんだぞ。」
 俊の報知は、母には恐怖をもたらした。骨董屋には、別の違ったものをもたらした。
「裏からやって来る人間は咎めたって、泥棒にゃ、見て見ん振りをしていら。」
「でも泥棒の方で、ちっとは遠慮するでしょう。」
 母は恐怖を取りつくろった。
「馬鹿云っちゃいけねえ。あんな奴が居たっていなくたって、同じこったくらい泥棒はちゃんと心得ていますよ。経験で。」
 巡警は、人が出入をするのは、暗くて見分けのつかない夜間だと睨んでいた。昼間は立たなかった。ところが、商売は昼間のうちにすんじまった。
 宵から、夜ふけまで夜ッぴて立ちつくして、獲物は一匹もあがらなかった。しかし、獲物があがらないということは巡警の疑念を晴らす足しにはちっともならなかった。
 昼間、竹三郎は、天秤と、乳鉢と乳棒を出して仕事をした。昼間なら安心していられた。第三号に、いろ/\なものをまぜて、丸子を作る。匙を持つ手は、ヘロ中の結果、ニコチン中毒のひどい奴より、もっとひどくブル/\ふるえた。手と同時に、椅子にかけた脚もブル/\ふるえていた。隣家の、観音開きの戸口からは、馬貫之の細君が、歯がすえるヴァイオリンのような歌を唄うのがひびいてきた。
 慄える手に握られた彼の乳棒も、歯をすやすように、がじがじと気味悪く乳鉢の※(「石+並」、第3水準1-89-8)へいめんにすれていた。
「ヘロが一本三千円、……ヘロが一本三千円……」
 乳棒は、丸い乳鉢の中をがじ/\まわりながら、こう呟いている。竹三郎にはそんな気がした。「ヘロが一本三千円、ヘロが一本三千円……」これは変になった彼の頭の加減だった。
 支那靴の足音がした。俊がさかさまにひっくりかえったような叫声をだした。竹三郎がうしろへ向くと、平服の身体のはばが広い支那人が立っていた。かくす暇も、何もなかった。
「それゃ何だね?」
 支那人の大褂児タアコアルの下では、剣ががちりと鳴った。どっか顔に見覚えのある巡警だった。
「それゃ何だね?」
 竹三郎は、すくみ上がるように憐憫を乞う、哀しい眼つきでこの支那人を眺めていた。
「そいつは何だね? どら、こっちへよこせ! すっかり貰って行くんだから。……もっと/\まだまだかくしとるんだろう。出せ! すっかり出しちまえ!」
 竹三郎はヘロ中と恐怖で二重にふるえた。椅子が地べたへ崩折れそうだった。
 そこへ又、もう一人、小柄な大褂児の支那人が、ひょこひょこッと這入って来た。様子で、相棒であることが云わずとも知れた。支那人の大きな手は、かしゃくなしに、乳鉢を掴みにきた。
「ちょっと、待って! ちょっと待って!」
 うしろから、わく/\しながら眺めていたお仙は、何を云うともなく支那語をくりかえして隣室へ立った。彼女は、机の引き出しから一円銀貨を掴んできた。
請悠等一会児チンニントンイホイル。」
 そして、彼女はおど/\しながら、二人の大褂児の袖の下へ、その大洋タアヤンを入れてやった。俊は蒼白になってしまった父と母を見ていた。巡警は、大褂児へ手をやって、母が入れたものをさぐっていた。
「たったこれっぱちか!……。もう二元よこせい! もう二元!」
 おどかしつける声だった。母は、哀れげな父を見た。昔、村会議員の収賄を摘発しようとした彼の眼が、今は、もう、全く無力な、濁ったものとなってしまっていた。巡警は、二度の要求が満たされると、掴み上げた乳鉢を、またもとへ戻した。そして「シェ、シェ」と帰って行った。
 竹三郎は胸をなでおろした。
 この日から彼は、たび/\、味をしめた巡警等に襲われるようになった。少しずつ買いに来るヘロ※(「やまいだれ+隠」、第4水準2-81-77)者からかき集めた金は、右から左へ巡警が持ち去った。
 彼の顔色は、薬のために、ますます失われだした。手足の顫えは一層ひどく、はげしくなった。もう全然※(「やまいだれ+隠」、第4水準2-81-77)者となり了ってしまった。一日でも、ヘロインがなければ、彼は、時を過すことが出来なかった。

     一一

 戦争について、不安な風説が、だんだん拡まって来た。
 退却をつづけた張宗昌は、孫伝芳の部隊と協力して蒋介石にあたった。
 どの兵営からも殆んど全部の部隊が戦線へ出はらってしまった。留守の兵営は、僅かな兵士に依って守られていた。
 青黒い兵営から、布団や、床篦子チャペイズや、弾丸が持ち出された。そして、街で、金に換えられた。ホヤのすすけた豆ランプも、卓子チオズも、街へ持ち出された。
 留守をまもる兵士のしわざだ。
 彼等は、捲きあげて水をつる井戸の釣瓶や塀の棒杭や、茶碗や、茶壺を持ち出した。しまいに残ったのは、持って行く訳に行かない兵営の家だけになった。と、彼等は、その家についている、窓硝子や、床板をはずして街をホガホガ持ち歩きだした。そんな姿が、チラホラ見えた。――彼等の、いくさの強さはこれで分った。
 竹三郎の家はすゞが帰ると、切り立ての生花をいけたように、清新になった。
「青島には巡洋艦が一隻と、駆逐艦が四隻も碇泊してるのよ。銃をかついだ陸戦隊があがってたわ。ズドンと大砲をぶっぱなしたら、陰気くさい支那人が『デモだ』なんて云ってるのよ。」
 すゞはこんな話をした。
 一郎は、すゞを、親のように、「かあちゃん、かあちゃん。」ともとりかねる言葉でよんだ。
 幹太郎は、今頃、とし子が居たならば! と考えるともなく、なつかしがった。とし子は、※(「やまいだれ+隠」、第4水準2-81-77)者の親爺や、その親爺を盲目的に尊敬する義母を、むきつけに、くさしていた。支那でなけりゃ、内地へ帰っちゃ、親爺もおふくろも、生存さえ出来ない。廃人だ。とし子に云わすとそうだった。――その両親がよくくさされていたことさえ、彼には、今は、なつかしいものに思いかえされた。
 すゞは、口に出して云いはしなかったが、こんな彼の心持を諒解していた。彼女は、そのために、嫂にもう一度もとへ戻って貰うのではなく、兄をえらくして、「これ見たか!」と、とし子を見かえしてやりたい、そんな気持を抱いていた。彼女が親爺の嫌な仕事を懸命で助けるのも、そんなところからきていた。その心持が、又、幹太郎に分った。彼は、自分は、所謂、えらくなりたい希望など全然持たないことを妹に納得させる必要があると考えた。殊に、ヘロインを売って、無茶な金を取ろうなどとは思ってもいないことを示す必要があると考えた。
 だが、二人の兄妹の気持は、不幸に際してよく起るように、しっくりと一つに合っていた。すゞは二十だった。そして妹の俊は十七だった。俊は、まだ、汚いものが美しく見える、なんでもないことが面白、おかしくってたまらない――そんな年頃だった。二人とも、その体内には、健康で清純な血液の循環を妨げる一つの病菌も、一ツの傷もないように見えた。
 着物の着かたや、髪の結び方や、断片的な方言まじりの話しっ振りの中に、まだ、内地の匂いが多分に匂っていた。それは、ほかの、支那で産れ、支那に於ける日本人の学校で育った娘と比較すればすぐ分かった。
 すゞが帰ると、間もなく、青島で彼女を貰い受けるため骨折った中津が、足繁く出入りするようになった。バクチ打ちで、のんだくれで、味方にしても、こっちの懐におかまいなしに食い荒されて厄介だし、敵にまわせばなお怖い、どんなことをやり出されるか分からない男が中津だ。
 彼は日露戦争でびっこになっていた。歩くとき、身体全体がヒョク/\した。目立たない、ジミったれた風彩をしていた。新しいドンスの支那服でも中津が着ると、ホコリにまみれて汚れているように見える。
 何故、こんな男に睨みがきくのか、幹太郎は、一寸解せなかった。彼は、土匪にさらわれた日本人の※票ホウヒョウ[#「女+邦」、209-上-1](金を取るために捕えて行く人質)を取りかえして来たことも一度や二度できかない。敵に対する残忍なやり方では、多くの話種を持っていた。
 幹太郎の二人の妹は、中津が帰ると、チンバ、チンバと、おかしそうに笑いながら、家の中をぴん/\はねとんだ。
 中津が外から声をかけて門のかんぬきをボーイの王錦華ワンチンファにはずさして、中庭の飛び石を、ひょこひょこやって来る時、窓からそれを見て、やはり、チンバ、チンバと、ぴんぴんはねて笑った。中津は、それをきいても、にこ/\していた。
「ねえ、おじちゃん、どうしてそんな脚でいくらでも人を斬ったり、はつッたりすることが出来るの?」
 とうとうある日、俊は相手の気持を損じやしないか、顔色を見い見い、茶目らしい話しッぷりで切り出した。
「斬るんはこの脚じゃねえぞ、ピストルも刀も、この手だ。この手が使うんだ。」
 だぶ/\の支那服の袖から、太短かい指を持った毛深い腕がのぞいていた。
「だって、おじさんのようにひょこ/\歩いていた日にゃ、斬るんだって、うつんだって人が逃げッちまうんじゃないの?」
 俊の声は、なごやかに笑いを含んでいた。が、眼は、犬に立ちむかった瞬間の猫のように、緊張して相手の顔に注がれていた。
「なあに、これだって、いざとなりゃ、お前なんぞよりゃ早いんだぞ。」
「そう。――おじさん。どこで怪我をしたん?」
「どこだって――それゃ、もう遠い遠い昔だ。お前らまだ、親爺さんの睾丸の中に這入っとった時分だよ。」
 ある時は、山寨の馬賊の仲間に這入り、ある時は、奉直戦争に加わり、又、ある時はハルピンの郊外に出没して、ロシア人の家を荒し、何人、人を殺したか数しれないこの不思議な、ゴロツキも、二人の妹には、おかしな、そして少し滑稽なおじさんにすぎなかった。
 彼は、張宗昌と共に戦線をかけめぐったり、北京に赴いたり、何万元かの懸賞金が頸にブラさがっているその頸の番をしたりするほか、二人の娘を相手に辛気くさいカルタを取った。麻雀を教えてやった。支那語の一二三を何十回となく、馬鹿のように繰りかえした。
 彼は、この家族の中に溢れている内地の匂いをなつかしがり、利己的にそれをむさぼっているかのように見えた。

 妹が寝てしまって、父親と、おふくろと、彼と三人きりになった。幹太郎は云い出した。
「長さんは、どうしても、おかしいな。――すゞに気があるんですよ。……それから、お俊にも一寸気がある。」
「馬鹿。」竹三郎は風を吹くように笑った。「中津は、俺と同い年だから、もう五十三になるんだぞ。それがたった、十七や八の小娘をどうするもんか。」
「いや、いや。――這入って来てから帰るまで、あいつは、何もほかのものは見てやしませんよ。すゞと、俊ばっかし、顔に孔があく程見つめに見ているんですよ。――俺れゃ、ちゃんと知っとる。」
「それには、私も気がついています。」母が内気に口を出した。
「それ、そうでしょう。きっと、あいつ気があるんですよ。」
「馬鹿、――五十三にもなって、人間が、自分の子供のような娘をどう思うもんか。」
「でも、男は、年がよる程、若い娘がよくなるという話じゃありませんか。それに、あの人は、まだ独身者ですよ。」
「馬鹿、馬鹿! 何てお前ら、邪推深いんだね。――中津は俺のえゝ朋輩だぞ。俺れゃ、あいつの気心をようくのみこんどる。あいつは、そんな義理にそむいた、見っともないことをやらかす男じゃないよ。」親爺は四五年前から中津を知っていた。
 だが、幹太郎の疑問は誤っていなかった。
 チンバがやって来ると、おかしがって、家の中をはねとんでいたすゞが、門の外からワンを呼ぶ中津のはばのある押しつけるような声に、耳の根まで真紅に染め、どこかへ逃げかくれだした。
 中津の視線は、鋭く、燃えさかっていた。その視線に出会すと二十のすゞが堪えきれないばかりでなく、俊や、おふくろまでが、心臓をドキリと打たれた。
 中津はひげ面のひげを青く剃り、稍々ややちゞれる癖のある、ほこりをかむった渦まける髪をきれいにくしけずって、油の臭いをプンプンさしていた。
 終日家につかっていた。この馬賊上りの、殺人、強盗、強姦など、あらゆる罪悪を平気でやってのけた鬚づらの豪の者が、娘々したすゞに少なからず参っている有様は、実際不思議だった。彼は五十三の老人とは見えなかった。彼は、おぼこい二十歳の青年のように、少女の魅力に悩まされ切っているところがあった。

 ある朝、馬貫之マクアンシの犬の『白白ぺいぺい』が火のついたように吠えた。
 幹太郎は、それで眼をさました。すゞが起きかけたようだった。
 犬は燃えるようなやかましさで吠えつゞけていた。暫くしてすゞは窓をあけに立った。と、緊張した足どりで、兄の枕頭へかえってきた。
「また、たアくさん、領事館から来ているよ。」
 彼女の声には、真剣さがあった。そして、どっかへ身をかくしてしまいそうだった。幹太郎は、はね起きた。
 周囲は、厳重に領事館警察署員等に依って取りまかれていた。
 家の中は、ゴミ箱をごったかえすように、掻きまわされた。
 今度は、主人の竹三郎が封印をするばかりにした「快上快クワイシャンクワイ」の一と箱と、乳鉢、天秤等と共に、引っぱって行かれてしまった。
 間もなく、中津は、張宗昌のいる宿州へ向って出発した。
 戦線のひっぱくは、彼をして内部に思いなやんでいることを打ちあけるひまを与えなかった。
 彼は、夜行の汽車で出発した。

     一二

 日没後、なお、一と時は、物が白く明るく見える、生暖い晩だ。
 昼の雑鬧ざっとうと黄色い灰のようなほこりはよう/\おさまった。
 無数にうろついていた乞食の群れが闇に姿を消した。※子ヤオズ[#「穴かんむり/缶」、211-上-16]の家と家との間では、耳輪をチラ/\させた女が、奇怪な微笑を始めだした。
 山崎は、その家と家の間から出てきた。彼は、いつもの黒い支那服と違って、鼠色の、S大学の学生服を着こんでいた。生暖い街はうるおいを帯びて見えた。不安と険悪さは夜になる程ひどくなった。それを恐れないのは、マアタイにくるまった乞食だけだ。
 山崎の眼は、何かを、しびれを切らして待ちもうけているもののように、いら/\していた。
 街をもぐり歩いている陳長財チンチャンツァイが、まだ帰ってこないのだ。
 せいぜい徐州か臨城まで押しかけて来れば大出来だ、と高をくゝっていた北伐軍が、もう袞州こんしゅうを陥れ、泰安へ迫っていた。
 防戦の張宗昌は、宿州から、徐州、臨城、袞州へと退却をつゞけた。宿州の激戦に依る負傷兵は、そのまま、戦場に遺棄された。のみならず、前線から手足まといとなってついてきた他の負傷者達も、そこで、急ぐ退却の犠牲となって、片ッぱしから生埋めにされてしまった。
 臨城では、彼は、なだれのように退却する部下の将校をピストルで射殺した。
 山東兵は、南は、北伐軍に圧迫された。北の退路は、張督弁にふさがれていた。で、立往生をした。その一部は、やむを得ず途中で脇道にそれ、高峻な泰山を踏み越し、明水や郭店を通って、住みなれた都市へ逃げこんで来た。他の一部は蒋介石に投降した。
 北伐軍の威勢が案外にあがるのは、金があるからだ。山崎は、総商会が蒋介石に金を出したという福隆火柴公司フールンホサイコンスのレポが嘘だったのを、最近たしかめた。金を出したのは、米国のある実業家だ。それによって、その金額によって、蒋介石が北京までのりこみ得ることがチャンと測定されてしまった。
 文化的に支那侵略を企てゝいる米国は、到るところに教会、学校、病院、を設立した。欺瞞的な慈善事業を行った。贈物を持ってきた。庚子賠款こうしあんかんを放棄した。そして支那人を手なずけた。
 俺れは希臘ギリシャ人が怖い、たとえやつらが、どれだけ贈物を持ってきたって、俺れゃ希臘人が怖い。ローマ人でない支那人にとっては、その希臘人は亜米利加人じゃないか! と山崎は考えた。
 それを、支那人は、贈物に乗せられているのだ。これが、すべて、日本に、どんな意味を持つか、勿論山崎は知悉ちしつしていた。
済南チヒナンは、実に天下の要衝である。陸は南北の中間に位置し、海には、渤海の南半を抑制し、一呼して立てば、天津、北京の形勢を扼することが出来る。※(「さんずい+樂」、第4水準2-79-40)らんか上流の地を北京の背面とすれば、済南は、実に、その前面、腹部にあたるの観がある。而して、青島チンタオへの沿線には、坊子、博山、※(「さんずい+(巛/田)」、第3水準1-86-81)るせん、章邱等に約十八億トンの石炭が埋蔵されている。又、西二百数十哩の地には、山西の大炭田があり、全亜細亜蔵炭量の約八割に当る六千八百億トンの石炭と、無尽蔵とも言うべき鉄が死蔵されている。日本が今後、鉄と石炭との需給において独立せんとするならば、山東炭の価値を無視するを許さぬと共に、更に、山西大炭田の世界的価値を逸するを得ないだろう。」(「日本と山東の特殊関係」十九頁)
 山崎は、勿論、こういうことを知っていた。
「満蒙の特殊利益は、日本が高価なる犠牲を払い、巨額の資金を投下して開拓したるものである。飽くまでこれを擁護する必要がある。ある場合、山東を放棄するとも、満蒙の特殊利益は、最後まで保持せねばならない。満蒙は先であり、山東は後である。満蒙のためには国力を賭しても争わねばならぬが、山東は、或る程度まで忍ぶも已むを得ない。かゝる議論をなすものがある。勿論、満蒙の天地が広大であり、その利害が広汎であり、その全局の得失は極めて重大である。しかし、広東に起りたる支那の民族革命、共産主義者の潜航運動は、今や完全に中部支那を浸潤し、北部及び満洲にも、その魔手をのばさんとする状態にある。山東は満蒙の障壁として、又、重大なる価値を有するものである。山東ありて、満蒙も安全たり得るのである。況んや山東が、その地理的優越に於て、その軍需的価値に於て、その黄河流域無限の富庫を後方地帯に抱容する点に於て、我等は国防上、国民生活上、永久にこれを勢力圏中より逸し去ることは出来ない。米国資本家の如きは、早くも黄河の氾濫地帯が棉花栽培に適することに着目し、調査の歩を進めている。もし、この地に棉産を得るとせば、日本は米国より棉花の輸入を仰がずとも済む時節が来るかもしれない。日本にして、山東の主人公たる優越的地位を失うならば、日本は将来、鉄と石炭との独立を全うすることが出来ない。のみならず、日本は北支那より退却し、退嬰自屈たいえいじくつの政策の下に、国運の日に淪落りんらくに傾くことを如何ともなし能わざるに至るであろう。支那大陸広しと雖も、我が経済的勢力の絶対に支配する地域は、満蒙を除けば山東あるのみである。日本は過去十余年間、巨額の資本と高貴なる犠牲(日独戦争)を払いて、山東の資源を開発し、現に邦人の投資額約一億五千万円に達する。我等は、我が同胞が、粒粒辛苦の余に開拓したる経済的基礎を擁護し、発展し、確保することは、当然と云わねばならぬ。」(同上書三十一頁より三十二頁)
 山崎は、勿論、こういうことは知りつくしていた。そこへのアメリカの策動が、どんな意味を持っているか、それは日本人なら、云わずとも、すぐ神経にピリッと来る筈だ。
 彼は、同僚を出し抜こうと野心した。
 こういうことは、もう本になって出ていることだ。誰れにでもしれ渡っていることだ。しかし、この土地に於ける、もっと具体的な事実については誰れも知る者がなかった。そして、それが重要なことだ。
 彼は、最近中津から手に入れた支那人の陳長財チンチャンツァイを使って、そこへもぐりこもうと計画していた。

     一三

 夜は暗くなってきた。
 人の通りはまばらになった。
 しかし、この星がきらきら瞬いている夜空の下の一角で、騒がしい乱が行われている。その騒音がどこからともなく、空気を泳いで伝わって来た。
 山崎は、アカシヤの葉がのび、白い藤のような花がなまめかしく匂う通りを、気ぜわしげに往き来した。彼は、不機嫌だった。不機嫌なのは、一緒に出かける筈の陳がまだ帰ってこないからだ。
 アカシヤの樹の下には、カギをつけた長い竹竿で、子供達が、白い藤のような花を薄暗い街燈にすかして、もぎ取ろうと肩が凝るほど首を上に向けきっていた。その子供達は、よう/\垂れだした花を昼間から、夜にかけてあさっていた。彼等は、その花をむしり取って食べるのだ。
 枝がカギにひっかけられて、ポキンと折れていた。
「枝まで、折っちまっちゃア、駄目じゃないか!」
 ひもじい子供たちは、花を食って、おなかをこしらえる。
「お、おい、山崎(しゃき)さん!」
 幾分びっくりした叫声に、ほかのことを考えていた山崎は、ぎくっとした。洋車をとめると、福隆火柴フールンホサイの小山がおりてきた。工場内で、工人を慄えあがらし、えらばっている小山は、通りへ出ると顎が落ちて、燐くさく、芯が頼りなげに、ひょろ/\していた。
「山東軍は散々な敗北でしゅよ。」小山は、サシスセソがはっきり云えなかった。骨壊疽こつえそで義歯を支えていた犬歯が抜け落ち、下顎の門歯がとれてしまったのだ。「あの勇敢なコシャック騎兵までが逃げてきまひた。」
 他人事でないという小山の意気込み方である。
「この様子では、これゃ、どうしゅたって、共産主義がこっちまでやってきましゅぞ。」真に大事だという話し振りで、「早よ、内地へ軍隊をくり出しゅように云ってやって貰わなけゃ、財産(しゃん)や工場だけじゃない、頭やチンポまで引きちぎられてしゅまいますぞ!」
「ロシヤ兵は、今、退却してきたんですか?」
「ええ、ええ、やっぱし、(がうまく云えなかった)郭店の方から、歩いてやって来たんだ。あんまり馬をはしらせしゅぎたもんだから、半分は、馬が途中でたおれてしゅまったんだそうだ。――今、やって来ましゅよ。これゃ、どうも、こんな風じゃ、どこかで、だいぶ蒋介石に尻押しをしてる奴があるんだな。わしゃ、どうも、そう睨む。」
「今夜中に、さぐっちまって、電報を打たなけゃ、ほかの奴等に先を越されるんだ!」「陳は、何をしてやがるんだろう。」彼はいらいらした。「もう、どうしたって、今夜中だ。明日の晩となれば、おそい。誰か、外の奴にしてやられちまう。」
 状勢がひっ迫するに従って、五六人の彼の同僚が、方々から、ここをめがけてはいりこんできていた。
 二馬路マル通りに、乱れた、元気のない、跛をひくようなひづめの音がひびいた。跛の数は多い。
「そら、やってきだひた。やってきだひた。」
 と、小山は云った。そして音響のくる方へ歩きだした。
 やがて、何分間かたつと、せいのひくい、毛並のきたない、支那馬にまたがった白露兵がぐったりして、長靴を、地上に引きずりそうに、だらりと垂れて、薄暗い街燈の光の中に姿を現わした。
「こいつら、支那兵よりゃ、よっぽど強い手あいなんだがなア。」
 小山は惜しげに云った。
 馬を乗り斃してしまった連中は、跛を引きながら、脚をひきずっていた。それは、とぎれ、とぎれに、遠く、駅前通りの方にまでつゞいていた。途中でどっかへまぎれこんでしまった者もあると云う。
 月給の不渡りと、食糧の欠乏と、張宗昌の無理強いの戦闘に、却って戦意を失ってしまった。彼等は、泰山を越して逃げ帰った連中だ。そのうちの一部だ。塩を喰わされたひるのようだった。へと/\で、考えることも、観察することも、軍刀を握りしめる力もすっかり失って、たゞ惰性的に歩いている。立ち止まったら、もう、そのまゝそこでへたばってしまいそうだ。
「こいつらは、支那兵よりゃ、よっぽど強い手あいなんだがなア。」小山は繰りかえした。「あいつらが逃げて来るようじゃ、こゝが陥落するのも、もう時間の問題だ。」
 その時、向う側のアカシヤの並木の通りで、ブローニングの音が一発して、誰れかが、乱雑な白露兵の列を横切って、こちらへとぶように走り出してきた。つゞいて、もう一発、銃声がした。山崎と、小山は、思わず立止まって、はっとした。逃げる男が二人の方へ突進してくる。従って銃口も二人が立っている方向へむけられている。と、瞬間に感じた。
 疲憊ひはいしきった白露兵は、銃声にも無関心だった。振りむきもしなかった。
 突進して来る男は、すぐ二人の前に来た。山崎は、眼のさきへ来た時、それが、陳長財チンチャンツァイだと気づいた。
「なに、まご/\してるんだ。馬鹿野郎!」彼は、いまいましげに怒鳴った。
「何をしてやがったんだい、今までも!」
 が陳は、敏捷に山崎の前をとびぬけて、猿のように、家と家との間の狭い、暗いろじへもぐりこんでしまった。
「馬鹿野郎! 本当に仕様のない奴だ! 畜生!」
「知ってる奴でしゅか?」
 小山は訊いた。
「あいつですか、あいつは、手におえん奴ですよ。使ってる奴ですがね、滑稽な奴で、二時間もどっかでぐず/\してやがって……」

 陳長財は、現在、山崎にとって、ごく必要な人物だった。彼は、もと、上海の碼頭はとば苦力クリーだったという話である。中津が、青島から帰りに、周村でつれてきて、呉れてよこした男だ。
 中津は陳を呼んで、魚心があれば水心だ。それ相当のむくいをしてやる。が、俺れと、俺れの兄弟を裏切るような行為をしくさったくらいにゃ、生かしては置かないぞ。お前だけじゃない、お母アをも生かしちゃ置かないから、と数言を費した。
「こいつは昨日まで南軍の密偵をつとめたかと思うと、今日は、早や、こっちへ寝がえりを打つような奴なんだから[#「なんだから」は底本では「なんだからら」]。」と、中津は、山崎に注意した。「ちびり/\しか金をやらないのに限るんだ。前金でも渡したら、もう、手にとれなくなっちまうぞ。君が、しょっちゅう、こいつをキュウキュウさしとく必要があるんだ。」
 それから、又、
「こいつの云うことを、まるきり信用してかゝっちゃ駄目だよ。――それゃ、云うまでもないこっちゃが、支那人は金にさえなると思ったら、どんなありそうなことでもねつ造して持って来る奴なんだから。」
「うむ、分ってる、分ってる。」と、山崎は答えた。
 陳は、独逸から送った武器の送り状とか、それを荷役している現場の写真、弾薬を受取った受取り、など、そんな重要な証拠物件を、どこからか手に入れていた。云いつけると、外交部から交付される筈の、外国へのパスポートまで、ちゃんと、印まで間違いのない印をしてこさえてきた。だから、日本でパスポートがおりない者でも、ここで、支那人に化けて、支那の名前をつけさえすれば、陳の手でロシヤへのだって作ることができた。間違いのない筆で、領事館の裏書までしてあった。面白い。
「また、やってるな!」
 山崎と歩いていると、ふと、見知らぬ男が、陳に、にやにや笑いかけて行きすぎることがある。一日に、二人や三人は、そんなえたいの知れない奴に出会した。この男は、どんなところへでも頸を突きこんでいるらしかった。
「今のは何者だい。」
「あれですか、なに、あいつは、ジャンクに乗ってた時、一緒に働いてた船方でがすよ。あれで、今なか/\金をしこたまこしらえてるんでがすよ。」
「貴様、しょっちゅう知り合いに出会すが、一体、こゝだけに何人知り合いがあるんだい?」
「僅かしかありゃしねえでがすよ、顔を知っとる奴なら、三百人もありますべえか。」
「馬鹿野郎! 三百人が僅かかい……」
 こいつほど、人の懐中ふところを見抜くことに機敏な奴はなかった。スリよりも機敏だった。その点、山崎自身も警戒してかゝらなければならなかった。支那で金を多額に懐中していることは、ズドンとやられる機会を、より多く持つことだ。
 陳は、蒋介石の北上と共に、だん/\はいりこんで来た南軍の密偵と、便衣隊について調べるため街に出かけたのだ。そこで、金を持っている人間から、金をくすねようとして、やりそこなったのか、それとも、便衣隊にあんまりひつこくつきまとって、あやしく思われ、発砲されたのか、今、不意に逃げ出して来たのだ。

     一四

 約、二時間の後、二人は、城東のS大学へ洋車を走らしていた。
 その大学は、日本軍と、南軍の衝突の際、盛んに活躍した便衣隊の本拠となったところである。日本の兵士は、その便衣隊に、さんざんなやまされた。それは、パルチザンと同じだった。彼等はすきをうかがって躍り出したかと思うと、すぐ安全な地帯へ逃げこんでしまった。
 三千人の将卒が、総がかりで、その便衣隊を追っかけまわした。しかし、一人をも本当の奴を捕まえることが出来なかった。
 彼等は、普通の良民と、同じような服装をしていた。兵士には、支那人なら、どれもこれも同じように見えた。安全地帯はアメリカ人の学校だった。
 山崎は、陳から、そうらしいという話をきいた。そして、その便衣隊の巣へ這入りこんで見とどけよう、と決心した。陳長財の報告は、七割まではあてにならない。しかし、これだけは、本当だ、という直観が山崎にした。彼は、それを確実に突きとめて、今夜中に電報を送ろうと思った。それが出来れば彼は、儕輩せいはいを出し抜ける。それからもう一ツ、言葉も、服装も、趣味も、支那人と寸分違わない。彼は、どこへ行ったって、バレる気づかいがない。と思っていた。それを、確実に試験して、自信をつけて置きたかった。
 それから、なおもう一ツ、こういう際どい芸当は、彼には、むしろ快楽となる。――これは、一生のうちの、俺の自慢話の種の一つとなるに相違ない、と彼は思った。
 敵の陣地へ、しかも、はしっこい、便衣隊の本拠へ乗りこんで行く。これは一生のうちの、誇るに足る、業績の一つとなるに違いない!
 俺の一生は、まだこれからだ。まだ/\これから、本当の仕事をやるんだ。人間は、三十代になっても、四十代になっても、なお、未来に期待をかけているものである。が、山崎は、この時、生涯に於て、今、本当の実の入った仕事をやっているのだ。未来ではない、現在だ! と感じた。
 陳長財は、射撃されたいきさつを説明した。それから、
「こんな暴虎馮河ぼうこひょうがの曲芸は、やめとく方が利口じゃないでがすか。」と、止めた。「今度ア、なかなか奴らの威勢がいいんですよ。」
「いや、俺れゃ、行くんだ。」と、山崎はきっぱり云った。「洋車を呼べ。奴らの威勢がよけりゃよい程こっちは、行ってたしかめてこなけゃならんじゃないか。」
「ズドンと一発やられたあとで、来なけゃよかったと、後悔したって、もう追っつかねえでがすよ。」
「分ってる!」
「わっしゃ、命がけでやる仕事であるからにゃ、ウンとこさ金がほしいなア。目くされ金じゃ、のっけから真平だ。」
「金は、いくらでも出すと云ってるじゃないか。うまく行きさえすりゃ。」
 山崎は、さっきから学生服に着かえていた。陳も学生服を着た。

 こいしの多い、凸凹のところどころ崖崩れのある変な道で、洋車は歩くよりも遅くしか進まなくなった。二人は車をおりた。平生は、淋しい、大学に近い郊外の闇の中に、何か動く人の気配が感じられた。
「大丈夫かね。」陳は囁いた。
 山崎は、自分でちっとも怖いとは思わなかった。それだのに、脚がひどく力がなくえこんだ。脚だけがどうしたのか、つい、五六間も歩いたら、へたばりやしないか、彼は、それを危ぶんだ。
呀怎※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)着了ヤソンモチョラ※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45)!(おい、どうしていたい。……)」
 ひょっと、狭い道を向うからすれ交るとたんに、人かげが声をかけた。が、中途で、人違いだと気づいたらしく、言葉を切って、疑い深げにあとを見かえした。
蠢東西チュントンシ! (馬鹿野郎!)」陳長財は、振りかえりもせずに呶鳴った。
 道の附近の、身の丈ほどの灌木の繁っているところにも、なお人が、動いている気がした。夜気がいくらか寒くなったようだ。
 第一校舎の脇を通りぬけた。向うのアカシヤの植えこみに包まれたかぎ型の第三、第四校舎の間で、焚火が見えた。若芽が伸びたアカシヤの葉末は、焚火に紅く染っていた。
「怖かないかね?」いざという場合には、自分の方が、一枚うわ手だと確信している陳長財は、冷かすように囁いた。「馬鹿! いらんことを喋っちゃいかん!」
 山崎は真面目に叱った。と同時に、アカシヤの幹と幹との間で、「誰れだ、そこへ来るんは?」という支那語の声がした。
 手にピストルを握っている有様が、遠くで燃え上った焚火にすけて見えた。
 用心してやがるんだな。相手がやり出せば、やぶれかぶれだ、畜生! と考えて、山崎は腰のブローニングに手をやった。
「タフト先生はいらっしゃるかね?」
 陳はやはり歩きながら訊ねた。顔をたしかめるため、黒い影はアカシヤの間から、近づいて来た。
「君は誰れだ?」と影は云った。
「師範部の学生だ。」
「名前は?」
「先生に、今夜、お伺いする約束がしてあるんだ。」山崎は横から支那語で呶鳴った。「学生が学校へ這入って行くんが、何故に文句があるんだい!」
 歩哨小屋のような門鑑の前をぬけて、柵をめぐらした校内に這入ると、彼は、陳長財のかげにかくれて、焚火からは見えないように、一歩ほどあとにおくれた。
 陳は、この便衣隊の巣へ乗りこみながら、ちっとも恐れたり、取りつくろったりする様子がなかった。
 二人は宿舎の方へ進んだ。こいつ、南軍の奴と何か連絡を持ってるんじゃないかな。ふと、山崎は陳を疑った。金を出せば何でも喋るが、まさかの場合は、向うへつく。そういう奴じゃないかな。
 いくつも、いくつもの、適当に区切られた真暗の部屋の中に挾まれて、一つだけ電気のついたのがあった。支那語の話がもれていた。
 二人は、窓の下を通って、暗い廊下へ曲った。反対側に出ると、その部屋の、入口は開けはなたれていた。鉄砲をガチャ/\鳴らしたり、弾丸たまを数えたりする音が聞えた。明らかに大学生ではない。黒服の支那人が、室内で、左の肘を水平に曲げ、拳銃をその上にすえて、ねらって撃つ真似をしていた。
 その男は、ガチッと引鉄ひきがねを引いた。
「命中!」
 が、弾丸が這入っていないと見えて発射はしなかった。
「おや、こんな、ロシヤの弾丸がまじっていやがら――こいつのさきは、両方とも尖っているんだぞ。」
 弾丸を数えている奴が笑い出した。
「ロシヤは腹背に敵を受けとるからだべ。」
 彼等は、入口に立っている陳と山崎に気づくと、ふと口をつぐんで、いぶかしげに、二人を見すえた。
! 吃晩飯了※(「口+馬」、第3水準1-15-14)チワンファンラマ! (いよう、今晩は。)」
 つとめて気軽く、山崎は部屋の中へ一歩踏みこんだ。その時、彼は、陳が、黒服の支那人と眼でお互いに笑い合ったような気がした。
 隅の暗いところで武器をいじっていた、いな頭の若い男は、彼の声をきゝつけて、わざ/\ほかの者の前に来て、じっとこっちの顔を見た。
「諸君は、どっちからやって来たんだね。……上海の方は大変景気がいゝって話じゃないか。本当かね。」
 誰も、何とも答えなかった。お互いに、何かもの云うような眼で顔を見合って、黙っていた。山崎は、あまり話が上わずッていたと、また後悔しながら、心臓に押しよせる血の高鳴りを聞いた。
 部屋の中には、約二十挺の鉄砲と、箱に這入った拳銃が古靴を積重ねた傍に置いてある。一方の白い壁には、日本と朝鮮の地図を両足に踏んだ田中義一が、悪魔のような爪の伸びた長い手で、満洲、蒙古、山東地方を一掴みに掴みとろうとするポスターが、二枚つゞけて貼りつけてある。
中国人ツンゴレン不斉心ブチシン日本鬼リベンクイ逞野心チンケエシン。」
 傍にはこう書いてある。
 もう一方の窓の上の壁には、人民から強奪、強姦して国を売る張作霖の漫画と、共産党とソヴェートロシアを、「共産賊党」「赤色帝国主義」と称しているポスターが、電燈の陰影の背後に、ボンヤリと並んでいた。これは、上海あたりで、既に、たび/\見受けたものだ。
 米国は、こっちの野心を、もう、穿うがちすぎるほど穿っているんだ。ポスターを見て、山崎は感じた。
 満洲、蒙古、山東地方は、こっちが取らなけゃ、かわりに米国がそれを取るんだ。アメリカ人は、労働賃銀が動物なみで、原料がいくらでも得られる、殆んど組織がない支那へ眼をつけている。大工場、大銀行を持ってこようとしている。支那人すべてを、賃銀奴隷としてしまおうとしている。
「こんなにおそく、女郎買いにでもさそいに来たんか。」一人のせいの低い滑稽な顔をした支那人が、眼尻を下げて笑った。
 山崎は、こっちからも笑いでそれに答えながら、陳長財に、どうだタフト先生の方へまわって見るかね、と言葉をかけた。すると、
「タフト先生、タフト先生!」と、髪を長くのばした若い一人が繰りかえした。「お前さん達、タフト先生に用事があるんかね。」
「今夜、お伺いする約束がしてあるんだ。」
 山崎は、ためらい/\語をつゞけた。
「ふむ、む。おっつけ先生は二階からおりていらっしゃる時分だよ。」
「そうかね、それじゃ丁度いゝところへ来た訳だな。」
 彼は、うますぎる支那語の口が辷って、心にもない、反対のことを喋ってしまった。彼はタフトを知らなかった。タフトにこの場へやってこられるのは一番困ることだ。
 陳は、そこの支那人と並んで、腰かけに腰かけ、南京から何人くらい一緒にやって来たか、今夜はなお、あとから何人くらい来る見込みか、月給はいくら貰っているか、そんなことをたずねだした。
 山崎は、前門牌チェンメンパイ(煙草の名)を出してマッチをすった。――こいつが一本燃えつきてしまったら引きあげよう。彼は心できめた。前門牌が一本なくなるのは五分間だ。その間なら、タフトはまだやって来ない気が彼にはした。煙草一本を安全時間ときめる根拠は、全く迷信から来ていた。しかし、一度それをきめると、それを実行した。山崎はそんな人間だった。
 彼は、自分の煙草に火をつけると、口を切った前門牌の袋をそこに居る者達の前に出してすゝめたが、陳以外、誰も貰おうとする者がなかった。髪の長いさっきの男は、じっと、彼のつまさきから、頭の髪まで丹念に、ちびる程執拗に睨めながら、もう一度、タフト先生に、どんな用事かときゝ直した。
 山崎は、敵意を持たれていると感じながら、日本の出兵に及んでいた陳長財の話に耳を奪われているものゝように、吸いこんだ煙を、そこにはき出して話のつゞきをとった。いくら日本軍がやって来たって、今度の北伐軍の前には、牛車に向かうとうろうだよ、と笑った。
「あの鬼は、どこへやって来たって、人を食わずにゃ帰らねえや。」いな頭の若い奴が憎々しげに口を出した。
「いや、あの……(鬼がと云おうとしたが、流石に自分を鬼とは云えなかった)日本軍が強いのは、正服を着た軍隊に対した時だけだよ。平常服の俺等にゃ、いくら日本軍でも手が出せめえ。」と山崎は訊ねるようにつゞけた。誰れも疑わしげに同意しなかった。
 煙草はだん/\残り少なくなって来た。何気なげに、笑ったり喋ったりする一方、彼の耳は、しょっちゅう、廊下のタフトがやって来る靴音に向って、病的に働いた。支那人がばた/\歩いて来る音にも、彼は、とび上りそうだ。
「さあ、もう、引きあげよう。」五程になった煙草を、足のさきでもみ消しながら考えた。
 陳は、声をひそめて、蒋介石が、アメリカから二千万円貰ったことに、話を引っぱって行った。今度は、独逸人の軍事顧問ばかりで、日本人には、見学さえ許していないそうだが、本当か、アメリカは、北伐軍には、もっと金を出す腹じゃないか、二千万円は、貧乏たれの日本人ならともかく、アメリカにしちゃケチくさいじゃないか、など話しはじめた。
 暗い隅の方へよって行った三四人が、何か不審げに囁きだした。
 山崎は、自分が疑われているばかりでなく、正体を見破られた、と思った。彼は、もう陳が、話を打ち切るか、打ち切るか、と、一分間を十時間ほどに長く感じながら入口に行った。
 彼は暗い廊下の足音に耳を傾けた。遠く、二階から、梯子段をおりて来る靴の音がした。陳はまだ、可笑おかしげに、呵々と笑ったり、喋ったりしている。靴は、どうも、こっちへやってくるらしい。
 彼は、殆んど何も考えるひまもなしに、たゞ陳に何か云って、廊下へ出た。十秒間に、十五間ほどを、曲り角まで足が宙をとんでやってきた。そこで彼は立止った。陳は、出てくる気配がなかった。
 山崎は、支那人に追っかけられる。と、予期しつゝ、なお、しばらく、様子をうかゞった。陳は、親しげに、おかしそうに笑いながら、とうとう出て来た。つゞいて、支那人が、どや/\と崩れ出て来た。彼は、ハッとした。どっかで爆音が起った。
 五秒の後、それは、武器を積んだトラックが、校庭に着いたのだと知れた。
 焚火にあたっていた者どもや、部屋にいた連中が、車からおろされる武器をかつぎこんだ。
 陳と山崎は、暗い夜露のおりた芝生の上に立ってそれを見ていた。タフトらしい、せいの高い、鼻筋の通った、アメリカ人が支那語を使って何か指図をしていた。
 武器は大型のトラックに、一ぱい積込んできていた。
「おい、おい、張り番はもういゝ。大丈夫だ。お前らも来て手伝ってくれ。」
 ふと、鼻の高い男が、学生服の二人を見つけて声をかけた。
「はい。」
 咄嗟に、気軽く陳はとび出て行った。
 その恰好を、山崎はおかしく、くつ/\笑いながら、自分は、小さくなって、うしろの方へ引きさがった。

「これゃ、どっちにしろ戦争だ!」彼は、帰りがけに、陳に囁いた。「だが、今夜こそ、俺れゃ、お前に感謝するぞ。これで、すっかり手柄を立てることが出来た……何んて、気しょくのいいこっだろう!」
「金のこたア、忘れやすまいねえ?」
 陳は、興ざめて冷静だった。
「うむ、いゝいゝ、忘れるもんか。きっとむくいるよ。だが、どっちにしろ、これゃ戦争にならずにゃいないぞ……」そして、彼は考えた。「これは、南軍と日本軍との戦争じゃない。これは、日本とアメリカの戦争だ。」

     一五

 ここは、早晩、陥落するものときめられた。
 いわゆる『粒々辛苦の末に開拓した経済的基礎』が、水泡に帰するだろう。家も、安楽椅子も、飾つきの卓も、蓄音機も、骨董や、金庫も、すべて、ナラズ者の南兵の掠奪に蹂躪じゅうりんされてしまうだろうと居留民たちは考えさせられた。残虐な共産系が南兵には多数まじっている。良民を串刺しにし、道々墓をあばいているという流言が飛んだ。
 停車場は、持てるだけ荷物をかゝえこんだ青島への避難者でごった返した。
 七ツか八ツの少年が、自分の身体もその中に這入ってしまいそうな、大きい、トランクを持たされていた。妊娠の婦人は、その腹よりも、もっとふくらんだ二ツ折の柳行李やなぎごうりを、支那人のボーイに、一箇は肩にかつがし、一箇は片手に提げさして、肩で息を切らしながらやって来た。箱や袋を山のように積み上げた、土豪劣紳の馬車は、あとからあとからつゞいて馳せつける。
 物価は、社会の動きを、詳細に反映した。
 彼等の動揺と、街の状態は物価によって、明らかに物語られた。十元に対して、金票十二円三十銭の相場を持続していた交通銀行と、中国銀行の大洋タイヤン紙幣が、がた落ちに落ちた。八円から、七円、五円になり、ついには、外国人は(日本人も含めて)支那紙幣を受取らなくなってしまった。張宗昌系の山東省銀行はつぶれた。拳銃、金、銀、金票、食料品、馬車、自動車賃は、どんどんあがった。一挺の拳銃を八百五十八円で売買したものさえある。高価な椅子や卓や鏡や、絹織物が、誰れからも、一顧も与えられなくなってしまった。
 同時に、社会の動揺は、無数の労働者達の行動の上にも反映した。工場労働者も――男工も、女工も、――街頭の苦力も、三四万の乞食も、監督の鞭とピストルに恐れなくなった。銃と剣を持った巡警は、案山子かゝしだ。
 工場主は、(どの工場でも)僅かに賃銀不払いの戦術を持続することによって、工人達をつなぎとめていた。それが、やっとだった。工人達は怠業状態に這入った。
 便衣隊と前後して、共産党員が市内にもぐりこんだ。――という風説がやかましくなった。工人に武器を配附して暴動を企てゝいるといううわさが立った。
 工場主が勝手にきめた規則も、命令も、テンデ問題にされなかった。
 工人達には、こういう時こそ、彼等の偉力を発揮するのに、好都合な条件がひとりでに備わってくる。そう感じられた。
 マッチ工場の工人達は、もうこらえられるだけ怺えた。辛抱が出来る範囲以上に辛抱した。
 ある夕方、五人の代表者があげられた。給料の即時、全額支払を要求した。
 王洪吉ワンコウチもその代表者となった。頭の下げっぷりの悪い、ひねくれた于立嶺ユイリソンも代表者となった。王はお産をした妻からも、老母からも、その後、便りがなかった。
 便りがないことは、なおさら彼を不安にした。
 工人達は長いこと、馬鹿にせられ踏みつけられた。
 幾人か、幾十人かが最も猛烈な黄燐の毒を受けて、下顎を腐らしてしまった。
 七ツか八ツの幼年工は一年たらずのうちに軟らかい肉体を腐らしてしまった。
 そして、給料だけで、おっぽり出された。
 十元か八元で、売買人から買い取られた子供は、給料さえ取れなかった。
 彼等は働いた。
 働いて、親をも妻をもかつえさせなければならなかった。
 彼等は、去勢された牡牛のように、鞭を恐れた。
 だが、いつまでも鞭を恐れることは、永久に奴隷となることだ。
 親の家を恋しがっていた少年工は、一文の給料も取らないまゝ、ある夜、暗に乗じて逃走した。永久に買い取られてしまった子供は、逃げて行く家も、何もなかった。寄宿舎の方で涙ぐんで淋しげに黙っていた。
 王洪吉ら五人は、夕方、おずおずと、事務所へ這入った。
 給料はどうでもこうでも取らなけゃならなかった。それは当然だ!
 会計係の岩井と、社員の小山は「何だい!」と頭から拒絶した。彼等は、はげしい喰ってかゝりあいを演じた。支配人は、工人が給料に未練を残して、逃亡もしない。受取るまでは、へつらうように仕事に精を出す。――平生の見方をかえなかった。
 支那人は、命よりも、金の方が大事なんだ。金をくれさえすりゃ、頸でもやるんだ。彼の考え方はこれだった。
 五人の代表者は、引きあげた。二棟の寄宿舎は、険悪なけしきに満ちた。そこではまた、会議が始められた。
 工人は、不逞ふていなむほんをたくらみ(小山の言葉をそのまま用うれば)にかゝった。宿舎からは、工人の金属的な、激昂した声が、やかましく事務所の方へもれて行った。
「何を、がい/\騒いどるんじゃ?」
 様子をさぐりにやった社宅のボーイが戻ると、小山は、ボーイまでが癪に障ってたまらないものゝように、呶鳴った。
「賃銀、呉れないなら、呉れない、いゝと云います。」八年間、日本人に使われて、日本語が喋れるリュウは、自分が悪いことをしたようにおど/\した。
「それで、どうしゅるだい?」
「それで、呉れない。――呉れない、工人、考えあると云います。」工人達は暴力によって工場を占領し、管理しようと計画していた。製品を売って、月給は、その中から取る。日本人は門から叩き出してしまう。支那人のくせに日本人をかばう巡警は叩き殺して呉れる!
「馬鹿をぬかしゅな!」
 小山は呶鳴りつけた。劉は、びく/\した。
「なまけて、何もしゅくさらんとて、工場から飯を食わしゅてやっとるんだ。――嬶や、親が、かつえるなんて、あいつら、生大根でも、人参の尻ッポでもかじっとりゃいいんじゃないか! 乞食のような生活をしゅとるくせに、威張りやがって!」
 賃銀を渡せば工人は逃げる心配があった。そして、あとに、熟練工の代りはない。
 手下をなだめるためには、喋れるだけの言葉を喋りつくした把頭バトウ李蘭圃リランプは引きあげて来た。
「これゃ、どうしても駄目です。どうしたって手のつけようがありません。」と李は云った。「半分だけでも、払うてやっていたゞくんですな。そうでもしないと、収拾のしようがありません。奴等も、この頃は、