|
「迷い」を検出して「迷い」をなくす脳の仕組みを解明 − 前頭連合野の神経細胞が迷った経験を次の応答へ伝える −
◇ポイント◇ ・ 迷った経験を次の応答まで伝える神経細胞は前頭連合野背外側部に存在 ・ 迷った経験を伝える神経細胞と迷わなかった経験を伝える神経細胞が存在 ・ 迷いの意味を捉えなおす大きな手がかりに
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、英国オックスフォード大学(ジョン・フッド学長)と共同で、「迷い」の経験を次の応答に活かす脳の過程を発見しました。脳科学総合研究センター(甘利俊一センター長)認知機能表現研究チームの田中啓治チームリーダー、F.A.マンスーリ研究員、オックスフォード大学のM.J.ブックレイ講師らによる研究成果です。 私たちは、もっともらしい応答が2通りあると、どちらの応答をするか迷います。迷った末に正しい応答をした場合にも、迷った経験は次の応答に活かされます。次の応答に向けて、正しい応答を素早く迷わずに選べるように「心」の準備をします。その結果、次の応答では、迷いが少なくなります。このような「迷った」経験を次の応答に活かす過程が脳のどこでどのように行われているか、これは認知神経科学の大きな問題でした。ヒトのfMRI実験の結果から、前帯状溝皮質と呼ばれる大脳前頭連合野の内側にある領野が迷いを検出している、という説が米国の研究者を中心に主張されていました。今回、研究チームは、サルに「迷い」を持つような課題を訓練し、「迷い」の経験を次の応答に活かすためには、前帯状溝皮質ではなく、前頭連合野の背外側部が重要であることを新たに見いだしました。さらに、サルが課題を遂行している間に、前頭連合野背外側部の神経細胞活動を記録し、「迷い」の経験を次の応答に伝える働きをする神経細胞を発見しました。興味深いことに、迷ったことを伝える神経細胞と、迷わなかったことを伝える神経細胞は、ほぼ同数ありました。脳では、迷った後に「心」の準備状態を高めるだけでなく、迷わずに正答した後には「心」の緊張を緩めていることを示唆します。 今回の発見は、通説を覆し、前頭連合野背外側部がこれまで考えられていた以上に広い範囲の働きをすることを示す画期的な結果です。迷いの意味を捉えなおし、迷いを考慮に入れた教育方針や判断ロボット設計を考えるにあたり、大きな手掛りを提供します。 本研究成果は、米国の科学雑誌『Science 』(11月9日号)に掲載されるに先立ち、オンライン版であるScience Express(10月25日付け:日本時間10月26日)に掲載されます。
1. 背景 私たちは、よく迷います。迷っているときには、複数の応答が準備されます。複数の応答がある段階まで並列に準備されますが、多くの場合は、正しい応答が選ばれて実行され、間違った応答は抑制されます。しかし、迷った経験は、無駄にはなりません。迷った後の次の応答では、迷いの程度が減ります。迷いの減少は、正答率の増加または応答までの時間(応答時間)の減少となって現れます。迷いが減少するのは、迷いの経験が検知され、正しい応答を選び取るために必要な「心」、すなわち脳の状態がより強く準備されるためであろうと考えられています。 機能的磁気共鳴画像法(fMRI法)が普及して、いろいろな課題を遂行しているときのヒトの脳活動が調べられるようになると、応答に迷ったときには大脳前頭連合野の内側部にある前帯状溝皮質が強く活動することが示されました。応答に迷ったときの前帯状溝皮質の活動の大きさは、次の応答における応答時間の減少の量と相関することも示されました。迷うほど、次の応答での迷いが少なくなる、と見えたわけです。これらの結果から、複数の応答の間の迷いの検出は前帯状溝皮質で行われるという説が、米国の研究者を中心に盛んに主張されました。ところが、前帯状溝皮質に損傷のある患者が「迷った」経験を次の応答に活かすことが出来なくなるという観察はなく、謎となっていました。 一方、有用な情報を後の行為のために維持するワーキングメモリーは、前頭連合野の背外側部で維持されることが示されています。迷った経験を次の応答へ伝えることは、ワーキングメモリーの一種とも考えられるので、前頭連合野の背外側部は、応答に迷った経験を後の応答のために維持するためにも働いている可能性があります。
2. 研究手法 応答に迷った経験を後の応答に活かす過程における前帯状溝皮質と前頭連合野背側部の働きを調べるために、研究チームはサルに「迷い」の種を仕込んだ課題を訓練しました。課題として用いたのは、病院でよく使われるウィスコンシンカード分類課題の変更版です。 ウィスコンシンカード分類課題(図1)は、被験者に3種類の規則でカードを分類してもらう課題です。束から取ったカードを、書かれた図形の形、色、または数で一致する参照カードの下においていきます。分類規則は、試行のブロック(試行は1枚のカードの処理、ブロックは20回程度の試行で構成される)では一定ですが、ブロックが変わると変わります。分類規則は被験者に伝えられません。検査者は、1回ごとに分類の結果が正しかったか間違っていたかだけを被験者に伝えます。被験者は、この正解/間違いのフィードバックと自分が適用した分類規則をもとに、現在有効な分類規則を推定しなければなりません。正常な被験者は難なくこの課題をこなしますが、前頭連合野に損傷のある患者では課題遂行が困難です。 今回サルに訓練した課題は、基本的にはウィスコンシンカード分類課題と同じですが、サルの能力に合わせて多少の変更を加えました。まず、数を省き、規則を形の一致と色の一致の2通りにしました。タッチセンサー付きのテレビ画面に、サンプル図形を提示し、つづいて3個のテスト(参照)図形をサンプル図形のまわりに出します(図2A)。図2Aの例では、色規則の場合、サルが下のテスト図形を触ると正答ですが、形規則では左のテスト図形が正答です。正答にはジュースを一滴与え、間違いにはジュースを与えません。6個の形と6個の色の組み合わせによる36個の刺激を用い、サンプルもテストも基本的には試行ごとに毎回ランダムに選んで提示しました。 ウィスコンシンカード分類課題では、迷いのレベルを制御することが容易にできます。図2Bのようにテスト図形の一つがサンプルに形で一致し、別のテスト図形が色で一致する場合(矛盾条件)には、サルは応答に迷います。2つの分類規則は、長い訓練によって長期記憶としてしっかりと蓄えられていて、サンプルが提示されると2つの規則に従った選択行為の両方がある程度脳の中に浮かんでくるからです。迷いは、現在有効と判断した規則に従って一つの選択行為を選び、他の選択行為を抑制することによって解消しますが、迷った経験は後の応答に影響します。図2Cのように、テスト図形のひとつがサンプル図形に色でも形でも一致し、他のテスト図形が形でも色でもサンプル図形と異なる場合(一致条件)には、サルは迷いません。
3. 研究成果 全部で16頭のサルを訓練しました。半年以上の訓練ですべてのサルが課題をよく覚え、分類規則を変えた後、10試行程度の間に高い正答率(85%以上)を回復することができるようになりました。
(1) 「迷った」経験は脳のどこで伝えられるのか 訓練が完成した後に、4頭のサルでは左右の前頭連合野背外側部を破壊し、別の4頭のサルでは左右の前帯状溝皮質を破壊しました(図3)。6頭のサルは正常参照群としました。テスト図形が提示されてからサルが図形に触れるまでの反応時間の逆数を応答スピードとしました。正常群ばかりでなく、いずれの破壊群のサルも、矛盾条件では一致条件よりも応答スピードが遅くなりました(図4左)。いずれの破壊も、矛盾条件での応答スピードの低下には影響しませんでした。迷って応答が遅れること自体には、前頭連合野背外側部と前帯状溝皮質は関与していなかったのです。 問題は、迷った試行の次の試行での応答スピードです。矛盾条件試行の次の矛盾条件試行と、一致条件試行の次の矛盾条件試行を比較しました。矛盾条件試行の後には前の試行での「迷った」経験が効いて、「迷わなかった」一致条件試行の後よりも応答スピードが速くなる(遅くならない)ことが予測されます。正常群のサルでは、予測通り、矛盾条件試行の後の矛盾条件試行での応答スピードは、一致条件試行の後の矛盾条件試行よりも速くなりました。前帯状溝皮質を破壊したサルでも同じでした。ところが、前頭連合野背外側部を破壊したサルでは、応答スピードに差がありませんでした(図4右)。これらの結果は、迷った経験を次の応答に活かすために、前帯状溝皮質ではなく、前頭連合野背外側部が必須であることを示しています。
(2) 前頭連合野背外側部はどうやって「迷った」経験を伝えるのか では、前頭連合野背外側部の役割は何でしょうか。迷った経験を次の応答へ伝える記憶の働きをしている可能性と、次の応答での認知制御を強める(現在有効な規則をしっかりと参照する)働きをしている可能性があります。 どちらが正しいかを明らかにするために、研究チームは、訓練した正常な2頭のサルを、さらに頭を固定したまま課題を行うように訓練し、微小電極を前頭連合野背外側部に差し入れて、課題を行っている間の神経細胞活動を記録しました。その結果、現在有効な規則(色規則/形規則)を表す活動をする神経細胞、現在の試行の条件(矛盾条件/一致条件)を表す活動をする神経細胞に混じって、前の試行と次の試行の間の2〜3秒間(試行間間隔)、前の試行条件を表す活動を維持する神経細胞を記録しました(図5)。ところが、サンプル図形が提示されて次の試行が始まった後には、前の試行での迷いの有無を反映した活動をする神経細胞はほとんどありませんでした。このことから、迷った経験を次の応答に活かすために、前頭連合野背外側部は、記憶の働きをしていることが判明しました。興味深いことに、矛盾条件試行の後に高い活動をする神経細胞と、一致条件試行の後に高い活動をする神経細胞(図5)の両方が存在し、その数はほぼ同じでした。これは、私たちが迷った経験だけでなく、迷わなかった経験もまた、有効に活用していることを意味しています。
4. 今後の期待 前頭連合野背外側部は、刺激の空間位置などの情報をワーキングメモリーに維持するために中心的な役割を果たし、またその時々の目的と状況に合った行動規則を活性化して維持することが知られていました。今回の発見で、前頭連合野背外側部は、前の試行における迷いを次の試行まで維持する働きもすることが示されました。
前頭連合野背外側部には、矛盾条件試行の後に大きい活動をする神経細胞と、一致条件試行の後に大きい活動をする神経細胞が存在しました。すなわち、迷った経験を次の応答に伝える神経細胞と、迷わなかった経験を伝える神経細胞の両方がありました。迷いを検出した場合は、これを次の応答に伝えて、現在有効な規則に従う制御過程の働きを強めれば、迷いはなくなり素早い応答を実現できます。このように、迷った経験を次の応答に伝えることの目的は明確です。しかし、なぜ、迷わなかった経験を伝える神経細胞が存在するのでしょうか。制御過程の働きを強めるには緊張が必要で、緊張すると精神的に疲れます。制御過程を強めっぱなしでは精神疲労がたまってしまいます。無駄な疲労をなくすために、緊張する必要のないときは、積極的に制御を弱めているのではないかと推測できます。今回の発見は、迷った経験だけでなく、迷わなかった経験もまた、効率的な認知制御のためには重要であることを示しており、成長する中での迷いの意味の捉え方、またロボットの判断機能の制御の設計指針に示唆を与えます。
|