| 15: ひな祭り |
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"灯りを点けましょぼんぼりに・・・"女児の初節供のお祝い。別名、桃の節句とも言う。中国古代の宮廷行事を伝えたこの節供は、平安時代に宮中に取り入れられ、もとは旧暦で行われていた。陰暦3月の上旬の巳の日を「上巳の節句」と言って神酒を飲み、水で禊払いをしていた。
何時しかこれが3月3日に固定化してしまったようである。
江戸時代になると五節供の一つに定められ、宮中のみならず武家社会にも浸透して行った。
中国魏(前403〜前225)の時代以来3月3日を上巳に決めて行事を行っていたようだ。
その後人型で人形を作り、これで自分の身体をなで、自分に似せた人形に穢れを移す行事に発展。その人形が雛になり、やがて「ひな祭り」に変遷して行った。古代よりお目出度い桃を飾ったことにより「桃節供」の中国名が誕生したのである。
桃の実は別名"仙果"と言って、不老長寿の目出度い果実であり、この桃を食べて三千年も生きたと云う西王母の神話や、武陵の水を飲んで三百歳まで生きた桃源伝説や桃源郷伝説など、中国には桃に邪気を祓う霊力が宿っていると云う言い伝えが多くある。
そこから、イザナギの尊が黄泉の国から逃げる時、追っかけて来る魔物や醜女悪鬼に桃の実を投げて撃退した伝説も生まれたのである。
そこで「雛祭り」であるが、本来ひな祭りとは、無病息災を願って草やわらで人形を作り、それに自分達の名前や生年月日を書き、日々に受けた不浄や穢れを預け、川や海に流す(流し雛)行事が元になっている。今日でも、地方によっては和紙やヤブカンゾウや和紙などで人形を作り、桟俵に菱もちや飴、あられなどを載せて流す風習がある。
推古天皇の時代から慣例行事となり、聖徳太子もこの流し雛を行ったとある。だが、あくまでその日限りの行事であって、作った人形は流すか御焚き上げして処分された。
一方、平安時代になると、草人形はどんどん装飾的になり、本人の着ていた衣服の古布を用いて創作し、見た目にも完成度の高い雛人形になって行く。そこで「自分に似せた人形を流してしまうのはもったいない。部屋に飾っておこう!」と言うことになり、今日風の飾り雛、そして雛壇飾りに発展して行ったのである。
また、古代中国にあった習慣で、お酒を飲んで災厄を祓う行事が日本に紹介され、日本の「ひな祭り」と一緒になった。がしかし、元禄時代になると雛人形はますます贅沢品になって、お内裏様には菱餅や白酒を供えるようになり、五人囃子や七人官女をひな壇に飾る様になった。
ところで、秋の重陽の節供に飲む菊酒に対して、春には「桃酒」や「白酒」が飲まれる。
かつては3月3日に桃の花を杯に浮かべて飲む習慣があったようだ。また、足利時代から正月に菱餅を食べる習慣があったが、それが江戸中期に宮中に取り入れられ、桃酒と共にひな壇に供えられるようになった。 |
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| 現代のひな祭り(女児のお祝い)とは程遠い縁起でした・・・。 |
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井上象英
観象学講究総本部代表・京都比叡山赤山禅院鑑定士
17才で観象学人(易道観象派宗家)の門下生となり、暦法と神道学を修める
後に易学・気学・姓名学・墓相学及び風水学鑑定士資格取得す
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