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爽快倶楽部編集部


2016.2.2
信念
「今、私たちの目の前にいるのは骨とうとしてのホロヴィッツにほかならない。この芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は最も控えめにいってもひびがが入っている。それに一つや二つのひびではない。 忌憚なくいえば、この珍品には欠落があって、完全な形を残していない。」
これは1983年、ホロヴィッツのピアノ演奏会への吉田秀和氏の批評である。

この評が正しかったかどうかは、その演奏を聴いていない私には判断ができない。
が、ホロヴィッツは、リヒテルとともに当時の世界の音楽界において世界最高峰のピアニストといわれた巨匠であり、それは多くの日本の音楽ファンにとっても共通の認識であったと思う。その巨匠の演奏に対してこうした批評を行うことは、まかり間違えば彼の批評の信用性を失い日本の音楽ファンの支持を失うことになりかねないのであって、それゆえに、この批評じゃ、彼のよほどの覚悟であり、信念、審美眼によるものであったろうと思う。

確かに、彼の音楽批評は、その方法において作品の楽譜に向き合い、そこから彼独特の解釈を行い、それを実際の演奏と比較するということが多い。美学としての音楽受容が徹底して行われている。いわば彼にとって、「こうでなければならないものは、こうでなければならない」という基準があって、それを外れたものは決して受け入れられない、そういうことなのであろうと思う。もちろん、そのためには表からは見えない、彼の研究があるはずである。

今、こうした批評を行える人が少なくなったように思う。これは、音楽批評にとどまらない。文学や他の芸術分野のみならず、多くの分野でいえると思う。彼のような信念、あるいは思想とよんでいいかどうかはわからぬが、そういうものをもった人を、およそ見かけない。批評は死んだのであろうか。




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