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爽快倶楽部編集部


2014..6.1
体面
多くの自民党の国会議員諸氏、あるいは日本維新の会と袂を分かった石原氏、彼らすべてとはいわないが、彼らの多くが、国家の大義であるとか、日本人としての誇りであるとか、自主憲法制定を声高にいっているように見える。戦争は、領土や資源、自主独立という大義の戦いであるという。だが、戦場にあって戦う兵士にとっては、殺戮の毎日である。戦場から遠くにあって、大義を語る人々には、この殺戮の日常がわからない。それでもなお、国家の大義というのであれば、それを唱える人々は、かって多くの海軍将官たちがしたように、自艦沈没の際には自らの命を艦とともにするだけの覚悟が必要だろうと思う。現代に大義を唱える多くの政治家諸氏に、それだけの覚悟があるのだろうか。

いま、集団的自衛権の議論が活発になされている。主要な論点は、同盟国である米国が他国の攻撃にあったとき、米国の明示的な要請により援護をもとめられれば、国会の承認のもとにこれを援護するというものである。現代の戦争においては、主たる軍事作戦はミサイル攻撃であり、これが発射されたとき、およそ10分ないしは、数十分間に攻撃目標に到達する。また、一方、発射されたミサイルに対して迎撃破壊する精度はかなり低いといわれる。この現実的な問題で考えると、集団的自衛権は軍事的にはおよそ無意味である。むしろ、攻撃開始以前に、相手の軍事基地をいかに破壊するかが重要な軍事行動となる。だとすれば、集団的自衛権行使とは、最初から同盟国の軍事作戦に参加することが必要となる。これを現在の軍事体制として単純に考えれば、米国が日本の自衛隊を彼らの軍事作戦の一部として使用することになるが、自衛隊の軍事力に米国は、はたしてどこまで期待するのであろうか。

それでもなお、集団的自衛権というのであれば、それは単なる体面でしかない。もっとも、それが体面ではなく、もっと別の意味を持つとすれば、やがて同盟国である米国が最大の仮想敵国となる、そうしたもっと恐ろしい事態が待っていよう。自主憲法制定には、その大きな危険がある。

体面をいう人々には注意が必要である。




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