平成19年7月1日 |
戦後レジームの転換 |
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圧倒的な数を持ち、思い通りに法案を採決する現安倍内閣だが、その実績とは反比例して内閣支持率は下降している。原因は第一に社会保険庁による消えた5000万件の記録ではあるが、それに増して提出する主要な法案の内容が国民から評価を得ないという理由もある。例えば教育基本法、まるで戦前教育にもどろうとするような情緒的内容、役人の天下りを禁止するはずの公務員制度改革では、省庁個別の天下りを内閣府に帰属させ、結果的に国家がお墨付きを与えるという役人のための改革、声高に叫ぶ憲法改正論議ではその方向性さへも出せず、小泉内閣を踏襲する対米追従外交の延長しか見えてこない。内閣発足当時の期待は薄らぐばかりである。
そんな安倍内閣に、ひとつだけ評価すべき言辞がある。「戦後レジームの転換」である。彼はこの言葉を現憲法における第九条改正に向けて使ったが、国内政治体制について考えてみれば、実に的確かつ重要なキーワードになる。
戦後内閣総理大臣を掲げる。
東久邇宮稔彦王 |
昭和20年8月17日―昭和20年10月9日 |
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皇族 |
幣原喜重郎 |
昭和20年10月9日―昭和20年5月22日 |
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外務省 |
吉田 茂 |
昭和21年5月22日―昭和22年5月24日 |
自由党 |
外務省 |
片山 哲 |
昭和22年5月24日―昭和23年3月10日 |
社会党 |
弁護士 |
芦田 均 |
昭和23年3月10日―昭和23年10月15日 |
民主党 |
外務省 |
吉田 茂 |
昭和23年10月15日―昭和29年12月10日 |
民自党/自由党 |
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鳩山一郎 |
昭和29年12月10日―昭和31年12月23日 |
民主党-自民党 |
弁護士 |
石橋湛山 |
昭和31年12月23日―昭和32年2月25日 |
自民党 |
言論 |
岸 信介 |
昭和32年2月25日―昭和35年7月19日 |
自民党 |
農商務省 |
池田勇人 |
昭和35年7月19日―昭和39年11月9日 |
自民党 |
大蔵省 |
佐藤栄作 |
昭和39年11月9日―昭和47年7月7日 |
自民党 |
鉄道省 |
田中角栄 |
昭和47年7月7日―昭和49年12月9日 |
自民党 |
土建業 |
三木武夫 |
昭和49年12月9日―昭和51年12月24日 |
自民党 |
自民党 |
福田赳夫 |
昭和51年12月24日―昭和53年12月7日 |
自民党 |
大蔵省 |
大平正芳 |
昭和53年12月7日―昭和55年6月12日 |
自民党 |
大蔵省 |
伊東正義 |
昭和55年6月12日―昭和55年7月17日(臨時代理) |
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中曽根康弘 |
昭和57年11月27日―昭和62年11月6日 |
自民党 |
内務省 |
竹下 登 |
昭和62年11月6日―平成元年6月2日 |
自民党 |
代用教員 |
宇野宗佑 |
平成元年6月2日―平成元年8月9日 |
自民党 |
議員秘書 |
海部俊樹 |
平成元年8月9日―平成3年11月5日 |
自民党 |
議員秘書 |
宮沢喜一 |
平成3年11月5日―平成5年8月9日 |
自民党 |
大蔵省 |
細川護煕 |
平成5年8月9日―平成6年4月28日 |
日本新党 |
新聞社 |
羽田 孜 |
平成6年4月28日―平成6年6月30日 |
新生党 |
バス会社 |
村山富市 |
平成6年6月30日―平成8年1月11日 |
社会党 |
自治労 |
橋本龍太郎 |
平成8年1月11日―平成10年7月30日 |
自民党 |
紡績会社 |
小渕恵三 |
平成10年7月30日―平成12年4月5日 |
自民党 |
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森 喜朗 |
平成12年4月5日―平成13年4月26日 |
自民党 |
新聞社 |
小泉純一郎 |
平成13年4月26日―平成18年9月26日 |
自民党 |
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安倍晋三 |
平成18年9月26日― |
自民党 |
外相秘書官 |
周知のことではあるが、戦後処理は別にして、昭和22年の片山内閣、平成5年8月9日―平成8年1月11日の細川護煕・羽田 孜・村山富市を除いて保守合同以来、自民党が政権を維持し続けている。戦後冷戦体制が存在したとき、政治は基本的に自由主義か社会主義かというイデオロギー選択としてあった。この意味で言えば、国民は原則的に自由主義を選択してきたことになる。これは戦後世界における社会主義国の変遷と現在の在り様から見れば堅実な選択と言ってよい。
歴代の自民党内閣総理大臣の内、田中角栄は全くの異色な存在であるが、中曽根康弘までは旧省庁出身者が多い。官僚が自ら政治の場に躍り出ることによって政官一体となった戦後日本政治の典型的な政治体制を形成していたと言える。敗戦による壊滅から復興へ、そして成長への過程にとって、その果たした役割は、その驚異的な復興の成果を見れば大いなる評価を与えねばなるまい。だが、同時にここにこそ、日本の政治の貧困の元凶がある。即ち、政官一体型の政治体制において官僚出の政治家が官僚を御し政策展開をおこなってきたが、最後の官僚出身の総理大臣宮沢喜一以降、官僚を御する力を持った政治家が存在しないことである。政と二人三脚として走り続けてきた官の力は変わらぬまま、その官を御する政治家がいないということは、全ての立法、行政において官が政より優位であることを意味する。
小泉内閣、安倍内閣と続いて改革を旗印にしてきたが、改革と称するほとんどの改革案は、官主導であり、官のための改革にほかならなかった。年金制度、公務員法しかりである。また、官は今や弱体化した政ではなく財を向いている。骨太の経済政策はその証左である。権力の中枢を官が握り財が共同して国家運営するという、本来の民主主義ととははるか遠い体制となってしまった。官はかっての戦後日本の復興、国力の回復という高邁な理想を失い、自らの権限温存に終始するようになった。
戦後レジュームからの転換とは、官から政治を取り返すことのできる内閣を創出することである。その最良の方法も第一歩は特別会計を廃止し一般会計に組み入れ官が自由に使うことの出来る予算をなくすことである。また、官の人事権について各省庁局長以上の任命権を政が持つことである。これによって官の強大な権力は大きく削がれよう。おそらく、現在の自民党にはこれができまい。だが、この実現にはイギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどのように政権交代可能な能力を持つ野党の存在が必要となる。現在の民主党がその役を担いうるかと問われれば、甚だ心もとないと言わざるを得ないが、たとえ一時期の停滞が起ころうとも、戦後レジームの転換のためには政権交代党として彼らを育て、自民党を追い詰めることが、自民党を本当の改革党として目覚めさせるきっかけになるかもしれぬ。
来るべき参議院選挙、これは自民党と民主党の戦いではない。これから起ころうとする官主導の、官体制を守るための増税との戦いである。三位一体の改革とは何であったのか?その本質は中央財源の地方財源への委譲などではない。委譲という名を借りた定率減税廃止による増税=中央財源の温存であった。さらなる官の財源温存のためのふるさと税など、地方税のつけかえに過ぎず、笑止である。問われるのは政と官との戦いである。諸氏よ、目を開かれたい。今、改革という名で何が起きようとしているのか?これが小泉-安倍体制の実態である。いかなる政治体制を選択するかは国民である。 |
爽快倶楽部編集長 伊藤秀雄 |
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