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爽快倶楽部編集部


平成18年5月1日
国を愛する心
 国家とは何か、この問いに明確に答えはない。これは実に不思議なことだ。我々は常に国という言葉を聞き、使う。では国家とは何かと問われたとき明確に答える者は誰もいない。
 世界地図を眺めてみる。地図上には日本国、韓国、中国、米国、英国などと書いてある。そしてどの国にも国境線が存在する。これらの国にはなんらかの統治機構を持っており、そこに生活する国民がいる。こう考えると国家とは領土を持ち、そこに暮らす国民がおり、なんらかの統治機構が存在する集合体ということができるかもしれない。
 では、我々が国と云うときの国家とは何であるのか。司法で考えてみる。国を相手にした国家賠償訴訟がある。多くの場合、国のなんらかの行政機関がその対象となって訴訟が成立している。判決が出たとき、国が勝訴、あるいは国が敗訴という言い方をする。この意味では統治機構上の何等かの行政機関が国ということになる。すると国家とは国の機関なのであろうか。そうではない。国家は国の機関、言い換えれば行政府、行政機関を含むといえるがそれだけではない。国家はそこに国民がいなければ存在しないからだ。
 今、国を愛する心、愛国心が教育基本法改正、憲法改正の中で大きな議論となっている。国を愛する心と云うときの国とは何か。かって「お国のため」という言い方があった。このときの「お国」とは何か。冒頭で国家とは領土を持ち、そこに暮らす国民がおり、なんらかの統治機構が存在する集合体かもしれないと云った。この考え方で云えば、国家とは実に漠然とした存在である。国家とは郷土の野山、河川であり、家々、生業によって暮らす人々であり、道路、橋などの公共の建造物、国民が付託した立法、司法、行政の各府である。では国を愛する時の国はこのうちの何を指しているのか。郷土を愛さない人はいまい、家や家族を大事にしない人はいまい、人々が行き交う道路や橋を大事にしない人はいまい、国民の総意として存在する三権を軽んじる者はいまい。
 国を愛する心とは、その言葉の通り心の問題である。その心の問題に対して立法、行政が踏み込もうとしている。これはいつか来た道に似ている。2004年の園遊会で天皇陛下がお言葉があったことを思い出す。国歌、国旗に関するお言葉である。国歌、国旗は国民に強制すべきではないという趣旨であった。自らのお父上であった昭和天皇を身近に見てきた方の重いお言葉だと思う。
 愛国心を政治に利用すべきではない。立法、行政は、国を愛することを国民に強制すべきではない。なぜなら国とは国民そのものであり、自らを愛さない人はいない。日本人は、おそらく世界のどんな国民よりも国を愛する国民である。立法、行政はその愛国心にこたられる国づくりをすべきであろうと思う。国を破壊し汚し、度重なる汚職や不祥事、国民の血税を湯水のごとく使う行政府、国を真に愛さねばならないのは立法、行政府の人々であろう。国家を歌い、国旗を掲揚することだけが愛国心ではない。
爽快倶楽部編集長 伊藤秀雄




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