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爽快倶楽部編集部


平成17年10月1日
写真を撮る
 七、八年前になると思うが、友人のすすめで一台のカメラを買った。友人は所謂カメラコレクターであり、コレクションとしてのカメラの面白さを私に教えようと思っていたと思う。彼の知り合いがいるという銀座の中古カメラ店で標準レンズ付のオリンパスのOM2 SP2という機種を選んだ。3万五千円くらいだったと思う。その黒いカメラを初めて手にした時、ずっしりとした重量感があり金属部分の塗装は剥げていたが、なんとなく手になじみ気に入って買った。
 若い頃、バカチョンカメラしか撮ったことのない私にとって、一眼レフのファインダーから覗き見る世界は新鮮であった。最初は花と撮った。続いて町並を撮った。初めのうちは、なかなか思うように写らなかった。休日にカメラを首からぶら下げて何度も撮るうちに、すこしづつコツのつかんでいった。写真はサービス版だけではわからない、大きく伸ばして見るものだという友人のすすめで、これはと思う写真を四つ切に焼いてもらった。するとどうだろう、自分の撮った写真がまるでプロの撮ったような作品然として見えるではないか。自分にとっては小さな感動だった。そうなると、もっと誰かに見てもらいたい、批評を受けたい、あわよくば褒めてもらいたいと思うのが人の常であり、私もその例外ではなかった。
 買ったカメラがオリンパスであり、そのサービスセンターでカメラクラブがあるというのを知らされすぐに入会した。クラブでは毎月、例会が開催され、プロカメラマンの講師による写真の批評会が行われる。勿論、私は入会の翌月から意気揚々と自分の写真を持ちその例会に出かけていった。批評会では、多くの会員の写真とともに並べ、その一つ一つを講師が見て回り、これはという写真を何枚か取り上げて解説するわけだが、何度批評会に参加しても私の写真が批評に上がることはなかった。自分なりに見れば、よく写っているはずであり、露出、カラー、ピントも完璧だと思う。だが、どうしても、私の写真は、人の注目に価しない。せいぜい同じ会員によって「よく撮れていますね」という言葉を貰うくらいであった。もっとも、所詮、写真は自分にとって一つの趣味であり、人の注目を集めようが、集めまいがどうでも良いわけだが、不思議に悔しさが残る。その悔しさが、やがて「俺の撮った写真はこの人たちにはわからぬ」という焦燥と傲慢に変わっていく。
 そんな時である、わたしの写真観を変える一冊の写真集に出会ったのは。東京青山の写真集や絵本を専門に置いている本屋で「Daido Histeric」という写真集を手のとった時、私の写真に対する考えがまったく変わった。彼のコントラストの強いモノクロームの中に写るどこにでもある町の風景や人々の写真を見て、写真は写す前によく見るものだと気付かされたのである。この意味では、私の写真は、写すべきものをまったく見ていなかったように思えた。ピントを合わせる、露出を合わせる、絞りの調整をする、これらは写真をとるための基本ではあるが、写すべき何かを自分が理解し、それが写し込めなければ、それは、カメラという機械が写した写真であって、ただのよく撮れた写真に過ぎない。彼の写真はそういうことを私に教えてくれた。後に、今は廃刊となってしまった「デジャブ」という写真雑誌が開催していた写真ワークショップに1年ほど参加した。そこで感じたことも同様である。ワークショップでは、写真としてよく写っていることは当然であり、よほどのことでない限り、写す技術や機材などは話題とならない。例えば、人物をスナップした写真があったとしよう。見知らぬ他者にレンズを向けるのは躊躇や恐怖感がともなう。その写真がノー・ファインダーでとったのか、望遠でかなたから盗み撮ったのか、一目で撮影者の有り様が見抜かれる。又、そこには基本的に作品としての組写真を持って行かねばならないが、題名を聞かれ、あるいは何故撮ったのかを聞かれる。つきつめれば何故写真を撮るのか、何故それを他者に見せようとするのか、私はその問いに答えることができなかった。そのことは、今も同様だが、少なくとも、たとえ趣味の範疇であろうとも写真を見る目を教わったように思う。
 今、多くの中高年の方々が写真に限らず、セカンドライフとしてなんらかの趣味をお持ちだと思う。その趣味を自分にとってかけがえのないものにすることは素晴らしいことである。是非楽しんでいただきたいと思う。だが、趣味は趣味として楽しみ、さらに一歩進んで、その趣味の中に自分らしさを表現できるようになれば、あるいは表現できるよう精進できれば、それは自分にとって一生の宝物になるような気がする。
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