TOP昭和歌謡曲 − あの時、あの歌


爽快倶楽部編集部


第三回 いつでも夢を(昭和37年)
作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正 歌:吉永小百合・橋幸夫

「星よりひそかに 雨よりやさしく
あの娘はいつも歌っている」*

 昭和39年に開催される東京オリンピックを前にして、1月の国立競技場の建設など、神武景気の真っ只中、その時代風潮を体現するように「いつでも夢を」が生まれる。歌手は、当時、多くの若者の憧れを一身に集めていた吉永小百合、潮来笠の大ヒットで人気絶頂の橋幸夫。戦後の復興と貧困からようやく抜け出し、日本という国が再び世界の檜舞台に立とうとする歴史の転換点に、夢を持ち続け生きることの意味を歌い込んだこの歌は多くの人々に受け入れられ第4回レコード大賞を受賞する。
 テレビ受信契約数は1000万件を突破、普及率は48.5%となり、映画の銀幕や劇場の舞台、芸能雑誌のグラビアでしか見ることができなかったスターが、多くの家の茶の間で見ることができるようになり、この曲を歌う二人の姿は日本中のテレビから流れた。更に、この年、吉永小百合は第十四回NHK紅白歌合戦(視聴率80.4%)に初出場し伊豆の踊り子を歌う。人々は、稀有な清純スターの歌う姿を食い入るように眺めていた。

繰り返し歌われる
「言っているいる お持ちなさいな
いつでも夢を いつでも夢を」*

 夢を持ち続け頑張ることがいつか実現するという希望が、どれほど人々の心にしみ込み勇気付けたかは想像に難くない。東京都の推計人口が1000万人を越え、東京オリンピックの建設ラッシュも相俟って東京への一極集中が促進され、東京=希望という図式が出来上がる。同年封切られた、吉永小百合主演の「キューポラのある町」は貧しさにも負けず、強く、明るく、逞しく生きる青年達を描き、吉永小百合は働く青年達の希望の星となる。

「歩いて歩いて 悲しい夜更けも
あの娘の声は流れくる」

 又、二十歳の時、早稲田大学(第2文学部史学科)に入学、多くの大学生達に人気を博し「サユリスト」なる言葉も生まれる。

「はかない涙を うれしい涙に
あの娘はかえる 歌声で」*

失われた十年と呼ばれ、永く沈滞する平成不況の時代、彼女が歌った希望の歌は未だ聞こえてこない。だからこそ、郷愁を交え或る種の憧憬をを伴って彼女の歌声が今も聞こえて来るようだ。

昭和20年、東京に生まれる。37年、「キューポラのある街」などで青春スターとして一世を風靡する。44年、早稲田大学を卒業。48年、テレビディレクター岡田太郎氏と結婚。60年、「天国の駅」「おはん」で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。他に受賞歴多数。近年では「時雨の記」「長崎ぶらぶら節」「千年の恋・ひかる源氏物語」「北の零年」に出演。今も、往年の青年達の心に残る吉永小百合は、日本映画界にとって至高な存在として健在である。

*「いつでも夢を」歌詞より転載

[この年流行った歌]
赤いハンカチ(石原裕次郎)
若いふたり(北原謙二)
下町の太陽(倍賞千恵子)
遠くへ行きたい(ジェリー藤尾)
星屑の街(三橋美智也)
恋は神代の昔から(畠山みどり)
霧子のタンゴ(フランク永井)

主な出来事 − 昭和37年(1962)
1-10 東京医科歯科大学柳沢教授等、中性洗剤の有害性を指摘
2-1 東京都の人口、推計で1000万人越える。
2-8 米国、南ベトナムに軍事援助司令部を設置
3-1 テレビ受信契約数1000万件突破(普及率48.5%)
4-26 防衛庁、愛国心、国防意識の高揚を強調した「学校教育に関する要望書」を次官会議に提出
5-3 常磐線三河島駅構内衝突事故(死者160人、重軽傷者325人)
5-12 ケネディ大統領、ラオス情勢に対して第7艦隊に出動命令
6-2 ばい煙排出規正法公布
7-10 当時最大のタンカー日章丸(13万トン)進水
7-31 コレラ予防で台湾バナナ輸入禁止
8-12 堀江謙一、単身ヨット太平洋横断に成功
8-24 三宅島噴火
8-30 初の国産旅客機YS−11試験飛行に成功
9-1 イラン大地震、死者2万人
9-12 国産第1号研究用原子炉に点火
10-22 ケネディ大統領、ソ連のミサイル基地建設を理由にキューバ海上封鎖を宣言
10-28 ソ連、キューバよりミサイル撤去を言明
10-30 最高裁、吉田岩松(岩窟王)の再審請求を認める
12-1 配給米、平均12%値上げ実施


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